なかや一博 ブログ

令和5年度同窓会入会式

2月29日{木}県立滑川高校同窓会入会式が行われた。本校の場合、卒業と同時に同窓会に入会し会員となる。
今年は181名の入会であったが、現在約3万7千人の会員を擁し県下でも最大規模を誇り、各界各層で活躍されていることは嬉しい限りである。

誰にでも生まれ育った「故郷」があるように、青春のひと時を過ごした「母校」がある。
中でも、青春の中心舞台は多感な学校生活であり、それを回顧する時、追憶の中から懐かしい想い出が去来し、哀歓彷彿として思い浮かび、堅い友情に結ばれた出会いと別れ、という青春の讃歌が鮮やかに蘇る。しかし、学生諸君には学生時代の思い出は残っても、同窓会への意識は稀薄である。

しからば、同窓会とは何だろう。それは、日頃同窓会に興味を示さない人でも、例えば、滑川高校野球部が甲子園出場を果たした時、多くの人々は素直にそれを喜び、友人、知人にそれを誇らしげに話す。
これが、卒業生であり、同窓会であり母校の存在だと私は思う。県外在住の富山県人が帰省し、青空に広がる立山連峰の雄姿を見た時、富山県人であることを再認識すると同時に、どこか元気,勇気が湧いてくる。それが故郷の存在なのだろう。

この様に、「故郷」や「母校」の存在は人それぞれの心の拠り処として、生き続けているものと思う。もう一点、私は、夢と志の違いを話した。

広辞苑によれば
夢・・・睡眠中に持つ幻覚。とある。つまり睡眠中に現実に起きていないことを起きているかのように思う錯覚である。
志・・・心のむかうところ。成し遂げようとする目標を心に決めること。

とある。

かって、札幌農学校のクラーク博士が離任する時、「少年よ大志を抱け」の言葉を残した。夢でなく、志である。「医学」を志す。「音楽」を志す。人生に目標を持つことの大切さを話しました。卒業後は社会人になる人。進学する人。
歩む道はそれぞれ違っても、彼らの洋々たる前途が輝かしい未来であることを祈念し、同窓会入会の歓迎の言葉としました。

写真は、私と、同窓会入会者代表の言葉。

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(2024/03/01)

文科省友人

平成15年より文科省から滑川市へ研修生として約3週間派遣されていた事業が20年を迎えた機会に、久しぶりにかっての研修生と2月14日再会した。
事業は東日本大震災とコロナで2回計3回派遣が中止になり、研修生は17名である。彼等が十数年前、文科省なかや会を結成し私が上京の折、時々懇談の機会を持っていた。

平成30年秋の叙勲の際も上京の折、色紙に全員がサインをして記念品を頂いた。感激の極みである。彼等は30歳前後から都道府県等に文科省から出向する。その為、現在本省にいるのは10人位であるが、出向中のメンバーで、例えば現在ある県の教育長やユネスコ日本政府代表部一等書記官としてパリに赴任している人,或は、都道府県の教育委員会に出向中の人などいることから、当日出席したのは私を含め8人であった。メンバーで滑川市へ研修生で来たときは25歳であったのが今や45歳で既に本省の課長の人もいる。

最年少は昨年滑川市に来た25歳の人である。彼等は文科省関係の様々な分野で頑張っており、そんな人々と接する機会があることは私自身も刺激になるし嬉しくも思う。彼等の近況を聞きながら、私はささやかな人生の先輩として話すことは「国家公務員の矜持とは」を問いかける。
かって遣隋使や遣唐使として身命を賭して荒海を渡り、大陸に上陸しても、そこから長安まで数か月かけ、律令制度を含め様々なことを学び、日本に持ち帰る。無事帰国できたのは、渡航した人数の約3分の一との数字もある。

危険を冒してまで渡航に駆り立てるのは何か。この心意気、志が今の国家公務員に欠けている。と、やんわりと指摘する。余り偉そうなことを言うと、場がしらけるのでほどほどで止めるが、彼等がこれからの文部行政を荷っていくことを思うと、やはりエールを送り激励した。
10周年と同様今回は、20年ということもあり,主催・文科省なかや会と書いた横断幕を掲げての懇談会であった。また、当日は欠席でしたが、出向先から会場にワインを差し入れてくれるメンバーもいるなど、有難いことである。6時30分から9時30分まで3時間あっという間であった。

途中ハプニングで別室で会議に出席していた県内選出国会議員が私の姿を見て挨拶に近寄ってきてどんなメンバーかと尋ねるので、事情を説明すると慌てて名刺を取り出すので、文科省のメンバーも全員起立し名刺交換を行った。
5分位のち別の国会議員がくる。また5分位後に別の国会議員がき来て同様の風景が3回展開され、その都度私は彼等を紹介する役であった。3人の国会議員は選挙区の人との懇談会であったと言う。

いづれにしても,彼等とは、和やかな雰囲気での懇談会であったが、今後の活躍を祈り、再会を約し散会した。

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(2024/02/17)

中尊寺金色堂

五月雨の 降のこしてや 光堂  芭蕉

わが家の小さな裏庭に春を告げる「フキノトウ」が芽吹き始めた。
2月14日~15日、全弓連理事会出席で上京した。その折、東京国立博物館本館で開催されている国宝・中尊寺金色堂特別展{1・23~4,14}を鑑賞した。
金色堂は誰もが一度は訪れたことがある所で、私も過去三度金色堂を含め周辺を見学した。今回は、藤原清衡公{1056~1128}よって建立され、東北地方現存最古の建造物で、天治元年{1124}の上棟から、今年が900年になるのを記念して開催された。

特に、今回は堂内中央の須弥壇に安置されている国宝の仏像11体が一堂に展示されたほか、きらびやかな堂内荘厳具の数々も展示されていた。
また、会場内には、大型ディスプレイ8KCGの原寸大に再現された金色堂の内部が迫力ある映像で見ることが出来た。

さて、金色堂は中尊寺創建当初の姿を今に伝える建造物で、数ある堂塔の中でも取り分け意匠が凝らされ、極楽浄土の有様を具体的に表現しょうとした清衡公の切実な願いによって、往時の工芸技術が集約されたのが金色堂と言われる。
特に、内外に金箔の押された「皆金色」と称される御堂の内陣部分は、はるか南洋の海からシルクロードを渡ってもたらされた「夜光貝」を用いた螺鈿細工や象牙によって飾られているのには驚く。
須弥壇の中心の阿弥陀如来は両脇に勢至菩薩、観音菩薩、六体の地蔵菩薩、持国天、増長天を従え、他に例のない仏像構成で、全仏像が展示してあった。

この中尊寺を造営した初代藤原清衡公をはじめとして、宇治平等院を模した毛越寺を造営した二代基衡公、源義経を平泉に招き入れ、無量光院を造営した三代秀衡公、そして、四代泰衡公の亡骸は金色の棺に納められ、孔雀のあしらわれた須弥壇の中に今も安置されていると言う。

仏教美術の円熟期とも称される平安時代末期、東北地方の二度にわたる大きな戦い{前九年・後三年の役}で亡くなった生きとし生ける者の霊を敵味方なく慰め「みちのく」と言われ、辺境とされた東北地方に、仏国土{仏の教えによる平和な理想社会}を建設すると言うものだった。
その規模は、鎌倉幕府の公式記録「吾妻鏡」によると寺塔が四十、禅坊が三百に及んだと記されているという。平泉はおよそ百年近くにわたって繁栄し、「みちのく」は戦争のない「平泉の世紀」だった。しかし平家を倒した源義経が兄・頼朝と対立し平泉に落ちのびる。
だが、義経を保護した秀衡公が病死すると、四代泰衡公は頼朝の圧力に耐えかね義経を自害に追い込んだのはご存知の通りであるが、その泰衡公も頼朝に攻められ、文治5年{1189}奥州藤原氏は滅亡する。

その金色堂を風雪から守るため正応元年{1228}覆堂が作られる。その後、鎌倉時代以降、大きな庇護者を失った中尊寺は次第に衰退し、建武4年{1337}の火災で惜しいことに多くの堂塔、宝物を焼失する。
芭蕉が奥の細道紀行で訪ねた元禄2年{1689}頃は、かなり朽ち果てていたらしく、堂の四囲を板で囲んでいるだけだっらしいがそんな簡単な覆堂でも500年以上も風雨雪から守り続けた木造建築には驚かされる。まったくよく残ったもので多分芭蕉の句は、五月雨もここだけよけて降ったので、幸い光堂が残ったのかもしれない。と思って詠んだのかもしれない。

尚、現在の覆堂は、昭和38年{1963}の金色堂解体修理とともに建てられた。この地方に平和をもたらすべく建立した中尊寺の堂塔が古の栄華を今に伝え、その代表的な建物が金色堂であろう。平成23年{2011}に中尊寺を含む「平泉の文化遺産」が世界文化遺産に登録された。いずれにしても見ごたえのある企画展だった。

