なかや一博 ブログ

日別アーカイブ: 2021年4月17日

高岡市内見学

4月16日{金}高岡市内5か所を知人と見学しました。

①国宝・瑞龍寺
②高岡市美術館
③高岡市万葉歴史館
④勝興寺

①曹洞宗高岡山瑞龍寺
加賀二代藩主前田利長公の菩提を弔うために三代藩主利常公によって建立された寺である。
利長公は慶長10年{1605}44歳で家督を利常{当時13歳}に譲り富山へ。街並みの整備や富山城を築くが、いたち川付近からの出火で焼失。
慶長14年9月高岡へ。高岡城を築城し、慶長19年{1614}53歳でこの地で没した。墓所は利長公33回忌に建立された。

瑞龍寺の造営は正保年間から、利長公の50回忌の寛文三年{1633」まで約20年間の歳月を要した。当時、寺域は3万6千坪、周囲に堀をめぐらし、まさに城郭の姿を思わせるものがあった。
そして、長年にわたる大修理の後、平成9年{1997}12月3日、山門、仏殿,法堂が国宝に指定された。県内での国宝はここしかないから少し淋しい。私の記憶では、北陸3県で寺院が国宝に指定されているのは、福井県小浜市の明通寺と2件である。
福井の永平寺も金沢市内の寺院にも国宝はない。そう考えると貴重な建築物である。墓所も瑞龍寺も利常公によって建立されたもので、いかに利常公は利長公に深くその恩を感じていたかがわかる。建築は大岩日石寺をはじめとして数々の寺社仏閣を建築した名匠山上善右衛門である。
尚、国宝以外の総門,禅堂,大庫裏、回廊、大茶堂は国の重要文化財に指定されている。

利長公の戒名は「瑞龍院殿聖山英賢大居士」であり、寺名「瑞龍寺」はこの戒名に由来すると思われる。
また、受付で偶然お会いした金岡さんというご住職と話している内、私の家は曹洞宗であることを話すと、金岡さんは曹洞宗の滑川の寺院や眼目山・立山寺の住職とも懇意にしていることなど話され急に親しくなり、お陰で寺院内を案内して頂き大変ありがたかった。
いづれにしても、総門、山門、仏殿、法堂を一直線に配列し、左右に禅堂と大庫裏を置き、加えて四周を回廊で結ぶなど、厳粛且つ整然たる七堂伽藍でした。

②高岡市美術館
高岡市美術館創立70周年記念「笑まふ・ほっこりコレクション」が開催されていました。
私が見たかったのは、特別陳列として重要文化財〈勝興寺本・洛中洛外図屏風}{6曲一双}が両隻そろえて展示されている屏風です。実は、「洛中洛外図屏風」は京都の寺院を中心に何点もありますが、二条城の本丸天守閣は勝興寺本のみ描かれているという。他の屏風には描かれていない。つまり本丸天守閣焼失前に描かれたのは、勝興寺本のみであり大変貴重な屏風です。描かれたのは17世紀初頭で、鷹司家から勝興寺に嫁いだ方が持参したという。、往時の庶民生活なども彷彿させる見ごたえある屏風でした。

③高岡市万葉歴史館
元号・令和の制定で万葉集ブームが起きたが、歴史館での企画展は「越中国と万葉集」であった。主な展示品は「越中国印」「越中国府ジオラマ」「越中国守大伴家持の朝服」「難波津木簡」などにグラフィックパネルとして「越中国の歴史」「越中国守大伴家持1・」
「越中国の四季」「前田家と万葉集」などとともに万葉体感エリアとして,大迫力のプロジェクションマッピングによる映像などであった。
興味があったのは、「越中国印」と大伴家持が早月川で詠んだ「立山の 雪し来らしも 延槻の 河の渡り瀬 鐙浸かすも」延槻{はひつき}は早月の語源であり文献上早月が始めて出てきた言葉である。
この歌を「多知夜麻乃 由吉之久良之毛 波比都奇能 河波能和多理瀬 安夫美都加須毛」の万葉仮名にも興味を持った。現存する日本最古の和歌集で20巻4516首からなる。うち大伴家持の収蔵歌は473首で越中在任中の223首もあるという。
中でも、立山連峰を歌ったのは多くある。大伴家持が眺めた立山の山々も、今眺める山々も何ら変わらない。変わったのは、我々の心なのかもしれない。

それにしても、詠み手は天皇や貴族はもちろん、兵士や農民など幅広い階層にわたり、歌われた土地も東北から九州に至るまで日本各地に及ぶという。これが他の歌集と違うところだろう。いづれにしても、1260年余り前にすでに越中という国があり、自治が存在し,以後幾多の歴史を刻み今日がある。その流れに暫し身を委ね、思いを馳せたひと時だった。

④勝興寺
勝興寺は平成10年{1998}から23年の歳月と約70億円の巨費を投じた大修理が去る3月完工し公開された。境内には,殿舎群、堂舎群。伽藍構えとして,唐門、式台門 総門、鼓堂、宝蔵など12棟の国指定重要文化財がある。
パンプレットによれば「勝興寺は浄土真宗本願寺派の寺院で、文明3年{1471}に本願寺八世蓮如が越中国砺波郡に営んだ土山坊を起源とします。戦国期には同郡安養寺{現小矢部市友末}に伽藍を営み、越中一向一揆勢の旗頭として威勢を誇っていましたが、天正9年{1581}に織田方の地元武士により堂宇を焼失され、同じ12年{1584}現在の地に伽藍を再興しました。再興後の勝興寺は、慶長2年{1597}以降、越中国の触頭の地位にあり、江戸時代を通して加賀前田家と密接な関係を保ちながら、広大な伽藍を築き上げました。

境内は、奈良時代の越中国庁跡と推定される所で、万葉集を編纂した大伴家持が国守として5年間在任した。周囲には土塁と空濠を巡らせ、東辺中央に総門を開き、門内の南寄りに唐門,中央に鼓堂、北寄りに式台門を配しています。唐門の後方には本堂、経堂、御霊屋等の堂舎群、式台門の後方には大広間及び式台、台所、書院及び奥書院、御内仏の殿舎群が建ち並んでいます。17世紀から19世紀にかけて建立された建造物が数多く残り、近世真宗大寺院の伽藍の様相を今に伝える貴重な遺産です。」パンフレットより。   
          
特に、京都興正寺から移築された檜皮葺{ひわだぶき}の唐門や城郭を思わせる望楼形式の鼓堂などは一見に値する建造物です。私は、瑞龍寺も工事中の勝興寺も何度か見学したがいずれ劣らぬ壮観な寺院である。呉西には井波の瑞泉寺を含め大伽藍の寺院があるが、呉東地方には少ないように思われる。これも高岡の経済界の並々ならぬ再建への熱意があったことも忘れてはならないと思う。また、呉西には至る所に獅子舞いがあり、曳山車祭があり、高岡の沈金があり、どこか華やかな文化の香りがする。これも加賀100万石の影響か。滑川も加賀領だが10万石の富山が地勢状壁になり、加賀の影響が及ばなかったのか。
これ以上の説明は不要で「百聞は一見に如かず」である。最後に久し振りに雨晴海岸に行った。義経岩より富山湾そして立山連峰、いつ見ても飽きない絶景である。

写真は、パンプレットと越中国印と雨晴海岸より立山連峰を望む。

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