なかや一博 ブログ

月別アーカイブ: 2025年5月

第24回清水寺貫主森清範猊下講演会

飛び習い 青田の上の 燕の子  麦水

5月25日{日}午後3時30分より、恒例の京都清水寺貫主森清範猊下をお迎えしての市民文化講演会{主催・滑川音羽の会会長・中屋一博}が「我がこころ 鬼も仏もすむなり」を演題に300名余の多数の来場者のもと盛会理に開催されました。

当日は朝から小雨模様でしたが、講演会が始まるころには晴れ上がり青葉・若葉が色鮮やかに会場を包みました。当日富山駅へお迎えに行き1年ぶりの再会を共に喜び合いましたが、ホームを歩くお姿は足取りも軽く、とても85歳とは思えない元気さには私も驚きました。

さて、冒頭私は挨拶で平成10年、故・石倉宗一氏のご尽力で第1回の講演会が開催されてから早いもので、もう27年になります。しかし、コロナ禍で2度、ご本人のご都合で1度計3度開催できませんでしたので、今回は24回目です。
でも24回も同一地区で開催しているのは滑川だけだそうですから本当に有難いことです。と話しました。

そして清水寺中興の祖と言われ、森猊下の師であり、本日、前講を頂く清水寺執事大西英玄氏の祖父である大西良慶和上について話しました。和上は昭和58年2月15日「涅槃の日」に109歳の長寿と長命で示寂されましたが、昭和20ー30年代に何度か滑川で宿泊され、その足跡は色紙や掛け軸となり市内の公民館等に掲げてあります。
また、その年月は不詳ですが「滑川行」と題し漢詩を詠んでおられます。{別掲}

その時から清水寺とご縁があり、それが森猊下、そして和上のお孫さんである大西英玄さんへと引き継がれてきていることに、改めて滑川と清水寺とのご縁を感じることなど話しました。

講演は、まず前講として演題はありませんが大西様から、昨今の体験の中から、約20分お話がありました。次いで、森猊下から「我がこころ 鬼も仏もすむなり」の演題で1時間にわたり時々ユーモアを交え大変分かりやすく話されました。会場からは来年も是非との声が寄せられ、主催者として安堵しました。
その後、会場を厚生連滑川病院中庭に移し,了安の墓石に清水寺の音羽の滝の水を竹筒に入れてわざわざ持参された水を墓石に掛け読経を読まれました。

了安・安静親子もきっと草葉の陰で喜んでいることと思います。これにまつわる孝徳泉の民話は昨年書きましたので今回は省略します。読経終了後、猊下は「全国色々の所へ講演に行きますが、病院の中で、読経をあげるのはここだけです」と笑いを誘われます。
その後、宿泊先で音羽の会メンバーと懇親を深め、翌朝我が家にお立ち寄りになり、しばし、歓談しました。その時私は、ロシアとウクライナの戦争に触れ、バチカンのローマ・カトリック教会新教皇レオ・14世は和平の会談の場を提供しても良いと述べられました。

私は、ロシア正教もウクライナ正教も同じカトリックである。両国の司祭をバチカンに招き、ここで世界宗教者会議を開催して世界に向けて和平へのアピールすべきでないか。それを提案できるのは森猊下しかいない。と申し上げました。
明快な回答は得れませんでしたが、2時間余りの滞在後、お二人は元気で京都にお帰りになりました。

「滑川行」
 残雪連峰有別天  残雪の連峰別天有り
 風吹新樹景光鮮  風新樹に吹き景鮮やかなり
 挿苗未了忙人馬  挿苗いまだおわらず
 我亦欲耕大福田  我もまた大福田を耕さんと欲す

 「大西良慶選集」第3巻 昭和60年刊{便利堂}

写真は、挨拶する私。講演中の森猊下。大西英玄執事。我が家にて。

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第68回東京滑川会総会・懇親会

一点の 偽りもなく 青田あり 山口誓子

5月24日{土}午前11時より東京滑川会{会長・土肥正明}総会・懇親会が大手町サンケイプラザで約75名の参加を得て、盛大に開催されました。

総会は土肥会長の挨拶で始まり諸議案が滞りなく承認された後、私を含めた来賓の紹介があり、そのあと「生涯現役・人は生涯進化成長する」をテーマに講演者は「{一社}LIFE・OF・LIFE協会」原田あつ子代表理事です。
彼女は昭和女子大を卒業後渡米、日本ではまだ馴染みのなかった「エアロビックス」をマスターし日本に持ち込んだ、いわば先駆者の一人だそうです。

