全弓連理事会
公益財団法人・全日本弓道連盟{会長・増田規一郎}の令和3年度第2回理事会が、7月9日{金}ジャパン・サポート・オリンピック・スクエアー会議室で開催されました。
これは、今年度は理事改選{任期・理事2年・監事4年}の年であり、理事候補選出委員会で選出された15名の候補を評議員会に図り、正式に決定された新理事による始めての理事会であり,参集会議となり上京しました。
当日は、新理事15名中14名監事、私を含め3名全員出席。従来は新型コロナの関係でオンラインでの会議でしたが、やはり参集会議は臨場感があります。また、会場は新国立競技場の近くにあり、間もなく始まるオリンピックの為、交通規制や警備体制の強化に加え、人流の抑制などを考えると次回はパラリンピック終了後になり、今回が参集会議となったと思われます。
議題は、新役員選出で、理事の中での互選の結果、代表理事、会長に増田氏が引き続き選任され、合わせて業務執行理事も選出されました。増田会長は就任挨拶の中で弓道の普及振興はもとより公益財団法人である全日本弓道連盟の果たすべき役割にも触れる決意表明でした。
尚、久しぶりの上京で二人の知人を訪ねました。
①富山一成氏。現在、日本政策金融公庫、代表取締役専務、国民生活事業本部長。
氏は、財務省より富山県に出向され、知事政策室政策統括官などを歴任後本省に戻り、理財局次長、横浜税関長の後、6月現職に就任されました。この公庫は幾つかの省庁が持っていた公庫を一つにしたものです。
氏とは財務省理財局次長時代に財務省でお会いして以来の再会でしたが、コロナ禍の中、公庫の貸し出しが増えるなど主に金融関係の話しでしたが、氏は財務省出身ゆえその点は心得たものでした。
②藤木俊光氏。現在、経済産業省製造産業局長。
氏は経済産業省より富山県に出向され、商工労働部長などを歴任後本省に戻り、最近では大臣官房商務・サービス審議官から現職に就任。話題は、やはりコロナ禍の中での経済でした。
いづれにしても、話は尽きませんでしたが、お二人とは県に出向中、よく我が家で歓談したものです。
しかし、本省に戻られても要職を務め、元気で活躍中の姿を見て大変頼もしく、かつ嬉しく思います。
お二人の更なる活躍を期待し、再会を約しそれぞれを後にしました。
写真は、全弓連理事会。富山一成氏{日本政策金融公庫専務取締役室にて}、藤木俊光氏{経済産業省製造・産業局長室にて}



(2021/07/09)
滑川高校同窓会総会中止
見られゐて 種出しにくき 西瓜かな 稲畑汀子
7月7日{水}滑川高校同窓会{会長・中屋一博}役員会を学校敷地内の歴史資料館で開催し、8月10日開催予定の総会を協議の結果、新型コロナの現状から中止と決定しました。
しかし、年に1度、年代は違っても、滑川高校卒業という絆で結ばれた同窓生の皆さんとの再開の機会がなくなり誠に残念ですが、なにとぞご理解を賜りますようお願いいたします。
尚、当日は、この他の議題として、令和2年度会務会計報告、監査報告、次いで令和3年度予算案、事業計画案等が審議され、いずれも承認されました。
また、本年は役員改選の年ですが、総会が開けないことから、全役員が引き続き来年の総会まで任に当たることになりました。
さて、昨年の生徒諸君は新型コロナの為本当に可哀想な年でした。ほとんどの学校行事や文化活動、スポーツ活動は中止となりました。文化部は練習は出来ても、それを発表する機会がなかったり、スポーツクラブは県大会や国体などが中止になった為、目標を失うなど、思い出の少ない年だったと思います。
今年度着任された、亀谷校長は挨拶の中で、4月の入学式以降今日まで各種行事は一応順調に進んでいるとのことでした。
また、今後の予定にある学校行事の中でも大きなイベントである秋の「運動会」や3年に1度の「滑高祭」各科の「研修旅行」等々も実施出来そうとのことでした。
多感な青春時代、しかも、わずか3年間の中で、1つでも多くの感動と思い出を作る。これが高校時代だと思う。未だ収束の見通しが立たない中、東京オリ・パラリンピックの開会式が近づいてきた。ワクチン接種が進んできたとは言え、一日も早い収束から終息へと願うばかりです。
尚、7月7日開催の資料を希望される方は下記までご連絡下さい。
〒936-8507 富山県滑川市加島町45番地
県立滑川高校同窓会事務局 ☎076―475ー0164
(2021/07/07)
2回目ワクチン接種
飛び習ふ 青田の上や 燕の子 麦水
新型コロナ対策の切り札とされるワクチン接種も私自身、6月7日に次いで6月28日に2回目の接種を終えた。企業接種や職域接種もスムーズに進むかと思っていた矢先、職域接種の新規受け付け休止が発表され多少混乱している。
しかし、県の集団接種が富山空港ターミナルビルで始まったし、政府の大規模接種センターも開設から1ヶ月が経過し、6月28日から1回目を受けた高齢者が2回目接種が本格化するという。
私自身、2回の接種を受けたからと言っても決して安心でなく、今後、10日間程は従来通り「三密」を含め十分注意しなければいけないし、その後に於いてもこれで絶対安心ということでなく、やはり引き続き注視する必要があると思う。
さて、6月27日午前0時現在厚生労働省発表の国内外の感染状況を見ると、
①「感染確認」②「死者」として富山県は①は2037人②38人。
石川県①3928人②115人。
石川県と比較しても、また、47都道府県中で,①は40位②は41位である。
日本全体でも、①は79万6252人②1万4688人である。
これに対し、世界を見ると、アメリカ①は3362万11937人②60万3891人。
インド①は3023万3183人②39万5751人。
ブラジル①は1838万6894人②51万2735人。
フランス①は583万0394人②11万1113人。
イギリス①は473万4011人。
イタリア①は425万7289人②12万7458人などで、世界では①は1億8079万6678人②391万7369人。
この数字をどう見るか。私は、日本は都市封鎖もしない中、「緊急事態宣言」や「まん延防止等重点措置」の発令時期などに批判や政治家や官僚の不祥事が相次いで、政治への不信もあるが、私は富山県も日本政府も今のところよくやっていると思う。
何故なら、我が国で感染症によるパンデミックは100年前のスペイン風邪以来の大混乱である。エイズにしても、マーズ、サーズ、あるいはエボラ出血熱を含めた多くの感染症にしても、我が国にはほとんど影響がなかった。
それ故、感染防止対策のブレーキと経済対策のアクセルとの両立を図るという難しい場面に直面しているのが現状であろう。
東京オリンピック・パラリンピックも同様である。観客は無観客がベターという感染症の専門家の提言はその通りと思う。
しかし、これによって経済を含め大きな影響が出た時誰が責任をとるのか。政府の専門家委員会と政府の考えにはずれがあるという。当然だと思う。政府とすれば感染防止策と経済活動の両立を図りたいと思うのも当然である。
しかし、この判断が結果的に間違っていたなら政治家には結果責任が付いてくる。これも当然である。今は、未曽有の国難であり、デルタ株やさらにそれが変異する異常事態である。有事の時、有事のことを考えると混乱が起きる。それが現在である。
平時な時に有事を想定したことを議論することを避けてきた。その付けが今出ているのであると思う。
我が国の国防問題も然りと思う。
とにかく一日も早く新型コロナを克服し平穏な社会の到来を願うのみである。
写真は、2回目のワクチン接種風景 2021/6/28

(2021/06/29)
配置従事者研修
紫陽花や 藪を小庭の 別座敷 芭蕉
紫陽花がぼちぼち咲いてきた。紫陽花は路地裏でも、公園の中でも、料亭の床の間での一輪挿しでも、或は、我が家の小さな藪庭に咲いていても、一服の絵になる。不思議な花である。特に、小雨に濡れた紫陽花は素敵だ。
さて、令和3年度・配置薬業従事者に対しての資質向上研修会が6月8日{火}より始まった。
これは、始めて配置薬業に従事者する者には
①初任者研修。
現役の従事者を対象とした②特別課程。
受講が義務化されている③既存配置従事者
④登録販売者の研修がある。
①の初任者研修は2日間にわたり、9時間30分の研修が年6回。
②の特別課程は5日間にわたり30時間の研修が年2回。
③の既存配置従事者研修は4日間~5日間にわたり30時間の研修が年8回。
④の登録販売者研修は2日間にわたり12時間の研修が年8回。
受講機会はいづれも各自の選択です。
これが、配置薬業従事者に対する資質向上研修である。
私は、配置従事者の理念・倫理が主ですが、業界全体の現状と諸問題など約1時間の持ち時間です。
高齢者にとっては多少キツイ内容ですが、日進月歩の著しい、薬学・病理学の世界の新たな知識の吸収の場としては、講師陣や研修内容も大変充実したものであり、他県では到底出来ないことと思う。
受講者全員真剣な眼差しで研修を受けておられる姿には、いつも感心します。さすが「くすりの富山」を標榜するだけのことはある。
ただ、最近「配置薬業」と直接関係はありませんが「くすりの富山」の信用を失う残念な事件が起きた。早く信頼回復に向かって努力して再び「くすりの富山」の一翼を担って頂きたいものです。
新型コロナで大変なことは、他人の職種においても同様である。人生においても、職種に於いても、それを取り巻く環境は常に変化する。
その変化に対応出来る者は生き残るであろうし、その逆もまたある。「先用後利」の精神や「300年の歴史と伝統」だけでは厳しい時代になっているのではないかと話しました。


(2021/06/10)
ワクチン接種
紫は 水に映らず 花菖ぶ 高浜牛尾
市内行田公園の「花菖ぶ」も見頃が近づいてきた{6月9日現在}
さて、新型コロナ対策の切り札と言われるワクチン接種が始まった。滑川市でも5月20日頃から75歳以上の方々の接種に続き、第2弾の私の年齢にも5月末案内がきた。
本市の場合、市内12の医療機関の一覧表が同封され、それを、各自の判断で選択し予約するのである。早速、妻とともにそれぞれの医療機関に電話で予約をした。私の場合、第一回のワクチン接種は6月7日、第二回目が6月28日と指定された。
しかし、妻の場合医療機関が私と違っていた為、申し込みがほぼ同じであったが、第一回目、二回目とも7月に入ってからだった。
やはり、医療機関でも受け入れ体制や規模の差であろう。私は、当日予約時間の約10分ほど前に到着したが11番目の札を頂いた。
結果的には、接種後15分位の安静を含め約40分程で終了した。友人達の話では、電話予約に時間がかかった人や医療機関で直接予約しようと行っても、かなり混雑していて大変だったことを聞くと、私の場合は意外に早かった方かもしれない。
また、注射の痛みも殆どなかった。医師の腕も良かったのだろう。
それにしても、人とウイルスの闘いは長い歴史がある。代表的なのは天然痘であろう。奈良時代の大流行は約3年にわたって続き、当時の政治の中枢を担っていた藤原4兄弟が相次いで病死した。この時社会の動揺を鎮めようと、聖武天皇が命じたのが、東大寺の大仏建立である{752年・天平勝宝4年・開眼供養会}疱瘡と呼ばれた天然痘はその後も流行を繰り返したという。
それが、18世紀終わりのイギリスの農村部で牛の病気である「牛痘」が人にうつると、その後天然痘にかからないと言われた。これに着目したのが、地元の開業医のエドワード・ジェンナーである。牛痘を少年に接種して効果を証明した。安全性の高いワクチンの発見である。
ジェンナーは後に「近代免疫学の父」と呼ばれ、ほぼ200年を得た1980年に世界保健機関{WHO}は地球上からの天然痘撲滅を宣言した。
一回目の接種は無事終わったが、本ワクチン接種で十分な免疫ができるのは、二回目の接種を受けてから7日程経って以降とされているから、やはり私の場合7月初旬までは気を緩めてはならないし、同時に、ワクチン接種にかかわらず、適切な感染防止策も引き続き行う必要があると思う。
いづれにしても、ほぼ全国民がワクチンを打つというかってないプロジェクトが一日も早く終わり元の生活が送れるように願うばかりです。
写真は、行田公園の花しょうぶ{9日}とワクチン接種風景


