なかや一博 ブログ

月別アーカイブ: 2022年6月

善光寺ご開帳

遠くとも 一度は参れ善光寺 花溢るる 信濃路の春

残念ながら季節は春ではないし、善光寺には何度か訪れてはいた。しかし、今回は7年に一度のご開帳であり、しかも4月3日から6月29日まで88日間の開催で残り僅かである。
そこで、以前から長野在住の友人からお誘いを頂いていたので、今回22日の上京に合わせ、23日午後立ち寄り友人の家に一泊した。

東京駅から長野駅まで「はくたか」で約1時間速いものである。ホームに降り立つと県歌「信濃の国」が流れてくる。
明治33年発表された県歌であるが、全国の県歌の中では最も古い歌でなかろうか。それが今日まで色あせることなく歌い継がれてきていることは、いかに素晴らしい曲かがわかるし歌詞を紹介出来ないのが残念だが私の好きな歌の一つです。

迎えに来ていた友人の車で自宅へ。小休憩後近くの温泉でひと汗流し、夕食は友人夫婦と市内の小料理屋へ。友人の配慮で海なし県にもかかわらず、鮮度の良いお刺身と鍋料理に舌鼓を打ち、しばし痛飲、友好を深めた。
そこまでは良かったが、帰宅後2次会と称して深夜まで・・・あとはバッタンキューである。

さて、翌日24日朝食後善光寺へ行った。ご存知の通り7年に一度のご開帳は、ご本尊と同じ姿をした「前立本尊」を本堂で公開することである。
内陣の阿弥陀如来の右手に結ばれた金糸は五色の糸となってのびていて、更に白い「善の綱」となって回向柱に結ばれている。
絶対仏であるご本尊の御身代わりが最終的には、本堂前に立つ「回向柱」であろう。それ故、多くの人々が回向柱に片手を添えて願をかける。

私も単純な願いであるが「家内安全」「商売繁盛」を祈願した。この回向柱は、宝永4年{1707}現本堂が再建された際、松代藩が幕府から普請の監督を任され、それが縁で現在まで松代から寄進されていると言う。
それにしても、駐車場、仲見世通り,有料拝観場所どこも人、人、人。
人の波であり洪水である。加えて猛暑である。もはやコロナ禍以前の賑わいが戻って来ている様な気さえする。そんな訳で、本堂内、外陣からのお参りに留めましたが、その場にいた僧侶に善光寺の年間参拝者数を聞いたところコロナ禍以前は約700万人とのこと。
立山・黒部アルペンルートがコロナ禍以前で約90万人でありさすが善光寺である。

昼食は混雑を避けて、かつ旨い処へ。郊外の信濃新町地場産業開発センター経営の「道の駅GIBA」へ。さすがここの蕎麦は旨かった。
多少のお土産を調達し長野駅へ。友人に感謝し富山へ。久し振りの2泊3日の外泊であった。

参考まで「牛に引かれて 善光寺参り」の牛は何処から来たか。それは小諸市千曲川左岸の霊場「布引観音」から。角に布を引っ掛けた牛を追いかけて行ったら善光寺であった。以前聞いた話。真偽は?

CIMG4889



知人・友人を訪ねて

6月22日{水}公益財団法人・全日本弓道連盟定時評議員会に出席で上京した機会に、国の知人・友人を訪ねた。11時に防衛省大臣官房審議官・岩元達弘氏、{財務省より出向}と人事教育局衛生官付・防衛部員・薬学博士・坂西義史氏{厚労省より出向}を訪ねた。

坂西氏がわざわざ市ヶ谷駅近くまで迎えに来てくれたのには恐縮至極であった。二人で審議官室に入ったが、久しぶりの再会であり、話に花が咲きあっという間に1時間が過ぎ去った。別れ際に岩本氏が7月1日付で転勤になるという。驚いた私に新天地の名刺が差し出され、また驚いた。何と近畿財務局長である。色々と話題になった局であったことについ触れてしまったが、氏の性格、能力なら立派に職務を遂行されると激励し、二人の今後の活躍を期待し防衛省を後にした。

午後は全日本弓道連盟の定時評議員会に出席し、夕方、当日の宿泊場所の全国町村会館で文科省の若手職員と懇談した。メンバーのいずれも、25歳前後の時に文科省の研修生として3週間余り滑川市に派遣された折、わが家で懇談した青年たちである。しかし、今では管理職として活躍していることは,嬉しい限りである。中には当日の懇談会には出席できないが、私の顔だけでもと会いに来てくれた人もいた。

