なかや一博 ブログ

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色紙・贈呈

幾山河 越えて叙勲・金婚丘に立ち
        夫婦で歩む 米寿への道  一博の詩

11月24日、石井隆一前知事と志保子夫人の叙勲祝賀会に出席した折、駄作として詠んだ一首を山岡寿海さんに揮毫して頂き、石井さんに差し上げました。

前回のブログでも書きましたが、春の叙勲で石井前知事は旭日大綬章、夫人は瑞宝中綬章と夫婦でダブル受賞と中々ない栄に浴されました。しかも、今年はご夫婦にとって結婚50年、金婚の佳節の年でもあることから、朝日町の春の四重奏ではありませんが、石井家の春の三重奏と思います。そんなことで駄作と知りつつプレゼントした次第です。

本人は大変お喜びになりました。特に、お元気で、この調子なら88歳までは元気で活躍できることを、私が保証して事務所を後にしました。

写真は、12月2日、富山市内の(株)石井アソシエイツ事務所にて。

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石井前富山県知事・志保子御夫妻叙勲祝賀会

幾山河 越えて叙勲の丘に立ち
         夫婦で歩む 米寿への道  (一博の詩)

11月24日{日}午後5時より、富山市内のホテルで石井隆一前県知事の旭日大綬章と志保子夫人の瑞宝中綬章叙勲記念祝賀会が300人余の多数のご参加のもと盛大に開催されました。ご夫妻が、同時に叙勲の栄に浴されることは大変珍しいことだそうです。

最初に発起人を代表して北陸経済連合会長・金井豊氏がお二人の略歴・ご功績とエピソードを交え挨拶。次いでお二人の活躍・功績を会場内に設置された大型スクリーンを使ってVTRで紹介。

来賓祝辞及びスピーチ
富山県知事・新田八郎氏、参議院議員・野上浩太郎氏、同・堂故茂氏、元・外務事務次官・谷内正太郎氏、富山大学前学長・遠藤俊郎氏、全国商工会連合会前会長・石澤義文氏、以前国から県に出向され、現在経済産業省経済産業政策局長・藤木俊光氏、総務省大臣官房長・出口和宏氏等、出席県議会議員全員が壇上に上がり、代表して県議会議長・全国都道府県議会議長・山本徹氏が挨拶。
この他多数の方々からスピーチがありました。

記念品として旅行券が富山商工会議所会頭・庵栄伸氏からお二人に贈呈されました。また、尾山春枝さん・岩田繫子さん・千田由美子さん等を含め多数の女性の方々から花束の贈呈。受章者謝辞として、前知事は4期16年を振り返り、常に県民の幸せを願い、県政の運営に努めてきたこと。それも出席者の方々を含め、多くの人々のご支援のお陰と感謝の言葉でした。

また、ご夫人は前知事同様感謝と共に沢山の思い出に触れながら、昨夜主人は、今日の挨拶を色々考えていたようですが、意外に短かったのにはホットしました。との挨拶には会場から笑い声と共に拍手も起こりました。和やかな雰囲気が出たところで、乾杯は、出席した県内市町村長全員が壇上に上がり、代表して富山市長・藤井裕久氏が高らかに盃をあげました。

祝賀会に移り、石井ご夫妻が各テーブルをお回りになり私のテーブルにおいでになった時、私はギネスブックに申請すべき2点がある。1点は、夫人がお話になった通り、いつもの石井さんからすると話す時間が実に短かったこと。正直20分は覚悟していた。それが6分で終わったこと。
もう1点は開会の挨拶から乾杯まで1時間51分。色んな祝賀会に出席したが、今回は長かった。これをお二人の話したところ、大笑いになった。

しかし、多彩な顔触れの人々の祝辞であり、スピーチであるので話題も豊富であり、お二人のエピソードも語られる中、県庁OBの方は、一番のアイデアマンは自他とも認める知事である。その知事が私にアイデアを出せ、とい言われるのには困った。など会場が笑いの渦になる話など、内容の濃い1時間51分でした。

