なかや一博 ブログ

東山魁夷展

若葉して 御目の雫 拭はばや 唐招提寺にて 芭蕉

先日は紅葉の立山、黒部アルペンルートと称名滝を散策したが、今回は芸術の秋を楽しんだ。
10月12日知人と共に「東山魁夷唐招提寺御影堂障壁画展」を富山県美術館で鑑賞した。以前長野県立美術館、東山魁夷館で画伯の作品を鑑賞したことはあったが、今回は国宝鑑真和上坐像が安置されている奈良唐招提寺御影堂の障壁画は、東山魁夷画伯が一期・二期通算11年の歳月をかけて1980年に全68面完成されたものを、この度、御影堂の全面改修に伴い、富山を含め全国数ヶ所で一堂に展示される貴重な機会となった。

パンプレットによれば、「唐招提寺開山鑑真和上は、12年の歳月を費やし、5度の挫折の末に視力を失いながらも6度目にして来日を果たされました。
この鑑真和上の苦難を御慰めするため東山魁夷画伯によって、和上が御覧になる事の出来なかった日本の山景と海景の障壁画が鑑真和上を奉る唐招提寺御影堂に納められ、続いて鑑真和上の故郷である「揚州」の水郷風景と、中国を代表する「黄山」と山川絶景の「桂林漓江」がそれぞれ中国の風景美として納められました」と記してあります。

また、製作にあたっては日本や中国各地を歩いてスケッチを重ね、いく度も構成を練る中で、山を描く旅は、富山県黒部から始まり、宇奈月から黒部渓谷鉄道に乗り、数多くの写生を残した画伯は、黒部渓谷で目にした風景について「正に渓谷美の醍醐味を満喫させてくれるもの」とあります。
また、東山魁夷「唐招提寺への道」の中に「渓谷としては、是非、黒部へ行ってみたい。

眼を閉じると、障壁画の構想が、朧気ながら浮かんで来る」と記してあり、パンプレットにも、障壁画の「山雲」には、富山で取材した渓谷のイメージが反映されていると考えられる。書いてあるから、障壁画と富山とは無縁ではないのだろう。
私は、障壁画を美術的に論じる知識もなければ、資格もない。ただ、画伯が鑑真和上に捧げた祈りの美は、ほんの少しだけだが理解できたように思う。また、画伯が昭和15年、31歳の時の作品「山・海」の屏風が展示してありました。これは、滑川のある市民の方が県に寄贈されたものと思います。

そして、会場を回りながら、鑑真和上が5度も挫折し、しかも、視力を失いながらも日本に仏教を広めようとした「強い意志」と「情熱」には驚かざるを得ない。また、遣隋使や遣唐使は異国の文化や制度を持ち帰り日本の国造り、取り分け唐の律令制度は日本の国家運営に大きな影響を与えた。

遣隋使では小野妹子。遣唐使では山上憶良、吉備真備、そして、阿倍仲麻呂は唐朝で科挙と呼ばれる役人になる試験にも合格し、高官にまで登り、詩人李白や王維とも親交があったという。在唐54年、日本に帰ることを夢見ながら、異境の地で生涯を終えた。2004年井真成の墓誌が発見されて話題を呼んだが、墓誌まであることからそれなりの人物であったと思われる。

遣隋使は600年ー618年推古天皇の時代に新たな技術や制度を学ぶ為に5回派遣され、唐の時代618年―907年には20回ほど派遣されたという。この中には唐で仏教を学ぶ留学僧も派遣され、その中にいた空海は帰国後真言宗を最澄は天台宗を興す。彼らの帰還する船で日本に仏教を広める為に、唐の僧も日本へやってきた。その一人が鑑真和上である。

2010年上海国際博覧会で復元された遣唐使船を見ると、長さ約30m、幅10mに満たない木造船であった。渡航ルート等々は省略しますが、要は鑑真和上の例を出すまでもなく、命がけで数か月をかけて長安や洛陽を目指した遣唐使の有為な人材も約3―4割は難破、遭難,約3割は帰国出来ず。
こんな危険を冒しても彼等は国の将来に思いを馳せ、荒波を蹴って唐に渡った。

これに比べると、昨今多発する官僚の不祥事は、正に国家公務員としての矜持を忘れているとしか思えない。この、遣隋使、遣唐使として異国の地に渡った先人の姿を思い出してほしいものです。

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(2021/10/13)

錦秋の立山・黒部

継ぎ目なき 天一枚 秋の空

誰の句か知りませんが、私の好きな句です。この句の様にはいきませんでしたが、多少の雲があったとは言え、青空が一杯に広がり山々の稜線がくっきりと浮かび上がる中、10月8日~9日一泊二日で立山黒部アルペンルートの大自然の雄大さを堪能してきました。

我が家を朝6時に車で出発。6時50分立山駅{標高457m}に到着。当日乗車券売り場にはすでに30人ほどの観光客で溢れていましたが、難なくチケットを購入。臨時便が増発され、立山駅発8時10分ー美女平{標高977m}行きケーブル約7分で到着。美女平発8時30分高原バスにて室堂{標高2450m}へ9時20分着。
つまり、海抜0mの我が家から標高2450mの室堂まで、僅か3時間20分である。
これを黒部ダムまで直行すれば、室堂からトロリーバスで10分で大観峰。ロープウェイで黒部平から黒部湖駅。我が家から約4時間で黒部ダムである。なんと便利になったことか。

かって、私は当時の中沖豊知事にこの時間帯を説明して、午前中は室道周辺での夏山スキー昼食後下山し、4時頃から富山湾で海水浴が出来る富山県。これを売りにすればどうだろうか。と話したことがある。
それにしても、春先訪れた際の雪の大谷はどのあたりか。雪が全くないのだから探すのに苦労する。
しかし、それに代わって紅葉である。見事だったのは、大観峰から黒部平へのロープウェイから眺めるタンポ平{標高約1800m}の紅葉と黒部湖である。
赤色やオレンジ色、黄色など鮮やかに映えていた。特に、感心するのは、栄養分が全くないと思われる岩肌にへばりつくように咲いている赤のナナカマドが印象的だった。

室堂辺りは既に紅葉は終え、弥陀ヶ原より少し下の七曲{標高1680m}辺りが見頃である。しかし、バスの車窓からは、秋色に彩られた高原は見えにくく、やはり、これはヘリコプターなどで、上空から眺めるのが一番であるが、所詮庶民には無理な話である。

それにしても、石原裕次郎主演の「黒部の太陽」でもお馴染みの「黒四ダム」は7年の歳月をかけ、大破砕帯との遭遇をも克服し、171名の殉職者を出しながら昭和38年6月完成させた。
この先人達の英知と努力。それは、全線開通50周年の節目を迎えたアルペンルートにも言える。これを最初に提唱した佐伯宗義氏に賛同する者はほとんどいなかったと言う。

考えてみれば、北海道を除く46都道府県が隣接する県が車道で結ばれていないのが、富山県と長野県位である。立山を貫き富山県と長野県に光を。こんな思いもあり、アルペンルートを運営する社名は、立山黒部貫光{株}で、観光でなく貫く光である。

現在、富山県では立山連峰にトンネルを堀り長野県大町周辺と直接道路で結ぼうとする案がある。立山連峰にトンネルを。と言っても、3案があると言われ、まだ夢の段階であるが、北陸新幹線後の夢のプロジェクトであろう。今の日本の土木技術では私は可能と思う。

要は採算性であろう。北陸新幹線は構想から完成まで50年以上の歳月を要したことを思うと、私の眼の黒い間には無理かもしれないが夢は持ち続けたいものである。
「黒四ダム」にしても「立山黒部アルペンルート」にしても、先人達の開発にかける情熱や不屈の闘志と使命感には驚かざるを得ない。特に昨今の環境問題を考える時、アルペンルートは50年も前から環境に配慮し、排ガス対策としてマイカーの乗り入れを禁じたり、トンネル内はトロ―リバスを導入するなど、先進的な施策を展開していることは特筆すべき事と思う。2時半を過ぎると雲も多少厚くなり下山。
3時半頃立山駅から車で称名滝へ。この時間帯になるとほとんど観光客はいなかった。滝の水量は一年で一番水量が少ない時期なのか、大瀑布とまではいかなかったがそれでも圧巻であった。また、ハンノキ滝は消滅していた。

立山山麓で一泊後、翌日は立山カルデラ砂防博物館の見学と大自然の雄大さをたっぷり満喫して帰路に着いた。観光客については非常事態や蔓延防止等が解除され、富山県独自の防止策もステージ1になったこともあってか、室堂では県内の中学生が日帰り旅行として多数来ていたり、まずまずの観光客で賑わっており、一昨年までとはいかないものの、少しずつではあるが元に戻って来ているように思えた。
一日も早く元に戻るように願うものです。

帰宅後、友人に黒部ダムの話をすると、ダムの放水を見るためには3階建てのダムレストハウスへ行くか、あるいは下へ降りる方法がある。その下へ降りる階段は自分が設計したと言う。詳細は省きますが私も驚きました。同級生には多彩な人物がいることを改めて嬉しく思いました。

写真は、雄山をバックに。紅葉のタンポ平と右に黒部湖。放流する黒四ダム。称名滝。

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(2021/10/10)

滑高祭2021

落ち鮎の 佳き香り立つ 囲炉裏焼  高島学人

秋晴れの下、青空の広がる中、10月1日{金}~2日{土}「彩色・滑高を個性の色に」をテーマに、滑高祭2021が開催された。
これは、学校行事の一環であり、体育大会、修学旅行と並ぶ3大行事の一つでもある。昨年はコロナ禍で中止となったが、生徒にとっては入学から、卒業までの3年間で一度の開催であり昨年の3年生には気の毒なことであった。

1日は演劇鑑賞として、今なお世界中で愛されているシェイクスピアの4大喜劇の1つである、コメディミュージカル「真夏の夜の夢」{劇団・(株)笑う猫}を全生徒が黒部コラ‐レで鑑賞した。
私自身、鑑賞はしていないので感想は述べれませんが、先生の話では、結構生徒は喜んでいたとのことでした。

2日は生徒15クラス、27部活、2委員会・学科等を各教室を会場にしての発表でした。
9時~9時30分、第一体育館ステージで吹奏楽部の「滑高コンサート」は全生徒参加で、その他の発表等は自由見学であった。
私は全部の発表は見なかったが、今朝、上市川河口で釣った「ハゼ」や「ヤマメ」の水槽飼育展示。姉妹都市、小諸市、豊頃町、那須塩原市の物産展。
プロ並みの写真展。体育大会の様子を記録編集したDVDを上映し、予約販売。
映画鑑賞として「タイタニック」の上映があるなど多彩で趣向を凝らした発表会であったが、企画から設営までの努力が思い出になるのであり、賛辞を贈りたい。

特に、人気があったのは,体育館のステージ上でのダンスである。暗くなった場内で10数名の男子生徒が踊りだすと、女子生徒が持つペンライトが揺れ歓声が上がる。コロナ禍の中、練習するのも大変だったと思う反面、私には中々ついていけないのも年齢の違いだろうか。
この時間帯、他の会場は見学者はほとんどいなかった。

いづれにしても、スポーツ活動や文化活動など平常に少しずつではあるが戻ってくると、生徒たちも喜喜としてくると先生はいう。
考えてみれば、悠久の時の流れには「節」はない。
しかし、人間は「節」を付けた。60秒で1分、60分で1時間、24時間で1日、30日或は31日で1ヶ月、12か月で1年としたり、また1年を春夏秋冬に分けたり、24節気、72候、雑節など、時の流れに「節」を付けた。大晦日に飲む水も元旦に飲む水も本来同じ水である。
しかし、元旦に飲む水はどこか清々しく感じる。それは時の流れに「節」があるからである。高校生活も同様です。コロナ禍で「節」を失った。これによって、自己喪失に陥った生徒もいたのではないかと思う。
しかし、ワクチン接種も進み、緊急事態も蔓延防止も解除された。富山県独自の防止策もステージ1に引き下げられた。
だからといって安心とはいかないが、徐々に回復に向かっていることは歓迎すべきであろう。

写真は、ポスターと男子生徒によるステージダンス

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(2021/10/03)

満月と中秋の名月

名月を 取ってくれろと 泣く子かな   一茶

9月21日は満月と中秋の名月が重なった。我が家でも、19時30分頃からは雲間に見え隠れする満月を、23時頃からはくっきりと現れた満月に暫し見とれた。ただ、月齢によって、旧暦15日が満月になるとは限らないが来年と再来年は同一日である。

先日知人から俳句の季語を集めた季語集「季寄せ」の中から、月に関する資料を頂いた。
それによると、月の名称が実に多くあるのに驚いた。
①上り月…上半月が次第に丸みを加え満月になるまで
②下り月…満月から一夜ごとに欠け始めてゆく月{下弦の月}
③十三夜…満月の2日前をいう。中秋の名月と翌月の十三夜をともに楽しむ風習が、後に日本で生まれた。どちらか一方のみを眺める月を「片見の月」と呼び、忌み嫌った。
④待宵…陰暦8月14日の夜の月.古人は満月前夜のこの月を「宵待月」と呼んだ。
⑤名月…陰暦8月15日の夜の月
⑥良夜…十五夜の月の夜
⑦十六夜…陰暦8月16日の夜の月。満月の翌日の月
⑧立待月…陰暦8月17日の夜の月。立って待っているうちに出てくるの意。
⑨居待月…陰暦8月18日の夜の月。座って待って居れば出てくるの意。
⑩寝待月…陰暦8月19日の夜の月。月の出るのが遅く寝て月を待つ意。
⑪更待月…陰暦8月20日の夜の月。夜が更けて出る月を待つの意。
⑫真夜中の月…陰暦8月23日の夜の月。
⑬後の月…陰暦9月13日の夜の月。
⑭有明月…夜明けになお空に残っている月。