(2021/06/09)
琵琶演奏会
春尽きて 山いっぱい 葉の怒涛
錦秋流琵琶富山支部演奏会{支部長・杉本操 後援会長・中屋一博}が6月5日{土}青空が広がる好天の中、滑川市瀬羽町「ぼんぼこさ」旧宮崎酒造で開催されました。昨年は、新型コロナの影響で中止になり2年ぶりです。
私は、挨拶の中で「もし、人間社会に音楽を含め芸術や文化等がなかったら、人々はどんな生活を送っているだろうか。原始の時代から、人間は手をたたくことで音を発し、身体を動かすことでリズムを感じ、歌や踊り考え、それを生活の中に取り入れることで、心豊かな生活を送ることを考え出したと思う。それを表現出来なくなったのが、今も続いている新型コロナ禍である。私は、滑川高校の同窓会の世話をしているが、昨年の高校生は思い出の少ない淋しい年でした。。部活におけるスポーツにしても、文化活動にしても、その練習の成果を発表する機会が失われたことである。人は目標や目的を失った時の心理状態を考えると、実に残念なことであり、悲しいことである」と述べて、そんなことを含め、今回の新型コロナ禍の中で各種大会やイベントが中止になる中での演奏会開催には、相当悩まれ、議論されました。
その結果、マスク着用、手指消毒、検温、ソシャール・ディスタンスなど感染防止策を講じた上で演奏時間も従来より短縮しての開催となった。
結果として、一昨年以上の来場者を迎え、演奏者の精一杯の努力の姿が皆さんの心を掴んだと思われた。帰り際に多くの人から、次回も楽しみにしているとの声が寄せられ、関係者に勇気を与えました。
また、今回も中川原詩吟会の皆さんのゲスト出演も得て、琵琶と詩吟のコラボレーションなど会を盛り上げて頂き感謝申し上げます。
いづれにしても、日本の良き伝統文化である、琵琶などは、末永く残してゆきたいものです。
最後に、ワクチン接種も始まりましたが、一日も早く新型コロナが収束から終息へと願わずにはおれません。
尚、琵琶に興味ある方は 杉本支部長へ ☎076―475ー3568
写真は挨拶の私。杉本支部長と合吟のコラボレーション


(2021/06/05)
加積雪島神社春祭り
誰もみな 春はむれつつ遊べども 心の花を 見る人ぞなき 夢窓国師
5月から6月に入ると、滑川市内町部の神社で春季例大祭が相次いで開催される。
5月8日薬神神社・加島町 5月13日―15日八坂社・寺家町 5月19日―21日諏訪社領家町 5月19日―21日加茂社・高月町 5月21日―23日加積雪島神社・加島町 5月24日―26日天満宮・田中町 6月13日―15日八坂社・下小泉町、6月15日―17日櫟原神社・神明町と続く。いわゆる滑川のダラダラ祭りである。
子供の頃は、娯楽の少なかったこともあり、祭の来るのを楽しみにしていた。、社会人になっても親戚に行って酒を飲み、神社に行き、スマートボールやパチンコ或は輪投げや金魚すくいなどに興じた。祭での親戚訪問は親戚との思いを無意識に再確認すると機会でもある。特に、私の町内の加積雪島神社祭礼には獅子舞が加島町3区と隔年ごと交互に参加して子供の頃には待ちに待った行事の一つであった。それが、昨年、今年と2年連続で新型コロナの関係で神輿巡幸、獅子舞、鯛灯行{やさこ}は中止。
家々を飾っていた幕、提灯、花などは各町内会で対応が割れた。やはり、淋しい限りである。今年の獅子舞には、私の孫も参加することになっていたから尚更残念であった。
かって、櫟原神社の祭礼には、サーカスやお化け屋敷などがあり、露店商も橋場から常盤町まで繋がっていた。加積雪島神社の祭礼にしても、橋場から神社まで露天商が林立していた。正に、今昔の感ひとしおである。これが例え新型コロナが発生していなくても、祭りは年々淋しくなって来ているのは事実であろう。
滑川神社誌{昭和61年10月発行}の中の雪島神社の項に、祭事世話として「雪島神社の宵宮の祭礼神事は昔も今も近郷の人々で賑わい、境内、沿道には露店商の店が並んで賑わいを添えた。
神輿全氏子巡幸後、櫟原神社へ渡御され、宮司祝詞奏上後、社頭で還幸まで駐座された。
午後8時頃、花火と共に獅子舞、氏子児童のヤサコ、出迎え高張り提灯並びに、楽人令人、氏子役員が先導する。神輿の後には宮司及び氏子の他、他町内の見送り高張り提灯が林立し、神明町より神社まで、獅子舞若連中の演技、楽人の奉楽と共に同行する人が2百人の行列にて還幸され沿道数百人の奉拝者で埋めた。宵宮の神事は昔も今も近郷の人々で賑わい、境内、沿道には露店商の店が並んで賑わいをそえ・・・{中略}戦後、櫟原神社より還幸と共に神社下浜浦より海に出御され、俗にいう「山王さんの船遊び」神事があった。
この海上渡御は、浜浦防波堤が高積されるまで行われた。
この神事は豊漁を祈願し海上に氏子の網元たちが、流し火3百余個を作り{綿に灯油を浸み込ませ板船に乗せ点火して流す}これが潮に乗り、沖合いへ流れ、長蛇の如く浜浦で見る者たちは感嘆の声を発し、まことに壮観であり,神輿渡船は粛々と、宮司、楽人,令人、供奉、高張り提灯,小幡旗、を林立させ、奉楽と共に沖合いより櫟原神社下浜浦へ、また大漁旗をたてた漁船が前後に供奉し,還幸され、社頭の御神火をくぐり神殿へ還御される」と記してある。
私も、小学生の頃だから当然この風景は記憶に残っている。この渡御は昭和38年5月21日が最後となった。昭和38年5月22日付け北日本新聞は次のように写真入りで報じた。
「滑川で ミコシの海渡り」
恒例の滑川市加島町・雪島神社の奇祭「ミコシの海渡り」は21日夜行われ,約5千人の人出で賑わった。この日朝から五月雨も夕方には晴れ上がり、氏子に担がれた豪華なミコシが各町内会の趣向をこらした夜高あんどんなどに囲まれて、午後7時に同市神明町、櫟原神社を出発、繁華街を練ったあと満船飾の発動機船に移された。伝馬船から流された約一千灯の流し火と打ち上げ花火は不夜城と化し,ミコシは流し火の間を巡回しながら豊漁と航海の安全を祈願した。」と報じている。
5千人の人出とは、想像もつかない。この様にどの神社でも以前と比較すると淋しさは禁じ得ないと思う。5月23日祭礼最終日参拝したが、数人の宮委員だけで、新型コロナの影響か3日間の期間中9時から5時まで宮は開けているが、殆ど参拝者はないとのことであった。ただ22日は神事と浦安の舞は行なったとのこと。
つまり、祭礼と言っても「人流」がない。だから露店商も来ない。段々淋しくなっていく。
時の流れと言えばそれまでだが・・・・・私は、若かりし頃宮委員をした。その時、祭礼の日を、何月何日と日を決めるのでなく、例えば、雪島神社の場合は5月の第3土曜、日曜、月曜のように曜日で決めたらどうか、それによって神輿巡幸の人手不足解消の一助になるし、獅子舞にも若手も参加がしやすくなるのではないか、一人でも多くの参加が祭そのものを盛り上げるのではないか、翌日が休日となればゆっくりと祭りを楽しむこともできるのでないか、また曜日の変更は各神社と当然話合わねばならないと発言したところ宮総代に一蹴された。
祭礼の日を簡単に変更できるものでない。確かにそう思う。しかし、後日雪島神社総代会の記録を見ると、明治時代は5月中の申の日で毎年変わる。明治30年頃は6月8日であった。当時、祭礼が終わった後、翌年の祭礼日を決めた記録もある。私の母は戦前は6月であったとよく話していた。現在の21日、22日、23日となったのは昭和20年前後と思う。
かって、地域の人々の心の拠り所であった神社、仏閣が我々の生活から疎遠になりつつある。それも地域の絆が崩れてきた一因と思う。ましてや、昨今の新築住宅を見ると神棚や仏間が消えつつある。そう思うと将来が心配になる。これは、寺院にも言えることと思う。やはり、お宮に人が集まるような仕掛けを考えなければならない。そんな思いでお宮を後にした。いづれにしても、一日も早く新型コロナの収束を願うばかりです。
写真は、祭礼最終日の加積雪島神社正面。倉の中の神輿。昭和38年5月21日最後の「ミコシの海渡り」



(2021/05/24)
薬神神社春季例大祭
咲きみちて こぼるる花も なかりけり 虚子
桜花爛漫から百花繚乱へと季節が移り行く中、5月8日{土}午前9時より恒例の薬神神社春季例大祭{主催・石倉雅俊奉賛会長}が横川宮司の下、厳粛な中にも滞りなく行われました。
当日は、前回の1月8日の豪雪の中での開催に対し、五月晴れ、青空広がる中、久し振りの再会に参加者は笑顔でグータッチを交わしていました。
横川宮司の祝詞奏上に続いて石倉会長から順次玉串奉奠が始まり、顧問の私、吉田前会長、石政市薬業会長、中屋市薬業青年部部長等々薬業関係者、来賓、最後に加積雪島神社総代で終えました。
引き続き石倉会長が挨拶に立ち、新型コロナに関し、ワクチン接種が配置従事者を含め市民に早く接種が行われ、我々も消費者に安心して訪問出来るように、との来賓への要望も含め「三密」により医者への受診機会が減少し「置き薬」が再認識されている時、ピンチをチャンスに変える機会であると力説し、会員の一層の奮起を要請されました。次いで、来賓から挨拶とともに激励の言葉がありました。
尚、今回も感染症防止対策として、マスク着用などの対策は当然ですが、直会は中止されました。
ただ、終了後、社務所に集まり業界の諸問題について意見交換し解散しました。
写真は、玉串奉奠の私。例大祭風景。


(2021/05/08)
「第9回(第70)日本海開き」
濃く淡く 若葉の奥も 若葉かな
5月6日{金}午後1時10分から恒例の滑川高校海洋科による「日本海開き」が上市川河口高月海岸で行われました。
これは、かっての水産高校時代の1951年{昭和26}から始まり、海洋高校、そして現在の滑川高校海洋科へと引き継がれている伝統行事の一つです。
昨年は新型コロナのため、中止となりました。今年は再編統合から数えて9回目ですが通算70回の歴史を刻んでいます。当日は、海洋科の生徒1-3年生約120名が参加しました。
目的は「海洋高校の伝統を継承し、富山県立滑川高等学校の生徒のはっらつとした若さと旺盛なる心意気で、海に挑む海洋精神と粘り強い意気の高揚を図る」とあります。
当日の天候は、五月晴れ、微風、気温20℃、海水温14,5度、まずまずの天候でした。
しかし、消波ブロックより沖合いは、17℃位だそうです。河口付近の波打ち際は上市川の真水が入り込むため低いそうです。
最初に、学年ごとに円陣を組み、気合を入れた後ピストルの合図で3年生が一斉に海に飛び込み、20m先の浮きまで泳ぐ者、波打ち際で水をかけ合う者など様々でした。
この間、校長が太鼓を打ち鳴らして生徒の士気を鼓舞します。3年生が上がったあと2-1年生と順次行います。特に3-2年生は昨年中止になっただけに久しぶりの感触を楽しんでいるようでした。
いつも思いますが「日本海開き」とは、少々大袈裟に聞こえますが、それ位の気概を持つように、とのことだと思います。
現在、県内の高校で水産関係の学科があるのは、滑川高校と氷見高校の2校ですが、このような行事があるのは本校だけです。
伝統行事として、今後とも引き継いでいってほしいものです。


