外交史料館
日本列島の広い範囲で夏日が観測された5月14日、全弓連理事会で上京の折、外務省外交史料館を見学した。
これは「外交資料の保存管理および公開の業務を行い、内外の研究者等に正確な資料を提供するとともに「日本外交文章」の編纂・刊行の業務を行い、わが国外交に関する国民の理解に資するため、1971年{昭和46}年4月、外務省の一施設として開館しました。
そして、2024{令和6年}4月、外交史料館に隣接する麻布台1-5-3麻布台ヒルズ森JPタワー5階に展示室を移転し、従来の展示内容をさらに発展させて、本展示室を開設しました。日本が国際社会へと踏み出していった幕末から21世紀に至るまでの日本の外交活動の歩みを、外交資料を通して知っていただくとともに、外交活動への理解を深めるきっかけとしていただければ幸いです。{外交史料館常設展示解説のはしがきより一部抜粋} 現在約11万5千点が収蔵されている。
滑川市博物館と規模・展示内容の違いがありますが、目的や役割は同じと思います。また、企画展として「吉田茂展」が開催されていました。
さて、我が国は1953{嘉永6年}米国のペリーが来日し日本に開国を迫りました。その翌年1854{嘉永7年}3月3日「日米和親条約]が結ばれ鎖国政策は転換期を迎えた。
続いて1855{安政元年}伊豆下田に来航したロシア側全権代表プチャーチンと日本側全権・筒井政憲等の間に日魯通好条約結ばれた。当時択捉島とウルップ島の間に自然に成立していた日本とロシアの国境を確認し、樺太島には国境を設けずに、これまで通り両国民の混住の地とすると定めた。この日が2月7日であり、ロシアとの正式な条約で日本固有の領土として確定した。
その後、オランダ・イギリス・フランスなどとも不平等ながらも条約を結ぶ。いわゆる安政の5か国条約である。1875{明治8}年5月7日榎本武揚、ゴルチャコフ両全権が、サンクトペテルブルクで、樺太島をロシア領、千島列島を日本領と確定する「樺太千島交換条約」を調印、批准書を交換する。
また、1905{明治38}年9月5日露戦争後の「日魯講和条約」{ポーツマス条約}が日本側全権小村寿太郎とロシア側全権ウィッテにより調印された。これにより樺太の北緯50度以南が日本に譲渡されました。その後、1941{昭和16}年4月13日、モスクワにおいて松岡洋右外相とモロトフ外務人民委員が「日ソ中立条約」を調印。内容は両国の友好関係の維持、相互不可侵、締約国の一方が第3国による軍事行動の対象になった時、他方は中立を維持することなどを規定した。
しかし、1941{昭和20}年8月9日、一方的に破棄し満州へそして8月18日北方四島に侵攻、不法に占拠し今日に至っている。国と国とが条約で交わした約束事を実に簡単に破ってしまう。
幕府が強固な基盤の時は鎖国の鎖は効力を発揮するが、国内が「佐幕だ攘夷だ勤王だ公武合体」だと内輪もめし、国力が弱体化している時は、強者によっていとも簡単に鎖国の鎖は切られてしまう。「日ソ中立条約」もしかりである。
1951{昭和26}年のサンフランシスコ講和条約でも、日本の領土に関し、第2条、第3条で朝鮮、台湾、千島列島に対する権原等の放棄は言っているが、日本の固有領土である北方四島は含まれていない。それ故、戦後2月7日を北方領土の日として返還運動を行っている。
さて、日ソ関係に字数をかけすぎたが明治政府は多くの国々と外交関係を構築していく。
1871{明治4}年、岩倉具視を特命全権大使とする総勢100名以上の使節団を欧米へ派遣。1871{明治4}日本と清国との間で日清修好条規を結ぶ。1876{明治9}朝鮮との間で日朝修好条規を結び、欧米諸国と同様にアジアの国々とも条約に基づく外交関係を構築する。
1888{明治22}年11月30日、日墨{メキシコ}修好通商条約調印。1894{明治27}年7月16日、日英通商航海条約調印。日本は領事裁判権の撤廃、関税自主権の一部を達成した。1911{明治44}年2月21日調印。本条約等の締結により、日本は関税自主権の完全回復に成功し、幕末以来の重要課題であった不平等条約の改正を達成した。
米国トランプ関税に悩む昨今の日本と幕末から50年余り領事裁判権と関税自主権の問題にに奔走する明治の政治家の名前が交錯した。
「吉田茂展」
私から吉田茂について述べるのはおこがましいので、パンフレットと展示資料の解説から抜粋して記します。
「吉田茂は、戦前期に外交官としてのキャリアを歩み、戦後は首相としてサンフランシスコ平和条約と日米安全保障条約を締結するなど、現在に至る日本の外交路線決定に重要な役割を果たしたことが知られています。
日本外交史上の業績はもちろんのこと、その人物像も注目され、様々な方面からの様々な評価があります。「ワンマン宰相」や「バカヤロー解散」といった、辛辣ながらユーモラスな言葉で評された個性は、吉田の魅力を反映したものといえるかもしれません。
「吉田茂を語るエピソード」
①裕福な育ちの「若さま」
自由民権運動家竹内綱の5男として生まれた吉田は、横浜の貿易商吉田健三の養子となり、健三の死去によって11歳にして莫大な財産を相続しました。義母からは「若さま」と呼ばれて大事にそだてられました。外務省入省当時は白馬に乗って通勤していたという話が伝わっています。
②ユーモラスに描かれた「ワンマン宰相」
強烈な個性をもち、ワンマン宰相とも呼ばれた吉田は、総理在任中、新聞の風刺漫画の格好の題材となりました。カッパのイラストで知られる漫画家の清水崑は吉田本人とも親交があり、吉田の姿をユーモラスに描きました。
③吉田を支えた人脈
明治の元勲、大久保利通の息子で内大臣を長く務めた牧野伸顕の娘と結婚したことは、戦前の吉田が政治的に活躍する際の大きな助けとなりました。戦後は自らの政治基盤を支えるために、官僚だった池田勇人や佐藤栄作などを政界に誘い入れ、後の日本を背負う政治家に育てました。
④皇室への敬意
吉田は、「皇室を尊崇するのが人倫の義であり、社会秩序の基礎である」と考えていました。米寿のお祝いとして昭和天皇から鳩杖が下賜されました。
{パンプレット、吉田茂を語るエピソードより}
吉田邸2階応接間にあった衝立 {縦・横2m程}
吉田が尊敬していた人々の書翰が貼付されている。政局、時勢論から個人的な依頼、礼状、まで幅広く、吉田の人物交流が分かる、表面・西園寺公望・山本権兵衛・原敬・鈴木貫太郎・若槻礼次郎・-牧野伸顕・犬養毅・竹内綱{吉田の実父}・池田成彬{元蔵相}
裏面・岡田啓介・幣原喜重郎・鈴木貫太郎・犬養毅・米内光政・牧野伸顕・古島一雄{元犬養毅の側近}
吉田は、自分が尊敬していた人々の書翰を収集して、この衝立に貼り、よく眺めていたという。
また、サンフランシスコ平和条約受託演説で読み上げた原稿は、当初英文であったが、急遽日本語に書き換え、演説15分程前に出来上がったという。全長は、30m近くあり、外国人記者から、{トイレットペーパーのようだ}と評されたという。
ここに紹介したのは展示資料のごくごく一部であるが、幕末から戦後の沖縄返還協定署名本書や田中角栄総理が北京を訪問し周恩来国務院総理らと国交正常化に関する協議を行い、日中共同声明の署名書原本までの多くの条約・批准書、調印書、認証謄本、議定書、共同宣言署名本書等の貴重な資料に加え、関税自主権、領事裁判権など不平等条約の改正に奔走した先人たちの営為のあとを回顧するよい機会であった。
特に私は関心を持ったのは、1855年・安政元年2月7日調印の「日魯通好条約」。
1875年・明治8年5月7日調印の「樺太千島交換条約」。
1905年・明治38年9月5日調印の日露講和条約{ポーツマス条約}。
1941年・昭和16年4月13日調印の「日ソ中立条約」。
1956年・昭和31年10月19日署名の「日ソ共同宣言」など「日魯」「日ソ」と結んだ条約や宣言に興味を持った。
吉田茂は1964年・昭和39年大勲位菊花大綬章を授与され、1967年・昭和42年10月20日89歳で死去。戦後初の国葬が執り行われました。
写真は、パンプレット。吉田茂について。日魯通好条約。サンフランシスコ講和条約原稿。書翰が貼付された縦・横2mの大きな衝立。
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(2025/05/16)
没後70年・北方の詩人 高島高
富山県を代表する詩人であり医師であった高島高{本名・高嶋高1910ー1955}の没後70年を迎え、企画展が4月4日{土}–5月11日{日}まで市博物館で開催されました。
今回は、高嶋家よりお借りした資料や博物館所有など計3200点以上の中から、280点余りが展示されました。
さて、高島高は明治43年7月1日滑川市西町{現・加島町3区}で医師・高嶋地作・静枝の二男として生まれる。現在地の加島町2区には、昭和6年新築移転す。旧制魚津中学2年の時、母の死に会う。旧制魚津中学在学中から詩作を始め、日本大学文科に進むも、父の願いを受け入れ日大を中退し、昭和医学専門学校{現・昭和大学}に入学し昭和11年卒業した。詩作は早く同8年、萩原朔太郎、北川冬彦らの詩選コンクールに当選し、以後北川冬彦に師事し、同人として詩壇入りした。
昭和13年詩集「北方の詩」を刊行のあと帰郷して医業に従うかたわら詩作を続け第二集「山脈地帯」を出す。18年応召、軍医として、フイリピン、シンガポール、タイを転戦した。21年復員し23年「文学組織」「北方」を創刊。25年「北の貌」を上梓した。
そして、自宅の一室を「北方荘」と名付け立山を主題とした山岳詩を発表するなど活躍したが、昭和30年5月12日44歳の若さで病没した。本展では高嶋家に残る関連資料、滑川町の俳諧結社「風月会」でも活躍した父・地作に関する資料を通じて,高嶋家と詩人・文人たちとの交友と高島高の生涯の展示であったが、パネルや写真を多く用い私のような素人にも分かりやすく展示してありました。
高島高先生が44歳で亡くなられた昭和30年は私は8歳である。町内が同じで、しかも近所であり医院の前庭でよく遊んだ。先生が往診に利用されたのは人力車であった。車庫は現在更地であるが加島町2区公民館斜め向かいであった。
先生亡き後、昭和30年代半ばまで車庫に人力車があったと思う。私の母が、私が幼き頃、人力車を見るとそれに乗りたいと言って母を困らせたという。また、私が3歳の頃高熱を発し、往診に来て頂いた時手遅れになっていたら大変なことになっていたという。
この2件正直言って私の記憶にない。しかし、人力車の先生の姿は憶えている。高先生亡きあとは、先生の弟さんの学先生が医院を継承された。学先生の長女の方と私は同級生であり、その弟さんも医師となり、大学病院や公的病院で活躍されよく存じ上げている。令和3年12月富山市立図書館で開催された高島高シンポジウムで久しぶりにお二方とお会いした。また、今回の企画展の開会式でも、また、最終日の5月11日にもお会いし、しばし思い出話に花が咲いた。
私は以前から、博物館とは利を生む施設でなく、それぞれの地域の民俗や文化・考古学・芸術・歴史的出来事等の歴史を正しく事実として後世に伝えていく為に、資料収集やそれを保管し、機会を通し市民に公開する為の施設と思う。
それと常々思うことだが、滑川市が生んだ偉人はたくさんいる高島高先生もその一人であろう。椎名道三、岩城庄之丈、中川幸子、高階哲夫を始め数多くおられる。確かに、「光り輝く滑川の人物ものがたり」として平成24年3月市教育委員会より小冊子として発行されているが、偉人伝シリーズとし今回のように企画されても良いのではなかろうか。
また、例えば電気争議や小作争議そして米騒動など滑川で発生した大きな出来事など{但し、米騒動は発生から100年などで企画展あり}繰り返し機会を作り、伝えてゆく必要があると思う。俳聖芭蕉が奥の細道紀行の折、滑川で宿泊したことさえ、知っている市民が少ないことを残念に思う。
「伝承なきところ モラルなし」
高島高の詩碑が市内に2基ある。昭和40年5月12日、没10年の命日に
行田公園内に北川冬彦揮毫による「続・北方の詩」の一節から
剣岳が見え
立山が見え
一つの思惟のように
風が走る
平成10年{1998}9月18日有金野球場と本丸球場の間のポケットパークに建立された「力」の詩碑
「力」
肉体をつらぬく焔がある
この焔をこめて燃え上がった生命{いのち}があるというのだ
ぶつかれ!