故に、自ら現在69歳と名乗り、その年齢とは思えない若々しい容姿は、エアロビックスで作り上げたものであり、我われにも簡単な健康法を指導されました。また、小麦、サラダ油,砂糖、乳製品は控えたほうが良いとのアドバイスを頂きました。
実は、彼女は私と同じ滑川市加島町2区出身で小さい時から知っていました。彼女が獅子舞に出た時、私に教えてもらったことも覚えていました。もう60年も前のことですが、幼い時の面影があり話が弾みました。

12時から懇親会に入り、来賓の水野市長、蓑口富山県首都圏本部長代理、東・東京富山県人会連合会専務理事から挨拶があり、次いで千先関西滑川会会長が乾杯し和やかに懇親に入りました。
初参加者の紹介がありましたが、4月に滑川市博物館で開催された高島高展で講演された伊勢功治さんも挨拶に立ち、高島高について話されました。

余興はいつものことながら、会員による郷土の民謡「新川古代神」と「越中おわら節」が披露されました。また、じゃんけん大会での勝者には、話題のお米、しかも滑川の「コシヒカリ」がプレゼントされるなど,いやが上にも会場は盛り上がりました。

最後に「滑川市の歌」と「故郷」を全員で合唱。竹原市議会議長と上田東京滑川会前会長よりそれぞれエールの交換があり、常田副会長の閉会の辞で幕を閉じました。

いつも思うことですが、遠く故郷を離れていても、故郷を忘れることなく、ふるさとの発展を願っておられる方がおいでになることは本市にとって本当に有難いことです。

写真は、挨拶する土肥会長。講演する原田{旧・民谷}あつ子さん。

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静嘉堂文庫美術館

5月23日上京の折、東京丸の内にあるこの美術館を訪ねた。
三菱の創業者である岩崎彌太郎の弟である岩崎彌之助{1851–1887}が廃藩置県や廃仏毀釈で美術品が海外を含め散逸することを憂慮し収集し、その子、小彌太{1879-1945}に引き継がれ、親子二代によって創設・拡充され国宝7件、重要文化財84件、約6500件の東洋美術品、約20万冊の古典籍を収集し収蔵した。

明治25年東京駿河台の岩崎彌之助邸内に美術館を創設。次いで、小彌太が高輪邸に文庫を開始し、活動が継続されました。
1940年{昭和15}財団法人静嘉堂を設立。小彌太没後の1946年{昭和21}、その遺言によって、国宝,重要文化財を中心とする美術品が孝子夫人から財団に寄贈されました。

1992年{平成4}静嘉堂創立100周年を記念し、静嘉堂文庫美術館を新設。2021年{令和3}6月まで、世田谷区岡本の地で展覧会が開催されていましたが、創設130周年の2022年{令和4}10月岩崎彌之助が美術館建設を願っていた東京丸の内の地で、重要文化財の明治生命館1階で展示活動が始まりました。静嘉堂の名称は中国の古典「詩経」の大雅、既酔編から採った彌之助の堂号で、祖先の霊前への供物が美しく整うという意味です。{パンフレットより}

美術館所蔵の中で特に有名なのは国宝、「曜変天目」といわれる一腕です。私の見た感じでは直軽約10㎝程、高さ約7-8㎝程度の小さな茶碗でした。
パンフレットによれば、静嘉堂の「曜変天目」は「稲葉天目」とも言われる。健窯 南宋時代{12ー13世紀} 建窯の黑釉茶碗で、斑紋の周囲に青色を主とする光彩があらわれたものをいう。完全な形で現存するものは、世界で京都大徳寺塔中龍光院。大阪の藤田美術館と静嘉堂の3点のみである。本作は、光彩が全体に鮮やかに現われた一腕。江戸時代3代将軍家光が春日局に下賜したと言われる。

それが春日局の孫・稲葉正則に譲られ、淀藩主稲葉家に伝わったため「稲葉天目」とも言われる。1918年{大正7}稲葉家から親戚の小野家に渡り、1934年{昭和9}岩崎小彌太所有となった。」世界に3点しかないのが、全て日本にある。つまり本家の中国にもないということです。

