なかや一博 ブログ

年別アーカイブ: 2025年

文科省友人

11日夕、文科省友人達と2月以来の懇談をしました。これは、平成16年から滑川市が文科省の25歳前後の研修生を2週間から3週間ほど、昨年まで21年間受け入れています。
しかし、新型コロナで3回、東日本大震災で1回派遣が中止になりましたのが、今日まで引き継がれ計17名受け入れています。それが15年程前「文科省ナカヤ会」を作るから、私が上京の折、集まろうとなり年に1-2回懇談会を開いています。

平成16年初めて受け入れた1期生は、3月まで山梨県教育長を勤め、4月から文科省の課長として本省に戻った人や、3月までスポーツ庁の課長が4月から本省の課長になった人などが当日集まりました。
現在、都道府県の教育委員会等の管理職として出向している人,或は海外へ赴任している人など多彩な顔ぶれの集まりです。それ故、全員が揃うことは難しいですが、常時7-8人が集まります。この青年たちが、明日の文部行政を背負っていくことを思うと、頼もしくもあり、心もとない様に感じたりもする。

そしていつも申すことですが「官僚としての矜持を忘れるなかれ」かって遣隋使や遣唐使は、命がけで荒海を越え、隋や唐の律令制度や仏教や新たな文化を吸収し「国つくり」に務めた彼らの「志」に思いを馳せ、公務員になった時の初心を忘れてはならないと、人生のささやかな先輩の一人として彼らに申し上げ激励しました。

そして、各人の近況を語り合いながら話に花を咲かせました。また、各省庁にも都道府県や市町村に派遣する研修制度がありますが、この様に歴代の研修生が一堂に会する機会があるのは多分この会だけだろう。とのことでした。

名残を惜しみつつ一層の活躍を祈りつつ散会しました。

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芝・増上寺

人の一生は 重荷を負うて遠き道を行くがごとし。
    急ぐべからず 不自由を常と思えば不足なし・・・・家康公 遺訓

6月11日上京の折、増上寺を訪ねた。増上寺は、法然上人の教えを受け継ぐ浄土宗八總の大本山の一つです。
明徳4年{1393}浄土宗第八祖酉誉{ゆうよ}聖聰上人により、江戸貝塚{現・千代田区紀尾井町}に創建されました。慶長3年{1598}現在地に移転しました。その頃の増上寺住職であった源誉存応上人に深く帰依した徳川家康により、伽藍が整備され、徳川将軍家の菩提寺として繫栄しました。

しかし、戦災により伽藍や多くの歴代将軍の霊廟が焼失しますが、戦後に多くの堂舎が再建されました。そして今回、徳川家康寄進の三種の大蔵経がユネスコ「世界の記憶」国際登録記念企画展の三大蔵展として開催されました。
大蔵経とは、「八万四千」とも喩えられる膨大な数の釈尊の教えを伝える仏教聖典のことで、仏教における「記憶」の総体と評することができます。古代インドに誕生した仏教では弟子たちの記憶する釈尊の教えが口伝えとなって聖典を形成し、更には文字に記して伝承されてきました。

インドから中国に伝わり漢訳された聖典はリスト化され、やがて木版印刷による「大蔵経」が誕生する。大蔵経は文明の高さを物語る一つの象徴であり、東アジアの各時代、各地域において幾たびか編纂されました。
鎌倉時代以降、日本にも、幾つかの大蔵経がもたらされます。その大蔵経の価値に着目していたのが徳川家康でした。家康は日本にもたらされていた大蔵経のうち、三種{宋版 元版 高麗版}を取得し、徳川家の菩提寺と定めた増上寺に寄進しました。

人類の歴史は大切に伝承されてきた数々の「記憶」によって築かれています。私は、本物の大蔵経を眺めても仏教そのものも良く理解できない素人ですが、釈迦の弟子たちが、その教えを口伝えし聖典を形成し、さらに文字に記して伝え、インドから中国に渡り漢訳され、そして木版により、大蔵経を完成させた。そして、その価値に着目した家康によって、宋版・元版・高麗版が収集され増上寺に寄進される。このエネルギーに驚きます。
この貴重な「大蔵経」や家康自筆の書状など、日頃目にすることの出来ない資料を見て多少の興奮を覚えました。

また、境内に徳川将軍家の墓所がありますが、かっては、壮厳な霊廟が増上寺大殿の南北に建ち並んでいたという。しかし、昭和20年の空襲で大半が焼失し、その後、現在地に改葬された。
増上寺には、2代秀忠・妻お江の方夫妻合祀の墓所{石塔} お江の方はご存知の織田信長の妹・お市の方の三女で長女は秀吉の側室茶々である。6代家宣夫妻合祀{青銅製}。7代家継{石塔}。9代家重{石塔}。12代家慶{石塔}。14代家茂{石塔}。静寛院和宮{青銅製}。など6人の将軍,皇女和宮を含め5人の正室、5人の側室のほか歴代将軍の子女など多数が埋葬されている。どの墓所にも誰が添えたかお花と線香があった。

