なかや一博 ブログ

三 国 志

8月9日東京国立博物館・平成館で開催されている特別展「三国志」を拝観しました。
今から、約1800年前、漢が衰退した2~3世紀にかけて「魏・蜀・呉」三カ国が覇権を争い、劉備・曹操・諸葛孔明・関羽・朱然など各地の有力武将が次々と歴史の表舞台へと躍り出て、あまたの英雄が活躍した時代であり、特に、「赤壁の戦い」などは有名である。
そして、我々はゲームや小説、映画などでも繰り返し描かれる三国志を日本人は殊の外好んだ。

取り分け、今回の企画展の目玉は河南省安陽市で、2008年から発掘調査が始まった巨大な墓が2009年魏の礎を築いた三国志の英雄、曹操{155~220}を葬った墓だと判明した。
その墓から「魏・武・王」の石牌{せきはい}を始め、曹操高陵からの多くの出土品が展示されたことでした。
圧巻は、今回の会場には、曹操が葬られた曹操高陵の墓室が原寸大で再現されるなど、こだわりも十分に感じられました。また、「三国志演義」では、蜀の武将・関羽を捕らえたとされる、呉の将軍・朱然{182~249}の墓からの出土品も展示してありました。
それにしても、1800年前と言えば、日本は弥生時代から古墳時代で、有名な「魏志倭人伝」に出てくる、倭の国王「卑弥呼」そして「邪馬台国」が論じられる時代です。

こう考えると、中国悠久の歴史の重みを感ぜずにはおれません
そして、日本ではいまだに、呉服の呉の由来であったり、滝廉太郎の「箱根八里」の歌詞の中にも,蜀の桟道数ならず、とあるように有形無形に影響を受けている。
私にとって、従来、書物の世界であった「三国志」がリアルな「三国志」として、質、量とも存分に味合うことができました。

尚、当日午後、この度、公益財団法人全日本弓道連盟の役員改選に伴い、3名の一人として監事に就任しました。その理事会が、明治神宮公園内の全日本弓道連盟中央道場{代々木神園町1-1}開催され出席した折、拝観したものです。

写真は、平成館前と明治神宮「至誠館」弓道場

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(2019/08/10)

仁和寺

7月7日、1度行ってみたいと思っていた世界遺産、京都・御室仁和寺を訪ねました。
今回は、国宝・金堂、重文・観音堂、重文・経蔵が特別公開されていました。ご存知の通り仁和寺は初の門跡寺院{皇族や公家が出家して寺主となる寺}で幕末まで続き、以降、真言宗御室派総本山となりました。

第59代宇多天皇の仁和4年{888}に完成。後に寺号も元号から仁和寺となったという。
応仁の乱でほとんどが焼失。その際に、院家であった真光院が、本尊の阿弥陀三尊像をはじめ、経典や書物などを保護。
正保3年{1646}に伽藍の再建が完了するまで、本坊としての役割を担ったといわれています。
特に、国宝・金堂は慶長年間造営の御所の紫宸殿を移築したもので、現存最古の紫宸殿の遺構で、桃山時代の宮殿建築を伝える貴重な建物です。現在の御所紫宸殿は確か、幕末安政2年頃の建物です。

また、重文・観音堂は延長6年{928}頃に造営され、江戸時代初期{1640}頃再建された。
この建物は、重要な儀式が行われる修行の場で、通常は非公開です。約6年にわたる半解体修理がこのほど完了したことから、初公開されたものです。この他にも,御殿や五重塔や桜の季節には、樹高の低い「御室桜」がつくる風景は、江戸時代後期に刊行された京都のガイドブック「都名所図会」でも紹介され、都の庶民からも親しまれて来たという。
いづれにしても、見所満載充実した半日でした。

写真は、国宝・金堂前と重文・五重塔前にて

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(2019/07/07)

第52回関西滑川会

7月6日{土}恒例の関西滑川会{会長・千先久矩氏}総会・懇親会が多数のご参加のもと盛会裏に開催されました。
当日は、令和特別記念として、昭和女子大学理事長・総長・坂東眞理子氏による「70歳のたしなみ」と題し講演会が総会に先立ち約1時間ありました。
坂東さんは立山町出身・雄山中学から富山中部高校へ、片やご主人は滑川出身で滑川中学から富山中部高校へ、たまたま二人は同級生、そして二人は東京大学へ進学、卒業後、同郷、同級生、そんな縁も一つの理由だったのか、二人はご結婚なさいました。そんなことから滑川市とも縁があり、また、私とも多少の縁があります。

平成19年昭和女子大学学長に就任の祝賀会が東京帝国ホテルで開催された時、私もお祝いの言葉を述べさせて頂きました。
著書「女性の品格」が330万部のベストセラーになった時も、滑川市に多額のご寄付も頂き、お礼の感謝状を持って学長室を訪問したこともありました。そんなことから何度か食事もともにしましたが、当日再会すると,何んで私がここにいるのか?一瞬驚いた表情でしたが、理由が分かると直ぐに笑顔になり会話が弾みました。

講演内容は、大変良いお話でした。既に「70歳のたしなみ」として出版されていますので書店でお求めください。
それにしても、現在は理事長と総長ですから大したもんです。講演会後、総会・懇親会と続きましたが1年ぶりの再会であり、故郷滑川の話や友人・知人の消息などが話題の中心でしたが、言葉の端端に、故郷の発展を願っておられることを、改めて感じました。

特に、感心したのは私事で恐縮ですが、2月17日私の叙勲祝賀会の様子をパネル等々で紹介するブースが設けてあったり、近畿富山県人会副会長・山本孝則さんが相撲甚句を唄われました。その歌詞を私の叙勲を祝う歌詞として唄って下さったり、多分、千先会長のご配慮と思いますが、その気配りに感激しました。
相撲甚句あり、民謡あり、神輿を担いで会場を練り歩くなど、アッと言う間の3時間でした。
最後に、関西滑川会と滑川市のエールを交換し別れを惜しみ散会しました。

写真は、講演する昭和女子大学・理事長・総長坂東眞理子氏と挨拶する私

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(2019/07/06)

森政雄氏・お別れの会

故・森政雄氏を偲ぶ「お別れの会」が6月17日{月}午前11時より午後1時まで、富山市大手町ANAクラウンプラザホテルで開かれました。
氏は去る5月6日肺炎の為88歳でお亡くなりになりました。氏は昭和5年富山市生まれで、富山大学薬学部に進学し、前・富山県知事・中沖豊氏の父中沖太七郎教授の生理学教室で学び、昭和28年卒業。民間企業勤務の後、昭和44年6月富山市日俣にリードケミカル株式会社を創設。社名には化学をリードしていく、伸びていくという、氏の思いが込められているという。

創業から平成28年まで社長を、以後、今日まで会長を務めておられました。特に、皮膚に貼り付けて薬の有効成分を体内に浸透させる「経皮吸収」の消炎鎮痛剤を国内に定着させるとともに、海外展開も推し進め、近年では平成18年「ロキソニンパップ」の製造販売承認を取得するなど、同社を屈指の新薬メーカーに育てられました。

また、平成16年より10年間富山県薬業連合会会長として、県薬業界全体の発展に意を注ぎ、「富山の医薬品を1兆円産業に」を掲げ「薬都とやま」の礎を築かれました。
氏の同級生に、日医工の創業者、故、田村四郎氏や1年先輩には長年県薬剤師会会長を務められた石坂久夫氏或いは、県職員として、その後、県薬業連合会専務理事として薬業界発展に尽力された清水昭治氏など、昭和1桁の年代には、有為な人材が数多くおられます。会場には同社の50年の歩みや、故人の横顔を紹介する展示コーナーもありました。

氏の座右の銘は「吾道臺以貫之」わがみち、いっをもって、これをつらぬく、と、ありました。氏は平成25年旭日双光章叙勲の栄に浴され、平成28年森記念秋水美術館を開館しておられます。

私も、生前お世話になった一人として、在りし日の故人を偲び、献花してきました。

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(2019/06/19)

清水寺・貫主森 清範先生、文化講演会

濃く 淡く 若葉の奥も 若葉かな

6月2日{日}午後3時半より西地区コミュニティーセンターで森・貫主をお迎えしての市民文化講演会{主催・音羽の会会長・中屋一博}が開催されました。
今回で24回目。いつも申し上げますが、24回も連続して、途切れることなく続いているのは滑川市だけであり本当に有難いことです。

今回は、清水寺学芸員・坂井輝久氏が民話「孝徳泉」について調査の為、来滑し、了安、安正、親子が背負っていたと言う行基菩薩御彫刻「阿弥陀尊像」が何故、廣際寺{田中町5-1}に現在でも本尊として奉られているのか?などお寺を訪ねられ、宮永龍一ご住職より「廣際寺縁起」や昭和61年滑川市教育委員会発行の「滑川の昔ばなし」。大正2年発行の「滑川町誌」。
平成14年開山550年記念法要時の資料等々の説明を受けられたあと、質疑応答が行われました。それにしても、清水寺には専属の学芸員がおられるとは驚きです。

さて、講演に入り、最初に清水寺、執事補大西英玄さんから約20分程前講があり、次いで森貫主より「気こそ、力なり」と題し気力の気、気分の気などの例を出しながらの話や、元号「令和」の由来や国宝・本堂屋根の檜皮ふきを改修中の話などユーモアを交え1時間を超えるご講演がありました。会場を埋めた300名を超す多くの方々から、とても良かった。来年も是非との声があちこちから寄せられました。

