なかや一博 ブログ

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滑川高校体育大会

北海道大雪山系旭岳では山頂は紅葉が始まり山をおり始めたという。紅葉前線は南下で桜前線は北上と表現する。
日本語の美しさと同時に、日本列島の南北の長さを改めて思う。
さて、第73回県立滑川高校体育大会は9月14日{火}午前8時40分より、曇り空ながら、暑くもなく、寒くもなく絶好の体育日和のもと開催された。

当初、9月2日でしたが、県内は、県独自の指標となるステージ3の最高レベルの非常事態で、しかも、富山市に蔓延防止等重点措置が9月12日まで発出されており、14日に延期となっていたものです。幸い、まん防は12日に解除され、私が見学に行ったのは10時頃より11時20分までの時間帯でした。
そこで感じたのは、団編成は、白虎団,青龍団、朱雀団の3団でした。この様になってから10年以上になると思います。
中学時代までは、赤、白、青、黄の色分けです。それでは、生徒諸君はこの意味を理解しているのだろうか。学校関係者に質問したところ,多分知らないだろう。とのこと。

ご存知の通り、白虎等々の四神図が一躍有名になったのは、昭和47年{1972}3月21日発見され、現在国宝に指定されている「高松塚古墳」と昭和58年{1983}11月7日発見された「キトラ古墳」の石室から、「白虎」、「青龍」、「朱雀」、「玄武」加えて、「天文図」やいわゆる「飛鳥美人」と言われた極彩色の美人群像などは世紀の発見とされ広く報道された以降と思う。
しかし、私が高校時代はそれ以前であるから、誰が、どんな理由で、いつ頃、四神図を団の名称にしたかは、私にはわからない。しかし、この、四神図の謂れぐらいは教えるべきでないだろうか。

また、私は戦後の団塊の世代であり、1学年普通科4クラス、商業科6クラス、薬業科、家政科各1クラス、50人1クラスで1学年600人、3学年計1800人これに定時制があった。運動会は四神に加え黄鶴団と5団であった。
綱引きにしろ、騎馬戦、棒倒し、リレー、応援合戦どの種目を見ても青春のエネルギーが爆発している感があった。それに比べると、現在は1学年200人3学年で600人であるから同一に論じる訳にはいかないが、関係者に何人くらいで1団の編成が可能か。と質問したところ150~200人である。という。
150人はぎりぎりかもしれないが、私は4団が良いと申し上げた。

4団になればすべての種目が盛り上がると思う。いづれにしても、昨年は新型コロナの影響でほとんどの学校行事や部活も中止になった。
幸い、今年は体育大会は実施出来た。しかし各学年の遠足はすでに中止と決定。、2年生の2泊3日の県外修学旅行も中止と決定したが、代案として名称変更し日帰りで検討中。3年に1度の文化祭は、昨年は中止であったが、今のところ予定しているとのこと。

この様に、生徒が楽しみにしている行事や,部活など、日頃の練習の成果を発揮する機会が失われることは誠に残念なことです。
僅か、3年間という短い高校時代に作る青春の思い出は、生涯忘れえぬ思い出として、心の中で生き続けるものでです。
生徒諸君には中止となった分、それに代わる新たな思い出作りに知恵を出してほしいと念じグランドを後にした。

写真は、体育大会の大縄跳び競争と綱引き

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「多様性を認め共生へ」「感動をありがとう」

TOKYO2020夏季五輪は7月23日開幕し、9月5日パラリンピックの閉幕をもって完結した。
新型コロナウイルスの影響で1年延期となり、賛否両論の中、緊急事態宣言下しかも、原則無観客での開催となった。しかし、パラリンピックでは世界中から161か国・地域、難民選手団の障害のある4403人の史上最多の選手が参加し、22競技、539種目で個性や能力を発揮し、多様性を尊重し合う「共生社会」の意義を発信した。