又、12月にはフランスに赴任する人もいた。釈迦に説法とは思いつつ、遣隋使や遣唐使の例を挙げ、生命の危険を顧みず、荒海を乗り越え大陸に渡り、技術や制度等を日本に持ち帰り、日本の礎を築いた官僚、の矜持を忘れるなかれ、と話した。言われた本人は判りましたと応えてはいましたが、私は、少々先輩面したことに反省しきりです。

又、ある人は、現在、山梨県教育委員会教育次長として文科省より出向中ですが、わざわざ甲府より山梨ワインを土産に駆けつけてくれたり、本当に有り難いことです。文科省では全国の自治体に研修生を派遣しているが、それらの職員が集まる機会はなく,他からはうらやましく思われているそうです。
ここでの懇談会もあっという間の2時間30分でした。

又、全国町村会館別館6階に岸田総理の派閥である「宏池会」の事務所があり、その事務局長に滑川出身の松倉吉弘が就任している。彼を訪ね暫し懇談話題はどうしても参議院選挙に及んだ。

翌日、23日は午前、経済産業省製造産業局長・藤木俊光氏を局長室に訪ねた。実は富山を出発した22日の北日本新聞に省庁人事が報道され、藤木氏は7月1日付で官房長となっていた。そのことから当然お祝いの言葉から始まった。彼はまだ56歳将来が期待されることを話し、懇談に入った。
次いで、消防庁の国民保護・防災部長・荻澤滋氏を部長室に訪ねた。最近頻発する能登珠洲地震から話題は多岐にわたった。

いづれにしても、今回訪ねたのは、かってそれぞれの省庁から富山県に出向中に知り合った人々で{文科省を除く}元気で活躍している姿を見るとやはり嬉しく思うものです。

写真は、防衛省にて右、岩元氏、左、坂西氏。文科省若手官僚の人々と全国町村会館にて。
経済産業省局長室にて藤木氏。消防庁・部長室にて荻澤氏。

CIMG4872 CIMG4877

CIMG4879 CIMG4880



白洲次郎・正子特別展

樹も草も しずかに梅雨 はじまりぬ  日野草丈

県立水墨美術館で開催中の白洲次郎生誕120年記念特別展ー武相荘折々のくらしーを鑑賞した。
白洲次郎{1902ー1985}は兵庫県芦屋で生まれ育った。綿貿易商「白洲商店」を興して巨額の富を築いた父の下、19歳で旧制神戸一中を卒業後、英国のケンブリッジ大学クレア・カレッジに留学した。
昭和恐慌によって白洲商店が倒産、大学院に在学中の次郎もやむなく日本に戻った。彼は、第二次大戦では開戦当初から日本の敗戦を見抜き、1942年鶴川{現・東京都町田市}に移住「武相荘」と名付けた茅葺きの日本家屋に住み、農業に従事する。

戦後吉田茂に請われてGHQとの折衝に当たるが、英国仕込みの流暢な英語で言うべきことは堂々と主張する姿から「従順ならざる唯一の日本人」と呼ばれたと言う。
又、洗練された身ごなしで「日本人で初めてジーンズをはいた男」とも呼ばれたと言う。特に、日本国憲法制定にも関わったり、1951年9月サンフランシスコ講和条約締結式にも、吉田茂側近として同行し活躍した。吉田の受託演説は当初英文で書かれていたのを白洲の主張で日本語で演説したと言う。

その演説の全文が奉書巻紙に書かれ展示してあった{複製}.これらのことから政界入りを求める声も強かったが、生涯在野を貫き、吉田政権崩壊後、実業家として東北電力会長や軽井沢ゴルフ倶楽部理事長など務めた。旧制中学時代の同級生・今日出海は彼を「野人」と評している。
正子{1910ー1998}は樺山伯爵の次女として、東京に生まれる。

祖父は薩摩出身で海軍大臣等歴任した樺山資紀、父の愛輔は貴族院議員、幼いころから能を習い、学習院女子部初等科卒業、同年米国のハートリッジスクール入学。帰国後互いに一目惚れして結婚。
古典芸能に親しみ、着物や骨董品を愛し、初の著書「お能」を皮切りに、「韋駄天お正」と命名された通り、自分の眼で見、足を運んで執筆する姿勢は、終生変わらなかったと言う。

今回の特別展では、武相荘での暮らしにスポットを当て、次郎の洋服や時計、道具類をはじめ、カントリー・ジェントルマンの志で戦後日本の復興に奔走した資料や正子が愛した着物や骨董品、自筆原稿など展示してあった。特に興味を引いたのは、次郎が英国留学中に購入した愛車の「ベントレー XT7471 1924年製{サワイミュージアム蔵}がエントランスホールに展示してあった。留学生でありながら、車を乗り回すとは、よほど裕福な生活を送っていたのだろう。