以前・元知事の中沖豊氏の叙勲祝賀会にも出席しましたが、それに劣らぬ盛会な祝賀会でした。最後に息子さんの石井隆太郎さん{財務省勤務で現在・在カナダ日本大使館参事官}がカナダから駆けつけご挨拶をされました。
その中で今年は両親の結婚50年であり、金婚式を記念し6月カナダへご夫婦を招待した。そしてカナダでの旅行を計画した。しかし、父はそれよりAIを始めとした先端技術に詳しい政府の方を紹介してくれるように依頼された。そんなエピソードを披露されました。いかにも趣味が仕事らしい石井さんの人柄を示すエピソードでした。

この話を聞いた時、伊能忠敬の「人間は夢を持ち、前へ歩み続ける限り余生は要らない」ふとそんな言葉を思い浮かべました。閉会の挨拶は富山県商工会連合会長・県議会議員・宮本光明氏の言葉でお披良喜となりました。
実は石井さんが消防庁長官の時、長官室でお会いしたのが初めてでした。そんな縁で平成16年知事選に立候補された時、石井隆一滑川後援会会長をお引き受けしました。そんなことで時々我が家で歓談したりし、ご指導をいただきました。

それ故今回のご案内を頂いたんであろうと思います。共に喜びを分かち合い、思い出話に花を咲かせながら、楽しいひと時を過ごすことができたことに感謝です。

以下、ご夫妻の略歴。

石井隆一氏
1945{昭20}年 富山市西町生まれ、富山中部高校 東京大学法学部卒
1969{昭和44}年 自治省入省
1994{{平6}年 自治省財政局財政課長
1998{平10}年 総務省自治税務局長
2002{平14}年1月 消防庁長官 04年1月退官
2004{平16}年11月 富山県知事に就任
2020{令2}年11月 4期16年で退任
現在・{株}石井アソシエイツ 代表 {消防大学校客員教授、多摩美術大学講師など}

県政の重大事項
財政再建・行政改革の断行―約400億円の財政構造赤字の解消
北陸新幹線の地方負担の大幅軽減{約600億円} 上海便・台北便の開設
「立山黒部」の世界ブランド化と黒部ルートの一般開放
東京への税の過度の集中を是正{約4200億円}し、地方への再配分{毎年の増収、富山県約53億円、市町村約25億円}
その他、分野別の重点事項として、産業、農業、まち・観光、文化・スポーツ・人づくり、環境、医療・福祉、防災などで多くの実績を残されました。
「外部の指標・評価」
一人当たり県民所得 2018年度339万8千円{全国5位} 2006年度{全国8位} Uターン率全国2位 幸福度・日本総合研究所・2020年版 全国2位{生活1位、教育2位、仕事3位、健康5位など}

石井志保子氏略歴
1950{昭25}年 高岡市大鋸屋町生まれ、高岡高校、東京女子大学数理学科卒 1984{昭59}年 理学博士{東京都立大学}
1998{平10}年 東京工業大学大学院理工学研究科教授
2011{平23}年 東京大学大学院数理科学研究科教授
2019{令元}年 中国-精華大学兼職教授{2020年まで}
2022{令4}年 東京大学大学院数理科学研究科特任教授 現在に至る 
専門は代数幾何学、特に特異点理論
1996年猿橋賞受賞
2011年日本数学会代数学賞受賞
2021年日本学士院賞・恩賜賞受賞
著書・多数あり。

尚、私の様な浅学菲才な者にとって代数幾何学や特異点理論と言っても、よくわかりませんが、女性で猿橋賞や日本学士院賞・恩賜賞受賞をされることはとても凄いことである。と同時に日本の数学者の世界では第一人者であることは,誰もが認めるところであります。
略歴などは当日配布された資料より。
尚、祝辞・スピーチは順不同で記したことをご了承ください。