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(2024/02/16)

藤井聡太8冠対伊藤匠7段

昨年2023年10月11日、第71期将棋王座戦5番勝負第4局が京都で開催され、3勝1敗で勝利し、藤井聡太8冠が誕生した。21歳の若者が将棋のタイトルを総なめにした二ユースは、将棋界の枠を超えて日本中の注目を集めた。
ただ、全冠制覇という意味では、1996年当時の7冠を羽生善治9段も達成している。

ただし、藤井棋王の場合は特筆すべき点が2点ある。
①登場した19回のタイトル戦で一度も敗れることなく8冠を達成したこと。
②タイトル戦のみならず、4つの一般棋戦でも優勝、出場できる12の棋戦すべてを制していること。
完全制覇であり、まさに「藤井1強」である。

そんな8タイトルを独占する藤井聡太棋王{21歳}竜王、名人、王位、叡王、王座、王将、棋聖に初タイトルを狙う、伊藤匠7段{21歳}が挑戦する第49期棋王戦5番勝負第1局が2月4日{日}新川文化ホールで開催され、その大盤解説会に、へぼ将棋を自負する私も参加した。

立会人は森内俊之9段が務め、解説者は地元魚津市出身の村田顕弘6段{37歳}、富山市出身・服部慎一郎6段{24歳}同市出身・野原未蘭女流初段{20歳}の3人の富山県出身者が戦況を分かりやすく解説された。
対局は午前9時から文化ホール内、別室で始まり、大盤解説会は大ホールで、別室から中継する形で行われた。しかし、午前中は早いペースで進み、10時30分頃には、80手まで進んでいたという。

大盤解説会が始まる午後1時には1200名の座席はほぼ満席であった。しかし、解説が始まった時は、解説者の話では戦況は終盤の様相だという。だが、ここからが中々手数が進まない。ステージ上のスクリーンに映し出される対局室の風景には、藤井棋王が何度も身を前傾姿勢にし長考にふけるシーンが映り出される。

この時、入場時に貰った次の一手を記入し係に手渡す。伊藤匠7段の次の一手であったが、これは解説者2名がそれぞれの案をA案、B案、それ以外のc案の3案から1案を選び、正解者から抽選で藤井棋王の扇子、色紙、それに当日出席の各棋士の色紙計7点が2度プレゼントされた。私は2度挑戦したが次の一手は2度とも外れた。2名のプロ棋士の予想も2度とも外れたのは意外であった。

当選者の中には遠く静岡や東京からの人たちがいたことにも正直驚いた。藤井フアンの追っかけなのか、それとも純粋な将棋フアンなのか・・・・
1時解説が始まったが、2時頃には解説者がこのまま進めば、持将棋になるのでは。と発言しだした。結果は5時35分129手で予想通りタイトル戦では珍しい「持将棋」となった。

少し古い話で恐縮ですが、昭和40年代後半、私は宮城県塩釜市周辺を回商していた折、宿泊旅館の近くの地区公民館で「中原誠名人の集い」があり、会費はお菓子付きで300円で誰でも入場出来たので私も参加した。
その中で特に印象に残ったのは、会場の人からの質問コーナーで、小学生と思われる児童が,なん手位先を読むか、との問いに、序盤、中盤、終盤では違ってくるが、やはり中盤から終盤にかけてであり、約120手位を3通り、それを3回復唱するとの答弁には正直ビックリした。
この時は約120分の長考とのこと。また、次の一手の正解者に抽選で「中原誠の自然流」の本がプレゼントされた。永世十段を含め5つの永世の称号を持ち、通算1308勝は羽生、大山、谷川、加藤一二三に次いで、歴代5位。

大山康晴・永世名人を含め5つの永世の称号を持ち、タイトル獲得80期。この人とお会いしたのは、昭和57年黒部JC5周年記念の記念講演講師として黒部においでになった時で、中原誠の集いに、質問した児童と同じ様な質問をしたところ同様な答えであった。
ところが平成18年{2006}10月5日魚津第一インで開催された、羽生善治講演会で控室で彼とお会いした。現在彼は無冠の帝王であるが、日本将棋連盟会長である。ご存知の通り25歳で、当時のタイトルすべてを制覇し、7冠王{名人,竜王、王位、王座、棋王、王将、棋聖}でしかも、47歳で7大タイトル全ての永世資格を得て将棋界初の永世7冠を達成した。

現在でもタイトル獲得99期は1位であり、2位大山康晴80期、3位中原誠64期で羽生善治氏はダントツである。この記録を破るとすれば、やはり藤井聡太8冠であろう。

さて羽生善治さんとお会いした時、彼は36歳でまだ3冠を持っておられた。この時も同様な質問をしたところ意外な答えであった。彼は多少手数は読むが、最後は直感である。その直感が最も冴えるのが、10代半ばから20代半ばであり、以降直感が衰える分は、経験でそれをカバーするとの答えだった。事実彼は25歳で7冠を達成しているし、藤井聡太8冠の年齢を見ても納得できる様な気がする。しかし、その裏には、詰め将棋やコンピューター将棋など,たゆまぬ努力と研究、それに裏打ちされた直感であろうから、常人の及ばぬところである。それにしても始めての体験である大盤解説会であったが、大変よかった。

尚、いつも話題になる「将棋めし」は藤井棋王は魚津産ベニズワイガニを贅沢にのせた「スパイシーカレー」.伊藤7段は,バイ飯や氷見牛のローストなどが楽しめる松花堂弁当。また、午前と午後の2回のおやつは、藤井棋王が「いちご大福」。伊藤7段が「加積りんごのタルトタタン」午後は伊藤7段が「いちご大福」。藤井棋王は「加積りんごの果汁100%のジュース」などの飲み物であった。

そして、いつも思うことだが、藤井聡太さんと大谷翔平さんの、己の善を語らず,他者を批判しない。常に謙虚な姿勢には感心する。両親はどんな教育をされたのか。機会があれば是非ともお聞きしたいものである。
写真は、新川文化ホールステージ上の大盤解説会。対局風景。会場に飾られた藤井聡太8冠の色紙。大山康晴氏。羽生善治氏。

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(2024/02/05)

頑張れ能登! 能登は、やさしや 土までも

今年のお正月は、元旦は能登半島地震と輪島市の大規模火災。2日羽田空港滑走路上での日航機と海保飛行機の衝突炎上事故。3日北九州市小倉での35棟の火災。記憶にも、記録にも、歴史にも残る3か日であった。
特に、地震はM7,6、最大震度7を観測し、お屠蘇気分を吹き飛ばす大惨事となった。

富山県内でも広範囲に激しい揺れに見舞われ、震源地に近い氷見市を始め小矢部市、高岡市、射水市、富山市などでは1922年観測以来、県内で初めて震度5強を観測した。
特に、氷見市や小矢部市では多数の建物被害や全市域での断水、停電、インフラに大きな被害が出た。高岡、射水、富山市では、液状化現象が各所で発生で。富山市では富山城址公園横を流れる桜の名所松川辺りの車道や歩道に地割れや亀裂が走りったり、陥没で段差が生じたりした。能登地方の被害状況は連日のテレビ放送や新聞などで報道されているので、割愛するが胸の痛むのを覚える。
そこで私の思いを述べる。

インフラの復旧や復興は、国、県、市町村、多くのボランティア活動、また義援金等もある。阪神淡路大震災や東日本大震災も、お金とある程度の時間があれば復旧、復興が可能なことを示した。しかし、能登地方は珠洲市の高齢化率52%を始めとし、他の市町村も同様過疎地域である。2次避難所は広範囲であり、復興までそれなりの時間がかかる事を考えると、果たして人々は元に帰るだろうか。より過疎化が進むのではないか。それが心配であり、それを危惧する。
是非とも国、県、市町村は知恵を絞って頑張ってもらいたい。「能登は やさしや 土までも」の為にも。

その中で、明るい兆しも出てきている。輪島塗の漆器店の店主や能登の酒造りの蔵元も珠洲の七輪造りの職人も「伝統の灯」は消せない、との力強い言葉に感動した.。取りあえず、前述した伝統産業と日本三大朝市の輪島朝市の復興と温泉などの観光産業の復活そしてインフラ整備に全力を挙げるべきと思う。「頑張れ 能登!」

戦後、日本海側で発生した主な地震と大震災の一部を記す。
福井地震
 昭和23年{1948}6月28日、午後4時13分、M7,1 震度6
 死者約4000人。

新潟地震
 昭和39年{1964}6月16日、午後1時2分、M7,5 震度5
 液状化 昭和大橋落橋 信濃川で津波確認。

日本海中部地震
 昭和58年{1983}5月26日、午前11時59分、M7,7 震度5
 地震発生後8分で男鹿半島に津波到達。
 遠足に来ていた北秋田郡合川小学校の児童13名を含め津波で亡くなった人100人。
 峰浜村で津波の高さ14mを観測。