参考まで、上野・寛永寺には、4代家綱。5代綱吉。8代吉宗。10代家治。11代家斉。13代家定。の6人の将軍。初代家康は久能山東照宮と日光東照宮。3代家光日光輪王寺大猷院{だいゆういん}。15代慶喜・谷中霊園にそれぞれ埋葬されている。

経典に寄せた家康の思い、寺院の建立や寺院を庇護し,念持仏を持ち歩いた戦国武将の心境。、婚約者が内定しながら、公武合体の時流に翻弄された皇女和宮。2代秀忠の妻・お江の方など、増上寺宝物企画展と徳川将軍家墓所の意義ある見学であった。

写真は、増上寺大殿。静寛院和宮の墓所。2代秀忠と妻お江の方の墓所。

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第24回清水寺貫主森清範猊下講演会

飛び習い 青田の上の 燕の子  麦水

5月25日{日}午後3時30分より、恒例の京都清水寺貫主森清範猊下をお迎えしての市民文化講演会{主催・滑川音羽の会会長・中屋一博}が「我がこころ 鬼も仏もすむなり」を演題に300名余の多数の来場者のもと盛会理に開催されました。

当日は朝から小雨模様でしたが、講演会が始まるころには晴れ上がり青葉・若葉が色鮮やかに会場を包みました。当日富山駅へお迎えに行き1年ぶりの再会を共に喜び合いましたが、ホームを歩くお姿は足取りも軽く、とても85歳とは思えない元気さには私も驚きました。

さて、冒頭私は挨拶で平成10年、故・石倉宗一氏のご尽力で第1回の講演会が開催されてから早いもので、もう27年になります。しかし、コロナ禍で2度、ご本人のご都合で1度計3度開催できませんでしたので、今回は24回目です。
でも24回も同一地区で開催しているのは滑川だけだそうですから本当に有難いことです。と話しました。

そして清水寺中興の祖と言われ、森猊下の師であり、本日、前講を頂く清水寺執事大西英玄氏の祖父である大西良慶和上について話しました。和上は昭和58年2月15日「涅槃の日」に109歳の長寿と長命で示寂されましたが、昭和20ー30年代に何度か滑川で宿泊され、その足跡は色紙や掛け軸となり市内の公民館等に掲げてあります。
また、その年月は不詳ですが「滑川行」と題し漢詩を詠んでおられます。{別掲}

その時から清水寺とご縁があり、それが森猊下、そして和上のお孫さんである大西英玄さんへと引き継がれてきていることに、改めて滑川と清水寺とのご縁を感じることなど話しました。

講演は、まず前講として演題はありませんが大西様から、昨今の体験の中から、約20分お話がありました。次いで、森猊下から「我がこころ 鬼も仏もすむなり」の演題で1時間にわたり時々ユーモアを交え大変分かりやすく話されました。会場からは来年も是非との声が寄せられ、主催者として安堵しました。
その後、会場を厚生連滑川病院中庭に移し,了安の墓石に清水寺の音羽の滝の水を竹筒に入れてわざわざ持参された水を墓石に掛け読経を読まれました。

了安・安静親子もきっと草葉の陰で喜んでいることと思います。これにまつわる孝徳泉の民話は昨年書きましたので今回は省略します。読経終了後、猊下は「全国色々の所へ講演に行きますが、病院の中で、読経をあげるのはここだけです」と笑いを誘われます。
その後、宿泊先で音羽の会メンバーと懇親を深め、翌朝我が家にお立ち寄りになり、しばし、歓談しました。その時私は、ロシアとウクライナの戦争に触れ、バチカンのローマ・カトリック教会新教皇レオ・14世は和平の会談の場を提供しても良いと述べられました。

私は、ロシア正教もウクライナ正教も同じカトリックである。両国の司祭をバチカンに招き、ここで世界宗教者会議を開催して世界に向けて和平へのアピールすべきでないか。それを提案できるのは森猊下しかいない。と申し上げました。
明快な回答は得れませんでしたが、2時間余りの滞在後、お二人は元気で京都にお帰りになりました。

「滑川行」
 残雪連峰有別天  残雪の連峰別天有り
 風吹新樹景光鮮  風新樹に吹き景鮮やかなり
 挿苗未了忙人馬  挿苗いまだおわらず
 我亦欲耕大福田  我もまた大福田を耕さんと欲す

