なかや一博 ブログ

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没後70年・北方の詩人 高島高

富山県を代表する詩人であり医師であった高島高{本名・高嶋高1910ー1955}の没後70年を迎え、企画展が4月4日{土}–5月11日{日}まで市博物館で開催されました。
今回は、高嶋家よりお借りした資料や博物館所有など計3200点以上の中から、280点余りが展示されました。

さて、高島高は明治43年7月1日滑川市西町{現・加島町3区}で医師・高嶋地作・静枝の二男として生まれる。現在地の加島町2区には、昭和6年新築移転す。旧制魚津中学2年の時、母の死に会う。旧制魚津中学在学中から詩作を始め、日本大学文科に進むも、父の願いを受け入れ日大を中退し、昭和医学専門学校{現・昭和大学}に入学し昭和11年卒業した。詩作は早く同8年、萩原朔太郎、北川冬彦らの詩選コンクールに当選し、以後北川冬彦に師事し、同人として詩壇入りした。

昭和13年詩集「北方の詩」を刊行のあと帰郷して医業に従うかたわら詩作を続け第二集「山脈地帯」を出す。18年応召、軍医として、フイリピン、シンガポール、タイを転戦した。21年復員し23年「文学組織」「北方」を創刊。25年「北の貌」を上梓した。

そして、自宅の一室を「北方荘」と名付け立山を主題とした山岳詩を発表するなど活躍したが、昭和30年5月12日44歳の若さで病没した。本展では高嶋家に残る関連資料、滑川町の俳諧結社「風月会」でも活躍した父・地作に関する資料を通じて,高嶋家と詩人・文人たちとの交友と高島高の生涯の展示であったが、パネルや写真を多く用い私のような素人にも分かりやすく展示してありました。

高島高先生が44歳で亡くなられた昭和30年は私は8歳である。町内が同じで、しかも近所であり医院の前庭でよく遊んだ。先生が往診に利用されたのは人力車であった。車庫は現在更地であるが加島町2区公民館斜め向かいであった。
先生亡き後、昭和30年代半ばまで車庫に人力車があったと思う。私の母が、私が幼き頃、人力車を見るとそれに乗りたいと言って母を困らせたという。また、私が3歳の頃高熱を発し、往診に来て頂いた時手遅れになっていたら大変なことになっていたという。

この2件正直言って私の記憶にない。しかし、人力車の先生の姿は憶えている。高先生亡きあとは、先生の弟さんの学先生が医院を継承された。学先生の長女の方と私は同級生であり、その弟さんも医師となり、大学病院や公的病院で活躍されよく存じ上げている。令和3年12月富山市立図書館で開催された高島高シンポジウムで久しぶりにお二方とお会いした。また、今回の企画展の開会式でも、また、最終日の5月11日にもお会いし、しばし思い出話に花が咲いた。

私は以前から、博物館とは利を生む施設でなく、それぞれの地域の民俗や文化・考古学・芸術・歴史的出来事等の歴史を正しく事実として後世に伝えていく為に、資料収集やそれを保管し、機会を通し市民に公開する為の施設と思う。

それと常々思うことだが、滑川市が生んだ偉人はたくさんいる高島高先生もその一人であろう。椎名道三、岩城庄之丈、中川幸子、高階哲夫を始め数多くおられる。確かに、「光り輝く滑川の人物ものがたり」として平成24年3月市教育委員会より小冊子として発行されているが、偉人伝シリーズとし今回のように企画されても良いのではなかろうか。

また、例えば電気争議や小作争議そして米騒動など滑川で発生した大きな出来事など{但し、米騒動は発生から100年などで企画展あり}繰り返し機会を作り、伝えてゆく必要があると思う。俳聖芭蕉が奥の細道紀行の折、滑川で宿泊したことさえ、知っている市民が少ないことを残念に思う。

「伝承なきところ モラルなし」

高島高の詩碑が市内に2基ある。昭和40年5月12日、没10年の命日に
行田公園内に北川冬彦揮毫による「続・北方の詩」の一節から

剣岳が見え
立山が見え
一つの思惟のように
風が走る

平成10年{1998}9月18日有金野球場と本丸球場の間のポケットパークに建立された「力」の詩碑

「力」
肉体をつらぬく焔がある
この焔をこめて燃え上がった生命{いのち}があるというのだ
ぶつかれ!