尚、今回の企画展に併せて、滑川書道連盟の皆さんによる「高島高―心に響く詩の書展」と題し21点の力作も出品され、企画展に花を添えた。
写真は、現在の高嶋医院。行田公園内の詩碑。有金球場の詩碑「力」。学先生のご長男と。
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(2025/05/11)
15周年記念祝賀会
散る花や すでにおのれも 下り坂 一茶
5月9日{金}富山県工業課程高校同窓会連絡協議会{会長・宮本光明}が、富山市内パレブラン高志会館で10時半より総会、11時半より昼食を兼ねた祝賀会が、新田知事、武田県議会議長、水野滑川市長等、多数の来賓と関係者等100名余を迎え盛大に開催されました。
祝賀会は、宮本会長の挨拶に次いで、前述した3名が来賓を代表しそれぞれの立場で祝辞を述べられました。乾杯は県工業教育振興会の村田氏が行い、和やかに懇親会に入りました。
さて、この協議会は34校の県立高校の中で、工業課程が設置されているのは、砺波工業、高岡工芸、富山工業、富山北部{薬業科}、滑川{薬業科},魚津工業、桜井{土木科}、の同窓会で結成された連絡協議会です。主な目的は、ものつくり県を標榜する富山県において、その工業分野へ有為な人材を輩出し、工業県としての名声を高めると共に、時として関係機関に提言を行うことなどである。
事業として春の総会、秋は例会として、7校持ち回りで学校の施設や設備等の見学と市内企業見学を行い,企業家と意見懇談会など開催している。
昨年秋は滑川高校が担当し、学校施設として、海洋深層水を使用してサクラマスの養殖をしている実習棟や創立100年を記念して建設した「滑川高校歴史資料館」などを見学後市内の「スギノマシン」を視察し役員と懇談した。設立以来10年が経った令和2年に記念事業が計画されたが、ご存知のコロナ禍で延期となり今回の15周年記念となりました。
ところで昨今、少子化の影響で、高校再編・教育改革が叫ばれ、「新時代とやまハイスクール構想検討会議」{会長・新田八朗知事}の初会合も開かれ、2038年度までに新設する大規模校の設置方針や、28年度ごろを目途とする直近の再編統合を巡る本格的な検討会もスタートしました。
県教委の基本方針は、38年度までに3期に分けて再編統合を進め、現在の全日制34校を20-22校程度に集約するほか、校舎を新築する1学年320人以上の大規模校を設けることを盛り込んだ。この様な中で総会が開催され、やはりこの問題が話題になった。
宮本会長は、検討会が始まったばかりであり今後注視してゆきたいと述べられたが、関心の高さが現われた総会であった。
尚、祝賀会は私の一発締めで閉会となった。
写真は、冒頭の挨拶する宮本会長。祝辞の新田知事、水野滑川市長。閉会の一発締めの私
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(2025/05/10)
令和7年薬神神社春季例大祭
恒例の薬神神社例大祭 {主催・石倉雅俊薬神神社奉賛会会長}は雲一つない好天に恵まれた5月8日午前9時より挙行された。
ここ数回は荒天で雪嶋神社社務所の中から、薬神神社に向かっての遥拝参拝でしたが、やはり青空の下で木々に囲まれた中での参拝は格別です。
最初に青年部の若宮君の進行で、横川宮司による祝詞奏上に次いで、石倉会長、顧問の私を含め薬業関係者に続き、水野市長、竹原市議会議長、大門県議、杉田市商工会議所専務理事等順次玉串奉奠を行い、商売繫盛、交通安全等を祈願しました。
石倉会長は挨拶の中で、正月以来体調を崩し、先日回商の折、お得意様に体調の変化を話し、いつまで来れるかわからない。と話したところ、お得意様から是非頑張って引き続き来てもらいたいと強く要請された話をされました。
これを聞いた石倉会長は、自分を必要とする人がいる限り、頑張ろうと思った。と述べ業界の話も交え共に頑張ろうと士気を鼓舞されました。
私は、この話を捉え、これが配置薬業の原点である。お得意様との信頼関係は、配置員が数年ごとに代わる販社には出来ない一人帳主の強みである。業界は厳しい状況にあるが我々だけが厳しいのではない。米国トランプ大統領の関税問題で厳しい状況にある企業も多くある事を考えると、ピンチをチャンスと捉える機会でもある。だからここは踏ん張りどころ。物事を前向きに捉えることの重要性を話しました。
来賓の水野市長は自分の父は売薬だったこと。そのあとを弟が引き継いで島根県を回商していることを話し、滑川市の伝統産業である配置薬業を絶やしてはならない。その為にも市として出来る限り支援していくなど、力強い言葉を頂きました。
他の来賓の方々からも、それぞれの立場で、薬業に理解を示す挨拶でした。
約1時間余りの厳粛な例大祭でしたが、お盆での再会を楽しみに終了し散会しました。
写真は、玉串奉奠の私と挨拶する石倉会長。
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(2025/05/08)
令和7年琵琶春季演奏会
桜花爛漫から百花繚乱へ季節は移り、抜けるような空の青さに心地よい風が吹く5月5日、錦秋流琵琶富山支部 {支部長・嶺瑛水、後援会長・中屋一博}の春季演奏会が滑川市瀬羽町、国登録有形文化財・旧・宮崎酒造「ぼんぼこさ」を会場に開催された。
会場の土間には十数匹の「こいのぼり」が吊るされ、室内には五月人形が沢山飾られ「こどもの日」に相応しい雰囲気でした。
私は、挨拶の中で「端午の節句」と「こいのぼり」と「5月5日」について多少触れました。
1年間に「節句」が5回あるが 節句とは、中国の暦法と日本の風土や農耕の生活習慣が融合したもので、季節の変わり目に邪気を払い、五穀豊穣や無病息災を祈る行事として江戸時代に入り庶民の生活にも浸透し根付いてきた。
①1月7日 人日{じんじつ}の節句。
春の七草を食べて一年の無病息災を願う。
②3月3日 桃の節句。
ひな祭り。女の子の健やかな成長と幸せを願いお祝いする。
③5月5日 端午の節句。
しょうぶ節句とも言われ、男の子の成長を願う。こいのぼりを飾ったり粽{ちまき}を食べたりする。
④7月7日 七夕の節句。
織姫と彦星が1年に1度だけ天の川を渡って会える日、とされ芸事や技芸の上達を祈る日でもあり、短冊に願い事を書いて笹飾りする。
⑤9月9日 重陽の節句。
奇数が重なる日は縁起が良いとされ、特に最大の奇数である9が重なる9月9日は、不老長寿を願う日とされている。9が重なる日を重陽と呼ぶ。
「端午の節句」と「こいのぼり」の関係。
「昔、中国黄河の上流に竜門という滝があって、鯉はこの滝を登りきると、そのまま大空に舞い上がって竜に変化する。」という、中国の伝説に基づいたもので、それにあやかり男児の立身出世を願って鯉のぼりが立てられるようになった。
しかし、近年生活様式の変化で、屋外での鯉のぼり立ては難しくなり、室内での五月人形や武者人形等に変化したもので、元々は鯉のぼりであった。
文献によれば、「鯉のぼり」が飾られたのは江戸時代になってからで、男の子の出世を願って、和紙で作られた鯉を一匹だけで始まった。
明治に入り木綿製が現われ、昭和に入り高度経済成長期にナイロンの製品が出た。丈夫で軽く量産が出来る。1962年埼玉のメーカーが5色セットで売り出すと評判になり以降5匹も増えて第二次ベビーブームの70年代は史上最も多く泳いだという。
そこで「鯉のぼり」の歌が2曲ある事を話した。
「鯉のぼり」・・・大正2年
①甍の波と雲の波 重なる波の中空を
橘かおる朝風に 高く泳ぐや鯉のぼり・・・
「こいのぼり」・・・昭和6年
①屋根より高いこいのぼり 大きい真鯉はお父さん
小さい緋鯉は子供たち おもしろそうに泳いでる
大正2年の「鯉のぼり」は少し難しく、甍と言っても分かる子供はそう居ない。そこで昭和6年新たに作られたという。
もう1点「背くらべ」の歌{大正8年}がある。
①柱のきずは おととしの 5月5日の 背くらべ
粽{ちまき}たべたべ 兄さんが 計ってくれた 背のたけ
きのうくらべりゃ 何のこと やっと羽織の 紐のたけ
この歌も、端午の節句に身長を計る。やはり男の子の成長を願う歌であろう。
昭和6年の「こいのぼり」の歌は95年前の歌にもかかわらず今でも保育園や幼稚園で何の抵抗もなく歌われているし、これに代わる歌もない。
大正元年に「茶摘み」や「春の小川」同2年「早春賦」同3年「故郷」「朧月夜」などの名曲は、100年経っても色あせることなく歌い継がれている。つまり、単に古いから,或は戦前のものだから、でなく、時代が変わっても残すものと、屋外の「鯉のぼり」が時代の変化に対応して、五月人形のように形を変えて残ってゆくものなどあるが、私は、琵琶も能楽も詩吟も漢詩の世界も是非とも残してゆきたい分野と思う。
取り分け琵琶で奏でる演奏曲目は、殆ど歴史的故事に因んだものばかりである。親子のの愛情や肉親の情など、今の社会で失われつつある大切なことを教えている。「不易流行」今一度考える機会であった。
今回友情出演として南砺市井波から、薩摩琵琶 正派の2名の方もお迎えし、演奏会を盛り上げて頂いた。
①演目・・屋島の誉 演奏者・伊藤紫紺
②演目・・ひめゆりの塔 演奏者・島田進水
③演目・・火の玉文覚 演奏者・薩摩琵琶・正派 竹下嶺光
④演目・・俱利伽羅峠 演奏者・薩摩琵琶・正派 馬川透流
⑤演目・・重衡 演奏者・有澤結水
⑥演目・・山科の別れ 演奏者・高堂瓏水
⑦演目・・ぶんぶく茶釜 演奏者・嶺瑛水
以上7名の演奏者が約1時間40分にわたり琵琶独特の哀調を帯びた音色を響かせた。GWの中ご来場された約50名程の方々には満足感を感じてもらえた演奏会であったと思います。
写真は、挨拶する私、トリを務めた嶺支部長。
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(2025/05/06)
第13回 (74回)日本海開き
海・・・海は広いな大きいな 行ってみたいなよその国
海は大波青い波 揺れてどこまで 続くやら・・・昭和16年童謡「海」
清少納言は「春はあけのぼ」と書きました。夜明けの空を赤々と染め上げるように、春は冬の名残を追い払い、曙 {あけぼの}朧{おぼろ} 霞 {かすみ}、そして桜花爛漫と続いた風景も百花繚乱へと季節が移り行く中、5月1日午後1時より恒例の滑川高校海洋科による「日本海開き」が上市川河口、高月海岸で行われた。
これは、かって水産高校時代の1951年{昭和26年}から始まり、海洋高校から滑川高校へと引き継がれている伝統行事の一つで高校再編から数えて今回は13回目ですが、通算74回目です。県内では水産関係の単独校として、滑川市の海洋高校と氷見市の有磯高校の2校がありましたが、海洋高校は滑川高校と有磯高校は氷見高校と再編統合になりました。
しかし、旧校の精神を引き継ぐ形で各校に学科として存続し今日に至っています。
目的は「海洋高校の伝統を継承し、滑川高校海洋科の生徒の溌剌とした若さと旺盛なる心意気で、海に挑む海洋精神と粘り強い意気の高揚を図る」とあります。この様な目的から、あえて「富山湾開き」と言わず、志を高く持つようにとの思いで「日本海開き」となったような気がします。尚、この名称は第一回からだそうです。
この日は、五月晴の青空が広がり、気温20℃、海水温は少々低く12℃でしたがまずまずの日和でした。参加者海洋科1-3学年計103名の生徒が、突堤や消波ブロックに囲まれた場所で、波打ち際から沖の約25m先の「浮き」を目指し、3年生がピストルの号砲と大門県議の打ち鳴らす太鼓を合図に一斉に飛び込み、岸に戻ると嶋谷校長の太鼓で2年生、次いで私の太鼓で1年生、これが終わると全員が水野市長の太鼓を合図に飛び込みました。
私の見たところでは、25mを完泳したのは数人。途中Uターン組に女子は殆ど波打ち際で戯れる生徒が多かったようでした。しかし最後に何処からともなくアンコールの声が上がり数名の男子生徒が再び飛び込む姿には、現代の高校生気質を見た思いでした。
つい1か月前に入学した新入生にとっては、新鮮な驚きであっただろうし、これも海洋科の生徒しか経験することの出来ない思い出の一つと思います。それにしても、元気溢れる姿から私も元気を貰いました。
また、県内でこの様な行事があるのは多分本校だけであり、今後ともよき伝統行事として引き継がれてほしいものです。
写真は、太鼓を打ち鳴らす私、嶋谷校長
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(2025/05/01)
素敵なグループ
春風や 闘志抱きて 丘に立つ 虚子
誰にも仲間やグループや同志やメンバーなどがいる。その一つのグループと毎年「ほたるいか」の時期に我が家に集まる。
今年は4月28日{月} 藤井富山市長、森前市長、中尾富山市名誉市民、米原県議、水野滑川市長等に加え、堂故参議院議員、上田衆議院議員も特別参加し、また、私の妻と同級生の民謡歌手長岡すみ子さんも出席し、美声を披露し、この会を盛り上げてくれました。
今回のテーマは、藤井市長が4月20日市長選挙を勝ち抜き2期目の当選を果たしたこと。
中尾先輩は、現在数え90歳いわゆる卒寿である。卒寿から99歳白寿を越え、上寿への激励と、堂故参議院議員の来るべき戦いの大願成就の3点でした。そんなことから冒頭の虚子の句を3氏の現在の心境と重ね合わせ掲げたものです。
最初に上田議員から3氏に対し、お祝いと激励の言葉の後、各氏からそれぞれ豊富が述べられ、米原県議の乾杯で懇談会に入りました。
話題はやはり今年のホタルイカ漁の漁獲量から始まりましたが、4月中旬頃まではまずまずであったが、以後不漁で当日も滑川漁港での水揚げは僅かで、どうにか参加者の分は確保出来ました。