これ以外にも、朧月夜など本当に月を表す言葉は多い。
日本人は、美しい満月も、翌日には欠けてゆく、そんな月にも無常の美しさを見出した。
古人の豊かな感性と繊細な美意識に加え、俳句や短歌によって語彙がより豊かになった。これが日本語の素晴らしい点であり、外国語では到底表現出来ないことである。英語を始めとし外国語の普及は当然としても、日本語は守っていかねばならない母国語である。

さて、旧暦、太陰太陽暦では7月から9月までを秋とし、その真ん中、8月15日{十五夜}の満月を「中秋の名月」と称し、芋や団子を供えて秋の収穫を月に感謝したという。春は花見、夏は花火、秋は月見、日本人が愛する折々の情趣の中では、秋の月見は消えつつある。しかし、我が家では、スーパーでお団子を買い、ススキとともに仏壇に供えて、カーテンに切り絵ではあるが、月、うさぎ、雲などを貼り付け家族で団子を食す。孫に「月にウサギが居て餅つきをしている」と言っても相手にもしてくれない。

考えてみれば、中国の月無人探査機「じょうが4号」を世界で初めて月の裏側に着陸させたり、日本の「はやぶさ2号」が惑星「りゅうぐう」から岩石を採取し地球に持ち帰る時代である。しかし、どんな時代になっても、日本の良き伝統、文化、美しい日本語などは残していかねばならない。満月を眺めながら、ふとそう思った。

写真は、我が家の2階からの19時30頃と23時頃の満月。

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(2021/09/24)

滑川高校体育大会

北海道大雪山系旭岳では山頂は紅葉が始まり山をおり始めたという。紅葉前線は南下で桜前線は北上と表現する。
日本語の美しさと同時に、日本列島の南北の長さを改めて思う。
さて、第73回県立滑川高校体育大会は9月14日{火}午前8時40分より、曇り空ながら、暑くもなく、寒くもなく絶好の体育日和のもと開催された。

当初、9月2日でしたが、県内は、県独自の指標となるステージ3の最高レベルの非常事態で、しかも、富山市に蔓延防止等重点措置が9月12日まで発出されており、14日に延期となっていたものです。幸い、まん防は12日に解除され、私が見学に行ったのは10時頃より11時20分までの時間帯でした。
そこで感じたのは、団編成は、白虎団,青龍団、朱雀団の3団でした。この様になってから10年以上になると思います。
中学時代までは、赤、白、青、黄の色分けです。それでは、生徒諸君はこの意味を理解しているのだろうか。学校関係者に質問したところ,多分知らないだろう。とのこと。

ご存知の通り、白虎等々の四神図が一躍有名になったのは、昭和47年{1972}3月21日発見され、現在国宝に指定されている「高松塚古墳」と昭和58年{1983}11月7日発見された「キトラ古墳」の石室から、「白虎」、「青龍」、「朱雀」、「玄武」加えて、「天文図」やいわゆる「飛鳥美人」と言われた極彩色の美人群像などは世紀の発見とされ広く報道された以降と思う。
しかし、私が高校時代はそれ以前であるから、誰が、どんな理由で、いつ頃、四神図を団の名称にしたかは、私にはわからない。しかし、この、四神図の謂れぐらいは教えるべきでないだろうか。

また、私は戦後の団塊の世代であり、1学年普通科4クラス、商業科6クラス、薬業科、家政科各1クラス、50人1クラスで1学年600人、3学年計1800人これに定時制があった。運動会は四神に加え黄鶴団と5団であった。
綱引きにしろ、騎馬戦、棒倒し、リレー、応援合戦どの種目を見ても青春のエネルギーが爆発している感があった。それに比べると、現在は1学年200人3学年で600人であるから同一に論じる訳にはいかないが、関係者に何人くらいで1団の編成が可能か。と質問したところ150~200人である。という。
150人はぎりぎりかもしれないが、私は4団が良いと申し上げた。

4団になればすべての種目が盛り上がると思う。いづれにしても、昨年は新型コロナの影響でほとんどの学校行事や部活も中止になった。
幸い、今年は体育大会は実施出来た。しかし各学年の遠足はすでに中止と決定。、2年生の2泊3日の県外修学旅行も中止と決定したが、代案として名称変更し日帰りで検討中。3年に1度の文化祭は、昨年は中止であったが、今のところ予定しているとのこと。

この様に、生徒が楽しみにしている行事や,部活など、日頃の練習の成果を発揮する機会が失われることは誠に残念なことです。
僅か、3年間という短い高校時代に作る青春の思い出は、生涯忘れえぬ思い出として、心の中で生き続けるものでです。
生徒諸君には中止となった分、それに代わる新たな思い出作りに知恵を出してほしいと念じグランドを後にした。

写真は、体育大会の大縄跳び競争と綱引き

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(2021/09/15)

「多様性を認め共生へ」「感動をありがとう」

TOKYO2020夏季五輪は7月23日開幕し、9月5日パラリンピックの閉幕をもって完結した。
新型コロナウイルスの影響で1年延期となり、賛否両論の中、緊急事態宣言下しかも、原則無観客での開催となった。しかし、パラリンピックでは世界中から161か国・地域、難民選手団の障害のある4403人の史上最多の選手が参加し、22競技、539種目で個性や能力を発揮し、多様性を尊重し合う「共生社会」の意義を発信した。

そして、日本勢は金メダル13個、銀メダル15個,銅メダル23個、計51個。前回リオの計24個の倍以上を獲得し、2004年アテネ五輪に次いで最多の数となった。
この中で、出場した県勢3人、車いすバスケットボール男子の宮島徹也さん、岩井孝義さん、ボッチヤ・チームの藤井友里子さんの全員がメダリストに名を連ねた。快挙である。
これによって、先のオリンピックでメダリストとなった柔道混合団体の向翔一朗さん、スケートボード女子ストリートの中山楓奈さんを含め、5名が県民栄誉賞の栄に浴することになった。

しかし、私はメダルの獲得数が多かったことも大事だが、問題は、標題に掲げたことが重要なのである。
大会が終った直後のある世論調査で、五輪を開催して「よかった」と回答した人の割合が62%に上り、コロナの感染拡大を不安視する意見が多かった開幕前の調査と一変した。との記事をあった。
そして、始まってみれば、多くの国民に「開催してよかった」という感情が芽生えた。
それは自然なことだ。国を代表した人たちが競い合うというのは、団結心を強く抱かせる機会になるし、日本の選手たちが奮闘する姿を見ることで、日本人であることを意識し、誇らしく思った人も多かったのではないか。
国歌が流れ、国旗日の丸が掲揚されると、胸に熱いものを感じるのは、私一人ではないと思う。
特に、開閉会式は、どこか和気あいあいとした雰囲気で私は良かったと思う。
むしろこれはパラリンピックの原点に近い姿だったのではないか。

いづれにしても、パラリンピックは終った。選手も関係者も、国民も、それぞれが競技を楽しみ、生きがいを見つけ、多くのメディアが取り上げ、大会に対する知名度が上がり、競技に関する知識も増えた。
そして、多くの選手の口から発せられた「たくさんの仲間に感謝したい」の言葉や「性別、年齢,障害の重さを問わず、多様な選手が活躍した姿から「障害があっても挑戦できる」という勇気を多くの人々に与えた。
人生で「努力。諦めない。夢。」の大切さを改めて、教えてもらった。

特に、印象に残った言葉を記す。
①IPCパーソンズ会長
閉会式で「皆さんは、自分が誰で、何者かを決められる唯一の存在だ。

②道下美里さん
マラソン女子で金メダルの彼女は、前回のリオでは、銀メダルだったことから、「今回は5年前の忘れ物を取りに行く」と話し「目に見えないことは何も出来ないことだと思った。
しかし、一人で出来ないことは二人で出来た。二人で出来ないことは三人で出来た。可能性は無限である。

③杉浦桂子{50歳}さん
自転車女子ロードレースとロードタイムトライアルの2冠に輝いた彼女は「最年少記録は2度と作れないが、最年長記録は作れる」

とに角、パラリンピックは終った。
しかし、東京大会の理念である「共生社会の実現」は簡単ではない。これからは、選手が競技を離れたところで行っている仕事や、福祉事業といった活動にも今まで以上に目を向ける必要があるし、障害は社会全体で克服すべき課題だという認識を国民ひとり一人が持つことであり、その意識の強弱にあると思う。
コロナ禍と猛暑の中で開かれた五輪とパラリンピックの成否を現時点で判断するのは早計で、時間をかけて検証すべきと思う。

「感動ありがとう」

写真は、9月5日の「閉会式」と「消えゆく聖火」

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(2021/09/07)

平和と戦争と命

終戦から76年を迎えた8月15日、政府や富山県主催の戦没者追悼式がそれぞれ開催された。
日本の総人口の8割超えが戦後生まれとなり、戦争の悲惨さを語れる人が年々減少し、戦禍の悲惨な記憶が遠のいて行っているような気がする。

8月。それは、平和、戦争,、命の尊さ、を考える絶好の機会である。
8月2日史上最大級の富山大空襲は午前0時36分~1時51分まで75分にわたり、米軍爆撃機B29が富山上空に飛来し実に12,888発の焼夷弾を投下した。爆撃平均中心点は富山城址東南の角{かっての時計塔付近}とされた。
これにより市街地の90%以上が灰塵に帰した。罹災所帯2万5千。罹災人口11万人。死者は判明しているだけで2,275人。
実際は3千人を下らないと言われている。富山市街は大和百貨店、海電ビル{現、電気ビル}県庁、昭和会館、興銀富山支店、NHK富山放送局、と残った建物は僅か6か所だけだった。

当日の爆撃地は、富山、長岡、水戸、八王子、川崎石油企業群の5か所であった。
出撃したB29は計858機。内、富山飛来は182機であった。今年の8月13日の北日本新聞の「残す伝える」とやまの戦争遺構欄で「空襲から数日後、氷見市島尾海岸に11体の遺体が漂着した。
これは、空襲の熱さから逃れようと神通川へ飛び込んだものの力尽き、富山湾に流れ出したものであった。中には、胸に赤子をしっかりと抱いた若い母親や、離れぬように手をひもで縛り合った12-13歳くらいの姉と6-7歳くらいの弟の遺体もあったという。

地元の人たちは、遺体を漂着した場所のそばにある松の木の根元にそれぞれ埋葬し、墓標代わりの石を置いて毎年供養した。
その後、地蔵尊が建立され現在まで慰霊祭が行われている。8月12日の慰霊祭では国泰寺{高岡市}の澤大道管長らが読経し、「地元の人たちが守ってきた地蔵尊に今後も平和を願い続けていきたい」澤管長は読経を終え、そっと参列者に語りかけた」。と報じていた。
現在、8月1日花火が打ち上げられている。これは、亡くなった人々への鎮魂,慰霊と戦災からの復興への祈りの花火である。
これは、長岡も同様である。

しかし、米軍の周到さには驚く。7月2度にわたり、B29は富山上空に飛来し、模擬原爆を投下し訓練を行っている。20日軍需工場と思われる「不二越製鋼東岩瀬工場,日本曹達富山工場,日満アルミニウム東岩瀬工場」が標的とされ3発投下された。しかし、命中せず富岸運河左岸に着弾、被害者、死者47名負傷者40名以上。米軍はこの訓練は「うまくいかなかった」として26日再度同じ3工場を攻撃目標とした。
しかし、曇量の影響で、1発が豊田本町に着弾。死者16名、負傷者40名以上の被害がでた。
また、空襲に使用された焼夷弾も改良された。大正12年{1923}9月1日午前11時58分発生した関東大震災である。死者10万人と言われるが、これは地震の被害というよりは、民家は木造建築ゆえ火災での死者がほとんどである。

ここに着目して焼夷弾を木造建築が燃えやすく、かつ面的に広がるように改良したという。
或は、3月10日は日露戦争の奉天会戦の大勝利からこの日を「陸軍記念日」とした。
この日に東京大空襲を行っている。このような例はいくらでもある。
また、戦後、軍人には軍人恩給が支給されるようになったし、村山政権当時、原爆被爆者援護法が制定された。最近では広島での、「黒い雨」裁判でも原告勝訴の判決が出た。しかし、なんの罪もない人々が家を焼かれ、命まで落とした人々には何の補償もない。割り切れない思いもする。いづれにしても、無抵抗の市民を無差別に大量殺りくする戦争は絶対やるべきでない。

万物の霊長である人間の最も愚かな行為が戦争である。
8月6日、広島に原爆投下死者14万人。
8月9日長崎に原爆投下死者7万4千人。
8月9日、ソ連軍日ソ不可侵条約を一方的に破り満洲に侵攻。8月14日御前会議でポッダム宣言受諾を決定。
8月15日正午玉音放送で終戦を告げる。