北海道南西沖・奥尻島地震 
 平成5年{1993}7月12日、午後10時17分 M7,8 震度6
 火災や津波で死者不明230人。

阪神淡路大震災
 平成7年{1995}1月17日、午前5時46分、M7,6
 国内初の震度7を記録。死者不明約6400人。

鳥取県西部地震
 平成12年{2000}10月6日、午後1時30分、M7,3 震度6弱
 液状化現象で港湾施設に大きな被害。

新潟県中越地震
 平成16年{2004}10月23日、午後5時56分、M6,8
 震源地に近い小千谷で約24㎝隆起。上越新幹線で脱線事故。
 1996年の震度改正以降、震度計で震度7が始めて観測された。死者56人。

能登半島地震
 平成19年{2007}3月25日、午前9時41分、M6,9、震度6強 
 總持寺祖院被害大。県内初の震度5弱を滑川市と高岡市で観測。

新潟県中越沖地震
 平成19年{2007}7月16日、午前10時13分、M6,8 震度6強
 死者15人。負傷者2345人、家屋全壊1319棟、
 家屋半壊5621棟、一部破損3万5千棟。

東日本大震災
 平成23年{2011}3月11日、午後2時46分、M9、最大震度7
 津波の潮位9,3m以上。Mは1900年以降、1952年のカムチャツカ地震と同じでM9、
 1960年のチリ地震M9,5が最大で世界で東日本大震災は4番目の巨大地震であった。 
 直接的被害は約16,9兆円、阪神淡路大震災の9,6兆円の1,7倍。
 戦後最大の自然災害。住宅被害は全半壊一部損壊約115万5千棟、死者不明2万人以上。

熊本地震
 平成28年{2016}4月14日、~16日、午後9時26分、M6,5
 本震16日、午前1時35分、M7,3、震度7。家屋の全壊約8300棟。
 家屋被害計約16万棟。死者55人。

令和6年能登半島地震
 令和6年{2024}1月1日、午後4時10分、M7,6
 震度7。県内では氷見市、小矢部市、高岡市、射水市、富山市などで震度
 強を県内で始めて観測された。滑川市や黒部市等で震度5弱を観測。
 尚、魚津市は震度4である。昨年、令和5年5月5日、、午後2時42分
 M6,5、珠洲市で最大震度6強が観測され、家屋被害も出た。
 これを令和5年奥能登地震と命名された。
 平成19年にも能登半島地震が発生していることから、今回は正式名として、令和6年能登半島地震と命名さされた。

飛越地震
 安政5年{1858}2月26日午前2時頃、推定震度6.立山、鳶山崩落。

さて、これを見ると戦後78年余の間に日本海側で発生した地震は9回である。つまり約9年に一度は震度5~7の地震が発生している。
これに地震が頻繁に発生している太平洋側を加えると、まさに日本列島は地震列島で、その上に住んでいる我々は何処に住んでいても地震から逃れることは出来ない。

いつどこで起こるかわからないことを認識すべきと思う。私自身、考えが甘かった点があった。能登でここ数年地震が多発していた。
しかし、かっての松代群発地震と同様何れ、収束すると思っていた。もう一つ富山湾では津波は発生しないと思っていた。これも違っていた。富岸運河では80㎝観測された。しかも、地震発生後、僅か5分位で到達したことや、山手に避難しょうとする車の大渋滞や、珠洲から輪島にかけて約80㎞の海岸が隆起するなど、まったく想定外の事ばかりであった。

この経験をやはり今後に生かさなければならない。また、国においては、地震や津波に関しては、太平洋側を中心に研究や調査などが行われてきたが、今後は日本海側も力を入れて、調査等行うべきと思う。災害は忘れぬうちにやってくる。

高杉晋作の辞世の詩に「面白き 事もなき世を面白く 棲みなすものは 心なりけり」
物事は ポジティブに 前向きに! 頑張れ能登!「能登はやさしや 土地までも」

地震の予知は難しいが、わが国で地震の観測が本格的に始まったのは明治18年{1885}で、それ以前の古い地震は歴史地震といわれ、日本書紀などの国書、貴族の日記,藩や寺社の記録、、幕府への訴状,個人の手紙などの記録を元に推定震度などを算出している。
日本で最初の地震記録は、日本書紀に允恭天皇5年{416}7月14日、とだけ記してあるが、天武天皇13年{684}10月白鳳南海地震で南海トラフを起源とするのが、最初の地震記録で、「国中の男女が叫び戸惑った。山が崩れ,河が溢れて官舎や寺社が数え切れないほど倒れた」とある。

わが国で、最初の天気予報が出たのは、明治17年{1884}6月1日の天気予報が第1号で、東京市の交番に貼り出され「全国一般風の向きは、定まりなし。天気変りやすし。但し、雨天勝手なり」当時の予報能力はこの程度だったのであろう。

写真は、県庁裏松川べりの間の道路に、地割れや亀裂が生じた車道と歩道。

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(2024/01/23)

令和6年 薬神神社新年歳旦祭

1月8日午前9時恒例の薬神神社新年歳旦祭{主催・薬神神社奉賛会会長石倉雅俊}が開催され、小雪が舞う肌寒い中、横川宮司のもと、厳粛なうちに滞りなく執り行われました。
当日は,荒天の為社務所の中から神社を遥拝する形で行われた。来賓の市長、市議会議長は公務で欠席でしたが、大門県議会議員、杉田市商工会議所専務理事、雪島神社総代を始め、市内の配置薬業業者、製薬会社等々関係者約30名が出席した。

最初に横川宮司の祝詞奏上に次いで、石倉会長、顧問の私、石政市薬業会長、中屋市薬業青年部部長、薬業関係者、来賓等順次玉串奉奠行い、商売繁盛、交通安全などそれぞれの立場で祈願した。次いで、挨拶に立った石倉会長は、昨年末回商した鹿児島のミカン農家では、「ミカンの苗木を植えて大きくなるまで3年、出荷出来るまで5年かかるという。
その方は78歳、5年後83歳である。しかし俺のミカンが美味しいと言ってくれる人がいる以上は栽培を続ける」との話をして我々も同様、「薬を待っているお客様がいる以上お互い頑張ろう」と、出席者を激励した。大門県議は、これからも薬業の振興に尽力するむねの力強い言葉がありました。最後に私にも指名があり挨拶をしました。

特に、今年の正月三か日は、元旦の能登半島地震、2日の羽田空港滑走路上の飛行機衝突炎上事故、3日の北九州市小倉での飲食店35棟の火災など、記憶にも、記録にも、歴史にも残る大惨事で、中でも、能登半島地震は1995年1月17日の阪神淡路大震災、2011年3月11日の東日本大震災、2016年4月14日の熊本地震に並ぶものである。

しかも、能登半島地震の珠洲市は私の回商地である。しかし、未だ被害の実態が不明であるが、想像するに私のお得意様も甚大な被害が出ていると思う。しかし、前述した大震災で被災した地域も人も復興に立ち上がった。物事をネガティブに考えるのでなく、ポジティブに前向きに考える事の重要性を話した。かって、幕末の志士、高杉晋作は辞世の句として「おもしろき、こともなき世をおもしろく 棲みなすものは 心なりけり」を引用した。

最後に、いつもなら神社の鳥居の前での祈願が、社務所の中からの祈願のお陰で、神社とその横の禅宗の寺院に同時に祈願出来たことで、今年は神仏両方からのご加護があると締めくった。終了後、横川宮司も物事をポジティブに考えることについて同感との賛意を得た。名残りは尽きなかったが、三々五々散会した。

写真は、薬神神社。先人の像。玉串奉奠の私。

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(2024/01/08)

令和6年 武道稽古始め

初暦 めくる月日は 流れそむ

今年のお正月は、記憶にも、記録にも、歴史にも残る3か日であった。
元旦には令和6年能登半島大震災、2日羽田空港滑走路上での日航機と海保飛行機との衝突炎上事故、3日北九州市小倉での飲食店35棟焼失。今年の干支「甲」{きのえ」の「辰」{たつ}の予想とは真逆の大事件が勃発した。
それ故、1月5日市賀詞交歓会や6日消防出初式が中止となり、武道稽古始め{主催・市武道連絡協議会}の関係者は、開催か否か、悩まれたことと思います。その結果、7日の二十歳の式典{旧・成人式}が予定通り開催されることから、稽古始めも開催が決定されたものと思います。