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剱岳&立山

寒天へ おのが刃を研ぐ 剱岳  高島学人

立山連峰の中で、岩肌を剝き出しにし、天に突き出ているのは剣岳だけである。その理由はさておき、746年{天平18年}大伴家持が越中の国守として赴任中、立山を「たちやま」と呼んだ詩を何首も残している。
しかし、奈良時代立山連峰の山々に名前が付いていたとは思えない。現在でも「雄山」はあっても「立山」の山の名はない。つまり3千m級の山々が屛風のように連なっている山々全体を、立つ山・立山と呼んだ、という説がある。

富山平野から立山連峰を眺めた時、畏敬の念や、信仰の対象になりえるのは、岩峰鋭く刀のような鋭いことから「太刀」となり「剣」そして「劔岳」となり、連峰全体を立山連峰と呼んだ。私もその考えを支持したいが・・・・
家持は「立山{たちやま}に降りおける雪を常夏に 見れども飽かず神むらならし」と、夏でも雪のある立山は、いつ眺めても飽きることはない。と詠んでいる。

その立山に雪が舞った。 富山気象台は8日、立山の初冠雪を観測したと発表した。前日には室堂で冠雪あったことは確認されているが、初冠雪の判断は、富山市石坂の同気象台から職員が目視で行う。9~10月が記録的な高温になったことが影響したという。
桜の開花宣言も、標本木に5輪以上の開花を目視で確認するのと同様である。それにしても遅かった。平年より27日、昨年より31日それぞれ遅く、観測史上2番目に遅かった。

富山気象台が1939年の観測開始以降、最も遅かったのは1977年の11月9日で史上2番目の遅さと言う。富士山も同様であった。11月に入り、沖縄県や鹿児島県では線状降水帯発生で、豪雨被害が出た。一方本州では25℃を記録する夏日である。
加えて11月に台風22・23・24・25号と同時に4個が発生することも初と言う。海面の水温が高く、夏モードで台風が発生しやすい状態であると言う。いづれにしてもしても地球温暖化は間違いない。

表句の一句は、私の町内にあった高島医院の医師であり、俳人であった高島学氏{号・学人}の句であり、新雪頂く劔岳の美しさを或は厳冬期の人を寄せ付けない厳しさを表現した名句で私も好きな句の一つである。

写真は、11月9日午後4時30分頃、夕日に映える「劔岳」と「雄山」。市内菰原地内より。

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日露戦争

日露戦争と言えば、旅順要塞攻略の乃木希典やロシアのバルチック艦隊を撃破し、日本海海戦を勝利に導いた東郷平八郎を思い出す。
私は9月東大阪の司馬遼太郎記念館と翌日下関市長府の乃木神社を訪ね、乃木記念館や乃木夫妻と敵将ステッセル将軍から贈られた愛馬壽号の銅像や「尋常小学校国語読本」に掲載された「水師営の会見」の歌に出てくる「庭に一本{ひともと}棗{なつめ}木」の四代目が植えてあった。

これらは先般の私のブログに書いた。その後、10月31日付け北日本新聞に「戦地から家族思い170通、日露戦争出征祖父の手紙書籍化」と題した記事が掲載された。
それによれば立山町から戦地に赴いた男性が、家族にあてた手紙170通を、孫の内田忠保氏が、書籍「望郷の月」にまとめた。銃弾飛び交う戦場での日々や死への覚悟、望郷の念など、一兵卒のありのままの思いを伝えている、県公文書館によると、日露戦争に従軍した兵士の手紙が纏まって残っているのは県内では例がなく貴重だという。

手紙を書いたのは、内田さんの祖父、内田一忠さんで1904年8月31日に召集を受け、金沢の第9師団歩兵第35連隊補充大隊第四中隊に配属される。約70日間の連隊での訓練を経て旅順要塞攻撃や・奉天会戦で防御工作や斥候を担った。1906年2月2日帰郷している。入隊の訓練期間を含め従軍期間は約17か月にわたる。