次いで、厚生連滑川病院中庭に場所を移して、毎年のことながら、了安の供養塔前で森貫主と大西執事補により読経があげられました。この様な機会を通じて清水寺と本市とのご縁が一人でも多くの方々に理解して頂ければ幸いと思います。

写真は、廣際寺に安置されている「行基菩薩ご彫刻、阿弥陀菩薩尊像」。
ご講演の森、貫主。挨拶する私。厚生連滑川病院中庭での読経。

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(2019/06/03)

琵琶演奏会

塵にまみれし街路樹に いと麗しき 小雨降りけり

5月、連日の暑さの中、5月31日久し振りに雨が降りました。
さて、6月1日{土}午後1時30分より、錦心流琵琶一水会富山支部{後援会・会長中屋一博}の演奏会が国登録文化財・旧宮崎酒造で開催されました。当日の演奏曲目は、本能寺、新選組、耳なし芳一、白虎隊、巴御前、屋島の誉れの6曲に加え、詩吟の皆さんの賛助出演もあり、内容のある演奏会でした。

琵琶は古代ペルシャの楽器バルバットが起源と言われ、7世紀に日本に伝わりました。以前、奈良で国宝正倉院展を見学しましたが、聖武天皇愛用の螺鈿を散りばめた琵琶が展示してありました。
琵琶の魅力は「音色。魂に訴えかけるような響き」だと思います。また、平家物語の伴奏として使われていたことでも分かるように、鎮魂の楽器として知られています。
それ故、現代の若者にはいまいちなのかもしれません。しかし、日本の良き伝統芸能の一つとして、後世に残してゆくべきものと思います。

写真は、挨拶する私と演奏する富山支部会長の杉本 操さん。

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(2019/06/01)

第62回東京滑川会総会

第62回東京滑川会{会長・上田芳夫氏}総会は、5月25日{土}午前11時より大手町サンケイ・プラザで盛大に開催されました。天候は、5月とすれば全国的に30℃を超す真夏日が続き、特に、北海道佐呂間町で39,5℃の猛暑日を観測したのは26日でした。これは、5月では全国の観測史上最高の記録だそうです。やはり、地球温暖化現象でしょうか。

さて、この25日は真夏日の暑さに加え、トランプ米国大統領来日の為、都心は厳戒態勢で東京駅構内のコインロッカーもすべて施錠されていました。

総会は、会長挨拶に続き議事を滞りなく終え、この後、ミニ講演会として「これで良いのか日本――食から勿体ないを考える」と題し、関西滑川会会長千先久矩氏の時局にあった良い話がありました。会長の上田氏、千先氏とは私と同級生であり、滑川高校の同窓生でもあります。さて、今年の話題はやはり故・山田禎一、郁子ご夫妻のことでした。

郁子さんは前・東京滑川会会長であり、東京富山県人会女性部長でした。禎一先生は滑川市名誉市民、調布市名誉市民、東京都名誉都民に推挙され、東京富山県人会副会長、多摩県人会会長などを務められ、県人会発展に多大な尽力をされました。郁子さんは昨年3月、禎一先生は今年1月それぞれ90歳前後でお亡くなりになりました。

特に、山田先生には平成元年社会福祉法人「周山会」を立ち上げられ、県内初の老人保健施設「なごみ苑」を開設。平成8年には、富山医療福祉専門学校を設立。引き続き,市立「あずま保育所」を私立「あずまほいくえん」として引き受けて頂きました。また、郁子さんは滑川高校の前身である滑川女学校出身のご縁で創立100周年記念にはご夫妻から多額のご寄付を頂きました。この様に本市発展に大きなお力添えを頂いたことに改めて感謝と御礼申し上げ、心からご冥福をお祈りいたします。
懇親会に入り、不肖私に挨拶と共に乾杯の指名がありました。

私は、山田ご夫妻がふるさと滑川をこよなく愛し、ふるさと滑川の発展を願っておられたその「思い」を上田会長がしっかりと受け止められ、「東京滑川会」の更なる発展とご出席各位のご多幸を祈念して盃をあげました。懇親会も盛り上がり、会員による新川古代神踊りや越中おわら節などふるさとを思い出させる踊りや歌が披露されました。

終わりに、「滑川市の歌」と「故郷」を全員で合唱した後、滑川市議会議長原明氏と東京滑川会・石川隆氏によるエールの交換があり、別れを惜しみつつ次回の再会を約し散会しました。100名に近い出席者でしたが、いつも滑川市の発展を願っておられる人々が、こんなに多くおられることは本当に有難いことです。

その後、同級生と場所を変えてしばし歓談し別れた後、高崎駅で群馬県副知事荻澤滋氏{元・富山県総務部長}と会い痛飲し、最終の新幹線で帰りました。

5月19日―25日まで実に多忙な日々を過ごしました。

写真は、乾杯の姿と荻澤副知事。

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(2019/05/26)

第12回文科省ナカヤ会

5月24日{金}午後7時、東京富山県赤坂会館で開催されました。
これは、文科省から滑川市に約3週間程研修生として来ていた人々が本省へ帰任後、縁あって文科省ナカヤ会を結成し、私が上京の折、懇親会を開催してきました。

第1期生を受け入れたのが平成15年度からで今日まで続いています。勿論、私の時代以降の方々もその趣旨に賛同し参加されています。受け入れ時の年齢は25-26歳ですが、その後、彼らは32歳前後で都道府県の社会教育課長や国立大学の総務課長などに出向したり、或いは40歳前後である県の教育庁次長を2年間務め去る3月末本省へ戻りそれなりの立場になっているなど多士多才な方々ばかりです。

その彼らが研修生として本市に来ていた時、我が家で歓迎会を開催したり、居酒屋や朝キス釣りに連れて行ったり、本省へ戻った後も、ほたるいかマラソン参加に6名もが来滑し、我が家で痛飲したことなど思い出を語り、その時のご恩は忘れていないとして、今回、昨年秋の私の叙勲のお祝いとして、13名の心のこもったお祝いの寄せ書きと素敵なネクタイをプレゼントされました。

私でさえ、忘れている思い出を語りビックリしました。贈り物は金額の多寡でなく、彼らの誠意に感激しました。21世紀の文部行政の一翼は間違いなく彼らが担っていくであろうし大いに期待したいと思います。

しかし、昨今、官僚の不祥事が相次いでいます。私は、彼らに、かって遣隋使或いは遣唐使として身命を賭して数ヶ月に渡り荒海を乗り越えて大陸を目指した。そして、大陸に上陸しても数ヶ月を要しやっと西安にたどり着いた。何故、彼らはそこまでして大陸を目指したのか?荒海で遭難する者。志半ばで異国の地で亡くなった者など、祖国日本に戻れたのは僅かであったという。唐の学僧、鑑真和上は逆に、戒律や天台数学等をもたらす為、何度も遭難を繰り返し、暴風、失明などの苦難を乗り越えて日本に来たことを思うといかに大変なことであったかがわかると思います。

遣隋使や遣唐使はその危険を顧みず、日本発展のために、新たな知識、宗教、文化などを吸収し持ち帰りました。これが、官僚の矜持であることを、釈迦に説法と思いつつ、人生のささやかな先輩として話しました。いづれにしても、彼らの今後の活躍に期待したいと思います。

写真は、記念品を持って当日の出席者の皆さんと一緒に。

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(2019/05/25)

加積雪島神社

加積雪島神社恒例の春季例大祭は毎年5月21日~23日に開催されます。特に宵祭りに行われるのが獅子舞いです。
滑川の獅子は現在、獅子頭が保存されているところは、加島町2区、3区、蓑輪、寺家の4町内だけです。この内、獅子舞いが行われているところは、加島町2区と3区だけです。
蓑輪は昭和54年を最後に休止している。櫟原神社にも獅子頭があったことが記録されているが、神の露払いとして祭礼の行列に参加していたことから、おそらく行道獅子{舞わない獅子}であったと見られます。

さて、加島町の獅子舞いは,起源は明らかでないが、古老の話では明治年間に能登通いの帆前船によって伝えられたといいます。
高岡市牧野方面の獅子舞いに似ています。射水系の獅子舞いの流れを汲むといいます。
獅子は加島町2区、3区で各一頭ずつ有しています。現在は毎年交代で、加積雪島神社に舞を奉納しています。昭和20年代後半までは、二頭揃って奉納していたといわれています。
今年は2区の番であった。2区は女{雌}獅子で優雅な舞いを、3区は男{雄}獅子で勇壮な舞いを披露します。2区で現在使われている獅子頭は、黒塗り、毛髪は茶黒毛混じり、角は金塗り渦巻きで、彫刻家は井波町の横山一夢氏が昭和25年制作したもの。

2区と3区では舞いに多少の違いがあります。ただ、他の市町村の獅子舞いとの大きな違いは加島町が演目数が10種類以上と多いことと、ノッタ、ノッタという踊りがあることです。
この踊りは、2人の幼児が獅子に乗り1人は左手を腰に、右手の刀を頭上に上げて左右に振る。他の1人は左手を腰に、右手に傘を持ち、頭上高く上げて傘をぐるぐる回す踊りです。
この踊りは、加積雪島神社を含め3カ所の神社への入退場の時だけです。幼児が一番張り切るのはやはり地元の田中小学校前庭で全校生徒を前に全種目を披露します。友達や先生方から大きな声援や拍手を受ける時と、夜、8時ころ出発地の加積雪島神社、に戻り、拝殿前で多数の観客を前にして全種目を演じる時です。踊り子は、幼児と小学6年生までで、男14名女8名計22名の参加者でした。
今年も、怪我や事故もなく全員元気で終れたことは何よりでした。