さて、当日は、8時市総合体育館内の武道館で弓道、剣道、柔道、空手の4武道の総合開会式が行われ,水野市長など来賓の挨拶の後、各道持ち回りの演武が今年は剣道が担当し、形の披露がありました。その後、それぞれの会場で稽古始めが行われました。
市弓道会{会長・山岸光隆}の稽古始めは8時45分より、市営弓道場「澄心館」で行われ、最初に矢渡しがありました。
射手・川内尚美錬士6段、介添え板東由美子4段、島瀬夢乃3段とすべて女性で行われました。射手が女性の場合.時々この様なスタイルはありますが、見ごたえがありました。次いで、一般、高校生の参加者約50名全員が一人一手{2本}を緊張感を持って弓を射ました。

次いで、緊張感から解放された雰囲気で、正月のようなお目出度い時に行われる,白扇、射割り{12㎝四方の板}風船割りなどが和やかな中に進行されました。しかし、能登半島地震の被災者に対する思いの会話が多く交わされた稽古始めでもありました。

また、前会長の髙橋芳邦氏が、弓道に関する言葉を白扇に揮毫し、{真、善、美、不動心など}射抜いた人に意味を説明し、激励をして手渡され、もらった人は大喜びでした。私は、閉会の言葉で能登半島地震に多少触れ「1年の計は元旦に在り」を説き、「鍛錬」とは「千日の稽古を以て鍛とし、万日の稽古を以て錬とする」
つまり一芸を極めることは「努力」「精進」「年月」の必要な事を話、目標を持って努力するすることの大切さを話し激励しました。
お昼頃には滞りなく終了し、今年1年の活躍を期待し散会しました。

参考まで、白扇を射抜いたのは6人、射割りは3人、風船割りは20人、意外と少なかったです。
写真は、3人の女性による「矢渡し」。白扇、射割り、風船割り。

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(2024/01/07)

令和6年迎春

元旦や 今年もあるぞ 大晦日

新年明けましておめでとうございます。
令和5年はすでに地平線下に沈み、ここに新しい年、令和6年の幕が上がりました。
干支も「癸卯」から「甲辰」に引き継がれ、月日の流れは休むことなく、新しい時を刻み始めました。昨年はロシアのウクライナ侵攻から2年目を迎え、秋にはイスラエルのパレスチナ「ガザ」地区侵攻が始まり、残念ながらどちらも収束の気配が見えません。

また、グレーテス国連事務総長は、もはや地球温暖化ではなく、地球沸騰化の時代であると警告を発した。事実都心では、昨年1年間に夏日が143日、真夏日が90日、猛暑日が22日と最多記録を更新し、全国各地で気象台観測以来の記録が続出し、富山県でも線状降水帯が始めて観測された。まさに異常気象に振り回された挙句、12月には政治とカネの問題が政治不信を増大させた。

そんな中、明るい話題と言えばスポーツの世界であった。3月野球のWBC世界選手権で日本が優勝。特に大谷選手が試合前にロッカールームで、栗山監督から指名され、「憧れるのはやめましょう。憧れたら越えられません。僕たちは、勝つためにここに来たのです」この言葉は、従来の強い口調で檄を飛ばすのとは違い、ソフトな語り掛けであったが、印象に残った。
阪神タイガースの38年ぶりの日本シリーズ優勝。また、大谷選手は米大リーグで日本人初の本塁打王と満票でのMVPの栄冠を獲得した。そして、大谷翔平選手と山本由伸投手のドジャースへの移籍入団。

将棋の藤井聡太さんが若干21歳で8冠を制覇した。大谷選手は29歳。あの謙虚な姿勢を含めこの二人の両親は殆どメディアには出てこない。どんな風に育てたのだろうか.是非一度お聞きしたいものである。
また、今年8月パリで開催される五輪の予選では、男子バスケットボールが48年ぶりで自力で五輪出場権を得たことや、サッカー、ラクビ―、バスケットボール等、多くのスポーツが国民に感動や勇気、元気を与えてくれた年でもあった。そして、新型コロナ5類移行後初の年末年始には、成田空港からの海外旅行者は114万人、関西空港では12月22日から1月3日までの海外旅行者は80万9千人と言う。現在、ロシアとウクライナ、イスラエルとパレスチナ「ガザ」地区でのハマスとの戦争を考えると、多少の不満があっても日本は平和な国と思う。

さて、「干支」とは本来「十干十二支」を略した呼び名で、「十干」と「十二支」を組み合わせたもので60通りある。今年の「十干」は「甲{きのえ」の「辰{たつ}」で次は60年後の2084年である。当然私はこの世にはいない。
「十干」は古代中国殷の時代に10日を{一旬}として一旬を構成するそれぞれの日に名前を付けたことで始まったと言われ、その後万物はすべて「陰」と「陽」の二つの要素に分けられる「陰陽説」と、すべての物事は「木」「火」「土」「金」「水」の5っの要素からとする「五行説」が結び付き、それぞれの意味を表すようになった。
「十干」とは①甲②乙③丙④丁⑤戊⑥己⑦庚⑧辛⑨壬⑩癸の総称で元は1から10までを数えるための言葉だった。
「十二支」はご存知の通り①子②丑③寅④卯⑤辰⑥巳⑦午⑧未⑨申⑩酉⑪戌⑫亥である。

しかし、十二支にはよく動物の名が当てられる。これは中国の王允{おういん}と言う人が、十二支を民衆に浸透させるために動物にして文献に書いたとされます。つまり動物の意味は後から付け足されたと言う。
例えば、子を鼠にしたのは繁殖力の高い子宝の象徴、子孫繁栄。丑を牛にしたのは、生活のパートナーであり、畑を耕したり,重い荷物を運んだりする。寅を虎にしたのは、勇猛果敢な動物でありその勇ましさから虎が当てられた等々である。

日本には6世紀半ば欽明天皇の頃伝わったと言われている。幕末維新の戦いを「戊辰戦争」慶応4年{1868}と言う。つまり「戊」つちのえ「辰」たつの干支であり、甲子園野球場の名前も「甲」きのえ「子」ね、の干支の年で大正13年{1924}完成したことによる。また、現在でも我々は契約書などに甲は乙に対してなどの表現に何の抵抗もなく使用しているし、12時を正午と言い、その前を午前、その後を午後というなど我々の生活の中に溶け込んでいる例はいくらでもある。

さて、今年の干支「甲辰」はどんな年になるだろうか。
まず、十干の「甲」は、甲、乙、丙、丁・・・・の最初に位置しており生命や物事の始まりを意味する一方で、硬い殻にこもってまだ発芽しない状態も同時に表しています。
また、十二支の「辰」は想像上の生き物「龍」のことを指していて「力強さ」や「成功」を象徴していることから、新たな始まりや、チャンスの兆しと考えることができます。この二つが合わさった「甲{きのえ}の「辰{たつ}」は成功に繋がるための努力が種子の内側でどんどん育っていく年だとされます。

参考まで、60年前の昭和39年{1964}は、東海道新幹線開業、東京オリンピック開催などこれを契機に高度経済成長へと進んでいく。また、120年前の明治37年{1904}は日露戦争勃発。日本も多大な犠牲を払ったが、多くの産業の近代化が促進する。大阪朝日新聞が「天声人語」始める。大林店が大林組と改めたのもこの年である。

さて、今年は国際的には、1月台湾総統選挙、3月ロシア、11月米国の大統領選挙。この結果によっては、ロシアとウクライナや中東での戦争に影響を与えるだろうし、国内のエネルギー問題や物価高騰にも関係する。同時に国内では政治とカネ、裏金問題で揺らぐ岸田政権。地球沸騰化、少子化対策、減税と増税等々問題山積。
さて当たるも八卦当たらぬも八卦である。でも干支を信じない人でも、年賀状は殆ど干支を使うから不思議なものである。
願わくは、昨年より今年は良り善き年でありますように。

写真は、昨年12月30日の剣岳と立山。年末清水寺・森清範貫主から届いた干支「龍」の色紙。

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(2024/01/01)

全弓連定時評議員会

大晦日 定めなき世の 定めかな  井原西鶴

12月20日{水}全弓連定時評議員会出席のため上京した。当日、朝、家を出る時は寒風が吹きみぞれ混じりのお天気で、思わずブーツか長靴に手がゆきそうになったが、待てよ、天気予報は東京は晴れである。慌てて革靴を履いたが、案の定東京は快晴である。

新幹線の車窓から眺めた浅間山も、青空にくっきりと浮かび、21日の朝、宿泊ホテルの全国町村会館13階の部屋から眺めた富士山も雲一つない青空に白銀が輝いていた。まさに、冬の日本海側と太平洋側のお天気ではこんなに違うものかと、改めて実感した。

