なかや一博 ブログ

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令和7年琵琶春季演奏会

桜花爛漫から百花繚乱へ季節は移り、抜けるような空の青さに心地よい風が吹く5月5日、錦秋流琵琶富山支部 {支部長・嶺瑛水、後援会長・中屋一博}の春季演奏会が滑川市瀬羽町、国登録有形文化財・旧・宮崎酒造「ぼんぼこさ」を会場に開催された。
会場の土間には十数匹の「こいのぼり」が吊るされ、室内には五月人形が沢山飾られ「こどもの日」に相応しい雰囲気でした。

私は、挨拶の中で「端午の節句」と「こいのぼり」と「5月5日」について多少触れました。
1年間に「節句」が5回あるが 節句とは、中国の暦法と日本の風土や農耕の生活習慣が融合したもので、季節の変わり目に邪気を払い、五穀豊穣や無病息災を祈る行事として江戸時代に入り庶民の生活にも浸透し根付いてきた。

①1月7日 人日{じんじつ}の節句。
 春の七草を食べて一年の無病息災を願う。

②3月3日 桃の節句。
 ひな祭り。女の子の健やかな成長と幸せを願いお祝いする。

③5月5日 端午の節句。
 しょうぶ節句とも言われ、男の子の成長を願う。こいのぼりを飾ったり粽{ちまき}を食べたりする。

④7月7日 七夕の節句。
 織姫と彦星が1年に1度だけ天の川を渡って会える日、とされ芸事や技芸の上達を祈る日でもあり、短冊に願い事を書いて笹飾りする。

⑤9月9日 重陽の節句。
 奇数が重なる日は縁起が良いとされ、特に最大の奇数である9が重なる9月9日は、不老長寿を願う日とされている。9が重なる日を重陽と呼ぶ。

「端午の節句」と「こいのぼり」の関係。
「昔、中国黄河の上流に竜門という滝があって、鯉はこの滝を登りきると、そのまま大空に舞い上がって竜に変化する。」という、中国の伝説に基づいたもので、それにあやかり男児の立身出世を願って鯉のぼりが立てられるようになった。
しかし、近年生活様式の変化で、屋外での鯉のぼり立ては難しくなり、室内での五月人形や武者人形等に変化したもので、元々は鯉のぼりであった。

文献によれば、「鯉のぼり」が飾られたのは江戸時代になってからで、男の子の出世を願って、和紙で作られた鯉を一匹だけで始まった。
明治に入り木綿製が現われ、昭和に入り高度経済成長期にナイロンの製品が出た。丈夫で軽く量産が出来る。1962年埼玉のメーカーが5色セットで売り出すと評判になり以降5匹も増えて第二次ベビーブームの70年代は史上最も多く泳いだという。

そこで「鯉のぼり」の歌が2曲ある事を話した。
「鯉のぼり」・・・大正2年
①甍の波と雲の波 重なる波の中空を
 橘かおる朝風に 高く泳ぐや鯉のぼり・・・

「こいのぼり」・・・昭和6年
①屋根より高いこいのぼり 大きい真鯉はお父さん
 小さい緋鯉は子供たち  おもしろそうに泳いでる

大正2年の「鯉のぼり」は少し難しく、甍と言っても分かる子供はそう居ない。そこで昭和6年新たに作られたという。

もう1点「背くらべ」の歌{大正8年}がある。
①柱のきずは おととしの 5月5日の 背くらべ
 粽{ちまき}たべたべ 兄さんが 計ってくれた 背のたけ
 きのうくらべりゃ 何のこと やっと羽織の 紐のたけ

この歌も、端午の節句に身長を計る。やはり男の子の成長を願う歌であろう。
昭和6年の「こいのぼり」の歌は95年前の歌にもかかわらず今でも保育園や幼稚園で何の抵抗もなく歌われているし、これに代わる歌もない。

大正元年に「茶摘み」や「春の小川」同2年「早春賦」同3年「故郷」「朧月夜」などの名曲は、100年経っても色あせることなく歌い継がれている。つまり、単に古いから,或は戦前のものだから、でなく、時代が変わっても残すものと、屋外の「鯉のぼり」が時代の変化に対応して、五月人形のように形を変えて残ってゆくものなどあるが、私は、琵琶も能楽も詩吟も漢詩の世界も是非とも残してゆきたい分野と思う。

取り分け琵琶で奏でる演奏曲目は、殆ど歴史的故事に因んだものばかりである。親子のの愛情や肉親の情など、今の社会で失われつつある大切なことを教えている。「不易流行」今一度考える機会であった。