1904年9月16日の第一報から1906年1月16日付まで170通確認され、従軍期間から考えると実に3日に一通の割りである。「望郷の月」にも解説文を寄せた県公文書館資料調査専門員、栄夏代氏の協力のもと今回出版された。栄氏によれば「激戦をくぐり抜けて奇跡的に帰郷した農民兵が、戦況や感情を自身の言葉で書き残している。とても価値ある記録だ」と説明。

これらの記事を読んだ時、冒頭述べたことも加わり、早速内田さんにお願いし、「望郷の月」を入手し読んだ。記事の中で内田さんは、日露戦争を描いた司馬遼太郎の「坂の上の雲」は将校の物語なら、祖父の手紙は一兵卒の真実の記録。一人一人が笑ったり涙を流したり、様々な感情を抱きながら生きていたことに気付かされる」と述べておられる。私は、本棚から司馬遼太郎の「坂の上の雲」と乃木希典を描いた「殉死」を取り出し改めてこの2冊をサッと読んだ。

「まことに小さな国が、開花期を迎えようとしてしている 四国は伊予松山に三人の男がいた この古い城下町に生まれた秋山真之は 日露戦争が起こるにあたって 勝利は不可能に近いと言われた バルチック艦隊を滅ぼすに至る作戦を立て それを実施した。
その兄 秋山好古は日本の騎兵を育成し 史上最強と言われる コザック師団を破るという奇跡を遂げた もう一人は 俳句・短歌と言った日本の古い短詩形に新風を入れて その中興の祖となった俳人・正岡子規である。彼らは 明治という時代人の体質で 前をのみ見つめながら歩く 登ってゆく坂の上の碧い天に もし一朶の白い雲が輝いているとすれば それのみを見つめて 坂を登ってゆくであろう」

確かに内田さんが指摘するように「坂の上の雲」はこの3人を主人公に物語は展開する事を思うと将校の物語である。しかし、一忠さんのハガキや書簡は前述した通り一兵卒の生の声である。記事の中で、旅順要塞攻撃のさなかに書かれた1904年11月26日付の手紙には「先26日の大砲の声及び小銃の声は天地に轟はたり」「弾丸の下に飯を喰ろて」「わが軍決死隊となり何分此度は戦死か負傷を致す積りと思居り」とあり、激戦の中で死を覚悟したことが読み取れる。

奉天会戦後の1905年3月30日には、自身と同時期に出征した第4中隊の230人が「残念50名をりません」と記し、多くの死傷者が出たことを伝えている。また、内田さんが特に印象に残っているのが、同年2月20日付の一通だ。「こちらで丸い月を眺めた。故郷の家族も変わらず健康で、同じ月を眺めていると思うとうれしい」といった望郷の念がしたためられており、書籍のタイトルはここから着想した。

「戦地でも古里を大切に思っていたことに感動した。人間味にあふれた優しい人だったのだろう」と内田さんの言を報じている。
また、本の中で1905年1月3日付の手紙では、
「謹啓 就いては特に特にたる旅順口もついに1月2日を以て陥落せり 先昨月31日午前7時に出て採業を致す又戦争す翌日明て目出度と新年祝と一度に一の井砲台山を自分我等は占領す又左側の砲台山を35連隊の三大隊を以て占領す又同夜けかん{鶏冠}山を11師団は占領す 実に万歳の声は天下に轟きけり 旅順口は此の山より三・四町程の麓なり故降参人又種々の人名降附せり 就いては我々は明後日を以て旅順口へ入る次第故何分此度は万歳にて正月を致す被下度候 さて軍隊の正月は旅順にて致近頃は隊より沢山なる魚酒沢山牛肉当たる候故又身体は壮健にて旅順口の陥落の採業を致したる事は実に自分等の幸福と云ふべし 就いては近近20日前より日夜寝たる事は実に僅かにて二三夜分丈寝たる事故此度旅順は我々の掌へ入りたり次第実に愉快の事なり 先此度全く壮健にて旅順へ入りたる故御家内始め親類隣近傍迄酒肴にて祝いて万歳を唱へ被下度此段希望仕候 就いては自分之事を寸分たる共心配之無当地の万歳を祈る余は後便にて申候へ共御家内様の壮健を祈る。」

