人の一生は 重荷を負うて遠き道を行くがごとし。
急ぐべからず 不自由を常と思えば不足なし・・・・家康公 遺訓
6月11日上京の折、増上寺を訪ねた。増上寺は、法然上人の教えを受け継ぐ浄土宗八總の大本山の一つです。
明徳4年{1393}浄土宗第八祖酉誉{ゆうよ}聖聰上人により、江戸貝塚{現・千代田区紀尾井町}に創建されました。慶長3年{1598}現在地に移転しました。その頃の増上寺住職であった源誉存応上人に深く帰依した徳川家康により、伽藍が整備され、徳川将軍家の菩提寺として繫栄しました。
しかし、戦災により伽藍や多くの歴代将軍の霊廟が焼失しますが、戦後に多くの堂舎が再建されました。そして今回、徳川家康寄進の三種の大蔵経がユネスコ「世界の記憶」国際登録記念企画展の三大蔵展として開催されました。
大蔵経とは、「八万四千」とも喩えられる膨大な数の釈尊の教えを伝える仏教聖典のことで、仏教における「記憶」の総体と評することができます。古代インドに誕生した仏教では弟子たちの記憶する釈尊の教えが口伝えとなって聖典を形成し、更には文字に記して伝承されてきました。
インドから中国に伝わり漢訳された聖典はリスト化され、やがて木版印刷による「大蔵経」が誕生する。大蔵経は文明の高さを物語る一つの象徴であり、東アジアの各時代、各地域において幾たびか編纂されました。
鎌倉時代以降、日本にも、幾つかの大蔵経がもたらされます。その大蔵経の価値に着目していたのが徳川家康でした。家康は日本にもたらされていた大蔵経のうち、三種{宋版 元版 高麗版}を取得し、徳川家の菩提寺と定めた増上寺に寄進しました。
人類の歴史は大切に伝承されてきた数々の「記憶」によって築かれています。私は、本物の大蔵経を眺めても仏教そのものも良く理解できない素人ですが、釈迦の弟子たちが、その教えを口伝えし聖典を形成し、さらに文字に記して伝え、インドから中国に渡り漢訳され、そして木版により、大蔵経を完成させた。そして、その価値に着目した家康によって、宋版・元版・高麗版が収集され増上寺に寄進される。このエネルギーに驚きます。
この貴重な「大蔵経」や家康自筆の書状など、日頃目にすることの出来ない資料を見て多少の興奮を覚えました。
また、境内に徳川将軍家の墓所がありますが、かっては、壮厳な霊廟が増上寺大殿の南北に建ち並んでいたという。しかし、昭和20年の空襲で大半が焼失し、その後、現在地に改葬された。
増上寺には、2代秀忠・妻お江の方夫妻合祀の墓所{石塔} お江の方はご存知の織田信長の妹・お市の方の三女で長女は秀吉の側室茶々である。6代家宣夫妻合祀{青銅製}。7代家継{石塔}。9代家重{石塔}。12代家慶{石塔}。14代家茂{石塔}。静寛院和宮{青銅製}。など6人の将軍,皇女和宮を含め5人の正室、5人の側室のほか歴代将軍の子女など多数が埋葬されている。どの墓所にも誰が添えたかお花と線香があった。
参考まで、上野・寛永寺には、4代家綱。5代綱吉。8代吉宗。10代家治。11代家斉。13代家定。の6人の将軍。初代家康は久能山東照宮と日光東照宮。3代家光日光輪王寺大猷院{だいゆういん}。15代慶喜・谷中霊園にそれぞれ埋葬されている。
経典に寄せた家康の思い、寺院の建立や寺院を庇護し,念持仏を持ち歩いた戦国武将の心境。、婚約者が内定しながら、公武合体の時流に翻弄された皇女和宮。2代秀忠の妻・お江の方など、増上寺宝物企画展と徳川将軍家墓所の意義ある見学であった。
写真は、増上寺大殿。静寛院和宮の墓所。2代秀忠と妻お江の方の墓所。