さて、上京の折、博物館や美術館での鑑賞や知人・友人との再会も楽しみの一つである。
今回の定時評議員会は、6月の役員改選後初の理事・評議員など役員全員が顔を合わせる機会でもあり、従来会議は事務局のある「JAPAN、SPORT、OLYMPIC、SQUARE」から、明治記念館に場所を変更して、会議と懇談会が開催された。

この場所は、私にとっても思い出の所で、以前綿貫民輔元衆議院議長が国会議員在職25年記念祝賀会が開催され、来賓の竹下登元総理が、祝辞で、「綿貫さんは、昭和2年生まれで、昭和一桁生まれの国会議員は稀有壮大、中でも、民チャンはぴか一である」との言葉が忘れられない。またこの時、小矢部出身の瀬島龍三氏との写真も残っている。

また、関東滑川高校同窓会総会もこの会場で、その時、福田富昭日本レスリング協会会長{氏も滑川高校同窓生}がオリンピック金メダリストの伊調馨さんや吉田沙里さんを同行してこられ、会を盛り上げられ、懇親会では私の横に伊調さんが座り親しく話をしたのも明治記念館であった。

尚、評議員会終了後の懇談会で、私の横にいた弁護士のN理事と懇談していたところ、彼は元厚労省に入省したが、弁護士になりたくて退官し、勉強し司法試験に合格し、現在弁護士だと言う。実はこの夜、私は厚労省の職員と懇談会を予定しているので、彼と同じ位のメンバーの名前を言ったところ、同じ課で仕事をしていてよく知っていると言う。縁とは本当に不思議なものである。

評議員会の懇談会は5時過ぎに終え、宿泊ホテルに直行した。
6時30分より前述の厚労省のメンバーと懇談会に入った。やはり弁護士N氏の事を出席者のU君に話したところ同じ課で仕事をしたことや、優秀な人物で弁護士への夢を語り、それを実行した事を褒め称えていました。
その時、出席者のM君が富山県の現在の厚生部長は自分と同期であるなど厚労行政の話より、別の話題で盛り上がった。9時過ぎまで2時間30分あっという間で、別れを惜しみつつ再会を約し解散した。

翌日21日9時30分岩元達弘氏と再会した。氏は本年7月1日付けで、財務省近畿財務局長から、日本政策金融公庫専務取締役に就任したので公庫を訪ねた。氏とは1年半ぶりであったが財務省出身だけあって財政や金融に関してはやはりプロである。数字にも強く到底私には太刀打ちできない。しばし、懇談し更なる活躍を期待し別れた。

次いで大宮で、かって昭和63年「世界青少年交流協会」のヨーロッパ視察に参加したメンバー5人と再会し、昼食会をともにした。もう35年も前であるが、そのメンバーが、私が上京した折、時々昼食会と称し再会するが、会う度によくもこんなに長く続くと感心する事から始まる。
最高齢者は91歳。会うたびに、一期一会と言い、できるだけ長く続けようと話し、大宮発15時49分で帰宅した。

東京は快晴。富山は一面白銀の世界。狭い日本といえども、やはり日本は広い。

写真は、20日新幹線車窓よりの「浅間山」。21日朝ホテル13階より「富士山」を望む。
20日、夜厚労省のメンバーと。21日、日本政策金融公庫専務取締役室にて岩元達弘氏と。

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(2023/12/23)

楠 木 正 成

楠木正成は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。出自は諸説あり。自称は橘氏後裔。息子に正行、正時、正儀。
元弘の乱{1331年ー1333年}で後醍醐天皇を奉じ,大塔宮護良親王と連携して、千早城の戦いで大規模な幕軍を千早城に引きつけて日本全土で反乱を誘発させることによって、鎌倉幕府打倒に貢献した。

また、建武の新政下で、最高政務機関である記録所の寄人に任じられ、足利尊氏らとともに天皇を助けた。延元の乱での尊氏反抗後は、新田義貞、北畠顕家とともに南朝側の軍の一翼を担ったが、湊川の戦いで尊氏の軍に敗れて自害した。建武の元勲の一人。明治以降は「大楠公」と称され、明治13年{1880}には正一位を追贈された。また、湊川神社の主祭神となった。

戦前までは国語・歴史・修身に忠臣の花形としてもてはやされ、明治32年6月南朝の武将楠木正成と、その息子正行との別れが「桜井の訣別」{青葉茂れる桜井の・・・}の歌として発表される。
田中小学校の楠木正成騎馬像は、戦時中軍に供出され今はない。台座だけ残っているが,銘板ははがされてない。私の推測では二宮金次郎像・奉安殿・同様加藤金次郎氏寄贈と思われる。

さて私は、戦後生まれで、奉安殿も楠木正成騎馬像も学校では見たことはなかったが、戦前教育を是とするものではない。
結論として、戦前小学校に二宮金次郎像・奉安殿・楠木正成騎馬像が三点セットとして設置されたのは、忠君愛国、国家神道思想推進のため、小学生から教育したことである。
まさに独裁国家であり、その為に三点セットが利用されたのである。教育の影響の大なるを感じる。ただ二宮金次郎像の語ることや車胤の話は一概に否定すべきでないと思う。

写真は、楠木正成騎馬像があった台座。

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(2023/12/15)

奉 安 殿

奉安殿とは、戦前の学校に必ず設置された施設で天皇・皇后{明治天皇と昭憲皇太后・大正天皇と貞明皇后・昭和天皇と香淳皇后の写真{御真影}教育勅語を納めていた建物です。

御真影の下賜が始まった時期は、教育勅語が制定された後の1910年代であり、奉安殿の成立もその時期と思われる。また学校への宿直も、この御真影の保護を目的として始められた面もあるという。四大節祝賀式典の際には、職員・生徒全員で御真影に対しての最敬礼を奉る事と、教育勅語の奉読が求められた。また、登下校時や単に前を通過する際にも、職員・生徒全てが服装を正してから最敬礼するように定められていた。

当初は講堂や職員室・校長室内部に奉安所が設けられていたという。しかし、この場合、校舎火災や地震などによる校舎倒壊の際などに御真影が危険に晒される可能性が高く、万全を期して校舎内部の奉安所は金庫型へ改められ、また独立した「奉安殿」の建築が進められた。
校舎一体型は旧制中学などに多く、独立建築型は小学校に多く見られたという。田中小学校もこの独立型である。建築物としては様々なバリエーションがあり、ギリシャ建築風や鉄筋コンクリート造り、レンガ造りの洋風建築から旧来の神社風建築など、小型ながら頑丈な耐火耐震構造、さらに威厳を損ねぬように、荘厳なデザインであったという。田中小学校の奉安殿はギリシャ風の鉄筋コンクリート造りであった。

これが、第二次世界大戦で敗れた1945年{昭和20年}12月15日GHQの神道指令により奉安殿の廃止が決定。さらに1946年から全面撤去する指示が出された。しかし、中央からの指示は「撤去」であるとし、移設や学校の敷地から切り離すことで解体を免れた奉安殿が、21世紀の現在でも尚、全国各地に残っているという。資料によれば、北海道では、1991年の時点で36棟が残存しているという。

田中小学校の奉安殿も、解体を惜しむ有志によって、寺家町専長寺境内に移設された。
その後、「水神社」創建の議が起きた時、専長寺境内にある奉安殿を永久保存と護持のため、最も適切な方途であると判断し、門徒総代会にはかり、早月川左岸豊隆橋袂に「水神社」本殿として寄進することになった。
また、奉安殿は、加藤金次郎氏が田中小学校に寄付したことが銘板に記してある。やはり、田中小学校が完成した昭和11年の翌年12年二宮金次郎像と共に新築祝いとして寄付されたのであろう。この銘板は、専長寺住職・梅原隆章氏の名前で昭和61年10月の日付で記されているから、この時移設されたものであろう。

写真は、早月川左岸豊隆橋袂の現・水神社{かっての奉安殿}

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(2023/12/15)

二宮金次郎・奉安殿・楠木正成

十二月 ひと日ひと日が 消えてゆく

11月28日皇居東御苑特別参観の折、皇居前広場で楠木正成像の前での写真を掲載し、戦前は、どこの小学校にも二宮金次郎像・奉安殿・楠木正成騎馬像があったことを書いたところ、その理由について数人の方から質問を頂いたので、私の考えをここに記す。

二宮金次郎{尊徳}
江戸時代後期の農政家・思想家である。比較的裕福な農家に生まれ、教育にも恵まれて育ちます。
異常天候によって川が氾濫し、家の田畑が荒廃して、復旧の為借金を抱え、家は貧困を極め、その上、両親も亡くなる悲劇に見舞われます。しかし、地道な努力を重ね、家政の再建を行ったため、財政や農村再建の専門家として有名になります。

