なかや一博 ブログ

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滑高同窓会総会

向日葵の 百人力の 黄なりけり {加藤静夫}

暦の上では立秋を過ぎれば残暑となりますが、残暑どころか連日35℃を超す猛暑の8月10日富山県立滑川高校同窓会{会長・中屋一博}総会を午後6時滑川市西地区コミュニティーセンターで開催しました。コロナ禍の影響で実に3年ぶりの開催です。

7月7日の役員会で、開催の是非を協議しましたが、その時点では新規感染者は多少高止まりの傾向があるものの、他校の同窓会や各種イベントの開催状況、国、県の動向等を参考にした結果、感染防止策を施した上、総会のみ行い、懇親会は中止として開催することに決定しました。
当日は37℃の猛暑、加えて新型コロナの影響で出席者数が心配されましたが幸い70名程の出席者でホットしました。

総会は、学校の先生である林総務部長の司会で始まり、最初に私が挨拶。その中で3月の卒業式や4月の入学式に出席しましたが、全員での校歌の斉唱がなくテープで流されたことは時節柄止むを得ないとは言え、一抹の淋しさを禁じ得ませんでした。
やはり校歌を歌うことで滑川高校の生徒であること、或は、生徒であったことを自覚するし、連帯感の醸成に繋がる機会でもあります。それがない。やはり淋しい限りである。

そして、私は、いつも生徒に問いかけます。母校とは 同窓会とは何だろう。
例えばプロ野球ロッテ球団で活躍している石川渉選手をマスコミの一部が魚津出身と発表すると、日頃、同窓会とか母校など全く意識しない人が、それは滑川高校出身だと言います。
ましてや滑川高校野球部が甲子園大会に出場した時など、上記のように全く関心を示したことのない友人が大阪から電話をかけてきて、甲子園に応援に行くと言う。そして職場でも、俺の母校だと自慢しているという。日頃意識していなくても、人それぞれの心の中に、心の拠り所として存在する。それが母校であり、同窓会であり 故郷だと生徒諸君に話します。

現在、3万人を超す同窓生を持つ学校は県下でもわが校を含め数校しかありません。その同窓生が各界各層で活躍しておられることは私達の喜びであり、誇りでもあります。今後とも母校の発展にご支援をお願いし挨拶としました。

次いで、亀谷校長より学校の近況報告として5月8日県教育文化会館ホールで開催された、県民ふるさとの日・記念式典の席上本校が、地元企業等の協力を得て、地域資源の活用やふるさとの魅力を発信する活動に取り組んでいること、又、海洋科ではホタルイカ漁で破棄される鰯を活用する地域課題解決に取り組むほか、薬業科では、くすりの富山エキスパート事業などの活動が評価され「県民ふるさと大賞」表彰の栄に浴したこと{6団体表彰}や最近の話題で、インターハイウエイトリフティングで団体,個人でそれぞれ3位に入賞したことなど報告がありました。

次いで、金森実氏が議長に選出され議事に入りました。令和3年度の会務報告は林総務部長、決算報告は杉本事務部長、監査報告を石坂会計監査より報告。いづれも可決。
次に役員改選に入り,過日の役員会での案を議長より発表され承認されました。その結果、不肖私が引き続きその任に当たることになりました。私以外の役員は殆ど留任として、新たに就任して頂いた方々を発表させていただきました。

その中で、去る2月の市長選挙で当選された水野達夫市長は本校の同窓生{昭和56年・第33回卒}であることから、顧問に就任して頂いたこと。
又、滑川市には滑川高校が唯一の高校であること。同時に市選出の県議会議員は一人であること。
そして少子化の流れの中で本校を取り巻く諸問題解決には、地元選出の県議会議員の支援も必要な事から、本校の同窓生ではありませんが、大門良輔県議会議員に相談役をお願いしたことを説明し、いづれも承認を得ました。次に令和4年度の事業計画案、予算案もいづれも異議なく可決されました。