また、政局の話しやら、NYタイムズの今年の行くべき52か所に富山市が選ばれたことによる効果や中尾先輩が卒寿まで元気で長命と長寿を維持されている秘訣など話は多岐にわたりましたが、中尾先輩に関しては、学生時代に大病を患ったことから、規則正しい生活や健康管理には十分注意しているとのこと。私には耳の痛い話でした。
また、森さんが差し入れたイタリアの「ドルチ・アル、クッキアイオ」と呼ばれるスプーンで食べるデザートについて解説。確かにこのティラミスは、美味かったです。店は富山市内だそうですが、シェフはミラノ生まれ、ローマ育ちで現在滑川に住んでいるそうです。
私は初耳でしたが、さすが水野市長はご存知でした。長岡すみ子さんは「秋田大黒舞」など3曲唄ってもらい、場も大いに盛り上がりました。
写真は、女房手つくりのほたるいかのお刺身「てつさ」真ん中がほたるいかの足。
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(2025/04/29)
令和7年度入学式
珍しき 高麗{こま} 唐土{もろこし}の花よりも
あかぬ色香は 桜なりけり 本居宣長
4月8日{火}午後2時・県立滑川高校{嶋谷克司校長}入学式が体育館で挙行された。それにしても、桜と入学式は何となく絵になる風景である。
校舎敷地内の桜も入学式を祝うかのように満開であった。
さて、希望に胸膨らませ、校門をくぐった生徒数は183名である。
本来、普通科2クラス80名.薬業科1クラス40名。商業科1クラス40名。海洋科1クラス40名。計200名が定数である。しかし、183名つまり定数割れである。県内の県立高校数39校の内、多数の高校が少子化問題に直面し本校同様である。それ故、高校再編が大きな問題として議論されている。
そんな中、入学式は、教員、保護者、来賓等関係者が着席している中、吹奏楽部が演奏する、スカイ・ブルー・ドリームの曲が流れ新入生が入場した。
入学式に相応しい曲である。その後、全員で国歌斉唱。残念ながら新入生は殆ど歌っていなかった。多少の緊張と、中学時代にも余り歌う機会がなかったからであろう。
次いで、校長より183名に入学許可を与え、続いて式辞である。内容は、9年の義務教育を終え、高校入試を乗り越え、滑高生の一員になったことへの歓迎と、今日まで支えてくれた人々への感謝の気持ちを忘れないこと、次いで本校の歴史と生徒目標「高きを求める情熱」生活信条「文武両道」に触れ、どんなことがあっても学校はサポートする。
そして、2点力説されました。
①自分を知り、可能性を信じ前へ進む。秘めた能力を発揮させるため、多角的に物事を考え、一歩踏み出す。行動する力。夢や目標をどこまでも高く。変化を恐れぬ。
②思いやり,優しさを持つことの大切さ。女優有村架純さんの言葉を引用し、「ありがとう」と言ったら、その数だけ人は優しくなれる。
「ごめんね」と言ったら、その数だけ人は賢くなれる。「さよなら」と言ったら その数だけ人は愛を知る。
など話、お祝いと激励の式辞でした。嶋谷校長は校長として初めて赴任されたのが本校で、それ故、式辞も初めてで、多少緊張もあったと思いますが、内容の良い式辞だったと思います。
祝電披露の後、新入生宣誓。
新入生代表は、伝統ある滑川高校に入り、誇りを感じる。学業と部活に励むこと。そして、両親や先生に対し、未熟な私たちだが、仲間たちと頑張ると力強く宣誓。
歓迎のことば 在校生代表
期待や不安があるかもしれないが、2-3年生、そして先生を頼って下さい。より良い学校生活を送れるよう、サポートし盛り上げてゆきます。
と先輩らしい、温かい言葉を新入生に語りかけていました。
次に、川上教頭から校歌の紹介がありました。昨年も記しましたが、
1題目は、朝日に美しく輝く立山連峰に抱かれて、百年の歴史と伝統を誇るこの滑川高校で熱き夢を語り合おう。
2題目は、蛍を袋に集めて、その光で書を読み勉強をしたと言われる中国の学者、「車胤」の若き日の苦難を思い、かけがえのない青春の一日一日を大切に過ごしてほしいという願いが込められている。
滑川高校校歌 作詞・北園克衛 作曲・岡部昌 昭和25年制定。
一 朝日に匂う 太刀の峰 二 有磯の海に 風荒れて
雲井遥かに 青春の 思え車胤の 青春の
赤き血に沸{たぎる}我等の日 波のごと迅{はやし}我等の日
加積の郷{さと}の 学び舎に 雄々しく潔{きよ}く 血と愛に
栄えある歴史 うけ継ぎて 鍛えん時を 惜しみつつ
祖国をにない 集える我等 理想に燃えて 集える我等
これが、私も好きな滑川高校の校歌である。特に2題目の「車胤」云々は卒業式に欠かせない名歌、「蛍の光」つまり蛍雪の功を短い歌詞にして校歌にしたことである。
作詞の北園克衛氏は{1902-1978}三重県出身で当時有名な詩人であった。この方と滑川高校教諭で同じ詩人仲間であった高島順吾氏の紹介で作詞された。
嶋谷校長始め転入教職員には、初めて聞く校歌であるが、その意味することを考える機会であったし、一日も早くこの校歌に親しんで貰いたいと思う。
閉式の辞。学級担任紹介で生徒は退場しましたが、その時の演奏曲目は「渡り鳥」でしたが、ちょっと違和感があった。入退場の2曲の曲名は私は分からず、式後お聞きしました。
新入生の希望に胸を膨らませ、輝くような瞳を見ると矢張り若いことは素晴らしいと思う。青春とは単に年齢だけで判断すべきでない。当然である。
しかし、後期高齢者となった私からすれば矢張り羨ましい限りである。いづれにしても、彼らが滑川高校生として、多くの素晴らしい思い出を作り、楽しい学校生活を送って貰いたいと念じ学校を後にした。
写真は、学校正面玄関。式辞を述べる嶋谷校長。


(2025/04/09)
「仲間たち」
いついっせいに 桜咲きたる 花びらの 一つ一つに 光ありつつ
5-6分咲きと思っていたら つい2日程で「染井吉野」はほぼ満開である。「枝垂れ桜」はもう少しであるが、それにしても近頃の寒暖の差が激しい天候不順の割には満開宣言は平年並みである。
さて、ひさしぶりに「仲間たち」と痛飲した。仲間と一口に言っても、同級生、サークル、職場、隣近所など様々である。今回の仲間たちは、年齢も、職業も、趣味も、性格も違う者同士だが、どこか気が合う。そんな7人の仲間たちである。
それ故、7人も集まると話題も多岐にわたり、わいわいガヤガヤ賑やかなもので、中々話が纏まらない。それでいて纏まる時は纏まる。不思議な仲間である。そんな仲間が4月4日集まった。
午後7時定刻に全員集合し、グラスを傾けようとした時、誰かが、今日は中屋さんの一日遅れの誕生日です、と,話した為、期せずして私の78歳の誕生日を祝う乾杯となった。その後、和やかな中にも、賑やかに話に花が咲いた。
9時半頃そろそろお開きかと思っていたところ、突然私に対しての、バースデイケーキが出され、バースデイソングの中、ローソクの灯を消すように促され一息で消しました、川柳の「誕生日 ローソク消して 立ちくらみ」を思い出しましたが、今のところそんな川柳は私には無縁でした。それにしても男ばかりの集いに、この様な気配り。正直驚きました。
ただ感謝しかありません。よく、誕生日やお正月を迎えると、人は1歳年を取る。取るは即ち1歳若返ることだという。
しかし、私は、年を取る事は砂時計と一緒で、砂時計は時計をひっくり返して、落ちてくる砂が重なり時を刻む。私は誕生日から次の誕生日までの1年間に新たな思い出、出会い、感動を作る時間であり、それが今日の私を築いてきた。だから、年を取ることは苦痛でなく、誕生日は次の誕生日までの1年間に新たな楽しい思い出を作るスタートの日である。と話しました。
そんなことでついつい長居し、散会したのが10時半を過ぎていました。冒頭の1首は誰の詩か知りませんが、仲間たちの瞳は、桜の花びらの一つ一つのように、光かがやいているようでした。
写真は、ほぼ満開に近い我が家の染井吉野と奥の枝垂れ桜{4月5日現在}。 7人の仲間たち。バースデーケーキ。
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(2025/04/05)
オペラ鑑賞
3月30日{日}午後2時より富山市民プラザ・アンサンブルホールで碓井絵美さんの、「愛の唄コンサート」が開催された。音楽とは、無縁な私が何故鑑賞したか。実は私の息子と絵美さんは同級生であり、しかも滑川市民であることから、以前より面識ががあったからです。
それにしても、音楽と一口に言っても幅広く、奥深い分野の中で、特にオペラとは私から遠く離れた存在でした。
強いて言えば、米国の作家ロングの小説を基にプッチーニが作曲し、Dべラスコが戯曲化し歌劇「蝶々夫人」として上演され、これを日本人、三浦環が戦前ソプラノ歌手として、「ある晴れた日に」など朗々として歌い上げたことから、その後、国際的なオペラ歌手としての名声と地位を確立していったことと、内容が明治の中期長崎に寄港した米国海軍中尉のピンカートンと結婚した蝶々さんとの悲恋の物語程度の知識しかない私が、生の唄声を聞くのは初めてでした。
しかもアモーレならイタリア語でわかりますが、恥ずかしい話ですが、どの曲を聞いていても、どれがスペイン語の歌でどれがイタリア語の唄かも判断できない私です。しかし、あの高らかに歌い挙げる美声は何処から出て来るのだろうか。
そして時々、落語や長編歌謡浪曲など、あんな長いセリフをよく覚えられるものと感心していますが、絵美さんの場合は、日本語と違いイタリア語、スペイン語を自由自在に歌いこなし、しかもあれだけ長時間楽譜も見ず歌うのだから大したものです。
よほど勉強や練習しなければ成し得ません。その努力には敬意を表します。と同時に、もし人間の生活の中に、音楽が無かったら我々はどんな生活をしているだろうか。全く無味乾燥な生活を過ごしているかも知れない。音楽や芸術は目には見えない心の豊かさや、感動や勇気・元気を与えてくれるものである事を改めて教えて貰ったような気がしました。
最後に彼女はあいさつの中で
「私は学校で先生をしている。オペラの勉強と練習、これに学校での授業。両立させることは大変です。しかし一つの物事を最後まで諦めることなく、努力することで、生徒を含め何かのお役に立てればと思っています。」
長々と述べるより、絵美さんの恩師清水先生の言葉と絵美さんの「ごあいさつ」をプログラムの文より転載します。
絵美さんへ 清水まり
本日はCanto dell amore、愛の唄コンサートの開催おめでとうございます。責任ある職業とプリマドンナとしての二刀流の準備期間を経て、本当によく頑張りました。
時を戻すと、まん丸顔でおかっぱ、そして、赤いほっぺの貴女は、昭和音楽大学の門をくぐり、清水門下生としてやって来てくれました。毎日をひた向きに出力全開で大学ー大学院ー日本オペラ振興会オペラ歌手育成部研究生ーとスキルアップしていかれた日々が甦ります。プロとして大人の女性としての成長と活躍は富山の皆様がよくご存知と思います。
絵美さんの変わらないこと・・・豪快な笑い声と笑顔、声楽道への情熱者としての素養とたゆまぬ努力です。これらを持ち合わせ、堂々たる{お姿ではありませんw}お心のまま、コンサートのテーマである「たくさんの方々への愛」を込めてどうぞご披露ください。
今日のプログラムには、碓井絵美ならではの珠玉の音楽が奏でられます。私は胸がわくわくしてなりません。さあ凛として、貴女の素敵なご両親さまへ、愛し支えてくださった皆さまへ。そして、このホールにお集まりくださった皆さまへ いざ出陣してください。
2025年3月29日
ごあいさつ 碓井絵美
本日はCanto dell amore 愛の唄にご来場いただき,誠にありがとうございます。Canto dell amoreはイタリア語で、カントは「歌」、アモーレは「愛」を表しています。
2025年は、私が声楽を学び始めて30年の節目となる年です。30年前、大好きで進んだ「声楽の道」ですが、音楽と向き合うことが辛くなり、歌うことをやめてしまいたいと思うこともありました。それでもやめずにここまで続けてこれたのは、家族や友人をはじめ、これまでお会いしたたくさんの方々の「愛」に支えられてきたからだと思います。
そして、本当に辛いとき、私を支えてくれたのは、やはり音楽でした。音楽のもつ不思議な力が私に「再び頑張ろう!」という力を与えてくれました。
本日は、これまで声楽を学ぶ中で、いつか歌ってみたいと憧れてきた作品をプログラムに擬縮しました。主催のOPERA 、GYM{意味・スポーツジムでトレーニングするように様々な音楽にチャレンジする}の精神で、日本語、イタリア語、スペイン語で挑戦します。
情熱的であり繊細でオーケストラのごとく彩り豊かな音楽を奏でるピアニストの北村晶子先生、艶やかな「THE メゾソプラノ」の美声を持つオペラ歌手の山本千鶴さんをお迎えし、様々な「愛」の形を奏でます。これまでの感謝の気持ちを込めて歌います。
Canto dell amoreどうぞお楽しみください。
これがお二人の言葉です。何も加える必要はないと思います。
素敵な歌声ありがとう。
写真は、パンフレット。出演者プロフィール。プログラム。蝶々夫人の一場面。
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(2025/03/30)
亥子の会
3月28日午後3時、,滑川市中川原・パノラマレストラン光彩で、昭和22年{亥年生まれ}と昭和23年{子年生まれ}の有志で結成する第7回「亥子の会」が、スローガンを―みんな元気で 喜寿から米寿へ―を掲げ懇親会を開催しました。