特に、農村振興策である報徳仕法を指導した農政家である。明治に入り幼名金次郎が薪を背負って歩きながら本を読む姿の像が示すように、家の手伝いをしながら学びを怠らない理想の像として、国策として広められたと思う。それ故、戦後直ちに撤去とはならなかったのであろう。
しかし、昭和30年代に入り校舎の老朽化と共に新築され、徐々に消えてゆく。加えて滑車をかけたのは保護者の声である。「児童の教育方針にそぐわない」「子供が働く姿を勧めることは出来ない」「戦時教育の名残り」「歩いて本を読むのは危険」などの声が上がってきたこと等である。私が昭和50年代、田中小学校のPTA会長の時、「本を読みながら歩くと交通事故に遭い時代に合わない」等 同様な意見が出た。

その時、私は田中小学校の卒業式に歌う「蛍の光」の歌詞の蛍の光や窓の雪を引用し、「蛍雪の功」の由来を話しました。書物によれば蛍雪の功の「蛍雪」は、苦労して勉学に励むことを意味し,「功」は成し遂げた仕事や功績を意味する。

これは次の故事による。
「中国の晋の時代に車胤{しゃいん}と孫康{そんこう}という二人の青年がいた。
二人は官吏を志望していたが、夜に本を読むための灯火の油を買うこともできないほど、ともに家が貧しかった。そこで車胤は、夏の夜に蛍を数十匹つかまえて絹の袋に入れ、蛍の光で本を読んで勉強し、孫康は冬の夜に窓辺に雪を積み上げて、雪の明かりで勉強し続けた。二人の努力は報われて、のちに高級官吏に出世した。この故事にある「蛍」と「雪」から、「蛍雪」という言葉が生まれた」このように話し理解を求めましたが、今から三十数年前のことですから、現在でも通用するか、どうかは分かりません。

私の母校滑川高校の校歌は戦後作られましたが、二題目に「思え車胤の青春を」とある。素直に解釈すればよいと思う。
参考まで、滑川市は昭和59年7月北海道中川郡豊頃町と姉妹都市の盟約を結んだ。これは、明治26年滑川の先人3所帯が開拓に入植した。その後、入植者が増え「豊頃滑川会」が結成され、これが縁で姉妹都市提携に至ったのであるが、滑川からの入植前後に、福島県相馬から、二宮尊親{尊徳の孫}を中心として、尊徳の報徳の思想を以て開拓に入植した。それ故、豊頃町と相馬市の姉妹都市提携は滑川市よりも早い。現在では豊頃開拓の祖として、二宮神社があり心の拠りどころとなっている。

写真の田中小学校は、昭和11年に木造校舎として完成し、昭和62年「富山の建築百選」に、平成22年「とやまの近代歴史遺産百選」にも選ばれ、末永く残されている。結果的これが幸いし、二宮金次郎像が残ったものと思う。
像の台座の後ろの銘板に昭和12年4月建設。寄贈・加藤金次郎とある。校舎は加藤金次郎が代表者である、「加藤組」が建設したので、新築を祝い寄贈したと思われる。奉安殿・楠木正成騎馬像も或は氏かもしれない。
尚、氏は昭和14年8月から17年6月まで町長を勤めている

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(2023/12/15)

民謡・長岡すみ子の会

一日も おろそかならず 古暦  虚子

民謡,唄と踊りの祭典、第8回歳末恒例長岡すみ子の会、チャリティーショーが、12月10日{日}富山市婦中ふれあい館で4年ぶりに開催されました。

当日は、満席の盛況の中、ゲストとして津軽三味線の椿俊太郎さん{津軽三味線・みちのく全国大会優勝・高岡市出身・東京}、特別出演・幻想尺八・入江要介さん{東京}友情出演・琴、桂さん、踊り、筏井豊華翔と華の会{公財}日本民謡協会全国大会優勝2回、尺八、坪内隆悦さん{北日本民謡民舞連合会理事長}等多彩な顔ぶれを迎え、全員合奏の「津軽の響き」で①オープニングの幕が上がりました。

次いで、
②唄いつぐジュニアたち
③民謡お国めぐり
④ゲストコーナー1
⑤長岡すみ子オリジナル演歌集
⑥ゲストコーナー2
⑦長岡すみ子おはこ集
⑧フィナーレは全員で、とやまいきいき音頭合唱。

で幕を閉じましたが、見ごたえのある2時間半でした。

特に印象に残ったのは、椿俊太郎さんの津軽三味線による力強いバチ捌きの「津軽じょんがら節」や坪内さんの尺八と津軽三味線の椿さんとの伴奏に華の会の踊りが加わり、長岡さんが唄った「津軽あいや節」、また、尺八の演奏者坪内さんが「帆柱起こし祝い唄」を声量たっぷりに唄い挙げられたのは圧巻ででした。

長岡さんは、昨年10月芸能活動45周年記念公演を出身地の黒部市コラーレで開催され会場を満席にされるなど、根強い人気を持っておられる方です。

今年は46周年です。でも、一口に46年というのは簡単ですが、この間、コロナ禍を含め苦労もあったと思います。
それを乗り越えて民謡の火を灯し続けた46年には敬意を表したいと思います。

また、民謡の普及振興はもとより、後継者の育成にも力を注ぐなど、今回も4歳の子どもたちも数人、唄や踊りに出演したり、80代の唄い手もいるなど、まさに老若男女の出演で、和気あいあいの中にも民謡の楽しさを十分堪能したチャリティーショーでした。
当然チャリティーショーですから、出演者が募金箱を持つて会場を回り、その結果20万5千円余りの募金額が発表され、席上、富山テレビの代表者に渡され従来通り社会福祉活動に寄付されるものです。

長岡さんには、過日開催された滑川高校110周年記念祝賀会にも出演して頂くなど、日頃から親しくしていますが、46年は50年に向う一通過点であり、更なる活躍を念じ会場を後にしました。

写真は、坪内さんの尺八と椿さんの津軽三味線で「津軽あいや節」を唄う長岡すみ子さん。越中おわら節を優雅に舞う会員。

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(2023/12/11)

懇談会と国交副大臣を訪ねて

11月28日夕、久しぶりに懇談会を開催した。出席者は上田英俊衆議院議員、国交省小善政策統括官、中西土地政策課・公共用地室長、砂原富山県首都圏本部長、公務で上京中であった水野滑川市長等である。

小善氏とは前回お会いした時は審議官であったが、今回は統括官として、ランクは一段上がっていた。本市出身者がこの様に活躍しておられる姿を見ることは嬉しい限りです。
また、中西さんも本県出身者であり今後更なるご活躍を期待するものであります。出席者が8人もいれば話題も豊富で時間の経つのも忘れ歓談しました。

翌29日国交省に堂故茂副大臣を訪ねました。本来28日の懇談会に出席の予定が公務が入り欠席だった為、急遽29日の訪問になりました。
友人・知人が国政で或はそれぞれの立場で頑張っておられることは頼もしいことです。30分余りの滞在でしたが、今後の活躍を期待し国交省を後にしました。
午後からは、当初の予定通り全弓連理事会に出席し帰宅しました。

唯、驚いたことに28日はなんと22300歩、29日は12000歩も歩いていたことです。
ところが帰宅後は以前同様数千歩。もう少し歩かねばと思っています。

写真は、28日の懇談会と29日の国交省副大臣室で堂故茂氏と。

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(2023/12/02)

皇居東御苑臨時公開

金色の 小さき鳥の形して 銀杏散るなり 夕日の丘に   与謝野晶子

11月28日全弓連第4回理事会出席の為、上京の折皇居東御苑を散策した。この御苑は、皇居造営の一環として、皇居東地区の旧江戸城本丸、二の丸及び三の丸の一部を皇居附属庭園として整備することとなり、昭和36年に着工し、昭和43年9月に完成したもので、面積21万㎡の庭園です。

さて、今回の臨時公開は、桜の時期、大阪造幣局の通り抜けと同様、紅葉時期に坂下門から入り、東御苑の紅葉や季節の移ろいを感じながら一方通行で宮内庁庁舎、昭和41年香淳皇后の還暦を記念して建てられた音楽堂「桃華楽堂」、汐見坂、同心番所、百人番所、松の大廊下跡、富士見多聞、天守台、江戸城天守復元模型、{順不同}三の丸尚蔵館前を通り、大手門を抜けるという約750mのコースで、期間は11月25日から12月3日まででした。

普通、東京駅から坂下門までは私の足では15分位ですが、期間中は東京駅から大きな道路を横断したところで左折して、ぐるりと回り二重橋を見て右折して坂下門への向うため倍ぐらいの時間を要しました。正直言って、モミジやカエデの紅葉はいまいちでした。ただ銀杏だけは都内全体が綺麗でした。
ゆえに、標題の一首を掲げました。