尚、令和5年は本校創立110年になることから、110年記念誌の発刊も了承頂きました。すべての議事が終了後、水野市長と大門県会議員がそれぞれの立場から、滑川高校発展に尽力する旨、力強い言葉がありました。そして本校先生の紹介のあと、最後に従来全員肩を組んで校歌を斉唱していましたが、時節柄全員起立の上、入学式同様テープから流れる校歌を聞き締めとしました。
来年こそは懇親会も110周年を祝う総会となるように念じ散会となりました。

私の挨拶をもう少しだけ記しておきます。
「戦前人口僅か2万人ほどの小さな滑川町に、県立滑川女学校、県立滑川商業学校、県立水産高校となんと県立高校が3校もありました。加えてこれに滑川町立薬学校という専門学校もありました。この当時の他の市町村と比べてみて下さい。驚くべきことです。まさに先人の教育にかける熱き思いを感じます。
中国・斉の国・管中の、「百年の計は、人を樹{う}るに如{し}くはなし」の言葉を引用して「一年先を考えるなら穀物を植えよ。十年先を考えるなら木を植えよ。百年先を考えるなら人材の育成、すなわち教育である。」と話して、先人の教育にかけた情熱を引き継ぎ、母校・滑川高校の更なる発展に努力する旨、申し上げました。

写真は、挨拶する私。亀谷校長。ふるさと大賞パンフレット。県庁正面右手にある元富山県知事・中沖豊氏揮毫と言われる「百年の計・人を樹るに如くはなし」の碑

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八月や 六日、九日 十五日

誰の句かは知らないが、言い得て妙なる句である。昭和20年8月6日午前8時15分広島に、8月9日長崎にB-29より相次いで原爆が投下され、広島では約14万人、長崎では約7万5千人の尊い命が一瞬に奪われた。そして8月15日終戦を迎える。
あれからもう77年、戦後生まれが全人口の大半を占め、戦争の惨禍が徐々に薄れていく。

そんな中、去る8月2日岸田総理が、二ューヨークで、191ヵ国・地域が加盟する核拡散防止条約{NPT}再検討会議に出席し演説をされた。
時あたかもロシアのウクライナ侵攻を機に、核兵器の脅威が深刻化している中で、唯一の被爆国日本の総理として初めての参加であり、しかも広島出身とあって演説内容に関心が集まった。結果は要約すると、核廃絶に向けた5本の柱の行動計画を発表し、来年の広島サミットに向けて核軍縮の気運を盛り上げていくという。しかし、国連安保理常任国であるロシアは核使用を散らつかせ、拒否権を発動する。もはや安保理も形骸化している。

また、NPTは核保有5大国を縛る唯一の条約というが、日本は核保有国等を含め、核兵器禁止条約を批准していない。総理は広島出身ゆえ核廃絶への思いは人一倍強いと思う。だからこそ自作の折り鶴を手に持ち熱弁を振るわれたのだろう。
しかし、現実は厳しい。日本は米国の「核の傘」に依存する安全保障の立場である。だから批准が出来ないのである。

総理は、核禁条約に言及しなかった理由を問われると「条約は核なき世界を目指す上で出口に当たる重要な条約だ」と意義を強調。その上で「理想に向けて現実な取り組みを示すことが大事だという思いでスピーチをつくった」と説明した。とマスコミは報じた。
日本政府は核保有国と非保有国の橋渡し役を自任するが、総理には是非とも現実的な取り組みを示し一歩でも二歩でも前に進めてもらいたいものだ。8月6日グテーレス国連事務総長が広島平和記念式典に出席されるが、ロシアのウクライナ侵攻によって、被爆者の願い、被爆地、広島・長崎の願い、国民の願い、そして、人類の願い、が遠のいていくようで残念である。

それにしても長崎は不幸であった。8月9日の原爆投下地点は、当初北九州小倉であったという。それが、雲量、風向等の関係で長崎に変更されたという。私は、以前広島平和記念公園内の原爆ドームや原爆資料館を、また、長崎では、北村西望作の巨大な平和の像や浦上天主堂などを見学した時のことをいつも思い出す。
やはり戦争は二度と起してはならない。長崎では爆心地に近い医科大学で被爆しながら治療に当たった医師永井博士が妻も原爆で失うなどの事実から出来たのが、サトウハチロウ作詞、古関裕而作曲の有名な「長崎の鐘」である。この曲がヒットした2年後の昭和26年43歳で亡くなった。博士がこの曲を聴いたのち詠んだ一首は「新しき 朝の光のさしそむる あれ野にひびけ 長崎の鐘」であった。

