なかや一博 ブログ

年別アーカイブ: 2015年

第49回富山県医薬品配置業者大会に出席して

猛暑が一段落し、秋の訪れを感じるようになりました。
田を見渡せば「こしひかり」の稲穂が頭を垂れ始め、実りの秋が近いことを気付かせてくれます。そんな季節の中、第49回富山県医薬品配置業者大会が8月18日県総合福祉会館、福祉ホールで約200人出席のもと開催されました。

第1回は昭和41年です。この頃、県内での配置従事者数は約1万人でした。今年、6月発表された県内の配置従事者数は860人です。全国では約2万人ですが、従事者数の多いのは、北海道1190人、愛知県925人、次いで、富山県が前年と同じ3位です。正に今昔の感ひとしおのものを感じます。

8月に入り、全国配置薬協会(塩井保彦会長)が会員を対象にした実態調査結果が発表になりました。それによると、顧客数に当たる「得意先軒数」は約2100万世帯と推計。複数の業者が同一世帯に薬箱を置いている「重ね置き」や事業所などの利用を差し引くと、得意先は推計約840万世帯で、全国約5500万世帯に対する普及率は12~15%で業界全体の売上高は非加盟を含むと、約2100億円といいます。

この数字をどうみるか?それは各人様々であろうが、ドラックストアの進出や薬のネット販売解禁など、業界は厳しい状況の中ではあるが、今なお、多くの人たちに利用されていることを示す数字と思います。
その理由は、今日まで300年間、先用後利、の精神のもと、一軒一軒家庭を訪問し「自らの健康は自らが守る」というセルフメディケーション推進の担い手として、顧客に健康情報を提供し、且つ家族の健康管理のヘルスコンサルタントとして健康の維持、増進に大きな役割を果たしてきたからだと思います。この役割は単に金額や数字で示せるものでなく、配置薬業の持つ大きな付加価値の一つであると思います。

折しも、平成27年度の国家予算は96兆3420億円で、この中で社会保障費は31兆5297億円、32、7%の比率です。これに対し、公共事業費6,2%,文教、科学振興費5,6%、防衛費5,2%、です。
社会保障費がいかに大きいか。加えて国の借金が1000兆円を超す現状から国は、医療介護、年金の分野にメスを入れ出しました。

そんな中、最近「未病」という言葉を良く耳にするようになりました。
未病とは、病気でないけれども健康ともいえないことです。つまり、健康な状態から病気になるまでの中間ということです。地域の人々が健康な生活を送るためには、病気が自覚できる状態になる前の未病の段階から積極的に予防することが大切なのです。

現在、地域医療を担っている人々の中で、この予防分野を担うことができるのは誰か?
私は、配置販売従事者だと思います。
なぜなら、配置業者は医薬品や医薬部外品はもちろん、栄養機能食品やサプリメントといつた予防に役立つ製品を取り扱っているからです。
しかも、一軒一軒訪問し、家庭の中に入って顧客の年齢や状態をコミニユケーション通じ充分把握できる立場にいるわけです。ゆえに、予防分野において地域医療の一員となり、地域に貢献できる職種であると思います。
医師は病院に来る人にしか情報提供することができません。

配置業の持つ特性を生かし、未病の分野こそ配置が担当し、生活習慣病といわれる、糖尿病やメタボリックシンドロームなどにも配置業者のアドバイスが期待されるのではないだろうか。

理想を言えば、予防段階でのアドバイスや軽症・中等症のプライマリ・ケアは、置き薬や薬局・ドラックストアが担い、診療所や病院には重症患者や急患の治療に専念できるような体制が望ましいと思います。
いずれにしても、配置薬業は健在であり、配置の特性を生かせばまだまだ発展の余地がある職業だと思います。  
(*未病に関しては置き薬ハンドブックより一部引用。)

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       <第49回富山県医薬品配置業者大会の会場の様子>