前日の県内のお天気は28℃と夏日の暑さでしたが、当日は最高気温が12℃と小雨降る花冷えする寒さでした。
15名の参加者でしたが、大阪・京都の遠方より2名が来滑し花を添えてくれました。稲場大二君の進行で始まり、最初に私が挨拶し、昨年より10名ほど参加者が減ったが、毎年参加していた方が1名亡くなったこと。
また体調不調で今回参加できないが来年は是非参加するとという人が5名であることを話しました。
しかし、その反面、今回久し振りに2名の参加者もいることを紹介しました。また我々は健康問題が話題にでる年代になったことを自覚して、健康に留意しスローガンに掲げたように、みんな元気で取り敢えず、米寿まで長寿で長命な人生を楽しもうと話しました。
そのためにも物事を前向きに捉え今日の集いが楽しい思い出になるよう念じ挨拶としました。
また、大阪から馳せ参じてくれた関西滑川会会長の千先久矩君が、やはり同級生とは良いものである。再会するのを楽しみにしてきた。来年も是非続けて欲しいと話し、乾杯は中川勲君が行い和やかに懇親会に入りました。
懇親会直前に写した集合写真は、懇親会中に酒も飲まず、コンビニへUSBを持ち込み写真にして全員に配布してくれた稲場大二君に感謝しましたが、余りにもスピーディーな対応に驚きの声が上がっていました。
閉会の辞は近堂昭夫君の力強い言葉で2時間30分余りの宴に幕を閉じました。
別れを惜しみ、握手をもつて再会を約し、散会となりました。
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(2025/03/29)
知人・友人との懇談会
25日夕、友人と懇談会を2度行った。最初は、経産省OBで富山県出身者の間宮叔夫氏。都合で5時30分からお会いしました。
氏は石破首相と懇意なことから,請われて内閣官房参与の肩書で活躍中です。和服の似合う方で、今では知らない人は居ない位有名になっているそうです。それ故、悪いことは出来ないと高笑い。
じっくりと話ができないまま6時30分多忙な彼と別れ、別の部屋で別の知人と懇談会を開催。
メンバーは、かって経済産業省より県の商工労働部長などに出向し、県政進展に尽力された方々で、現役では藤木経産省経済産業政策局長を含め3名。
OBでは佐藤全国中小企業団体中央会専務理事含め2名、これに特別参加として、上田英俊衆議院議員と堂故茂参議院文教科学委員長に首都圏本部からと私と9名で懇談会を開きました。
全員、旧知な仲ゆえ話題も多岐にわたりましたが、やはり国会の動きが中心でした。少数与党の苦労やら、政治とカネ、高額療養費、10万円商品券、予算通過後には強力な物価対策を講じる」発言や、米国の25%のトランプ関税、そして関西万博など実に話題は豊富で時のたつのも忘れ、話に花が咲きました。
翌日は、本市出身の小善国交省総合政策統括審議官に訪ね、午後全弓連理事会に出席し帰宅しました。
写真は、和服姿の間宮参与と。藤木局長、上田衆議院議員、堂故参議院議員と共に。国交省で小善審議官と。
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(2025/03/28)
海舟記念館
3月25日{火}―26日{水}全弓連理事会出席のため上京の折、勝海舟記念館を訪ねた。山手線五反田駅で東急池上線乗り換え、洗足池駅下車徒歩6分位の所に記念館がある。
ご存知のように、明治元年{ 1868}幕府は鳥羽伏見の戦いで破れ、徳川慶喜は官軍との交渉の代表に勝を任じた。官軍の参謀西郷隆盛と会見するため官軍の本陣が置かれた池上本門寺に赴く。その際、通りかかった洗足池の深山の趣きある自然に感嘆し池畔の茶屋で休息したことが縁となり、、農学者津田仙{津田塾大学創始者・梅子の父}の仲立ちで土地を求めた。
勝は、赤坂氷川に家があったが、明治24年{1891}茅葺の農家風の別邸を建て自ら「洗足軒」と名付けました。ただ残念なことに戦後間もなく焼失した。
勝は、この地で次のような歌を詠んでいます。
池のもとに 月影清き今宵しも
うき世の塵の 跡だにもなし
勝は、明治32年{1899}1月21日77歳で亡くなりましたが、生前「洗足軒」の背後の丘に墓所を作り、遺言によりここに葬られました。
石塔には「海舟」とだけ刻まれ、徳川慶喜筆と伝えられている。当初は海舟一人の墓所でしたが、明治38年{1905}妻民子が死去し青山墓地に葬られたが、のちに改葬され、現在は夫妻の五輪塔の墓石が並んで建っています。
それにしても、文政6年{1823}1月30日に生まれ、明治元年{1868}までの45年間は階級制度の厳しい封建社会に身を置き、明治元年から死去する明治32年{1899}1月21日まで31年間は富国強兵、近代国家建設に邁進する。
このように社会が一変する体験は、徳川慶喜も同様である。彼は、天保8年{1837}9月19日生まれで、明治元年までは、歴史の表舞台で、そして明治元年から死去する77歳の大正2年{1913}11月22日までの45年間は歴史の表舞台から消え隠遁生活を送る。
このように維新を境に、薩摩、長州、土佐、肥前の天下となる。しかし新政府を運営するには有為な人材が必要なため,かっての幕臣も登用する。勝もその一人で維新後参議兼海軍郷などを務めたのち、明治20年{1887}5月賞勲局より子爵に叙せられる。
この時、勝は、
今までは 並{なみ}の身{からだ}と思ひしが
五尺に足らぬ ししゃくなりとは
という嘲弄的な狂歌を吟じている。
しかし、勝は明治21年枢密院顧問官。明治22年12月勲一等瑞宝章を賜り、のち勲一等旭日大綬章を授けられ、正二位に叙せられた。
これに福沢諭吉が異を唱えた。明治25年{1897}1月末「瘦我慢の説」と題した草稿を送り返書を求めた。これは、この頃外務大臣を務め子爵となった榎本武揚にも向けられた。当初黙殺されたので、2月5日再び諭吉は督促状を出した。これが世に明るみになったのは、勝、亡き後、明治34年{1901}諭吉が主宰していた「時事新報」で公表されたことからその内容が判明した。
諭吉は、「かって幕臣であった勝が敵対した官軍つまり明治政府に仕え、名利をを貪っているとして勝を弾劾する。これが有名な「瘦我慢の説」である。
これに対し、勝は{中略・・・「行蔵我に存す。毀誉は他人の主張、我に与らず、我に関せずと存じ候、各人へ御示し御座候とも毛頭異存これなく候{中略}・・・。」
つまり、批評は人の自由、行蔵は我に存すの意である。榎本はどの様に応えたかは不明である。もう一点有名な話は、勝は明治に入り座談会等で話したことが、海舟座談、氷川清話、海舟余波などとして残っている。
その中で、氷川清話の中の「古今の人物について」で、勝は坂本龍馬について「竜馬がかって俺に、「先生はしばしば西郷の人物を称せられるから拙者も行って会ってくるから添え書きくれ」といったから、さっそく書いてやったが、その後、坂本が薩摩から帰ってきていうには「なるほど西郷という奴は、わからぬ奴だ。少しくたたけば少しく響き、大きくたたけば大きく響く、もし馬鹿なら、大きな馬鹿で、利口なら、大きな利口だろう」と言ったが、坂本もなかなか鑑識のあるやつだよ。」
激動の幕末維新を生き抜き、西郷と徳川の名誉回復に尽力し奇しくも徳川慶喜と同じ77歳の生涯であった。記念館を見学後、勝夫妻の墓所をお参りしたが、いまだに香華とお花が供えてあった。
勝の言葉に「清濁併せ吞んで、なお清波を漂わす、汝、海の如き男たれ」がある。政治には清濁があるとは思うが、余りにも濁が目立ちすぎる昨今の様な気がする。午後、皇居三の丸尚蔵館で―百花ひらく―花々をめぐる美―を鑑賞した。
写真は、記念館前。海舟夫妻の墓所。
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(2025/03/27)
高橋正樹氏叙勲祝賀会
星流れ 海に入りしや 蛍烏賊 山下徳樹
滑川のほたるいかミュ-ジアムでは3月20日からほたるいかの発光のショ-が始まるなど、ホタルイカ漁も最盛期に入ってきました。
そんな中、3月23日{日}前・高岡市長・高橋正樹氏の旭日中綬章受賞記念祝賀会が、高岡商工ビル2階「大ホール」で200人余の多数のご参加を得て、盛大に開催されました。会場では高橋氏の幼少時代から今日までの活躍がビデオで紹介されていました。
まず最初に発起人を代表して塩谷雄一高岡商工会議所会頭が挨拶。新田八朗知事、橘慶一郎内閣官房副長官・衆院議員.。堂故茂参議院文教科学委員長。角田悠紀高岡市長がそれぞれの立場で地方自治一筋に歩んでこられた功績を称える祝辞を述べられました。
次に風邪で欠席した3人のお孫さんからの可愛いビデオメッセージ披露され、会場は和やかな雰囲気に包まれました。次いで多数の祝電の中から、時間の関係で前・富山県知事石井隆一氏の電文のみ披露され、来賓紹介に移りました。
次に元・市秘書課職員で高橋氏が初登庁した際に出迎えた女性と親戚の女性から花束の贈呈がありました。ここで本人の謝辞があり、今日までの関係各位のご支援、ご指導のお陰での受章であることを力説された謝辞でありました。
尚、乾杯に入る前に、本日のメニューの「前菜」について料理長より説明がありました。
それによると高橋氏は総務省時代、熊本、宮崎、新潟各県に出向されました。その土地の一品を今回の「前菜」に活用していることを説明されましたので、配布されたカラーの「前菜」のメニューはイラスト入りで、奥様の説明書きがありますので、それをご紹介します。
前菜 ―旅路を越えて ふるさと回帰―
「赴任した土地と高岡の思い出を、前菜一皿に盛り込みました。その土地の名産,郷土料理は地域に溶け込む重要アイテムです。転勤した先々で、地元の方に郷土料理を教えてもらうのはステキな楽しみでした。それらは今や我が家の定番料理。富山は海、山の食材の宝庫です。高岡でも魅力的な定番料理がたくさん増えました。ちょっと旅気分で味わってくださいませ。
高橋陽子
と奥様が記しておられました。
内容は
①―宮崎の味わい―伝統のぬた芋
・・・・和えるときには角がとれてとろみが増します 宮崎の里芋で作る郷土料理です
②―熊本の恵み―赤牛ローストビーフ
・・・阿蘇の大草原でおいしい野草をたくさん食べて育つブランドて牛さっぱりとヘルシー
③―越後の香り―サーモンコンフィ
・・・青海苔クリーム添え・新潟名物の鮭わっぱをイメージ、青のりはわっぱに付き物
④―加賀前田の逸品―どじょう蒲焼き
・・・加賀藩名物、富山、石川のスタミナ源
⑤―松楓特製、桜鱒と昆布の押し寿司、いくらの彩り
・・・寿司と言えば富山、やっぱり鱒寿司でしょう、昆布を挟んで鱒寿司の新境地に挑戦しました
⑥―富山の春の贈り物―ホタルイカと菜の花の酒粕和え
・・・きゅうりの粕和えは高岡の夏の定番です、菜の花で春を告げる逸品に
⑦―黒豚の旨味たっぷり
・・・高岡風コロッケ 豆やひじきを入れてパワーアップ松楓のオリジナル
この説明の後、かって高橋氏の後援会長であった川村人志同商議所前会頭の乾杯の発声で宴に入りました。私も、いろんな祝賀会に出席しましたが、奥様の心のこもったおもてなしは初めてで、ほのぼのとした夫婦関係を表しているようで、思わず手を付けずそのまま持ち帰りたくなるような前菜でした。
料理の事ばかり書きましたが、高橋御夫妻のような、和気あいあいと和やかな雰囲気の素敵な祝賀会でした。
高橋氏は高岡高校から,東大法学部卒業後自治省に入省。新潟県副知事など歴任後本省に戻り、平成20年7月総務省大臣官房審議官で退官。
平成21年7月ー令和3年7月まで3期12年高岡市長を務められました。
この様なエリートですが、私のような者にも何ら偉ぶることもなく、親しくお付き合いを頂いていることは本当に有難いことです。
写真は、挨拶すると高橋氏。高橋夫妻と石澤義文氏。心のこもった前菜のイラスト。奥様の文章。
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(2025/03/24)
滑川・富山北部両校薬業科特別講演
頑なに 富山売薬 春の風邪 片桐久恵
3月3日{月}午前9時50分ー10時40分滑川高校薬業科1年生34名、3月10日{月}午前10時50分ー11時40分富山北部高校薬業科・くすり・バイオ科2年生78名に対し「富山のくすり」について話しました。
これは、後継者育成事業の一環として、富山県の重要な産業である「富山のくすり」について理解を深め、認識を新たにしてもらう意味から製薬メーカーと配置側とが1年交代で行っているものです。
最初に、令和5年{1月ー12月}の医薬品国内生産金額は10兆332億円、この内、富山県内での生産額は約6221億1千万円で全国4位。
また配置用医薬品の総生産額は令和元年調査から集計方法が見直されたため実態の把握が困難になっているが、過去の実績からして、全国の配置薬の生産額の約50%が富山県で生産され、現在全国で約1万人の配置員がいること。
そして高校に薬業科があるのも富山県ぐらいである事を話し、だから、「富山」と言えば「くすり」、「くすり」と言えば「富山」と言われる所以を説明し、本題に入り、概ね次の点について話しました。
①富山売薬の歴史
富山売薬発祥の起源とされる元禄3年{1690}「2代富山藩主・前田正甫公と江戸城腹痛事件」。備前の医師・万代常閑と「反魂丹」。薬種商・松井屋源右衛門。諸国への行商を広めた八重埼屋源六。「先用後利」の商法と立山山岳信仰配札檀那廻り。
②他藩への入国が困難な江戸時代に富山売薬は何故受け入れられたか。
特に薩摩藩と昆布、北前船。
③幕末、日本三大寺小屋と言われた富山西3番町にあった寺小屋「小西塾」の教育内容。
④明治に入り
漢方薬排斥、洋薬礼讃、売薬取締規則や売薬印紙税の導入など苦難の時代。
