なかや一博 ブログ

月別アーカイブ: 2025年6月

厚労省と経産省

厚労省
6月26日上京の折、厚労省のメンバーと夕方懇談した。
彼らは以前県の厚労部門に出向していた人々で、現在はそれぞれ重要なポストで活躍しておられる。

今回は、かって厚生部長{医師}くすり政策課長{薬剤師} 労働課長{事務職}とそれぞれ違ったキャラクターの3人が集合した。私が飲んべいである事を知っていることから、全国の銘酒38種類が揃っている店が用意されていた。馬刺しから始まり、マグロを含めた刺身の盛り合わせ、ブリのしゃぶしゃぶなど満足する内容であった。
富山の銘酒もあり、すすめられたが、富山へ帰れば吞めることから他県の銘酒ばかり飲んでいた。結果的にどの酒がどんな味かは分からずに終わった。やはり私は本当の酒飲みでは無い様である。

それにしても、宿泊ホテルまで送迎してくれるし、特に感激したのは、終盤になって、いつもお世話になっている気持ちとして、THANK YOU!と記したスイーツの盛り合わせが出てきたことである。本省に戻られて10年以上経過しているにもかかわらずこの接待には感激した。

経産省
6月27日午前11時経産省に藤木俊光経済産業政策局長を訪ねた。
氏は7月1日付けの人事異動で事務次官に内定した人である。上京のする前日25日北日本新聞で次官内定が報じられ、メールで内定祝いを送ったところ、すかさずお礼のメールがきた。

氏は大変律儀で温厚な人柄である。2005年5月から2008年3月末まで富山県に出向され、商工労働部長・知事政策室長を務められ私とはその時からの知人です。
26日上京中に、いかに知人であろうと、人事移動の事務引継ぎで多忙で無理と思いつつ27日午前中面会可能か打診した。
ところが11時から11時30分まで時間を割いて頂いた。考えてみたら28日、29日は土曜、日曜と休みである。にも拘わらず30分も時間を割いてくれたことに感謝すると同時に私の強引さには反省しきりである。

次官内定をお祝いし更なる活躍を期待する会話が主であり、あっという間の30分であった。今後この局長室に入ることはないだろうが、次回は次官室で会えることを楽しみに部屋を後にした。いつも感心することだが、エレベーター前まで見送ってくれることである。

迎え3割、送り7割という言葉を思い出す。それにしても知人・友人達がこうして活躍している姿を見ることは本当に嬉しいことである。
写真は、厚労省のメンバーとTHANK・YOU!と書かれたスイーツの盛り合わ せ。経産省藤木局長{7月1日から次官}

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花しょうぶ

足首を 払いて通る 花しょうぶ  一茶

滑川市内には、海の海浜公園 市街地の行田公園 丘陵地の東福寺野自然公園と大きな公園は3か所ある。中でも行田公園は、公園の真ん中を「中川」が流れ、自然の姿を出来るだけ残し,余り人の手を加えないようにしている。
それによって苔むして鬱蒼とした樹木が生い茂り、昼なお暗く、果たしてこれが市街地の中にあるのかと思うくらいの公園である。

また、公園の中には、平成の名水百選にも選ばれている「行田の沢清水」が自噴している。
さて、この公園の「花しょうぶ」は、静岡県掛川市在住の斉藤通治氏{ 加島町出身}から35種類、1万5千株の寄贈を受け、昭和49年7月1日移植されました。現在では、88種類、約4万5千株の花しょうぶが咲き誇っています。

それ故、この季節になると市民の憩いの場として、内外から多くの人が訪れる。私が行ったのは6月24日、盛りを多少過ぎていたとは言え、午前8時過ぎ丁度雨上がりでしっとりと一服の清涼感のある風景であった。
日本には数多くの花の種類があるが、日本を原産とする植物のうち、純粋に日本人の手によって世界に類を見ないほどに育成されたものとしては、「花しょうぶ」の右に出るものはないと思う。

いずれにしても、中川のせせらぎと、雨上がりの「花しょうぶ」一服の絵になるし、こんな素敵な公園が市街地の真ん中で身近な所にあるとは有難いことである。

「アヤメ」「カキツバタ」「花しょうぶ」の違いを記します。

・花の種類    ・花びらの模様       ・生育の場所
「アヤメ」     花びらの基部・網目模様   乾燥した場所
「カキツバタ」   花びらの基部・白い筋    水辺
「花しょうぶ」 花びらの基部・黄色い筋  水辺