7月12日、談山(たんざん)神社へ

7月12日(日)早朝甥っ子の運転で奈良県桜井市の談山(たんざん)神社(ご祭神、藤原鎌足公)へ。神社由緒によれば、飛鳥法興寺で行われた蹴鞠会において出会った中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌子(後の藤原鎌足)が藤の花の盛りの頃、当社本殿裏山で極秘の談合をされました。『多武峰縁起』によれば、「中大兄皇子、中臣鎌足連に言って曰く。鞍作 蘇我入鹿 の暴逆をいかにせん、願わくば奇策を陳べよと。中臣連、皇子を蒋(ひき)いて、城東の倉橋山の峰に登り藤花の下に揆乱反正の謀り談ず」と記されています。

この談合により、皇極天皇4年(645年)飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿を討ち、中央統一国家及び文治政治の完成という歴史的偉業を成し遂げられました。多武峰はその後、談峰、談い山・談所の森と呼ばれるようになり「大化改新談合の地」の伝承が残りました。現在の社号の「談合神社」もここからきています。

天智天皇8年(669年)10月、鎌足公の病が重いと知った天皇は、自ら病床を見舞い後日、大織冠内大臣という人臣の最高位を授けられ、藤原の姓を与えました。藤原氏はここから始まります。鎌足公の死後お墓は摂津の国安威山(現在の高槻市)に造られましたが、白鳳7年(678年)唐より帰国した長男、定慧和尚が、鎌足公の遺骨の一部を多武峰山頂に改葬し十三重塔と講堂を建立して明楽寺と称しました。さらに、大化元年(701年)方三丈の神殿を建て鎌足公の御神像を安置しました。これが、談山神社の始まりです。
以上が神社由緒のあらましですが、私達は、時々(談合)と言う言葉を耳にします。
しかし、それはこれに由来するとは正直知りませんでした。

多分、歴史上最初の談合の最たる事件であろうと思います。参考まで、辞書によれば「談=かたる。談話。談笑。相談。」、「合う=集まって一つになる。」
又、室町時代・享禄5年(1532年)再建された十三重塔(重要文化財)は十三重塔としては世界唯一の木造建築で実に見応えのある素晴らしい塔でした。次に、同じく桜井市内にある聖林寺を訪ねました。
寺の創建は古く、奈良時代・和銅5年(712年)談山明楽寺の別院として藤原鎌足の息子定慧が建てたとされています。特に、国宝十一面観音菩薩が有名で天平時代(760年代)の作と言われ、均整のとれた仏身、豊満な顔立ち、量感ある上半身、微妙な変化を見せる指先等、ミロのビィーナスとも比較される仏像彫刻の優作でした。それにしても、無財の七施の一つに眼施があります。正に、観音菩薩を含め、仏様の眼差しを見ていると、どこか、心が癒される思いがいたします。中々見ることが出来ない所を駆け足でしたが充実した半日でした。

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<談合したといわれる所と世界唯一の木造十三重塔(重要文化財)談山神社>



第48回関西滑川会総会に出席して

7月11日(土)大阪弁天町のホテル大阪ベイタワーで51名参加のもと、盛会に開催されました。私は滑川高校同窓会長として澤井校長とともに出席しました。
総会において、2期4年会長を務められた畑岸隆一氏が退任され、新たに千先久矩氏が就任されました。畑岸氏の労に感謝し、千先氏のご活躍に期待するものです。
それにしても、誰にも生まれ育った故郷があり、人それぞれ、心の拠り所として生きているものと思います。「故郷は遠くにありて想うもの」との言葉がありますが、いつも故郷のことを気にかけ、故郷の発展を願っている方々がおられることは、本当に嬉しく有難いことです。そんな思いの結集が総会であり、懇親会であったと思います。