いづれにしても、市内に残る2ヶ所の伝統芸能である獅子舞いが末永く、伝承、継承されていくことを願うものです。
「伝承無きところ、モラルなし」

{注}伝承、加島町史より一部引用

写真は、横山一夢作の獅子頭。ノッタ、ノッタの踊り。保護者を含め参加者の集合写真。

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(2019/05/22)

{一社}秋配協総会

第9回{一社}秋田県医薬品配置協会総会は5月20日{月}秋田市山王4丁目「ルポール・みずほ苑」にて開催されました。
やはり、以前にも述べましたが秋田へは、富山発6時19分で、大宮―盛岡経由、秋田新幹線でも秋田着は午後1時ごろです。やむを得ず前日の19日に日本海側を北上して行きましたが、あいの風鉄道で滑川発7時7分、泊駅でえちごトキめき鉄道に乗り換え、直江津駅でJRに乗り換え、長岡駅で乗り換え、新潟駅でやっと秋田行き特急「いなほ」に乗り換え、秋田着が16時過ぎです。
実に、4回も乗り換えです。9時間余りの長旅でしたが読書の時間でもありました。
東京へは随分と便利になりましたが、その分、新潟、秋田方面は本当に不便になりました。

さて、総会の来賓には、秋田県健康福祉部医務薬事課長・伊藤淳一氏、秋田県議会議員・北林康司氏と私の3人でした。
それぞれの立場で祝辞があり、私も一言お話をしましたが、全てのが議事が終了後、約40分ほどまた話をしました。業界の諸問題と共に秋の消費税導入時に実施される軽減税率への対応などです。

結論は、どんな業種であろう共、どんな人生を歩もう共、「変化への対応」これがキ-・ワードであると申し上げたあと質疑応答を交わしました。
その後、懇親会に出席し、ざっくばらんに会話をして意義ある機会でした。翌、21日帰宅しました。

写真は、来賓で挨拶する私。右は、鈴木課長、その隣は北林県議会議員。

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(2019/05/21)

日本海開き

咲き満ちて こぼるる花も なかりけり  虚子

恒例の滑川高校海洋科による日本海開きが5月7日午後1時より上市川河口高月海岸で行われました。これは、かっての水産高校時代の1951年{昭和26年}から始まり、それが海洋高校、そして現在の滑川高校へと引き継がれてきている伝統行事の一つです。今回は再編統合から数えて第8回ですが、通算69回目です。

当日は、1-3年生120名が参加しました。目的は海洋高校の伝統を継承し、滑川高校の生徒のはつらつとした若さと旺盛な心意気で、海に挑む海洋精神と粘り強い意気の高揚を図る。とあります。
天候は晴れ、微風、気温18度、海水温度14.5度、まずまずの天候でした。最初に学年ごとに円陣を組み、気合を入れてピストルを合図に3年生が飛び込み、25m先の消波ブロックまで泳いだり、波打ち際で水を掛け合ったりしていました。
この間、太鼓を打ち鳴らし生徒の士気を鼓舞します。3年生が岸に上がった後、2年生、1年生と繰り返し、最後に全員による遊泳で終わります。海水温度14.5度と記しましたが、消波ブロックより沖は17度程だそうです。波打ち際は上市川の真水が入り込むため低いそうです。

それにしても「日本海開き」とは少々大袈裟に聞こえますが、それ位の気概を持つように、とのことだと思います。現在、県内の高校で水産関係の学科があるのは滑川高校と氷見高校の2校だけで、この様な行事があるのは本校だけです。伝統行事として、今後とも引き継がれていってほしいものです。

写真は太鼓打つ私と、右はピストルを打つ柳原校長

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(2019/05/08)

万葉集とその未来

5月4日、富山国際会議場で元号「令和」の考案者と言われている古志の文学館館長で万葉研究の第一人者である中西進先生の「万葉集とその未来」と題して特別講演会がありました。
最初に県より電話を頂いた時、留守にしていたので先生から県に電話をかけた。ひょっとしたら給料を上げてもらえるのかと思い喜んで電話をしたが講演依頼のお話で少しがっかりした。と、ユ―モアたっぷりの話しぶりに会場は笑いに包まれました。

当初、県からの要望は「万葉集と元号」であったが先生の考えで表記の演題にしたとのこと。そして、令和の「和」は聖徳太子が定めたとされる17条憲法第1条の「和を以て貴しとなす」に由来していることを説明されました。
「令」はご令嬢、ご令息、ご令室などを引用し「秩序を持った美しさが『令』。単なる平和ではなく一段と麗しき平和を重ねていくのが我々の宿命」と語られました。
翌日の新聞で知りましたが特別講演会には内外から1140人の応募があり、抽選で選ばれた630人と招待者を合わせた800人が参加したとのこと。さすが、時の人の講演会であり、とても良かったです。

また、帰途、県民会館で開催中の「日展」を鑑賞しました。隅から隅まで見ていると多少疲れましたが見応えのある大作ばかりでした。以前は芸術と言えば「秋」でしたが、県立水墨美術館や近代美術館をはじめとして県内各地に美術館があり、今では年中芸術に触れる機会があることはとても良いことだと思います。

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(2019/05/04)

全日本弓道大会

5月2日―3日第70回全日本弓道大会が、京都市勧業館「みやこ・めっせ」で開催されました。
その折、不肖、私が表彰の栄に浴し夫婦で出席しました。全日本弓道連盟会長、中野秀也・八段範士より賀詞を頂きました。{写真}
表彰終了後、富山県弓道連盟会長・岡本仁・七段教士と共に記念撮影{写真}その後、中野会長の矢渡し{写真・会の姿}を見せて頂きました全日本弓道連盟会長の矢渡しを見る機会は中々ありません。

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(2019/05/03)

即 位

京都産業大学ギャラリーで「即位」に関する大学所蔵資料展を見学してきました。
元号が平成から令和になった日であり多くの人で賑わっているかと思いきや、意外や意外、わずか数人でした。
企画展の場所が場所だけに、また、そんなにPRもされていなかったためと思われます。

内容は、202年ぶりに退位された第119代光格天皇前後桜町天皇などが、京都御所紫宸殿での即位の儀式が詳細な絵図面等で展示してありました。
また、京都迎賓館の調査で見っかった昭和饗宴殿の遺構に関する資料や、それを建設した当時の大林組の写真集など興味深い資料ばかりでした。

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(2019/05/01)

新 選 組

5月1日観光客でごった返す京都へ行きました。さすが、京都です。あふれんばかりの外国人観光客。
コインロッカーは空を探すのに苦労。名所、旧蹟やレストランに入るのに待ち時間が2時間位は当たり前。普段でも観光客で賑わう京都であることを考えると、ゴールデンウイークの真っ只中を思うとやむを得ないのかもしれませんがこの時期には2度と行くべきでないと思いました。しかし、意外にも観光客が少なかったのは、新撰組壬生屯所遺蹟でした。

①八木邸 ②前川邸 ③壬生寺

①八木邸は新撰組が結成された家です。
八木家{写真}は壬生村きっての旧家で長屋門は今から約200年程前の文化元年{1804}、主屋は文化6年の造営です。八木家奥座敷は新撰組三大内部抗争の一つ、芹沢鴨暗殺の場で時は文久3年9月18日どしゃ降りの深夜、泥酔した芹沢鴨、平山五郎ら4人が惨殺されました。
現存する刀傷の一部{写真}がその凄惨さを物語っています。また、深手を負いながらも隣の部屋に逃げようとした芹沢鴨が「文机」につまずき、ここで、とどめを刺された「文机」が当時のまま置かれていました。
隊の規律違反を度々お越した厄介者だったとは言え、隊士によって暗殺され、しかも、その場所が屯所であり、奉行所へは犯人は長州藩士だと届け、葬儀は盛大に行い、近藤勇が弔辞を読んだという。
ガイドの話では、新選組の手によって殺された隊士の数が、暗殺された勤王の志士達の数を上回っていたというから驚きです。
夫婦で写したのは八木邸前です。

②前川邸{写真}は、八木邸だけでは手狭になった為、新たに屯所に使われた家です。
この家で芹沢派といわれた隊士・野口健司が切腹したり、総長・山南敬助が脱走の罪で同じく切腹した所でもあります。
また、新撰組に捕縛された古高俊太郎が土方歳三に取り調べられ、尋問、拷問の末ついに自白し「池田屋事件」が起きた。それが前川邸であった。現在は、玄関入口付近で新撰組に関するお土産が販売されています。
尚、内部は住居として使用されており非公開でした。
いづれにしても、壬生から西本願寺、不動堂村、更には伏見へと隊の膨張と時勢の変転につれて屯所は移ってゆきました。

③壬生寺 壬生狂言でも有名なこの寺も新撰組と縁のある所です。境内には新撰組局長・近藤勇の胸像と遺髪塔があり、暗殺された芹沢鴨と平山五郎の墓や「池田屋事件」で亡くなった隊士三名を含む七名の合祀墓などがあります。毎年7月16日の「池田屋事件」の日に新撰組隊士等慰霊供養祭が行われている。

いづれにしても、「池田屋事件」など新撰組の最盛期を迎えましたが、壬生に生まれ、足かけ3年の新撰組と幕末動乱の京に思いをはせました。

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(2019/05/01)

世の中に 絶えて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし
(古今和歌集 在原業平)