尚、今回の企画展に併せて、滑川書道連盟の皆さんによる「高島高―心に響く詩の書展」と題し21点の力作も出品され、企画展に花を添えた。

写真は、現在の高嶋医院。行田公園内の詩碑。有金球場の詩碑「力」。学先生のご長男と。

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15周年記念祝賀会

散る花や すでにおのれも 下り坂 一茶

5月9日{金}富山県工業課程高校同窓会連絡協議会{会長・宮本光明}が、富山市内パレブラン高志会館で10時半より総会、11時半より昼食を兼ねた祝賀会が、新田知事、武田県議会議長、水野滑川市長等、多数の来賓と関係者等100名余を迎え盛大に開催されました。
祝賀会は、宮本会長の挨拶に次いで、前述した3名が来賓を代表しそれぞれの立場で祝辞を述べられました。乾杯は県工業教育振興会の村田氏が行い、和やかに懇親会に入りました。

さて、この協議会は34校の県立高校の中で、工業課程が設置されているのは、砺波工業、高岡工芸、富山工業、富山北部{薬業科}、滑川{薬業科},魚津工業、桜井{土木科}、の同窓会で結成された連絡協議会です。主な目的は、ものつくり県を標榜する富山県において、その工業分野へ有為な人材を輩出し、工業県としての名声を高めると共に、時として関係機関に提言を行うことなどである。

事業として春の総会、秋は例会として、7校持ち回りで学校の施設や設備等の見学と市内企業見学を行い,企業家と意見懇談会など開催している。
昨年秋は滑川高校が担当し、学校施設として、海洋深層水を使用してサクラマスの養殖をしている実習棟や創立100年を記念して建設した「滑川高校歴史資料館」などを見学後市内の「スギノマシン」を視察し役員と懇談した。設立以来10年が経った令和2年に記念事業が計画されたが、ご存知のコロナ禍で延期となり今回の15周年記念となりました。

ところで昨今、少子化の影響で、高校再編・教育改革が叫ばれ、「新時代とやまハイスクール構想検討会議」{会長・新田八朗知事}の初会合も開かれ、2038年度までに新設する大規模校の設置方針や、28年度ごろを目途とする直近の再編統合を巡る本格的な検討会もスタートしました。

県教委の基本方針は、38年度までに3期に分けて再編統合を進め、現在の全日制34校を20-22校程度に集約するほか、校舎を新築する1学年320人以上の大規模校を設けることを盛り込んだ。この様な中で総会が開催され、やはりこの問題が話題になった。

宮本会長は、検討会が始まったばかりであり今後注視してゆきたいと述べられたが、関心の高さが現われた総会であった。
尚、祝賀会は私の一発締めで閉会となった。
写真は、冒頭の挨拶する宮本会長。祝辞の新田知事、水野滑川市長。閉会の一発締めの私

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令和7年薬神神社春季例大祭

恒例の薬神神社例大祭 {主催・石倉雅俊薬神神社奉賛会会長}は雲一つない好天に恵まれた5月8日午前9時より挙行された。
ここ数回は荒天で雪嶋神社社務所の中から、薬神神社に向かっての遥拝参拝でしたが、やはり青空の下で木々に囲まれた中での参拝は格別です。

最初に青年部の若宮君の進行で、横川宮司による祝詞奏上に次いで、石倉会長、顧問の私を含め薬業関係者に続き、水野市長、竹原市議会議長、大門県議、杉田市商工会議所専務理事等順次玉串奉奠を行い、商売繫盛、交通安全等を祈願しました。

石倉会長は挨拶の中で、正月以来体調を崩し、先日回商の折、お得意様に体調の変化を話し、いつまで来れるかわからない。と話したところ、お得意様から是非頑張って引き続き来てもらいたいと強く要請された話をされました。
これを聞いた石倉会長は、自分を必要とする人がいる限り、頑張ろうと思った。と述べ業界の話も交え共に頑張ろうと士気を鼓舞されました。

私は、この話を捉え、これが配置薬業の原点である。お得意様との信頼関係は、配置員が数年ごとに代わる販社には出来ない一人帳主の強みである。業界は厳しい状況にあるが我々だけが厳しいのではない。米国トランプ大統領の関税問題で厳しい状況にある企業も多くある事を考えると、ピンチをチャンスと捉える機会でもある。だからここは踏ん張りどころ。物事を前向きに捉えることの重要性を話しました。