かつて、戦前の滑川町は人口2万人ほどの小さな町でした。そこに、県立高校が3校ありました。滑川女学校、滑川商業学校、滑川水産学校、これに、町立薬業学校です。
近隣の市町村と比較しても、これだけ多くの学校があったとは驚きであり、先人の教育にかけた情熱が伝わってくるように思われます。
しかし、現在は滑川高校1校だけになりました。私は、挨拶の中で、関西滑川会の構成は必ずしも滑川高校卒業者とは限らないけれども、故郷を離れた人々には、市内で唯1校の滑川高校が皆さんの母校と思い、これからも変わらぬご支援をお願いしました。

さて、当日、早朝富山を出て総会前にあべのハルカス美術館で開催されている『昔も今も、こんぴらさん 金毘羅宮のたからもの』と題し、全国各地から奉納された物の中から逸品が展示されていました。特に圧巻だったのは、円山応挙の雅松丹頂図、芦丹頂図、遊虎図東面、北面右、北面左、西面。竹林七賢人図、東面、北面等の襖それに、伊藤若冲の花丸図の襖や 油絵の高橋由一の作品8点もすばらしかったです。

総会終了後、天王寺で神戸在住のある青年に会いました。彼は同志社大学を出て京都銀行に10年勤務。昨年3月退職。父の配置薬業に従事するため4月、新規薬業従事者講習に神戸から富山へやってきた時が出会いでありました。久し振りに会って薬業の感想を聞いてみたところ、以外にも第一声がこれ程面白い仕事は無い。彼曰く銀行員では味わう事の出来ない、人と人との触れ合いのなかから生まれる人間の情を感じる素晴らしい職業だと、いきいきと語ってくれました。
業界には難問が山積しています。幕末の志士、高杉晋作の辞世の歌は「おもしろき、事もなき世を、おもしろく、棲みなすものは、心なりけり」と言われています。
つまり、心の持ちようによってはいかようにも変える事ができる。ということと思います
久し振りに、前向きな話しに花が咲き、爽やかな気持ちで別れ、この夜は京都の姉の家で一泊しました。

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<第48回関西滑川会総会にて 挨拶する私>



京都、清水寺貫主 森清範氏をお迎えして

6月7日(土)第20回市民文化講演会が滑川市民大ホールにおいて、午後3時30分より、森清範氏を講師に迎え演題『施しのこころ』と題し、開催されました。
これは滑川音羽の会(会長、不肖、私)が主催し、滑川市、北日本新聞社等の後援により今年が20回の節目の年となりました。

主催の会の名の通り、清水寺貫主森清範氏を招いての講演会であり今回で20年連続講師を務めて頂いています。森貫主によれば、20年連続同一地に行って講演することはまずないことだそうです。本当に有難いことです。
実は、森貫主とのご縁は、浜四ツ屋の元市議会議長石倉宗一氏との出会いが最初であります。氏は当時NHK早朝4時からのラジオ深夜宅急便「こころの時代」で森貫主の講演放送を聞き感動され、招聘されたのが第1回でありました。このご縁ともう1つ清水寺と滑川との切っても切れない縁が 滑川の民話【孝徳泉】です。