そして、日本勢は金メダル13個、銀メダル15個,銅メダル23個、計51個。前回リオの計24個の倍以上を獲得し、2004年アテネ五輪に次いで最多の数となった。
この中で、出場した県勢3人、車いすバスケットボール男子の宮島徹也さん、岩井孝義さん、ボッチヤ・チームの藤井友里子さんの全員がメダリストに名を連ねた。快挙である。
これによって、先のオリンピックでメダリストとなった柔道混合団体の向翔一朗さん、スケートボード女子ストリートの中山楓奈さんを含め、5名が県民栄誉賞の栄に浴することになった。

しかし、私はメダルの獲得数が多かったことも大事だが、問題は、標題に掲げたことが重要なのである。
大会が終った直後のある世論調査で、五輪を開催して「よかった」と回答した人の割合が62%に上り、コロナの感染拡大を不安視する意見が多かった開幕前の調査と一変した。との記事をあった。
そして、始まってみれば、多くの国民に「開催してよかった」という感情が芽生えた。
それは自然なことだ。国を代表した人たちが競い合うというのは、団結心を強く抱かせる機会になるし、日本の選手たちが奮闘する姿を見ることで、日本人であることを意識し、誇らしく思った人も多かったのではないか。
国歌が流れ、国旗日の丸が掲揚されると、胸に熱いものを感じるのは、私一人ではないと思う。
特に、開閉会式は、どこか和気あいあいとした雰囲気で私は良かったと思う。
むしろこれはパラリンピックの原点に近い姿だったのではないか。

いづれにしても、パラリンピックは終った。選手も関係者も、国民も、それぞれが競技を楽しみ、生きがいを見つけ、多くのメディアが取り上げ、大会に対する知名度が上がり、競技に関する知識も増えた。
そして、多くの選手の口から発せられた「たくさんの仲間に感謝したい」の言葉や「性別、年齢,障害の重さを問わず、多様な選手が活躍した姿から「障害があっても挑戦できる」という勇気を多くの人々に与えた。
人生で「努力。諦めない。夢。」の大切さを改めて、教えてもらった。

特に、印象に残った言葉を記す。
①IPCパーソンズ会長
閉会式で「皆さんは、自分が誰で、何者かを決められる唯一の存在だ。

②道下美里さん
マラソン女子で金メダルの彼女は、前回のリオでは、銀メダルだったことから、「今回は5年前の忘れ物を取りに行く」と話し「目に見えないことは何も出来ないことだと思った。
しかし、一人で出来ないことは二人で出来た。二人で出来ないことは三人で出来た。可能性は無限である。

③杉浦桂子{50歳}さん
自転車女子ロードレースとロードタイムトライアルの2冠に輝いた彼女は「最年少記録は2度と作れないが、最年長記録は作れる」

とに角、パラリンピックは終った。
しかし、東京大会の理念である「共生社会の実現」は簡単ではない。これからは、選手が競技を離れたところで行っている仕事や、福祉事業といった活動にも今まで以上に目を向ける必要があるし、障害は社会全体で克服すべき課題だという認識を国民ひとり一人が持つことであり、その意識の強弱にあると思う。
コロナ禍と猛暑の中で開かれた五輪とパラリンピックの成否を現時点で判断するのは早計で、時間をかけて検証すべきと思う。

「感動ありがとう」

写真は、9月5日の「閉会式」と「消えゆく聖火」

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平和と戦争と命

終戦から76年を迎えた8月15日、政府や富山県主催の戦没者追悼式がそれぞれ開催された。
日本の総人口の8割超えが戦後生まれとなり、戦争の悲惨さを語れる人が年々減少し、戦禍の悲惨な記憶が遠のいて行っているような気がする。