清少納言は「春はあけぼの」と書きました。夜明けの空を赤々と紅色が染め上げるように春は冬の名残りを追い払ってしまいました。
「曙(あけぼの)、朧(おぼろ)、霞(かすみ)」4月の言葉は日本的美意識で迫り私は好きです。

さて、我が家の小さい裏庭に樹齢20年程の染井吉野と枝垂れ桜があります。
今年は花弁の数が少なく桜花爛漫とはいかなかったけれど、7日{日}好天の下、花見を楽しみました。
「花の下の半日の客 月の前の一夜の友 めぐる盃、桜の下で客と接し友と語る」まさに花咲き、鳥歌い、野が山が海が躍動する季節。それが4月だと思います。

ところで、飛鳥や奈良時代から平安時代くらいまでは、花見と言えば「梅」だったそうです。それが桜に変わったのは、「梅」の花見は旧暦1月。寒さが厳しく、「桜」になったと言う説がありますが、信疑の程は私には分かりません。
万葉集全4516首の内、桜に関する歌は47首、梅は約120首です。桜は自生している「山桜」であり、「梅」は宅地内にあり、桜より身近な存在だったのでしょう。
また、「梅」は盆栽にもあるように香りや木{ぼく}の美しさを愛でるのに対し「桜」は、桜花爛漫のような風景を眺め楽しむとの違いがあると思います。

4月1日「大化」(645年)}から数えて248番目の元号が「令和」と発表されました。
出典は従来の中国の古典ではなく、国書{日本古典}である「万葉集」から採用され、確認出来る限り初めてという。
これは、天平2年{730}旧暦の正月13日太宰府の大伴旅人{大伴家持の父}家で梅見をしながらの宴会で詠まれた32首の和歌の前に置かれた漢文の序文「初春令月、気淑風和」から「令和」の2文字が取られたという。約120首の「梅」の歌のうち32首がこの時の歌というから驚きです。

我が家の染井吉野も天候不順が幸いして例年より長持ちしていますが、今日11日から散り始めました。いづれにしても、日本人にとって「桜」を抜きにして春は語れないのかもしれません。

写真は、4月10日の我が家の染井吉野です。

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(2019/04/11)

大平山濤作品展

2月13日から3月24日まで滑川市立博物館で開催されていた大平山濤先生作品展を鑑賞してきました。会場入口のパネルには次のように記してありました。

ごあいさつ
故・大平山濤先生は、書一筋に生涯をかけられ、日本の書壇において「近代史文書」の分野を隆盛に導くなど多大な足跡を残されました。平成14年には文化功労者として顕彰を受けられ、平成19年9月に91歳で他界されました。
先生は、師金子鷗亭先生とともに、漢字とひらがなを組み合わせた近現代の文体を、美術としての書道にまで高める表現を続けて来られました。また、長年にわたって多くの展覧会において受賞されるとともに、書道団体において数々の要職を務められ、多くの書家の育成に尽力されました。
滑川市においても、先生が主宰された抱山社をはじめ、創玄書道会、毎日書道会などを通して、直接、間接に指導され、多くの書家を輩出されました。このような関わりから、本市へ41点の作品が寄贈されています。本展では、本市への寄贈作品の中から一部を展示します。古典研究等の基礎の上に立ちながらも、内面からあふれ出すような表現力豊かな作品を制作されましたが、特に故郷富山の峻厳かつ美しい大自然を高らかに詠いあげた作品など、大平山濤先生の書道芸術の世界をごゆっくりご鑑賞ください。            
(滑川市立博物館)

実は、私自身幼稚園時代と小学2年生まで計4年間僅かな期間ですが滑川市田中町西光寺で私の姉と一緒に直接習っていました。姉は社会人になっても指導を受けていましたが、残念ながら私はその後疎遠になっていました。その後ご縁があって、文化功労者顕彰祝賀会に出席させて頂だいたり、市制50周年記念事業の一環として開催した先生の師・金子鷗亭展の開会式にご出席頂いたことや、生前、東京中野の私邸を訪問するなど公私にわたりご指導を賜りました。
また、朝日町で執り行われた葬儀や東京でのお別れの会にも参列しました。そんなことから、平成20年、先生の作品が41点滑川市に寄贈を受けた時も、これに、深く関わった一人として先生への思いが強いものがあります。温和で物静かな語り口で、いつも優しく接して頂いたことが今でも脳裏に焼き付いています。

平成19年91歳で亡くなられましたが、もう少し長生きしておられたら、金子先生同様文化勲章受章の栄によくされていたと思うと誠に残念なことです。
いづれにしても、久しぶりに先生の大作16点を鑑賞しながら、在りし日の先生を偲びました。

写真は、作品展会場と東京中野先生自宅で息子匡昭さんと共に(平成16年6月9日)

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(2019/03/25)

滑川高校薬業科特別講演

3月12日{火}午前9時50分―10時40分までの50分間、富山県立滑川高校薬業科一年生及び二年生計80名に「とやまの薬」について話をしました。これは、後継者育成事業の一環として製造側と配置側が1年交替で担当し、今回は1月23日富山北部高校薬業科に次いで配置側が担当して行ったものです。

最初に、直近の全国の医薬品の生産額約6兆6千億円、このうち富山県の生産額約6千200億円で2年連続日本一。また、置きぐすりの全国の生産額の約50パーセントが富山県での生産額であることを説明し、だから、「くすり」と言えば、「富山」、「富山」と言えば「くすり」、と言われる所以を話ました。こんなことから薬業科が1クラス増設されることも決定しています。

本題に入り
① 富山売薬の歴史――富山売薬発祥の起源とされる「2代藩主・前田正甫公と江戸城腹痛事件」 備前の医師・万代常閑と「反魂丹」・富山城下の薬種商・松井屋源右衛門 諸国への行商を広めた八重崎屋源六。
②他藩への入国が困難な江戸時代に富山売薬は何故受け入れられたか。特に、薩摩藩と昆布の関係
③幕末、日本三大寺小屋と言われた富山西3番町にあった寺小屋「小西塾」の教育内容
④明治に入り――漢方薬排斥・西洋薬礼賛。売薬取り締まり規則や売薬印紙税の導入など苦難の時代。
⑤明治26年富山市の補助金を基に多くの売薬業者の寄付によって「共立富山薬学校」の設立。明治30年富山市立へ移管し「富山市立富山薬学校」となり、明治40年県立に移管され、薬剤師と売薬行商人養成機関としての位置づけを確保していったこと。そして、明治43年県立の専門学校として昇格。日本で初めての薬学専門学校となったこと。これが、昭和24年富山大学薬学部となり今日に至っていること。この間、昭和10年滑川町立薬学校が設立。滑川高校薬業科と富山北部高校薬業科の歴史。
⑥明治以降の富山県に薬業人が金融機関や電力会社などを設立し近代化や産業の発展に尽力した功績。

これらのことを説明し、この素地があるから今日の「くすりの富山」があることを話ました。また、薬局やドラックストアが普及し、医療機関も整備されている今日でも何故「置きくすり」が存在するのか?などには、「置きくすり」は家の中にあって24時間営業、必要な時にいつでも使える。
しかも、使用しなければ代金は発生しない。使用した分のみの支払いで、いわゆる「先用後利」用を先に利を後にするという売薬独特の商法があることが大きな理由であろうと話しました。と、同時に17世紀のフランスのジャック・サバリ-の「完全な商人」の題名の書物に①信用・信頼性 ②良い商品 ③市場調査 ④記帳と経理{例えば、かけ場帳}の重要性を述べています。

まさに、この商人として必要な4条件。300年も前から身に着いていたことです。祥細は紙面の関係上割愛させて頂きますが、いづれにしても、真面目にやれば、これほど良い商売はない。特に、女性は人当たりがよく配置販売に向いていることを話ました。
また、富山北部高校薬業科の生徒一人ですが4月に配置薬業に就職する人がいることも話ました。

滑川高校は私の母校であり、同窓会長も務めていることもあり、ついつい熱が入り予定の時間を少しオーバーしましたが無事終えました。

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(2019/03/13)

高木繁雄氏叙勲祝賀会

昨年秋の叙勲で旭日中綬章の栄に浴された北陸銀行特別参与{元・頭取}現・富山県商工会議所連合会会長・富山商工会議所会頭の高木繁雄氏叙勲祝賀会が3月2日{土}午前11時より、富山市の富山第一ホテル3階天平の間で開かれ、約280名が功績を讃えました。
私も知人の一人として声を掛けて頂き出席しました。

最初に、発起人の庵栄伸北銀頭取が高木氏の人柄、経営者としての先見性を含めた手腕、文化・芸術に寄せる熱き思いと地域の発展など数々の功績をお話になりました。来賓祝辞に移り、石井隆一知事、宮腰光寛特命担当大臣、西原政雄全国地方銀行協会副会長兼専務理事の3人からあり、次いで、孫娘さんから高木ご夫妻に花束が贈呈されました。

ここで、高木さんが「身に余る光栄、皆さんにお世話になり、お一人お一人に感謝申し上げたい」と謝辞。次に、綿貫民輔元・衆議院議長、橘慶一郎復興副大臣、野上浩太郎官房副長官、吉田忠裕YKK取締役、前田利祐成巽閣理事長、犬島伸一郎元・北陸銀行頭取、麦野英順北陸銀行会長等々のメンバー約40人が5個の樽を鏡割りし、お祝いムードを盛り上げました。森雅志富山市長の発声で乾杯。歌手のtomomiさんが歌を披露。河上弥一郎富山商議所副会頭が中締めの挨拶。
尚、高橋はるみ北海道知事、王貞治福岡ソフトバンクホークス会長、落語家・立川志の輔さん、女優の竹下景子さんなどからビデオ・メッセージが寄せられました。

