なかや一博 ブログ

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令和8年滑川市武道稽古始め

新年は 我が身の意気を 新たにす   安岡正篤

1月4日{日}午前8時30分より「滑川市武道稽古始め」が市総合体育館で弓道・剣道・柔道・空手道、4道の関係者が一堂に会し盛会理に開催された。
当日は2日に降った新雪があちこちに残り、多少肌寒い中ではあったが、凛とした天気の中で、むしろ「稽古始め」に相応しいと私は思った。

さて、この大会は、4道持ち回りで運営され今回は弓道会が担当した。それ故、司会は石坂孝文市弓道会副会長の手によって進行された。
先ず、最初に4道を代表して山岸光隆市弓道会長が挨拶。
「四武道に共通していることとして、いかなる時も平常心の心を大きく育てる「心」。技を磨く「技」。身体を鍛える「体」つまり「心技体」。についての話。渾身の力と心を込めた勝負を行っても敗れた時の悔しさなどの経験が、のちの大きな成果に繋がる事などを語り、富山県内の武道界でも昨年は弓道ではインターハイでの優勝者を始め、各道に於いても優秀な成績を残された。

それも皆さんが、このあと、各道場で開かれる稽古始めがその第一歩である事を述べ激励と挨拶が述べられた。次に水野市長を含め、3人の来賓から激励の言葉がありました。
次いで、来賓紹介のあと弓道の演舞が披露された。4年に1度くる弓道の演舞は従来は、巻き藁礼射でありましたが、今回初めて4ッ矢行射が山岸会長の解説で披露されました。これは本番同様距離28m、的の大きさ36㎝の為、体育館内アリーナに特設の仮設射場がセットされました。

この行射は3人{伊東浩介4段・山形窓子3段・平井颯梧3段}が一人4本を持ち的中率を競うものです。この結果3人とも4射3中合計3人で12射9中とまずまずの成績でした。
しかし、会場からは的中ごとに大きな拍手と歓声が上がりました。これによって弓道の持つ魅力の一端でもご理解頂けたら、私を含め、弓道関係者にとっても弓道のPRを含め良い機会であったと思います。

演舞終了後、各団体はそれぞれの会場に分かれ「稽古始め」が行われました。弓道は体育館内の市営弓道場「澄心館」で高校生・一般計45名が参加し行われました。山岸会長の挨拶後、私は、演舞は従来の「巻き藁礼射」から「四ッ矢行射」に切り替えた決断を称え、アリーナでの練習を一度もしないぶっつけ本番にも拘わらず、射も的中数も立派であったと賞賛の言葉を申し上げました。

また日頃行われない正月ならではの、賑やかな風景が展開された射割り、白扇落とし、風船割りなどで、的中するたびに歓声が上がりました。
特に昨年までは「射割り」の板{12㎝×12㎝}や白扇に高橋芳邦前会長が弓道に関する言葉を揮毫しておられましたが、残念ながらお亡くなりになったことから、それを心配していましたが、会員の島津さんが立派にその跡を継ぎ今回「白扇」などに「無心」「澄心」「不動心」「至誠」「常在」等素敵な言葉を揮毫してくれ立派な後継者が出てきていることに高橋さんも喜んでおられると思う事など話し、最後に「一年の計は元旦にあり」即ち「新年は 我が身の意気を新たにす」それぞれが目標を設定し努力・精進し良き年であるよう祈念し挨拶としました。

その後山岸会長の一手{2本}礼射の後参加者全員が一手を引き、余興を楽しみ新年を祝い心を新たにしました

写真は、四ツ矢行射。アリーナの仮設的場。4道代表で挨拶する山岸弓道会長。

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大岩山・日石寺初詣

目でさたも 中くらいかな おらが春   一茶

1月1日午前1時、大岩山・日石寺{上市町・大岩163}初詣として参拝した。
日石寺では、元旦は午前1時・午前11時・午後2時の3回護摩祈禱が行われる。わが家から車で約30分と近距離でもあり、ここ20数年日石寺への初詣は恒例となっている。今回は午前1時に参拝しましたが、みぞれ交じりで、肌寒く例年より参拝者は少なく感じられました。