私から言わせると、終戦と言うよりは、敗戦と言うべきでないか。しかし、打ちひしがれた国民感情に配慮したのか、それとも昭和16年12月8日は開戦としたから、それに対し終戦としたのか。私はわからない。
月18日、ソ連軍千島列島最北端、占守島{シュムシュム島}に上陸、以後千島列島南下、8月21日樺太真岡にソ連軍侵攻、8名の女性電話交換手自決。
8月30日連合軍司令官ダグラス・マッカーサー元帥厚木基地に到着。9月2日米戦艦ミズリー号上で、日本全権・外相重光葵と大本営参謀総長・梅津美治郎が無条件降伏に調印。この為、連合国のほとんどが9月3日を戦勝記念日としている。
8月15日、お盆、先祖との対話の時である。13日は迎え盆。16日は送り盆である。私達は、一人の例外もなく父と母があることによってこの世に生を得た。
その父と母にもそれぞれ両親がいる。それを遡っていけばどうなるか。10世代で1024人。20世代で104万8576人。30世代では10億7374万1824人。40世代遡ると何と1兆95億1162万7776人。
想像を絶する数になる。人類皆兄弟の言葉を思い出す。

しかし、この祖先の命が一回も途切れず今日生きているのが私の命である。
この連鎖がどこかで断ち切れていれば,或は、別の人に代わっていたら私はここに存在しない。
そう思うと、今日自分が存在することは正に奇跡であり、縁としか言いようがない。8月、それは「平和の有難さ」「戦争の悲惨さ」「命の尊さ」を考える絶好の機会である。

最後「記録は一と時の出来事を永遠なものにする事が出来る。記録は世の片隅の出来事を、全体のものにする事が出来る。記録は名もなき人の行為を、人類に結びつけることも出来る。記録のみが、消えゆくものを不死なものにする事が出来る。」との言葉がある。

写真は、8月15日県民会館での県主催、戦没者追悼式。北日本新聞より
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(2021/08/16)

東京オリンピック

賛否両論渦巻く中、7月23日開幕した第32回夏季五輪東京大会は、8月8日17日間の熱戦の幕を閉を下した。史上初の1年延期とコロナ禍で、しかも緊急事態宣言の中、大半の会場が無観客での開催である。
まさに、異例ずくめゆえ、批判と混乱の中での開催である。しかも、開催直前までトラブルの連続であった。

盗作疑惑のエンブレム撤回。大会組織委員会の森会長発言。開閉会式の演出担当者の女性差別的プラン。音楽担当者のいじめ問題。ディレクターの「ユダヤ人大量惨殺ごっこ」など、開幕直前まで不祥事が相次ぎ、加えて大会開催により新型コロナ感染者が更に拡大するのではないかとの不安。果して本当に開催出来るのか。そんな中で開幕した。

翌日のメディアは、盛り上がらない、単調な開会式と報じた。しかし、私から言わせるとこれが、もし逆であって、大いに盛り上がった開会式であったら、おそらくメディアはコロナ禍の中、お祭り騒ぎとは、と批判したと思う。
どちらに転んでもメディアはそんなもんである。私は、現下の情勢を考えると、開会式は日本らしく良かったと思う。
そして、世界から、200を超える国・地域から1万1千人の選手の参加を得て17日間の熱戦が始まった。どの新聞も一面は日本人の活躍を含め、五輪関係の内容であった。テレビニュースも最初の報道は五輪であった。コロナはその次である。

コロナが吹き飛んだとまでは言わないが、開幕前の批判の声は何処にいったのか、と思う位五輪一色である。
テレビにしても、朝から晩まで、どのチャンネルを回しても五輪番組である。県勢は8競技14人が出場した。開会式では、八村選手が旗手を務めた。これは、2004年アテネ五輪で日本選手団総監督、2008年北京五輪で日本選手団団長を務めた福田富昭氏{滑川市出身}以来の快挙である。そして、競技結果は、柔道混合団体で向選手が銀、スケートボート女子ストリートで中山選手が銅メダルに輝いた。

日本は、連日のメダルラッシュで金27、銀14、銅17、計58個のメダルを獲得した。金では、米国、中国に次いでの数である。
確かに追加種目の「純増」も日本が希望して入れた、野球、ソフトボール、空手、スケートボードでメダルを上積みしたことも大きかったと思うが率直にこの結果に拍手を贈りたい。今後この記録は中々破られないと思う。
また、リオ五輪でもそうであったが入賞した選手はインタビューで異口同音に、親へ、監督へ、コーチへ、関係者へ、そして声援を送った人々への感謝の言葉。「忘己利他」つまり他者への思いやり。これこそが日本人の特筆すべき点である。
参加した全員が、いや、全世界の人々がこの様な心を持てば戦争も起こらないと思うし、是非とも教育の場でこのようなことを教えてもらいたいものである。

とに角、開催まで紆余曲折はあったが、逆境を乗り越えた選手たちの雄姿は人々の心を揺さぶった。勝者の涙、敗者の涙、そこに繰り広げられた数々のシーンから、多くの感動と勇気をもらった。
特に、日本人が1位の表彰台での、国歌君が代の演奏、国旗日の丸の掲揚の時には、日頃国歌、国旗に無関心の人でも、胸が熱くなったと思う。これがスポーツの持つ力であろう。
また、大会終了後の世論調査では、五輪開催を「よかった」「どちらかといえばよかった」が61%、「すべきでなかった」「どちらかといえばすべきでなかつた」が38%である。

私は、無観客は残念であったが、やって良かったの一人である。
とに角夏季大会は終った。終った途端に新聞では「祭りの後、問題山積」赤字は誰が負担するか、などの活字が踊る。
しかし、夏季大会とパラリンピックは表裏一体のもので、評価、総括はパラリンピック終了後、行うべきものである。ましてや、赤字は誰が負担するかなどは、1年延期になったことでの経費やコロナ対策としての費用など、まだわからぬ中でこの見出しである。
いずれにしても、長野五輪の時のように、会計帳簿が破棄されることのないように、きっちりとした検証、総括は必要である。また、24日からパラリンピックが始まる。県勢は3人出場するがご健闘をお祈りしたいと思います。

そして、誰も経験したことがない環境の中での開催だが、夏季大会での教訓をパラリンピックに生かすべきであろう。
さて、五輪が終わるとともに、全国高校野球選手権、夏の甲子園大会が人数制限があるものの2年ぶりに開幕した。私は、高校野球と五輪はどこか共通点があるように思う。
勝者と敗者の涙.高校野球では、勝者の栄誉を讃え校歌が流れ、五輪では国歌の演奏と国旗の掲揚がある。何と言ってもアスリートのひたむきな姿勢から伝わる感動である。
それが、スポーツの持つ魅力であり不思議な力である。

いずれにしても、パラリンピック成功の為にも、新型コロナ対策にしても政府は、もっと明確な発信が必要であり、国民も緊急事態宣言が出されていても、都内では、繁華街や主要な駅の人の流れは大きく減っていない現状を良く認識し、危機感を共用すべきだと思う。

尚、滑川市博物館{滑川市開676。電話076-474-9200}で滑川スポーツ史なめりかわ・スポーツの輝き、と題し、滑川市民のオリンピック出場や滑川高校の甲子園出場記録・大相撲立浪部屋を作り、横綱・双葉山や羽黒山を育てた横道出身・緑島友之助の企画展が7月22日~9月5日まで開催されています。入場無料。

写真は、企画展のポスター
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(2021/08/11)

新湊内川周辺ツアー

たたまれて いても涼しき 日傘かな  福井三治

天いつぱい青空が広がる中、30度を超す真夏日、射水市新湊の内川周辺と遊覧船のツアーに友人4人と参加した。
このツアーは新型コロナで県外旅行が出来ない県民をターゲットに企画されたもので、「県民割引キャンペーン・地元で遊ぼう県内周遊日帰りツアー」と銘打ち、今回の企画は、自己負担金7千円、県・助成金5千円、富山おみやげクーポン券2千円付である。
この制度を活用し、地元の女性3人がユニットを組み、ツアーズ・ジャパン射水オフィスが企画した。

1人はそろばん塾「木谷総合学園」副学園長・木谷泰子さんと貸衣装店「おきがえ処・内川KIPPO」のオーナー川口貴巳さんと旅行業「紅コーポレーション」代表・紅粉広恵さんである。紅粉さんとは旧知の中で、友人と共に参加した。この紅粉さんがユニット「美心{びじん}三姉妹」として参加者をもてなすものである。今回は我々5人だけのツアーであった。

我々は車で新湊へ向かい、11時30分民宿施設、内川の家「奈呉」で昼食である。
この建物は、かって廻船問屋として栄え、築100年以上の古民家で、以前新湊市長を務めた渡辺氏の邸宅を改装したものである。宿泊ルームとコミュニティレンタルスペースがあり、昼食はレンタルスペースで、フランス料理であった。シェフはホテル新湊第一インから派遣され、食材は氷見牛など、地元産をふんだんに使い、古民家、日本庭園、フランス料理、違和感もなく大変美味しかった。

昼食後、電気自動三輪車「べいぐるん」で市内の観光スポットを車から眺め、最初に訪れたのは、木谷さんが経営する「我楽堂」内川店である。
木谷さんの説明で店内を案内して頂いた。建物に入って直ぐに眼に飛び込んだのは、清水寺・森清範貫主揮毫の縦書きの「そろばん資料館」の額である。館内には清水寺で貫主との記念写真や礼状を額入りに表装したものなど展示してあり、貫主との縁についての説明を聞き、不思議な思いにとらわれた。
しかも、私は、木谷さんとは初対面であったが、木谷さんは私を知っているとのことで驚いた。

それにしても、木谷さんの一代記を聞きながら、書や絵画に親しみ、自らアコーディオンを演奏して我々と合唱するなど、多彩な趣味の持ち主であることと旺盛なる好奇心には感心した。これが若さを保つ秘訣かと思う。

1階は主にコレクションでしたが、2階は資料館であった。江戸時代の測量家、石黒信由と伊能忠敬やそろばんの歴史。また乃木希典や東郷平八郎の扁額など興味深い品々が多数展示してあった。
特に、木谷さんの口から度々両親と祖父母への感謝と恩の言葉が発せられたのが印象的だった。帰り際にご本人の著書・「喪{うしな}われていく「母」の物語」を頂いた。

次いで、貸衣装店「おきがえ処・内川KIPPO」で抹茶を頂きながら小休憩。休憩中に若い女性が二人来て、涼しそうな浴衣に着替えて颯爽と街へ出かけて行った。1日のレンタル料金は着付け代含め2千円とのこと。

次いで、川の駅新湊から観光船に乗船。富山湾とつながる内川の両岸には漁船が係留され、ほとりには風情ある民家が軒を連ねていた。
内川は川の流れが判らないくらい穏やかで それ故、ほとんど船の揺れを感じなかった。しかし、富山湾に出たとたん波は高く、アップ・ダウンが激しかった。それも海王丸パークのある新港内に入ると、波は穏やかであった。

約50分程のクルージングであった。午後の僅かな時間で新湊全部どころか、内川全体も見ることは出来ない。もう一度機会を作り行きたいと思う。それにしても、元気な「美心三姉妹」の町おこしに寄せる情熱にはエールを送りたい。この様な方々がもう少し増えたなら、街は、もっともっと活性化していくと思う。やはり町つくりは一人では出来ない。住民一人一人がこの街を良くしよう、との思いが一つになって始めて良くなるだろう。

改めて町つくりについて、考える機会になった。木谷さんには休館中にもかかわらず開館して頂いたり、勇気、元気を与えて頂いたり感謝申し上げたい。

詳細は、ツアーズジャパン射水オフィス。電話0766-75-4268。
写真は、「奈呉」パンフレットより、「べいぐるん」と「遊覧船から新湊大橋と左、紅粉さん」

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(2021/07/19)

全弓連理事会

公益財団法人・全日本弓道連盟{会長・増田規一郎}の令和3年度第2回理事会が、7月9日{金}ジャパン・サポート・オリンピック・スクエアー会議室で開催されました。
これは、今年度は理事改選{任期・理事2年・監事4年}の年であり、理事候補選出委員会で選出された15名の候補を評議員会に図り、正式に決定された新理事による始めての理事会であり,参集会議となり上京しました。

当日は、新理事15名中14名監事、私を含め3名全員出席。従来は新型コロナの関係でオンラインでの会議でしたが、やはり参集会議は臨場感があります。また、会場は新国立競技場の近くにあり、間もなく始まるオリンピックの為、交通規制や警備体制の強化に加え、人流の抑制などを考えると次回はパラリンピック終了後になり、今回が参集会議となったと思われます。

議題は、新役員選出で、理事の中での互選の結果、代表理事、会長に増田氏が引き続き選任され、合わせて業務執行理事も選出されました。増田会長は就任挨拶の中で弓道の普及振興はもとより公益財団法人である全日本弓道連盟の果たすべき役割にも触れる決意表明でした。

尚、久しぶりの上京で二人の知人を訪ねました。
①富山一成氏。現在、日本政策金融公庫、代表取締役専務、国民生活事業本部長。
氏は、財務省より富山県に出向され、知事政策室政策統括官などを歴任後本省に戻り、理財局次長、横浜税関長の後、6月現職に就任されました。この公庫は幾つかの省庁が持っていた公庫を一つにしたものです。
氏とは財務省理財局次長時代に財務省でお会いして以来の再会でしたが、コロナ禍の中、公庫の貸し出しが増えるなど主に金融関係の話しでしたが、氏は財務省出身ゆえその点は心得たものでした。

②藤木俊光氏。現在、経済産業省製造産業局長。
氏は経済産業省より富山県に出向され、商工労働部長などを歴任後本省に戻り、最近では大臣官房商務・サービス審議官から現職に就任。話題は、やはりコロナ禍の中での経済でした。