また、8月9日はソ連軍日ソ不可侵条約を一方的に破り満洲に侵攻。8月10日、14日御前会議でポッダム宣言受諾を決定。
8月15日正午玉音放送で終戦を告げる。私から言わせると、終戦と言うよりは敗戦と言うべきでないか。しかし、打ちひしがれた国民感情に配慮したのか、それとも昭和16年12月8日は開戦としたからそれに対し、終戦としたのか、私には分からない。

8月18日、ソ連軍千島列島最北端占守島{シュムシュ島}から千島列島南下、樺太侵攻。8月21日樺太真岡に侵攻したソ連軍に対し、8人の女性電話交換手自決。8月27日、連合国日本進駐開始。8月30日、連合国司令官ダグラス・マッカーサー元帥厚木基地に到着。9月2日、戦艦ミズリー号上で日本全権・外相重光葵と大本営参謀総長梅津美治郎無条件降伏に調印。ここに第二次世界大戦は正式に終結した。

8月15日はお盆であり、先祖との対話の時である。13日は迎え盆。16日は送り盆である。私たちは、一人の例外もなく父と母がいることによってこの世に生を得た。その父と母にもそれぞれ両親がいる。それを遡っていけばどうなるか。10世代で1024人。20世代で104万8576人。30世代では、10億7374万1824人。40世代遡ると、1兆95億1162万7776人。想像を絶する数になる。
この祖先の命が一回も途切れず今日に生きているのが私の命である。この連鎖がどこかで絶ち切れていれば、或は、別の人に代わっていたら私はここに存在しない。そう思うと、今日自分が存在することは、正に奇跡であり、縁としか言いようがない。

8月、それは「平和」「戦争」「命の尊さ」を考える月である。
参考まで、私の手元に昭和天皇実録・第九・自昭和18年―至昭和20年がある。その中の昭和20年8月15日には次のように記してある。{一部抜粋}

「15日水曜日、陸軍省軍務課員らを中心とする一部の陸軍将校は、ポッダム宣言受諾の聖断撤回のため、近衛師団を以て宮城と外部との交通・通信を遮断するとともに、東部軍の兵力を以て要人を拘束、放送局等を占拠する計画を立案し、これを実行に移す{中略}主力の二大隊が、午前2時を以て坂下門を閉鎖し、宮内省の紅葉山通信所その他の要所を占拠して宮城内の交通・通信を遮断、また皇宮警察の武装を解除し、且つ御文庫を包囲する。宮城へ乱入の将兵はさらに、情報局総裁下村宏。日本放送協会会長大橋八郎以下の総勢18名を二重橋門内衛兵所に監禁し、放送用録音盤・御璽、及び宮内大臣・内大臣を捜索する。{中略}侍従徳川義寛・同戸田康英が宮内省庁舎より御文庫に赴き、当直侍従の入江相政・永積寅彦に対し、近衛兵が宮城を占拠し、電話線を切断したため外部との連絡が途絶するも、録音盤及び宮内大臣・内大臣は無事である旨連絡する。{中略}正午、昨夜録音の大東亜戦争終結に関する詔書のラジオ放送をお聞きになる・・・・」

8月15日の日記は他の日付と違い長文であり、ここに記したのは一部であるが緊迫且つ生々しい出来事が記してある。機会があれば、15日の日記の全文と玉音放送の全文を記したいと思う。