さて、日石寺は真言密教の大本山として知られ、神亀2年{725}行基菩薩が大岩川の岩に不動明王を刻んだことが起源と伝えられ、昨年は開基1300年祭も盛大に行われました。高さ3・46mの本尊・不動明王像は四体が凝固岩に手彫りで彫り出され、中部地方の最高傑作として高い評価を受けており国指定重要文化財となっている。

ただ、残念なことに昭和42年7月23日風呂のボイラーの加熱で入母屋作りの覆いなどが焼失した。当日消防の放水によって摩崖仏に水がかかるとひび割れを起こすことから、関係者が必死になって摩崖仏に放水しないように、身体を張って阻止した話はよく聞きました。
その後、信者の方々や篤志家の支援によって立派に再建された。全国の摩崖仏は露天であるため風化が激しいが、日石寺の摩崖仏は室町時代以前から覆いで覆われていたために、不動明王像の勇姿が今日まで伝えられている。これは全国的に見て珍しいという。

また、境内には6本滝があり、1月20日の大寒には、滝に打たれる寒修行が行われることでも有名である。三重塔もあるが、江戸時代に着工されたが、途中工事が中断され今日に至り未完の塔と言われている。いつ頃まで工事が行われていたのか.前述の火災で資料が焼失したため不明という。家内安全・交通安全等を祈願し護摩祈禱を受けたお札を購入し帰宅した。

その後2時過ぎから4時まで宮委員を務めている地元の加積雪嶋神社へ行き、宮当番として出席し、4時帰宅した。

参考まで・・・摩崖仏とは、石仏の一種で自然の岩壁や露岩、或は転石に造立された仏や不動明王の総称。不動明王とは、密教の信仰対象で、大日如来の化身とされる仏教の尊像。五大明王の一つで、仏法を守護し、人々の災いや迷いから救ってくれる仏。不動明王の姿は、煩悩にまみれた救いがたい者こそ救うため、また仏道の妨げになる邪な心を断つため勇ましいいで立ちをしている。

写真は、日石寺本堂前。本堂にて護摩祈禱。

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謹賀新年

手のつかぬ 月日ゆたかや 初暦   古屋信子

令和7年は既に地平線下に沈み ここに令和8年の幕が上がりました。
干支は「乙巳」から「丙午」{ひのえ・うま} に引き継がれ月日は休むことなく新しい時を刻み始めました。さて、昨年1年を振り返ると多くの出来事がありました。

政界では、なんと言っても7月の参院選で自公連立政権は惨敗し、衆参両院で過半数割れとなった。その結果石破首相は退陣し、自民党総裁選を制した高市早苗氏が日本で初の女性首相が誕生した。しかし、予想もしなかった公明党が26年続いた自公連立を離脱。直後、自民は日本維新の会と連立を組む。正に政界は一寸先は闇である。

また、トランプ関税に振り回される中、令和の米騒動と言われる米価やエネルギーなど含め、あらゆる分野での物価高に国民は悲鳴を上げた。また、青森東方沖地震では、M8、八戸では震度6強を観測するなど地震、火災、竜巻などが多発した。
そして年末恒例の清水寺での今年の漢字一文字では、全国各地で多数の死傷者を出した「熊」が選ばれた。特に今年の熊はアーバンベアー{都市型クマ}と呼ばれ、市街地周辺の山林で暮らし、街中に出没する熊が多かった。これを人災と指摘する声もある。最後に高市発言で日中関係が悪化した事など、これ以外にあげれば枚挙にいとまがない。

さて今年はどんな年になるだろうか。

そこで「干支」を見る。「干支」と「十二支」は同じ意味だと思っている方が多いようだが、令和8年の干支は、本来の干支でいうと丙午{ひのえ・うま}が今年の「干支」である。いわゆる「十干」と「十二支」を組み合わせ、それが60通りの年号を作り出す古代中国で生まれた歴法である.ゆえに次回の「丙午」は60年後の2086年である。当然私はこの世にいない。