8月。それは、平和、戦争,、命の尊さ、を考える絶好の機会である。
8月2日史上最大級の富山大空襲は午前0時36分~1時51分まで75分にわたり、米軍爆撃機B29が富山上空に飛来し実に12,888発の焼夷弾を投下した。爆撃平均中心点は富山城址東南の角{かっての時計塔付近}とされた。
これにより市街地の90%以上が灰塵に帰した。罹災所帯2万5千。罹災人口11万人。死者は判明しているだけで2,275人。
実際は3千人を下らないと言われている。富山市街は大和百貨店、海電ビル{現、電気ビル}県庁、昭和会館、興銀富山支店、NHK富山放送局、と残った建物は僅か6か所だけだった。

当日の爆撃地は、富山、長岡、水戸、八王子、川崎石油企業群の5か所であった。
出撃したB29は計858機。内、富山飛来は182機であった。今年の8月13日の北日本新聞の「残す伝える」とやまの戦争遺構欄で「空襲から数日後、氷見市島尾海岸に11体の遺体が漂着した。
これは、空襲の熱さから逃れようと神通川へ飛び込んだものの力尽き、富山湾に流れ出したものであった。中には、胸に赤子をしっかりと抱いた若い母親や、離れぬように手をひもで縛り合った12-13歳くらいの姉と6-7歳くらいの弟の遺体もあったという。

地元の人たちは、遺体を漂着した場所のそばにある松の木の根元にそれぞれ埋葬し、墓標代わりの石を置いて毎年供養した。
その後、地蔵尊が建立され現在まで慰霊祭が行われている。8月12日の慰霊祭では国泰寺{高岡市}の澤大道管長らが読経し、「地元の人たちが守ってきた地蔵尊に今後も平和を願い続けていきたい」澤管長は読経を終え、そっと参列者に語りかけた」。と報じていた。
現在、8月1日花火が打ち上げられている。これは、亡くなった人々への鎮魂,慰霊と戦災からの復興への祈りの花火である。
これは、長岡も同様である。

しかし、米軍の周到さには驚く。7月2度にわたり、B29は富山上空に飛来し、模擬原爆を投下し訓練を行っている。20日軍需工場と思われる「不二越製鋼東岩瀬工場,日本曹達富山工場,日満アルミニウム東岩瀬工場」が標的とされ3発投下された。しかし、命中せず富岸運河左岸に着弾、被害者、死者47名負傷者40名以上。米軍はこの訓練は「うまくいかなかった」として26日再度同じ3工場を攻撃目標とした。
しかし、曇量の影響で、1発が豊田本町に着弾。死者16名、負傷者40名以上の被害がでた。
また、空襲に使用された焼夷弾も改良された。大正12年{1923}9月1日午前11時58分発生した関東大震災である。死者10万人と言われるが、これは地震の被害というよりは、民家は木造建築ゆえ火災での死者がほとんどである。

ここに着目して焼夷弾を木造建築が燃えやすく、かつ面的に広がるように改良したという。
或は、3月10日は日露戦争の奉天会戦の大勝利からこの日を「陸軍記念日」とした。
この日に東京大空襲を行っている。このような例はいくらでもある。
また、戦後、軍人には軍人恩給が支給されるようになったし、村山政権当時、原爆被爆者援護法が制定された。最近では広島での、「黒い雨」裁判でも原告勝訴の判決が出た。しかし、なんの罪もない人々が家を焼かれ、命まで落とした人々には何の補償もない。割り切れない思いもする。いづれにしても、無抵抗の市民を無差別に大量殺りくする戦争は絶対やるべきでない。

万物の霊長である人間の最も愚かな行為が戦争である。
8月6日、広島に原爆投下死者14万人。
8月9日長崎に原爆投下死者7万4千人。
8月9日、ソ連軍日ソ不可侵条約を一方的に破り満洲に侵攻。8月14日御前会議でポッダム宣言受諾を決定。
8月15日正午玉音放送で終戦を告げる。