⑤明治26年富山市の補助金を基に多くの売薬業者の寄付によって「共立富山薬学校」を設立。
明治30年富山市へ移管し「富山市立富山薬学校」となり、これが富山北部高校薬業科の前身であり、明治40年県立に移管され、薬剤師など製薬メーカーへの人の育成そして売薬行商人養成機関としての位置付けを確保していく。明治43年県立の専門学校として昇格。日本で初めての薬学専門学校となる。これが、昭和24年富山学薬学部となった。この間昭和10年滑川町立薬学校設立。
これが現在の滑川高校薬業科であり、それらの歴史。
⑥明治以降、薬業人が金融機関や電力会社などを設立し、富山県の近代化や産業の育成に大きな貢献をした事。
これらのことを説明し、この素地があるから今日の「富山のくすり」があることを話しました。
また、薬局やドラックストアが普及し、医療機関も整備されている今日でも何故「置き薬」が存在するのか。それは薬箱が家の中にあって24時間営業し、必要な時に何時でも使える便利さ。しかも使用しなければ代金の支払いは発生しない。使用した分のみの支払いで、いわゆる「先用後利」用を先に利を後にする売薬独特の商法と同時に、①顧客との信用・信頼 ②良い商品 ③市場調査 ④記帳と経理 {例えば掛場帳}の重要性を売薬さんたちは300年も前から身につけていたことです。
詳細は紙面の関係上割愛しますが、いづれにしても、真面目にやればこれほど良い仕事はない。数年前北部高校から、配置薬業に従事した先輩もいたし、在学中に登録販売者の資格も取得した人もいた。
特に、女性は人当たりがよく配置販売に向いており、最近増加していることも話し配置薬業のPRをしてきました。
ただ、残念なことは滑川高校薬業科34名に「売薬さん」「置きくすり」を知っているか。の私の質問に全員知らない。滑川在住者は4人でした。
また、北部高校78名の生徒に同じ質問をしたところ17-18名でした。せめて薬業科ですから授業の中で富山の売薬に関して、多少触れてほしいものです。また、県内でのPR不足を改めて感じました。
写真は講義中の風景。


(2025/03/11)
福寿大学市民教養講座
春は名のみの 風の寒さや
谷の鶯 歌は思えど・・・・早春賦より
3月7日は早春賦の歌を思い出すような肌寒い朝でしたが、我が家の小さな裏庭には「ふきのとう」が芽吹き「三寒四温」確実に春の足音が聞こえてくる季節の中、7日午後1時30分より3時まで滑川市民交流プラザで「絶望から生まれた希望」と題し、講演会が滑川市中央公民館主催で開催されました。今回の講師は遠方広島市よりお迎えした加藤りつこさんです。
平成7年{1995}1月17日 午前5時46分 M7,6 震度7の大地震が発生しました。
ご存知、阪神淡路大震災です。この震災で6434名の多数の犠牲者が出ました。その中に、神戸大学在学中の39人の学生も尊い命を落としました。その39名の追悼特集を2月1日付け読売新聞全国版で「地震につぶされた夢」と題し、顔写真と共に関係者のコメントを添え報道した。
卒業間近の4年生の中で、銀行員や新聞社にすでに就職が内定していた人もいれば、祖国を担う留学生もいた。そして、今回の講師である加藤さんの一人息子の貴光君もいた。読売新聞の貴光君に関する記事は次の通りである。
「法学部2年加藤貴光さん{21}{広島市} は西宮市のマンションで圧死した。同居していた単身赴任の父宗良さんはたまたま実家に帰っていて無事だった。国連職員か国際ボランティアになるのが夢だった。丑年生まれで愛称は「ウシ」。
荷物を持ったおばあさんを見つけると「飛んでいって手伝うようなやさしい子でした」と母律子さん。大学に入る時、神戸まで送った母親のコートのポケットに、息子は手紙を忍ばせたという。母はそれをいつも免許証入れにはさんでいた。遺体安置所で、その手紙を読み返した母は、涙を抑えることができなかった。」とある。
先般、滑川高校の卒業生192名に手紙の全文を生徒に聞かせ、それをブログで発信しその中に手紙の全文を掲載しましたが、あえてもう1度記します。
「親愛なる母上様」
あなたが私に生命を与えてくださってから、早いものでもう20年になります。
これまでに、ほんのひとときとして、あなたの優しく温かく、大きく、そして強い愛を感じなかったことはありませんでした。私はあなたから多くの羽根をいただいてきました。人を愛すること、自分を戒めること、人に愛されること・・・。
この20年で、私の翼には立派な羽根がそろってゆきました。
そして今、私は、この翼で大空へ翔び立とうとしています。誰よりも高く、強く、自在に飛べるこの翼で。
これからの私は、行き先も明確でなく、とても苦しい「旅」をすることになるでしょう。疲れてやすむこともあり、間違った方向へ行くことも多々あることと思います。
しかし、私は精一杯やってみるつもりです。あなたの、そしてみんなの希望と期待を無にしないためにも、力の限り翔び続けます。
こんな私ですが、これからもしっかり見守っていてください。住む所は遠く離れていても、心は互いのもとにあるのです。
決してあなたはひとりではないですから・・・・。
それでは、くれぐれもおからだに気をつけて、また逢える日を心待ちにしております。
最後にあなたを母にしてくださった神様に感謝の意をこめて。
翼のはえた「うし」より
これが貴光君の手紙の全文である。
私はこの文を読んだ時、思わず胸の熱くなる思いを感じ、すぐこの記事をコピーした。私が19歳の時、果たしてこの様な心境になっていただろうか。「人を愛すること、自分を戒めること、人に愛されること、肉親や他人への感謝の気持ち、将来への確固たる志」など正直言って恥ずかしながら無かったと思う。
しかし、この時を機会に、このことの大切さを改めて知らされた思いでした。同時にこの様な素直で立派な青年に育てられた両親の育て方にも関心を持ったものです。その後、私が公職に身を置く立場になった平成14年から8年間、成人式で貴光君の手紙を女性の司会者に朗読して頂き、成人者と同年代の貴光君の思いと、前述した私の19歳の時の思いとを比較しながら、20歳の成人者にこの手紙から、「何かを学んでほしい」と話しました。
会場の女性からすすり泣きが聞こえたのを、今でも憶えています。その後、1月17日が来ると、ふと貴光君を思い出しますが、「去る者、日々に疎し」徐々に記憶の枠外に行きつつあった令和5年{2023}1月21日午前4時前たまたまトイレに起きた時、何気なくNHKラジオ深夜放送にスイッチを入れ4時から5分間のニュースのあと、何と貴光君の母りつこさんが、我が子を亡くし、未来への道を見失った時から、希望を再び取り戻すまでを50分余りにわたりインタビューされた放送を聞いたのです。
お会いしたことも、話をしたこともない加藤さんが私の眼前に現れたのです。その番組を制作したのはNHK神戸放送局とのことでしたから、朝8時30分NTT104番号案内で聞き、早速神戸放送局へ電話をして加藤さんの住所等聞きましたが個人情報保護の立場から教えてもらえませんでした。当然です。
そこで私の意を加藤さんに伝えてもらうことで了としました。その後、加藤さんからお電話があり、私が始めて手紙を読んでからお会いしたことも、話したこともない私の点と加藤さんという点が28年の歳月を得て、線となって結ばれた瞬間でした。
その線上で「著者・加藤りつこ」の「希望ふたたび」{ 阪神淡路大震災で逝った息子のただ1通の手紙から}を頂きました。その中に貴光君の誕生から幼児期。小学校から中学校。高校から大学。慟哭の始まり・・・阪神淡路大震災。絶望から希望へ。など多岐にわたる内容の中に、貴光君の誕生から大学まで、年代別の育児方針、子育ての環境整備、成長していく過程に於ける、親子の間の取り方等詳細に綴られており、お会いしたことはありませんでしたが好青年として成長された訳が解るような気がしました。
そんなことで、水野滑川市長や上田教育長に話をしたところ、震災から30年の節目の今回の講演会になりました。
点と点が28年の歳月を得て線になり、その線が2年延長され、今回80名ほどの参加者の面となったと思います。そんなことから開演前に私から一言その経緯について話しました。1時間余りの講演でしたが、会場では目頭を抑える人や、終了後何人もの人から主催者の方に「良かった」と声を掛けられたと聞き、中に入った私も安堵するやら、色々教えられる講演でした。
それにしても、もしあの時トイレに立たなかったら、ラジオのスイッチを入れなかったら、と思うと縁の不思議さを感じます。
写真は、①平成7年2月1日の読売新聞 ②当日のパンプレット ③水野市長を市長室へ表敬訪問、上田教育長同席 ④加藤りつこ著・希望ふたたび ⑤講演の加藤さん。





(2025/03/08)
第77回滑川高校卒業式
網しぼり きらめきつくす 蛍烏賊 高島学人
2月には2度の寒波に見舞われた県内も、3月1日は県内各地で3月下旬から4月中旬並みの暖かさとなり、日中の最高気温は富山で15,4度となった。
まさに陽光燦燦として大地を覆い、青空広がる中、残雪輝く立山連峰を眺めると、やっぱり富山はいいなー、改めてそう思う。
そして3月1日は待ちに待った富山湾に春を告げるホタルイカ漁解禁日である。昨年の初日は106㎏で豊漁の年であったが、今年の水揚げ量18㎏と少なかった。しかし、海水温が上昇すれば漁獲は増える見込みで、今後に期待したい。
さて、その3月1日滑川高校 {校長・金田幸徳}第77回卒業式が多数の保護者出席のもと、前日の同窓会入会式に次いで挙行された。
式は有賀副校長の開式の辞で始まり、全員で国歌「君が代」斉唱、次いで金田校長より、普通科77名、薬業科38名、商業科40名、海洋科37名、計192名に卒業証書が授与された。
引き続き校長は式辞の中で{要旨}次の3点が述べられました。
①進んで学ぶ姿勢。
今後は教えてもらうには限界がある。自ら目標を設定し学ぶことの重要性。
②しなやかな感性。
不安、困難、挑戦、失敗、挫折はつきもの。
そこから立ち直る。感謝、共感心、拍手、讃える心を持つ。
③人を支える存在。
人生の主人公は一人一人。自分を大きくする節目節目の選択を任せてはいけない。
一人一人に良さがある。自分の可能性を信じ、他人に愛情を注ぐ大切さ
を話されました。
最後に、スティーブ・ジョブズの言葉を引用し「未来を見て 点を結ぶことは 出来ない 過去を振り返って点を結ぶだけだ だからいつか どうにかして 点が結ばれると信じなければならない」
やはり、教育者としてのお祝いと激励の良い式辞だったと思います。
祝電披露のあと「蛍の光」がテープで流れる中、在校生代表が進みて送辞「1年生に入学したときは先輩の姿は眩しく映った。その後、部活、作品展、生徒会活動、地域との交流イベントなど、多くの指導に対し感謝の言葉や、先輩が築いた良き伝統を更に発展させる決意を述べた」
これに対し、「仰げば尊し」がテープで流れる中、答辞として卒業生代表がステージ上の校長に向かって、かけがえのない3年間を振り返りった。
遠足、体育大会、様々な活動を通じ他の人とかかわることに慣れてきた。2年生の時、2泊3日の研修旅行の思い出や重要な部活動などは、中心的な役割を先輩から引き継ぎ、期待と不安で一杯であったが、多くの学校行事を終え、その達成感に浸った時、やはり、適切なご指導をいただいた先生への感謝の言葉であった。
校歌斉唱のあと、卒業生は昨年同様「RADWIMPS」の「正解」のメロディーと大きな拍手に送られて退場し、厳粛な中滞りなく終了した。
それにしても、「RADWIMPS」も「正解」の曲も私は知りません。また、卒業生の女子90名の内名前に「子」が付いている人は2名でした。私の年齢と時の流れを感じざるを得ません。
又、昨年も申し上げましたが、国歌「君が代」や「校歌」はピアノ伴奏で全員が斉唱しますが、「蛍の光」や「仰げば尊し」はテープで流すから、ほとんどの生徒は歌わない。しかし今年は僅かではあったが口ずさむ生徒がいた。昨年よりは前進である。
私は、2曲ともピアノ伴奏で、「蛍の光」は在校生が「仰げば尊し」は卒業生が全員で斉唱すべきと思う。両曲の歌詞が素晴らしい。「蛍の光 窓の雪」古代中国の「晋」の学者「車胤」が 貧しくて灯油が買えないため蛍を集めてその光で書を読んだ という故事からきている。
正に校歌2題目の歌詞「思え車胤を 青春の」である。
また、「仰げば尊し わが師の恩」は卒業生代表の答辞の中での師への感謝の言葉と一致する。これを全員が斉唱することで一人一人の胸に刻み込まれるのではないだろうか。
もう一つ、昨年も書いたが昨年の調査では、県内の県立高校39校、私立高校10校がある。この中で「蛍の光」を歌っているのは、本校含め僅か6校である。「仰げば尊し」は県立では本校だけで、私立では1校である。以前歌っていた学校もコロナ禍で歌えなくなり、そのまま今日に至っているという。
このままでは、この2曲は消えゆくのではなかろうか。高校は、教え育てる教育の場である。自らの意志で学び習うのが学習の場である。「伝承なきところ モラルなし」という言葉がある。一度途絶えたら中々元には戻らないことを思うと、滑川高校の良き伝統としてこの2曲は歌い続けて欲しいものである。
また、卒業証書授与の時、担任の先生が生徒一人一人の名前を読み上げるが、全員座ったまま聞いているだけである。証書を代表して貰う方のみ返事をするのである。私は、返事をして起立をし、直ちに座る。それ位あっても良いと思う。
これらのことは、私個人の意見として、学校側には、伝えました。
いづれにしても、過ぎし日の学生時代を懐かしみ、卒業生に幸多きことを念じ校舎を後にしました。
写真は、式辞と卒業証書授与する金田校長。