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高輪・泉岳寺

風さそう 花よりも我はまた 春の名残りを いかにとやせん
            浅野内匠頭長矩 {戒名・冷光院殿吹毛玄利大居士}

陰ながら 松の下枝に連なりて ともに御法の 道につかえん
               妻・阿久里 {戒名・瑶泉院殿良瑩正燈大姉}

増上寺と同地域にある泉岳寺に6月12日行った。ご存知赤穂浪士の主君浅野内匠頭夫妻と四十七士の墓所がある。泉岳寺は曹洞宗の寺院で、慶長17年{1612}に門庵宗関和尚{今川義元の孫}を拝請して徳川家康が外桜田に創建した寺院。
しかし、寛永18年{1641}の寛永の大火によって焼失。そして現在の高輪の地に移転した。時の将軍家光が泉岳寺の復興がままならない様子を見て、毛利・浅野・朽木・丹羽・水野の五大名に命じ、泉岳寺は出来上がった。浅野家と泉岳寺の付き合いはこの時からで、以後浅野家の江戸における菩提寺とした。

家老大石内蔵助を頭とした47人の武士が元禄15年{1702} 12月14日吉良邸に討ち入り、本懐を成就した。その後、赤穂浪士たちは亡き主君に報告すべく内匠頭が眠る泉岳寺へ吉良の首級を掲げながら、吉良邸から約10㎞、雪道を約3時間かけて徒歩で泉岳寺へ向かったという。

また、義士たちは逃げ隠れすることなく幕府に自分達の行いを報告し、討ち入りの翌年元禄16年{1703} 2月4日に四大名{細川・松平・毛利・水野}家にて切腹となった。この事件は、今日でも多くの日本人の心を掴んで放さないものとなっている。
それはこの中に昨今の日本人から失われつつある「義」や「忠」という精神が貫かれているからだろう。

さて、一般的に泉岳寺は赤穂浪士のお墓があることで有名ですが、パンフレットによれば、創建時は七堂伽藍を完備して、諸国の僧侶二百名近くが参学する寺院として、また曹洞宗江戸三か寺並びに三学寮の一つとして有名を馳せていたという。
その寺風は引き継がれ、人数は少ないものの、大学で仏教を学びつつ泉岳寺で修行を勤めるという若い修行僧が現在もいるという。

実際、赤穂義士記念館や墓所入り口での対応は若い僧侶であった。しかし、感心したのはやはりインバウンドの時代である。若い僧侶は英語がペラペラであった。墓所では入場料の替わりに線香代金として300円払い、火のついた約90本の線香を頂き、約50基あるお墓に各自の判断で線香を供える。こんな難しい説明を外人に英語で話すのだから驚きました。

それにしても墓前に添えてある線香の本数で人気の度合いが分かるから面白い。やはり大石内蔵助と息子、大石主税、朝野内匠頭が圧倒的に線香の数が多かった。特に主税は若干数え16歳と年齢も影響していると思われる。以前主税の墓石の上の方が削られると問題になったが、確かにそのように思った。

また、大石親子の二人だけの墓石には覆いがあった。尚、47名のお墓に加え、本人が討ち入りを熱望したものの周囲の反対にあい討ち入り前に切腹した菅野三平の供養墓{明和4年{1767}9月建立} があり、義士としての墓碑は48墓である。

いずれにしても、討ち入りから300年以上経っても12月になると赤穂浪士や忠臣蔵が話題になる。それが日本人なのだろう。また徳川家の菩提寺は浄土宗増上寺である。しかし、泉岳寺は曹洞宗である。宗派の違いを超えて寺院の再建や庇護する姿勢にも関心を持つた。

大石内蔵助辞世の句 
「あら楽し 思いは晴るる身は捨つる 浮世の月にかかる曇なし」

写真は、泉岳寺山門。浅野内匠頭墓所。大石内蔵助墓所。大石主税墓所。

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文科省友人

11日夕、文科省友人達と2月以来の懇談をしました。これは、平成16年から滑川市が文科省の25歳前後の研修生を2週間から3週間ほど、昨年まで21年間受け入れています。
しかし、新型コロナで3回、東日本大震災で1回派遣が中止になりましたのが、今日まで引き継がれ計17名受け入れています。それが15年程前「文科省ナカヤ会」を作るから、私が上京の折、集まろうとなり年に1-2回懇談会を開いています。

平成16年初めて受け入れた1期生は、3月まで山梨県教育長を勤め、4月から文科省の課長として本省に戻った人や、3月までスポーツ庁の課長が4月から本省の課長になった人などが当日集まりました。
現在、都道府県の教育委員会等の管理職として出向している人,或は海外へ赴任している人など多彩な顔ぶれの集まりです。それ故、全員が揃うことは難しいですが、常時7-8人が集まります。この青年たちが、明日の文部行政を背負っていくことを思うと、頼もしくもあり、心もとない様に感じたりもする。