私から言わせると、終戦と言うよりは、敗戦と言うべきでないか。しかし、打ちひしがれた国民感情に配慮したのか、それとも昭和16年12月8日は開戦としたから、それに対し終戦としたのか。私はわからない。
月18日、ソ連軍千島列島最北端、占守島{シュムシュム島}に上陸、以後千島列島南下、8月21日樺太真岡にソ連軍侵攻、8名の女性電話交換手自決。
8月30日連合軍司令官ダグラス・マッカーサー元帥厚木基地に到着。9月2日米戦艦ミズリー号上で、日本全権・外相重光葵と大本営参謀総長・梅津美治郎が無条件降伏に調印。この為、連合国のほとんどが9月3日を戦勝記念日としている。
8月15日、お盆、先祖との対話の時である。13日は迎え盆。16日は送り盆である。私達は、一人の例外もなく父と母があることによってこの世に生を得た。
その父と母にもそれぞれ両親がいる。それを遡っていけばどうなるか。10世代で1024人。20世代で104万8576人。30世代では10億7374万1824人。40世代遡ると何と1兆95億1162万7776人。
想像を絶する数になる。人類皆兄弟の言葉を思い出す。

しかし、この祖先の命が一回も途切れず今日生きているのが私の命である。
この連鎖がどこかで断ち切れていれば,或は、別の人に代わっていたら私はここに存在しない。
そう思うと、今日自分が存在することは正に奇跡であり、縁としか言いようがない。8月、それは「平和の有難さ」「戦争の悲惨さ」「命の尊さ」を考える絶好の機会である。

最後「記録は一と時の出来事を永遠なものにする事が出来る。記録は世の片隅の出来事を、全体のものにする事が出来る。記録は名もなき人の行為を、人類に結びつけることも出来る。記録のみが、消えゆくものを不死なものにする事が出来る。」との言葉がある。

写真は、8月15日県民会館での県主催、戦没者追悼式。北日本新聞より
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東京オリンピック

賛否両論渦巻く中、7月23日開幕した第32回夏季五輪東京大会は、8月8日17日間の熱戦の幕を閉を下した。史上初の1年延期とコロナ禍で、しかも緊急事態宣言の中、大半の会場が無観客での開催である。
まさに、異例ずくめゆえ、批判と混乱の中での開催である。しかも、開催直前までトラブルの連続であった。

盗作疑惑のエンブレム撤回。大会組織委員会の森会長発言。開閉会式の演出担当者の女性差別的プラン。音楽担当者のいじめ問題。ディレクターの「ユダヤ人大量惨殺ごっこ」など、開幕直前まで不祥事が相次ぎ、加えて大会開催により新型コロナ感染者が更に拡大するのではないかとの不安。果して本当に開催出来るのか。そんな中で開幕した。

翌日のメディアは、盛り上がらない、単調な開会式と報じた。しかし、私から言わせるとこれが、もし逆であって、大いに盛り上がった開会式であったら、おそらくメディアはコロナ禍の中、お祭り騒ぎとは、と批判したと思う。
どちらに転んでもメディアはそんなもんである。私は、現下の情勢を考えると、開会式は日本らしく良かったと思う。
そして、世界から、200を超える国・地域から1万1千人の選手の参加を得て17日間の熱戦が始まった。どの新聞も一面は日本人の活躍を含め、五輪関係の内容であった。テレビニュースも最初の報道は五輪であった。コロナはその次である。

コロナが吹き飛んだとまでは言わないが、開幕前の批判の声は何処にいったのか、と思う位五輪一色である。
テレビにしても、朝から晩まで、どのチャンネルを回しても五輪番組である。県勢は8競技14人が出場した。開会式では、八村選手が旗手を務めた。これは、2004年アテネ五輪で日本選手団総監督、2008年北京五輪で日本選手団団長を務めた福田富昭氏{滑川市出身}以来の快挙である。そして、競技結果は、柔道混合団体で向選手が銀、スケートボート女子ストリートで中山選手が銅メダルに輝いた。