これが1月3日の手紙である。203高地が陥落し、1月2日水師営の民家において日露両軍の委員による事務折衝が行われた。日本軍の委員は伊地知幸介であった。そして5日有名な乃木希典大将とステッセル将軍との「水師営の会見」が行なわれた。故に一忠の書簡は1月2日、3日8日2通、9日、10日付などの書簡は旅順陥落を正月と共に祝い、酒、魚,沢山出され、加えて牛肉まで振舞われたことがわかる。

しかし、この間一日僅かしか寝ていないけど元気でいること、家族の健康を案じていることがわかる。そして、170通に共通しているのは、平和を願い、望郷の念を抑えながらも、家族を案じ、農作業にも心を寄せていることである。ここが、将校の日露戦争でなく、一兵卒の率直な心を吐露した物語との大きな違いであろう。

ご存知の通り日本がロシアに宣戦布告をしたのは、1904年2月10日である.この時陸軍は、すでに第一軍司令官に黒木為禎{ためもと},第二軍司令官に奥保たか、で大陸に兵を展開している。そして旅順の存在を軽視した。10年前の日清戦争の時に乃木希典は旅団長の少将として従軍し、師団と混成第12旅団をもって、わずか1日の攻撃で落とした。しかも、この1日の戦闘で日本軍の死傷者はたった280余名であった。この10年前の経験が軽視の一因となった。

ところが、旅順要塞はその後人知を尽くし,巨費を惜しまず天嶮山に加え,人工の極至をもって築き上げた。露将クロパトキンが「永久に難攻不落である」と言った大要塞であった。この様な状況の中で、日本海軍は旅順港内に停泊中の極東ロシア艦隊がいる。これに自由を許せばやがて極東に回航されるだろうバルチック艦隊に加われば,日本海軍も勝ち目がない。そこで海軍は旅順艦隊を港内に閉じ込めようとした。

旅順港はその港口が極めて狭く、老朽船舶を港口に沈めることによって閉ざそうとした。このため決死の閉塞隊が募られ、敵の要塞砲火を冒して何度も決行するが成功せず、ついに絶望視された。このため、陸軍によって要塞をその背面から攻め、それを攻め陥すことによって旅順艦隊を港外に追い出し、撃沈する以外にないということになった。

海軍は陸軍にそのように要請し、大本営参謀本部も了承した。そして第3軍が編成されることになり、その司令官に乃木希典がなる。乃木は、日清戦争での旅順経験者であり旅順を知っている、土地の案内に詳しい。理由はほぼこれである。乃木が新設の第3軍司令官として現地に赴くべき東京駅を離れたのは開戦後3ケ月を過ぎた5月27日である。

そして、6月1日宇品を出港し、6日、金州湾に上陸した。その後金州城から南山要塞にかけての新戦場を視察した時、乃木は金州城の東門の前に馬をとどめた。。実は長男勝典が小隊をひきい金州城の北門に向かう途中この東門付近にさしかかり、その楼上からにわかに機関銃の射撃を受け南山野戦病院へ担ぎ込まれたが死亡する。この経緯は乃木は知っていた.帰路、夕刻になり、満州特有の血のように赤い落日が南山の一帯を染めた。乃木は馬を止め詩を賦した。