今回友情出演として南砺市井波から、薩摩琵琶 正派の2名の方もお迎えし、演奏会を盛り上げて頂いた。
①演目・・屋島の誉 演奏者・伊藤紫紺
②演目・・ひめゆりの塔 演奏者・島田進水
③演目・・火の玉文覚 演奏者・薩摩琵琶・正派 竹下嶺光
④演目・・俱利伽羅峠 演奏者・薩摩琵琶・正派 馬川透流
⑤演目・・重衡 演奏者・有澤結水
⑥演目・・山科の別れ 演奏者・高堂瓏水 
⑦演目・・ぶんぶく茶釜 演奏者・嶺瑛水

以上7名の演奏者が約1時間40分にわたり琵琶独特の哀調を帯びた音色を響かせた。GWの中ご来場された約50名程の方々には満足感を感じてもらえた演奏会であったと思います。

写真は、挨拶する私、トリを務めた嶺支部長。

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第13回 (74回)日本海開き

海・・・海は広いな大きいな 行ってみたいなよその国
    海は大波青い波 揺れてどこまで 続くやら・・・昭和16年童謡「海」

清少納言は「春はあけのぼ」と書きました。夜明けの空を赤々と染め上げるように、春は冬の名残を追い払い、曙 {あけぼの}朧{おぼろ} 霞 {かすみ}、そして桜花爛漫と続いた風景も百花繚乱へと季節が移り行く中、5月1日午後1時より恒例の滑川高校海洋科による「日本海開き」が上市川河口、高月海岸で行われた。

これは、かって水産高校時代の1951年{昭和26年}から始まり、海洋高校から滑川高校へと引き継がれている伝統行事の一つで高校再編から数えて今回は13回目ですが、通算74回目です。県内では水産関係の単独校として、滑川市の海洋高校と氷見市の有磯高校の2校がありましたが、海洋高校は滑川高校と有磯高校は氷見高校と再編統合になりました。

しかし、旧校の精神を引き継ぐ形で各校に学科として存続し今日に至っています。
目的は「海洋高校の伝統を継承し、滑川高校海洋科の生徒の溌剌とした若さと旺盛なる心意気で、海に挑む海洋精神と粘り強い意気の高揚を図る」とあります。この様な目的から、あえて「富山湾開き」と言わず、志を高く持つようにとの思いで「日本海開き」となったような気がします。尚、この名称は第一回からだそうです。

この日は、五月晴の青空が広がり、気温20℃、海水温は少々低く12℃でしたがまずまずの日和でした。参加者海洋科1-3学年計103名の生徒が、突堤や消波ブロックに囲まれた場所で、波打ち際から沖の約25m先の「浮き」を目指し、3年生がピストルの号砲と大門県議の打ち鳴らす太鼓を合図に一斉に飛び込み、岸に戻ると嶋谷校長の太鼓で2年生、次いで私の太鼓で1年生、これが終わると全員が水野市長の太鼓を合図に飛び込みました。

私の見たところでは、25mを完泳したのは数人。途中Uターン組に女子は殆ど波打ち際で戯れる生徒が多かったようでした。しかし最後に何処からともなくアンコールの声が上がり数名の男子生徒が再び飛び込む姿には、現代の高校生気質を見た思いでした。

つい1か月前に入学した新入生にとっては、新鮮な驚きであっただろうし、これも海洋科の生徒しか経験することの出来ない思い出の一つと思います。それにしても、元気溢れる姿から私も元気を貰いました。
また、県内でこの様な行事があるのは多分本校だけであり、今後ともよき伝統行事として引き継がれてほしいものです。

写真は、太鼓を打ち鳴らす私、嶋谷校長

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素敵なグループ

春風や 闘志抱きて 丘に立つ  虚子

誰にも仲間やグループや同志やメンバーなどがいる。その一つのグループと毎年「ほたるいか」の時期に我が家に集まる。
今年は4月28日{月} 藤井富山市長、森前市長、中尾富山市名誉市民、米原県議、水野滑川市長等に加え、堂故参議院議員、上田衆議院議員も特別参加し、また、私の妻と同級生の民謡歌手長岡すみ子さんも出席し、美声を披露し、この会を盛り上げてくれました。

