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高島 高シンポジウム

母「母は 傷みやぶれた手風琴です」 北方の詩より 高島 高

12月5日{日}詩人であり医師でもあった高島 高のシンポジウムが富山市立図書館本館2階で開催された。高島 高は滑川市加島町に明治43年{1910}7月1日に生まれ、昭和30年{1955}5月12日45歳の若さで亡くなった。
それ故、高島 高と言っても、没66年もたち、知る人はそう多くはないと思う。

しかし、剣岳や立山を題材にした「北方の詩」など郷土の風土を題材にした雄大な作品で知られるとともに市内の田中、寺家、西加積、富山市呉羽老田、小杉の各小学校や県立水産高校の校歌、また「滑川市の歌」「滑川情緒」などを作詞している。
こんな事から滑川市においても、昭和58年{1983}7月、滑川市文化センターで「ふるさとの詩人高島 高展」が開かれ、次いで平成17年{2005}8月6日―28日まで市立博物館で企画展「いのち輝くときー孤高の詩人 高島 高展」が開催された。
それが、今年6月滑川市緑町出身のグラフィックデザイナー伊勢功治氏が、高島 高の知られざる一生を明らかにした著書を刊行され、富山の芸術文化の振興に貢献した人に贈られる翁久允賞を受賞されたことを機に、翁久允財団が今回企画されたものと思う。

シンポジウムの出席者は、
①公益財団法人・翁久允財団 須田 満氏{翁久允の孫}演題・久允と高島 高の関わり
②県詩人協会・顧問 池田瑛子氏 演題 詩の光が呼ぶ
③歌人 細川喜久恵氏 演題 文学の原点
④富山文学の会{富山商業高校教諭} 金山克哉氏 演題 久遠の自像・人生記銘
⑤グラフィックデザイナー 伊勢功治氏 演題 東京時代の高島 高

それぞれの立場で話をされた後、金山氏がコーディネーターとなって進行されました。
特に印象に残ったのは、細川さんは現在98歳で、18歳当時立山製紙にタイピストとして勤務。社長は滑川の深井粂次郎氏。
多分そんな縁で会社の保険医が高島 高。高島が詩壇選者を務める郷土文化誌「高志人」に投稿し、直接指導を受けた話はまさに生き証人の話であった。

「詩とは孤独をエサとして成長する」
「詩の光は永遠」
「詩は生命にプラスする」

などの言葉や漢字の使い分け。同じひげでも口ひげと顎ひげの違いや、曼殊沙華のあかと夕日のあかの違いなど教えられた話など、98歳とは思えない元気な語り口でした。

伊勢氏は講演の中で蛍烏賊の足の刺身を「竜宮ソーメン」或は、「イカソーメン」と呼ぶのは萩原朔太郎が昭和14年6月滑川を訪れ食べた時、初めてこの言葉を使ったという。伊勢氏に確認しましたがその通りとのことでした。
いづれも高島 高の詩を語り継ぐ大切さを述べられました。

私の場合、高島 高同様加島町に生まれ育ち現在に至っていることから、幼少の頃、風邪などで診察を受けたことや、当時,人力車に乗って往診に行かれるカッコ良い姿を今でもはっきりと覚えている。
また、高先生が亡くなった後、高島医院を継承されたのが、弟の高島 学先生です。学氏も医師であり俳人であった。両兄弟の文学の素養は、父の地作氏が医師であり、号を半茶と称し地元でも有名な俳人で、著名な文人墨客との交流があった。

そんな血筋が高島兄弟に流れているのだろうと思う。私は、お二人の医師には診察は受けたが、詩や俳句を教えて貰わなかったのは今となっては残念なことである。
しかし、母校田中小学校校歌「希望の丘」や「滑川市の歌」「滑川情緒」はよく口ずさんだし、また、弟の学先生の時には時々モダンな応接室で歓談もした。そんなことから私自身は身近な存在で親しみを覚える。

さて、私は、詩や文学に関しての知識や能力はありませんから、高島 高の詩を論評する資格はありません。しかし、凄い詩人だったことは幾つかの事例で理解できる。

例えば、昭和25年{1950}「現代詩人展」で高村光太郎の「智恵子抄」草野心平の「蛙」などとともに、高島 高の「北方の貌」がこの年のベスト5に選ばれているのを見てもわかる。
また、昭和10年{1935}萩原朔太郎、北川冬彦、千家元麿、佐藤惣之助、が選考委員の詩コンクールで「北方の詩」が一等入選。昭和13年{1938}処女詩集「北方の詩」を刊行。それに萩原朔太郎と北川冬彦の二名が序文を載せている。