そしていつも申すことですが「官僚としての矜持を忘れるなかれ」かって遣隋使や遣唐使は、命がけで荒海を越え、隋や唐の律令制度や仏教や新たな文化を吸収し「国つくり」に務めた彼らの「志」に思いを馳せ、公務員になった時の初心を忘れてはならないと、人生のささやかな先輩の一人として彼らに申し上げ激励しました。

そして、各人の近況を語り合いながら話に花を咲かせました。また、各省庁にも都道府県や市町村に派遣する研修制度がありますが、この様に歴代の研修生が一堂に会する機会があるのは多分この会だけだろう。とのことでした。

名残を惜しみつつ一層の活躍を祈りつつ散会しました。

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芝・増上寺

人の一生は 重荷を負うて遠き道を行くがごとし。
    急ぐべからず 不自由を常と思えば不足なし・・・・家康公 遺訓

6月11日上京の折、増上寺を訪ねた。増上寺は、法然上人の教えを受け継ぐ浄土宗八總の大本山の一つです。
明徳4年{1393}浄土宗第八祖酉誉{ゆうよ}聖聰上人により、江戸貝塚{現・千代田区紀尾井町}に創建されました。慶長3年{1598}現在地に移転しました。その頃の増上寺住職であった源誉存応上人に深く帰依した徳川家康により、伽藍が整備され、徳川将軍家の菩提寺として繫栄しました。

しかし、戦災により伽藍や多くの歴代将軍の霊廟が焼失しますが、戦後に多くの堂舎が再建されました。そして今回、徳川家康寄進の三種の大蔵経がユネスコ「世界の記憶」国際登録記念企画展の三大蔵展として開催されました。
大蔵経とは、「八万四千」とも喩えられる膨大な数の釈尊の教えを伝える仏教聖典のことで、仏教における「記憶」の総体と評することができます。古代インドに誕生した仏教では弟子たちの記憶する釈尊の教えが口伝えとなって聖典を形成し、更には文字に記して伝承されてきました。

インドから中国に伝わり漢訳された聖典はリスト化され、やがて木版印刷による「大蔵経」が誕生する。大蔵経は文明の高さを物語る一つの象徴であり、東アジアの各時代、各地域において幾たびか編纂されました。
鎌倉時代以降、日本にも、幾つかの大蔵経がもたらされます。その大蔵経の価値に着目していたのが徳川家康でした。家康は日本にもたらされていた大蔵経のうち、三種{宋版 元版 高麗版}を取得し、徳川家の菩提寺と定めた増上寺に寄進しました。

人類の歴史は大切に伝承されてきた数々の「記憶」によって築かれています。私は、本物の大蔵経を眺めても仏教そのものも良く理解できない素人ですが、釈迦の弟子たちが、その教えを口伝えし聖典を形成し、さらに文字に記して伝え、インドから中国に渡り漢訳され、そして木版により、大蔵経を完成させた。そして、その価値に着目した家康によって、宋版・元版・高麗版が収集され増上寺に寄進される。このエネルギーに驚きます。
この貴重な「大蔵経」や家康自筆の書状など、日頃目にすることの出来ない資料を見て多少の興奮を覚えました。

また、境内に徳川将軍家の墓所がありますが、かっては、壮厳な霊廟が増上寺大殿の南北に建ち並んでいたという。しかし、昭和20年の空襲で大半が焼失し、その後、現在地に改葬された。
増上寺には、2代秀忠・妻お江の方夫妻合祀の墓所{石塔} お江の方はご存知の織田信長の妹・お市の方の三女で長女は秀吉の側室茶々である。6代家宣夫妻合祀{青銅製}。7代家継{石塔}。9代家重{石塔}。12代家慶{石塔}。14代家茂{石塔}。静寛院和宮{青銅製}。など6人の将軍,皇女和宮を含め5人の正室、5人の側室のほか歴代将軍の子女など多数が埋葬されている。どの墓所にも誰が添えたかお花と線香があった。

参考まで、上野・寛永寺には、4代家綱。5代綱吉。8代吉宗。10代家治。11代家斉。13代家定。の6人の将軍。初代家康は久能山東照宮と日光東照宮。3代家光日光輪王寺大猷院{だいゆういん}。15代慶喜・谷中霊園にそれぞれ埋葬されている。

経典に寄せた家康の思い、寺院の建立や寺院を庇護し,念持仏を持ち歩いた戦国武将の心境。、婚約者が内定しながら、公武合体の時流に翻弄された皇女和宮。2代秀忠の妻・お江の方など、増上寺宝物企画展と徳川将軍家墓所の意義ある見学であった。

写真は、増上寺大殿。静寛院和宮の墓所。2代秀忠と妻お江の方の墓所。

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