(2021/05/06)
養照寺本陣
真宗大谷派藤谷山養照寺{藤谷恵住職滑川市領家町}の建物の内、江戸時代に加賀藩主の休憩、宿泊施設「本陣」の全体を「養照寺本陣」として3月市指定文化財に指定されました。
これを機会に説明会が5月3日養照寺において開催されました。今回は、新型コロナ対策として、手指消毒、検温は当然として、参加者1回10人程度に限定され、13時、14時と2回に分けて行われました。
さて、従来は、滞在中の藩主の部屋だった「御居間」だけが「養照寺本陣(上段の間)」として指定されていましたが、このほど山形大学工学部建築・デザイン学科,永井康雄教授が行なった調査研究により、上段の間だけでなく棟全体が江戸時代後期に建築された当時のまま現存している貴重なものだと判明したため、指定範囲と名称を変更したものです。
永井教授は度々滑川を訪れ、岩城家文書{約6000点}を解読されるなどの第一人者で、市内数ヶ所ある国登録文化財の登録に尽力された方です。
説明会では主に
①養照寺の建築について、加賀藩本陣と本堂
②滑川宿本陣、養照寺の建築について
㋐養照寺の概要
㋑火災と滑川宿御旅屋と本陣の変遷
㋒「岩城家文書」と養照寺本陣の変遷
㋓古図面と現状図比較
など、資料、スライド等を使って解説されました。
参勤交代での加賀藩主の定宿、休憩場所として寛永2年{1625}桐沢家が御旅屋となったのが始まりである。
しかし、度重なる火災で天保9年(1838}高月焼で桐沢家及び養照寺本陣も焼失。片や、養照寺が本陣を勤めたのは寛政元年{1789}以降で、藩主が養照寺を利用した記録は天保7年4月6日と天保13年3月の2度である。今回追加指定された部分も含め建物は天保12年に再建されているから天保13年3月の御成り前には、上段の間{御居間}、白書院、黒書院、滝ノ間、桜の間、玄関、など現在の建物が完成していたと考えると、天保13年に藩主が養照寺を利用することを前提に建築されたと思われる。
それにしても記録では、わずか2度しか利用していないのに普請するなど、かなりの散財である。
しかし、それに耐ええる財を持っていたということであろう。弘化元年{1844}からは小泉屋{旧宮崎酒造}と交互に本陣を勤めるが、やがて激動の幕末になり幕府の権威も権力も衰え参勤交代の規模も縮小、そして廃止となる。
それでも幕末の加賀藩主の参勤交代は約2000人規模であつたという。
藩主は養照寺を利用、それ以外は周辺の民家。現代のホームステイか。さぞかし混雑したことであろう。それにしても藩主の命とあらば断れなかったのだろう。
本陣とは江戸時代藩主が参勤交代や藩内巡視のために、自領や他領を通行する際に、休憩や宿泊する施設。養照寺は元々脇本陣だったが・滑川の本陣であった桐沢家が前述の通り火災のために、これに替り、江戸時代後期から小泉屋{旧宮崎酒造}とともに本陣となった。桐沢家は御旅屋と言われ藩営であり加賀藩専用である。片や本陣は民営である。
上段の間は藩主専用の10畳敷の部屋で、周囲よりも一段高くなっており、身分の高い人物{藩主}の部屋であり、柱には黒部奥山から調達した良質な木材が使用されるなど、随所にこだわりが見られるという。県内で唯一後世の改変を受けていない本陣であるという。
永井教授の、大変解かりやすく、丁寧な解説に感謝します。
参考資料 永井教授配布資料及び広報なめりかわ5月号
写真は、棟全体、上段の間、解説する永井教授


(2021/05/03)
高岡市内見学
4月16日{金}高岡市内5か所を知人と見学しました。
①国宝・瑞龍寺
②高岡市美術館
③高岡市万葉歴史館
④勝興寺
①曹洞宗高岡山瑞龍寺
加賀二代藩主前田利長公の菩提を弔うために三代藩主利常公によって建立された寺である。
利長公は慶長10年{1605}44歳で家督を利常{当時13歳}に譲り富山へ。街並みの整備や富山城を築くが、いたち川付近からの出火で焼失。
慶長14年9月高岡へ。高岡城を築城し、慶長19年{1614}53歳でこの地で没した。墓所は利長公33回忌に建立された。
瑞龍寺の造営は正保年間から、利長公の50回忌の寛文三年{1633」まで約20年間の歳月を要した。当時、寺域は3万6千坪、周囲に堀をめぐらし、まさに城郭の姿を思わせるものがあった。
そして、長年にわたる大修理の後、平成9年{1997}12月3日、山門、仏殿,法堂が国宝に指定された。県内での国宝はここしかないから少し淋しい。私の記憶では、北陸3県で寺院が国宝に指定されているのは、福井県小浜市の明通寺と2件である。
福井の永平寺も金沢市内の寺院にも国宝はない。そう考えると貴重な建築物である。墓所も瑞龍寺も利常公によって建立されたもので、いかに利常公は利長公に深くその恩を感じていたかがわかる。建築は大岩日石寺をはじめとして数々の寺社仏閣を建築した名匠山上善右衛門である。
尚、国宝以外の総門,禅堂,大庫裏、回廊、大茶堂は国の重要文化財に指定されている。
利長公の戒名は「瑞龍院殿聖山英賢大居士」であり、寺名「瑞龍寺」はこの戒名に由来すると思われる。
また、受付で偶然お会いした金岡さんというご住職と話している内、私の家は曹洞宗であることを話すと、金岡さんは曹洞宗の滑川の寺院や眼目山・立山寺の住職とも懇意にしていることなど話され急に親しくなり、お陰で寺院内を案内して頂き大変ありがたかった。
いづれにしても、総門、山門、仏殿、法堂を一直線に配列し、左右に禅堂と大庫裏を置き、加えて四周を回廊で結ぶなど、厳粛且つ整然たる七堂伽藍でした。
②高岡市美術館
高岡市美術館創立70周年記念「笑まふ・ほっこりコレクション」が開催されていました。
私が見たかったのは、特別陳列として重要文化財〈勝興寺本・洛中洛外図屏風}{6曲一双}が両隻そろえて展示されている屏風です。実は、「洛中洛外図屏風」は京都の寺院を中心に何点もありますが、二条城の本丸天守閣は勝興寺本のみ描かれているという。他の屏風には描かれていない。つまり本丸天守閣焼失前に描かれたのは、勝興寺本のみであり大変貴重な屏風です。描かれたのは17世紀初頭で、鷹司家から勝興寺に嫁いだ方が持参したという。、往時の庶民生活なども彷彿させる見ごたえある屏風でした。
③高岡市万葉歴史館
元号・令和の制定で万葉集ブームが起きたが、歴史館での企画展は「越中国と万葉集」であった。主な展示品は「越中国印」「越中国府ジオラマ」「越中国守大伴家持の朝服」「難波津木簡」などにグラフィックパネルとして「越中国の歴史」「越中国守大伴家持1・」
「越中国の四季」「前田家と万葉集」などとともに万葉体感エリアとして,大迫力のプロジェクションマッピングによる映像などであった。
興味があったのは、「越中国印」と大伴家持が早月川で詠んだ「立山の 雪し来らしも 延槻の 河の渡り瀬 鐙浸かすも」延槻{はひつき}は早月の語源であり文献上早月が始めて出てきた言葉である。
この歌を「多知夜麻乃 由吉之久良之毛 波比都奇能 河波能和多理瀬 安夫美都加須毛」の万葉仮名にも興味を持った。現存する日本最古の和歌集で20巻4516首からなる。うち大伴家持の収蔵歌は473首で越中在任中の223首もあるという。
中でも、立山連峰を歌ったのは多くある。大伴家持が眺めた立山の山々も、今眺める山々も何ら変わらない。変わったのは、我々の心なのかもしれない。
それにしても、詠み手は天皇や貴族はもちろん、兵士や農民など幅広い階層にわたり、歌われた土地も東北から九州に至るまで日本各地に及ぶという。これが他の歌集と違うところだろう。いづれにしても、1260年余り前にすでに越中という国があり、自治が存在し,以後幾多の歴史を刻み今日がある。その流れに暫し身を委ね、思いを馳せたひと時だった。
④勝興寺
勝興寺は平成10年{1998}から23年の歳月と約70億円の巨費を投じた大修理が去る3月完工し公開された。境内には,殿舎群、堂舎群。伽藍構えとして,唐門、式台門 総門、鼓堂、宝蔵など12棟の国指定重要文化財がある。
パンプレットによれば「勝興寺は浄土真宗本願寺派の寺院で、文明3年{1471}に本願寺八世蓮如が越中国砺波郡に営んだ土山坊を起源とします。戦国期には同郡安養寺{現小矢部市友末}に伽藍を営み、越中一向一揆勢の旗頭として威勢を誇っていましたが、天正9年{1581}に織田方の地元武士により堂宇を焼失され、同じ12年{1584}現在の地に伽藍を再興しました。再興後の勝興寺は、慶長2年{1597}以降、越中国の触頭の地位にあり、江戸時代を通して加賀前田家と密接な関係を保ちながら、広大な伽藍を築き上げました。
境内は、奈良時代の越中国庁跡と推定される所で、万葉集を編纂した大伴家持が国守として5年間在任した。周囲には土塁と空濠を巡らせ、東辺中央に総門を開き、門内の南寄りに唐門,中央に鼓堂、北寄りに式台門を配しています。唐門の後方には本堂、経堂、御霊屋等の堂舎群、式台門の後方には大広間及び式台、台所、書院及び奥書院、御内仏の殿舎群が建ち並んでいます。17世紀から19世紀にかけて建立された建造物が数多く残り、近世真宗大寺院の伽藍の様相を今に伝える貴重な遺産です。」パンフレットより。
特に、京都興正寺から移築された檜皮葺{ひわだぶき}の唐門や城郭を思わせる望楼形式の鼓堂などは一見に値する建造物です。私は、瑞龍寺も工事中の勝興寺も何度か見学したがいずれ劣らぬ壮観な寺院である。呉西には井波の瑞泉寺を含め大伽藍の寺院があるが、呉東地方には少ないように思われる。これも高岡の経済界の並々ならぬ再建への熱意があったことも忘れてはならないと思う。また、呉西には至る所に獅子舞いがあり、曳山車祭があり、高岡の沈金があり、どこか華やかな文化の香りがする。これも加賀100万石の影響か。滑川も加賀領だが10万石の富山が地勢状壁になり、加賀の影響が及ばなかったのか。
これ以上の説明は不要で「百聞は一見に如かず」である。最後に久し振りに雨晴海岸に行った。義経岩より富山湾そして立山連峰、いつ見ても飽きない絶景である。
写真は、パンプレットと越中国印と雨晴海岸より立山連峰を望む。