「十干」は古代中国殷の時代に10日を一旬として構成するそれぞれの日に名前を付けたことから始まったと言われ、その後万物は全て「陰」と「陽」の二つの要素に分けられる「陰陽説」と、全ての物事は「木」「火」「土」「金」「水」の5ッの要素からとする「五行説」が結び付き、それぞれの意味を表すようになった。

「十干」とは①甲②乙③丙④丁⑤戌⑥己⑦庚⑧辛⑨壬➉癸の総称で、元は1から10までを数えるための言葉だった。「十二支」は元々時刻の呼び方であった。一日24時間を12で割り、各時間のユニットを2時間とした。
現在干支に使われている漢字はご存知の通り①子②丑③寅④卯⑤辰⑥巳⑦午⑧未⑨申➉酉⑪戌⑫亥である。

「子」は一番最初に来ますから、1日が始まる夜中の0時のことです。そこから数えると午は7番目だから、昼の12時頃になる。つまり、「午の刻」は1日を半分に分ける時間帯にあるので、その前が「午前」その後が「午後」と言われる所以である。また、十二支にはよく動物の名が充てられる。

これは中国の王允{おういん}と言う人が、十二支を民衆に浸透させるために動物にして文献に書いたとされる。つまり動物の意味は後から付け足しされた。例えば、子を鼠にしたのは繫殖力の高い子宝の象徴、子孫繫栄。丑を牛にしたのは、生活のパートナーであり、畑を耕したり、重い荷物を運んだりする。寅を虎にしたのは勇猛果敢な動物であり、その勇ましさから虎が充てられた等々である。日本には6世紀半ば欽明天皇の頃伝わったと言われている。それでは今年は干支から判断すればどんな年か。

丙は「炎のように燃え広がる火」午は「古くから人間とともに生きてきた動物で、俊足で、独立心が強く人も助けてくれる存在」と共に「真夏の火」を意味し,火の力が重なる干支とされ、勢いの強さや激しさ、情熱と行動力を象徴する「干支」と云われてきました。丙の「火」と午の「火」の組み合わせから、強いエネルギーとされ、激しい力で逆境を乗り越えていく「力」の「干支」と言われます。

しかし、60年前の昭和41年{1966}の丙午の年には迷信の影響で出生数が大きく減ったことで知られています。その迷信とは「八百屋お七」の逸話です。
事の起こりは江戸時代。「江戸のある八百屋に「お七」という娘がいましたが、天和3年{1683年}1月にお七の家の付近で火災が発生し、お七の家も焼けてしまいました。そのため、一家は近くのお寺に避難し、そこでしばらく暮らすことになりました。

お寺には、生田庄之介という寺子姓がいましたが、その若者とお七は、恋仲になりました。けれども、そのうちにお七の家が建て直されたため、一家は寺を出て家に戻りました。その時、お七はまだ15歳。結婚する年齢でもなく、お七と庄之介は離れ離れになってしまいました。この時からお七の苦悩が始まりました。

お七は何とかしてまた庄之介に会いたいと思い、あることを思いつきました。それは2人が出会えたのは元の家が焼けたからなので、また家が焼ければ、庄之介に会えるのではと考え、自宅に放火してしまったのです。幸いこの火事はすぐに消し止められましたが、お七は放火罪でつかまり、火あぶりの刑に処せられました。このように不幸な人生を送った八百屋お七が「丙午」の生まれだったことから、丙午生まれの女性は縁起が悪い。と考えられるようになりました。

但しこれは迷信で、実際に丙午の年に生まれた人が運の悪い人生を送っているというデータはありません。この逸話や「干支」など、信じる、信じないは、人それぞれ。「当たるも八卦 当らぬも八卦」ですが、今年は良き年であるよう願うものです。

写真は、①今年の年賀状。②平成2年{1990}午年の時、年賀状に使った写真。③昨年末、清水寺より戴いた貫主・森清範氏揮毫の干支の色紙「老・馬・智」。

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