まさに、高木氏の人柄や経営者としての功績が評価されての受章でした。それにしても、政・財・官など多くの出席者の顔ぶれを見ていると、氏の人脈の太さと広さを改めて感じさせる祝賀会でした。

また、先日、幕末の薩摩藩主島津斉彬公の座右の銘とされる「思・無・邪」をタイトルとして私が発刊した本を高木氏に差し上げたところ、高木氏が斉彬公の子孫から斉彬公自筆の「思・無・邪」をラベルにした薩摩の芋焼酎を入手され、その内の1本を私に下さいました。
祝賀会会場入口でその話になりましたが、まだ飲んでいないので、その内、ゆっくりと味わってみたいと思っています。

写真は、高木氏より頂いた斉彬公自筆の「思・無・邪」をラベルに用いた芋焼酎

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(2019/03/03)

滑川市名誉市民

滑川市名誉市民・故山田禎一先生は去る1月23日満93歳でご逝去になり、1月29日東京青山葬儀場で葬儀が行われ、滑川市に於けるお別れの会が2月24日午後1時30分から滑川市農村環境改善センター多目的ホールで約300人が出席し厳粛な中、執り行われました。
当日は多目的ホールステージ上に、立山連峰を菊であしらい、チューリップなどで富山平野を表す真ん中に、温和な先生の大きな遺影が置かれていました。
その下に、滑川市名誉市民称号記、右に、東京都名誉都民称号記、左に調布市名誉市民称号記が置かれていました。お別れの会次第は下記の通りでした。

①開式 ②黙とう ③お別れのことば ④代表献花 ⑤参会者献花 ⑥弔電披露
⑦謝辞 ⑧閉会

約1時間ほどで終わりましたが 簡単に先生の略歴をご紹介いたします。
大正14年 11月25日、中新川郡北加積村野町{現、滑川市野町}に生まれ
昭和23年 金沢大学医学部卒業
昭和30年 金沢大学医学部精神科助教授に就任
昭和32年 東京都調布市に山田病院を開設
昭和40年 東京都稲城市に稲城台病院開設
昭和44年 神奈川県箱根町に仙石原病院開設
昭和47年 国内初の精神障害者授産施設「創造印刷」
     及び「精神医学神経学古典刊行会{現、創造出版}」を開設{ともに調布市}
平成元年 滑川市に県第一号の介護老人保健施設「なごみ苑」を開設。
平成8年 滑川市に「富山医療福祉専門学校」を開設
平成12年 滑川市に生活支援ハウス「なじみ」を開設
平成21年 滑川市に「やなぎはら保育園」開設

特に、先生は「教育と医療をないがしろにして栄えた国家や民族はない」との信念と郷土滑川を愛する強い思いのもと、平成に入り前述した施設を相次いで滑川市に開設され本市の福祉・医療・教育の発展に尽力された功績で平成21年石坂豊一先生に次いで、滑川市名誉市民に推挙されました。
その後、調布市名誉市民、東京都名誉都民にも推挙され、その祝賀会が京王プラザホテルで開催され私も出席した一人ですが、親しくお付き合いをさせていただいていた関係上、多くの想い出が脳裏を去来しました。

先生の生まれ育った野町の地でお別れの会が行なわれたことで、故人も喜んでおられることと思います。最後に、遺族を代表して、娘さんの山田多佳子さんが先生が亡くなった日は1月23日 つまり、ワン・ツー・スリー。ホップ・ステップ・ジャンプ。故人の性格通り前向きに旅立ったの言葉が印象的でした。



(2019/02/25)

文化講演会

2月10日午後4時より、滑川市民交流プラザにおいて、祝日に日の丸を掲げる会{会長・本田繫氏}の第3回講演会が開催されました。
ご存知の通り「日の丸」を国旗、「君が代」を国歌とすることに賛否両論がありました。
特に、教育現場では激しい反対論展開され、とりわけ「君が代」の歌詞が取り上げられました。しかし、平成11年8月13日の規定により日本政府は公式に日本国の国旗は「日章旗」{日の丸}であり、国歌は「君が代」であると指定しました。

私は、世界中どの国にも国旗、国歌はあり、国民は愛国心を持つことが望ましいと思います。その意識を高めることにも繋がる「国旗、」や「国歌」は必要なことと思います。
しかも、今の「国旗」や「国歌」に政治的、宗教的な背景を感じる人は殆どいないと思います。スポーツの世界でも、オリンピックや世界選手権などの表彰台で日の丸や君が代のシーンが流れたとき、多くの日本人は感動します。
また、優勝者が日の丸を背にして会場内を走り回る姿を見ても、政治や宗教を感じる人はいないと思います。素直に勝利を喜ぶ姿に、勝者が日本国の代表であることを示すものとして「日の丸」使用しているだけです。
その意味からしても祝日に日の丸を掲げることに何の抵抗もありません。
しかし、時々忘れたりしますが・・・・・

さて、講演会ですが第一部は 
講師:筒井和人氏
テーマ:「これからの東アジアの安全保障」―大陸勢力中国の米海洋戦略への挑戦―

講演内容は
①戦略環境のパラダイムシフト ②我が国の戦略の在り方 ③中国の戦略の一貫性
④孫氏「謀を伐つ」 ⑤台湾 ⑥北朝鮮問題 ⑦韓国 ⑧沖縄 ⑨ロシア 
⑩歴史戦から「民主戦」へ ⑪米戦略転換の遅れ ⑫ペンス演説 ⑬米INF破棄
⑭マティス更迭 ⑮日米戦略転換の時 ⑯神話の継続 ⑰歴史の分水嶺 ⑱普遍的価値 
⑲戦略の空洞化 ⑳少子化 ㉑日本の特異性 ㉒平成とは ㉓戦略再構築の時 
㉔憲法は米抑止力の函数 ㉕現代の大艦巨砲主義 ㉖公平性回復 ㉗行き過ぎた「戦後レジーム」
㉘東京大改革 ㉙日本の春 ㉚日本の民主主義・リベラルとは?

30項目に分けて詳細に説明。結論から言えば、自国の安全や防衛は自らが守る気概を持つことの重要性を論じられたと思います。

<井筒和人氏の略歴>
 昭和32年生まれ 立山町出身 富山中部高校 東京大学出身
 防衛省官房審議官{防衛白書担当} 防衛省技術研究本部・副本部長 現在、民間企業に就職

講演会・ 第二部
講師:葛城奈海氏
テーマ:「国と自然を守るということ」

講演内容は
学生時代は自衛隊にはアレルギーがあったが、合気道を通じて、自分の身体は自分の努力によってまず守る。今日の平和な日本は、日夜、我が国の安全と防衛に身命を賭して尽力している自衛隊が存在するからこそであり、平和は決して、天から降ってくるものでも、地から湧き上がるものではない事を理解した。
そこで、自身も、3年間のうち50日の訓練を得て、予備自衛官補になり、現在は予備三等陸曹であることを紹介されました。

また、尖閣諸島周辺には漁船で15回渡りレポート。漂流物の除去や、ヤギによる生物多様性への影響調査活動などの体験を話されました。又、民主党政権下で発生した海上保安庁の船に中国漁船が体当りした事件や、国有化した後の中国公船の領海侵入の常態化に対する日本政府の対応を批判。
これを、インドネシアやパラオでは、領海内における中国漁船の不法操業の拿捕や爆破、あるいは、違法操業船の追跡、発砲、中国人を拘束するなどいずれも毅然と対応している例を挙げ、我が国の弱腰外交を批判。

以前、稲田防衛大臣の時、マティス米国防長官{当時}が来日の折「米国は安保条約5条によって、日本を守る」と発言。この時、稲田大臣は安堵と喜びの表情を見せたが、そもそも、自国で身体を張って守る気もないのに、同盟国といえども、何故血を流すのか?と彼女は平和ボケした日本人に警鐘を鳴らされました。「自らの健康は自らが守る」いわゆる、セルフメディケーションと同様まず、自助努力の必要性を論じられました。

講演会終了後、彼女に、彼女が指摘する平和ボケの日本になった原因は何か?それを解決する処方箋は?しばし、議論をしましたが、複合的な要素で今日に至り、複合的な処方箋が必要との認識で一致しました。その、複合の内容は機会をみて書きたいと思います。

<葛城奈海氏の略歴>
 東京大学農学部出身、ジャーナリスト、俳優 予備三等陸曹 防人と歩む会会長など

写真は、講演会の様子と控え室にてお二人と共に

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(2019/02/11)

森本敏氏講演会

滑川商工会議所主催による恒例の新春講演会が1月29日{火}午後2時から同所3階ホールにおいて開催されました。第1回の講師は長谷川幸洋氏 第2回は田崎史郎氏 第3回は手嶋龍一氏 そして、今回の講師は元・防衛大臣・拓殖大学総長で安全保障のスペシャリストである森本敏氏でした。

演題は、激動の2019年を読み解く―「今後の国際情勢と日本の課題」でした。1時間半余りの内容は、米中関係、日韓、日朝、日露、日米問題でした。米中関係では中国が海洋進出を続ける中、経済援助を名目に東南アジアやアフリカ諸国に影響力を強め、返済が滞るスリランカでは港を実質手中に収めた例を挙げて、米国の歴代大統領は中国がこんなに早く成長するとは思わず甘く見ていた。
これに気付いた米国は、米国第一主義を掲げるトランプ大統領によって、対中国貿易の大幅赤字解消を求め、米中関係は現在ギクシャクしている。加えて、米国司法省は、米国の要請でカナダ当局が逮捕した中国通信機器大手ファーウェイの孟副会長をニューヨークの連邦大陪審が起訴した。これを受けて、同省は、孟被告の身柄引き渡しをカナダ当局に正式に要請すると表明した。
対して中国は「強烈な不満を表明」し、米中関係のさらなる緊迫は確実な状況である。米中関係が悪化すると、過去の例からしても日中関係は良好になる。今がその時である。