いづれにしても、話は尽きませんでしたが、お二人とは県に出向中、よく我が家で歓談したものです。
しかし、本省に戻られても要職を務め、元気で活躍中の姿を見て大変頼もしく、かつ嬉しく思います。
お二人の更なる活躍を期待し、再会を約しそれぞれを後にしました。

写真は、全弓連理事会。富山一成氏{日本政策金融公庫専務取締役室にて}、藤木俊光氏{経済産業省製造・産業局長室にて}

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(2021/07/09)

滑川高校同窓会総会中止

見られゐて 種出しにくき 西瓜かな  稲畑汀子

7月7日{水}滑川高校同窓会{会長・中屋一博}役員会を学校敷地内の歴史資料館で開催し、8月10日開催予定の総会を協議の結果、新型コロナの現状から中止と決定しました。
しかし、年に1度、年代は違っても、滑川高校卒業という絆で結ばれた同窓生の皆さんとの再開の機会がなくなり誠に残念ですが、なにとぞご理解を賜りますようお願いいたします。
尚、当日は、この他の議題として、令和2年度会務会計報告、監査報告、次いで令和3年度予算案、事業計画案等が審議され、いずれも承認されました。
また、本年は役員改選の年ですが、総会が開けないことから、全役員が引き続き来年の総会まで任に当たることになりました。

さて、昨年の生徒諸君は新型コロナの為本当に可哀想な年でした。ほとんどの学校行事や文化活動、スポーツ活動は中止となりました。文化部は練習は出来ても、それを発表する機会がなかったり、スポーツクラブは県大会や国体などが中止になった為、目標を失うなど、思い出の少ない年だったと思います。

今年度着任された、亀谷校長は挨拶の中で、4月の入学式以降今日まで各種行事は一応順調に進んでいるとのことでした。
また、今後の予定にある学校行事の中でも大きなイベントである秋の「運動会」や3年に1度の「滑高祭」各科の「研修旅行」等々も実施出来そうとのことでした。
多感な青春時代、しかも、わずか3年間の中で、1つでも多くの感動と思い出を作る。これが高校時代だと思う。未だ収束の見通しが立たない中、東京オリ・パラリンピックの開会式が近づいてきた。ワクチン接種が進んできたとは言え、一日も早い収束から終息へと願うばかりです。

尚、7月7日開催の資料を希望される方は下記までご連絡下さい。
〒936-8507 富山県滑川市加島町45番地
県立滑川高校同窓会事務局 ☎076―475ー0164



(2021/07/07)

2回目ワクチン接種

飛び習ふ 青田の上や 燕の子  麦水

新型コロナ対策の切り札とされるワクチン接種も私自身、6月7日に次いで6月28日に2回目の接種を終えた。企業接種や職域接種もスムーズに進むかと思っていた矢先、職域接種の新規受け付け休止が発表され多少混乱している。
しかし、県の集団接種が富山空港ターミナルビルで始まったし、政府の大規模接種センターも開設から1ヶ月が経過し、6月28日から1回目を受けた高齢者が2回目接種が本格化するという。

私自身、2回の接種を受けたからと言っても決して安心でなく、今後、10日間程は従来通り「三密」を含め十分注意しなければいけないし、その後に於いてもこれで絶対安心ということでなく、やはり引き続き注視する必要があると思う。

さて、6月27日午前0時現在厚生労働省発表の国内外の感染状況を見ると、
①「感染確認」②「死者」として富山県は①は2037人②38人。
石川県①3928人②115人。
石川県と比較しても、また、47都道府県中で,①は40位②は41位である。

日本全体でも、①は79万6252人②1万4688人である。
これに対し、世界を見ると、アメリカ①は3362万11937人②60万3891人。
インド①は3023万3183人②39万5751人。
ブラジル①は1838万6894人②51万2735人。
フランス①は583万0394人②11万1113人。
イギリス①は473万4011人。
イタリア①は425万7289人②12万7458人などで、世界では①は1億8079万6678人②391万7369人。

この数字をどう見るか。私は、日本は都市封鎖もしない中、「緊急事態宣言」や「まん延防止等重点措置」の発令時期などに批判や政治家や官僚の不祥事が相次いで、政治への不信もあるが、私は富山県も日本政府も今のところよくやっていると思う。

何故なら、我が国で感染症によるパンデミックは100年前のスペイン風邪以来の大混乱である。エイズにしても、マーズ、サーズ、あるいはエボラ出血熱を含めた多くの感染症にしても、我が国にはほとんど影響がなかった。
それ故、感染防止対策のブレーキと経済対策のアクセルとの両立を図るという難しい場面に直面しているのが現状であろう。
東京オリンピック・パラリンピックも同様である。観客は無観客がベターという感染症の専門家の提言はその通りと思う。
しかし、これによって経済を含め大きな影響が出た時誰が責任をとるのか。政府の専門家委員会と政府の考えにはずれがあるという。当然だと思う。政府とすれば感染防止策と経済活動の両立を図りたいと思うのも当然である。

しかし、この判断が結果的に間違っていたなら政治家には結果責任が付いてくる。これも当然である。今は、未曽有の国難であり、デルタ株やさらにそれが変異する異常事態である。有事の時、有事のことを考えると混乱が起きる。それが現在である。
平時な時に有事を想定したことを議論することを避けてきた。その付けが今出ているのであると思う。
我が国の国防問題も然りと思う。
とにかく一日も早く新型コロナを克服し平穏な社会の到来を願うのみである。

写真は、2回目のワクチン接種風景  2021/6/28

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(2021/06/29)

配置従事者研修

紫陽花や 藪を小庭の 別座敷  芭蕉

紫陽花がぼちぼち咲いてきた。紫陽花は路地裏でも、公園の中でも、料亭の床の間での一輪挿しでも、或は、我が家の小さな藪庭に咲いていても、一服の絵になる。不思議な花である。特に、小雨に濡れた紫陽花は素敵だ。

さて、令和3年度・配置薬業従事者に対しての資質向上研修会が6月8日{火}より始まった。
これは、始めて配置薬業に従事者する者には

①初任者研修。
現役の従事者を対象とした②特別課程。
受講が義務化されている③既存配置従事者
④登録販売者の研修がある。

①の初任者研修は2日間にわたり、9時間30分の研修が年6回。
②の特別課程は5日間にわたり30時間の研修が年2回。
③の既存配置従事者研修は4日間~5日間にわたり30時間の研修が年8回。
④の登録販売者研修は2日間にわたり12時間の研修が年8回。
受講機会はいづれも各自の選択です。

これが、配置薬業従事者に対する資質向上研修である。
私は、配置従事者の理念・倫理が主ですが、業界全体の現状と諸問題など約1時間の持ち時間です。
高齢者にとっては多少キツイ内容ですが、日進月歩の著しい、薬学・病理学の世界の新たな知識の吸収の場としては、講師陣や研修内容も大変充実したものであり、他県では到底出来ないことと思う。

受講者全員真剣な眼差しで研修を受けておられる姿には、いつも感心します。さすが「くすりの富山」を標榜するだけのことはある。
ただ、最近「配置薬業」と直接関係はありませんが「くすりの富山」の信用を失う残念な事件が起きた。早く信頼回復に向かって努力して再び「くすりの富山」の一翼を担って頂きたいものです。

新型コロナで大変なことは、他人の職種においても同様である。人生においても、職種に於いても、それを取り巻く環境は常に変化する。
その変化に対応出来る者は生き残るであろうし、その逆もまたある。「先用後利」の精神や「300年の歴史と伝統」だけでは厳しい時代になっているのではないかと話しました。

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(2021/06/10)

ワクチン接種

紫は 水に映らず 花菖ぶ   高浜牛尾

市内行田公園の「花菖ぶ」も見頃が近づいてきた{6月9日現在}
さて、新型コロナ対策の切り札と言われるワクチン接種が始まった。滑川市でも5月20日頃から75歳以上の方々の接種に続き、第2弾の私の年齢にも5月末案内がきた。

本市の場合、市内12の医療機関の一覧表が同封され、それを、各自の判断で選択し予約するのである。早速、妻とともにそれぞれの医療機関に電話で予約をした。私の場合、第一回のワクチン接種は6月7日、第二回目が6月28日と指定された。
しかし、妻の場合医療機関が私と違っていた為、申し込みがほぼ同じであったが、第一回目、二回目とも7月に入ってからだった。
やはり、医療機関でも受け入れ体制や規模の差であろう。私は、当日予約時間の約10分ほど前に到着したが11番目の札を頂いた。

結果的には、接種後15分位の安静を含め約40分程で終了した。友人達の話では、電話予約に時間がかかった人や医療機関で直接予約しようと行っても、かなり混雑していて大変だったことを聞くと、私の場合は意外に早かった方かもしれない。
また、注射の痛みも殆どなかった。医師の腕も良かったのだろう。

それにしても、人とウイルスの闘いは長い歴史がある。代表的なのは天然痘であろう。奈良時代の大流行は約3年にわたって続き、当時の政治の中枢を担っていた藤原4兄弟が相次いで病死した。この時社会の動揺を鎮めようと、聖武天皇が命じたのが、東大寺の大仏建立である{752年・天平勝宝4年・開眼供養会}疱瘡と呼ばれた天然痘はその後も流行を繰り返したという。
それが、18世紀終わりのイギリスの農村部で牛の病気である「牛痘」が人にうつると、その後天然痘にかからないと言われた。これに着目したのが、地元の開業医のエドワード・ジェンナーである。牛痘を少年に接種して効果を証明した。安全性の高いワクチンの発見である。

ジェンナーは後に「近代免疫学の父」と呼ばれ、ほぼ200年を得た1980年に世界保健機関{WHO}は地球上からの天然痘撲滅を宣言した。
一回目の接種は無事終わったが、本ワクチン接種で十分な免疫ができるのは、二回目の接種を受けてから7日程経って以降とされているから、やはり私の場合7月初旬までは気を緩めてはならないし、同時に、ワクチン接種にかかわらず、適切な感染防止策も引き続き行う必要があると思う。

いづれにしても、ほぼ全国民がワクチンを打つというかってないプロジェクトが一日も早く終わり元の生活が送れるように願うばかりです。
写真は、行田公園の花しょうぶ{9日}とワクチン接種風景

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(2021/06/09)

琵琶演奏会

春尽きて 山いっぱい 葉の怒涛

錦秋流琵琶富山支部演奏会{支部長・杉本操 後援会長・中屋一博}が6月5日{土}青空が広がる好天の中、滑川市瀬羽町「ぼんぼこさ」旧宮崎酒造で開催されました。昨年は、新型コロナの影響で中止になり2年ぶりです。

私は、挨拶の中で「もし、人間社会に音楽を含め芸術や文化等がなかったら、人々はどんな生活を送っているだろうか。原始の時代から、人間は手をたたくことで音を発し、身体を動かすことでリズムを感じ、歌や踊り考え、それを生活の中に取り入れることで、心豊かな生活を送ることを考え出したと思う。それを表現出来なくなったのが、今も続いている新型コロナ禍である。私は、滑川高校の同窓会の世話をしているが、昨年の高校生は思い出の少ない淋しい年でした。。部活におけるスポーツにしても、文化活動にしても、その練習の成果を発表する機会が失われたことである。人は目標や目的を失った時の心理状態を考えると、実に残念なことであり、悲しいことである」と述べて、そんなことを含め、今回の新型コロナ禍の中で各種大会やイベントが中止になる中での演奏会開催には、相当悩まれ、議論されました。
その結果、マスク着用、手指消毒、検温、ソシャール・ディスタンスなど感染防止策を講じた上で演奏時間も従来より短縮しての開催となった。

結果として、一昨年以上の来場者を迎え、演奏者の精一杯の努力の姿が皆さんの心を掴んだと思われた。帰り際に多くの人から、次回も楽しみにしているとの声が寄せられ、関係者に勇気を与えました。
また、今回も中川原詩吟会の皆さんのゲスト出演も得て、琵琶と詩吟のコラボレーションなど会を盛り上げて頂き感謝申し上げます。

いづれにしても、日本の良き伝統文化である、琵琶などは、末永く残してゆきたいものです。
最後に、ワクチン接種も始まりましたが、一日も早く新型コロナが収束から終息へと願わずにはおれません。

尚、琵琶に興味ある方は 杉本支部長へ ☎076―475ー3568

写真は挨拶の私。杉本支部長と合吟のコラボレーション

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(2021/06/05)

加積雪島神社春祭り

誰もみな 春はむれつつ遊べども 心の花を 見る人ぞなき   夢窓国師

5月から6月に入ると、滑川市内町部の神社で春季例大祭が相次いで開催される。
5月8日薬神神社・加島町 5月13日―15日八坂社・寺家町 5月19日―21日諏訪社領家町 5月19日―21日加茂社・高月町 5月21日―23日加積雪島神社・加島町 5月24日―26日天満宮・田中町 6月13日―15日八坂社・下小泉町、6月15日―17日櫟原神社・神明町と続く。いわゆる滑川のダラダラ祭りである。

子供の頃は、娯楽の少なかったこともあり、祭の来るのを楽しみにしていた。、社会人になっても親戚に行って酒を飲み、神社に行き、スマートボールやパチンコ或は輪投げや金魚すくいなどに興じた。祭での親戚訪問は親戚との思いを無意識に再確認すると機会でもある。特に、私の町内の加積雪島神社祭礼には獅子舞が加島町3区と隔年ごと交互に参加して子供の頃には待ちに待った行事の一つであった。それが、昨年、今年と2年連続で新型コロナの関係で神輿巡幸、獅子舞、鯛灯行{やさこ}は中止。
家々を飾っていた幕、提灯、花などは各町内会で対応が割れた。やはり、淋しい限りである。今年の獅子舞には、私の孫も参加することになっていたから尚更残念であった。