【孝徳泉】 (昭和61年12月10日 滑川市教育委員会発行 滑川の昔話より)
今から、約400年程前、美作(今の岡山県)に了安という人がいました。その奥さんが亡くなり、14歳の子供安正を連れて、ほうぼうのお寺にお経を納める旅にでました。
滑川にやって来たころにはとっぷり日が暮れたので、尾張屋という宿を見つけて、泊りました。 ところがその晩、了安は旅の疲れがでたのでじょうか、重い病気にかかり、起き上がることができなくなりました。子供の安正は、一心に看病しましたが、ますます重くなるばかりでした。高い熱にうなされながら了安は、「わしは、このままでは治る見込みがないだろう。せめて死ぬ前に京都の清水寺の音羽の滝の水がのみたい。」と、言いました。
その言葉を聞いた親思いの安正は「お父さん、私は今から音羽の滝の水をくみに行ってきます。それまでどうか元気をだして生きていてください。」といい、宿の主人に父を頼み、夜も寝ないで京都へ急ぎました。
京都に着いた安正は、さっそく清水寺の観音様に「どうか、父の病気をなおしてください。」と、一心にお祈りし、冷たい清水をくみとりました。父が生きていてくれることを祈りながら、安正は、大急ぎで滑川にもどりました。
しかし、安正はの願いもむなしく、父の了安はすでになくなっていました。安正は、父の墓にすがり涙のかれるほど泣きました。余りの悲しさと、長い旅の疲れが一度に出て、安正はその場にたおれてしまいました。
すると、安正の夢枕に、音羽の観音様が立たれ、「安正や、父の死はさぞ悲しかろう。しかし、やがてはあの世で会えるのだ。父があれほど待っていた音羽の滝の水だ。とっぷりと父の墓にかけてやりなさい。」と、お告げになりました。
われにかえった安正は、すっくと立ち「お父さん、音羽の清水だよ。さあ、腹いっぱいのんでくだされ。」と言いながらそそぎますと、不思議なことに墓のよこから清水がこんこんとわき出てきました。「お父さーん。」とよびかけると、いずみの底に父、了安の笑顔が写っていました。
人々は、きっとあの観音様が、安正の親思いの心をほめてわきださせてくださったに違いないと思いました。
それからのち、天保14年{1843}滑川町の五郎べえさんが、この清水をわかしお風呂を開きました。【孝徳泉】と名付けられたこのお風呂は、病気に良くきくと評判になり遠くの村からもたくさんの人が入りにきたと言うことです。

こんな縁もあり、森貫主さんがわざわざ20回も滑川にお出でになるのだろうと思います。
尚、了安の墓と言われる高さ60cm程のものが現在も厚生連滑川病院の中庭に自噴する泉があり、その横にあります。そこで、森貫主の手により京都から持参される音羽の滝の清水をかけ毎年供養の読経が唱えられています。
 
今回は、20回記念として、次の事業を行いました。
① 滑川市にふさわしい漢字一文字を募集し、選ばれた一字を森貫主に揮ごう頂き市へ寄贈する。(縦130㎝ 横120㎝)結果は、【蛍】でした。理由は、滑川市はほたるいかであり、ホタルの光を標榜している。とのことでした。
② 選ばれた方々に貫主直筆の色紙贈呈
③ 当日の来場者から抽選で貫主の著書(こころの幸)2015年2月28日第1刷発行
を10名様に贈呈。
④ 毎年12月12日漢字の日に、清水寺本堂で森貫主が揮ごうされる漢字一文字(公益財団法人 日本漢字能力検定協会所有)を第1回平成7年「震」から第20回平成26年「税」まで20点を会場で一堂に展示。講演会終了後、市博物館で6月9日(火)~15日(日)まで入場無料で展示。

以上

今回は、大西英玄執事補の前講に続き、森貫主から『施しのこころ』無財の布施と題し、ご講演を頂きました。
当日の来場者は約600人程でしたが、多くの方々に感動を与え、今後の人生の指針となる有意義なお話でした。また、会場に展示された20点の漢字一文字は圧巻でした。
 
さて、今年の清水寺は大きな行事が目白押しです。
① 清水中興の祖と言われる大西良慶和上が法相宗管長・奈良興福寺住職から清水寺住職を兼務して普山された大正3年{1914}の翌年、良慶和上が清水普門会、音羽婦人会を組織。盂蘭盆法話を暁天に開講。毎年8月1日―5日恒例とする。今年が記念すべき
100回を迎えます。一口に100回と言うのは簡単ですがなかなか続くものではないと思います。実は私も一昨年第98回暁天法話に講師として声を掛けて頂き8月3日
朝6時~7時まで(縁)と題し1時間話をさせていただきました。
② 大西良慶和上が昭和40年法相宗・興福寺より独立し、北法相宗・清水寺として立宗
今年で50年。
③ 大西良慶和上が昭和58年2月15日涅槃の日に数え109歳で示寂。今年が33回忌
④ 清水寺平成縁起絵巻、箱崎睦昌画伯筆、完成。10年の歳月かけ全9巻、{全長65mに及ぶ清水寺1200年の歴史絵巻物} これを記念して4月25日から5月13日まで清水寺成就院で特別公開されました。全国に1000年をこえる歴史を有する神社・仏閣・数あるけれど1200年の歴史絵巻物を持っているのは、多分清水寺だけでなかろうか、と思います。