いずれ米中関係が改善されると、次は、日米貿易摩擦問題に移るとのこと。
日韓関係は、従軍慰安婦問題、徴用工、韓国海軍の駆逐艦による海上自衛隊P1哨戒機へのレーダー照射問題や、片や韓国側主張の東シナ海での海上自衛隊P1哨戒機が低空で威嚇飛行したとする問題、そして、竹島問題など過去の歴史を紐解きながら、韓国の非を、日本の正当性をわかりやすく解説されました。

特に、徴用工問題では、日本と韓国とは、国家レベルの関係において、決着は既についている。それが日韓請求権協定などであり、別途、韓国に5億ドルを渡している。当時、日本では1ドル360円の時代であったから、5億ドルは1800億円。しかしそれは昭和40年のこと。
今日の貨幣価値から言えば、10倍の1兆8000億円から2兆円位という。しかも、韓国民間において日本に対しその賠償を求める場合があっても、その5億ドルによって韓国政府が対応することになっていたのであり、日本が対応する義務はまったくないのである。私も全く同感です。

ましてや国と国とで結んだ条約や協定は、それぞれの国の、司法、立法、行政、の上にあるものであり、韓国最高裁は、これを無視して、誤った判決を出したことは誠に遺憾であると思います。いずれにしても、この様な問題が日韓に横たわっている韓国に対し、日本はどう向き合えば良いのか?との私の質問に対し、森本氏は「いちいち反論したりせず、大人の対応すること」とお答えされましたが、この答弁も大人の答弁だったと思います。

また、氏はこの問題で明日30日訪韓するとお話になられましたので、私は、大変失礼な発言でしたが、毅然とした対応をされることをお願いしました。氏も同様な考えであると述べられました。又、米韓関係が悪化すると、在韓米軍が縮小される恐れがある。そうなると、日本の安全保障に重大な影響がある。だから、日米韓の連携の重要性にも触れられました。

さて、日露関係で北方領土返還については、大変難しい問題である。領土の帰属や主権、加えて、日米安保条約と北方領土の絡みやラブロフ外相の発言などを考えると、そう簡単にはゆかないだろう、との見解でした。最後に前述の質問と共にもう1点質問しました。

それは、氏が民主党政権下での防衛大臣でした。その経験から3人の総理や、国務大臣、お付き合いされた国会議員などの評価や、エピソードをお聞きしたところ、もし民主党政権下で野田氏が最初の総理であったら、もう少し変わっていたと思う。とのことでした。
考えれば、現職の大学の総長であり、かつ、現職の内閣参与であり、やはり他のジャーナリストと違い、発言も大人の対応にならざるを得ないのだろうと思いました。

いずれにしてもこの様な素晴らしい講師を迎えての有意義な講演会が入場無料で開催しておられる滑川商工会議所に感謝致します。

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(2019/01/29)

県薬連「薬都とやま大会」

1月9日{水}富山市・高志会館カルチャーホールで「世界的に羽ばたく薬都とやま大会」主催{一社}富山県薬業連合がひらかれました。塩井保彦副会長が「製剤開発力や品質管理技術を強化し、イノベーション創出によって1兆円産業を目指したい」と挨拶。医薬品産業関係者約200人が出席し、薬事功労者として知事表彰5名、県薬業連合会会長表彰7名が表彰の栄に浴されました。

来賓祝辞として、知事代理・前田彰久県厚生部長、厚労省医政局経済課長代理・松野 強課長補佐、五十嵐務・県議会自民党薬業問題調査会長から祝辞がありました。

ここで、第一部を終え、第二部として会場を二ヶ所に分け講演がありました。
①製薬企業を対象として
演題 「DDS技術を用いた患者さんにやさしい医薬品の開発」
講師 (株)岡田DDS研究所 代表取締役所長 東京薬科大学名誉教授 岡田弘晃氏

②配置・一般を対象として
演題 「タニタの健康セミナー」
―タニタ食堂に学ぶ500カロリー ― まんぷく定食のこつ
講師 (株)タニタヘルスリンク 管理栄養士 金 華連氏

2会場とも有意義な講演でありました。

平成30年9月20日厚労省発表の「平成28年薬事工業生産動態統計年報の概要」によれば平成28年の医薬品生産額は6兆6238億6千万円、内、富山県の医薬品生産額は6218億4500万円で前年に続き2年連続全国一を達成しました。
主な理由として医療用医薬品のジェネリック{後発品}の生産や受託製造が寄与したものとされています。
このことから、県は1兆円産業を目指すため1月9日午前県内医薬品産業の、産官学でつくる「くすりのシリコンバレーTOYAMA創造コンソーシアム{共同事業体}」の第三回検討委員会{委員長・石井隆一知事}を開き、医薬品産業の雇用者数を10年間で約1.5倍となる1万5千人に増やすことなど含め、5事業計画を策定しました。
計画の内容は割愛しますが、いずれにしても今後に期待したいと思います。

写真は、開会の挨拶をする塩井保彦副会長

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(2019/01/09)

歳旦祭

1月8日{火}午前9時恒例の薬神神社歳旦祭が旦尾宮司の下、配置薬業従事者、配置薬メーカー、行政などの関係者が集まり執り行われました。当日は、多少肌寒いお天気でしたが今年一年の商売繫盛を祈願するにはむしろ相応しい環境だったと思います。

尚、今回から薬神神社奉賛会会長が吉田昌雄さんから石政章さんに代わりました。吉田さんには多年にわたるご尽力誠にご苦労様でした。石政さんには、平成から新たな元号に代わる節目での就任や、しかも若返ったことでもあり大いに期待したいと思います。
祈願後、社務所に移動し業界の情報交換やそれぞれの抱負、近況を語り散会しました。

帰宅後、天候も雨模様になったことを思うと、今年は、何か良い事が有りそうと勝手に考えたりしました。

写真は、玉串奉奠する筆者。

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(2019/01/08)

謹賀新年

手のつかぬ 月日ゆたかや 初暦 古屋信子

平成30年・2018年は既に地平線下に沈み、平成31年・2019年の幕が上がりました。取り分け、今年の新年は平成と言う時代を締めくくる年が明け、やがて、4か月後に訪れる新しい元号の下で、新しい時代の息吹を感じる新年に感慨深いものを禁じ得ません。
さて、本年は、己、亥、八白土星、の年です。この、「己」は「土の弟」{つちのと}は土の性質を象し「己」は「紀なり」で、糸のはじめを求め定めて、順序よく仕事をする意です。
「亥」は、木をつけると「核」になり、物事の「種」となります。
ただ「己」と「亥」は、本来相性が悪いので、波乱の素になりかねません。

八白土星は「革新の星」と呼ばれ、大地が鳴動する時とも言われています。米、中。米、朝。米、韓。米,ロ。の関係は日本にも同様のことが言えます。加えて、英国のEU離脱後のヨーロッパや中東の動きなど目が離せません。国内では、4月の統一地方選と5月の新天皇即位。6月G20大阪開催。7月参議院議員選挙。10月消費税10%導入など重要事案が山積しています。当たるも八卦当たらぬも八卦といえども、2019年はどんな年になるだろうか?

そんな中、我が家では今年の初詣は、真言密教・大本山・大岩山日石寺に1月1日午前11時不動明王御尊前護摩祈祷に行き、家内安全、商売繫盛を祈願してきました。
大岩山、日石寺の由来はパンフレットによれば
日石寺の山号における大岩は古来立山や剱岳における山岳宗教の行場として興り、行者の本尊として不動明王が岩盤に彫られたことにより、平安期には密教や修験の道場として伽藍を形成していき、室町後期までに真言寺院として六十の坊社を有した。
天正年間に上杉謙信の兵火に遭い山内は全焼したが、慶長年間に加賀前田家の庇護を受け再興し祈願所と定められ、北陸・信越・中部地方の一大不動霊場として隆盛を極めた。
昭和42年に再び火災で江戸期における建物や資料の大半を消失したが、昭和43年に檀信徒の寄進等によって不動堂が建立され、現在にいたっている。(パンフレットより)
{注}幸いにも、磨崖仏は難を免れた。

不動明王磨崖仏について
 磨崖仏における国内最高傑作とされ、凝灰岩の巨岩に神亀2年{725年}に高僧行基により一夜にして彫られたとされる。不動明王は剱岳の本地仏・行者の守護本尊として、半肉彫りで彫りだされ、下方より仰ぎ見るように技法が駆使されており、見るものに包容と迫力を与える威容を示している。平安末期の追刻として、右方中央に阿弥陀如来坐像、左方中央に行基菩薩と伝わる僧形坐像は立山開山の慈興又は慈朝との説もある。
 天正の兵火により制陀迦童子と僧形坐像は破損を受けているが、地震や風化等の影響は少なく、昭和5年に国指定史跡、昭和49年に国指定重要文化財の二重指定を受けている。(パンフレットより)

この他にも「六本滝」を始めとして沢山の見どころがあります。
いずれにしても、今年はすべての人に幸多き年でありますように・・・・・・

元旦や、必ずくるぞ、大晦日



(2019/01/01)