かって、櫟原神社の祭礼には、サーカスやお化け屋敷などがあり、露店商も橋場から常盤町まで繋がっていた。加積雪島神社の祭礼にしても、橋場から神社まで露天商が林立していた。正に、今昔の感ひとしおである。これが例え新型コロナが発生していなくても、祭りは年々淋しくなって来ているのは事実であろう。

滑川神社誌{昭和61年10月発行}の中の雪島神社の項に、祭事世話として「雪島神社の宵宮の祭礼神事は昔も今も近郷の人々で賑わい、境内、沿道には露店商の店が並んで賑わいを添えた。
神輿全氏子巡幸後、櫟原神社へ渡御され、宮司祝詞奏上後、社頭で還幸まで駐座された。
午後8時頃、花火と共に獅子舞、氏子児童のヤサコ、出迎え高張り提灯並びに、楽人令人、氏子役員が先導する。神輿の後には宮司及び氏子の他、他町内の見送り高張り提灯が林立し、神明町より神社まで、獅子舞若連中の演技、楽人の奉楽と共に同行する人が2百人の行列にて還幸され沿道数百人の奉拝者で埋めた。宵宮の神事は昔も今も近郷の人々で賑わい、境内、沿道には露店商の店が並んで賑わいをそえ・・・{中略}戦後、櫟原神社より還幸と共に神社下浜浦より海に出御され、俗にいう「山王さんの船遊び」神事があった。
この海上渡御は、浜浦防波堤が高積されるまで行われた。

この神事は豊漁を祈願し海上に氏子の網元たちが、流し火3百余個を作り{綿に灯油を浸み込ませ板船に乗せ点火して流す}これが潮に乗り、沖合いへ流れ、長蛇の如く浜浦で見る者たちは感嘆の声を発し、まことに壮観であり,神輿渡船は粛々と、宮司、楽人,令人、供奉、高張り提灯,小幡旗、を林立させ、奉楽と共に沖合いより櫟原神社下浜浦へ、また大漁旗をたてた漁船が前後に供奉し,還幸され、社頭の御神火をくぐり神殿へ還御される」と記してある。

私も、小学生の頃だから当然この風景は記憶に残っている。この渡御は昭和38年5月21日が最後となった。昭和38年5月22日付け北日本新聞は次のように写真入りで報じた。
「滑川で ミコシの海渡り」
恒例の滑川市加島町・雪島神社の奇祭「ミコシの海渡り」は21日夜行われ,約5千人の人出で賑わった。この日朝から五月雨も夕方には晴れ上がり、氏子に担がれた豪華なミコシが各町内会の趣向をこらした夜高あんどんなどに囲まれて、午後7時に同市神明町、櫟原神社を出発、繁華街を練ったあと満船飾の発動機船に移された。伝馬船から流された約一千灯の流し火と打ち上げ花火は不夜城と化し,ミコシは流し火の間を巡回しながら豊漁と航海の安全を祈願した。」と報じている。

5千人の人出とは、想像もつかない。この様にどの神社でも以前と比較すると淋しさは禁じ得ないと思う。5月23日祭礼最終日参拝したが、数人の宮委員だけで、新型コロナの影響か3日間の期間中9時から5時まで宮は開けているが、殆ど参拝者はないとのことであった。ただ22日は神事と浦安の舞は行なったとのこと。

つまり、祭礼と言っても「人流」がない。だから露店商も来ない。段々淋しくなっていく。
時の流れと言えばそれまでだが・・・・・私は、若かりし頃宮委員をした。その時、祭礼の日を、何月何日と日を決めるのでなく、例えば、雪島神社の場合は5月の第3土曜、日曜、月曜のように曜日で決めたらどうか、それによって神輿巡幸の人手不足解消の一助になるし、獅子舞にも若手も参加がしやすくなるのではないか、一人でも多くの参加が祭そのものを盛り上げるのではないか、翌日が休日となればゆっくりと祭りを楽しむこともできるのでないか、また曜日の変更は各神社と当然話合わねばならないと発言したところ宮総代に一蹴された。
祭礼の日を簡単に変更できるものでない。確かにそう思う。しかし、後日雪島神社総代会の記録を見ると、明治時代は5月中の申の日で毎年変わる。明治30年頃は6月8日であった。当時、祭礼が終わった後、翌年の祭礼日を決めた記録もある。私の母は戦前は6月であったとよく話していた。現在の21日、22日、23日となったのは昭和20年前後と思う。

かって、地域の人々の心の拠り所であった神社、仏閣が我々の生活から疎遠になりつつある。それも地域の絆が崩れてきた一因と思う。ましてや、昨今の新築住宅を見ると神棚や仏間が消えつつある。そう思うと将来が心配になる。これは、寺院にも言えることと思う。やはり、お宮に人が集まるような仕掛けを考えなければならない。そんな思いでお宮を後にした。いづれにしても、一日も早く新型コロナの収束を願うばかりです。

写真は、祭礼最終日の加積雪島神社正面。倉の中の神輿。昭和38年5月21日最後の「ミコシの海渡り」

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(2021/05/24)

薬神神社春季例大祭

咲きみちて こぼるる花も なかりけり   虚子

桜花爛漫から百花繚乱へと季節が移り行く中、5月8日{土}午前9時より恒例の薬神神社春季例大祭{主催・石倉雅俊奉賛会長}が横川宮司の下、厳粛な中にも滞りなく行われました。
当日は、前回の1月8日の豪雪の中での開催に対し、五月晴れ、青空広がる中、久し振りの再会に参加者は笑顔でグータッチを交わしていました。

横川宮司の祝詞奏上に続いて石倉会長から順次玉串奉奠が始まり、顧問の私、吉田前会長、石政市薬業会長、中屋市薬業青年部部長等々薬業関係者、来賓、最後に加積雪島神社総代で終えました。
引き続き石倉会長が挨拶に立ち、新型コロナに関し、ワクチン接種が配置従事者を含め市民に早く接種が行われ、我々も消費者に安心して訪問出来るように、との来賓への要望も含め「三密」により医者への受診機会が減少し「置き薬」が再認識されている時、ピンチをチャンスに変える機会であると力説し、会員の一層の奮起を要請されました。次いで、来賓から挨拶とともに激励の言葉がありました。

尚、今回も感染症防止対策として、マスク着用などの対策は当然ですが、直会は中止されました。
ただ、終了後、社務所に集まり業界の諸問題について意見交換し解散しました。

写真は、玉串奉奠の私。例大祭風景。

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(2021/05/08)

「第9回(第70)日本海開き」

濃く淡く 若葉の奥も 若葉かな

5月6日{金}午後1時10分から恒例の滑川高校海洋科による「日本海開き」が上市川河口高月海岸で行われました。
これは、かっての水産高校時代の1951年{昭和26}から始まり、海洋高校、そして現在の滑川高校海洋科へと引き継がれている伝統行事の一つです。

昨年は新型コロナのため、中止となりました。今年は再編統合から数えて9回目ですが通算70回の歴史を刻んでいます。当日は、海洋科の生徒1-3年生約120名が参加しました。
目的は「海洋高校の伝統を継承し、富山県立滑川高等学校の生徒のはっらつとした若さと旺盛なる心意気で、海に挑む海洋精神と粘り強い意気の高揚を図る」とあります。
当日の天候は、五月晴れ、微風、気温20℃、海水温14,5度、まずまずの天候でした。

しかし、消波ブロックより沖合いは、17℃位だそうです。河口付近の波打ち際は上市川の真水が入り込むため低いそうです。
最初に、学年ごとに円陣を組み、気合を入れた後ピストルの合図で3年生が一斉に海に飛び込み、20m先の浮きまで泳ぐ者、波打ち際で水をかけ合う者など様々でした。
この間、校長が太鼓を打ち鳴らして生徒の士気を鼓舞します。3年生が上がったあと2-1年生と順次行います。特に3-2年生は昨年中止になっただけに久しぶりの感触を楽しんでいるようでした。

いつも思いますが「日本海開き」とは、少々大袈裟に聞こえますが、それ位の気概を持つように、とのことだと思います。
現在、県内の高校で水産関係の学科があるのは、滑川高校と氷見高校の2校ですが、このような行事があるのは本校だけです。

伝統行事として、今後とも引き継いでいってほしいものです。

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(2021/05/06)

養照寺本陣

真宗大谷派藤谷山養照寺{藤谷恵住職滑川市領家町}の建物の内、江戸時代に加賀藩主の休憩、宿泊施設「本陣」の全体を「養照寺本陣」として3月市指定文化財に指定されました。
これを機会に説明会が5月3日養照寺において開催されました。今回は、新型コロナ対策として、手指消毒、検温は当然として、参加者1回10人程度に限定され、13時、14時と2回に分けて行われました。

さて、従来は、滞在中の藩主の部屋だった「御居間」だけが「養照寺本陣(上段の間)」として指定されていましたが、このほど山形大学工学部建築・デザイン学科,永井康雄教授が行なった調査研究により、上段の間だけでなく棟全体が江戸時代後期に建築された当時のまま現存している貴重なものだと判明したため、指定範囲と名称を変更したものです。
永井教授は度々滑川を訪れ、岩城家文書{約6000点}を解読されるなどの第一人者で、市内数ヶ所ある国登録文化財の登録に尽力された方です。

説明会では主に
 ①養照寺の建築について、加賀藩本陣と本堂
 ②滑川宿本陣、養照寺の建築について
  ㋐養照寺の概要
  ㋑火災と滑川宿御旅屋と本陣の変遷
  ㋒「岩城家文書」と養照寺本陣の変遷
  ㋓古図面と現状図比較

など、資料、スライド等を使って解説されました。

参勤交代での加賀藩主の定宿、休憩場所として寛永2年{1625}桐沢家が御旅屋となったのが始まりである。
しかし、度重なる火災で天保9年(1838}高月焼で桐沢家及び養照寺本陣も焼失。片や、養照寺が本陣を勤めたのは寛政元年{1789}以降で、藩主が養照寺を利用した記録は天保7年4月6日と天保13年3月の2度である。今回追加指定された部分も含め建物は天保12年に再建されているから天保13年3月の御成り前には、上段の間{御居間}、白書院、黒書院、滝ノ間、桜の間、玄関、など現在の建物が完成していたと考えると、天保13年に藩主が養照寺を利用することを前提に建築されたと思われる。

それにしても記録では、わずか2度しか利用していないのに普請するなど、かなりの散財である。
しかし、それに耐ええる財を持っていたということであろう。弘化元年{1844}からは小泉屋{旧宮崎酒造}と交互に本陣を勤めるが、やがて激動の幕末になり幕府の権威も権力も衰え参勤交代の規模も縮小、そして廃止となる。
それでも幕末の加賀藩主の参勤交代は約2000人規模であつたという。

藩主は養照寺を利用、それ以外は周辺の民家。現代のホームステイか。さぞかし混雑したことであろう。それにしても藩主の命とあらば断れなかったのだろう。
本陣とは江戸時代藩主が参勤交代や藩内巡視のために、自領や他領を通行する際に、休憩や宿泊する施設。養照寺は元々脇本陣だったが・滑川の本陣であった桐沢家が前述の通り火災のために、これに替り、江戸時代後期から小泉屋{旧宮崎酒造}とともに本陣となった。桐沢家は御旅屋と言われ藩営であり加賀藩専用である。片や本陣は民営である。

上段の間は藩主専用の10畳敷の部屋で、周囲よりも一段高くなっており、身分の高い人物{藩主}の部屋であり、柱には黒部奥山から調達した良質な木材が使用されるなど、随所にこだわりが見られるという。県内で唯一後世の改変を受けていない本陣であるという。
永井教授の、大変解かりやすく、丁寧な解説に感謝します。

参考資料 永井教授配布資料及び広報なめりかわ5月号 
写真は、棟全体、上段の間、解説する永井教授

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(2021/05/03)

高岡市内見学

4月16日{金}高岡市内5か所を知人と見学しました。

①国宝・瑞龍寺
②高岡市美術館
③高岡市万葉歴史館
④勝興寺

①曹洞宗高岡山瑞龍寺
加賀二代藩主前田利長公の菩提を弔うために三代藩主利常公によって建立された寺である。
利長公は慶長10年{1605}44歳で家督を利常{当時13歳}に譲り富山へ。街並みの整備や富山城を築くが、いたち川付近からの出火で焼失。
慶長14年9月高岡へ。高岡城を築城し、慶長19年{1614}53歳でこの地で没した。墓所は利長公33回忌に建立された。

瑞龍寺の造営は正保年間から、利長公の50回忌の寛文三年{1633」まで約20年間の歳月を要した。当時、寺域は3万6千坪、周囲に堀をめぐらし、まさに城郭の姿を思わせるものがあった。
そして、長年にわたる大修理の後、平成9年{1997}12月3日、山門、仏殿,法堂が国宝に指定された。県内での国宝はここしかないから少し淋しい。私の記憶では、北陸3県で寺院が国宝に指定されているのは、福井県小浜市の明通寺と2件である。
福井の永平寺も金沢市内の寺院にも国宝はない。そう考えると貴重な建築物である。墓所も瑞龍寺も利常公によって建立されたもので、いかに利常公は利長公に深くその恩を感じていたかがわかる。建築は大岩日石寺をはじめとして数々の寺社仏閣を建築した名匠山上善右衛門である。
尚、国宝以外の総門,禅堂,大庫裏、回廊、大茶堂は国の重要文化財に指定されている。

