新しき 朝の光の さしそむる
あれ野にひびけ 長崎の鐘 永井隆
8月6日広島に、9日長崎に米軍による原爆投下から、79年となる「原爆の日」を迎えた。
日本の総人口の8割以上が戦後生まれとなり、戦争や原爆の悲惨さを語れる人が年々減少し、悲劇の記憶が遠のきつつあることは残念である。
1945年8月6日午前1時45分{日本時間}B29爆撃機エノラ・ゲイは濃縮ウラン型原子爆弾「リトルボーイ」を搭載し、西太平洋マリアナ諸島・テニアン島の飛行場を離陸した.機長だった、ポール・ティベック氏の自伝によれば、第一目標は広島だったが、この時点では決定していなかった。
有視界での爆弾投下が命令で、3機の天候観測機がエノラ・ゲイに先行。広島、小倉、長崎に飛んでいた。午前7時半、広島上空の天候観測機から「雲量はどの高度でも3割以下」と連絡が入った。「目標は広島」ティベック機長が乗組員に伝えた。午前8時15分、世界で初の原子爆弾が広島に投下され,街は一瞬で廃墟と化し、14万人が犠牲になった
8月6日広島での「平和記念式典」の中で、こどもを代表して、小学6年生の児童2名が「平和への誓い」を朗読した。その中の一部であるが、「・・中略・・今なお、世界では戦争が続いています・・中略・・本当にこのままでよいのでしょうか。願うだけでは、平和はおとずれません・・中略・・家族や友達と平和の尊さや命の重みについて語りあいましょう。世界を変える平和への一歩を今、踏み出します。」この誓いの言葉には胸を打たれた。
そして、8月9日長崎である。2発目の原爆を投下するためB29爆撃機「ボックスカー」がテニアンを飛び立った。積み込まれたのはリトルボーイの1,5倍の威力があるプルトニウム型爆弾「ファツトマン」である。第一の目標の小倉は視界不良などで断念。午前11時02分、第二の目標だった長崎に投下され7万人の命を奪った。歴史に「もし」はないと知りつつも「もし」長崎も視界不良だったらと思ったりする。
米国は1942年原爆を開発する「マンハッタン計画」を始める。これを主導し「原爆の父」として知られる、理論的理学者オッペンハイマーを主役にした映画が昨年7月米国で、また、日本でも公開され話題を呼んだ。
彼はその後、原爆の開発を後悔し「我は死なり、世界の破壊者なり」と言い、水爆の開発にも反対したという。
私は、1978年{昭和53年}1月富山県洋上セミナーで、グアム・サイパンを訪れた折、飛行機は住民の生活物資の積み下ろしのためテニアン空港に着陸した。当時の空港の滑走路は未舗装で、着陸時には砂塵濛々としたのを記憶している。離陸まで約1時間程あり,機外に出るのが自由で、ターミナルを見学に行った。そして、この滑走路から、広島へ、長崎へと原爆を搭載したB29爆撃機が飛び立ったことに思いを馳せ複雑な気持ちになったことを覚えている。
ロシアの文豪トルストイは、、日露戦争当時の明治37年{1904}6月、ロンドンタイムズに寄稿し、「日本は殺生をしない仏教国である。ロシアは人類皆兄弟であり、人間は愛である」と説くキリスト教である。その国がなぜ戦うのか。戦争は止めるべきと寄稿した。ロシアとウクライナにも言えることである。
また、かって京都大学教授であり、優れた国際政治学者であった高坂正堯氏{1934-1996}が、人間にとって戦争は「おそらく不治の病であるかもしれない」と的確に洞察され、一方で「我々はそれを治療するために努力し続けなくてはならない」とも述べて「我々は懐疑的にならざるを得ないか、絶望してはならない。それは医師と外交官と、そして人間の務めなのである」著書「国際政治・恐怖と希望」より。
しかし、現実は厳しい。国連安保理常任理事国であるロシアがウクライナに一方的に侵略し、核の使用をちらつかせ、拒否権を発動する。北朝鮮の行為にも国連は機能不全に陥っている。戦争とは、その国の最高責任者が決断し、その犠牲者はいつも何の罪もない弱者である。
太平洋戦争での日本人犠牲者しかり、ウクライナやイスラエル・ガザ地区の犠牲者を見ても一目瞭然である。私は、広島平和記念公園内の資料館や原爆ドーム、また、長崎では北村西望作の巨大な「平和の像」や浦上天主堂を訪ねた時を思い出す。やはり戦争はしてはならない。広島での、こども代表の「平和への誓い」を噛み締めるべきと思う。
最後に、昭和20年8月9日、長崎の爆心地に近い医科大学で被爆しながら治療に当たった、医師の永井隆博士が、原爆で妻を失うなどの事実から、昭和24年出来上がった歌が、サトウ・ハチロー作詞、古関裕而作曲「長崎の鐘」である。この曲がヒットした2年後、昭和26年永井隆博士は43歳で亡くなった。博士がこの曲を聴いたのち詠んだのが、冒頭記した1首です。
改めてここに記します。
新しき 朝の光の さしそむる
あれ野にひびけ 長崎の鐘 永井隆
写真は、8月6日、広島での平和記念式典{北日本新聞より}