令和4年8月4日



富山大空襲

音もなし 松の梢の 遠花火  子規

8月に入ると6日広島、9日は長崎の原爆忌、15日の終戦と続く。マスコミはこれを大きく報道する。しかし、8月2日は何の日?富山県民の若い世代は大半が答えられないかも知れないと言う。
富山大空襲の日である。
8月2日午前0時36分~1時51分まで75分にわたり、米軍爆撃機B-29が富山上空に飛来し、実に12,888発の焼夷弾を投下した。爆撃平均中心点は富山城址東南の角{かっての時計塔付近}とされた。
罹災所帯2万5千。罹災人口11万人。死者判明しているだけで2,275人。実際は3千人は下らないと言われている。

富山市街は、大和百貨店、海電ビル{現、電気ビル}NHK富山放送局、昭和会館、興銀富山支店、残った建物は僅か6か所。まさに市街地は灰じんに帰した。富山市の目標区域にある住宅密集地の破壊率は99.5%と全国92の被災都市の中でも群を抜いた数字である。

私の両親は滑川の海岸から赤々と夜空を焦がす富山空襲を見たという。私は戦後生まれだから、当然見ていないが、昭和31年9月10日の魚津大火は滑川の海岸から眺めた記憶はある。当日の爆撃地は、富山、長岡、水戸、八王子、川崎石油企業群と5か所であった。出撃したBー29は計858機。内、富山飛来は182機。米軍資料によれば、高度4千m、時速300㎞から焼夷弾を投下すると2.4㎞ほど先におよそ28秒で着弾する。初弾に続いて70発の焼夷弾が十数秒の間に次々と投下され、最初の着弾地点から1㎞ほどにわたって着弾したという。

又、富山への空襲はサイパン島のイスレ―飛行場から182機のB-29が2本の滑走路を利用し、1滑走路あたり1分間隔で離陸し、91分で全機が離陸している。密度を高めることによって、爆撃の時間を圧縮し、避難,、消火活動の時間を与えないことを目的としたという。この為、大空襲の炎から逃れようと、多くの人たちが神通川に飛び込んでいったが、命を落としてしまった人も多かった。

その犠牲者のうち十数名の遺体が数日後、氷見市島尾海岸に流れ着きその中に、赤ん坊を背中に背負った母親の遺体もあったという。それを地元の人たちが、松林に埋葬し毎年空襲犠牲者を悼む慰霊祭が行われ、昭和50年地元有志の方々の手によって、立派な慰霊地蔵尊像が建立された。胸の詰まる思いである。

戦後、軍人には軍人恩給が支給されるようになったし、原爆被爆者援護法が制定された。しかし、何の罪もない人々が家を焼かれ、命まで落とした人々には何の補償もない。割り切れない思いもする。

いづれにしても、無抵抗の市民を無差別に大量殺戮する戦争は絶対やるべきでない。ロシアによるウクライナ侵攻も同様である。万物の霊長である人間の最も愚かな行為が戦争である。

さて、今年は3年ぶりに富山市神通川有澤橋下流で納涼花火が打ち上げられた。富山大空襲の犠牲者への鎮魂、平和への願い、加えて今年はウイズコロナに向けて力強い一歩を踏み出す思いを込めたと言う。その願いが叶うように願わずにはいられない。
写真は、3年ぶりに開催された神通川の花火{テレビより}氷見島尾海岸の慰霊地蔵尊像

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4回目ワクチン接種

散れば咲き 散れば咲きして 百日紅  加賀千代女

猛暑の中でも 豪雨の中でも、散っても、散っても次から次へと咲く百日紅のエネルギーには驚かされる。さて、政府は、第七波の急拡大を受け、14日ワクチン接種を全ての医療従事者、高齢者施設の職員に広げるなどの対策を明らかにする中、全国旅行支援の延期を発表した。
ただ、県内や隣県、広域ブロックの旅行を対象とする「県民割」に対する国の補助は、期限を7月14日から8月末宿泊まで延ばすという。止むを得ないと思う。

国内での1日の新規感染者数は7月13日と14日は2日連続で9万人を超え10万人近くになった。
しかも、感染者の初確認から累計100万人まで約1年7か月かかったが、そこから500万人までは半年余り、さらに1千万人までは4か月余りと増加ペースが速まる傾向にある。感染が広がりやすいとされるオミクロン株の派生型「BA-5」への置き換わりが進んでいるのが一因という。