私のような素人でも、神秘的な輝きを持ち釉薬に浮ぶ虹色の光彩による謎めいた美しさには暫し見とれた。それ故、今日まで多くの人々を魅了し続けるのであろう。      

写真は、展示してあった「曜変天目」茶碗。
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獅子舞

5月21日ー23日加積雪嶋神社{祭神・大山咋命}の春季例大祭宵祭に加島町2区と加島町3区の獅子舞が毎年交代で披露・奉納される。
今年は2区の番であった。早朝8時、神社に到着すると、神社入り口から
①前踊りが始まり、②ノッタノッタ演目で獅子頭を先頭に、幼児を胴幕の上に乗せて歓声と共に拝殿を駆け上がって鈴を鳴らす。
以後、③デンデコ、④キリコ、⑤カタナ、⑥マサカリ、⑦カサ、⑧ヤリ、⑨エグル、➉ダイカグラ、⑪タルと県内の獅子舞の中でも踊りの数は最多である。
ノッタノッタの踊りは県内でも珍しいと思う。

以後、拝殿前で前述の全踊りを披露・奉納し、再び前踊り、ノッタノッタで神社を後にする。
その後地元2区を皮切りに、氏子町内を一巡する中で、地元の田中小学校の昼食時に全校生徒が前庭に集まり、全演目を披露する。獅子舞は始めは獅子を誘い出し、男の子はカタナ、マサカリ,ヤリなどを持って獅子と闘いを繰り広げる。女の子は、キリコ,カサで獅子を幻惑する。男の子が獅子に酒を飲ませ刺し殺す場面で最高潮に達して終わる。

最後は、ノッタノッタの演目で退場する時には生徒から大きな歓声と拍手が沸き起こった。2区は女 {雌}獅子で優雅な舞い、3区は男 {雄}獅子で勇壮な舞いと言われる。踊り子は幼児から小学6年生までで,獅子頭や胴幕そして太鼓や笛などは大人が演ずる。
こうして神輿の露払いの役目を果たしつつ予定のコースを回り、夕刻神輿が神社に戻る前に獅子も神社に戻り、出発時と同様全種目を演じ一日を終える。幼児や同行の保護者には難儀な一日の行程だったと思う。

市内で獅子頭が保存されている所は、加島町2区、3区、蓑輪、寺家町であるが、蓑輪は昭和54年を最後に踊りは休止している。このほか擽原神社にも獅子頭のあったことが記録されているが、詳細は不明である。県内では、呉西の氷見、射水、高岡、砺波などは、各町内ごとに獅子舞があるくらいですが、これに比べると呉東は僅かです。
呉羽山を境に加賀百万石の影響の違いかと思う。僅かに百万石の影響を感じるのは、岩瀬と八尾の曳山祭りであろう。

尚、加島町の獅子の起源は明らかでないが、明治の初期能登通いの帆船が、能登ー射水ー滑川のルートによって伝えられたという。高岡市牧野の獅子に似ており、射水系の流れを汲むという。

いづれにしても、良き伝統は残して行かなければならない。僅か2週間余りの練習期間であるが、子供たちの絆、保護者を含めた連帯感の醸成など伝統行事の継承が果たしていることを忘れてはならないと思う。
また、地元の小学校で全生徒に披露するのも他市では見られないことである。ただ、少子化の影響は踊り子の減少に繋がり、今回は15名の参加で、一人何役もの掛け持ちであり今後の課題である。

私も幼稚園児の時から6年生までは踊り子として、ノッタノッタに胴幕の上で舞ったこと、社会人になってからは獅子頭を持ち、また胴幕に入り、口上を唱え70歳近くまで獅子舞に参加した思い出は忘れることはできない。
私から子へ孫へと引き継がれていく獅子舞。末永く残したいものです。

写真は、ノッタノッタで神社に入る。我が家の前で獅子頭を持つ息子。自宅前を通過する神輿。

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外交史料館

日本列島の広い範囲で夏日が観測された5月14日、全弓連理事会で上京の折、外務省外交史料館を見学した。
これは「外交資料の保存管理および公開の業務を行い、内外の研究者等に正確な資料を提供するとともに「日本外交文章」の編纂・刊行の業務を行い、わが国外交に関する国民の理解に資するため、1971年{昭和46}年4月、外務省の一施設として開館しました。