ここで、現存する江戸城の天守台について記しておきます。
江戸時代の天守閣は、慶長12年{1607}に完成した。当初、石垣の高さは約14mあり、その上に我が国最大の天守閣がそびえていたが、明暦3年{1657}明暦の大火で焼失した。
翌万治元年に加賀藩が担当して再建された天守台では、建物は計画図面まで描かれたが、再建は中止された。時代は4代将軍徳川家綱。武家社会では天守閣は権威の象徴。しかし家綱は明暦の大火で焼失した江戸城下の再建と民生の安定を優先した。

その結果、天守が無い状態が以後210年間続き明治を迎える。見方を変えれば,明暦の大火当時には、すでに徳川幕府に大規模に反乱を起こす勢力はなく、徳川安定期に入っており、大火の後も210年間徳川幕府が続いたのであろう。加賀藩が築いた天守台に登り周りを眺め往時を偲び、一人感慨にふけった。

大手門を出て、再び皇居前広場に戻り、楠正成騎馬像へ行きました。戦前、どこの小学校にも、二宮尊徳像、奉安殿、楠正成騎馬像があった。しかし、戦時中騎馬像は軍へ供出し、戦後奉安殿は撤去されたが、二宮金次郎像は辛うじて残った。
それでも昭和30年代から校舎の老朽化に伴い、新築が相次ぐ中で徐々に消えてゆく。唯、私の母校田中小学校には残っている。奉安殿も戦後某寺院の境内に移設されたが、現在は早月川左岸、箕輪豊隆橋袂に「水神様」を祭る社代りとして鎮座している。

豊隆橋の名の由来は、当時、滑川出身・参議院議員石坂豊一氏の「豊」と富山市出身衆議院議員・内藤隆氏の「隆」の二文字からと言う。それらにも思いを馳せた皇居参観であった。

写真は、東御苑の紅葉。加賀藩担当の天守台。江戸城復元模型。楠正成騎馬像。

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(2023/11/28)

第三部 記念祝賀会

祝賀会は18時より場所を「パノラマレストラン光彩」に移し、水野市長、大門県議会議員、土肥東京滑川会会長、千先関西滑川会会長{いづれも同窓生}、森関東滑川高校同窓会事務局長を迎え80名の参加を得て、盛会裏に開催されました。

オープニングアトラクションには本校同窓生である、民謡歌手・長岡すみ子さんのお目出度い宮城県民謡「お立ち酒」を聞き、次いで私が開宴の挨拶。来賓の大門県議会議員、東京滑川会、関西滑川会を代表して千先会長が挨拶.水野市長の乾杯の音頭で和やかに宴会に入りました。

宴の半ばには、再び長岡さんの美声が会場に響き渡り、「新川古代神」や「越中おはら節」などには、出席者が自然な形で踊りの輪ができるなど、大いに盛り上がり、時の経つのも忘れ、あちこちで談笑の塊りが出来ました。
宴もたけなわの頃、金田校長の万歳。そして、全員で110年の記念行事が無事終了したことを喜び、祝い、更なる発展を願い、声高らかに校歌を斉唱し、名残を惜しみつつ、散会となりました。

写真は、開宴の挨拶。美声を響かせる長岡さん。

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(2023/11/11)

第二部 記念公演

東京サロンシンフォニー・オーケストラ・キャラバン隊による記念公演がありました。
このオーケストラは、音楽本来の楽しさを若い世代に伝えることを第一とし、学校公演を中心に活動している10人編成のキャラバン隊で、司会のもと、生徒に近い位置で、楽器に触れ、音楽を身近に感じるプログラムとなっていました。

1 レクチャー&ワークショップ
①オープニングの演奏「美しき青きドナウ」

②楽器の解説コーナー
 ~さまざまな楽器の名前や、どんな音色を奏でるか~
 なじみのある曲を楽器の特徴に合わせ、ワンフレーズ演奏

③演奏体験コーナー
 生徒や先生がその場でステージに上がって
 バイオリンやチエロなどの音楽演奏に挑戦

④指揮者体験コーナー
 ~指揮者になりきって、タクトを振ってみよう~
 タクトを振る人によって、音色の速度・変化に注目

⑤校歌演奏  司会者が校歌を独唱

⑥滑川高校音楽部との合同演奏  オンブラ・マイ・

<休憩>

2 クラシックコンサート
①キャラバン隊の演奏
 「アイネクライネナハトムジーク」
 「くまん蜂の飛行」など

②キャラバン隊とテノールの共演
 「荒城の月」「オーソレミオ」など

③りクエストコーナー
 ワンフレーズ曲を演奏し生徒の拍手の大きさで、曲目決定

④チャルダッシュ

⑤滑川高校吹奏楽部との合同演奏
 サウンドオブミュージック

記念公演は概ねこの様な内容であったが、生徒には好評だったと思う。大歓声に大きな拍手。
会場は笑顔と楽しさが溢れた時間であった。参加型の記念公演であり大成功だったと思う。
                     
写真は、東京サロンシンフォニー・オーケストラ・キャラバン隊の演奏風景。 

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(2023/11/10)

「滑川高校創立110年記念式典」

山河錦秋有磯邉 慶賀盛典百十年
文武逸材溢学舎 愛校無限拓次編

11月10日{金}富山県立滑川高等学校{校長・金田幸徳 同窓会長・中屋一博}創立110周年記念式典・記念公演・記念祝賀会が開催された。
式典では、有賀教頭の開式の辞で始まり、国歌斉唱・次いで、①金田校長の式辞、②祝辞は新田八郎県知事、県議会議長代理奥野詠子副議長、荻布桂子県教育委員会教育長、水野達夫滑川市長がそれぞれの立場で述べられました。
次いで来賓紹介・祝電被露の後、私が同窓会長として挨拶をし、生徒代表の喜びのことば、校歌斉唱、閉会の辞を以て厳粛な中にも滞りなく終了しました。

私の挨拶の大要は次の通りです。
「大正2年{1913}滑川町立実科高等女学校として創立したのが歴史の第一歩です。今から110年前、まだ封建時代の名残りが色濃く残っている時代に、「女子にも中等教育を」と町に女学校の設立を働きかけるのである。当時町や村には明治40年{1907}の国民学校令により、尋常小学校6年、その上に高等小学校2年があった。

しかし殆どの女子は義務教育の6年を終えると社会人となった。これに憂慮した人々が「女子にも」と叫んだのである。しかし、学校を創ることは町の財政にとって、大きな負担となる。運動場や校舎の用地の確保。校舎の建設費。年間の経費等を考えると大きな決断だったと思う。その後、より教育内容の充実を求め県立への移管を働きかけ、大正12年{1923}県立滑川女学校となる。

しかし翌大正13年これからは商人が必要な時代である。.その為には簿記、そろばん、貸借対照表等商業知識の必要性を論じ、滑川町立商業学校を設立する。しかしこれも昭和3年県立へ移管し、県立滑川商業学校となる。これで終わりかと思いきや、昭和10年{1935}売薬の町の面目躍如たるものとして、薬業知識の習得を以て、製薬会社への人材の供給と配置員の育成を目的に、滑川町立薬業学校を設立する。

つまり、戦前中新川郡滑川町という人口2万人にも満たない小さな町に、なんと県立学校が県立水産学校。県立滑川女学校。県立滑川商業学校と3校、加えて町立といえども薬業学校とこれだけの教育機関があったことに驚かざるを得ない。県庁本館右手に石碑がある。
これには、「百年之計、莫如樹人」つまり百年の計は人を樹{う}うるに如{し}くはなし。中国・春秋時代・斉の賢相菅仲の言葉と言われ、、1年先を考えるなら穀物を植えよ。10年先を考えるなら木を植えよ。100年先を考えるなら人づくり、つまり、教育であり、その重要性を説いた言葉と言われる。この石碑は、中沖知事時代の25年程前に教育県富山に相応しい言葉として建てられた。

しかし滑川の先人は百年以上も前にすでに「女子にも中等教育を」を掲げその重要性を認識し、熱い思いを持ってそれを実践していたことに、改めて感嘆せざるを得ない。しかし、簿記やそろばんでは戦争に勝てない。そんなことで、滑川商業学校は、昭和18年で新入生の募集を停止し、昭和19年県立滑川工業校として新入生を募集する。

しかし昭和20年終戦によって昭和21年3月で工業校を廃止し、21年4月県は県立滑川中学校を設置する。当時県立中学校は魚津中学校、富山中学校、神通中学校や高岡、砺波、氷見、射水と県内には7校があり、滑川で8校になった。当然県立ゆえ入学試験があり、合格した人達は希望に燃えて入学式に出席したところ、工業校と商業学校の生徒が先輩として出席し、しかも校歌は商業学校の校歌だったという。
県立滑川中学校に入学したと思っていた新入生には大きな戸惑いであった。その上、翌22年4月から6・3制の義務教育制度が導入され、町立滑川中学校が設置される。これによって入試のない中学校に対し、入試に合格した県立滑川中学校の生徒には多少のプライドがあり混乱する。