(2025/03/01)
令和6年度同窓会入会式
2月28日 {金}県立滑川高校同窓会入会式が行われた。本校の場合は、卒業と同時に入会になるので卒業式の前日に式が行われる。
今年は192名入会であったが、現在会員は3万7千を有する県下でも最大規模を誇り、各界各層に有為な人材を輩出し各分野において活躍されていることは嬉しい限りです。誰にでも生まれ育った「故郷」があるように、青春のひと時を過ごした「母校」がある。
中でも青春の中心舞台は多感な学生生活であり、それを回顧する時、追憶の中から懐かしい思い出が去来し哀歓彷彿として思い浮かぶ。固い友情に結ばれた出会いと別れという青春の讃歌が鮮やかに蘇る。しかし、学生諸君には学生時代の思い出は残っても、同窓会への意識は稀薄であろう。
しからば、同窓会とは何か。それは日頃同窓会に関心を示さない人でも、例えば村上英士郎君が昨年パリ五輪にウエイトリフティング選手として出場した時、多くの卒業生は素直にそれを喜び、友人、知人に誇らしげに話す。
それが同窓会であり、その時母校の存在を意識する。県外在住の県人が帰省し、青空の中に広がる立山連峰の雄姿を見た時、富山県人であることを再認識するという。
それが「故郷」の存在なんだろう。
このように「故郷」や「母校」の存在は人それぞれの心の拠り所として生き続けているものと思う。と話しました。
もう一点、今年は阪神淡路大震災から、30年の節目の年である。平成7年{1995}1月17日午前5時46分、M7,3、の巨大地震が発生し、死者6432名の大惨事となった。
この死者の中に神戸大学の学生39名がいた。その39名の顔写真とコメントをつけ追悼特集が2月1日付読売新聞全国版に掲載された。4年生で新聞社や銀行など既に就職が内定していた人、あるいは祖国の発展を願い留学生として来ていた人等の中に広島市出身で法学部2年生の加藤貴光君がいた。
新聞記事では「彼は西宮市のマンションで圧死、将来国連職員か国際ボランティアになるのが夢だった。丑年生まれで愛称は「ウシ」。荷物を持ったおばあさんを見つけると「飛んで行って手伝うような優しい子した」と母律子さん。大学に入る時、神戸まで送った母親のコートのポケットに、息子は手紙を忍ばせたという。{中略}。その全文を生徒に聞かせてあげました。
全文をここに記します。
親愛なる母上様
あなたが私に生命を与えてくださってから、早いものでもう20年になります。
これまでに、ほんのひとときとして、あなたの優しく、温かく、大きく、そして強い愛を感じなかったことはありませんでした。
私はあなたから多くの羽根をいただいてきました。人を愛すること、自分を戒めること、人に愛されること・・・。
この20年で、私の翼には立派な羽根がそろってゆきました。そして今、私は、この翼で大空へ翔び立とうとしています。誰よりも高く、強く、自在に飛べるこの翼で。
これからの私は、行き先も明確でなく、とても苦しい旅をすることになるでしょう。疲れて休むこともあり、、間違った方向へ行くことも多々あることと思います。
しかし、私は精一杯やってみるつもりです。あなたの、そしてみんなの希望と期待を無にしないためにも、力の続く限り翔び続けます。こんな私ですが、これからもしっかり見守っていてください。
住む所は遠く離れていても、心は互いのもとにあるのです。決してあなたは、ひとりではないのですから・・・・。
それでは、くれぐれもおからだに気をつけて、また逢える日を心待ちにしております。
最後にあなたを母にしてくださった神様に感謝の意をこめて。
翼のはえた「うし」より
この全文を生徒に聞かせて「生徒諸君と同年代の19歳の青年が将来に大きな夢を持ちながら、20歳の短い人生を終えた。私自身19歳の時、人を愛すること、自分戒めること、人に愛されることや、親への感謝や他人へのいたわりの心を持っただろうか。恥ずかしながら無かったと思う。この手紙を読んだ時、改めて命の尊さ、親や他者への感謝、そして人を愛することや人生とは?を考えるきっかけを与えてくれた」
と192名の生徒諸君に話し、加藤貴光君の手紙から何かを学んでほしいと話しました。
最後に生涯学ぶことの大切さを訴え、幕末の儒学者佐藤一斎の言葉で激励と入会歓迎の挨拶としました。
「少にして学べば壮にして為す 壮にして学べば老にして衰えず 老にして学べば死して朽ちず」
写真は、挨拶と代表者に記念品贈呈。


(2025/02/28)
乃木希典旧邸宅と乃木神社
2月19日午前中時間があったので、地下鉄千代田線乃木坂駅横の乃木旧邸宅と乃木神社を参拝しました。
旧乃木邸は、フランス軍隊の建物を模して自ら設計したものと言われ、明治35{1902}年に新築されたものです。乃木夫妻が大正元年{1912}9月13日、明治天皇御大葬の日、明治天皇に従って、日本人最後と言われる殉死するまでここに住んでいた。
邸宅は、軍人の家らしく、飾り気がなく簡素で合理的に作られているという。
旧邸宅と馬小屋は、乃木夫妻殉死後、遺言で東京市に寄付され、現在港区が管理している。尚、馬小屋は旅順陥落後、敵将ステッセル将軍から贈られた名馬壽号の厩舎であったという。また、邸宅前には、水師営にあったナツメの木の孫が植樹されていた。
乃木神社はその名の通り、乃木将軍と静子夫人を祭神として祀っている。また入場無料の小さな資料館があり、しばし見学した。昨年9月下関の乃木神社や資料館, 夫妻や名馬壽号の銅像、ナツメの木などは9月のブログで書いたが、それを思い出し、日露戦争と太平洋戦争とを比較しながら戦争の引き際、日露戦争で得た教訓と財産。それを太平洋戦争ですべて失った。
時あたかも今年は日露戦争から120年、昭和になって100年、戦後80年の節目の年である。ロシアとウクライナ、イスラエルとハマスの戦闘を見ても、戦争は権力者によって始められ、その被害は子供や何の罪もない庶民である。やっぱり戦争はやるべきでない。万物の霊長たる人類の最も愚かな行為が戦争である。そう思い乃木神社を後にした。
午後、全弓連理事会に出席し、19時過ぎ無事帰宅した。18日は1万8千歩余り、19日1万2千歩余り、我ながら良く歩いたと思う。
写真は、旧乃木邸と左手ナツメの木。乃木神社。
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(2025/02/20)
経済産業省・総務省・文科省友人
官邸の後、経産省に藤木俊光経済産業政策局長、そのあと総務省に新田一郎審議官を訪ねた。藤木氏は富山県商工労働部長、新田氏は富山県経営管理部長などを務められた方で、その時からの知人です。お二人共、橘・佐藤氏同様国会開会中にもかかわらず時間を割いて頂き感謝です。
それにしても、局長や審議官ともなると個室が与えられ、10人程の会議ができるテーブルが配置してあり、応接セットがあり、専属の秘書がいるなど課長とは雲泥の差です。しかも感心したのは、約束した時間の2時間程前に秘書の方から私のケータイに会議が10分ずれたため、そのようにお越しください。との電話があることです。
私の感覚でいえば10分程度なら、私が行った時その旨話されれば良いと思うのだが、さすがと感心しました。お二人とは与党過半数割れした国会運営などの話しにも及びました。
写真は、官邸での反省から座って撮りました。藤木局長。新田審議官。
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文科省友人との懇談会
18日夕、文科省友人と懇談会を行いました。これは平成16年から滑川市が文科省の25歳前後の研修生を2週間から3週間ほど、昨年まで21年間受け入れていました。しかし、新型コロナで3年間、東日本大震災で1年派遣が中止になりましたが、今日まで引き継がれ計17名を受け入れました。
それが15年ほど前「文科省ナカヤ会」を作ったから私が上京の折、集まろうとなり、年に1-2回懇談会を開いています。
平成16年初めて受け入れた1期生は現在文科省より山梨県教育長に出向している人や、スポーツ庁の課長或は各都道府県の教育委員会の管理職として出向している人、パリへ赴任している人など多彩な顔ぶれの集まりです。
それ故、全員が揃うことはむずかしいですが、常時8人前後集まり当日は国会開会中で答弁書作成準備などで突然の欠席者が出ましたが、和気あいあいの集いでした。
しかし、この青年たちが明日の文部行政を背負っていくことを思うと、頼もしくもあり、心もとない様に感じたりもする。人生のささやかな先輩として「官僚としての矜持を忘るるなかれ」かって遣隋使や遣唐使は、命がけで荒海を渡り隋や唐の律令制度や仏教や新たな文化を吸収し、「国つくり」に務めた彼等の「志」に思いを馳、公務員になった時の初心を忘れてはならない。と激励しました。
各人の近況を語り合いながら話しに花を咲かせました。また、各省庁にもこのような制度があるが、この様に一堂に会する機会があるのは多分この会だけだろう。とのことでした。名残を惜しみつつ再会を約し散会しました。
写真は、メンバーとの懇談会
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(2025/02/19)
総理官邸
皇居三の丸尚蔵館鑑賞の後、総理官邸に内閣官房副長官・衆議院議員橘慶一郎氏と同じく佐藤文俊氏をそれぞれの部屋へ訪ねました。副長官は衆参両院から各1名、事務方から1名計3名です。佐藤氏は、昭和50年代中沖知事当時に自治省から富山県財政課長に出向されて、最後は総務省事務次官を務められた方で、私とは総務省時代からの付き合いです。
3人の副長官のうち2名が富山県関係者と聞いただけで、なんとなく心強く、嬉しく感じます。昨年の石破政権誕生と共に就任されたのですが、橘氏は、就任後、石破首相の南米ペルー、最近の訪米でのトランプ大統領との会談に同行されるなど多忙を極めておられます。しかも国会開会中です。そんな中、面会の時間を割いて頂いたのにはただただ恐縮、感謝しかありません。
以前官房副長官は、安倍政権の野上浩太郎氏、小泉政権の長勢甚遠氏と事務方で大門出身の二橋正弘氏の時も訪問しましたが、与党過半数割れの政権運営ですから苦労もひとしをのものがあろうと思います。
しかし、日本国の政治の中枢にいることを実感し、政治家冥利に尽きると思うし、必ず重責を全うされることと思います。
それにしても、官邸のセキュリティーは日本一厳しいと改めて感じました。議員会館入館時には、金属探知機が反応しなかったネクタイピンが、官邸の探知機では反応するのである。さすがです。最後に国会で新年度の政府予算案が通過すれば、ゆっくり話の機会を持とうと別れました。
又、橘、佐藤両氏の背の高いのには驚きました。帰宅後写真を見て大人と子供の様な姿には啞然としました.両氏共180㎝以上はあると思います。
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(2025/02/19)
「瑞祥のかたち」
降りつもる 深雪に耐えて色あせぬ
松ぞ雄々しき 人もかくあれ (昭和天皇・昭和21年歌会始め)
2月18日、今冬2度目の寒波襲来の天気予報が出ている朝、一面銀世界の滑川を後にし、全弓連理事会出席のため上京した。さすが日本は狭いといっても広い。東京は快晴である。
さて、今回も皇居三の丸尚蔵館の企画展「吉祥のかたち」を鑑賞した。
尚蔵館には約2万点の作品が収蔵されており、その殆どが名品ばかりで、年数回企画展として公開されている。今回は1月4日―3月2日まで表題の企画展で、「新しい年の到来を喜び、人生の節目に幸福を願う気持ちは、古くからさまざまな造形に残されてきました。
中でも古代中国において不老不死の仙人が住むと考えられた蓬莱山は日本でも吉祥図として描かれ、長寿を象徴する鶴と亀が添えられた縁起物としても表されました。
やがて理想郷としての蓬莱山への憧れは、霊峰富士の姿に重ねられました。又、鳳凰は、優れた天子が世に現れる兆しとして古代中国で尊ばれた伝説の鳥です。
古くより鳳凰は高貴さの象徴として絵画や工芸に取り込まれ、皇室ゆかりの品々には数多く登場します。{瑞祥のかたち・図録より抜粋}
今回46点展示してありましたが、3点ご紹介します。
①日出処・日本 {234,3×448、6} 横山大観 {1868–1958}作
昭和15年に開催された「紀元二千六百年奉祝芸術展覧会」の出品作品です。
初代神武天皇の即位から2600年を記念する一大事業として企画された同展に出品するため、渾身の力をこめて製作したものです。生涯に二千点近い富士山の絵を描いたとされる大観ですが、その中でも最大級の作品で、出品後,大観本人の希望により昭和天皇へ献上されたものです。
本作は朝陽輝く霊峰の堂々たる姿を描いたものです。大観には富士山を描く際のこだわりがあり、江戸時代の大噴火でできた宝永山は決して描きませんでした。大観にとって日本の国土を象徴する富士山は、最も理想化された姿・形でこそ描かれる必要があったからです。
②国宝・動植綵絵・老松白鳳図 {141,8×79,7} 若冲{1716–1800}
松にとまった一羽の真っ白な鳳凰を描き、片足をあげて翼を広げたポーズで、うねるように流動する飾り羽などが、画面にダイナミックな動きを与え、細かく重ねられた羽毛の白い線が、神々しさを加えています。明治22年相国寺から献上。
③宝船「長崎丸」高さ・90・幅・100 奥行・59 台・木・蒔絵一点 江崎栄造 {1878ー-1965}
大正5年11月に大正天皇が福岡県下を行幸の折、長崎県から献上された鼈甲細工の宝船「長崎丸」。日輪に鶴が描かれた帆に風をはらみ、大海原を進むこの宝船には、農産物や水産加工物など、長崎県の重要な物産27種が積載されています。