そして、2024{令和6年}4月、外交史料館に隣接する麻布台1-5-3麻布台ヒルズ森JPタワー5階に展示室を移転し、従来の展示内容をさらに発展させて、本展示室を開設しました。日本が国際社会へと踏み出していった幕末から21世紀に至るまでの日本の外交活動の歩みを、外交資料を通して知っていただくとともに、外交活動への理解を深めるきっかけとしていただければ幸いです。{外交史料館常設展示解説のはしがきより一部抜粋} 現在約11万5千点が収蔵されている。

滑川市博物館と規模・展示内容の違いがありますが、目的や役割は同じと思います。また、企画展として「吉田茂展」が開催されていました。
さて、我が国は1953{嘉永6年}米国のペリーが来日し日本に開国を迫りました。その翌年1854{嘉永7年}3月3日「日米和親条約]が結ばれ鎖国政策は転換期を迎えた。

続いて1855{安政元年}伊豆下田に来航したロシア側全権代表プチャーチンと日本側全権・筒井政憲等の間に日魯通好条約結ばれた。当時択捉島とウルップ島の間に自然に成立していた日本とロシアの国境を確認し、樺太島には国境を設けずに、これまで通り両国民の混住の地とすると定めた。この日が2月7日であり、ロシアとの正式な条約で日本固有の領土として確定した。

その後、オランダ・イギリス・フランスなどとも不平等ながらも条約を結ぶ。いわゆる安政の5か国条約である。1875{明治8}年5月7日榎本武揚、ゴルチャコフ両全権が、サンクトペテルブルクで、樺太島をロシア領、千島列島を日本領と確定する「樺太千島交換条約」を調印、批准書を交換する。

また、1905{明治38}年9月5日露戦争後の「日魯講和条約」{ポーツマス条約}が日本側全権小村寿太郎とロシア側全権ウィッテにより調印された。これにより樺太の北緯50度以南が日本に譲渡されました。その後、1941{昭和16}年4月13日、モスクワにおいて松岡洋右外相とモロトフ外務人民委員が「日ソ中立条約」を調印。内容は両国の友好関係の維持、相互不可侵、締約国の一方が第3国による軍事行動の対象になった時、他方は中立を維持することなどを規定した。

しかし、1941{昭和20}年8月9日、一方的に破棄し満州へそして8月18日北方四島に侵攻、不法に占拠し今日に至っている。国と国とが条約で交わした約束事を実に簡単に破ってしまう。
幕府が強固な基盤の時は鎖国の鎖は効力を発揮するが、国内が「佐幕だ攘夷だ勤王だ公武合体」だと内輪もめし、国力が弱体化している時は、強者によっていとも簡単に鎖国の鎖は切られてしまう。「日ソ中立条約」もしかりである。

1951{昭和26}年のサンフランシスコ講和条約でも、日本の領土に関し、第2条、第3条で朝鮮、台湾、千島列島に対する権原等の放棄は言っているが、日本の固有領土である北方四島は含まれていない。それ故、戦後2月7日を北方領土の日として返還運動を行っている。

さて、日ソ関係に字数をかけすぎたが明治政府は多くの国々と外交関係を構築していく。
1871{明治4}年、岩倉具視を特命全権大使とする総勢100名以上の使節団を欧米へ派遣。1871{明治4}日本と清国との間で日清修好条規を結ぶ。1876{明治9}朝鮮との間で日朝修好条規を結び、欧米諸国と同様にアジアの国々とも条約に基づく外交関係を構築する。
1888{明治22}年11月30日、日墨{メキシコ}修好通商条約調印。1894{明治27}年7月16日、日英通商航海条約調印。日本は領事裁判権の撤廃、関税自主権の一部を達成した。1911{明治44}年2月21日調印。本条約等の締結により、日本は関税自主権の完全回復に成功し、幕末以来の重要課題であった不平等条約の改正を達成した。