日本は、連日のメダルラッシュで金27、銀14、銅17、計58個のメダルを獲得した。金では、米国、中国に次いでの数である。
確かに追加種目の「純増」も日本が希望して入れた、野球、ソフトボール、空手、スケートボードでメダルを上積みしたことも大きかったと思うが率直にこの結果に拍手を贈りたい。今後この記録は中々破られないと思う。
また、リオ五輪でもそうであったが入賞した選手はインタビューで異口同音に、親へ、監督へ、コーチへ、関係者へ、そして声援を送った人々への感謝の言葉。「忘己利他」つまり他者への思いやり。これこそが日本人の特筆すべき点である。
参加した全員が、いや、全世界の人々がこの様な心を持てば戦争も起こらないと思うし、是非とも教育の場でこのようなことを教えてもらいたいものである。

とに角、開催まで紆余曲折はあったが、逆境を乗り越えた選手たちの雄姿は人々の心を揺さぶった。勝者の涙、敗者の涙、そこに繰り広げられた数々のシーンから、多くの感動と勇気をもらった。
特に、日本人が1位の表彰台での、国歌君が代の演奏、国旗日の丸の掲揚の時には、日頃国歌、国旗に無関心の人でも、胸が熱くなったと思う。これがスポーツの持つ力であろう。
また、大会終了後の世論調査では、五輪開催を「よかった」「どちらかといえばよかった」が61%、「すべきでなかった」「どちらかといえばすべきでなかつた」が38%である。

私は、無観客は残念であったが、やって良かったの一人である。
とに角夏季大会は終った。終った途端に新聞では「祭りの後、問題山積」赤字は誰が負担するか、などの活字が踊る。
しかし、夏季大会とパラリンピックは表裏一体のもので、評価、総括はパラリンピック終了後、行うべきものである。ましてや、赤字は誰が負担するかなどは、1年延期になったことでの経費やコロナ対策としての費用など、まだわからぬ中でこの見出しである。
いずれにしても、長野五輪の時のように、会計帳簿が破棄されることのないように、きっちりとした検証、総括は必要である。また、24日からパラリンピックが始まる。県勢は3人出場するがご健闘をお祈りしたいと思います。

そして、誰も経験したことがない環境の中での開催だが、夏季大会での教訓をパラリンピックに生かすべきであろう。
さて、五輪が終わるとともに、全国高校野球選手権、夏の甲子園大会が人数制限があるものの2年ぶりに開幕した。私は、高校野球と五輪はどこか共通点があるように思う。
勝者と敗者の涙.高校野球では、勝者の栄誉を讃え校歌が流れ、五輪では国歌の演奏と国旗の掲揚がある。何と言ってもアスリートのひたむきな姿勢から伝わる感動である。
それが、スポーツの持つ魅力であり不思議な力である。

いずれにしても、パラリンピック成功の為にも、新型コロナ対策にしても政府は、もっと明確な発信が必要であり、国民も緊急事態宣言が出されていても、都内では、繁華街や主要な駅の人の流れは大きく減っていない現状を良く認識し、危機感を共用すべきだと思う。

尚、滑川市博物館{滑川市開676。電話076-474-9200}で滑川スポーツ史なめりかわ・スポーツの輝き、と題し、滑川市民のオリンピック出場や滑川高校の甲子園出場記録・大相撲立浪部屋を作り、横綱・双葉山や羽黒山を育てた横道出身・緑島友之助の企画展が7月22日~9月5日まで開催されています。入場無料。

写真は、企画展のポスター
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新湊内川周辺ツアー

たたまれて いても涼しき 日傘かな  福井三治

天いつぱい青空が広がる中、30度を超す真夏日、射水市新湊の内川周辺と遊覧船のツアーに友人4人と参加した。
このツアーは新型コロナで県外旅行が出来ない県民をターゲットに企画されたもので、「県民割引キャンペーン・地元で遊ぼう県内周遊日帰りツアー」と銘打ち、今回の企画は、自己負担金7千円、県・助成金5千円、富山おみやげクーポン券2千円付である。
この制度を活用し、地元の女性3人がユニットを組み、ツアーズ・ジャパン射水オフィスが企画した。