来賓の水野市長は自分の父は売薬だったこと。そのあとを弟が引き継いで島根県を回商していることを話し、滑川市の伝統産業である配置薬業を絶やしてはならない。その為にも市として出来る限り支援していくなど、力強い言葉を頂きました。
他の来賓の方々からも、それぞれの立場で、薬業に理解を示す挨拶でした。

約1時間余りの厳粛な例大祭でしたが、お盆での再会を楽しみに終了し散会しました。

写真は、玉串奉奠の私と挨拶する石倉会長。

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令和7年琵琶春季演奏会

桜花爛漫から百花繚乱へ季節は移り、抜けるような空の青さに心地よい風が吹く5月5日、錦秋流琵琶富山支部 {支部長・嶺瑛水、後援会長・中屋一博}の春季演奏会が滑川市瀬羽町、国登録有形文化財・旧・宮崎酒造「ぼんぼこさ」を会場に開催された。
会場の土間には十数匹の「こいのぼり」が吊るされ、室内には五月人形が沢山飾られ「こどもの日」に相応しい雰囲気でした。

私は、挨拶の中で「端午の節句」と「こいのぼり」と「5月5日」について多少触れました。
1年間に「節句」が5回あるが 節句とは、中国の暦法と日本の風土や農耕の生活習慣が融合したもので、季節の変わり目に邪気を払い、五穀豊穣や無病息災を祈る行事として江戸時代に入り庶民の生活にも浸透し根付いてきた。

①1月7日 人日{じんじつ}の節句。
 春の七草を食べて一年の無病息災を願う。

②3月3日 桃の節句。
 ひな祭り。女の子の健やかな成長と幸せを願いお祝いする。

③5月5日 端午の節句。
 しょうぶ節句とも言われ、男の子の成長を願う。こいのぼりを飾ったり粽{ちまき}を食べたりする。

④7月7日 七夕の節句。
 織姫と彦星が1年に1度だけ天の川を渡って会える日、とされ芸事や技芸の上達を祈る日でもあり、短冊に願い事を書いて笹飾りする。

⑤9月9日 重陽の節句。
 奇数が重なる日は縁起が良いとされ、特に最大の奇数である9が重なる9月9日は、不老長寿を願う日とされている。9が重なる日を重陽と呼ぶ。

「端午の節句」と「こいのぼり」の関係。
「昔、中国黄河の上流に竜門という滝があって、鯉はこの滝を登りきると、そのまま大空に舞い上がって竜に変化する。」という、中国の伝説に基づいたもので、それにあやかり男児の立身出世を願って鯉のぼりが立てられるようになった。
しかし、近年生活様式の変化で、屋外での鯉のぼり立ては難しくなり、室内での五月人形や武者人形等に変化したもので、元々は鯉のぼりであった。

文献によれば、「鯉のぼり」が飾られたのは江戸時代になってからで、男の子の出世を願って、和紙で作られた鯉を一匹だけで始まった。
明治に入り木綿製が現われ、昭和に入り高度経済成長期にナイロンの製品が出た。丈夫で軽く量産が出来る。1962年埼玉のメーカーが5色セットで売り出すと評判になり以降5匹も増えて第二次ベビーブームの70年代は史上最も多く泳いだという。

そこで「鯉のぼり」の歌が2曲ある事を話した。
「鯉のぼり」・・・大正2年
①甍の波と雲の波 重なる波の中空を
 橘かおる朝風に 高く泳ぐや鯉のぼり・・・

「こいのぼり」・・・昭和6年
①屋根より高いこいのぼり 大きい真鯉はお父さん
 小さい緋鯉は子供たち  おもしろそうに泳いでる

大正2年の「鯉のぼり」は少し難しく、甍と言っても分かる子供はそう居ない。そこで昭和6年新たに作られたという。

もう1点「背くらべ」の歌{大正8年}がある。
①柱のきずは おととしの 5月5日の 背くらべ
 粽{ちまき}たべたべ 兄さんが 計ってくれた 背のたけ
 きのうくらべりゃ 何のこと やっと羽織の 紐のたけ

この歌も、端午の節句に身長を計る。やはり男の子の成長を願う歌であろう。
昭和6年の「こいのぼり」の歌は95年前の歌にもかかわらず今でも保育園や幼稚園で何の抵抗もなく歌われているし、これに代わる歌もない。