作者の江崎栄造{1887–1965}は宝永6年から続いた鼈甲細工の製造販売業の老舗の6代目で皇室への献上品も複数手がけました。
①②③の解説はいづれも図録より抜粋
いづれにしても、二万点にも及ぶ名品が東京大空襲の難からも逃れ、今日まで保管されて来たことに驚きます。



(2025/02/18)
抱山社富山支部新年のつどい
1月13日午後12時より、魚津市ホテル・グランミラージュで標記のつどいが開催されました。
昨年は能登半島地震で、それ以前はコロナのため実に5年ぶりの開催となりました。
開会に先立ちて、能登半島地震と9月の豪雨災害からの復旧復興を願い「愛、希望, 絆、祈りを込めて」―学びの森から音楽をお届け―と題し、ピアノ・柏原友美さん、トロンボーン・新山久志さんによる
①早春賦
②G線上のマリア
③川の流れのように
の3曲をトロンボーンの柔らかい音色に乗せて演奏されると会場から大きな拍手とともに、アンコールの声がかかり、希望を持って前に進むことを願い、「上を向いて歩こう」を演奏されました。従来の新年のつどいにはなかった企画であり、新鮮さを感じました。
その後、経沢菁汀さんの司会で会が始まり、阿波加蒼岳支部長は、来賓の出席者に謝意を表したあと年頭の挨拶があり、今年は抱山社展は60回を迎えるが、新年のつどいはそれより前から行われており、歴史ある「つどい」である事を述べられる中、抱山社会長の大平匡昭さんがやむを得ぬ事情により欠席され、皆様によろしくとの伝言を伝えられました。
また、毎年8月県民会館で行われていた毎日書道展は諸般の事情で昨年が最後の34回となった事。しかし、情報等は、今まで通り北日本新聞には掲載されることなどが話されました。そして、創玄展「60年の歩み」の記念誌から「創玄書道会のすがた」を引用して、「書は芸術であるからには高度の技法が要求されるのは当然であるが、まずその書の品格が高尚でなければならない。
品格とは一人間全体としての価値の高さを言うのです。人間としての深さ、高さ、大きさを希っているのです。」と述べ、抱山社会員も、もっともっと研鑽し、創玄書道会の姿に近づくよう努力しょうと呼びかけられました。
来賓挨拶は、水野滑川市長、上田滑川市教育長がそれぞれの立場で、乾杯は岩田新川文化ホール館長が行い、和やかな雰囲気で懇親会に入りました。
尚、魚津市長は体調不調のため欠席でした。また、懇親会の中で昨年一年間の各書展での入賞者の紹介とそれぞれひと言コメントがありました。
私は、幼稚園時代、小学生時代数年間本会の創始者である大平山濤先生に書を教えて頂いたご縁で、そんな器でもありませんが抱山社富山支部の顧問を努めています。
また、阿波加支部長は、滑川市書道連盟や県書道連盟の支部長も務められ、富山県美術連盟前会長でもありました。滑川高校同窓生である関係から、一昨年滑川高校創立110周年記念誌の題字も揮毫して貰いました。
写真は、柏原さんのピアノと新山さんのトロンボーン演奏。阿波加支部長挨拶。


(2025/01/13)
水橋薬業会講演
1月8日午後2時より、富山市水橋会館で水橋薬業会{会長・菊地徳男}と富山市北商工会薬業部会{会長・森田清秋}の合同役員会が開催された。そして、3時から私に講演依頼があり出席した。
2時開会。最初に出席者全員が会場に設営された祭壇の前に整列し、祭壇に掲げられた神農像の掛け軸に向かって、2礼2拍手1礼で商売繫盛を祈願しました。
次いで、全員の記念写真を撮影したあと、菊池会長が神農像の掛け軸の由来や水橋の先人が樺太売薬を開拓した事などを含め挨拶。
次いで、来賓の押田富山市議が挨拶に立ち、父が売薬をしていた当時の思い出話や、現在自宅には常備薬を含め薬がないことの不便さから、置き薬の必要性を話されました。
また、この機会を通し市政報告会を行い、水橋出身の唯一の議員として薬業はもとより水橋発展の為尽力する旨を話し、今年4月の市議選への支援をお願いされました。これを受け,菊地会長からも出席者に対し支援の要請がありました。
次いで、私にも指名がありましたが、後程講演があるので、簡単にしましたが、押田市議には滑川高校同窓会副会長を努めて頂いていることから私からも支援をお願いしました。
その後、菊地会長から業界の現状などと合わせ、当日の議事が2時間50分終了し、3時から私の話しに入りました。
実は、講演依頼を受けた時、テーマと講演時間をお聞きしましたが、何んでもいい。これ程やりずらいことはない。そこで、当日講演内容を、「政治」「薬業」「雑感」の3っと時間を40分、50分、60分の3通りのくじを代表に引いてもらい、その結果、「雑感アラカルト」と50分となりました。
雑感ですから、最初に地震の歴史や異常気象、高齢社会。衆議院選挙後の政治状況。これに薬業界の諸問題等を話しました。
特に力説したのが、富士フイルムホールディングスkkについてです。実はこの会社の代表取締役社長CEOは富山市出身で1959年生まれの後藤禎一氏です。2021年から現職です。富士フイルムは2000年以降、カメラのデジタル化に伴い、本業だった写真フイルム事業は急速に縮小したが培ってきた技術を発展させ、事業構造の転換に成功。
現在は「ヘルスケア」「エレクトロニクス」「ビジネスイノベーション」「イメージング」の四っの事業領域でグローバル展開し、世界272社、従業員7万2千を擁している。2008年この傘下に入ったのが富山化学である。
このヘルスケア領域の中核企業となり、新薬メーカーとして長年感染症治療薬の研究と取り組んできたその知見と品質管理のノウハウを生かし、力を注いでいるのが、バイオ医薬品開発・製造受託事業だ。現在、富山第二工場では、600億円をかけ拠点整備事業を進めている。国内での大規模製造拠点は初めてである。後藤社長は「プロジェクトを成功させねばならない。パンデミック時には、ワクチン製造を優先的に行う施設となる。
日本を含むアジアの人々の健康に貢献していきたい」と語っておられる。この方が富山市出身である。社会の変化を敏感に捉え、先を見据え対応する。本業のフイルム事業からフイルムで培ってきた技術を発展させ構造転換に成功した好例であり、これと対照的なのはコダック社である。私はこの様な話をして、配置業界も300年の歴史と伝統、先用後利の精神だけではこの先発展を続けることは困難でなかろうか。
薬業界も一度後藤社長を招き、講演会を開催してはどうか。学ぶべき点が数多くあると思うが・・・・こんな話をしました。話し終えて感じたことは、やはり1時間程度であったらテーマを一つに絞って話したほうが良かったと思う。
1時間程度の中で、あれもこれもと欲張って話すと、どれも中途半端になるように思った。これが反省点であり、多少迷惑をお掛けしたような気がした。
それにしても、神農祭や歳旦祭も地域によってお供え物も違うことも分かった。
かって売薬さんの家では、1月8日には床の間に神農像の掛け軸を掲げ、その下に懸場帳を置き、お鏡を添え商売繫盛を祈願したものです。我が家ではまだ続いていますが、そんな風景も消えつつあることは淋しい限りです。
写真は、会場に設けられた祭壇。記念写真.講演風景。



(2025/01/09)
令和7年薬神神社新年歳旦祭
頑なに 富山売薬 春の風邪 片桐久恵
1月8日午前9時、新年恒例の薬神神社歳旦祭{主催.薬神神社奉賛会・会長石倉雅俊}がみぞれ混じりの肌寒い中,旦尾宮司のもと厳粛な中、滞りなく執り行われました。当日は昨年同様荒天の為、社務所の中から神社を遥拝する形で行われました。
旦尾宮司の祝詞奏上のあと顧問の私の玉串奉奠に続いて、薬業関係者、来賓の市長代理・黒川市産業民生部長、竹原市議会議長、大門県議会議員、杉田商工会議所専務理事、加積雪島神社総代など約30名が順次行い1年間の商売繫盛を祈願しました。
冒頭、本来なら石倉会長が挨拶すべきでところ、昨日石倉会長より電話があり、体調不調で出席できず顧問の私に代わって挨拶をお願いされた旨を話、挨拶をしました。
まず、昨年の元旦に起きた能登半島地震、9月には追い打ちをかけるような豪雨災害から異常気象。円安による輸出産業の好調さが賃上げに繋がったものの、その恩恵は一部の上場企業に限られた反面、円安は輸入に頼るガソリン代、ガス代、電気料金などのエネルギー料金が軒並み値上がりし、加えて日常生活商品も連日値上げされるなど、物価高に苦しんだ1年だった。
これらのことに具体的な対策を打ち出せなかった事や、政治とカネの問題で衆議院選挙で連立政権が過半数を割り、石破政権は綱渡りの政権運営を余儀なくされている中、薬業界の一年を振り返る話をしました。
我が業界も残念ながら明るい話題が少ない年でしたが、今年の干支「乙巳」{きのとみ}の「乙」は陰陽五行説では、木の影のエネルギーを表し、植物が成長し広がっていくような意味合いがあり、「巳」は蛇を表し、古来より豊穣や金運を司る神様として祀られることもあり、右往左往しながら脱皮し、成長してゆく。蛇の夢を見ると吉兆とされたり、脱皮した抜け殻を財布に入れておくと金運が上がり、成長と結実の時期と言われる。
当たるも八卦当たらぬも八卦であるが、座っていては運は来ない。やはり努力することである。そのためにも「一年の計は元旦にあり」目標を持つことの重要性を話し激励しました。
来賓の、黒川部長、竹原市議会議長、大門県議からもそれぞれの立場でお祝いと、業界を支援する言葉がありました。
社務所からの遥拝は天気の悪いのを嘆くより、これによって神社と横にある禅宗の独勝寺を同時に遥拝出来、これが本当の神仏のご加護である。こう考えるのが前向きな考えである。と終了後、皆さんに話したところ大笑いになった。
写真は、当日の薬神神社.玉串奉奠と挨拶をする私。



(2025/01/08)
弓道稽古始め
梓弓 春{張る}立つ今朝の心もて
年のひととせ 過ぐしてしかる 加茂すえたか
1月5日恒例の弓道 剣道 柔道 空手の四武道新春稽古始めが、市総合体育館剣道場で合同開会式が行われました。水野市長を含め3人の来賓挨拶のあと、今年の演武は空手連盟が担当し、形 組み手 板割り、などが披露されました。
その後、各団体はそれぞれの会場に分かれて行われました。私が所属する弓道会{会長・山岸光隆6段教士}は、体育館内にある弓道場「澄心館」で、高校・一般50名ほどの多数の参加を得て盛会裏に開催されました。
この弓道場は、昭和60年7月26日総合体育館完成と共に竣工しました。道場名は当時の滑川市長宮崎進策氏が命名され、揮毫された看板は道場内に掲げてあります。まず、最初に山岸会長が年頭の挨拶。
次いで、私からは「一年の計は元旦にあり」目標を持つことは大事であるが、最近大谷翔平選手や将棋の藤井聡太さんを持ち出し夢を持つ事の重要性を論じる人が多いですが、私は、まず「志」を持たねばならない。夢は「志」の先にあるものです。
広辞苑で「夢」を紐解くと、「睡眠中に持つ幻覚。ふつう目覚めた後に意識される」とある。これに対し「志」とは「心がその方向に向かう」「成し遂げようとする目標を心に決める」とある。明治の初期札幌農学校の先生だったクラーク博士は米国に帰る時「ボーイズビ・アンビシャス」、「少年よ大志を抱け」と有名な言葉を残した。
「夢を持て」とは言わなかったのを見ても分かるように、志のない人が夢だけを見ると幻覚に終わる。
このようなことを話し挨拶としました。
その後、山岸会長の一手{2本}の矢渡しが行われ、緊張の張り詰めた射場に弦音が響き渡りました。そして、参加者全員が一手を引き、新年を祝い心を新たにしました。
次いで、白扇落とし、射割り、風船割りなど、正月でなければ経験出来ない楽しい企画もありました。
尚、白扇や射割りの板には前会長の高橋芳邦さんが丹精を込めて弓道に関する言葉を揮毫して、的中者にはその意味を解説して贈呈された。
私も若かりし頃の金的や射割りの板を今でも持っていますが、今回の的中者も良き思い出になったと思う。
山岸会長は閉会の挨拶の中で、的までの距離28m、的の大きさ直経36㎝、半径18㎝、男性の矢尺の平均90㎝、これから判断して、矢が離れる寸前狙いが的の中心にあっても、離れる瞬間6㎜ずれただけで、的中心から18㎝ずれるという。
つまり28mの距離で30倍のずれが生じる。故に矢が離れる瞬間狙いが的の中心にあっても、6mm以上ずれると外れるということである。その為には、矢が離れた瞬間でも、左手{押手}の親指と右手{弓掛}の掛け口が的と一直線になった離れ方が的中率が上がり、そこに留意して練習するように説明されたのには、さすが教士6段の説得力のある話で、お正月相応しい稽古始めでした。
写真は、矢渡しの山岸会長。稽古始めに臨む会員。「澄心館」の看板。



(2025/01/05)
初 詣
新しき 年の始めの初春の
今日降る雪の いやしけ吉事 大伴家持
1月1日午前11時、大岩山日石寺{上市町大岩163}に初詣した。
日石寺では、元旦の午前1時、午前11時、午後2時の3回護摩祈禱が行われる。
我が家では、家から近距離でもあり、初詣は日石寺が恒例で今年は好天にも恵まれたこともあり11時に行ったところ、境内は結構な人出で賑わっていた。
日石寺は真言密教の大本山として知られ、神亀2年{725}行基菩薩が大岩川の岩に不動明王を刻んだことが起源と伝えられ、今年はそれから1300年の記念の年だそうです。
高さ3,46mの本尊不動明王像へは四体が凝固岩に手彫りで彫り出され、中部地方の最高傑作として、高い評価を受けており、国指定重要文化財となっている。