(2021/04/17)
入学式
春風や 闘志いだきて 丘にたつ 虚子
4月8日、令和3年度富山県立滑川高校入学式が挙行された。
やはり、新型コロナの影響で式場には、保護者と私を含め来賓4名、校長ほか関係職員に在校生は歓迎の言葉を述べた代表者1名だけである。
国歌や校歌はテープで流され一抹の淋しさを禁じ得なかった。
卒業式は別れであるが入学式は出会いである。
多少は華やかな雰囲気があっても良いと思うが時節柄式は淡々と進行、終了した。
今回、特に印象に残ったのは、新入生は普通科2クラス、薬業科、商業科、海洋科各1クラス、1クラス40名合計200名が定員。
しかし、校長先生から入学が許可されたのは189名である。つまり、11名が定員割れですべて職業科である。この原因は何か、やはり、検証する必要があると思う。
もう一つ、1年生を担当する教員13人がステージに上がり紹介された。男性教員4名、女性教員9名である。
学校全体とすれば教員66名中男性教員34名、女性教員32名で約半々であり、たまたま今年の1年生の担当教員の比率がこの様になっただけと思う。世間では、女性の社会への進出と、女性管理職の比率の向上、そして男女平等が叫ばれて久しい。
当然のことである。ただ私の個人的な感覚であるが、ライセンスの取得などのペーパーテストだけなら、男性より女性の方がいいのではないかと思う。
教員全体の比率が1年生と同様だったら、スポーツの部活動の指導は誰がするのか。少し心配になる。
いづれにしても、新入生が3年間で多くの思い出をつくり、かつ、楽しい高校生活を送ってもらいたいと念じ、学校を後にした。
(2021/04/08)
花見
散る桜 残る桜も 散る桜 良寛
4月2日友人と富山市内4箇所のお花見を堪能した。
①常願寺川公園 ②松川 ③呉羽山 ④県立水墨美術館
③から④へ移動中呉羽山山麓、安養坊の富山市薬業資料館を見学。目洗い薬から始まる目薬に関する企画展を学芸員の方の解説を交え、目薬の歴史を学んだ。
さて、4箇所の桜は丁度満開で、それぞれが特色を持ち趣を異にしている。松川では遊覧船が浮かび、呉羽山山頂では遥かに立山連峰を望み、眼下に富山市の街並み、そして快走する北陸新幹線。
水墨美術館では、広大な中庭に樹齢50年以上と思われるたった1本の枝垂れも圧巻だがバックが神通川左岸堤防上の数十本のソメイヨシノと、立山連峰を借景としたパノラマも見事であった。
今年は、例年より早い花見であったが充分満足した。
それにしても、県内にはこれ以外にも沢山の花見場所があるのはうれしいことである。
参考まで、我が家にも小さな裏庭に枝垂れ桜とソメイヨシノがあるが今年は桜花爛漫とはいかなかった。
写真は、我が家の枝垂れ桜とソメイヨシノ

(2021/04/02)
ほたるいか
網しぼり きらめきつくす 蛍烏賊——高島学人
富山湾に春を告げるほたるいか漁も、桜の開花宣言と共に最盛期を迎えてきた。
ご存知の通り、富山湾でのほたるいかの漁獲量が一番多いのは滑川漁港だ。しかも、全国で唯一ほたるいか漁を海上から見学できる海上遊覧があり、且つ、ほたるいかに特化したミュージアムがあることから「ほたるいか」と言えば滑川。滑川と言えば「ほたるいか」の町と言われる由縁である。
「ほたるいか」は他県でも獲れるが、富山湾の漁法は定置網だ。
春先、産卵のため、深海から浮上してくるのを、わずか1.5k~2.0k沖合いの定置網で捕獲する為、鮮度抜群で、刺し身でも美味しく召し上がる。
その「ほたるいか」が1シーズン数回波打ち際に打ち上げられる。その光景も圧巻である。これを多くの人がタモで簡単に掬い上げ、バケツ一杯獲れることもある。これを、「ほたるいか」の身投げという。
本来、身投げとは、陸から水中へ飛び込むことだがこれが逆で、海から陸へ来ることを身投げという。日本語とは面白いものだ。
さて、私は県外の友人に毎年「ほたるいか」を送っている。
今年も、刺し身{生姜付き}、ボイル{辛子酢味噌付き}生ほたるいか{ゆで方説明書添付}の3種類を冷凍便で届けている。今年送った人の中から、先日夜8時ごろ俳優の石原良純さんからお礼の電話があった。
最初に、東京の石原良純です。とおっしゃるので一瞬いたずら電話かと思ったが本人だった。
やはり新型コロナ禍で県外の講演は無し。その為、夜は殆ど自宅に居るそうだ。その日は自宅で「ほたるいか」で舌鼓を打ち酒も少々多く飲んだとか。
そして「ほたるいかの刺し身は都内では滅多に食べれない。とても美味かった。」とのことでした。
また、その後、奥様から丁重な礼状が届いた。
もう一人、京都・清水寺森清範貫主からは、唐の詩人李白の漢詩「山中与幽人対酌」の一節「一杯一杯復一杯」を引用し、李白を偲び、滑川に思いを馳せ「ほたるいか」で杯を重ね、再会を楽しみにしている旨の礼状が届きました。
参考まで、「山中にて幽人と対酌す」――――李白
「両人対酌山花開
一杯一杯復一杯
我酔欲眠卿且去
明朝有意抱琴来]
いよいよ4月1日から5月9日まで「ほたるいか海上遊覧」が始まります。
お問い合わせは下記の通り。
「ほたるいか海上遊覧」☎076-475-9307

(2021/03/23)
春の三館巡り
春風や たまを投げたし 草の原 子規
3月5日、三寒四温の温の日に、春の三館巡りと称し①豪農の館、内山邸、②県立水墨美術館、③竹内源造記念館を知人と共に訪ねてました。
①国登録有形文化財{富山県民会館分館} 豪農の館、内山邸
内山邸は、越中の豪農であった内山家の邸宅、庭園等を、昭和52年8月13代季友{すえとも}氏から富山県へ譲渡されたものです。
富山藩時代の豪農屋敷の特色を残し、美術品、民俗資料等が展示されています。この内山邸の大部分は11代内山年彦によって幕末の慶応4年に建てられたもので、江戸時代の典型的な豪農屋敷の構えと生活様式をとどめています。
座敷、広間等の様式は藩政時代の伝統を受け継ぎ、いろり部屋、にわ{作業小屋}等は、農家としての特色を残しています。
また、明治期12代内山外川{がいせん}によって改装された表座敷や書院の一部は、すべて選び抜かれた材料でつくられ、当時の千石地主の繁栄ぶりが偲ばれ、多種類の庭木・名石等配置された広大な庭園とともに深遠な趣を漂わせています。
さらに、明治期及び清朝末期の書の巨匠たちの作品等も鑑賞できます。歴代の当主は、神通川の氾濫原野の新田開発に基礎をおく自営の大百姓で、富山藩時代には、十村役として地域の勧農、治水にあたり、たびたび富山藩主の来訪も受けました。
明治以降の地主制度のもとで最大の繁栄をむかえ、徳富蘇峰や若槻礼次郎ら文人、政治家も来遊しています。また紀行文や多くの歌を残した七代逸峰{1701-1780}や衆議院議員、富山県教育会等の公職を歴任し、漢詩、茶道を好んだ12代松世{号は外川1860-1945}、さらにアララギ派の歌人で「堅香子」「桜香子」を残した季友氏の夫人量子{かずこ}などすぐれた文人を輩出しています。
(以上、パンプレットより抜粋。)
越後には「越後の豪農の館、」が幾つかありますが、越中にもある豪農の一つです。岩瀬の馬場家、森家と同様、後世に残すべき建物と思う。
庭園内にある数十本の紅梅、白梅も見頃でした。参考まで、入館料、一般200円、70歳以上無料{年齢を証明できるもの必要}
②県立水墨美術館 旅の指南書 水美コレクションでめぐる
普通企画展の場合は、入館料は千円以上ですが、今回は館収蔵展で300円でした。しかし、展示内容は豪華そのもので、横山大観、川合玉堂が数点、竹内栖鳳、石崎光遥菱田春草、棟方志功、富岡鉄斎,高山辰雄、村上華岳、中島千波,岩崎巴人、篁牛人、小林古径等々、また、滑川でも投宿した小松均や小杉放菴など見ごたえのある素晴らしい作品ばかりでした。
③国登録有形文化財・竹内源造記念館
竹内源造は、明治19年射水郡小杉町三ケに生まれました。三ケは、江戸時代後期から、左官業が盛んであり、源造の父も左官業を営んでいました。
源造の父の下、技術の研鑽に励み左官としての腕を磨きながら鏝絵{こてえ}の技術も習得し、生涯をかけて様々な鏝絵を製作し芸術の域まで高めました。鏝絵{こてえ}とは、民家や土蔵の壁、扇、窓などに左官職人が漆喰{しっくい}を材料に鏝{こて}を使って描いた絵のことです。
漆喰は消石灰に貝殻を焼いた灰、砂や、ふのりを混ぜ合わせ、さらに麻や藁を臼{うす}でついた「すさ」を練り込み、粘土状に練ったものです。
源造は、初代帝国ホテルの貴賓室の鏝絵装飾{明治34年}や海外においては大連にあった朝鮮銀行{現・中国工商銀行中山広場支行・大正8年}等、当代を代表する建築の鏝絵を手掛けました。また、地元町役場から、旧家の蔵の装飾、神社に奉納する絵馬に至るまで、幅広い鏝絵作品を数多く残しました。
展示品の中には国内最大級の鏝絵として、砺波市宮森新にあった旧家の蔵にあった明治40年代の全長17.5メートル×幅1メートルの「双龍」が当館に移設されたものや旧小杉町役場二階議場の奉掲揚にあった「鳳凰」{昭和9年}など展示されています。記念館は昭和9年に建てられた旧小杉町役場を平成14年記念館にして、平成26年国登録有形文化財となりリニューアルオープンした。
呉東地区では珍しい鏝絵と共に、記念館の建物も一見の価値はあると思う。入館料・無料いづれにしても、内山邸、水墨美術館、竹内源造記念館、趣の異なる春の三館巡りでした。
写真は、三館のパンフレットと内山邸の梅林。
内山邸、郵便番号・930-2211 富山市宮尾903 ☎076-432-4566
富山県立水墨美術館、郵便番号・930-0877・富山市五福777 ☎076-431-3719
竹内源造記念館 郵便番号 939-0351 射水市戸破2289 ☎0766-55-3288