米国トランプ関税に悩む昨今の日本と幕末から50年余り領事裁判権と関税自主権の問題にに奔走する明治の政治家の名前が交錯した。

「吉田茂展」
私から吉田茂について述べるのはおこがましいので、パンフレットと展示資料の解説から抜粋して記します。
「吉田茂は、戦前期に外交官としてのキャリアを歩み、戦後は首相としてサンフランシスコ平和条約と日米安全保障条約を締結するなど、現在に至る日本の外交路線決定に重要な役割を果たしたことが知られています。

日本外交史上の業績はもちろんのこと、その人物像も注目され、様々な方面からの様々な評価があります。「ワンマン宰相」や「バカヤロー解散」といった、辛辣ながらユーモラスな言葉で評された個性は、吉田の魅力を反映したものといえるかもしれません。

「吉田茂を語るエピソード」
①裕福な育ちの「若さま」
自由民権運動家竹内綱の5男として生まれた吉田は、横浜の貿易商吉田健三の養子となり、健三の死去によって11歳にして莫大な財産を相続しました。義母からは「若さま」と呼ばれて大事にそだてられました。外務省入省当時は白馬に乗って通勤していたという話が伝わっています。

②ユーモラスに描かれた「ワンマン宰相」
強烈な個性をもち、ワンマン宰相とも呼ばれた吉田は、総理在任中、新聞の風刺漫画の格好の題材となりました。カッパのイラストで知られる漫画家の清水崑は吉田本人とも親交があり、吉田の姿をユーモラスに描きました。

③吉田を支えた人脈
明治の元勲、大久保利通の息子で内大臣を長く務めた牧野伸顕の娘と結婚したことは、戦前の吉田が政治的に活躍する際の大きな助けとなりました。戦後は自らの政治基盤を支えるために、官僚だった池田勇人や佐藤栄作などを政界に誘い入れ、後の日本を背負う政治家に育てました。

④皇室への敬意
吉田は、「皇室を尊崇するのが人倫の義であり、社会秩序の基礎である」と考えていました。米寿のお祝いとして昭和天皇から鳩杖が下賜されました。

{パンプレット、吉田茂を語るエピソードより}

吉田邸2階応接間にあった衝立 {縦・横2m程}
吉田が尊敬していた人々の書翰が貼付されている。政局、時勢論から個人的な依頼、礼状、まで幅広く、吉田の人物交流が分かる、表面・西園寺公望・山本権兵衛・原敬・鈴木貫太郎・若槻礼次郎・-牧野伸顕・犬養毅・竹内綱{吉田の実父}・池田成彬{元蔵相}
裏面・岡田啓介・幣原喜重郎・鈴木貫太郎・犬養毅・米内光政・牧野伸顕・古島一雄{元犬養毅の側近}

吉田は、自分が尊敬していた人々の書翰を収集して、この衝立に貼り、よく眺めていたという。

また、サンフランシスコ平和条約受託演説で読み上げた原稿は、当初英文であったが、急遽日本語に書き換え、演説15分程前に出来上がったという。全長は、30m近くあり、外国人記者から、{トイレットペーパーのようだ}と評されたという。

ここに紹介したのは展示資料のごくごく一部であるが、幕末から戦後の沖縄返還協定署名本書や田中角栄総理が北京を訪問し周恩来国務院総理らと国交正常化に関する協議を行い、日中共同声明の署名書原本までの多くの条約・批准書、調印書、認証謄本、議定書、共同宣言署名本書等の貴重な資料に加え、関税自主権、領事裁判権など不平等条約の改正に奔走した先人たちの営為のあとを回顧するよい機会であった。

特に私は関心を持ったのは、1855年・安政元年2月7日調印の「日魯通好条約」。
1875年・明治8年5月7日調印の「樺太千島交換条約」。
1905年・明治38年9月5日調印の日露講和条約{ポーツマス条約}。
1941年・昭和16年4月13日調印の「日ソ中立条約」。
1956年・昭和31年10月19日署名の「日ソ共同宣言」など「日魯」「日ソ」と結んだ条約や宣言に興味を持った。

吉田茂は1964年・昭和39年大勲位菊花大綬章を授与され、1967年・昭和42年10月20日89歳で死去。戦後初の国葬が執り行われました。

写真は、パンプレット。吉田茂について。日魯通好条約。サンフランシスコ講和条約原稿。書翰が貼付された縦・横2mの大きな衝立。

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