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資質向上研修会

散れば咲き 散れば咲きして 百日紅  加賀の千代女

8月29日{土}山形県医薬品配置協議会{澤井真人会長}主催による配置従事者資質向上研修会が余目地区公民館で開催されました。当初、6月に計画されましたが、やはりコロナ禍で延期となり今回となりました。

私の講演は、29日午前9時から10時30分でしたから前日の28日出発しました。目的地酒田市は山形県でも日本海側、近い様でやはり遠かった。28日8時11分滑川発――泊――直江津――長岡――新潟ー―酒田。4回乗り換えて酒田着17時10分。ところがこの日は府屋――あつみ温泉駅間で架線トラブルが発生。
この為、府屋駅よりバスが代行運転。酒田駅着は18時を過ぎていた。

さて、話は昭和51年10月29日午後5時40分、中町映画館グリーンハウスから出火。最大瞬間風速26.7m。
焼失面積22万5千㎡。焼失家屋1774棟。被害総額約405億円。翌朝5時鎮火。戦後4番目の大火だった。
実は3日後の11月1日午前2時頃秋田から帰宅途中、火事現場を通過したのである。まだ生臭く所どころから煙が上がっていたのを今でも覚えている。そんな思い出から始まり、今回は、売薬さんと山形県について話したことを記します。

話の前に、富山の薬売りを顕彰する米沢市内の石碑酬恩碑と石灰開祖碑について知っているかを確認したところ、ほとんどの出席者が知らなかったので、話しました。
青木伝次――米沢市塩井塩野2162番地の薬師堂境内にある酬恩碑は青木伝次に感謝して建てられたものです。伝次は慶応元年{1865}に越中富山の農村に生まれ、農業に従事する傍ら、農閑期には越中富山の薬売りとして各地を行商しました。その行商中に塩井を訪れ、備中鍬で苦労して田を耕す村人たちを見たのです。伝次の地元富山では既に馬を使った馬耕法が広まっており、その便利な技術を教えようと、明治32年にに富山から馬耕機{富山犂}を持参し、その使い方まで指導しました。

馬耕機は伝次と地元の鍛冶屋で改良が加えられて更に便利になり、置賜一円に広まって農家の重労働を軽減させました。それは馬1頭と農夫一人で人力の4倍の能率が上がり、しかも2倍の深耕ができた。村人は伝次を「先生」と慕い、明治34年{1901}伝次を招いて石碑を建て感謝しました。
時に伝次36歳。その後。富山で村会議員となり、69歳で亡くなりました。この酬恩碑は、平成15年12月13日の「読売新聞」で全国に紹介され有名です。
篤之助―石灰開祖碑 石灰鉱山の開発に尽力

一方、山上の石碑は大字大小屋清水の斎藤家の畑の中に、ひっそりと建っています。正面に、「石灰開祖碑」「施主中」「越中国 篤之助」、碑が建てられた年号「明治13年3月22日」が刻まれ、裏面には石碑を建てた地元の人たち29人の名前が刻まれています。
「山上郷土史」によれば、篤之助は富山の薬売りで、茶屋・旅館を営む斎藤家に宿泊し、地元の人々に技術を教えていたといいます。関根の石灰鉱山も、篤之助の指導で開発されたものでしょう。
その後、篤之助は斎藤家で亡くなり、教えを受けた29人が、その功績をたたえて石灰開祖碑を建てて供養したのです。

{注}この文章は山形県米沢市発行の広報「よねざわ」2014年12月1日号城下町ふらり「歴史探訪」より転載したもので、「共に、米沢に新しい技術を伝えた越中富山の薬売りに感謝し、地元の人々によって建てられた珍しい石碑です」と結んでいます。

私は、このような話は全国各地にあり、売薬さんは単に「薬売り」という本業のほかに、商売そっちのけで親身になって、得意先の人々のために尽力したこと。そして、配置販売業は「先用後利」という徹底的に顧客側に立った販売システムをとっているが、顧客にしても行商から「薬」という命にかかわるものを使うのだから、そこに売薬さんへの信頼がなければ成り立たない。
その信頼に応えるため、薬についての深い知識は勿論、教養も求められた。一方、売薬の側から見れば、顧客への無担保の信用貸である。「先用後利」とはまさに人間相互の深い信頼関係に基盤をおくものである。

この様な話をして10時30分講演を終え酒田発、12時01分いなほ8号に乗車。
やはり4回乗り換え19時37分滑川に安着した。

写真は、広報「よねざわ」2014年12月1日号より右の碑が青木伝次の酬恩碑。
左が篤之助の石灰開祖碑。講演中の私。

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