(2021/03/06)
滑川高校特別講演会
頑なに 富山売薬 春の風邪 片桐久恵
3月4日{木}午前9時50分より10時40分まで薬業課1年生40人を対象に配置薬業の歴史と現状、加えて今回特に力点を置いたのは次の点です。
富山売薬は「先用後利」の商法、つまり用を先に、利を後にするという利他の精神で、薬を配置した時は無料で、次回訪問時に使用している分だけ代金を頂く。こんな商法だから300年続いてきた。よくこんな話をする。それも事実である。
しかし、これは、少し説明不足と思う。
「完全な商人」としての富山売薬商人について話をしました。
完全な商人という言葉は、17世紀のフランスのジャック・サバリーの「完全な商人」の書物に由来する概念です。
サバリーは1622年ドイツの名門の貴族の家に生まれ、パリに出て商業を見習い大商人として活躍し、1670年には、その知識と経験によって商法典の編さんに携わり、それが「サバリー法典」としてまとめられた。
これを、要約すると、商業従事者に商業経営の指針を示す教育的配慮から、商業知識、経営内容、現金管理、帳簿の記帳の重要性、会計的知識、商品学的知識、送金、為替の手続き、それに加えて商人としての修練と教養、使用人の師弟の義務、さらに信用、信頼や協調等について詳細に述べている。
サバリーのこの概念を項目別に示すと次の四っの項目から形成される。
①信用・信頼
商業を営む者あるいは商業に従事する者にとって消費者から、その性格、行動に詐欺や不当な点が抱かれないで、適正に秩序正しく取引が行われること。自らは誠実、質素、倹約を守ること、そして信頼せられ、信用のあることが要請される。
これは富山売薬にとって第一の徳目である。仲間示談書や家訓に強調され、学習と修練と礼儀が要請せられ言葉使いや姿勢、服装などの接遇に気を使い、訪問時期を定着させるなどの細心の注意を払った。
かくて、しばしば得意先より結婚の仲人を頼まれたりするなど、友人関係、親類扱いを受けたりした。訪問には、お土産を忘れない習慣も、このための心づかいであった。
②よい商品
商取引には、商品学の知識が必要である。富山売薬業界では、原料薬の吟味、調合、薬効が重視され、反魂丹役所、仲間示談書においてこれの厳守が申し渡された。特に、中国から輸入された漢方薬を中心とした富山売薬では、薬効それ自身の普遍的な卓越性こそが業界の第一の眼目であった。
現代の薬学においても重視される麝香や牛黄などの漢方薬を採用し、また度々のこの原料薬の調合を改めたことは、全国市場を対象とするのに適したよい商品の取り扱いのためであった。
③市場調査
富山売薬商人が、旅先藩に出かけて行商することは、旅先藩経済の立場からは、貿易上の赤字になり、また藩内の産業保護からも、対策を講じなければならなかった。そこで藩内行商の差留策がしばしば取られた。
そこで入国の防圧事情やその解除対策から、旅先藩内の社寺や御家人を仲介に依頼して、藩内の情報を富山の商人に逐次連絡させていた。
そして何よりも旅先藩の利益第一主義の立場に立って、例えば、薩摩藩には北海道から昆布を船を雇って運び、藩の専売制に寄与するなど、旅先藩の事情を巧みに調査して精緻な貿易政策をたてて、旅先領内の薬の行商を継続させた。
④記帳と計理
富山売薬商人は、行商による配置性を一貫してその特色としている。この預け置きと集金を明細に記帳したのが懸場帳である。
この帳簿を通して、旅先の行商制が消費者に信頼されていくと共に経営の継続機能を果たすのに役立ち、得意先を確保する。売上代金の明細が顕示され、しかも同時に新たに薬を配置する組織である。無店舗経営に抱かれ易い不安は、解消し、物品管理と財務管理が懸場帳を通して巧みに進められる。利益計算マーケティングも可能になる。こうして懸場帳は、やがてそれ自体において、経営継続の財産としての交換価値をもち、のれん価値をもって売買される。
サバリーのいう完全な商人とは四つの項目を充たす者として集約して示されると考えられるが、この四つの項目を富山売薬商人の商業に当てはめると、それは見事に以上のように一致する。
こうして富山売薬商人は、完全な商人であったと規定することができる。彼らが300年の長期間にわたって全国行商を続けてくることができたのは、正にこの点にあったということなのである。
これは、昭和62年3月富山県が発行した「富山県薬業史 通史」より抜粋した文ですが、私はこれを平易に説明し「先用後利」の商法プラスこの様な努力があったからこそ300年も続いて来たことを話しました。生徒の皆さんも社会人、とりわけ商人になったら忘れてはならないことも話しました。
滑川高校では、3月1日同窓会入会式、2日卒業式、4日講演会と3回立て続けに訪問しましたが、やはり母校と同窓会とは表裏一体です。
更なる発展を願い学校を後にしました。

(2021/03/05)
滑川高校卒業証書授与式
春は名のみの 風の寒さや 谷の鶯 歌は思えど・・・早春賦
3月2日、前日の同窓会入会式の天候とは、打って変わって風雨の強い中、午前10時より体育館において、卒業生、在校生代表1名、保護者、来賓が出席し卒業証書授与式{卒業式}が挙行された。当日は、コロナ禍の為、在校生は各教室からのリモート参加でした。
また、昨年歌われた国歌「君が代」「蛍の光」「仰げば尊し」「校歌」はテープで流されましたが、やはり「蛍の光」や「仰げば尊し」は卒業式には欠くことの出来ない曲と私は思う。そして、全員の合唱で卒業式の雰囲気が一層盛り上げてくれるのですが、コロナ禍を考えると今回は止むを得ないと思う。来年は是非生徒の歌声を聞きたいものです。
①在校生代表から卒業生への送辞
代表が部活動や生徒会活動を通して指導を受けた数々の思い出を語り、先輩の築いてきた本校の良き伝統を引き継ぐ決意と感謝の言葉でした。
②卒業生代表から在校生への答辞
3年間の思い出をを一つ一つ丁寧に述べて、在校生、教職員、家族への感謝とお礼の言葉でした。特に、コロナ禍で運動会や文化祭或は各種大会など殆どの行事が中止なった。
それ故、日頃の練習の成果を発揮する機会失ったことの無念さ。その時、親身になって相談に乗ってくれた教職員への感謝など、涙ながらに語っていた姿が印象的だった。
また、在校生には、滑川高校をより発展させてくれるようにとの強い思いと、3年間で培った経験を糧に新たな人生を歩んでいく力強い挨拶でした。
③柳原校長は昨年4月始業式が終わり3年生になった途端コロナ禍で休校になり、殆どの行事が中止になったが、それに代わる行事を生徒が知恵を出し、企画し努力し成功裏に導き,普段味合うことの出来ない思い出を創り出したことへの賛辞と生徒の前途に幸多き事を願う言葉でした。
最後は、生徒会で決めたグループ「嵐」の「カイト」{英語で凧}の曲が流れる中、盛大な拍手に送られて会場を後にし、式を終えました。
いつもこの様な式に出席するたびに思うことは、50数年前、私の卒業当時と、その後の時の流れに思いをはせ自らの年齢を顧みた時、無為に時を過ごして来たことに内心忸怩たる思いをする。若さとは、青春とはやはり羨ましいし、素晴らしい。何故なら2050年、日本は、世界はどんな世の中になっているだろうか。その時、私はこの世にいない。しかし、彼らはまだ50歳前である。そんな事を考えながら学校を後にした。
写真は、柳原校長より卒業証書を受け取る卒業生代表
参考まで、以前も話ましたが、「蛍の光」と「仰げば尊し」の由来を記します。
「一」「蛍の光」
蛍の光窓の雪・・・・の歌詞は古代中国「晋」の学者車胤が貧しくて油が買えないため、蛍を集めてその光で書を読み、同じく孫康が雪明かりで勉強したという故事からとったもので、勉強しょうと思えばどんな環境でもできることを意味し「蛍雪の功」の言葉もそこから生まれた言葉であろう。原曲はスコットランド民謡で、明治14年刊行の「小学唱歌集」に蛍の題名で発表された。作者不詳である。スコットランド民謡を敢えて翻訳しないで「徳性涵養」の教育方針から、道徳的な詩がはめ込まれたという。滑川高校校歌二題目に「思え車胤の青春の・・・」とある。
「二」「仰げば尊し」
明治17年に日本で初めての音楽教材集「小学唱歌集」{三}」に載っている。ところがこの歌の作者については、編集に関係した人たちの誰かだろうと言われているが、判っていない。外国の民謡らしいという説にも根拠がなく、もし日本人の曲であるとしたら当時としては非常に珍しい西洋風の長音階である。戦後の一時期、卒業式にこの歌が歌われることに教師側が抵抗を感じたことがあったが,PTA側が卒業式はこの歌でなければ承知しなかった。映画「二十四の瞳」でこの歌をテーマ曲に使い、多くの人々を感動させたのも、この歌に対する感傷性が大きかったせいではなかろうか
{注}「蛍の光」と「仰げば尊し」は平成4年1月発行、CBSソニーファミリークラブ「心のうた、日本のうた」より
但し、10年ほど前アメリカの曲であることが判明したという。中屋記

(2021/03/03)
滑川高校同窓会入会式
蛍烏賊 掬えばいのち かがやかす 高島学人
富山湾に春を告げるホタルイカ漁が3月1日解禁され、湾内で一番の漁獲量を誇る滑川漁港では、平年並みの127キロが水揚げされた。
豊漁だった昨年初日の365キロは下回ったものの、これからに期待したい。
そんな中、3月1日富山県立滑川高校同窓会入会式が抜けるような空の碧さと、凛とした空気のもと行われた。
これは、どの学校でも同じと思いますが、卒業すると自動的に同窓会に入会となります。それ故、本校の場合は卒業式の前日に毎年行われている。
現在、会員は約3万4千人と県下でも最大規模を誇り、今日までプロ野球ロッテマリーンズの石川渉選手をはじめ、多くの有為な人材を輩出し、各界各層において活躍しておられることは同窓会としても誠に嬉しい限りである。
誰にも生まれ育った故郷があり、青春のひと時を過ごした母校がある。中でも青春の中心的舞台は学校生活であり、多感な高校生活を回顧する時、追憶の中から懐かしい思い出が去来し、哀歓彷彿として思い浮かび、深い友情に結ばれた出会いと別れ、という青春の讃歌が鮮やかに蘇る。
しかし、正直言って新規入会者には同窓会と言ってもピンとこないだろうしと当然だと思う。
でも、いつの日か、「ふるさと」や「母校」は、それぞれの心の拠り所として生涯生き続ける存在になるであろうことや、同窓会の意義など話し理解を求めました。
終わりに、卒業後、社会人となる人、進学する人、道はそれぞれ違っても、洋々たる前途が輝かしい未来であることを祈念して、激励と同窓会入会の歓迎の挨拶としました。
写真は、入会式での挨拶

