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富山社交俱楽部

初雪の 高嶺を裂きてみ空より 紅葉の中に 落つる大滝 
(昭和11年秋 称名滝にて 川合玉堂)

10月21日上記の例会で、話をする機会を得ました。
富山社交俱楽部は事務局を富山電気ビル内にあり、その目的を「人生百年時代を迎え、会員相互が自由闊達に知識・情報を交換すること、および各種行事、サークル等へ参加することにより、健全な知力、体力および豊かな人間性を育み、もって地域文化の発展に貢献する」とあります。
事実、句会や短歌会、演奏会、文芸講座、茶道、謡曲、写真、音楽、ゴルフ、囲碁、麻雀、ビリヤード、例会,会報の発行など多彩な企画を展開しておられます。幕末の儒学者・佐藤一斉は「少にして学べば壮にして為す、壮にして学べば老にして衰えず、老にして学べば死して朽ちず」とありますが、まさに人生を楽しみ、生涯学び続けるという前向きな人々の集まりと思いました。
そして、この会が昭和11年に発足し今年で84年の歩みを刻んでいることに驚きました。令和2年7月現在会員162名です。

さて、当初、例会は3月11日でしたがコロナ禍の為延期になりました。3月11日は東日本大震災から丁度9年目にあたり、「日本の災害史」として予定をしていましたが、延期になった為、「富山の薬・300年の歴史から学ぶ」として、特に、明治以降の売薬印紙税導入など苦難の時代をどう克服したか、について話をしました。

本題に入る前に、
①電気ビルは昭和9年12月7日地鎮祭が行われ、海電ビルとして昭和11年3月31日竣工。工期16か月。建築費、60万円。

②富山県庁は昭和9年3月15日地鎮祭。昭和10年8月17日竣工。工期17か月。建築費・予算額117万9千円。

①と②はいづれも工期は2年以内である。
そして、この二つの建物は昭和20年8月の富山大空襲の中焼け残った建物であり、他は大和百貨店、NHK富山放送局、昭和会館、興銀富山支店だけであった。

③現在の国会議事堂は、大正9年1月30日原敬首相の下地鎮祭。
昭和11年11月7日竣工。17年の長期の工期を要しましたが、この間、関東大震災や軍事費の増大などの影響があったものと思われる。
建築費2570万円。
規模も内容も違いますから、同一に論じることは出来ませんが参考まで、お話をしました。

また、10月21日は昭和18年10月21日、明治神宮外苑競技場で学徒出陣壮行会が雨の中挙行され、1万人の学徒が分列行進を行い東条英機首相が演説した。その結果、多くの有為な人材が戦争の犠牲者になった。2度と戦争はやってはいけないと訴えました。

さて、本題に入ります。多少売薬の歴史を話し、
①先用後利の商法は置き薬だけではない。八尾の蚕種、氷見の鏡研ぎ、立山修験者などがある。

②天保年間、大阪で作られた資料に、その頃全国で代表的な薬46品目を挙げ、その中でどれが有名か、を比べたところ1番有名なのは富山の「越中反魂丹」であったこと。

③明和3年{1766}富山の西三番町に開かれた寺子屋「小西塾」は日本の三大寺子屋といわれ、商売に必要な読み書きそろばんを重点的に教えていたという。教育県富山の原点がここにあると思う。

④明治維新後、洋薬礼讃、漢方排斥の世のムードの中、明治3年売薬取り締まり規則が公布され厳しい状況になる。

⑤従来の家内工業的な製造業者がそれぞれの特色を生かし大同団結し、漢方の良きところを残し、洋薬の製造にも踏みだす。これが明治9年廣貫堂の創業になってゆく。

⑥明治15年売薬印紙税布告。これによって売薬業界は大きな打撃を受けた。明治15年に富山の売薬生産額672万円、行商人9700人だったものが、売薬印紙税導入後の明治18年には、生産額50万円、行商人5000人に激減した。この悪法は大正15年廃止されるまで実に44年間業界を苦しめた。
しかし、海外売薬にはこの重税が免除されたことから、明治19年には、藤井論三がハワイで配置売薬を始めたのを皮切りに、土田真雄が韓国へ、隅田岩次郎が清国アモイへ、寺田久蔵や重松佐平が上海へと飛翔する。これが、後の朝鮮半島、中国大陸、台湾、ウラジオストックからさらに遠くブラジル、インドなど富山売薬は日本人の行くところどこへでも進出することに繋がっていく。

⑦富山にあっては、明治21年富山県売薬営業組合設立。同27年売薬業者により共立富山薬学校設立。同31年富山市立薬学校、同40年県立薬学校、同43年県立薬学専門学校。そして戦後、学制改革により、国立富山大学薬学部として引き継がれてきている。
その卒業生に日医工の創業者田村四郎氏やリードケミカル創業者森政雄氏など起業家がいる。
つまり、明治政府の売薬に対する「無効無害主義」に対し、売薬業界は、製造、販売両面での近代化と資質の向上に努めて対応した。そして明治の富山県の近代化は金融、電力を始めとして薬業人は多大な貢献をした。薬業人を抜きにして富山県の近代化はなかったと言っても過言ではない。
そして、単に先用後利の精神だけで300年の歴史を築いてきたのではないことを力説しました。

また、富山売薬は個人業者で、色々なことを勉強し話題が豊富で、話し相手のいないご老人の話も上手に聞いてあげる。だからお客さんは「いい話を聞いた」「この人にまた訪ねてきて欲しい」「だからこの人の薬を飲もう」となる。同時に薬を届ける以外に、田畑の作り方の{山形県米沢市の報恩碑の例}指導や、仲人をしたり、全国各地の文化や情報の伝達者でもありました。
一軒一軒の家を訪ね、その家の人の「顔」と「生活の場」をしっかりと見て商いを行ってきたことも大きな要因であり、越中売薬に見る富山気質は、「薬効第一」「顧客第一」に徹したとは言え、最後はやはり「人」に尽きると思う。

終わりに、今年1月制作したCD[未来に伝えたい、薬都とやまの歌」
のさわりを流しました。戦前の曲だが西條八十、中山晋平、相馬御風、福井直秋、あるいは高階哲夫等々錚々たる音楽家が作詞・作曲していることに会場から驚きの声があがっていました。

写真は、富山電気ビル5階大ホールの会場。

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