利長公の戒名は「瑞龍院殿聖山英賢大居士」であり、寺名「瑞龍寺」はこの戒名に由来すると思われる。
また、受付で偶然お会いした金岡さんというご住職と話している内、私の家は曹洞宗であることを話すと、金岡さんは曹洞宗の滑川の寺院や眼目山・立山寺の住職とも懇意にしていることなど話され急に親しくなり、お陰で寺院内を案内して頂き大変ありがたかった。
いづれにしても、総門、山門、仏殿、法堂を一直線に配列し、左右に禅堂と大庫裏を置き、加えて四周を回廊で結ぶなど、厳粛且つ整然たる七堂伽藍でした。

②高岡市美術館
高岡市美術館創立70周年記念「笑まふ・ほっこりコレクション」が開催されていました。
私が見たかったのは、特別陳列として重要文化財〈勝興寺本・洛中洛外図屏風}{6曲一双}が両隻そろえて展示されている屏風です。実は、「洛中洛外図屏風」は京都の寺院を中心に何点もありますが、二条城の本丸天守閣は勝興寺本のみ描かれているという。他の屏風には描かれていない。つまり本丸天守閣焼失前に描かれたのは、勝興寺本のみであり大変貴重な屏風です。描かれたのは17世紀初頭で、鷹司家から勝興寺に嫁いだ方が持参したという。、往時の庶民生活なども彷彿させる見ごたえある屏風でした。

③高岡市万葉歴史館
元号・令和の制定で万葉集ブームが起きたが、歴史館での企画展は「越中国と万葉集」であった。主な展示品は「越中国印」「越中国府ジオラマ」「越中国守大伴家持の朝服」「難波津木簡」などにグラフィックパネルとして「越中国の歴史」「越中国守大伴家持1・」
「越中国の四季」「前田家と万葉集」などとともに万葉体感エリアとして,大迫力のプロジェクションマッピングによる映像などであった。
興味があったのは、「越中国印」と大伴家持が早月川で詠んだ「立山の 雪し来らしも 延槻の 河の渡り瀬 鐙浸かすも」延槻{はひつき}は早月の語源であり文献上早月が始めて出てきた言葉である。
この歌を「多知夜麻乃 由吉之久良之毛 波比都奇能 河波能和多理瀬 安夫美都加須毛」の万葉仮名にも興味を持った。現存する日本最古の和歌集で20巻4516首からなる。うち大伴家持の収蔵歌は473首で越中在任中の223首もあるという。
中でも、立山連峰を歌ったのは多くある。大伴家持が眺めた立山の山々も、今眺める山々も何ら変わらない。変わったのは、我々の心なのかもしれない。

それにしても、詠み手は天皇や貴族はもちろん、兵士や農民など幅広い階層にわたり、歌われた土地も東北から九州に至るまで日本各地に及ぶという。これが他の歌集と違うところだろう。いづれにしても、1260年余り前にすでに越中という国があり、自治が存在し,以後幾多の歴史を刻み今日がある。その流れに暫し身を委ね、思いを馳せたひと時だった。

④勝興寺
勝興寺は平成10年{1998}から23年の歳月と約70億円の巨費を投じた大修理が去る3月完工し公開された。境内には,殿舎群、堂舎群。伽藍構えとして,唐門、式台門 総門、鼓堂、宝蔵など12棟の国指定重要文化財がある。
パンプレットによれば「勝興寺は浄土真宗本願寺派の寺院で、文明3年{1471}に本願寺八世蓮如が越中国砺波郡に営んだ土山坊を起源とします。戦国期には同郡安養寺{現小矢部市友末}に伽藍を営み、越中一向一揆勢の旗頭として威勢を誇っていましたが、天正9年{1581}に織田方の地元武士により堂宇を焼失され、同じ12年{1584}現在の地に伽藍を再興しました。再興後の勝興寺は、慶長2年{1597}以降、越中国の触頭の地位にあり、江戸時代を通して加賀前田家と密接な関係を保ちながら、広大な伽藍を築き上げました。

境内は、奈良時代の越中国庁跡と推定される所で、万葉集を編纂した大伴家持が国守として5年間在任した。周囲には土塁と空濠を巡らせ、東辺中央に総門を開き、門内の南寄りに唐門,中央に鼓堂、北寄りに式台門を配しています。唐門の後方には本堂、経堂、御霊屋等の堂舎群、式台門の後方には大広間及び式台、台所、書院及び奥書院、御内仏の殿舎群が建ち並んでいます。17世紀から19世紀にかけて建立された建造物が数多く残り、近世真宗大寺院の伽藍の様相を今に伝える貴重な遺産です。」パンフレットより。   
          
特に、京都興正寺から移築された檜皮葺{ひわだぶき}の唐門や城郭を思わせる望楼形式の鼓堂などは一見に値する建造物です。私は、瑞龍寺も工事中の勝興寺も何度か見学したがいずれ劣らぬ壮観な寺院である。呉西には井波の瑞泉寺を含め大伽藍の寺院があるが、呉東地方には少ないように思われる。これも高岡の経済界の並々ならぬ再建への熱意があったことも忘れてはならないと思う。また、呉西には至る所に獅子舞いがあり、曳山車祭があり、高岡の沈金があり、どこか華やかな文化の香りがする。これも加賀100万石の影響か。滑川も加賀領だが10万石の富山が地勢状壁になり、加賀の影響が及ばなかったのか。
これ以上の説明は不要で「百聞は一見に如かず」である。最後に久し振りに雨晴海岸に行った。義経岩より富山湾そして立山連峰、いつ見ても飽きない絶景である。

写真は、パンプレットと越中国印と雨晴海岸より立山連峰を望む。

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(2021/04/17)

入学式

春風や 闘志いだきて 丘にたつ   虚子

4月8日、令和3年度富山県立滑川高校入学式が挙行された。
やはり、新型コロナの影響で式場には、保護者と私を含め来賓4名、校長ほか関係職員に在校生は歓迎の言葉を述べた代表者1名だけである。
国歌や校歌はテープで流され一抹の淋しさを禁じ得なかった。

卒業式は別れであるが入学式は出会いである。
多少は華やかな雰囲気があっても良いと思うが時節柄式は淡々と進行、終了した。
今回、特に印象に残ったのは、新入生は普通科2クラス、薬業科、商業科、海洋科各1クラス、1クラス40名合計200名が定員。
しかし、校長先生から入学が許可されたのは189名である。つまり、11名が定員割れですべて職業科である。この原因は何か、やはり、検証する必要があると思う。
もう一つ、1年生を担当する教員13人がステージに上がり紹介された。男性教員4名、女性教員9名である。
学校全体とすれば教員66名中男性教員34名、女性教員32名で約半々であり、たまたま今年の1年生の担当教員の比率がこの様になっただけと思う。世間では、女性の社会への進出と、女性管理職の比率の向上、そして男女平等が叫ばれて久しい。

当然のことである。ただ私の個人的な感覚であるが、ライセンスの取得などのペーパーテストだけなら、男性より女性の方がいいのではないかと思う。
教員全体の比率が1年生と同様だったら、スポーツの部活動の指導は誰がするのか。少し心配になる。
いづれにしても、新入生が3年間で多くの思い出をつくり、かつ、楽しい高校生活を送ってもらいたいと念じ、学校を後にした。



(2021/04/08)

花見

散る桜 残る桜も 散る桜    良寛

4月2日友人と富山市内4箇所のお花見を堪能した。
①常願寺川公園 ②松川 ③呉羽山 ④県立水墨美術館 

③から④へ移動中呉羽山山麓、安養坊の富山市薬業資料館を見学。目洗い薬から始まる目薬に関する企画展を学芸員の方の解説を交え、目薬の歴史を学んだ。

さて、4箇所の桜は丁度満開で、それぞれが特色を持ち趣を異にしている。松川では遊覧船が浮かび、呉羽山山頂では遥かに立山連峰を望み、眼下に富山市の街並み、そして快走する北陸新幹線。
水墨美術館では、広大な中庭に樹齢50年以上と思われるたった1本の枝垂れも圧巻だがバックが神通川左岸堤防上の数十本のソメイヨシノと、立山連峰を借景としたパノラマも見事であった。

今年は、例年より早い花見であったが充分満足した。
それにしても、県内にはこれ以外にも沢山の花見場所があるのはうれしいことである。

参考まで、我が家にも小さな裏庭に枝垂れ桜とソメイヨシノがあるが今年は桜花爛漫とはいかなかった。
写真は、我が家の枝垂れ桜とソメイヨシノ

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(2021/04/02)

ほたるいか

網しぼり きらめきつくす 蛍烏賊——高島学人

富山湾に春を告げるほたるいか漁も、桜の開花宣言と共に最盛期を迎えてきた。
ご存知の通り、富山湾でのほたるいかの漁獲量が一番多いのは滑川漁港だ。しかも、全国で唯一ほたるいか漁を海上から見学できる海上遊覧があり、且つ、ほたるいかに特化したミュージアムがあることから「ほたるいか」と言えば滑川。滑川と言えば「ほたるいか」の町と言われる由縁である。
「ほたるいか」は他県でも獲れるが、富山湾の漁法は定置網だ。

春先、産卵のため、深海から浮上してくるのを、わずか1.5k~2.0k沖合いの定置網で捕獲する為、鮮度抜群で、刺し身でも美味しく召し上がる。
その「ほたるいか」が1シーズン数回波打ち際に打ち上げられる。その光景も圧巻である。これを多くの人がタモで簡単に掬い上げ、バケツ一杯獲れることもある。これを、「ほたるいか」の身投げという。
本来、身投げとは、陸から水中へ飛び込むことだがこれが逆で、海から陸へ来ることを身投げという。日本語とは面白いものだ。

さて、私は県外の友人に毎年「ほたるいか」を送っている。
今年も、刺し身{生姜付き}、ボイル{辛子酢味噌付き}生ほたるいか{ゆで方説明書添付}の3種類を冷凍便で届けている。今年送った人の中から、先日夜8時ごろ俳優の石原良純さんからお礼の電話があった。
最初に、東京の石原良純です。とおっしゃるので一瞬いたずら電話かと思ったが本人だった。
やはり新型コロナ禍で県外の講演は無し。その為、夜は殆ど自宅に居るそうだ。その日は自宅で「ほたるいか」で舌鼓を打ち酒も少々多く飲んだとか。
そして「ほたるいかの刺し身は都内では滅多に食べれない。とても美味かった。」とのことでした。
また、その後、奥様から丁重な礼状が届いた。

もう一人、京都・清水寺森清範貫主からは、唐の詩人李白の漢詩「山中与幽人対酌」の一節「一杯一杯復一杯」を引用し、李白を偲び、滑川に思いを馳せ「ほたるいか」で杯を重ね、再会を楽しみにしている旨の礼状が届きました。

参考まで、「山中にて幽人と対酌す」――――李白
「両人対酌山花開
 一杯一杯復一杯
 我酔欲眠卿且去
 明朝有意抱琴来]

いよいよ4月1日から5月9日まで「ほたるいか海上遊覧」が始まります。
お問い合わせは下記の通り。

「ほたるいか海上遊覧」☎076-475-9307

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(2021/03/23)

春の三館巡り

春風や たまを投げたし 草の原   子規

3月5日、三寒四温の温の日に、春の三館巡りと称し①豪農の館、内山邸、②県立水墨美術館、③竹内源造記念館を知人と共に訪ねてました。

①国登録有形文化財{富山県民会館分館} 豪農の館、内山邸
内山邸は、越中の豪農であった内山家の邸宅、庭園等を、昭和52年8月13代季友{すえとも}氏から富山県へ譲渡されたものです。
富山藩時代の豪農屋敷の特色を残し、美術品、民俗資料等が展示されています。この内山邸の大部分は11代内山年彦によって幕末の慶応4年に建てられたもので、江戸時代の典型的な豪農屋敷の構えと生活様式をとどめています。

座敷、広間等の様式は藩政時代の伝統を受け継ぎ、いろり部屋、にわ{作業小屋}等は、農家としての特色を残しています。
また、明治期12代内山外川{がいせん}によって改装された表座敷や書院の一部は、すべて選び抜かれた材料でつくられ、当時の千石地主の繁栄ぶりが偲ばれ、多種類の庭木・名石等配置された広大な庭園とともに深遠な趣を漂わせています。
さらに、明治期及び清朝末期の書の巨匠たちの作品等も鑑賞できます。歴代の当主は、神通川の氾濫原野の新田開発に基礎をおく自営の大百姓で、富山藩時代には、十村役として地域の勧農、治水にあたり、たびたび富山藩主の来訪も受けました。

明治以降の地主制度のもとで最大の繁栄をむかえ、徳富蘇峰や若槻礼次郎ら文人、政治家も来遊しています。また紀行文や多くの歌を残した七代逸峰{1701-1780}や衆議院議員、富山県教育会等の公職を歴任し、漢詩、茶道を好んだ12代松世{号は外川1860-1945}、さらにアララギ派の歌人で「堅香子」「桜香子」を残した季友氏の夫人量子{かずこ}などすぐれた文人を輩出しています。
(以上、パンプレットより抜粋。)
越後には「越後の豪農の館、」が幾つかありますが、越中にもある豪農の一つです。岩瀬の馬場家、森家と同様、後世に残すべき建物と思う。
庭園内にある数十本の紅梅、白梅も見頃でした。参考まで、入館料、一般200円、70歳以上無料{年齢を証明できるもの必要}

