風さそう 花よりも我はまた 春の名残りを いかにとやせん
浅野内匠頭長矩 {戒名・冷光院殿吹毛玄利大居士}
陰ながら 松の下枝に連なりて ともに御法の 道につかえん
妻・阿久里 {戒名・瑶泉院殿良瑩正燈大姉}
増上寺と同地域にある泉岳寺に6月12日行った。ご存知赤穂浪士の主君浅野内匠頭夫妻と四十七士の墓所がある。泉岳寺は曹洞宗の寺院で、慶長17年{1612}に門庵宗関和尚{今川義元の孫}を拝請して徳川家康が外桜田に創建した寺院。
しかし、寛永18年{1641}の寛永の大火によって焼失。そして現在の高輪の地に移転した。時の将軍家光が泉岳寺の復興がままならない様子を見て、毛利・浅野・朽木・丹羽・水野の五大名に命じ、泉岳寺は出来上がった。浅野家と泉岳寺の付き合いはこの時からで、以後浅野家の江戸における菩提寺とした。
家老大石内蔵助を頭とした47人の武士が元禄15年{1702} 12月14日吉良邸に討ち入り、本懐を成就した。その後、赤穂浪士たちは亡き主君に報告すべく内匠頭が眠る泉岳寺へ吉良の首級を掲げながら、吉良邸から約10㎞、雪道を約3時間かけて徒歩で泉岳寺へ向かったという。
また、義士たちは逃げ隠れすることなく幕府に自分達の行いを報告し、討ち入りの翌年元禄16年{1703} 2月4日に四大名{細川・松平・毛利・水野}家にて切腹となった。この事件は、今日でも多くの日本人の心を掴んで放さないものとなっている。
それはこの中に昨今の日本人から失われつつある「義」や「忠」という精神が貫かれているからだろう。
さて、一般的に泉岳寺は赤穂浪士のお墓があることで有名ですが、パンフレットによれば、創建時は七堂伽藍を完備して、諸国の僧侶二百名近くが参学する寺院として、また曹洞宗江戸三か寺並びに三学寮の一つとして有名を馳せていたという。
その寺風は引き継がれ、人数は少ないものの、大学で仏教を学びつつ泉岳寺で修行を勤めるという若い修行僧が現在もいるという。
実際、赤穂義士記念館や墓所入り口での対応は若い僧侶であった。しかし、感心したのはやはりインバウンドの時代である。若い僧侶は英語がペラペラであった。墓所では入場料の替わりに線香代金として300円払い、火のついた約90本の線香を頂き、約50基あるお墓に各自の判断で線香を供える。こんな難しい説明を外人に英語で話すのだから驚きました。
それにしても墓前に添えてある線香の本数で人気の度合いが分かるから面白い。やはり大石内蔵助と息子、大石主税、朝野内匠頭が圧倒的に線香の数が多かった。特に主税は若干数え16歳と年齢も影響していると思われる。以前主税の墓石の上の方が削られると問題になったが、確かにそのように思った。
また、大石親子の二人だけの墓石には覆いがあった。尚、47名のお墓に加え、本人が討ち入りを熱望したものの周囲の反対にあい討ち入り前に切腹した菅野三平の供養墓{明和4年{1767}9月建立} があり、義士としての墓碑は48墓である。
いずれにしても、討ち入りから300年以上経っても12月になると赤穂浪士や忠臣蔵が話題になる。それが日本人なのだろう。また徳川家の菩提寺は浄土宗増上寺である。しかし、泉岳寺は曹洞宗である。宗派の違いを超えて寺院の再建や庇護する姿勢にも関心を持つた。
大石内蔵助辞世の句
「あら楽し 思いは晴るる身は捨つる 浮世の月にかかる曇なし」
写真は、泉岳寺山門。浅野内匠頭墓所。大石内蔵助墓所。大石主税墓所。