(2021/03/02)
北部高校薬業科特別講演
富山県立北部高校薬業課2年生40名を対象に2月5日{金}午後2時20分ー3時10分まで50分間「富山のくすり」をテーマに話をしました。
最初に、来年3月をもって北部高校と合併する水橋高校の野球部と北部高校野球部との連合チームで昨年秋の県高校野球大会に出場し、ベスト4に入り北信越大会に出場した。これによって本年3月春の選抜大会の21世紀枠の候補校に選ばれたが、残念ながら落選した。
実は、1969年{昭和44}北部高校は春夏連続で甲子園に出場し、選抜では初戦尼崎西校に0-1で敗れた。
しかし、夏は1回戦で名門東邦高校に6ー4、2回戦飯塚商に4-1で勝ち8強に入った。
もし、今回出場していたら52年ぶりだった。また、当時の監督だった堀田さんが1月お亡くなりになったことなど話をしたが、今の生徒は誰も知らなかった。でも、全校生徒が力を合わせて、スポーツに学問に名声を挙げて欲しいと申しました。
さて、本題に入り、まず生徒たちに売薬の家庭か親戚などに売薬さんがいるかを聞いたところ誰もいなかった。しかし、「富山のくすり」と言えば、の問いに「売薬」さんと答えた生徒が数人いたのにはホッとした。最初に、直近の全国の医薬品総生産額約9兆4859億円、富山県は約6937億円、全国4位の生産額。
また、置き薬の全国の生産額の約50%は富山県であることから「くすり」と言えば「富山」、「富山」と言えば「くすり」と言われる所以を話しました。
主な講演内容は
①富山売薬の歴史—富山売薬発祥の起源とされる「2代藩主・前田正甫公と江戸城腹痛事件」
②他藩への入国が困難な江戸時代に富山売薬は何故商売が可能であったか 特に、薩摩藩と昆布の関係
③幕末、日本三大寺子屋と言われた富山西三番町にあった寺子屋「小西塾」の教育内容
④明治に入り――政府が各種制度を西洋化に図る中、洋薬礼讃・漢方排斥・売薬取り締まり規則や売薬印紙税導入等々苦難の時代をどう乗り切ったか
⑤明治26年富山市の補助金を基に、多くの売薬業者の寄付によって「共立富山薬学校」を設立。明治30年富山市立に移管。明治40年県立に移管され、薬剤師と売薬従事者養成機関としての位置づけを確保していったこと。そして、明治43年県立の専門学校として昇格。日本で初めての県立薬学専門学校となったこと。これが、昭和24年国立富山大学薬学部となり今日に至っていること。ここの卒業生から、現在の{株}日医工の創業者田村四郎氏や(株)リードケミカルの創業者森政雄氏などの起業家がいる。
また、戦前、昭和10年富山市立富山化学工業学校を設立。戦後、富山薬学高校となり、やがて、富山北部高校と合併し現在の富山北部高校薬業科が誕生した歴史にも触れました。
この様な素地があるから今日の「くすりの富山」があることも話しました。また薬局やドラックストアーが普及し、医療機関が整備されている今日でも何故「置き薬」が存在しているのか。
使用しなければ代金の支払いは発生しない。使用した分のみの支払いで、いわゆる「先用後利」用を先に、利益を後にするという売薬独特の商法と同時に
①信用・信頼
②良い商品
③市場調査
④記帳・経理{かけ場帳など}
商人として必要な重要な条件を300年も前から身に着けていたことです。
昨今のコロナ禍、軽い風邪の場合、従来は医者に行っていたが「三密」を避けるためも含め、置き薬を服用している。薬効もあり、改めて「置き薬」の良さを再認識した。との声をあちこちから聞くようになったことも紹介しました。
昨年4月、同高の先輩が配置販売に従事したことも話し一人でも業界に入ってくれることを願い講演を終えました。


(2021/02/09)
春一番
裏庭に ふくらむ今日の 芽吹きかな
昨年末からお正月にかけ、また、1月8日から11日にかけて、次いで1月末まで断続的に降り続いた雪は積雪1メートルを超えていたが、我が家ではすっかり融けてほとんど無くなった。
さて、二十四節気は太陽の動きを基に、1年を24等分し、約15日おきに季節の目安に表したという。日照時間が最も長い「夏至」と最も短い「冬至」で2分し、昼と夜の時間が同じになる「春分」と「秋分」で2分。その間に「「立春」「立夏」「立秋」「立冬」が入り、さらに3等分して季節を表す節気の名がつけられている。
二十四節気をさらに3等分したのが「七十二候」。「気候」という言葉は二十四節気の「気」と七十二候の「候」から生まれている。
この他にも、季節を表すものとして「五節供」として-ー七草の節供 桃の節供 端午の節供 七夕ー笹の節供 重陽の節供など、中国から伝わったもののほかに、日本には独自の「雑節」がある。
「節分」「彼岸」八十八夜」「土用」「二百十日」などがあり、これらが昔から人々が季節の移り変わりの目安にして、衣食住に季節を取り入れ心豊かな生活の糧にしていたと思う。
さて、立春は「暦の上では春」と言われますが、正直言って「早春賦」ではないが春は名のみのである。
しかし、我が家の小さな裏庭に「フキノトウ」が芽吹き出した。実は、10数年前秋田市仁井田から「ふき」数株を譲り受け移植したものである。「ふき」は横に根が張ってゆき、今ではかなりの株数になっている。
民謡「秋田音頭」の歌詞に、「秋田来たなら、雨が降ってもから傘などいらぬ、手頃のふきの葉そろりとさして、さっさと出て行かん」とある。大きくなると人の背丈ほどにもなるし葉も直経1メートルは優にある。
食用には不向きであるが5-6本と言っても圧巻である。専ら我が家では鑑賞用で移植当時は多少肥料もやっていたが、近年、肥料をやらずにいたら,段々小さくなってきている。それでも、普通のふきよりもかなり大きい。
それにしても驚くのは、雪が消えるのを待っていたかのように地上に顔を出す。やはり雪ノ下、地中といえども春が訪づれているのだろう。
これも、近年肥料も与えないのに可憐な花を毎年咲かす白梅の盆栽がある。今冬の豪雪の中、中庭の軒先の下に置いていあるだけなのにである。その生命力の強さと、自然の力に驚かざるを得ない。
しかし、その自然が地球温暖化によって狂い始めているという。人間あって自然があるのではなく、大自然の中に人間が生かされていることを忘れてはならないと思う。
まだ、2月初めとは言え、我が家に春一番が訪れた。
参考に、万葉集全4516首の中で梅{白梅}に関する歌は119首、桜{山桜}は37首、桃は7首で、圧倒的に梅が多い。
梅は庭木や盆栽として人間の身近な存在に対し桜は山桜のためと思われる。
写真は、中庭の白梅の盆栽と裏庭の「フキノトウ」


(2021/02/08)
映画「大コメ騒動」
寒天へ おのが刃を研ぐ 剱岳 (高島学人)
私の町内にあった高島医院の医師、故、高島学{号・学人}氏の句である。
俳句に素人の私が論評するのも僭越ですが、厳冬期の人をも寄せ付けぬ厳しさと、雄々しさ、加えて美しさを見事に表現している私の好きな句の一つです。
さて、昨年4月、映画「三島由紀夫VS東大全共闘」以来久し振りに映画「大コメ騒動」を鑑賞した。
昨年4月の映画館は一切入館制限はなかった。しかし、今回は、マスク着用・手指消毒、検温、座席を空ける「ソーシャル・ディスタンス」や館内での飲食は禁止。まさに様変わりした。時節柄やむを得ないことと思う。
映画「大コメ騒動」は大正7年7月~8月にかけて魚津・水橋・滑川で発生した米騒動にスポットをあて映画化されたエンターテインメントである。
監督が富山県出身の本木克英氏、出演者に室井滋・柴田理恵・立川志の輔・西村まさ彦・左時枝など県ゆかりの方々が多数出演することでも話題を呼んだ作品であった。
私とすれば、3年前、米騒動発生100年に際し滑川市で企画展やシンポジュウムが開催されたこともあり、どの様に描かれているか、など興味があり鑑賞した。ただ、NHK大河ドラマ同様史実に基づいて制作されてはいるが、内容が、すべて真実かといえば、そこはやはりエンターテインメントと理解して鑑賞すべきと思う。
そこで、映画と事実との違いについて幾つか記す。
①滑川の米騒動にはリーダーはいなかった。
映画では、井上真央扮する「松浦いと」や、おかか達のリーダーのおばば役「清」を演ずる室井滋が登場するが、実際はリーダーはいなかった。
米騒動100年の折企画されたシンポジュウムや座談会や投稿などを纏めて2018年12月北日本新聞社から発刊された「米騒動・100年」の中でも藤野裕子氏は滑川の米騒動を次のように記している。
「8月5日漁師町に住む主婦約50人が口火を切った。米肥商宅などに米の安売り{廉売}や県外積み出し{移出}停止を哀願して回るうちに、男性の野次馬も加わり300人ほどの集団となると、新興の米肥商宅に行き着き、路上に土下座、正座して哀願したという。
6日になると、事態は大きく動きだす。日中から汽船への移出阻止。町役場への嘆願行動があり、また前日に起きた東水橋町の人々も滑川町へなだれ込んできた。夜になると前日の新興米肥商宅や米肥会社支配人宅へ最大で2千人ともされる人々が押し掛け、怒号や罵声を放った。7日も同様に米肥商宅押し寄せた。そして、10日から廉売が始まることもあり滑川の米騒動は8日をもって収束した。」
等様々な資料をみるが何れもリーダーらしき人物はいない。
普通「騒動」「デモ」「暴動」「騒乱」「争議」「革命」と言われるものは必ずといっていいほどリーダーつまり首謀者がいる。
しかし、米騒動に関してはいなかったと思う。
つまり、自然発生的に起こった女性の小さなグループの集団が雪だるま式に膨れ上がって、結果的に2千人規模に達したのではなかろうか。
後日、証言者として「川村イト」なる人物がいるがこれとてリーダーでない。井上真央扮する「松浦いと」はこれを真似たものと思う。
特筆すべきは、この騒動は、哀願運動のようなもので、暴動や略奪ではなかつたことである。
②米騒動は「女一揆」ではなかった。
当時の高岡新報{現・北日本新聞}や全国紙を含めほとんどの新聞は「女軍米屋にせまる」、「滑川の女一揆」或は、「富山県の女一揆」などと報じていた。また、米騒動に関する証言や資料を見ても女性がほとんどである。
以前私は、素朴な疑問としてその時男たちは歴史の傍観者であったのか。或は売薬さんたちは、県外に出張中で滑川に居なかったのか。と思っていた。
しかし、企画展やシンポジュウムを聞いて理解できた。8月6日に県内最大規模の騒ぎにまで発展した様子を富山県から内務省への報告文書がある。
「婦女子僅少{約100名}ナルニ反し中産階級{羽織ヲ着スル者、巻煙草をヲ喫スル者等}、又は智識階級{学生風、会社員風等}ノ者頗る{すこぶる}多く所謂{いわゆる}細民又ハ窮民ト目スへキ者少ナカリシハ変調ヲ来シタリト認ムへキ特色ナリト信ス」
つまり男も多数参加しているのであるが、当時、社会問題化していた中流層の生活難というものが、米騒動拡大に影響を与えていたのだろう。
では何故「女性一揆」などと言われるようになったのか。
又、中流層の男も多数参加しているのに何故新聞は報道しなかったのか。
やはり、私は、当時のマスコミの報道の影響だと思う。
事実、米騒動の5年後、大正12年{1922}8月12日付「北陸タイムス」は次のような記事を掲載した。
「所詮米騒動なるものがあって、今年で5年たった。米騒動と言えば滑川の女、滑川の女と言えば米騒動、両者は茲に離るることの出来ない腐り縁の業縁につながれた」5年経ってもこの様な報道である。
全くけしからんと思うが、残念ながらこの様な報道がまかり通ってしまったことによって、米騒動=滑川の女というイメージが定着したような気がする。
滑川市博物館学芸員の近藤浩二氏は米騒動の要員として「大正7年7月、政府がシベリア出兵の方針を固めると、投機目的の商人たちが米を買い占めたため、米価が急激に高騰。滑川町では年初に日本米{内地米}1升が25銭前後だったが、夏には40銭前後まで上昇した。
漁獲物の少ないこの時期、1日の稼ぎが50銭にも満たなかったという証言もある。
このような要因が重なり、漁師の主婦たちが米騒動の口火を切ったという。」たぶん要因はこれだと私も思う。
しかし、米騒動は以前からあった。明治23年1月18日富山市役所へ約200名が押し掛けている。これが全国19か所に拡大し、特に新潟県佐渡相川町で鉱山工夫2千人が騒動を起こし、鎮圧に軍隊が出動した記録もある。
明治30年や45年にも大規模な米騒動が発生している。
さて、私は、この映画に決してケチをつけるものではない。
あくまで「エンターテインメント」としての映画であるが出来れば一人でも多くの方々がこの映画を鑑賞し、米騒動が発生した社会的背景、庶民の生活、行政や政治の対応、米騒動が社会に与えた影響等に興味をもってもらえる機会になれば良いと思う。
写真は市内堀江地内より眺めた快晴の剱岳、{1月20日} 大コメ騒動のパンフレット