②県立水墨美術館  旅の指南書 水美コレクションでめぐる
普通企画展の場合は、入館料は千円以上ですが、今回は館収蔵展で300円でした。しかし、展示内容は豪華そのもので、横山大観、川合玉堂が数点、竹内栖鳳、石崎光遥菱田春草、棟方志功、富岡鉄斎,高山辰雄、村上華岳、中島千波,岩崎巴人、篁牛人、小林古径等々、また、滑川でも投宿した小松均や小杉放菴など見ごたえのある素晴らしい作品ばかりでした。

③国登録有形文化財・竹内源造記念館
 竹内源造は、明治19年射水郡小杉町三ケに生まれました。三ケは、江戸時代後期から、左官業が盛んであり、源造の父も左官業を営んでいました。
源造の父の下、技術の研鑽に励み左官としての腕を磨きながら鏝絵{こてえ}の技術も習得し、生涯をかけて様々な鏝絵を製作し芸術の域まで高めました。鏝絵{こてえ}とは、民家や土蔵の壁、扇、窓などに左官職人が漆喰{しっくい}を材料に鏝{こて}を使って描いた絵のことです。

漆喰は消石灰に貝殻を焼いた灰、砂や、ふのりを混ぜ合わせ、さらに麻や藁を臼{うす}でついた「すさ」を練り込み、粘土状に練ったものです。
源造は、初代帝国ホテルの貴賓室の鏝絵装飾{明治34年}や海外においては大連にあった朝鮮銀行{現・中国工商銀行中山広場支行・大正8年}等、当代を代表する建築の鏝絵を手掛けました。また、地元町役場から、旧家の蔵の装飾、神社に奉納する絵馬に至るまで、幅広い鏝絵作品を数多く残しました。

展示品の中には国内最大級の鏝絵として、砺波市宮森新にあった旧家の蔵にあった明治40年代の全長17.5メートル×幅1メートルの「双龍」が当館に移設されたものや旧小杉町役場二階議場の奉掲揚にあった「鳳凰」{昭和9年}など展示されています。記念館は昭和9年に建てられた旧小杉町役場を平成14年記念館にして、平成26年国登録有形文化財となりリニューアルオープンした。

呉東地区では珍しい鏝絵と共に、記念館の建物も一見の価値はあると思う。入館料・無料いづれにしても、内山邸、水墨美術館、竹内源造記念館、趣の異なる春の三館巡りでした。

写真は、三館のパンフレットと内山邸の梅林。
内山邸、郵便番号・930-2211 富山市宮尾903 ☎076-432-4566
富山県立水墨美術館、郵便番号・930-0877・富山市五福777 ☎076-431-3719
竹内源造記念館 郵便番号 939-0351 射水市戸破2289 ☎0766-55-3288

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(2021/03/06)

滑川高校特別講演会

頑なに 富山売薬 春の風邪    片桐久恵

3月4日{木}午前9時50分より10時40分まで薬業課1年生40人を対象に配置薬業の歴史と現状、加えて今回特に力点を置いたのは次の点です。

富山売薬は「先用後利」の商法、つまり用を先に、利を後にするという利他の精神で、薬を配置した時は無料で、次回訪問時に使用している分だけ代金を頂く。こんな商法だから300年続いてきた。よくこんな話をする。それも事実である。
しかし、これは、少し説明不足と思う。

「完全な商人」としての富山売薬商人について話をしました。
完全な商人という言葉は、17世紀のフランスのジャック・サバリーの「完全な商人」の書物に由来する概念です。
サバリーは1622年ドイツの名門の貴族の家に生まれ、パリに出て商業を見習い大商人として活躍し、1670年には、その知識と経験によって商法典の編さんに携わり、それが「サバリー法典」としてまとめられた。

これを、要約すると、商業従事者に商業経営の指針を示す教育的配慮から、商業知識、経営内容、現金管理、帳簿の記帳の重要性、会計的知識、商品学的知識、送金、為替の手続き、それに加えて商人としての修練と教養、使用人の師弟の義務、さらに信用、信頼や協調等について詳細に述べている。
サバリーのこの概念を項目別に示すと次の四っの項目から形成される。

①信用・信頼
商業を営む者あるいは商業に従事する者にとって消費者から、その性格、行動に詐欺や不当な点が抱かれないで、適正に秩序正しく取引が行われること。自らは誠実、質素、倹約を守ること、そして信頼せられ、信用のあることが要請される。
これは富山売薬にとって第一の徳目である。仲間示談書や家訓に強調され、学習と修練と礼儀が要請せられ言葉使いや姿勢、服装などの接遇に気を使い、訪問時期を定着させるなどの細心の注意を払った。
かくて、しばしば得意先より結婚の仲人を頼まれたりするなど、友人関係、親類扱いを受けたりした。訪問には、お土産を忘れない習慣も、このための心づかいであった。

②よい商品
商取引には、商品学の知識が必要である。富山売薬業界では、原料薬の吟味、調合、薬効が重視され、反魂丹役所、仲間示談書においてこれの厳守が申し渡された。特に、中国から輸入された漢方薬を中心とした富山売薬では、薬効それ自身の普遍的な卓越性こそが業界の第一の眼目であった。
現代の薬学においても重視される麝香や牛黄などの漢方薬を採用し、また度々のこの原料薬の調合を改めたことは、全国市場を対象とするのに適したよい商品の取り扱いのためであった。

③市場調査
富山売薬商人が、旅先藩に出かけて行商することは、旅先藩経済の立場からは、貿易上の赤字になり、また藩内の産業保護からも、対策を講じなければならなかった。そこで藩内行商の差留策がしばしば取られた。
そこで入国の防圧事情やその解除対策から、旅先藩内の社寺や御家人を仲介に依頼して、藩内の情報を富山の商人に逐次連絡させていた。
そして何よりも旅先藩の利益第一主義の立場に立って、例えば、薩摩藩には北海道から昆布を船を雇って運び、藩の専売制に寄与するなど、旅先藩の事情を巧みに調査して精緻な貿易政策をたてて、旅先領内の薬の行商を継続させた。

④記帳と計理
富山売薬商人は、行商による配置性を一貫してその特色としている。この預け置きと集金を明細に記帳したのが懸場帳である。
この帳簿を通して、旅先の行商制が消費者に信頼されていくと共に経営の継続機能を果たすのに役立ち、得意先を確保する。売上代金の明細が顕示され、しかも同時に新たに薬を配置する組織である。無店舗経営に抱かれ易い不安は、解消し、物品管理と財務管理が懸場帳を通して巧みに進められる。利益計算マーケティングも可能になる。こうして懸場帳は、やがてそれ自体において、経営継続の財産としての交換価値をもち、のれん価値をもって売買される。

サバリーのいう完全な商人とは四つの項目を充たす者として集約して示されると考えられるが、この四つの項目を富山売薬商人の商業に当てはめると、それは見事に以上のように一致する。
こうして富山売薬商人は、完全な商人であったと規定することができる。彼らが300年の長期間にわたって全国行商を続けてくることができたのは、正にこの点にあったということなのである。

これは、昭和62年3月富山県が発行した「富山県薬業史 通史」より抜粋した文ですが、私はこれを平易に説明し「先用後利」の商法プラスこの様な努力があったからこそ300年も続いて来たことを話しました。生徒の皆さんも社会人、とりわけ商人になったら忘れてはならないことも話しました。

滑川高校では、3月1日同窓会入会式、2日卒業式、4日講演会と3回立て続けに訪問しましたが、やはり母校と同窓会とは表裏一体です。
更なる発展を願い学校を後にしました。

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(2021/03/05)

滑川高校卒業証書授与式

春は名のみの 風の寒さや 谷の鶯 歌は思えど・・・早春賦

3月2日、前日の同窓会入会式の天候とは、打って変わって風雨の強い中、午前10時より体育館において、卒業生、在校生代表1名、保護者、来賓が出席し卒業証書授与式{卒業式}が挙行された。当日は、コロナ禍の為、在校生は各教室からのリモート参加でした。

また、昨年歌われた国歌「君が代」「蛍の光」「仰げば尊し」「校歌」はテープで流されましたが、やはり「蛍の光」や「仰げば尊し」は卒業式には欠くことの出来ない曲と私は思う。そして、全員の合唱で卒業式の雰囲気が一層盛り上げてくれるのですが、コロナ禍を考えると今回は止むを得ないと思う。来年は是非生徒の歌声を聞きたいものです。

①在校生代表から卒業生への送辞
代表が部活動や生徒会活動を通して指導を受けた数々の思い出を語り、先輩の築いてきた本校の良き伝統を引き継ぐ決意と感謝の言葉でした。

②卒業生代表から在校生への答辞
3年間の思い出をを一つ一つ丁寧に述べて、在校生、教職員、家族への感謝とお礼の言葉でした。特に、コロナ禍で運動会や文化祭或は各種大会など殆どの行事が中止なった。
それ故、日頃の練習の成果を発揮する機会失ったことの無念さ。その時、親身になって相談に乗ってくれた教職員への感謝など、涙ながらに語っていた姿が印象的だった。
また、在校生には、滑川高校をより発展させてくれるようにとの強い思いと、3年間で培った経験を糧に新たな人生を歩んでいく力強い挨拶でした。

③柳原校長は昨年4月始業式が終わり3年生になった途端コロナ禍で休校になり、殆どの行事が中止になったが、それに代わる行事を生徒が知恵を出し、企画し努力し成功裏に導き,普段味合うことの出来ない思い出を創り出したことへの賛辞と生徒の前途に幸多き事を願う言葉でした。

最後は、生徒会で決めたグループ「嵐」の「カイト」{英語で凧}の曲が流れる中、盛大な拍手に送られて会場を後にし、式を終えました。

いつもこの様な式に出席するたびに思うことは、50数年前、私の卒業当時と、その後の時の流れに思いをはせ自らの年齢を顧みた時、無為に時を過ごして来たことに内心忸怩たる思いをする。若さとは、青春とはやはり羨ましいし、素晴らしい。何故なら2050年、日本は、世界はどんな世の中になっているだろうか。その時、私はこの世にいない。しかし、彼らはまだ50歳前である。そんな事を考えながら学校を後にした。

写真は、柳原校長より卒業証書を受け取る卒業生代表

参考まで、以前も話ましたが、「蛍の光」と「仰げば尊し」の由来を記します。

「一」「蛍の光」
 蛍の光窓の雪・・・・の歌詞は古代中国「晋」の学者車胤が貧しくて油が買えないため、蛍を集めてその光で書を読み、同じく孫康が雪明かりで勉強したという故事からとったもので、勉強しょうと思えばどんな環境でもできることを意味し「蛍雪の功」の言葉もそこから生まれた言葉であろう。原曲はスコットランド民謡で、明治14年刊行の「小学唱歌集」に蛍の題名で発表された。作者不詳である。スコットランド民謡を敢えて翻訳しないで「徳性涵養」の教育方針から、道徳的な詩がはめ込まれたという。滑川高校校歌二題目に「思え車胤の青春の・・・」とある。

「二」「仰げば尊し」
明治17年に日本で初めての音楽教材集「小学唱歌集」{三}」に載っている。ところがこの歌の作者については、編集に関係した人たちの誰かだろうと言われているが、判っていない。外国の民謡らしいという説にも根拠がなく、もし日本人の曲であるとしたら当時としては非常に珍しい西洋風の長音階である。戦後の一時期、卒業式にこの歌が歌われることに教師側が抵抗を感じたことがあったが,PTA側が卒業式はこの歌でなければ承知しなかった。映画「二十四の瞳」でこの歌をテーマ曲に使い、多くの人々を感動させたのも、この歌に対する感傷性が大きかったせいではなかろうか
{注}「蛍の光」と「仰げば尊し」は平成4年1月発行、CBSソニーファミリークラブ「心のうた、日本のうた」より
但し、10年ほど前アメリカの曲であることが判明したという。中屋記

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(2021/03/03)

滑川高校同窓会入会式

蛍烏賊 掬えばいのち かがやかす  高島学人

富山湾に春を告げるホタルイカ漁が3月1日解禁され、湾内で一番の漁獲量を誇る滑川漁港では、平年並みの127キロが水揚げされた。
豊漁だった昨年初日の365キロは下回ったものの、これからに期待したい。

そんな中、3月1日富山県立滑川高校同窓会入会式が抜けるような空の碧さと、凛とした空気のもと行われた。
これは、どの学校でも同じと思いますが、卒業すると自動的に同窓会に入会となります。それ故、本校の場合は卒業式の前日に毎年行われている。
現在、会員は約3万4千人と県下でも最大規模を誇り、今日までプロ野球ロッテマリーンズの石川渉選手をはじめ、多くの有為な人材を輩出し、各界各層において活躍しておられることは同窓会としても誠に嬉しい限りである。

誰にも生まれ育った故郷があり、青春のひと時を過ごした母校がある。中でも青春の中心的舞台は学校生活であり、多感な高校生活を回顧する時、追憶の中から懐かしい思い出が去来し、哀歓彷彿として思い浮かび、深い友情に結ばれた出会いと別れ、という青春の讃歌が鮮やかに蘇る。
しかし、正直言って新規入会者には同窓会と言ってもピンとこないだろうしと当然だと思う。
でも、いつの日か、「ふるさと」や「母校」は、それぞれの心の拠り所として生涯生き続ける存在になるであろうことや、同窓会の意義など話し理解を求めました。