これが有名な「金州城外斜陽に立つ」の漢詩である。
「山川草木転荒涼{うたたこうりょう}十里風腥{なまぐさし}新戦場 征馬不前人不語{馬前に進まず・人語らず} 金州城外立斜陽」と詠んだ。私も、2012年7月この地を訪れた折、この詩の上の言葉を引用して漢詩擬きの詩を詠んだ「山川草木深青松 十里風穏古戦場 人馬一體賑金州 百年遥憶感無量」。

参考まで、正岡子規は日清戦争の時従軍記者として、金州城を訪れた時「春風や 酒をたまわる 陣屋かな」の句を残している。さて、この時でさえ乃木は、現実の旅順要塞は築城を長技とするロシア陸軍が8年の歳月とセメント20万樽を使って作り上げた永久要塞で、すべてべトンをもって練り固め、地下に無数の塹壕を持ち、砲台、弾薬庫、兵営すべて地下にうずめ、それを塹壕と塹壕とを地下道をもって連絡している。

たとえ野戦砲兵をもってこれを砲撃しても何の効果もないことも知らなかった。この様な中で旅順要塞攻撃は8月19日の第一回強行攻撃から何度か繰り返された総攻撃も鉄条網に悩まされ、新兵器の機関銃に倒され旅順の山々の斜面はことごとく日本兵の屍で覆われた。この戦局を変えたのは海岸要塞砲ともいうべき28センチ榴弾砲である。旅順の1m30のべトンを割るには最低22センチの口径の砲が必要だが、日本には28センチ砲がある。東京湾観音埼砲台にそなえられている特殊海岸砲であった。

しかし、砲一門そのものの機構が鉄製の城塞のように巨大で、原則移動は不可能とされ、もし移動するとすれば、その据付工事だけで1カ月以上かかるとされた。しかし、この案以外にないと決定した。日数の多くは砲床のべトンの乾きを待つことであり、直ちに砲床構築班を先発させれば日数の節約になる。おそらく砲が到着してから10日で第一発を打てるとし、そして解体輸送され、戦地に送られる。

203高地。それは旅順攻撃の象徴的存在になったが、この攻略もまた海軍からの要望であった。この高地からは港が一目で見える。ここに28センチ榴弾砲を備え付ければ、旅順艦隊を撃滅することは容易である。その巨砲12門が要塞正面で火を噴いたのは10月1日であった。以後、犠牲を払いつつも2か月後旅順は陥落する。ただ乃木の次男保典も203高地で戦死する。前述した金州城と共に203高地や旅順の水師営の会見場となった民家を私も訪れているので感慨深く内田一忠さんの書簡を読んだ。

さて、司馬遼太郎が乃木希典を描いた小説「殉死」がある。この中で司馬は「筆者はいわゆる乃木ファンではない。しかしながら大正期の文士がひどく毛嫌いしたような、あのような積極的な嫌悪もない」と書いているが、、しかし、「殉死」の文中には、乃木の軍人としての無能さを表現する言葉が随所にでてくる。例えば、司馬は「乃木希典は軍事技術者としてほとんど無能にちかかったとはいえ、詩人としては第一級の才能にめぐまれていた」や「児玉源太郎にとって乃木は無能で手のかかる朋輩はなく、ときにはそのあまりな無能さゆえに殺したいほどに腹だだしかった」など数多くある。また、乃木自身も戦いが終わった直後、陸相の寺内に出した手紙に、「無知無策ノ腕力戦ハ,上二対シ下に対シ、今更ナガラ恐縮千万二候」と手紙に書いている。

この様に乃木の軍事的無能さを表す文章は「殉死」の中で随所にでてくる。無論これは、司馬のあくまで小説であり、これに対し反論もある。ただ無能な司令官を何故更迭ができなかったか。それは理論的には攻略中に司令官を更迭することは、全軍の士気に悪影響を及ぼすということと、海外特派員によって世界にそのニュースが流れることは、戦費調達のための国債の発行にも大きな影響があったと思われる。
いずれにしても、軍神と言われた乃木希典がもし「殉死」の小説の通り軍事的には無能な指揮官であったら、そのもとで古里を思い、肉親を思い、友を思い、農作業を心配しながら死んでいった兵士は浮かばれないと思う。