これから夏休みを迎え、人が活発に行動する季節を考えると、まずは3回目のワクチン接種を受けていない若い世代に接種を強く促す必要がある。経口薬が未だ普及していない現状を考えると、新型コロナウイルスの予防は現時点ではワクチン接種しかない。ワクチンの効果と副反応とを比較すると,効果の方をもっと声を大にして叫ぶべきである。
極めて低い確率といわれる副反応を、ことさら大きく取り上げるのがマスコミである。

いづれにしても、私は、4回目の接種は終わった。重症化率は低くなるというが、絶対安心とは言えぬ。今後も十分注意したいし、一日も早い終息を願うものである。

写真は、4回目の接種風景。

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第55回関西滑川会総会 「芭蕉と滑川」

飛び習う 青田の上の 燕の子  麦水

7月2日関西在住の滑川出身者でつくる関西滑川会総会・懇親会が、3年ぶりに、大阪駅隣接のホテルグランヴィア大阪で開かれ、65人が出席旧交を温めた。久し振りの再会であり、開会前から、あちこちで歓談の輪やグータッチで再会を喜ぶ姿が見られた。

千先久矩会長の挨拶、水野達夫滑川市長、金山隆興近畿富山県人会長、大門良輔県議会議員、土肥正明東京滑川会長が祝辞を述べた。
次いで、不肖私が「芭蕉と滑川」と題し約40分ミニ講演として話をした。{内容は後記}

引き続き、高橋久光市議会議長の発声で乾杯し懇親会に入った。余興として上市町在住の民謡歌手・寺崎美幸さんの民謡や演歌など、たっぷりと1時間余り、また近畿富山県人会「おわら教室」のメンバーによる越中おわら踊りを会員と共に楽しんだ。
和やかな雰囲気で会も進み、最後に尾崎照雄市議会副議長と芦田幸恵関西滑川会副会長によってエールの交換が行われ散会となった。11時から3時まで4時間があっという間に過ぎ去った。

<講演要旨>
演題を何故「芭蕉と滑川」としたか。
①奥の細道紀行の折、芭蕉は滑川に宿泊した。残念ながらそのことさえ知らない人が多くなってきている。その場所は。
②秀吟「早稲の香や 分け入る右は 有磯海」はどこの風景を詠んだのか。

この点について話した。
元禄2年{1689}閏3月27日新暦5月16日、芭蕉と曽良は江戸深川から船で千住へ。そして最後の到着地大垣まで156日、約600里,約2400㎞の奥の細道紀行がここから始まる。北は奥州平泉から山形ー酒田―秋田・象潟ここで日本海側を南下、新潟―出雲崎―直江津―市振から越中に入る。実は滑川では戦前から、芭蕉は滑川で宿泊したと伝承として伝わっていた。
しかし、それを証明するものがなかった。魚津か水橋かとも言われていた。ところが昭和18年天理大学附属図書館で曽良旅日記が発見された。
これによって芭蕉の研究が一気に進んだという。この中に、市振を出発した日7月13日次のように記してある。全文を紹介する。

「13日、市振立。虹立。玉木村、市振より14.5丁有。中・後の境、川有。渡って越中方、堺村と言。加賀の番所有。出手形入の由。泊に至て越中の名所少々覚者有。入善に至て馬なし。人雇て荷を持せ、黒部川を越。雨つづく時は山の方へ廻るべし。橋有。壱り半廻り坂有。昼過、雨為振晴。申の下剋、滑河に着、宿。暑気甚し。」

これによって、芭蕉翁一宿の地・滑川が「伝承」から「事実」と認定されたのである。

又、曽良日記には、その日の天候や宿泊場所が記してある。例えば、千住から山中温泉まで125日間の宿泊地を見ると
①既知の俳人宅―61日間
②紹介状あり―37日間
③名主・検断宅―4日間
④一般の旅人として旅籠屋に宿泊―23日
となっている。