終わりに、卒業後、社会人となる人、進学する人、道はそれぞれ違っても、洋々たる前途が輝かしい未来であることを祈念して、激励と同窓会入会の歓迎の挨拶としました。

写真は、入会式での挨拶
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(2021/03/02)

北部高校薬業科特別講演

富山県立北部高校薬業課2年生40名を対象に2月5日{金}午後2時20分ー3時10分まで50分間「富山のくすり」をテーマに話をしました。

最初に、来年3月をもって北部高校と合併する水橋高校の野球部と北部高校野球部との連合チームで昨年秋の県高校野球大会に出場し、ベスト4に入り北信越大会に出場した。これによって本年3月春の選抜大会の21世紀枠の候補校に選ばれたが、残念ながら落選した。
実は、1969年{昭和44}北部高校は春夏連続で甲子園に出場し、選抜では初戦尼崎西校に0-1で敗れた。
しかし、夏は1回戦で名門東邦高校に6ー4、2回戦飯塚商に4-1で勝ち8強に入った。
もし、今回出場していたら52年ぶりだった。また、当時の監督だった堀田さんが1月お亡くなりになったことなど話をしたが、今の生徒は誰も知らなかった。でも、全校生徒が力を合わせて、スポーツに学問に名声を挙げて欲しいと申しました。

さて、本題に入り、まず生徒たちに売薬の家庭か親戚などに売薬さんがいるかを聞いたところ誰もいなかった。しかし、「富山のくすり」と言えば、の問いに「売薬」さんと答えた生徒が数人いたのにはホッとした。最初に、直近の全国の医薬品総生産額約9兆4859億円、富山県は約6937億円、全国4位の生産額。
また、置き薬の全国の生産額の約50%は富山県であることから「くすり」と言えば「富山」、「富山」と言えば「くすり」と言われる所以を話しました。

主な講演内容は
①富山売薬の歴史—富山売薬発祥の起源とされる「2代藩主・前田正甫公と江戸城腹痛事件」
②他藩への入国が困難な江戸時代に富山売薬は何故商売が可能であったか 特に、薩摩藩と昆布の関係
③幕末、日本三大寺子屋と言われた富山西三番町にあった寺子屋「小西塾」の教育内容
④明治に入り――政府が各種制度を西洋化に図る中、洋薬礼讃・漢方排斥・売薬取り締まり規則や売薬印紙税導入等々苦難の時代をどう乗り切ったか
⑤明治26年富山市の補助金を基に、多くの売薬業者の寄付によって「共立富山薬学校」を設立。明治30年富山市立に移管。明治40年県立に移管され、薬剤師と売薬従事者養成機関としての位置づけを確保していったこと。そして、明治43年県立の専門学校として昇格。日本で初めての県立薬学専門学校となったこと。これが、昭和24年国立富山大学薬学部となり今日に至っていること。ここの卒業生から、現在の{株}日医工の創業者田村四郎氏や(株)リードケミカルの創業者森政雄氏などの起業家がいる。

また、戦前、昭和10年富山市立富山化学工業学校を設立。戦後、富山薬学高校となり、やがて、富山北部高校と合併し現在の富山北部高校薬業科が誕生した歴史にも触れました。
この様な素地があるから今日の「くすりの富山」があることも話しました。また薬局やドラックストアーが普及し、医療機関が整備されている今日でも何故「置き薬」が存在しているのか。
使用しなければ代金の支払いは発生しない。使用した分のみの支払いで、いわゆる「先用後利」用を先に、利益を後にするという売薬独特の商法と同時に
①信用・信頼
②良い商品
③市場調査
④記帳・経理{かけ場帳など}

商人として必要な重要な条件を300年も前から身に着けていたことです。

昨今のコロナ禍、軽い風邪の場合、従来は医者に行っていたが「三密」を避けるためも含め、置き薬を服用している。薬効もあり、改めて「置き薬」の良さを再認識した。との声をあちこちから聞くようになったことも紹介しました。

昨年4月、同高の先輩が配置販売に従事したことも話し一人でも業界に入ってくれることを願い講演を終えました。

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(2021/02/09)

春一番

裏庭に ふくらむ今日の 芽吹きかな

昨年末からお正月にかけ、また、1月8日から11日にかけて、次いで1月末まで断続的に降り続いた雪は積雪1メートルを超えていたが、我が家ではすっかり融けてほとんど無くなった。

さて、二十四節気は太陽の動きを基に、1年を24等分し、約15日おきに季節の目安に表したという。日照時間が最も長い「夏至」と最も短い「冬至」で2分し、昼と夜の時間が同じになる「春分」と「秋分」で2分。その間に「「立春」「立夏」「立秋」「立冬」が入り、さらに3等分して季節を表す節気の名がつけられている。
二十四節気をさらに3等分したのが「七十二候」。「気候」という言葉は二十四節気の「気」と七十二候の「候」から生まれている。
この他にも、季節を表すものとして「五節供」として-ー七草の節供 桃の節供 端午の節供 七夕ー笹の節供 重陽の節供など、中国から伝わったもののほかに、日本には独自の「雑節」がある。
「節分」「彼岸」八十八夜」「土用」「二百十日」などがあり、これらが昔から人々が季節の移り変わりの目安にして、衣食住に季節を取り入れ心豊かな生活の糧にしていたと思う。

さて、立春は「暦の上では春」と言われますが、正直言って「早春賦」ではないが春は名のみのである。
しかし、我が家の小さな裏庭に「フキノトウ」が芽吹き出した。実は、10数年前秋田市仁井田から「ふき」数株を譲り受け移植したものである。「ふき」は横に根が張ってゆき、今ではかなりの株数になっている。
民謡「秋田音頭」の歌詞に、「秋田来たなら、雨が降ってもから傘などいらぬ、手頃のふきの葉そろりとさして、さっさと出て行かん」とある。大きくなると人の背丈ほどにもなるし葉も直経1メートルは優にある。
食用には不向きであるが5-6本と言っても圧巻である。専ら我が家では鑑賞用で移植当時は多少肥料もやっていたが、近年、肥料をやらずにいたら,段々小さくなってきている。それでも、普通のふきよりもかなり大きい。

それにしても驚くのは、雪が消えるのを待っていたかのように地上に顔を出す。やはり雪ノ下、地中といえども春が訪づれているのだろう。
これも、近年肥料も与えないのに可憐な花を毎年咲かす白梅の盆栽がある。今冬の豪雪の中、中庭の軒先の下に置いていあるだけなのにである。その生命力の強さと、自然の力に驚かざるを得ない。

しかし、その自然が地球温暖化によって狂い始めているという。人間あって自然があるのではなく、大自然の中に人間が生かされていることを忘れてはならないと思う。
まだ、2月初めとは言え、我が家に春一番が訪れた。

参考に、万葉集全4516首の中で梅{白梅}に関する歌は119首、桜{山桜}は37首、桃は7首で、圧倒的に梅が多い。
梅は庭木や盆栽として人間の身近な存在に対し桜は山桜のためと思われる。

写真は、中庭の白梅の盆栽と裏庭の「フキノトウ」

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(2021/02/08)

映画「大コメ騒動」

寒天へ おのが刃を研ぐ 剱岳  (高島学人)

私の町内にあった高島医院の医師、故、高島学{号・学人}氏の句である。
俳句に素人の私が論評するのも僭越ですが、厳冬期の人をも寄せ付けぬ厳しさと、雄々しさ、加えて美しさを見事に表現している私の好きな句の一つです。
さて、昨年4月、映画「三島由紀夫VS東大全共闘」以来久し振りに映画「大コメ騒動」を鑑賞した。
昨年4月の映画館は一切入館制限はなかった。しかし、今回は、マスク着用・手指消毒、検温、座席を空ける「ソーシャル・ディスタンス」や館内での飲食は禁止。まさに様変わりした。時節柄やむを得ないことと思う。

映画「大コメ騒動」は大正7年7月~8月にかけて魚津・水橋・滑川で発生した米騒動にスポットをあて映画化されたエンターテインメントである。
監督が富山県出身の本木克英氏、出演者に室井滋・柴田理恵・立川志の輔・西村まさ彦・左時枝など県ゆかりの方々が多数出演することでも話題を呼んだ作品であった。

私とすれば、3年前、米騒動発生100年に際し滑川市で企画展やシンポジュウムが開催されたこともあり、どの様に描かれているか、など興味があり鑑賞した。ただ、NHK大河ドラマ同様史実に基づいて制作されてはいるが、内容が、すべて真実かといえば、そこはやはりエンターテインメントと理解して鑑賞すべきと思う。

そこで、映画と事実との違いについて幾つか記す。
①滑川の米騒動にはリーダーはいなかった。
映画では、井上真央扮する「松浦いと」や、おかか達のリーダーのおばば役「清」を演ずる室井滋が登場するが、実際はリーダーはいなかった。
米騒動100年の折企画されたシンポジュウムや座談会や投稿などを纏めて2018年12月北日本新聞社から発刊された「米騒動・100年」の中でも藤野裕子氏は滑川の米騒動を次のように記している。
「8月5日漁師町に住む主婦約50人が口火を切った。米肥商宅などに米の安売り{廉売}や県外積み出し{移出}停止を哀願して回るうちに、男性の野次馬も加わり300人ほどの集団となると、新興の米肥商宅に行き着き、路上に土下座、正座して哀願したという。
6日になると、事態は大きく動きだす。日中から汽船への移出阻止。町役場への嘆願行動があり、また前日に起きた東水橋町の人々も滑川町へなだれ込んできた。夜になると前日の新興米肥商宅や米肥会社支配人宅へ最大で2千人ともされる人々が押し掛け、怒号や罵声を放った。7日も同様に米肥商宅押し寄せた。そして、10日から廉売が始まることもあり滑川の米騒動は8日をもって収束した。」

等様々な資料をみるが何れもリーダーらしき人物はいない。
普通「騒動」「デモ」「暴動」「騒乱」「争議」「革命」と言われるものは必ずといっていいほどリーダーつまり首謀者がいる。
しかし、米騒動に関してはいなかったと思う。
つまり、自然発生的に起こった女性の小さなグループの集団が雪だるま式に膨れ上がって、結果的に2千人規模に達したのではなかろうか。
後日、証言者として「川村イト」なる人物がいるがこれとてリーダーでない。井上真央扮する「松浦いと」はこれを真似たものと思う。
特筆すべきは、この騒動は、哀願運動のようなもので、暴動や略奪ではなかつたことである。

②米騒動は「女一揆」ではなかった。
当時の高岡新報{現・北日本新聞}や全国紙を含めほとんどの新聞は「女軍米屋にせまる」、「滑川の女一揆」或は、「富山県の女一揆」などと報じていた。また、米騒動に関する証言や資料を見ても女性がほとんどである。
以前私は、素朴な疑問としてその時男たちは歴史の傍観者であったのか。或は売薬さんたちは、県外に出張中で滑川に居なかったのか。と思っていた。
しかし、企画展やシンポジュウムを聞いて理解できた。8月6日に県内最大規模の騒ぎにまで発展した様子を富山県から内務省への報告文書がある。

「婦女子僅少{約100名}ナルニ反し中産階級{羽織ヲ着スル者、巻煙草をヲ喫スル者等}、又は智識階級{学生風、会社員風等}ノ者頗る{すこぶる}多く所謂{いわゆる}細民又ハ窮民ト目スへキ者少ナカリシハ変調ヲ来シタリト認ムへキ特色ナリト信ス」

つまり男も多数参加しているのであるが、当時、社会問題化していた中流層の生活難というものが、米騒動拡大に影響を与えていたのだろう。
では何故「女性一揆」などと言われるようになったのか。
又、中流層の男も多数参加しているのに何故新聞は報道しなかったのか。
やはり、私は、当時のマスコミの報道の影響だと思う。
事実、米騒動の5年後、大正12年{1922}8月12日付「北陸タイムス」は次のような記事を掲載した。

「所詮米騒動なるものがあって、今年で5年たった。米騒動と言えば滑川の女、滑川の女と言えば米騒動、両者は茲に離るることの出来ない腐り縁の業縁につながれた」5年経ってもこの様な報道である。
全くけしからんと思うが、残念ながらこの様な報道がまかり通ってしまったことによって、米騒動=滑川の女というイメージが定着したような気がする。

滑川市博物館学芸員の近藤浩二氏は米騒動の要員として「大正7年7月、政府がシベリア出兵の方針を固めると、投機目的の商人たちが米を買い占めたため、米価が急激に高騰。滑川町では年初に日本米{内地米}1升が25銭前後だったが、夏には40銭前後まで上昇した。
漁獲物の少ないこの時期、1日の稼ぎが50銭にも満たなかったという証言もある。
このような要因が重なり、漁師の主婦たちが米騒動の口火を切ったという。」たぶん要因はこれだと私も思う。
しかし、米騒動は以前からあった。明治23年1月18日富山市役所へ約200名が押し掛けている。これが全国19か所に拡大し、特に新潟県佐渡相川町で鉱山工夫2千人が騒動を起こし、鎮圧に軍隊が出動した記録もある。
明治30年や45年にも大規模な米騒動が発生している。

さて、私は、この映画に決してケチをつけるものではない。
あくまで「エンターテインメント」としての映画であるが出来れば一人でも多くの方々がこの映画を鑑賞し、米騒動が発生した社会的背景、庶民の生活、行政や政治の対応、米騒動が社会に与えた影響等に興味をもってもらえる機会になれば良いと思う。

写真は市内堀江地内より眺めた快晴の剱岳、{1月20日} 大コメ騒動のパンフレット

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(2021/02/01)
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