なかや一博 ブログ

月別アーカイブ: 2025年7月

正{しょう}3尺玉・花火大会

くらがりの 天地にひびく 花火哉  子規

恒例の滑川の夏を彩る「ふるさと龍宮まつり」が7月19日{土}–20日{日}二日間にわたり開催された。
初日19日は30度を超す暑さの中、ほたるいかミュージアム周辺でキッチンカーやテントでグルメを楽しむコーナーやお笑いライブ。夕方には「龍宮パレード」と題し、「新川古代神」などの街流しが行われ、市内の団体、企業、町内会など約900人が一帯を練り歩いた。また、児童クラブの「やさこ」も参加しパレードを盛り上げた。そして、揃いの浴衣や法被などの姿で,新川古代神保存会の演奏に合わせ街流しを楽しんだ。

第一回の滑川まつりの街流しは、昭和39年に高月町から、寺家小学校まで行われ、昭和53年まで練り歩いたが、翌年から現在の「ふるさと古代神まつり」となり今日まで続いている。八尾町の「越中おわら風の盆」のように数百年の歴史と伝統を誇る街流しは、子供の頃から、学校を始め、地域全体で伝統と保存に取り組んで地域社会にキッチリと根ざしている。これに対し、町起こしとして、新たな街流しを企画することは、中々難しい。
しかし、50年近くの長きにわたり連綿と引き継がれていることは嬉しいことです。
翌20日は最大の呼び物「海上花火大会」である。

この時期、夏の風物詩として全国各地で花火大会が開催される。長岡や秋田県大曲、そして、東京隅田川花火大会のように日本三大花火大会から、それぞれの地域住民が楽しむ花火大会まで内容は様々である。滑川の海上花火の特色は、県内最大級の正3尺玉が打ち上げられることである。
通常3尺玉は、3尺{90,9㎝}の筒で打ち上げる花火ですが、実際の3尺玉の直径は85㎝ほどです。これに対し、正3尺玉は直径が正真正銘の3尺{90,9㎝}の花火玉です。

僅かな違いですが、海上で打ち上げるため、この一発の為に特別な台船が必要です。海面から600mの高さまで打ち上げ、開く大輪の輪も、半径300m、直径600mと他の花火とは、大きさも音も比べものにならない大きさです。この為保安区域もかなり広く設定されています。当然価格も高額です。

花火は午後8時10分に、滑川漁港灯台周辺と海上の台船などから次々と打ち上げられた。フィナーレで目玉の正3尺玉が轟音とともに、大輪を描くと自然と大きな歓声と拍手が起きました。
それ故、これを見る為今年も近郷近在から多数の人々で溢れていた。それにしても、この素晴らしい花火が間近で、しかも無料で観覧できることは有難いことである。

写真は、新聞に掲載された広告。正3尺玉{北日本新聞より転載}。私が写した正3尺玉。他の大輪の花火。

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重量挙げ日本代表合宿

7月12日、滑川市総合体育センターで実施中の強化合宿に表敬訪問激励した。
私は直接重量挙げとは関係ありませんが、参加している男女12選手の中にパリ5輪代表の村上英士朗君や全日本選手権で3度優勝した中島友菜さんが何れも滑川高校の出身者が参加していたからである。

県内での重量挙げの代表合宿は初めてである。同センターでは2026年度に小・中学生の全国大会が開催される。
市は24年度、バーベルを下ろす衝撃に耐えられるように、アリーナを全面改装し、県ウエイトリフティング協会が誘致したところ日本代表の合宿が実現した。アリーナ内に練習プラットフォームが10基設けられ、選手が10月の世界選手権や28年のロスアンゼルス5輪を見据え練習に励んでいた。それにしても、10基のプラットフォームは圧巻である。

村上選手とは昨年以来の再会であったが調子はよさそうであった。やはり地元での合宿になると気合が入る。と話していました。
三宅敏博監督の話では、選手たちは、フォームや重さをを確認しながら、パワーやスピードの強化に取り組んでいて秋の世界選手権が楽しみとのことであった。三宅監督は、全日本選手権通算5度優勝。08ー12年まで日本女子代表監督など務めた。

妹は滑川でも講演した三宅宏美さんである。彼女は2012年・ロンドン5輪で銀、2016年・リオデジャネイロで銅メダルを取り、5大会連続出場した。また、父の義行氏はメキシコで銅、世界選手権で2度優勝。叔父の三宅義信氏もローマで銀、メキシコで金に輝くなど、まさに重量挙げ一家の指導者である。

このように一流の指導者の元での指導風景を見る機会が余りないので実に新鮮に感じた。現在滑川高校重量挙げ部には、野球部より多い男女30名近い部員がいる。やはり強い部には自然と部員が集まるのかもしれない。