今回のテーマは、藤井市長が4月20日市長選挙を勝ち抜き2期目の当選を果たしたこと。
中尾先輩は、現在数え90歳いわゆる卒寿である。卒寿から99歳白寿を越え、上寿への激励と、堂故参議院議員の来るべき戦いの大願成就の3点でした。そんなことから冒頭の虚子の句を3氏の現在の心境と重ね合わせ掲げたものです。
最初に上田議員から3氏に対し、お祝いと激励の言葉の後、各氏からそれぞれ豊富が述べられ、米原県議の乾杯で懇談会に入りました。

話題はやはり今年のホタルイカ漁の漁獲量から始まりましたが、4月中旬頃まではまずまずであったが、以後不漁で当日も滑川漁港での水揚げは僅かで、どうにか参加者の分は確保出来ました。
また、政局の話しやら、NYタイムズの今年の行くべき52か所に富山市が選ばれたことによる効果や中尾先輩が卒寿まで元気で長命と長寿を維持されている秘訣など話は多岐にわたりましたが、中尾先輩に関しては、学生時代に大病を患ったことから、規則正しい生活や健康管理には十分注意しているとのこと。私には耳の痛い話でした。

また、森さんが差し入れたイタリアの「ドルチ・アル、クッキアイオ」と呼ばれるスプーンで食べるデザートについて解説。確かにこのティラミスは、美味かったです。店は富山市内だそうですが、シェフはミラノ生まれ、ローマ育ちで現在滑川に住んでいるそうです。
私は初耳でしたが、さすが水野市長はご存知でした。長岡すみ子さんは「秋田大黒舞」など3曲唄ってもらい、場も大いに盛り上がりました。

写真は、女房手つくりのほたるいかのお刺身「てつさ」真ん中がほたるいかの足。

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令和7年度入学式

珍しき 高麗{こま} 唐土{もろこし}の花よりも
            あかぬ色香は 桜なりけり 本居宣長

4月8日{火}午後2時・県立滑川高校{嶋谷克司校長}入学式が体育館で挙行された。それにしても、桜と入学式は何となく絵になる風景である。
校舎敷地内の桜も入学式を祝うかのように満開であった。

さて、希望に胸膨らませ、校門をくぐった生徒数は183名である。
本来、普通科2クラス80名.薬業科1クラス40名。商業科1クラス40名。海洋科1クラス40名。計200名が定数である。しかし、183名つまり定数割れである。県内の県立高校数39校の内、多数の高校が少子化問題に直面し本校同様である。それ故、高校再編が大きな問題として議論されている。

そんな中、入学式は、教員、保護者、来賓等関係者が着席している中、吹奏楽部が演奏する、スカイ・ブルー・ドリームの曲が流れ新入生が入場した。
入学式に相応しい曲である。その後、全員で国歌斉唱。残念ながら新入生は殆ど歌っていなかった。多少の緊張と、中学時代にも余り歌う機会がなかったからであろう。

次いで、校長より183名に入学許可を与え、続いて式辞である。内容は、9年の義務教育を終え、高校入試を乗り越え、滑高生の一員になったことへの歓迎と、今日まで支えてくれた人々への感謝の気持ちを忘れないこと、次いで本校の歴史と生徒目標「高きを求める情熱」生活信条「文武両道」に触れ、どんなことがあっても学校はサポートする。

そして、2点力説されました。
①自分を知り、可能性を信じ前へ進む。秘めた能力を発揮させるため、多角的に物事を考え、一歩踏み出す。行動する力。夢や目標をどこまでも高く。変化を恐れぬ。

②思いやり,優しさを持つことの大切さ。女優有村架純さんの言葉を引用し、「ありがとう」と言ったら、その数だけ人は優しくなれる。
「ごめんね」と言ったら、その数だけ人は賢くなれる。「さよなら」と言ったら その数だけ人は愛を知る。

など話、お祝いと激励の式辞でした。嶋谷校長は校長として初めて赴任されたのが本校で、それ故、式辞も初めてで、多少緊張もあったと思いますが、内容の良い式辞だったと思います。

祝電披露の後、新入生宣誓。
新入生代表は、伝統ある滑川高校に入り、誇りを感じる。学業と部活に励むこと。そして、両親や先生に対し、未熟な私たちだが、仲間たちと頑張ると力強く宣誓。

歓迎のことば 在校生代表
期待や不安があるかもしれないが、2-3年生、そして先生を頼って下さい。より良い学校生活を送れるよう、サポートし盛り上げてゆきます。
と先輩らしい、温かい言葉を新入生に語りかけていました。