椿絵名品展

一日も おろそかならず 古暦 (虚子)

食欲の秋、スポーツの秋、芸術の秋、そんな言葉はもう死語なのかもしれません。年中、グルメ三昧、年中、何らかのスポーツ記事が新聞紙面を賑わし、芸術もまたしかりです。

12月9日の閉会を目前にした4日、高岡市美術館で開催中の「椿絵名品展 ―つばき咲く―」を鑑賞しました。これは、あいおいニッセイ同和損害保険の所蔵品から、近世から現代までの日本画、洋画、工芸における椿絵の名品約80点が展示してありました。
特に、驚いたのは、日本美術史上に名を残した作家ばかりの作品でした。横山大観、尾形光琳、緒方乾山、酒井抱一、川合玉堂、富田渓仙、堂本印象、山口蓬春、前田青頓、村上華岳、中川一政、小倉遊亀、北大路魯山人、上村松篁、夏目漱石、小林古径、竹久夢二、小野竹喬、中島千波、安田靫彦、堅山南風、岸田劉生、福田平八郎、高山辰雄、大山忠作など、これ等の作家が一様に「椿」を描いていたとは驚きでした。彼等は、椿のどこに魅力を感じたのか?説明には次のように書いてありました。

椿の字には「春を告げる花という意味があり別名を耐冬花」とも言います。そして、雪を被った椿は「雪待ち椿」として古くは室町時代の絵巻にあらわれ、冬の寒さに耐えながら春の到来を待つ清新な姿は椿の花ならではのイメージです。
そして、椿は生命力の強い花木ですが、その花の散りぎわは潔いとともに、はかなさをも併せ持ちます。そのために、画家たちは椿に胸中の花を想い、命を慈しむ幽玄で神秘的な観想をいただいたといいます。それらが、多くの画家や夏目漱石までの心をひきつけたのと思います。我が家にも椿がありますので、これからは少しは見方が変わるかもしれません。

次いで、帰路「あいの風とやま鉄道」水橋駅前「世界一かわいい美術館」を訪ねました。これは、NPO法人「憩いの家」が運営し年間5回ほど企画展を開催しています。
今回は、「秋景展」として42点展示してありました。ここも高岡市美術館同様有名作家ばかりで、奥田元宗、安田靫彦、川合玉堂、速水御舟、小杉放庵、司馬江漢、小倉遊亀、山口蓬春、奥村土牛、橋本関雪、勝海舟、そして去る11月1日滑川市名誉市民に推戴された下田義寛氏の「朝霧」加えて特別出品として、太刀、備前長船兼光などであり、特に、画家の名前を聞いただけもうっとりする作品ばかりでした。これが、入場無料ですから驚きです。ただし、善意の募金箱が置いてありますが・・・。

さて、私は、美術について全くの素人で作品を論評する資格はありませんが、椿一つとっても色々な見方、思いによって作品の出来ばえが違うし、秋とて同様と思います。想像力を逞しく働かせ、心豊かになるのが芸術の世界だと思います。
もし、人類にとって音楽や芸術がなかったら、私たちの日常生活は?と思うと、人類が心豊かな生活を送る為にも必要不可欠な世界と思います。いづれにしても初冬の美術館巡り、心洗われるひと時でした。

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(2018/12/05)

ねんりんピック富山2018

初雪の 高嶺を裂きて み空より 紅葉の中に 落つる大滝
            (昭和11年秋 称名滝にて 玉堂)

紅葉前線は北から南、山から里へ下り始め、丁度、称名滝付近も見頃を迎えた11月3日第31回全国健康福祉祭富山大会は「-夢つなぐ、長寿のかがやき富山から―」をテーマとして富山県総合運動公園陸上競技場で総合開会式が遥かに立山連峰を仰ぐ秋晴れの下、開催されました。

尚、第1回大会は昭和63年兵庫県で開催されました。
今回の、大会目標を
①「生涯現役社会」につながる高齢者が、いきいきと輝く大会
②「健康寿命」延伸への気運を高める大会
③「地域共生社会」を創る交流とふれあいが広がる大会
④自然、伝統、文化、産業、食など「富山県の魅力」あふれる大会
⑤「おもてなしの心」で「温かみ」のある大会

を掲げ、県内15市町村で過去最多の27種目で交流が深まる熱戦が繰り広げられました。参加資格は60歳以上ですが、他の大会と決定的に違うことは、目的にある通り、高齢者が中心であり「生涯にわたって、健やかで、心豊かに生活することができる、社会づくり」にあります。
その為、20近い交流会が企画されました。例えば、文化、交流大会では、囲碁、将棋、俳句、川柳、健康マージャン大会などもあるなど正にねんりんピックならではの種目です。

さて、総合開会式の中で今回の参加選手の最高年齢者は93歳であることがアナウンスされると大きなどよめきが起きました。
午後、私も関係者の一人である弓道競技の開催地射水市のアイザック小杉文化ホールでの弓道開始式に出席しました。1チーム5名{男女混合}補欠、監督計7名の70チームの参加者。加えて大会役員や高校生などのボランティアなど700名を越す人々で溢れました。

岡本仁、県弓道連盟会長挨拶、夏野元志、射水市長挨拶、高橋久和市議会議長歓迎の挨拶、次に、特別表彰に移りました。
最初に、最高齢者賞{男女各1名}女性は千葉県の選手で93歳。男性は静岡市選手で87歳。実は総合開会式で全参加選手の中での最高齢者として紹介された方は弓道競技に参加した千葉県の方だったのです。とすれば、せめて総合開会式の折、弓道競技の参加者であるぐらいは紹介してほしかったです。
しかし、会場で93歳と87歳のお二人が紹介され、壇上に上がられた時は、大きな拍手で会場が包まれました。賞状と盾に加えて射水市から特別賞として、越の紅カニ{紅ズワイガニ}の大きなパネルが贈呈され本物は後日郵送されるとのことでした。しかし、これには会場は再び大きな拍手とどよめきがおきました。
次いで、高齢者賞として最高齢者受賞者を除く参加選手の高齢者{男女各3名}いづれも80代半ばの方々に賞状と盾。最後に、射水市が誕生した11月1日生まれの方が参加者の中に唯一人おられ、その方に白エビの大きなパネルが贈られ、本物は後日郵送するとのことでした。ねんりんピックゆえの風景でした。年齢に応じて楽しめるスポーツとしてゴルフがありますが、むしろ弓道がそれよりも上でないかと改めて思いました。

射水爆笑軍団の寸劇もあり、和気あいあいの開始式でした。
翌、4-5日交流大会は熱戦を繰り広げ的中数上位16チームが予選通過。トーナメントで決勝戦を行い、優勝、埼玉県、二位福岡県で大会は盛会裏に終えて幕を閉じました。残念ながら富山県チームは予選敗退。尚、93歳の女性の射は背筋を伸ばし、年齢を感じさせない立派な射でした。

それにしても、大会開催まで何度も打ち合わせをし、準備をし、大会期間中は早朝7時より夕方7時過ぎまで運営に携わられた岡本会長始め、県弓連の方々、高校生の方々、ボランティアで参加された多くの方々のご尽力なくして大会の成功はなかったと思います。
改めて各位のご尽力に敬意と感謝を申し上げます。
また、弓道関係者の一人として、何のお手伝いも出来なかったことに対して申し訳なく思っています。6日、私用で上京のため富山駅に行ったところ、ねんりんピック参加者でごった返していました。
私は、数人の人々にねんりんピック富山大会の感想をお聞きしましたが全員「富山に来て良かった」と言ってくれました。弓道参加者には聞けませんでしたが多分同様の感想だったと思います。いづれにしても大会の目的は概ね達成されたと思います。

写真は、総合開会式。アイザック小杉文化ホールでの開始式での岡本会長の挨拶。富山県選手。

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(2018/11/04)

公益財団法人・体力つくり指導協会

継ぎ目なき  天一枚 秋の空

11月1日、抜けるような空の青さと 爽やかな秋風が吹き抜ける好季節の中、{公・財}体力つくり・指導協会創立50周年記念式典及び祝賀会が、ホテルニューオータニで盛大に開催されました。
さて、意外とこの協会の活動内容が知られていないような気がします。私も、正直最初は温水プールだけの運営に携わる協会かと思っていました。しかし、今回式典に出席してそうではないことを再認識しました。実は、この協会は多彩な活動を展開している団体です。

協会は「国民の健康増進と体力づくりを支え」として
{一}公益目的事業として
 ①高齢者体力つくり支援士の審査、認定。
 ②健康・体力つくりに関する体力測定の実践と検証。
 ③健康・体力つくり活動拠点の提供と支援。
 ④健康・体力つくりの啓発・広報。
 ⑤健康・体力つくりの講習等の実施。

{二}収益事業等
 ①健康・体力つくりに関する物品の販売。
 ②その他前号に定める事業に関する事業。

など、健康・福祉と実に幅広い分野で事業を展開しておられます。

その中にあって本市の温水プールは子供から高齢者まで積極的に健康・体力つくりを支援する事業の一つです。
平成6年7月6日オープンした滑川温水プールは建設費4億4449万6千円余りのうち、約48%、2億1358万円余りを市からの建設費補助金とした。そして、運営管理費補助金年間1344万4千円としこれは25年間今日まで変わりません。利用料金は平成26年、大人420円と改定されましたが、この間、消費税は3%―5%―8%と引き上げられ、来年から10%という。