また会場で、久しぶりに知人の山岸さんに会った。彼の話では、滑川高校重量挙げ部の初代主将であった。と言う。初耳であった。そして、滑川高校の部の監督であり教諭の佐藤先生、三宅監督と暫し話す機会があり有意義であった。
参加選手の健闘を祈り会場を後にした。

写真は、練習風景。差し入れたドリンクを持つ村上選手、右端が三宅監督。

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春日大社国宝殿

7月6日{日}甥っ子の車で朝、奈良奥山有料ドライブウエーを走行し、山焼きで有名な若草山{標高342m、}山頂展望台から眼下の奈良市内を一望した。春日大社、興福寺、東大寺などを眺めながら、まほろば、大和の国の風景に暫し浸った。
その足で春日大社・国宝殿で10時開館、しかも当日が初日である「究極の国宝・大鎧展」現存する国宝「鎧」の半数が奈良・春日大社に終結!を鑑賞した。

パンプレットによれば、「日本の甲冑には、様々な様式がありますが、これらは金工、漆工、染織など複数の分野にまたがる工芸作品の集合体で、日本の工芸技術の高さを、そして美意識を表した総合芸術といえます。
その甲冑の中でも、主に平安時代後期から、南北朝時代にかけて作られた「大鎧」は最も格式が高いものです。春日大社には日本を代表する甲冑の国宝・赤糸威大鎧{梅鶯飾}と国宝・赤糸威大鎧{竹虎雀飾}があり、この二領の大鎧には金工技術の粋を極めた絢爛豪華な飾金物が施されています。

本展覧会では天下に名だたる大鎧の双璧として知らるている青森県櫛引八幡宮の赤糸威鎧{菊一文字の鎧兜}と春日大社の赤糸威大鎧{竹虎雀飾}が史上初めて並列展示されるとともに、現存する国宝の甲冑類の半数が一堂に集まります。」(パンプレットより)

私からすれば、本来、鎧兜は戦闘から身を守る為の武具である、馬上から、刀を振り回したり、弓矢を放つ為に、鎧の脇腹には工夫がしてあるとは言え、重さ15㎏以上の鎧兜を着用しての戦いである。鉄砲の出現によって刀は武器としての役割を終え、太平の世になって美術品の道を歩む。
しかし甲冑は平安時代から権威の象徴とともに、防具より美術的価値に重きを置いたように思う。

私は弓道を趣味とするが、弓も同様である。7尺余りの長大なものを持って馬上から矢を放つ。両手を手綱から離し、動く馬の上からである。的中率も当然落ちる。片や洋弓は違う。5尺余りで持ち運びにも便利で、機能的であり、しかも和弓より飛距離も的中率も遙かに高い。
しかし日本武士は重藤の弓の美を含め和弓にこだわり今日まで来た。私は甲冑も同じと思う。

武器としての機能よりも、美意識を含めた日本人特有の精神性に重きを置いたものでなかろうか。そう考えるとパンプレットにある、「複数の分野にまたがる工芸作品の集合体で、日本人の工芸技術の高さ、そして美意識をあらわした総合芸術」の意味が解るような気がする。

それにしても素晴らしいものばかりであった。外は30度を超す暑さ。やはりインバウンド、外国人と鹿で溢れていた。
奈良で昼食後、京都から富山へと向かった。車を提供してくれた甥っ子に感謝、感謝である。
2泊3日の慌ただしい日程であったが充実した日々であった。

写真は、若草山山頂。国宝・赤糸威大鎧{竹虎雀飾}春日大社蔵

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第58回関西滑川会

7月5日{土}第58回関西滑川会{会長・千先久矩氏}の総会・懇親会がホテルグランヴィア大阪で開催されました。当日は気温35度を超す猛暑にも拘らず約70名の参加を得て親睦を深めました。
総会では役員改選で千先氏が再選され挨拶。水野市長、古城近畿富山県人会長、大門県議,嶋谷滑川高校長、土肥東京滑川会長と私の6人が祝辞を述べました。

いつも思うことですが、挨拶も6人目となれば、前者の方と重なるような挨拶では問題だから私はカットして構わないと申し上げ辞退していますが、何でもよいから。とのことで、了解し、当日の天気にちなみ、気温について少し話しました。

日本で最高気温を観測したのは、昭和8年{1933}7月25日、山形市で40・8度である。この記録が破られたのは、平成19年{2007}8月16日、埼玉県熊谷市・岐阜県・多治見市の40・9度である。僅か0・1度のことだが実に74年ぶりであった。

しかし、この記録が破られたのは、平成25年{2013}8月12日、高知県四万十市で41度を記録する。6年で記録更新である。
しかし、この記録が破られるのは、平成30年{2018}7月21日、熊谷市と浜松市で41・1度を記録。まさに僅か0.1度であるが5年で更新である。これが国内での最高気温でそれから、今年はすでに7年目である。気を付けなければならない年かもしれない。国連のグテーレス事務総長は地球沸騰化と表現した。つまり確実に地球温暖化が進行していることを話した。