つまり、日本国,或は都道府県や市町村の司令官が政治や自治に、また会社の司令官が企業の経営が無能であったら、それこそ国民や社員が不幸になる。そんなことを考える機会でもあった。
私が203高地を訪ねた時、「爾霊山{203高地}には砂礫に混じっていまも無数の白骨の破片がおちている」とか「雨が降れば人のあぶらが流れる」と言ったような話がまことしやかに語られていた。そんな激戦地を生き延び、その後北進。、これも激戦の奉天会戦で第一線で戦い生き延びた内田一忠さんは奇跡のようなものである。その彼が残した170通余りのハガキや書籍は、歴史的にも貴重な資料であり、これを出版されたことは、内田家の先祖への供養にもなったことと思う。

「記憶とは、いつか忘れ去られる。記録は一と時の出来事を永遠なものにす事が出来る。記録は、世の片隅の出来事を、全体なものにすることが出来る。記録は、名もなき人の行為を、人類に結びつけるも出来る。記録のみが、消えゆくものを不死なものにする事が出来る」改めてこの言葉を思い出した。

尚、一忠さんはその後、村会議員や村の助役も務めたという、几帳面で誠実な人であったろうと思われる。
尚、文の一部は司馬遼太郎「殉死」文芸春秋発行「坂の上の雲」と「日露戦争」より引用。

写真は、
①内田忠保氏出版の「望郷の月」
②1905・1・5旅順の水師営の会見で乃木将軍とステッセル将軍
③2012・7水師営会見場で私
④乃木将軍の漢詩と私の漢詩擬き
⑤奉天城内八将軍の会合 左寄り黒木第一軍司令官・野津第四軍司令官・山形有朋元帥・大山巌元帥参謀総長・奥第二軍司令官大将・乃木第二軍司令官大将・児玉源太郎満州軍総参謀長大将・川村景明鴨緑江軍司令官大将・明治35年{1905}7月26日撮影

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菊地第11代氷見新市長を励ます会

金色の 小さき鳥の形して
       銀杏散るなり 夕日の丘に  与謝野晶子

能登半島地震で年が明け 猛暑、台風、線状降水帯によるゲリラ豪雨被害など、各地で観測以来の何々新を数多く記録した今年も、2か月を切った。

さて、林氷見市長の健康上の理由で突然の辞任表明後、自薦他薦など数名の名前が挙がったが、最終的に自民党氷見市連や経済界などを中心に協議の結果、富山県経営管理部次長‣菊地正寛氏{56歳}が即戦力としての期待から、林市政の後継者として一本化され候補者として要請されました。

これを受け本人も熟慮の結果要請を受託し、県庁を退職し選挙戦に望まれました。結果は無投票当選の栄に浴され、11月9日から第11代氷見市長に就任されることになりました。無投票当選は、本人の人徳のしからしむところと思います。

氏とは、以前からの知人であることから、11月1日氏の友人を交えて、ささやかなお祝いと激励会を開きました。
また、当日は水野市長も出席し互いの情報交換も含め、親交を深めたようでした。

私からは、人生の先輩の一人として、市長は政治家であり、行政の長であることから、次の言葉を贈りました。
「政治とは、現実を理想に引き上げる機能であり、自治とは「耕不尽」耕せど尽きることなき営みである」と述べ激励しました。

氷見市は、能登半島地震からの復旧復興が急務の中、様々な問題が山積していますが、菊地さんなら豊富な行政経験を基に、必ずや市民の負託に応えてくれると思います。また、菊地さんも全力で頑張る旨、力強い発言もありました。

6時30分から9時30分まで、約3時間あっという間に過ぎ去りました。

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