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北国街道をゆく――絵図に見る江戸時代の新川町・村の姿

ともかくも あなた任せの としの暮  一茶 

江戸時代の滑川の様子を、絵図を通して紹介する企画展が11月12日―12月25日まで市博物館で開催されていた。
又、11月20日鈴木景二富山大学教授による記念講演「道中記に見る北国街道の旅」と題し開催された。
この講演を聞いたあと、12月に入り再度博物館を訪ね展示品を見た。これは東岩瀬{現・富山市}から境関所{現・朝日町}までの加賀領新川地域の宿場町15町村の絵図である。
企画した近藤博物館長は「古文書の展示解説と違い、絵図は分かりやすく、最近ブームの街歩き気分も味わえると思う」と語り,館長自身、絵図に添付する現在地の写真を撮るため,貸自転車なども使って街を歩いたというからこの企画展に込める熱い思いが伝わるような気がした。

さて、パンプレットによれば「絵図とは、一言で表せば現代の地図にあたり、日本では古代中国から絵図が作られ、広く普及したのは江戸時代.幕府が諸大名に命じて作成させた国絵図、町村絵図、旅人たちに利用された街道絵図など、実に多種多様な絵図が存在した。
本展では、北国街道{北陸道}の宿場町として栄えた滑川町・街道沿いの立地のため街場化した高月村など、現在の滑川市域の町村とともに、東岩瀬から境関所までの加賀藩新川地域の宿場町や在郷町など15町村の様子を絵図を通じて紹介します」と記してある。私のような素人は江戸時代の絵図を見ながら、つい私の家は、私の住んでいる町内は、と捜す。残念ながら展示資料で一番新しい滑川町惣絵図は天明3年の{1783}絵図で、この時、堺町{現・加島町2区}は形成されていない。

滑川町誌によれば,堺町の町名は滑川町の境界に位置することに由来し、弘化2年{1845}12月23日の高波で倒壊した山王町の33軒が,翌3年南方の田地を開いて移住した所。とある。
話が横にずれたが、いづれにしても絵図を見ながら町形成の過程がよく理解できる。ただ質問時間がなかった為、消化不良になったのは、3点である。鈴木教授の「道中記に見る北国街道の旅」の中で
①売薬商人の日記が紹介された。元治2年{1865}2月15日の日記で、越後国高田を回商し集金した40両が盗難にあったという。
詳細は省くが40両は現在の価格ではいくらぐらいか。

②江戸時代の参勤交代では加賀藩の大名行列は2千人ー4千人。これが滑川宿に宿泊したという。藩主は本陣に泊まるとしても、旅篭屋は数件しかない。これだけの多数がどこで宿泊したのだろうか。

③主催者に聞けばよいのだが、企画展のテーマは「北国街道をゆく」である。
私は「北陸街道」と思う。北陸自動車、北陸新幹線、北陸線、北陸銀行、富山県は北陸地方である。
確かに石川県では、北国銀行、北国新聞がある。しかし、富山県はやはり北陸と思う。
今回の開催に際し、富山市教育委員会、富山県立図書館、富山大学附属図書館中央図書館、射水市新湊博物館、黒部市歴史民俗資料館、石川県立図書館をはじめ十数か所の協力を得て資料を収集されたのには敬意を表したいと思います。

それにしても、余すところ今年も僅かになった。ロシアのウクライナ侵攻によってエネルギー資源や食糧は大混乱である。日本でも石油等のエネルギー資源や小麦などの食料資源の高騰から物価は軒並み高騰した。日本国憲法が前文で謳う「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼してわれわれの安全と生存を保持しょうと決意した」とある。
国連決議や国際法を公然と無視し、しかも核を保有した国がわが国の周辺にある現実を直視すべきである。でも、とにかく2022年はもう終る。2023年は佳き年であるように願わずにはおれない。                

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