1人はそろばん塾「木谷総合学園」副学園長・木谷泰子さんと貸衣装店「おきがえ処・内川KIPPO」のオーナー川口貴巳さんと旅行業「紅コーポレーション」代表・紅粉広恵さんである。紅粉さんとは旧知の中で、友人と共に参加した。この紅粉さんがユニット「美心{びじん}三姉妹」として参加者をもてなすものである。今回は我々5人だけのツアーであった。

我々は車で新湊へ向かい、11時30分民宿施設、内川の家「奈呉」で昼食である。
この建物は、かって廻船問屋として栄え、築100年以上の古民家で、以前新湊市長を務めた渡辺氏の邸宅を改装したものである。宿泊ルームとコミュニティレンタルスペースがあり、昼食はレンタルスペースで、フランス料理であった。シェフはホテル新湊第一インから派遣され、食材は氷見牛など、地元産をふんだんに使い、古民家、日本庭園、フランス料理、違和感もなく大変美味しかった。

昼食後、電気自動三輪車「べいぐるん」で市内の観光スポットを車から眺め、最初に訪れたのは、木谷さんが経営する「我楽堂」内川店である。
木谷さんの説明で店内を案内して頂いた。建物に入って直ぐに眼に飛び込んだのは、清水寺・森清範貫主揮毫の縦書きの「そろばん資料館」の額である。館内には清水寺で貫主との記念写真や礼状を額入りに表装したものなど展示してあり、貫主との縁についての説明を聞き、不思議な思いにとらわれた。
しかも、私は、木谷さんとは初対面であったが、木谷さんは私を知っているとのことで驚いた。

それにしても、木谷さんの一代記を聞きながら、書や絵画に親しみ、自らアコーディオンを演奏して我々と合唱するなど、多彩な趣味の持ち主であることと旺盛なる好奇心には感心した。これが若さを保つ秘訣かと思う。

1階は主にコレクションでしたが、2階は資料館であった。江戸時代の測量家、石黒信由と伊能忠敬やそろばんの歴史。また乃木希典や東郷平八郎の扁額など興味深い品々が多数展示してあった。
特に、木谷さんの口から度々両親と祖父母への感謝と恩の言葉が発せられたのが印象的だった。帰り際にご本人の著書・「喪{うしな}われていく「母」の物語」を頂いた。

次いで、貸衣装店「おきがえ処・内川KIPPO」で抹茶を頂きながら小休憩。休憩中に若い女性が二人来て、涼しそうな浴衣に着替えて颯爽と街へ出かけて行った。1日のレンタル料金は着付け代含め2千円とのこと。

次いで、川の駅新湊から観光船に乗船。富山湾とつながる内川の両岸には漁船が係留され、ほとりには風情ある民家が軒を連ねていた。
内川は川の流れが判らないくらい穏やかで それ故、ほとんど船の揺れを感じなかった。しかし、富山湾に出たとたん波は高く、アップ・ダウンが激しかった。それも海王丸パークのある新港内に入ると、波は穏やかであった。

約50分程のクルージングであった。午後の僅かな時間で新湊全部どころか、内川全体も見ることは出来ない。もう一度機会を作り行きたいと思う。それにしても、元気な「美心三姉妹」の町おこしに寄せる情熱にはエールを送りたい。この様な方々がもう少し増えたなら、街は、もっともっと活性化していくと思う。やはり町つくりは一人では出来ない。住民一人一人がこの街を良くしよう、との思いが一つになって始めて良くなるだろう。

改めて町つくりについて、考える機会になった。木谷さんには休館中にもかかわらず開館して頂いたり、勇気、元気を与えて頂いたり感謝申し上げたい。

詳細は、ツアーズジャパン射水オフィス。電話0766-75-4268。
写真は、「奈呉」パンフレットより、「べいぐるん」と「遊覧船から新湊大橋と左、紅粉さん」

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