ただ、残念なことに、昭和42年7月23日風呂のボイラーの加熱で、入母屋作りの覆いなどが焼失したことです。当日、消防の放水によって磨崖仏に水がかかると、ひび割れを起こすことから、関係者が必死になって放水しないように身体を張って阻止した話はよく聞きました。
その後、信者の方々の支援によって立派に再建された。全国の摩崖仏は露天であるため風化が激しいが、日石寺の摩崖仏は室町時代以前から覆いで覆われていたため、不動明王像の勇姿が今日まで伝えられているのは、全国的に見て珍しいことであると言う。
また、境内には6本滝があり、1月20日の大寒の入りの滝に打たれる寒修行の風景はテレビで全国放送されている。三重塔もあるが、江戸時代に着工されたが、途中工事が中断される今日に至り、未完の塔と言われている。いつ頃まで工事が行われていたのか、前述した火災で資料が焼失した為不明という。家内安全、交通安全等を祈願したお札を購入して帰宅した。
参考まで。
摩崖仏とは、石仏の一種で、自然の岩壁や露岩、あるいは転石に造立された仏や明王像の総称。
不動明王とは、密教の信仰対象で、大日如来の化身とされる仏教の尊格。五大明王の一つで、仏法を守護し、人々の災いや迷いから救ってくれる仏。不動明王の姿は、煩悩にまみれた救いがたい者こそ救うため、また仏道の妨げになるよこしまな心を断つため、勇ましいいで立ちををしている。
写真は、日石寺本堂前。本堂内の護摩祈禱。寒修行の行われる6本滝。



(2025/01/03)
謹 賀 新 年
新年は まず我が身の意気を 新たにす 安岡正篤
令和6年は既に地平線下に沈み、ここに新しい年令和7年の幕が上がりました。
干支も「甲辰」から「乙巳」に引き継がれ、月日の流れは休むことなく、新しい時を刻み始めました。昨年のお正月三が日は、元旦、能登半島地震、2日羽田空港滑走路での航空機衝突炎上事故、3日北九州市小倉北地区での大規模火災事故。まさに記憶にも、記録にも残る出来事から始まり、パリ5輪・パラリンピックのメダルラッシュ、秋の衆議院議員選挙での自民、公明連立与党の過半数割れ、そして年末恒例の漢字一字は「金」でした。
理由はオリンピックでのメダル獲得の「光の金」と政治の裏金問題や金目当ての闇バイト強盗事件などの「影の金」そして「佐渡島の金山」の世界遺産登録などが理由に挙げられた。
それでは今年はどんな年になるだろうか。そこで「干支」について少し述べる。
「干支」とはご存知の通り「十干十二支」を略した呼び名で、「十干」と「十二支」を組み合わせて60通りの年号を作り出す古代中国で生まれた歴法です。それ故、同じ「干支」は60年に一度回ってくることから、還暦、本卦帰り、或は華甲とも言われる。
十干は「甲、乙 ,丙、丁、戊、己、庚, 辛, 壬、癸」の10種類、十二支は「子、丑、寅, 卯、辰、巳、午、未、申、酉、戊、亥、」の12種類があり、順番に組合せ令和7年は「乙巳」{きのとのみ}で上位60通りの42番目で、次の「乙巳」は60年後の2085年です。
「十干」は、古代中国殷の時代に10日を一旬として構成するそれぞれの日に名前を付けたことで始まったといわれ、その後、万物はすべて「陰」と「陽」の二つの要素に分けられる「陰陽説」と、すべての物事は「火」「水」「木」「金」「土」の5つの要素からとする「五行説」が結び付き、それぞれの意味を表すようになった。
「十干」は前述の通りの総称で、元は1から10までを数える為の言葉だった。
「十二支」には、よく動物の名が充てられるが、これは中国の王允{おういん}という人が、十二支を民衆に浸透させるために動物にして文献に書いたという。つまり動物の意味は後から付け足された。
例えば、子を鼠にしたのは繫殖力の高い子宝の象徴、子孫繫栄。丑を牛にしたのは、生活のパートナーであり、畑を耕したり, 重い荷物を運んだりする。寅を虎にしたのは、勇猛果敢な動物でありその勇ましさから虎が充てられたなどである。
日本には、6世紀半ば欽明天皇の頃伝わったと言われている。
幕末維新の戦いを「戊辰戦争」慶応4年{1868}と言う。つまり「戊」つちのえ「辰」の干支の年であり、甲子園球場の名前も「甲」きのえ「子」ね、の干支の年で大正13年{1924}完成したことによる。また、現在でも我々は契約書などに「甲は乙に対して」などの表現に、何の抵抗もなく使用しているし、12時を正午と言い、その前を午前、その後を午後というなど我々の生活の中に溶け込んでいる例はいくらでもある。
さて、今年の干支「乙巳」{きのとのみ}の「乙」は十干の2番目「軋{きしむ}]を意味します。陰陽五行説では木の影のエネルギーを表し、植物が成長し広がっていくような意味合いです。柔軟性や協調性を象徴し、周囲との調和を保ちながら自身の目標に向かって進んでいく力を表しているという。
「巳」は十二支の6番目で、蛇を表します。蛇には一般的にネガティブなイメージもありますが、古来より豊穣や金運を司る神様として祀られることもあり、神聖な生き物として認識されてきました。逞しい生命力があり、脱皮をするたびに表面の傷が治癒していくことから、医療、治療、再生のシンボルともされています。また、運気を上げる縁起物としては定番となっており、蛇の登場する夢を見ると吉兆とされていたり、蛇皮の財布や、蛇の抜け殻を財布に入れて持ち歩くと金運が上がるとも言われています。
巳年生まれの人は蛇のように辛抱強く、粘り強い性格を持つとされています。また、知恵や洞察力に優れているとも言われています。
また、この年は、多くの人にとって成長と結実の時期となる可能性が高いです。「乙」は未だ発展途上の状態を表し、「巳」は植物が最大限まで成長した状態を意味します。この組み合わせはこれまでの努力や準備が実を結び始める時期を示唆しています。
年内には、早い人では具体的な成果が現れ始め、中には大きな成果を手にする人もいるでしょう。しかし、すべての人が同じペースで結果を得られるわけではありません。成長の速度は人それぞれであり、中には時間がかかる人もいます。そのため、令和7年は辛抱強さが試される年にもなります。焦らず粘り強く取り組む姿勢が重要です。自分のペースを保ちながら着実に前進することで、最終的には望む結果に近づくことができる。
参考まで。
60年前、昭和40年{1965}は、前年に開催された東京オリンピックの余韻が残る中、経済発展が加速しました。
120年前、明治38年{1905}は、日本とロシアの間で日露戦争終結のポーツマス条約が結ばれ、日本の勝利が確定した。
1380年前、大化元年{645}は、乙巳の変 大化の改新。中大兄皇子、藤原鎌足が中心になって蘇我入鹿暗殺に始まる一連の政治改革。
さて、当たるも八卦、当たらぬも八卦である。しかし、干支や八卦を信じない人でも、年賀状は殆ど干支を使用するから不思議なことである。
願わくは、昨年より今年は、より良き年になりますように。
写真は、我が家の小さな門松。昨年末清水寺・森清範貫主から届いた干支「蛇珠」の色紙。我が家の正月の床の間、右寄り、薬神農、松鶴蝦齢、天神様。



(2025/01/01)
今年最後の上京
一年を 包む風呂敷 歳忘れ
12月18日{水}全弓連評議委員会出席のため、一週間前の理事会に次いで、今年最後の上京した。18日は11日同様家を出る時は、荒天だったが東京は快晴であった。いつもは、美術館や博物館に行くのだが、今回は快晴のお天気ゆえ初めてスカイツリーに行った。東京駅から地下鉄丸の内線で大手町駅で半蔵門線に乗り換え押上駅で下車。
さて、このタワーは2012年東京タワーに代わって、都内をはじめ、関東全域のテレビ・ラジオの電波を送信するデジタル用の電波塔として2008年7月着工、2012年2月29日竣工した。この地は東武鉄道貨物ヤード跡地でそこを活用した。建築家の伊東豊雄氏の設計、建築デザイン安藤忠雄氏と彫刻家澄川喜一氏監修によるものである。
高さは東京タワーの333mに対し634mで、世界で一番高い塔としてギネスで世界記録に認定された。また、かってこの地は「武蔵の国」とよばれたことから、むさし{634m}になったという。そのアイデアを考えた人は大したものだと思う。地上350m地点では展望台「展望デッキ」、450m地点には「展望回廊」が設けられていた。総工費は12年前で約400億円。
大谷翔平選手は10年間の契約金額が1015億円。タワーが2基以上建設出来ることになる。そう考えると大谷選手はやはり凄い。また、この建設に,関わったのは、延べ58万人と言われる。技術革新が進んだ時代においても、最後は人の手で一つ一つ築き上げられたという。
東京タワーの4分の1の激狭地に建設する難工事を僅か3年半で建設したというから凄いの一言である。幸い当日は快晴のお天気ゆえ、東京タワー、東京ドーム,皇居、隅田川、荒川、東京湾から房総半島、そして富士山など眼下に見下ろす景色は最高であった。
地上から350m地点までエレベーターで僅か50秒たらず。このタワーの建設には県内のアルミ関係の企業の技術も生かされているという。450m地点の「展望回廊」までの入場料は3500円。高いか安いか、その人の満足感であろう。話のネタに一度は行って見るべきと思う。参考まで世界一高い建物は、中東ドバイにあるブルジェ・ハリファで高さ828mである。
午後、全弓連評議委員会に出席し夕方厚労省のメンバー8名と久しぶりの懇談会を開催した。中山審議官の乾杯で懇親に入って和気あいあいに2時間余楽しいひと時を過ごしました。また、帰り、わざわざ私のホテルまで送ってくれたのには恐縮しました。
翌日、総務省に新田審議官を訪ねました。国会開会中にも関わらず30分程懇談の時間を割いて頂いたのにはこれも恐縮しました。今年の余白もあとわずか。お互い来年はよき年であるよう念じ別れました
写真は、スカイツリー前と451mの「展望回廊」と富士山を望む。厚労省メンバー。総務省にて新田審議官と。





(2024/12/19)
第9回長岡すみ子の会
12月15日{日}午後4時から、富山市のオーバードホール・中ホールで恒例の、民謡,唄と踊りの祭典・歳末恒例のチャリティーショーが会場一杯に埋め尽くした来場者を迎える中、今年で9回を数え、今回は「能登半島地震からの復興に向けて」と題し、盛大に開催されました。
前日の自衛隊演奏会に引き続いて、2日間連続で音楽に親しむ機会でしたが、吹奏楽と民謡と言った全く違った分野であり、それなりに楽しみました。
実は長岡さんと私の妻が滑川高校時代の同級生と言う縁もあり、日ごろから親しくお付き合いをしている仲です。さて、ショーは7部構成からなり、
第一部 オープニングは「能登半島への思いを載せて」
・兼六園松づくし ・珠洲山曳唄 {踊り付き} 唄・長岡すみ子 唄いつぐジュニアたち
・新川古代神 {踊り付き} ・チャグチャグ馬子・南部茶屋福し
・越中おわら節 ・三条凧ばやし{踊り付き} おはこ集 {会の皆さん}
・津軽甚句 ・長崎のんのこ節{踊り付き}
・珠洲起舟祝い唄 ・伊勢音頭
・立山木挽き唄 ・麦屋節 ・津軽たんと節 ・秋田大黒舞{踊り付き}
ゲストコーナー1 津軽の響 津軽三味線の椿俊太郎 {高岡市出身}
・津軽じょんがら節 ・津軽よされ節、
津軽あいや節を椿さんの三味線で長岡さんが声高らかに唄い挙げられました。
ゲストコーナー2 妖艶 紋もよう 加賀山 紋{あや}
・越中おわら節 {踊り付き} ・恋路舟唄 ・能登麦屋節 {踊り付き}
・こきりこ節・津軽小原節 {踊り付き} 津軽三味線・椿俊太郎
長岡すみ子コーナー オリジナル演歌集
・能登・岬にて ・お小夜雪慕情 {踊り 筏井豊華翔} 民謡 にしひがし
・長崎ぶらぶら節 {踊り付き}ー長崎さわぎ ・十三の砂山 {山唄入り}
・秋田荷方節 三味線・椿俊太郎 ・帆柱起こし祝い唄
グランドフイナーレ
とやまいきいき音頭 全員
踊り 筏井豊華翔と華の会他 ・三味線・椿俊太郎他多数 ・琴・桂 博子
尺八・坪内隆悦・伊藤寿美隴 ・胡弓・加賀山紋・伊藤寿美隴・鳴り物 同左
以上、30曲余り熱演が繰り広げられました。唄あり、踊りあり、津軽三味線あり、内容の濃い3時間あまりでした。
特に、ゲストの加賀山 紋さんの父親が、長岡さんの師匠で現在金沢在住の民謡歌手加賀山 昭さんです。加賀山さんの実家が珠洲市にあり、今回の能登半島地震で大きな被害が出たと言う。
紋さんが唄う前に、その話をされた時には、うっすらと涙ぐむ時もありました。また、馳知事より、正月に珠洲市で民謡を唄って、珠洲市民に元気をつけて欲しいと要請され、楽しみにしていることなど話されると、会場から大きな声援がありました。
津軽三味線の椿俊太郎さんは高岡市出身の美男子で25歳とのこと。撥サバき、音色どれをとっても迫力満点です。二胡,琴、琵琶、三味線など弦楽器は数多くありますが、迫力において津軽三味線の右に出るものは無いような気がします。正に圧倒されました。
尚、津軽三味線5大曲は、津軽じょんがら節。津軽よされ節。津軽小原節。津軽たんと節。津軽さんさがり。です。
また、「おはこ集」で麦屋節を唄った扇浦遥雅 {はるか}さんは去る9月16日開催された全国麦屋節大会で優勝され、また、11月3日全国民謡民舞大会・青成の部で「布施谷節」を唄い準優勝に輝かれました。この様に後継者も立派に育成されていることに感心します。
また、休憩時間に会員が会場を回って集まった善意の募金額が25万9409円で能登半島地震で被害のあった能登地方と氷見市に贈呈されることが発表されました。
長岡さんの衰えぬ美声と、いつもながらのバラエティーに富んだ内容。社会貢献への変わらぬ思い。十二分に満足した3時間余りでした。
最後に全員がホワイエで来場者を見送ってくれましたが、長岡さんと再会を約し別れました。
写真はパンプレット。椿さんの津軽三味線で唄う長岡さん。フィナーレ。



(2024/12/15)