(2021/02/01)
馬場家・森家を訪ねて
降り積もる 深雪に耐えて色褪せぬ 松ぞ雄々しき 人も斯くあれ
(昭和21年1月 歌会始めにて 昭和天皇御製)
1月16日から一般公開された富山市東岩瀬町の馬場家を見学した。その折馬場家の隣の森家、それに県民会館美術館でやはり16日から開催された特別展「ミイラ」を鑑賞した。
今回は、馬場家について記す。パンフレットによれば、「当住宅は、明治6年{1873}の大火の後、以前の部材を用いて建てられたと考えられています。東岩瀬町の中でも最大規模の住宅です。敷地内には主屋のほかに三階建ての前蔵・壱番蔵・弐番蔵。二千石の広大な米蔵。西門及び西塀が現存し、廻船業が盛んであった当時の面影が残っています。
岩瀬が生んだ海の豪商==道正屋・馬場家
馬場家は、江戸後期から活躍した北前船主・廻船問屋の家です。屋号は「道正屋{どうしょうや}で、道正村{現・富山市道正}より移り住んだことに由来します。
当家は19世紀前半、7代当主久兵衛の頃より、北前船交易を活発に行い、隆盛の礎を築きました。明治中期、8代当主道久のとき、北前船から汽船経営に舵を切り、明治36年{1903}には馬場合資会社を設立。近代的な海運業者へと成長しました。
また、他分野においても、銀行の設立など富山の産業振興に貢献しました。当家は「岩瀬五大家」の筆頭に挙げられ、北陸の「五大北前船主」のひとつにも数えられています。
富山の教育を発展させた馬場はる
馬場はるは、下新川郡泊町{現在の朝日町}の旧家、小沢家の生まれです。15歳のとき、8代当主道久の息子、大次郎{のちの9代当主道久}の妻となりました。
大正8年{1919},夫が亡くなり、当時33歳だったはるは若くして一家を支える立場となりました。
はるは、馬場家を守ると同時に、先代の遺志を継ぎ、社会貢献も積極的に行いました。なかでも特筆すべきなのが、旧制富山高等学校{現在の富山大学人文学部・理学部}設立のための寄附でした。寄附金は総額で160万円{現在の10~20億円程度}にも及びました。
このほかにラフカディオ・ハーン{小泉八雲}旧蔵書も同校へ寄附しており、現在も「へルン文庫」{富山大学附属図書館内}として広く活用されています。
高校は大正13年{1924}に開校され、翌年現在の富山市蓮町に新校舎が完成しました。跡地は現在馬場記念公園となっています。
廃校となる昭和25年{1950}までの卒業生は約3300名で、様々な分野において活躍する優秀な人材を多く輩出しました。
以上パンフレットより抜粋。
馬場はる{1886~1971}は15歳で嫁入りし、33歳で夫に別れ、女手一つで経営者として、また、家庭にあっては母としての苦労は筆舌しがたいものであったと思う。その苦労が報われ、昭和36年{1961}富山市名誉市民に推戴され、昭和46年{1971}85歳で天寿を全うされた。
馬場家は平成26年{2014}富山市に寄附され、内部調査が行われ、その後改修工事を終え今回の公開になった。
尚、平成28年8月国の登録有形文化財となっています。いずれにしても私があれこれ説明するよりも「百聞は一見に如かず」北前船全盛期の廻船問屋馬場家は隣りの森家と共に一見の値はあると思う。
馬場家の庭園の雪の中の松の木を眺めていると、ふと、冒頭の昭和天皇の一首を思いだした。

(2021/01/23)
2021世界に羽ばたく薬都とやま大会
1月8日{金}午後2時30分より標記の大会が主催・{一社}富山県薬業連合会・中井敏郎会長により、パレブラン高志会館で開催されました。
当日は、新型コロナ感染症対策としての「三密」に加えて、大雪の為、例年より参加者は少なかったが、今回初めてオンラインで40人の視聴もありました。
第一部はカルチャーホールで中井会長は「富山の医薬品生産額は全国トップクラス。技術力の向上や産官学の連帯で1兆円産業を目指したい」と挨拶されました。
次いで、薬事功労者表彰として、県知事表彰3名、薬連会長表彰8名の表彰があり、知事表彰を受賞された平野良一氏が代表し謝辞があり、知事代理の石黒雄一県厚生部長の祝辞で第一部を閉会。
第二部として、製薬企業を対象に「富山大学薬学部が目指す方向について」・「富山県医薬品産業との連携と支援に向けた改革を」と題し、国立大学法人・富山大学薬学部長・酒井秀紀氏が講演。
別会場で、配置従事者を対象として、「特定商取引法と留意すべき事例」と題し、富山県弁護士会・志田祐義氏の講演がありました。
私は、配置の方に出席しましたが、身近なテーマであり一同熱心に聞き入っていました。
大会に出席するたび、今日富山県の医薬品総生産額が全国トップクラスになったのも、やはり「富山のくすり」の原点は「置き薬」即ち売薬にあることを改めて思いました。
余談ですが、8日午後5時30分頃富山から滑川の自宅へ向かう途中交通渋滞に巻き込まれ帰宅したのが、9日午前0時15分、実に7時間弱を要しました。
9日の新聞は配達されず10日の新聞によれば、8日午後から9日終日県内交通網マヒと大きく報じられていた。
中でも、記事によれば最大の「難所」となったのは、常願寺川河口「今川橋」では車一台分しか通行スペースがなく,凸凹の路面で車が立ち往生、9日午前2時ごろに徐雪車が来て対面通行が可能になった。
会社員の話では「1時間に2m程しか進まない場所もあったと報じていた。実は、この道路を私も走行していた。浜黒崎付近で「今川橋」まであと200m程まで5時間。ここで1時間立ち往生。
「今川橋」を目前にして午後11時30分遂にしびれを切らしUターンを決意。結局、旧8号線に戻り一部迂回しながら帰宅したのが前述した9日に入っていた。
結果的には8号バイパスを走れば遅れはあったもののもっと早く帰宅していたと思われる。裏道を走ったことが裏目に出た。
しかし、東海・北陸自動車道・小矢部/砺波ー福光間での200台以上の立ち往生や北陸自動車道・福井県内での1100台以上の立ち往生、昨年12月半ばの関越自動車道などと比較すると、まだ良いとしなければならないと思う。それにしても貴重な体験をした。
参考まで、富山気象台が観測を始めて富山市で100㎝を超える積雪を記録したのは15回。
昭和15年{1940}208cm、38豪雪/昭和38年{1963}186㎝、56豪雪/昭和56年{1981}160㎝、昭和61年[1986}130cm以来1月10日の126cmは35年ぶりの100㎝を超えたという。
38豪雪は私にも記憶がある。屋根から降ろした雪は道路上に積もり、その上を歩いていて、家によっては2階から出入りしているのを見たことを思い出す。
この頃はダンプカーやショベルカーなどの除雪機械は殆ど無くやむを得なかったのだろう。当然北陸線は数日間にわたりマヒ状態。
私の記憶ではこの時県の災害派遣要請を受け、自衛隊が出動した。災害の少ない富山県では今回がこの時以来の自衛隊出動ではないかと思う。
いづれにしても、記録的な大雪である。
写真はカルチャーホールでの中井会長挨拶と配置従事者を対象の講演。


(2021/01/10)
新年薬神神社歳旦祭
1月8日{金}午前9時より恒例の新年薬神神社歳旦祭{主催・石倉雅俊奉賛会会長}が執り行われました。
当日は昨年末から新年にかけての第一波の寒気に次いで7日午後から降り出した雪は一級の寒気団として列島の日本海側を襲った。
そんな悪天候の中でも関係者約20名が集まり横川宮司の下、厳粛な中にも滞りなく行われました。
悪天候の為、社務所の中から薬神神社に向かって宮司の祝詞奏上、次いで玉串奉奠が石倉会長、顧問の私、吉田前会長、石政市薬業会会長、中屋市薬業青年部長、市内製薬会社、薬業関係者、来賓の石川副市長、竹原市議会副議長、大門県議会議員、砂原市商工会議所中小企業相談所長、蜷川加積雪島神社総代等が順次行い、商売繁盛と新型コロナウイルス感染症の一日も早い終息を祈願しました。
引き続き、石倉会長は挨拶の中で、まず配置従事者が新型コロナウイルス感染症にかからないように注意すること。
その上で、「三密」により医者への受診機会が減少し、「置き薬」が再認識されている。
ピンチをチャンスに変える機会であると力説し、会員の一層の奮起と努力を要請されました。
次いで来賓から年頭の挨拶と共に激励の言葉がありました。
尚、今回も感染症防止策として、マスク着用や「三密」対策を講じて行われ「直会」も中止されました。
写真は玉串奉奠と雪に埋もれた薬神神社


(2021/01/09)
「辛」「丑」「六白金星」の年
新しき 年の始めの初春の 今日降る雪の いやしけ吉事 (大伴家持)
令和2年{2020}は既に地平線下に沈み令和3年{2021}の陽は昇りました。
特に、今年のお正月は2015年以来の雪となりました。
古来より「白」は目出度い色と言われ、今日でも結婚式の新婦のウエイディングドレスは白であり、祝い事に着用するネクタイも白である。
万葉の歌人家持は、お正月に降る雪は、前年の様々な塵を洗い流してこの白銀の世界に新しい年の夢をグランドデザインする雪と捉えたのかもしれません。
私も、家持同様に考えたいと思います。
さて、今年の干支は「辛」「丑」{かのとのうし}で六白金星です。
ご存知の通り、干支は十二支の「子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥」に動物の名前が当てられているが、これは庶民にわかりやすくする為、後付けされたと言われる。
これに、十干の「甲、乙、丙、丁、戊、己、,庚、辛、壬、葵」の組み合わせがその年の干支であり、「辛」「丑」を含めて60年に1度しか来ない。「辛」は辛抱であり辛辣に通じ、「丑」は糸を加えると紐になり引き締めるの意味がある。
つまり、コロナ禍の現状は暫くは続き辛抱しなければならないが、やがてそれらを紐で縛り、六白金星は刷新の星とも言われるので、新しい世界に向かって思考する年のような気がする。
「当たるも八卦・当たらぬも八卦」です。
参考に60年前は1961年{昭和36年}岸内閣の後、池田勇人内閣により所得倍増計画から、高度経済成長期へとスタートした年です。
また、120年前の1901年{明治34年}は20世紀へ踏み出した年です。
今年はどんな年になるだろうか
元旦や 知らぬ月日は 美しく (汀女)
写真は、我が家の小さな門松

(2021/01/01)
干支「丑」
コロナで明け コロナで暮れる一年間 家族の絆、再確認
令和2年1月半ば 日本で初めて新型コロナウイルス感染症者が確認され約1年、未だ収束の気配も見えず年末を迎えた。
1月世界中がこれ程混乱に陥るとは、正直私は想像もしなかった。
そんな中、12月に入り、今年の漢字一字は大方の予想通り「密」でした。
一文字のベスト10の内、上位5位までがいずれも新型コロナ関連だったのを見ても、いかに国民の関心が高かったかがわかる。
そして、12月14日、京都清水寺の新調なった「ヒノキ舞台」で恒例の森清範貫主によって揮毫されました。
その後、森貫主も「密」を予想していた。的中したのは阪神タイガースがリーグ優勝した03年の「虎」だけで、2度目と笑い、今年の一字「密」は、感染リスクが高まる「密閉」「密集」など負のイメージが広がった字だが、「親しい」などの意味もある。
森貫主は「コロナ禍だからこそ、心のつながりの大切さを知る大切な一字」と語っている。
その森貫主から、来年の干支「丑」の色紙が送られてきて、「牛歩千里」と揮毫してありました。
「うさぎ」と「かめ」の寓話では有りませんが、私にとって、新しい年、一年は、急がず、焦らず、一喜一憂せず、一歩一歩前進するそんな年にしたいと思っている。
写真は、森貫主の色紙と「密」を揮毫する森貫主{北日本新聞より}