 「大西良慶選集」第3巻 昭和60年刊{便利堂}

写真は、挨拶する私。講演中の森猊下。大西英玄執事。我が家にて。

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第68回東京滑川会総会・懇親会

一点の 偽りもなく 青田あり 山口誓子

5月24日{土}午前11時より東京滑川会{会長・土肥正明}総会・懇親会が大手町サンケイプラザで約75名の参加を得て、盛大に開催されました。

総会は土肥会長の挨拶で始まり諸議案が滞りなく承認された後、私を含めた来賓の紹介があり、そのあと「生涯現役・人は生涯進化成長する」をテーマに講演者は「{一社}LIFE・OF・LIFE協会」原田あつ子代表理事です。
彼女は昭和女子大を卒業後渡米、日本ではまだ馴染みのなかった「エアロビックス」をマスターし日本に持ち込んだ、いわば先駆者の一人だそうです。

故に、自ら現在69歳と名乗り、その年齢とは思えない若々しい容姿は、エアロビックスで作り上げたものであり、我われにも簡単な健康法を指導されました。また、小麦、サラダ油,砂糖、乳製品は控えたほうが良いとのアドバイスを頂きました。
実は、彼女は私と同じ滑川市加島町2区出身で小さい時から知っていました。彼女が獅子舞に出た時、私に教えてもらったことも覚えていました。もう60年も前のことですが、幼い時の面影があり話が弾みました。

12時から懇親会に入り、来賓の水野市長、蓑口富山県首都圏本部長代理、東・東京富山県人会連合会専務理事から挨拶があり、次いで千先関西滑川会会長が乾杯し和やかに懇親に入りました。
初参加者の紹介がありましたが、4月に滑川市博物館で開催された高島高展で講演された伊勢功治さんも挨拶に立ち、高島高について話されました。

余興はいつものことながら、会員による郷土の民謡「新川古代神」と「越中おわら節」が披露されました。また、じゃんけん大会での勝者には、話題のお米、しかも滑川の「コシヒカリ」がプレゼントされるなど,いやが上にも会場は盛り上がりました。

最後に「滑川市の歌」と「故郷」を全員で合唱。竹原市議会議長と上田東京滑川会前会長よりそれぞれエールの交換があり、常田副会長の閉会の辞で幕を閉じました。

いつも思うことですが、遠く故郷を離れていても、故郷を忘れることなく、ふるさとの発展を願っておられる方がおいでになることは本市にとって本当に有難いことです。

写真は、挨拶する土肥会長。講演する原田{旧・民谷}あつ子さん。

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静嘉堂文庫美術館

5月23日上京の折、東京丸の内にあるこの美術館を訪ねた。
三菱の創業者である岩崎彌太郎の弟である岩崎彌之助{1851–1887}が廃藩置県や廃仏毀釈で美術品が海外を含め散逸することを憂慮し収集し、その子、小彌太{1879-1945}に引き継がれ、親子二代によって創設・拡充され国宝7件、重要文化財84件、約6500件の東洋美術品、約20万冊の古典籍を収集し収蔵した。

明治25年東京駿河台の岩崎彌之助邸内に美術館を創設。次いで、小彌太が高輪邸に文庫を開始し、活動が継続されました。
1940年{昭和15}財団法人静嘉堂を設立。小彌太没後の1946年{昭和21}、その遺言によって、国宝,重要文化財を中心とする美術品が孝子夫人から財団に寄贈されました。

1992年{平成4}静嘉堂創立100周年を記念し、静嘉堂文庫美術館を新設。2021年{令和3}6月まで、世田谷区岡本の地で展覧会が開催されていましたが、創設130周年の2022年{令和4}10月岩崎彌之助が美術館建設を願っていた東京丸の内の地で、重要文化財の明治生命館1階で展示活動が始まりました。静嘉堂の名称は中国の古典「詩経」の大雅、既酔編から採った彌之助の堂号で、祖先の霊前への供物が美しく整うという意味です。{パンフレットより}

美術館所蔵の中で特に有名なのは国宝、「曜変天目」といわれる一腕です。私の見た感じでは直軽約10㎝程、高さ約7-8㎝程度の小さな茶碗でした。
パンフレットによれば、静嘉堂の「曜変天目」は「稲葉天目」とも言われる。健窯 南宋時代{12ー13世紀} 建窯の黑釉茶碗で、斑紋の周囲に青色を主とする光彩があらわれたものをいう。完全な形で現存するものは、世界で京都大徳寺塔中龍光院。大阪の藤田美術館と静嘉堂の3点のみである。本作は、光彩が全体に鮮やかに現われた一腕。江戸時代3代将軍家光が春日局に下賜したと言われる。

それが春日局の孫・稲葉正則に譲られ、淀藩主稲葉家に伝わったため「稲葉天目」とも言われる。1918年{大正7}稲葉家から親戚の小野家に渡り、1934年{昭和9}岩崎小彌太所有となった。」世界に3点しかないのが、全て日本にある。つまり本家の中国にもないということです。

私のような素人でも、神秘的な輝きを持ち釉薬に浮ぶ虹色の光彩による謎めいた美しさには暫し見とれた。それ故、今日まで多くの人々を魅了し続けるのであろう。      

写真は、展示してあった「曜変天目」茶碗。
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