なかや一博 ブログ

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富山龍馬会

県内の坂本龍馬のフアンでつくる富山龍馬会{堀沢裕一会長}は9月7日午後2時30分より、金沢龍馬会などの参加のもと、滑川市瀬羽町の国登録有形文化財、旧宮崎酒造で講演会を開催されました。
講師は「龍馬の生まれたまち記念館」{高知市}の学芸員・森田琢磨氏が「戊辰戦争と土佐」と題し、土佐から見た内容でした。

最初は、幕末からら維新までの流れの解説から始まり
①佐幕・・幕府を守ろう
②抗幕・・・幕府に対抗しょう
③倒幕・・・できれば武力を使わずに幕府を倒そう
④討幕・・・幕府を武力で倒そう。

こんな分け方の中で、藩主・山内容堂や後藤象二郎の考え、龍馬脱藩後の藩の動静や戊辰戦争勃発前年に結ばれた薩土盟約{大政奉還を目指す。だが、慶喜がそれを拒否するのなら武力も辞さない}と薩土密約{積極的な武力討幕を目指す}
しかし、戊辰戦争が始まると、後者に有志として名を連ねた板垣退助らが、時勢を読んで参戦してゆく。

これらを含め、テーマがテーマでしたから、講演内容は、戊辰戦争から維新の時代に活躍した土佐の人物の紹介が主なものでした。
①板垣退助②谷干城③吉松速之助④上田宗児⑤野村維章⑥樋口真吉⑦岩村高俊⑧美正貫一郎⑨田口文良⑩野島敬吉⑪島地正存等々

知っている人もいれば、初めて耳にする人もいました。新しい時代の扉を開くには実に大きなエネルギーが必要であり、それを巻き起こしたのも無名の多くの人々の力の結集があったことを改めて思います。

私自身、龍馬会の会員でもありませんが、会員以外の一般参加も自由であったので参加しました。40名程の参加者でしたが、会員以外は多分私くらいであったような気がしました。

講演会の中では、質問時間がありませんでしたが、終了後、講師の森本氏に愚問でしたが三点質問しました。
①龍馬暗殺の下手人は諸説あるが、京都東山の霊山歴史館では、犯人は見廻隊隊士・桂早之助と断定し、暗殺に使われた「刀」も展示してあります。事実と思うか?
答え・・事実と思う。

②龍馬の手紙は姉を含め数多く残っている。脱藩当時の龍馬は浪人であり、財政は豊かでなかったと思う。例えば、江戸から高知までの飛脚の料金はいくら位で,何日位かかり、生活費を含めそのお金はどの様に工面したのか?
答え・・わからない

③私が幕府の人間だったら、関所ごとに飛脚の手紙を検閲する。これによって重要な情報が得られたと思うが、幕府はやっていたのか?
答え・・わからない

以上ですが大変面白い企画でありました。

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滑川高校体育大会

大歓声、リレー、騎馬戦、秋の空

第72回滑川高校体育大会が、9月5日、青空が広がり、爽やかな秋風が頬をよぎる好天の中、開催されました。当初、4日の予定でしたが雨天順延で5日となりました。
本校は少子化の為、普通科が一学年3クラスから1クラス減となり、現在の3年生が3クラスの最後となりました。来年からは、1学年普通科2クラス、商業、薬業、海洋各1クラスとなり、1クラス40人ですから、1学年5クラス計1学年200人、全校生徒数600人規模となります。

私の時代は、戦後の第一次ベビーブームの時で、最高1学年、普通科4クラス、商業科6クラス、薬業、家政科各1クラス、計12クラス、1クラス50人でしたから、1学年だけで600人でした。現在の全校生徒数と同じです。1学年600人3学年ですから、全体で1800人、これに定時制があり2000人を超えていました。今では到底考えられません。
ですから、運動会の団編成は、全日制が4団、1団450人。定時制1団、計5団です。故に、応援合戦やリレーなど、それは、それは、凄まじく、迫力のあるものでした。

団の名称も「青龍」「白虎」「朱雀」「黄鶴」「玄武」の5団です。それに比べると現在は「青龍」「白虎」「朱雀」の3団、1団200人程です。私からすれば、四神の由来からしても、団編成は4団にすべきと思う。1団150人程となりますが、1団とすれば充分な人数だと思う。

今更、申し上げるまでもなく、この四神図が一躍有名になったのは、昭和47年{1972}奈良県明日香村の高松塚古墳の発掘調査によって、飛鳥美人と呼ばれる極彩色壁画が、日本で初めて見つかった時、石室内部の天井及び四周の東側中央に「青龍」その上に日輪西側中央に、「白虎」その上に月輪、北側中央に「玄武」、南側中央に剝落していたが「朱雀」が描かれていたという。
また、星宿図等々も描かれ、日、月、四神を従者にし、死者が永遠の眠りにつく小宇宙を形成しており、中国思想に基づいた貴人の墓とも言われています。この時から四神図も広く世間に知られるようになったような気がします。
私も、数年前この地を訪ね、カビ防止等々修理中の四神図を窓越しに見学してきました。

さて、、私が高校3年生の時は昭和40年ですから、、高松塚古墳発掘調査の7年前です。この時、既に四神図から、各団の名称が付けられていたことに驚きます。また、四神図以外に「黄鶴」を団の名称に使っていますが、この出典はわかりません。
単に、赤、白、、青、黄、と考えた時、例えば、詩人李白が友人「孟浩然」との別れを惜しみ送った漢詩、「黄鶴楼にて・・・」や、中国武漢市のシンボル「黄鶴楼」や中国料理店によく使われる「黄鶴楼」などからヒントを得たのかを含め、いつ頃、誰がこれを採用したものか? 私にはわかりませんが、これを考えた先輩方の智慧にには驚きます。

いづれにしても、グランドに入った時の熱気から若さとか、青春とかを感ぜずにはおられませんでした。私も、青春のいっ時を過ごした高校時代を思い出す中、元気を貰った2時間余りの観戦でした。