大正元年に「茶摘み」や「春の小川」同2年「早春賦」同3年「故郷」「朧月夜」などの名曲は、100年経っても色あせることなく歌い継がれている。つまり、単に古いから,或は戦前のものだから、でなく、時代が変わっても残すものと、屋外の「鯉のぼり」が時代の変化に対応して、五月人形のように形を変えて残ってゆくものなどあるが、私は、琵琶も能楽も詩吟も漢詩の世界も是非とも残してゆきたい分野と思う。

取り分け琵琶で奏でる演奏曲目は、殆ど歴史的故事に因んだものばかりである。親子のの愛情や肉親の情など、今の社会で失われつつある大切なことを教えている。「不易流行」今一度考える機会であった。

今回友情出演として南砺市井波から、薩摩琵琶 正派の2名の方もお迎えし、演奏会を盛り上げて頂いた。
①演目・・屋島の誉 演奏者・伊藤紫紺
②演目・・ひめゆりの塔 演奏者・島田進水
③演目・・火の玉文覚 演奏者・薩摩琵琶・正派 竹下嶺光
④演目・・俱利伽羅峠 演奏者・薩摩琵琶・正派 馬川透流
⑤演目・・重衡 演奏者・有澤結水
⑥演目・・山科の別れ 演奏者・高堂瓏水 
⑦演目・・ぶんぶく茶釜 演奏者・嶺瑛水

以上7名の演奏者が約1時間40分にわたり琵琶独特の哀調を帯びた音色を響かせた。GWの中ご来場された約50名程の方々には満足感を感じてもらえた演奏会であったと思います。

写真は、挨拶する私、トリを務めた嶺支部長。

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第13回 (74回)日本海開き

海・・・海は広いな大きいな 行ってみたいなよその国
    海は大波青い波 揺れてどこまで 続くやら・・・昭和16年童謡「海」

清少納言は「春はあけのぼ」と書きました。夜明けの空を赤々と染め上げるように、春は冬の名残を追い払い、曙 {あけぼの}朧{おぼろ} 霞 {かすみ}、そして桜花爛漫と続いた風景も百花繚乱へと季節が移り行く中、5月1日午後1時より恒例の滑川高校海洋科による「日本海開き」が上市川河口、高月海岸で行われた。

これは、かって水産高校時代の1951年{昭和26年}から始まり、海洋高校から滑川高校へと引き継がれている伝統行事の一つで高校再編から数えて今回は13回目ですが、通算74回目です。県内では水産関係の単独校として、滑川市の海洋高校と氷見市の有磯高校の2校がありましたが、海洋高校は滑川高校と有磯高校は氷見高校と再編統合になりました。

しかし、旧校の精神を引き継ぐ形で各校に学科として存続し今日に至っています。
目的は「海洋高校の伝統を継承し、滑川高校海洋科の生徒の溌剌とした若さと旺盛なる心意気で、海に挑む海洋精神と粘り強い意気の高揚を図る」とあります。この様な目的から、あえて「富山湾開き」と言わず、志を高く持つようにとの思いで「日本海開き」となったような気がします。尚、この名称は第一回からだそうです。

この日は、五月晴の青空が広がり、気温20℃、海水温は少々低く12℃でしたがまずまずの日和でした。参加者海洋科1-3学年計103名の生徒が、突堤や消波ブロックに囲まれた場所で、波打ち際から沖の約25m先の「浮き」を目指し、3年生がピストルの号砲と大門県議の打ち鳴らす太鼓を合図に一斉に飛び込み、岸に戻ると嶋谷校長の太鼓で2年生、次いで私の太鼓で1年生、これが終わると全員が水野市長の太鼓を合図に飛び込みました。

私の見たところでは、25mを完泳したのは数人。途中Uターン組に女子は殆ど波打ち際で戯れる生徒が多かったようでした。しかし最後に何処からともなくアンコールの声が上がり数名の男子生徒が再び飛び込む姿には、現代の高校生気質を見た思いでした。

つい1か月前に入学した新入生にとっては、新鮮な驚きであっただろうし、これも海洋科の生徒しか経験することの出来ない思い出の一つと思います。それにしても、元気溢れる姿から私も元気を貰いました。
また、県内でこの様な行事があるのは多分本校だけであり、今後ともよき伝統行事として引き継がれてほしいものです。

写真は、太鼓を打ち鳴らす私、嶋谷校長

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