次に、川上教頭から校歌の紹介がありました。昨年も記しましたが、
1題目は、朝日に美しく輝く立山連峰に抱かれて、百年の歴史と伝統を誇るこの滑川高校で熱き夢を語り合おう。
2題目は、蛍を袋に集めて、その光で書を読み勉強をしたと言われる中国の学者、「車胤」の若き日の苦難を思い、かけがえのない青春の一日一日を大切に過ごしてほしいという願いが込められている。

滑川高校校歌 作詞・北園克衛 作曲・岡部昌 昭和25年制定。

一 朝日に匂う 太刀の峰       二 有磯の海に 風荒れて
  雲井遥かに  青春の         思え車胤の 青春の
  赤き血に沸{たぎる}我等の日      波のごと迅{はやし}我等の日
  加積の郷{さと}の 学び舎に      雄々しく潔{きよ}く 血と愛に
  栄えある歴史 うけ継ぎて       鍛えん時を 惜しみつつ
  祖国をにない 集える我等       理想に燃えて 集える我等

これが、私も好きな滑川高校の校歌である。特に2題目の「車胤」云々は卒業式に欠かせない名歌、「蛍の光」つまり蛍雪の功を短い歌詞にして校歌にしたことである。
作詞の北園克衛氏は{1902-1978}三重県出身で当時有名な詩人であった。この方と滑川高校教諭で同じ詩人仲間であった高島順吾氏の紹介で作詞された。

嶋谷校長始め転入教職員には、初めて聞く校歌であるが、その意味することを考える機会であったし、一日も早くこの校歌に親しんで貰いたいと思う。

閉式の辞。学級担任紹介で生徒は退場しましたが、その時の演奏曲目は「渡り鳥」でしたが、ちょっと違和感があった。入退場の2曲の曲名は私は分からず、式後お聞きしました。
新入生の希望に胸を膨らませ、輝くような瞳を見ると矢張り若いことは素晴らしいと思う。青春とは単に年齢だけで判断すべきでない。当然である。
しかし、後期高齢者となった私からすれば矢張り羨ましい限りである。いづれにしても、彼らが滑川高校生として、多くの素晴らしい思い出を作り、楽しい学校生活を送って貰いたいと念じ学校を後にした。

写真は、学校正面玄関。式辞を述べる嶋谷校長。

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「仲間たち」

いついっせいに 桜咲きたる 花びらの 一つ一つに 光ありつつ

5-6分咲きと思っていたら つい2日程で「染井吉野」はほぼ満開である。「枝垂れ桜」はもう少しであるが、それにしても近頃の寒暖の差が激しい天候不順の割には満開宣言は平年並みである。

さて、ひさしぶりに「仲間たち」と痛飲した。仲間と一口に言っても、同級生、サークル、職場、隣近所など様々である。今回の仲間たちは、年齢も、職業も、趣味も、性格も違う者同士だが、どこか気が合う。そんな7人の仲間たちである。
それ故、7人も集まると話題も多岐にわたり、わいわいガヤガヤ賑やかなもので、中々話が纏まらない。それでいて纏まる時は纏まる。不思議な仲間である。そんな仲間が4月4日集まった。

午後7時定刻に全員集合し、グラスを傾けようとした時、誰かが、今日は中屋さんの一日遅れの誕生日です、と,話した為、期せずして私の78歳の誕生日を祝う乾杯となった。その後、和やかな中にも、賑やかに話に花が咲いた。

9時半頃そろそろお開きかと思っていたところ、突然私に対しての、バースデイケーキが出され、バースデイソングの中、ローソクの灯を消すように促され一息で消しました、川柳の「誕生日 ローソク消して 立ちくらみ」を思い出しましたが、今のところそんな川柳は私には無縁でした。それにしても男ばかりの集いに、この様な気配り。正直驚きました。
ただ感謝しかありません。よく、誕生日やお正月を迎えると、人は1歳年を取る。取るは即ち1歳若返ることだという。

しかし、私は、年を取る事は砂時計と一緒で、砂時計は時計をひっくり返して、落ちてくる砂が重なり時を刻む。私は誕生日から次の誕生日までの1年間に新たな思い出、出会い、感動を作る時間であり、それが今日の私を築いてきた。だから、年を取ることは苦痛でなく、誕生日は次の誕生日までの1年間に新たな楽しい思い出を作るスタートの日である。と話しました。

そんなことでついつい長居し、散会したのが10時半を過ぎていました。冒頭の1首は誰の詩か知りませんが、仲間たちの瞳は、桜の花びらの一つ一つのように、光かがやいているようでした。

写真は、ほぼ満開に近い我が家の染井吉野と奥の枝垂れ桜{4月5日現在}。 7人の仲間たち。バースデーケーキ。

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