燃料の灯油も平成6年には1ℓ50円が今日では90円前後。賃金も含め諸経費も当然上がっているし協会の経営努力は相当なものと思う。そのような中で、市内で唯一の準市民プールとして、今年も、ジュニア・オリンピックCPで中二の男の子が全国9位に入りました。
まさに、子供から高齢者までの健康・体力つくりに大きな役割を果たしている施設と思います。

式典で、私と共に、祝辞を述べられた埼玉県鴻巣市長原口和久氏も市内数か所の公園の管理も含め市民の健康増進と体力つくりに協会と連携を図り各種の政策を推進していることを紹介されました。また、当日の出席者や表彰状及び感謝状を授与された方々の顔ぶれをみても、温水プールのみの運営ではないことが分かりました。
やはり、滑川温水プールは市内唯一のプールとして、健康寿命の重要性も叫ばれる今日、子供から高齢者までの健康増進と体力つくりに大きな役割を果たしている施設であることを再認識する機会でもありました。市が直営で運営管理したことを考えると、今後ともこの施設を維持、発展させていく為にはこれからも利用率のアップを含め行政、市民、協会がより連携をしなければならないと思いました。

写真は、祝辞を述べる私と、左、原口鴻巣市長と右、小室協会理事長

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(2018/11/03)

幕末維新の激動と福井

10月29日{月}幕末明治福井150年博の①福井県立歴史博物館「幕末維新の激動と福井」②福井市立郷土歴史博物館「皇室と越前松平家の名宝」展を鑑賞しました。
特に、①では初公開の花押付原本で全国唯一と言われる坂本竜馬が村田氏寿に宛てた書簡や、やはり竜馬から中根雪江宛の書簡など、竜馬と福井の関係を示す資料が数多く展示してありました。
また、由利公正筆「議事之体大意」や、橋本左内書簡、小曾根乾堂書幅など初公開の物が多数ある中、横井小楠筆の「国是十二条」井伊家文書のうち「安政大獄処罰案」の中に左内処罰の付札「何より一等重キ方」と記したものなど大変珍しいものも多数展示してありました。

また、坂本竜馬や橋本左内の複製紋服ですが、その着用体験と写真撮影コーナーもあり、私も竜馬になった気分で一枚写しました。
②は福井国体の開催と明治維新の150年を記念して「皇室と越前松平家の名宝」を鑑賞しました。パンフレットによれば、日本が近代へと新たな国の歩みを進めた明治時代、皇室も新たな歩みを始めました。明治維新において大きな功績を残した旧福井藩主松平春嶽{1828-1890}は麝香間祇候として明治天皇に近侍し、華族の重鎮として皇室を支えました。
また春嶽の実子慶民{1882-1948}は大正・昭和天皇に仕え、最後の宮内大臣、宮内府長官を務め、昭和天皇の全国巡幸にも従いました。

{パンフより}
このように皇室との関わりを持つ中で、煌めく明治美術の名宝が松平家に伝わって来たものが公開されたされたのです。
それにしても、越前にも松平春嶽をはじめとして、橋本左内、梅田雲浜、由利公正、熊本から招聘した横井小楠など多彩な人物がそれぞれの立場で活躍しています。
とかく、明治維新は薩摩、長州を中心とした倒幕派と会津などの佐幕派という対立構図で語られるが越前藩のような立場も維新に大きな貢献をしていることがわかります。
それに比べれば、去る10月6日富山市立郷土博物館で「幕末動乱と富山藩」を見ましたが、残念ながら歴史上特筆すべき活躍した人物は、富山藩や加賀藩には余りいないのではないでしょうか。
記録によれば、新政府は慶応4年4月富山藩に対し、加賀藩とともに越後方面に出兵を命じ、これを受け、4個小隊443名、大砲八門によって編成された富山藩隊は、越後に向けて進発、越後各地を転戦し、旧幕府方の奥羽越列藩同盟軍とも戦闘を交えています。

いづれにしても全国各地で開催されている明治維新から150年のイベントも終ろうとしています。

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(2018/11/01)

京都、清水寺、国立京都迎賓館など

10月11日{木}―12日{金}にかけて①清水寺、②重要文化財角屋{すみや}もてなしの文化美術館、③重要文化財・旧三井家下鴨別邸、④国立京都迎賓館などを旅行しました。主催・滑川音羽の会{会長・中屋一博}
今回の参加者18名。この旅のメインは清水寺の塔頭「滋心院」の本堂で3月2日―18日。10月5日―15日に普段は非公開の秘仏「大随求菩薩」{だいずいぐぼさつ}が222年ぶりに一般公開されるのに合わせて実施したものです。

当日は、清水寺・執事補大西英玄さんから説明を受けました。それによると、大随求菩薩は江戸時代の1728年{享保13年}に作られ、高さ約1.1mの木造の仏像。全身を金泥などで塗られ、頭に豪華な宝冠をのせ、8本の腕に蛇や剣などを持つ。全国の巡回展などで公開されたことはあったが、本堂では1796年{寛政8年}以来のこと。
また、今回は、通常は立ち入れない本堂内陣まで進み、厨子内に安置された姿を拝むことが出来ました。これは、日本最古の仏教巡礼路「西国三十三か所」が、今年草創1300年となるのを記念し、特別拝観が決まったものです。この菩薩像は国内で確認されている木造としては、清水寺と高台寺の高さ約20㎝の2体と軸に描かれた1幅位で極めて珍しいものだそうです。
それにしても仏様のお顔はどの顔も穏やかで癒されますね。
私は、少し欲張りで2度拝みました。尚、清水寺では、秘仏、千手観音像は33年に1度の御開帳と定められています。しかし、この大随求菩薩は特に規定はなく、森清範貫主の腹一つです。の説明には大笑いでした。

夕食は、前回は清水寺に近い日本画家、竹内栖鳳画伯の旧宅{SODU}でしたが、今回は、その近くの「アカガネ・リゾート京都東山」で森清範貫主、大西英玄執事補を迎え、和やかに、楽しい夕食会でした。会場は富山ではなかなか味わえない素敵なところであり、少々リッチな気分になりました。

以下、②③④について、簡単に紹介しておきます。
②角屋は島原開設当初から連綿と建物・家督とを維持しづけ、江戸期の饗宴、もてなしの文化の場である揚屋建築の唯一の遺構として昭和27年{1952}に国重要文化財に指定されました。揚屋とは、江戸時代の書物の中で、客を「もてなすを業とする也」と定義されているところによると、現在の料理屋・料亭にあたるものと考えられます。饗宴のための施設ということから大座敷に面した広庭に必ずお茶席を配するとともに、庫裏と同規模の台所を備えていることを重要な特徴としています。「花街」と「遊廓」の違い。
「花街」は歌や舞を伴う遊宴の町であり、一方、「遊廓」は歌や舞もなく、宴会もない。歓楽の町である。角屋を含めた島原の町は、和歌・俳諧等の文芸活動が盛んで、ことに江戸中期には島原俳壇が形成されるほどの活動を呈したという。故に、角屋は「花街」に属します。
「揚屋」と「置屋」の違い。
揚屋は太夫や芸妓を抱えず、置屋から太夫、芸妓を派遣してもらってお客様に遊宴をしていただくところです。揚屋は料理を作っていましたので現在の料亭、料理屋にあたります。ただし、揚屋は江戸時代のみで、明治以降、お茶屋業を兼務する置屋では宴会業務も行うようになりました。角屋は遊廓でも置屋でもなく、揚屋でした。幕末、各藩の京都藩邸の藩士や新選組隊士、或いは勤王の志士達など多彩な人物が利用し賑わい、その、足跡も残っていました。また、「もてなしを業とする也」の通り、各部屋の造りや内装がそれぞれ違い,まさに、贅の限りを尽くし、一部屋一部屋が美術館の趣を持った建物でした。一見の価値があると思います。
公開は、3月15日―7月18日  9月15日―12月15日まで

③重要文化財・旧三井家下鴨別邸、
下鴨神社の南に位置し、三井家11家の共有の別邸として三井家総領家第10代三井八郎右ェ門高棟{たかみね}によって建築されました。この地には明治42年{1909}に三井家の祖霊社である顕名霊社{あきなれいしゃ}が遷座され、その参拝の際の休憩所とするため、大正14年{1925}に建築されたのが、現在の旧邸です。建築に関しては、木屋町三条上がるにあった三井家の木屋町別邸が主屋として移築されました。
昭和24年{1949}には国に譲渡され、昭和26年{1951}以降、京都家庭裁判所の所長官舎として平成19年まで使用されました。近代京都で初期に建設された主屋を中心として、大正期までに整えられた大規模別邸の屋敷構えが良好に保存されており、高い歴史的価値を有していることから平成23年に要要文化財]に指定されました。尚、三井家初代三井高利は「現金売、賭け値なし」をモットーに呉服商越後屋を開業し、今日の三井財閥を築いた元祖です。

④国立京都迎賓館
日本の歴史、文化を象徴する都市、京都で海外からの賓客を心をこめてお迎えし、日本への理解と友好を深めていただくことを目的に平成17年{2005}4月に開館しました国の迎賓館です。日本建築の長い伝統と美しさを現代の建築技術と融合させる「現代和風」の創造を目指して設計されました。
東京にある迎賓館赤坂離宮とともに国、公賓などの賓客の接遇の場としての役割を果たしています。京都御所敷地内にあり、一度は見学して見るべき施設と思います。

写真は、清水寺森清範貫主と大西英玄執事補、大随求菩薩、角屋玄関前、旧三井下鴨別邸

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(2018/10/13)
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