高島 高は明治43年{1910}医師高島地作の二男として市内加島町にうまれる。旧制魚津中学校卒業後文学を志し、日本大学文科に進学したが、父の高島医院を継ぐため、昭和医学専門学校{現、昭和大学医学部}に進み医師になり、昭和14年{1939}郷里滑川へ帰り開業。
昭和16年{1941}第二詩集「山脈地帯」を刊行するなど文学の道も諦めずに詩作に励む。
昭和17年{1942}「高志人」詩の選者となる。昭和18年{1943}軍医として応召。
昭和20年{1945}タイにて終戦。収容所生活。昭和21年{1946}南方より帰還。
その後も詩作活動を続ける中、昭和24年9月田中小学校校歌「希望の丘」作詞。作曲は高木東六である。

また、昭和29年3月滑川市が市制を施行した時「滑川市の歌」を作詞した。作曲は信時潔である。氏は「海ゆかば」など国民歌の作曲者として、また音楽家として稀な芸術院会員となっている。この様に帰郷後も中央の著名人との太いパイプがあったことがわかる。彼は昭和30年{1955}5月12日45歳の若さで惜しまれてこの世を去った。
昭和40年{1960}5月12日没10年の節目に市内行田公園の一角に詩碑建設委員会の名において詩碑が建設された。
その詩は「北方の詩」の一部で下記の通りです。

剣岳が見え
立山が見え
一つの思惟のように風が走る
北川冬彦 書

この時、昭和13年刊行の処女詩集「北方の詩」が再刊された。
また、昭和59年10月15日、編者・稗田菫平・発行者・高島 高詩集刊行会が 名作選 高島 高詩集を刊行した。その序に昭和22年に刊行した「北の貌」に序として相馬御風が長文を寄せている。
この詩集の後記の最後に稗田菫平氏は「詩人としての高島 高については、萩原朔太郎、北川冬彦、相馬御風氏らの序にも見られるごとく、詩壇的には評価が定まっており、あらためて加えることはない。名作選の名に恥じないこれらの詩編が、多くの人びとに迎えられて愛唱されることを切に希うものである。」私も全く同感である。

詩碑はもう一か所ある。市営堀江野球場ライト側ポケットパークに平成5年{1993}9月18日滑川ライオンズクラブによって建設された詩碑である。
「北方の詩」の中にある

「力」
肉体をつらぬく焔がある
この焔をこめて燃え上がった生命があるというのだ
ぶつかれ!

詩碑が建設されて20年近くたち、詩碑の前に植樹された樹木は詩碑を覆いかぶさるような大木なっている。

また、高島医院の山側の隣接地に滑川市民会館分館西地区コミュニティーセンターがあり、医院の横には田中川が流れている。
それ故、ホール正面側の壁面と、田中川に面した壁面に縦約2m横約3mの大きさの陶板焼きのタイルに地元の書家によって書かれた「蛍烏賊」と「田中川有感」の詩がある。蛍烏賊の詩は幾つもあるが、そのうちの一つです。

先ずは、改めてもう一度ご覧ください。
私な好きな蛍烏賊の詩と昭和28年11月1日滑川町と近郷6か村が合併した時に色紙に書かれた言葉を記します。
幾つもありますがその一つの

「蛍烏賊」
太古への郷愁をたとえてみれば
闇の海の底へとしずんでゆく
ほたるいかでしょううか
滑川という越中の小さな町の

昭和28年11月1日滑川町と近郷6か村が合併した時の色紙に記した言葉。

大滑川町を祝す
北方荘主人 高島 高

その握手は 偉大であった
ことほげよ 菊かほる佳日よ
今こそ 親愛と協和との
ちかいに燃えたのだ   
1953年 秋

写真は、シンポジウム風景。行田公園の詩碑。堀江野球場の詩碑。昭和28年11月1日の色紙{広報なめりかわ縮刷版より}。
西地区コミュニティーセンター壁面。昭和40年再版の「北方の詩」と昭和59年発行の名作選・高島 高詩集。

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