残念ながら旅籠屋であっても名が書いてあるのもあれば、空欄になっているのもある。
滑川と高岡も同様空欄である。それ故、伝承となったのであろう。その上、芭蕉が訪れた当時、越中の俳諧は殆ど談林派が主流で蕉風派はいなかったと言われている。
だから越中では僅か2泊3日で素通りしているし、越中で詠んだと言われる句も早稲の香の一句しかない。故に滑川では友人も知人もいなかったと思われる。そうなると当然宿泊場所は旅籠屋とみるべきだろう。当時旅籠屋は川瀬屋と四分一屋に本陣を務める桐沢家があった。しかし、三軒とも談話派であったが、時代が進むにつれて徐々に滑川を含め越中全体が蕉風派になってゆく。

そして、川瀬屋7代当主川瀬知十を中心に宝暦13年{1763}10月12日芭蕉没70回忌追善法要と追善句会が行われ、各地から多数の追善句が寄せられた。これに蕉風俳諧の書物として「俳諧わせのみち」を発刊する。
これを芭蕉の研究を続けておられた柚木武夫氏が「俳諧わせのみち」が有する資料としての重要性に早くから気付き、その成果を「滑川の俳諧」にまとめられた。その中に、知十ら滑川の俳人仲間たちが芭蕉碑を築き、さらに「俳諧わせのみち」を編集・出版した事情が詳細に記されている。

その概要は次のようである。
「わが滑川は芭蕉翁因縁の地であって「奥の細道」の「分け入る右は・・」の秀吟のお声もこの浦の盧の葉末に残っている感もする。
それでここに蕉翁の霊を祀り、永く風雅の道のたよりにしようと語り合い、幸い翁の70回忌に当たるので、有磯の砂を手でさらえ、荒海に洗われた石を社中とともに肩にかつぎあって徳城寺に建碑した。名は他に求めるまでもない。
「わせの香や分け入る右はありそ海」と碑面に刻して「有磯塚」と称する次第である。

俳諧に志ある者は、今より永く香華怠らず、四季折々ここに訪れ、風雅の一筋を怠り忘れてはならないと、過分ながら敢えて述べる次第である。」以上のように記して、最後に「宝暦13初秋12日 富竹園知十謹記」と記してある。10月12日は芭蕉忌であり、当時徳城寺も川瀬屋も現在の荒町の海岸近くにあったという。

ただ、徳城寺は明治13年浪害の為、現在の四間町に有磯塚と共に移転。知十とは川瀬屋7代彦右衛門のことで、徳城寺歴代住職墓所前の燈籠に名を留めている。知十は明和8年{1771}74歳で死去しているが、墓は徳城寺の墓地にある。有磯塚の後方に、径45㎝ほどの八角石碑があり、知十塚としている。これは天明3年{1783}知十の13回忌に川瀬屋が建てたものである。

有磯塚の句碑は県内に十数基あるが、その中で建立の由緒や年代の最も明らかで、早いのが、この徳城寺の句碑であり、これを築いた由緒を明らかにしているのが「俳諧わせのみち」である。
知十は芭蕉と曽良が川瀬屋に宿泊したことを誇りに思い、、いつの日かそれを世に知らせたかったに違いない。それが建碑や追善句会や「わせのみち」発刊につながつたなのだと思う。

さて、奥の細道の序章に「月日は百代の過客にして、行かふ年も又、旅人也。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらえて老いをむかふる者は、日々旅にして、旅を栖とす。
古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそわれて、漂白の思ひやまず・・・・・」これを英語の先生である滑川高校亀谷校長に、関西滑川会に出席されるから、当日これを英語で発表して頂きたいとお願いしたところ、語彙が豊富な日本語でしかも文学を英語にすることは難しい。と難色を示されたが、当日はスラスラと英語で話されました。

私には正直さっぱり判りませんでしたが、さすが校長先生。大きな拍手が起きました。最後に、何故芭蕉について話をしたか。それは、芭蕉の「奥の細道」紀行と滑川宿泊を顕彰しつつ、本市の芸術・文化の活性化に資するとともに、市勢発展の一助になれば幸いと思った次第です。

写真は、挨拶する千先会長。講演する私。英語で話す亀谷校長。徳城寺の有磯塚と知十塚。

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