又、「武相荘」命名の由来は、武蔵と相模の境にあるこの地に因んだのと、彼独特の一捻りしたという気持ちから、無愛想をかけたと言う。私から言わせると、単に同音異句の駄洒落でなく、品の良いウイットと思う。近衛内閣の司法大臣を務めた風見章氏が「武相荘」と揮毫し額装にして居間に掛けてあると言う。彼の遺言は「葬式無用、戒名不用」であった。正子が亡くなって3年後、2001年10月遺族によって旧白洲邸武相荘として開館した。

それにしても、GHQとも対等に渡りあった気骨ある日本人がいたことは嬉しい限りである。昨今の社会を見ると、政治の世界も経済界もあらゆる分野でこの様な人物が居なくなっていることは淋しい限りである。

写真はパンプレットと1924年製・ベントレー XT7471

CIMG4870

CIMG4868  CIMG4866



「琉球」

6月1日{水}東京国立博物館平成館で、沖縄復帰50年記念特別展として開催されている「琉球」{5月3日ー6月26日}を鑑賞した。
入館料2100円。正直、高い方である。一瞬えぇと思ったが、最近物価は上がっているし、首里城再建の寄付金と勝手に納得し入館した。

沖縄県は、かって琉球王国という独立国でした。15世紀初頭から約450年以上にわたり海洋国家として独自の文化を繁栄させた。
王都である首里には首里城がそびえ、城内には各国からもたらされた絵画や陶磁器、国内で作られた漆芸品、染織品などで溢れていたという。
しかし、第2次世界大戦のさなか、沖縄は国内では唯一の激しい地上戦が展開され、その結果、首里城を始め、建造物や芸術品など多くが失われた。

そこで、沖縄県では、平成27年度より琉球王国文化遺産集積・再興事業として失われた文化遺産の復元等に取り組みました。
ただ残念ながら令和元年{2019}10月31日未明大規模な火災によって「正殿」など重要な建造物が全焼した。
中でも約450年にわたり、政治、外交、文化の中心的存在であり、さらに王国の祭り、儀式や祈りを行う聖地でもあった首里城は県民の心の拠り所であったことから、政府も令和2年{2020}3月27日関係閣僚会議において「首里城正殿等復元に向けた工程表」が決定され、本殿は令和8年{2026}を復元完成を目途に新しい歩みを始めた。

処で、琉球王国は明治政府によって、明治5年琉球藩を創設。明治12年{1879}4月4日、琉球処分の名の下に沖縄県とした。私は、処分という言い方が理解出来ない。琉球が日本に対し、何か悪いことでもしたのだろうか。
確かに琉球王国時代、清国と薩摩や徳川幕府と二股外交を行っていた。しかし、それは理由にならない。

かって、私は歴史教科書で神功皇后時代、新羅を含め南朝鮮半島一帯を「三韓征伐」と称して攻め入った。或は、豊臣秀吉の時代、朝鮮征伐と称して「文禄の役」、「慶長の役」を起こす。また、明治6年{1873}西郷隆盛の征韓論が台頭する。いづれも相手国は日本に対し侵略でもしただろうか。日本に攻めてきたのは蒙古来襲ぐらいである。明治政府の富国強兵政策に依って教科書も政府に都合のいいように作られた一例であろう。

そう考えると、沖縄県民の米軍基地反対運動の根底にあるのは、或は、琉球処分まで遡るのかも知れない。昭和47年{1972}5月15日沖縄は本土に復帰し50年が経過した。
しかし、未だに本土とは県民所得では格差があると言う。これらを含め一日も早く本土と同等になる事を願うものである。

さて、展示品であるが余りにも多くあり、書きようがないが首里城正殿に掛けられていたという鐘で、琉球の象徴ともいえる宝であり重要文化財指定で天順2年{1458}藤原善作の「万国津梁{ばんこくしんりょう}の鐘」や王権のシンボル、国王の冠{国宝}など見どころ満載であり、「百聞は一見に如かず」である。特に私の興味を引いたのは、沖縄県うるま市勝連城址から出土した「ローマ帝国貨幣」や「オスマン帝国」貨幣である。
琉球王国はアジア各地はもとより、いかに幅広く交易があったかが分かる。何度も沖縄へは行ったが、やはり日本とは芸術、文化、建造物どれを見ても違う異国情緒溢れた所である。

当日は、公益財団法人・日本弓道連盟理事会が久し振りに対面会議として開催され、上京した折、鑑賞したものです。

CIMG4850 CIMG4854