また、国内での最低気温は、明治35年{1902}1月25日北海道旭川市で-41度を記録した。実はこの日に、青森県八甲田山で青森連隊と弘前連隊の雪中行軍中210名の兵士の内、199名が凍死した日である。当時の旭川の人口は約14万人。当時の暖房は薪ストーブである。

現在の旭川市の人口は約32万人。暖房はエアコンで室外機から出る熱風。車の排ガス。工場から出る排煙等を考えると、旭川で-41度を観測することはもうないと思われる。最高気温と最低気温の寒暖の差は実に80・1度である。こんな国は世界にそうないと思う。

そして寒暖の差があるから脳が刺激され日本人は頭の良い民族である。と話しました。因みに、先進国といわれる国の首都の緯度を見ると、例えばサミット7か国、東京は北緯35度、ワシントン38度、ローマ41度、オタワ45度、パリ48度、ロンドン51度、ベルリン52度、これにモスクワは55度、である。つまりサミット参加国は東京より緯度は北である。1年中温暖な気候の所には先進国はないのである。こんな話を与えられた時間の中でしました。

懇親会は、竹原市議会議長の発生で乾杯し和やかな雰囲気でスタートし、余興として、役員の歓迎アトラクション、石田県人会副会長の歌謡ショー、県人会おわら教室の「越中おわら節」会員による「新川古代神」踊り、抽選会等多彩な企画で実に楽しいひと時でした。
宴もたけなわの中、青山市議会副議長と近堂副会長が関西滑川会と滑川市の発展を期しエールの交換が行われました。最後に全員で「ふるさと」を合唱し再会を楽しみにお開きとなりました。

尚、昨年同様「ふるさと」の歌詞の4番目に私の駄作が歌われたのには汗顔の至りでした。それにしても千先会長のアイデアと指導力には感心します。

私の駄作「ふるさと」の4番目の歌詞は次の通りです。

稲穂なびく かづみ野  清き流れ 早月
有磯の海に ほたるいか 忘れがたき ふるさと

写真は、挨拶する千先会長。私。ほたるいか網起こし。

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一休寺 {酬恩寺}

7月4日乃木神社見学後、今日の最後の拝観場所は京田辺市の一休寺である。
とんち話で有名な一休宗純和尚が晩年を過ごしたお寺ですが、鎌倉時代妙勝寺として創建。その後、戦火に遭ったが、一休和尚が康正年間{1455ー56}に再興。酬恩寺と号した。

苔に覆われしっとりとした風情のある境内には本堂、方丈の間、虎丘庵などとともに、禅宗独特の枯山水庭園もあった。そんなに広い庭ではないが、典型的な江戸時代の禅苑庭園で、江戸時代初期のものとしては第一級と言われている。作庭は石川丈山など3名の合作と言う。眺めているだけで、何となく心が落ち着くから不思議である。
また、方丈の間は江戸時代の慶安3年に加賀3代藩主前田利常の寄進により再建された。利常は天和元年{1615}大阪夏の陣で大阪に向かう途中当寺に参詣したという。
また、一休和尚の出身寺の京都紫野・大徳寺へ毎日通う時に使用した「輿」が展示してあった。一休寺から大徳寺まではかなりの距離である。輿に乗ってとは云え時間を要したと思う。

一休さんと言えば「とんち話」が有名である。これを聞いた殿様が「屛風の絵の虎を縛ってくれ」と頼みました。勿論、絵の虎が出てくる筈はありません。一休さんは「縄を用意して下さい」と言い「虎を屛風から追い出して下さい」と頼みます。殿様は、「虎は出せない」と言うと一休さんは、「出てこない虎を縛ることは出来ません」と答えました。これに殿様は感心したと言う。

また、境内にある橋の袂に表札があり「このはし、わたるべからず」とあり、私は橋の真ん中を渡りました。いずれも一休さんに関する有名な話です。記念館も見学したが、加賀藩が一休寺の再建に何故尽力したのかは、チケット売り場の人に聞いても分からなかった。

私の勝手な解釈ですが、加賀藩2代利長に子がなかった為、異母弟の利常に家督を譲った。その恩を利常は生涯忘れなかったという。利長は隠居後、高岡城で過ごしここで亡くなります。そのため利常は利長の立派な墓所を建て、その菩提寺として高岡山瑞龍寺を建立した。これが現在国宝に指定され、曹洞宗であり、禅宗である瑞龍寺である。

戦国の武将は徳川家康を初め宗派を問わず多くの寺院を庇護した。禅宗の一致点があるものの、この流れの中でのことでないだろうか。見学後夕闇迫る中、甥っ子の車で宿泊先の彼の家に向かった。
運転してくれた彼に感謝です。

写真は、虎の屛風。橋の真ん中を渡る私。枯山水の庭園。

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