(2020/12/20)
「はやぶさ2」
宇宙航空研究開発機構{JAXA}の探査機「はやぶさ2」が投下した小惑星「りゅうぐう」の石や砂が入っているとみられるカプセルが12月6日未明大気圏に突入し、オーストラリア南部ウーメラ近くの砂漠に計画通り着地し回収され、最終目的地、日本のJAXA相模原キャンパスに搬入された。
天体に関しては、素人の私のようなものでも驚くことが沢山ある。
①打ち上げから約6年間、2195日、52億4千キロ正に気の遠くなるような時間を飛行。
②りゅうぐうは、直径約900m
③初代はやぶさに続き、今回は2度も着地させた。
④遠く離れた宇宙いる「はやぶさ2」に精密な制御技術で着地点の誤差は僅か60㎝である。
⑤残りの燃料は半分以上あり、引き続き100億キロ先の直径30mと「りゅうぐう」より遥かに小さい小惑星探査に向けて11年の歳月をかけた旅に出た。その技術力。
⑥地球に帰還した着地点もほぼ計画通り。
正に、驚くことばかりであるが、専門家が見れば、もっと凄いことが沢山あるだろうと思う。私も、6日未明テレビに釘付けになって見ていたが、新聞記事によれば、「はやぶさ2」から分離されたカプセルは、秒速12キロの猛スピードで高度120キロの大気圏に突入。大気と激しく反応して火球のように発光する。
その光跡を地上にあるカメラで観測して飛行位置を特定し落下地点を推測するという。
それにしても、カプセルは3千度の高温や、着地の激しい衝撃にも耐える材質は?或はパラシュートは?など私には知りたいことが沢山ある。
また、宇宙飛行士野口聡一さんが滞在中の「国際宇宙ステーション」から探査機を見たとツイッターで投稿し「地球に向けて高度をグングン下げてくる光を約5分見つめました」としている。
JAXAの開発責任者が「私たちは、玉手箱を舞い下ろすことが出来た」と発言された。感無量だったと思う。これによって、太陽系の成り立ちや生命の起源に迫る情報が得られる可能性があるという。
ワクワクする様な話であり、実に楽しみである。日本の技術の高さを改めて世界に示した快挙である。反面、アリババやグーグルそしてファーウエイなどの分野の企業が日本では育っていないのではないだろうか。
いづれにしても、玉手箱から、未来に花咲く種子が沢山あることを願うばかりです。
写真は、大気圏に突入し落下するカプセル テレビ画像より


(2020/12/08)
国際宇宙ステーション
宇宙航空研究開発機構{JAXA}の野口聡一飛行士が搭乗する米スペースXの新型宇宙船クルードラゴンが約27時間半に及ぶ旅を終え11月17日未明、無事国際宇宙ステーションにドッキングした。
野口さんは、ステーションに半年間滞在中、私には難しくてよくわからないが、人工多能性幹細胞{IPS細胞}から立体的な肝臓作製を試みる世界初の実験に挑むという。
それにしても、凄いと思うのは、民間事業であること。日本では北海道で何回も民間が打ち上げに挑戦するが失敗の連続でありさすが米国である。
さて、この国際宇宙ステーションが11月21日午後5時33分~39分南西の方角から日本上空を通過するとテレビが報道した。
しかも、富山県上空である。私は、上市川河口付近でその時を待った。
幸い西の方に少し雲があったが、それ以外は月と僅かな星が光る中、発表通りの時刻に南西の方角から肉眼でもはっきりと見える輝きを放ち現れた。
約6分の天体ショーであった。凡人故に感心するのは、発表の時刻もコースも実に正確なことである。コンピューター「富岳」の凄さに驚くが、科学の進歩にも驚かざるを得ない。
また、JAXAは11月20日宇宙飛行士の若田光一さんが2022年頃、古川聡さんが2023年頃それぞれ、国際宇宙ステーションに長期滞在すると発表した。
若田さんは1996年、米スペースシャトルで初飛行。2000年、2009年、2013年の打ち上げなどで宇宙に滞在したほかステーションの船長も務めたベテランである。
その若田さんにお会いしたのが東京帝国ホテルで、ある人の結婚式に出席した時です。
その折、若田さんに滑川での講演を依頼した。周囲には、若田さんは殆ど日本に居ないのだから無理だろうと言われた。しかし、東京丸ノ内のJAXAへ数回訪問した結果、2005年8月21日実現した。
当日は、市内2校ある滑川、早月両中学校の生徒約千名を対象に滑川市民大ホールで「国際宇宙ステーション建設に参加して」と題し90分講演して頂き多くの生徒が感動した。
質問コーナーでは、食事は?トイレは?など誰もが聞きたいような素朴な質問が多く出て興味深かった。
また、講演で特に印象に残ったのは、「宇宙飛行士はいつも危険と隣り合わせ。2003年には「コロンビア号」が帰還途中空中分解し大切な7人の命を失った。それでも宇宙に行くのは、得られるものがリスク以上のものだから」や「宇宙で研究することは人類の財産になる。
例えば、カーナビ、天気予報などは、宇宙の技術があって成り立つこと」そして、最後に「目標を持ち、いろんなことに挑戦して欲しい。
今、努力したことは必ず役に立つ」と中学生に語り掛けられた姿は今も鮮明に覚えている。
写真は、当日のパンフレット。講演中の若田さん。酒を酌み交わす若田さんとともに。


(2020/11/23)
長岡すみ子の会・民謡・唄と踊りの祭典・日本海紀行
11月8日{日}午後1時より富山市婦中ふれあい会館で、民謡歌手、長岡すみ子の会主催による標記の祭典が開かれました。この様な祭典は、今回が8年目ですが実質は43回目。再来年は45回目の節目となり、その長さに驚きました。
また、今回の開催に際し、検温、手指消毒は勿論、会場内のソーシャルディスタンスや「三密」などの対策に細心の注意が払われていました。
出演者は民謡教室の生徒さん達の練習の成果の発表の機会でもありますが、ゲストとして、北海道釧路おわら同好会{会員30名」会長・豊橋眞成氏の越中おわら節が唄と踊りで披露されました。氏は釧路駅前で歯科医院を経営する歯科医とのことでした。長岡さんの人脈の太さを感じます。
また、踊りは「華の会」、と尺八は福井から平林火山氏、琴演奏は桂博子さん、特に、尺八と琴のコラボレーションは懐かしのメロディーとして、蘇州夜曲、北上夜曲、青い山脈、鈴懸けの小径,古城など演奏がありましたが、とても良かったです。
出演者の年齢も小学生から80歳代までと幅広く、かつ唄あり、踊りありと多彩な内容でした。
中でも今回は、長岡さんの教室の生徒さんである中村澪さん、優さん姉妹です。
妹の優さんが10月東京で行われた国内最高峰の民謡大会「日本民謡協会杯コンクール」で「布施谷節」を歌い優勝されました。
姉の澪さんも、昨年同大会で同曲を歌い、準優勝に輝いています。姉妹にとって忘れられない大切な曲です。
また、姉の澪さんは、2010年魚津市で開かれたNHKのど自慢で同曲を歌いチャンピオンになったり、妹の優さんは2013年「越中おわら節」全国大会で、翌年「麦屋節」全国大会で、それぞれ一般の部で優勝。
昨年は民謡民舞全国大会で内閣総理大臣賞を受賞するなど、今や民謡界の実力姉妹として全国で注目を集めているそうです。
それにしても、優勝曲などが富山県の民謡であることが嬉しいです。姉、澪さんは「秋田小原節」を妹、澪さんは日本一になった「布施谷節」を、二人で「江差追分」と「越中おわら節」を熱唱されました。さすがプロ級の歌声にうっとりしました。
実は、この姉妹、長岡さんと共に数年前、私の家で歌ってもらったことがあります。
帰り際に、二人にこの時の話をしたところ、ちゃんと覚えていて、また遊びに来たいと言ってくれました。
いづれにしても、コロナ禍で練習も十分できない中、多くの困難を乗り越え、祭典を成功裡に導かれた関係者のご苦労に敬意を表し、長岡さんの後継者育成の努力が着々と実っていることを知人の一人として嬉しく思いました。
写真は、祭典のパンプレット。江差追分を歌う左、姉、澪さんと右、妹、優さん。


(2020/11/09)
称名滝
富山県の人気スポットの一つである称名滝を晩秋の11月6日{金}知人と訪ねた。
それにしても日本語は美しい。
文部省唱歌に紅葉{もみじ・明治44年}作詞・高野辰之・作曲・岡野貞一がある。
「秋の夕日に 照る山もみじ 濃いも薄いも 数ある中で
松を色どる 楓や蔦は 山のふもとの裾模様」
正に、一幅の絵を連想する。こんな美しい言葉を、他国語ではどう表現するするのだろうか。
やはり、日本語に勝る美意識を表す言語はないと思う。
さて、当日は薄曇りであったが最初に現れたのは、称名川左岸の色彩豊かな巨大な断崖「悪城{あくしろ}の壁」が盛りを少し過ぎてはいたが紅葉に染まっていた。10万年にわたり、水が岩を削ってできた絶壁は、高さ約500m、長さ約2㎞。せり立つ灰色の岩肌に、赤色や黄色の木々が彩りを添えていた。駐車場より徒歩約12分程で八郎坂へ向かう「ひりゅう橋」がある。
その袂に、私の前回のブログで書いた川合玉堂の歌碑がある。
「初雪の、高嶺を裂きてみ空より,もみぢの中に落つる大滝」(昭和11年晩秋)
実は、この前日彼は当時の中新川郡浜和積村曲淵{現,滑川市曲渕}赤間徳寿[元・衆議院議員、初代・滑川市長}宅に投宿し、翌朝「時雨さす 加積の里に一夜寝て 今朝立山に仰ぐ初雪」と詠み、称名滝へ向かったという。{歌碑は赤間邸の中庭にあり}
さて、滝壷の橋から眺める男性的で雄大な瀑布の称名滝と女性的なハンノキ滝の左右のV字型がまた良かった。紅葉は終わりに近づいていたが、滝しぶきを浴びながら暫し見とれていた。平日だったこともあり県外ナンバーの車は殆ど見なかったし、観光客も思ったよりも少なかった。
昼食は近くの山菜料理専門店で舌鼓みを打ち、帰路上市町の曹洞宗の名刹眼目山立山寺に立ち寄り、立山寺第42世住職・戸田光隆方丈としばし歓談し帰宅した。
「称名滝」
立山連峰を源流とする滝で、4段の落差からなる。
上から1段目70m・2段目58m・3段目96m・4段目126m、計350mは日本一の落差。
滝壷で標高1065m、直径約60m水深約6m。国の天然記念物に指定されている。
特に、雪解け水の多い春には水量が増えて迫力満点である。
ハンノキ滝――雪解け水や雨の多い時だけ称名滝の右側に現れる滝。見られる時期が限られている為、幻の滝とも言われその為、正式に滝には認定されていないという。
落ち口は称名滝より高く、落差500mは季節によっては日本一と呼ばれる。
写真は、玉堂の歌碑と称名滝とハンノキ滝


(2020/11/07)