数え上げればきりがありませんが、宝亀9年(778年)奈良・子島寺の賢心「延鎮」夢告により音羽の滝を訪ね、錬行中の行叡居士から霊木を授けられ、観音像を彫作、滝上の居士の旧草庵に奉祀し清水寺を開基。幾多の変遷へて、近年に入り、昭和27年(1952年)本堂が国宝に指定。平成6年(1994年)世界文化遺産に登録される。

最後に、清水寺中興の祖と言われる大西良慶和上は昭和51年(1976年)山下頼充氏夫妻の5っ子の名付け親として有名ですが、滑川にも度々お出でになり色紙や扁額も残っています。和上が滑川で詠んだ漢詩・七言絶句と6月7日森貫主が吟じた短歌を掲載します。

  我挿風残
大 亦苗吹雪 滑
西 欲未新連 川
良 耕了樹峰 行
慶 大忙景有
選 福人光別
集 田馬鮮天
第 
三 我挿風残
巻 も苗新雪
昭 まい樹の
和 たまに連
六 大だ吹峰
十 福了き別
年 田ら景天
刊 をず光あ
  耕人鮮り
  さ馬や
  んをか
  と忙な
  欲がり
  すす

  慈 孝 
  水縁徳
森 をにの
清 汲引 
範 みか
貫 てれ

・ 弥二
吟 栄十
  え年 
  まの
  せ

                
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(左:開会のあいさつをする私         右:森清範貫主の揮ごう「蛍」)

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(講演の森清範貫主)

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(会場に展示された第1回(平成7年)「震」~第20回(平成26年)「税」まで20枚)



友情を深めた国際交流

6月4日(木) 韓国、仁川海洋科学高校の朴進洪校長外5名の教職員、生徒3年生53名が姉妹校の滑川高校を訪れ両校の友情を深めました。
午前は、学校で全校生徒715名が拍手で迎え、歓迎式典が行われました。
私は、午後の部から同窓会長として招かれ出席しました。午後は、西地区コミニユテイーセンターで昼食会、交流会、記念撮影などが行われました。

海洋高校が2001年度仁川海洋科学高校と姉妹校提携を結び、航海実習の機会を利用し訪問し合ってきました。これが、高校再編の流れの中で海洋高校と滑川高校が統合、再スタートしたのを機に、2011年8月26日滑川高校が再締結し今日に至り、2年に1度相互訪問が行われています。
それにしても、交流会での両校生徒代表の挨拶は、滑川高校生徒代表は韓国語で、仁川海洋科学高校代表の挨拶は日本語であったのには驚きました。
特に、感心したのは両校の代表の挨拶に共通していたのは、交流で互いの国の歴史や文化や伝統を知り、将来、国際人としてパートナーになれるよう、互いに心を開き友情を固めていこう、と話り合っていたことであります。

21世紀の半ば、あと35年後、私は間違いなくこの世にいないでしょう。しかし、彼らは、まだ50代です。そう考えると、これからの日本や日韓の新しい歴史を築いてゆくのは彼らであり、21世紀は正に彼らの時代であると改めて思いました。
その後、滑川漁港にある滑川高校の実習船「かずみの」などを見学。笑顔で声を掛け合い記念写真を撮るなどしながら別れを惜みました。

彼らは、片道約50時間かけ仁川港を1200トンの実習船で6月3日富山新港に到着。
以後、すべて、船中泊とのことでした。

翌日は黒部峡谷、6日は立山アルペンル-トを楽しむそうです。
いずれにしても、両校の生徒にとって学生時代の良き思い出になったことでしょう。

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(挨拶する沢井滑川高校長)