結局昭和23年に戦後の学制改革が行われ現行の「6・3・3・4制」導入によって,前述した多くの学校が統合し昭和23年9月現在の富山県立滑川高等学校となる。県立滑川中学校は滑川高等学校併設中学校として吸収される。
彼らは県立滑川中学校に入学したにもかかわらず、その名の後輩や先輩がいない。同級生だけで、しかも県立滑川中学校としての卒業式もなく、滑川高校生として卒業するのである。彼等の心中を思うと胸が痛む。8校の多数の学校が合併し1校になる。県内でも極めて珍しい合併である。戦後の混乱期とは言え県立滑川中学校の件や合併など、いびつな制度に翻弄された事実は、歴史の中に埋没させることなく県教育史の中にしっかりと記して置くべきことと思う。

この点、式典の前に控室で荻布県教育長に話したところ、「しっかりと受け止めました」とのご返事を頂きました。

この様に幾多の変遷を得て、今日まで着実に発展し今や同窓生は3万7千人余を数え、各界各層に有為な人材を多く輩出してきたことは同総会としても喜ばしい限りであります。これも偏に今日まで、ご支援ご協力を頂いた関係各位のお陰であります。さて、どこの学校にも校風や伝統そして歴史があります。

本校も然りであります。然らば伝統とは何であろうか。それは単に受け継がれただけでは意味はない。新しい創造が絶えずその上に加えられることによって限りなく前進してゆくのである。それによって初めて不滅の生命が伝統に吹きこまれてゆくのです。

そう考えると、この際、私達にとって最も重要なる課題は、本校の光輝ある伝統の上に如何にして新しい創造、逞しい前進の1ページを加えるかということです。110年は130年、150年へと続く一通過点であり「耕不尽」耕せど尽きることなき営みを続けてきた滑川高校の更なる発展を願いました。この文は挨拶に多少加筆しました。

写真は、式辞の金田校長。祝辞の新田知事。挨拶の私と正門前で。

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(2023/11/10)

田中小学校創立150周年

天一枚 傷一つなし 秋の空

快晴 まさに雲一つなき青空に新雪輝く立山連峰を仰ぐ絶好の日和の中、私の母校滑川市立田中小学校{校長・玉木彰治・児童数215名}創立150周年記念式典・学習発表会・祝賀会等が盛会裏に開催されました。

本校は明治6年{1873}9月6日滑川小学校として、田中村西光寺の堂宇を仮用して設置されました{明治8年開達小学校と称した}
式典は昭和11年完成し現在国登録有形文化財の木造校舎の一部旧本館と、平成26年完成の新校舎に囲まれた中庭「きぼうの広場」で行われました。

当日は、水野市長をはじめ多数の来賓や学校関係者、地元自治会役員,姉妹校の長野県小諸市坂の上小学校PTA関係者、が出席し青空の下での開催でした。野外での式典ははじめての試みでしたが、校長の思いを推進した実行委員会の判断には敬意を表したいと思います。
式典後の学習発表会は通常通り体育館でした。

それにしても、150年前設置されたどの学校も独立校舎を持ったものは皆無で、寺院、又は地域有志の個人宅を借りて、教師も多くは寺小屋の師匠やその他域内における文字を解する者を委嘱してこれにあてたという。
それから150年、日本は少なくともアジアでは勿論世界の中でも、日本の識字率の99%をはじめとして教育水準は世界でもトップクラスです。

考えてみれば、明治新政府の近代化へ向けてのエネルギーは凄まじいものがあった。慶応4年、1月3日鳥羽伏見の戦いで戊辰戦争が始まった。3月江戸城無血開城。4月上野彰義隊。5月越後長岡北越戦争。7月江戸を東京とす。8月会津戦争白虎隊。9月慶応を明治に改元。明治2年、{1868}5月函館五稜郭で戊辰戦争終結。版籍奉還。明治3年、郵便制度視察で前島密を英国へ派遣。明治4年廃藩置県。文部省設置。岩倉遣欧使節団派遣。郵便制度スタート。

明治5年新橋・横浜間鉄道開業。8月「学制」発布。そこには「人々自ら其身を立て其産を治め其業を昌にして以て其生を遂るゆえんのものは他なし身を修め智を開き才芸を長ずるによるなり」として、「学問は身を立るの財本」であり、それ故に学制を定めて全国に学校を設けることにしたので、今後は一般の人民はすべて学校に学び、「必ず邑{むら}に不学の戸なく家に不学の人なからしめん事を期す」と述べている。

即ち、華士族・農工商の差別なく、また男女の別なく教育を受けるという近代教育の基本理念が、ここに明確に打ち出された。これが明治5年、いまだ明治政府の基礎が固まってない中で、教育の重要性を掲げることに驚かざるを得ない。
まさに「国家百年の大計」は人材の育成即ち教育の重要性を先人達が認識していたことである。司馬遼太郎の「まことに小さな国が 開花期を迎えようとしている」ではじまる「坂の上の雲」を思い出す。

滑川小学校もこの流れで設置され、明治8年開達小学校と名を変え、幾多の変遷をへ着実に発展し今日の150年の佳節を迎えた。しかし、これは170年、200年へと続く一通過点であり更なる発展を願うものである。さて祝賀会の最後に私に万歳の指名があり、以前、疑問に思っていたことの一つを話しました。それは、校歌と言われる「希望の丘」についてである。

ここで「希望の丘」の歌詞の全文を掲載する。

「希望の丘」
1 風も緑だ 若葉の朝だ 空にきらきら 陽ものぼる
  みんな元気で 元気でつよく こころ合わせて ほがらかに
  今日も越えよう 希望の丘を

2 明けてたのしい 大地の朝だ みんな若葉よ 萌え出る意気よ
  夢もあかるく 心も勇み ちから合わせて ゆるみなく
  今日も越えよう 希望の丘を

3 嵐吹こうと 雨荒れようと のびよのばせよ 若葉のいのち
  ぐんとぐんぐん 胸をば張って 歩調合せて ひとすじに
  今日も越えよう 希望の丘を

この曲の作詞は、「滑川市の歌」と同様医師であり、詩人であった高島高氏、作曲は高木東六氏である。これは昭和24年創立記念日の9月6日に披露された。

①当時の資料を見ても、どこにも曲目を田中小学校校歌と書いてない。あくまで「希望の丘」である。普通どの学校を見ても・・・小学校校歌であり・・・中学校校歌である。

②三番目までの歌詞の中に 田中小学校を思い起こすような歌詞が全くない。
普通どの学校の校歌を見ても、市内の場合は、有磯海とか立山や剣岳或は加積の里などの歌詞が入っている。

高島高氏は昭和30年5月12日44歳で逝去しておられるので、もはや本人からは聴くことは出来ない。そこで奥さんが存命中に私はカセットテープを持って高島医院を訪ねたことがある。
そして当時流行していた、例えば「緑の丘の赤い屋根 とんがり帽子の時計台 鐘がなります・・・」のような児童歌でないか。だから曲目も歌詞も田中小学校に関する言葉がないのでは。との問いに、奥さんは依頼においでになったのは、当時の教頭毛利隆先生{のち市教育長}と後援会の魚躬常次郎氏と二人で昭和23年夏頃おいでになりはっきりと「校歌」の作詞を依頼された。と述べられました。

そこで今度はやはり存命中であった毛利先生を訪ねて、同様の質問をしたところ、先生も校歌の作詞を依頼したが、翌年昭和24年春頃出来上がった楽譜が学校に届けられたのを見て、一瞬私と同じ様な事を思った。
しかし、よく読んでみると戦後の混乱期、単に田中小学校の児童にとどまらず、全ての子供たちが元気・勇気が湧くような歌詞で誰でもが気軽に口ずさめるような歌として作詞されたのではないか。それはとてもスケールの大きなことで詩人高島高先生の真骨頂であり名曲である。と話されたのが忘れられない。

当時私は30代の若造で実に単純な疑問であったが、さすが毛利先生。このように含蓄ある言葉で教えて頂いた。その後、毛利先生と音楽担当の黒田先生と二人で上京、高木東六宅を訪ね、「希望の丘」の指導を受けて、生徒とともに練習に励み、昭和24年の創立記念日9月6日に発表,被露された。高島先生は「滑川市の歌」を作詞された後、昭和29年「広報なめりかわ」2月号に作詞された感想を寄稿されている。ここでも、記憶より記録の大切さを改めて感じた。

写真は、式辞を述べる玉木校長。中庭「きぼうの丘」で式典の215名の生徒。

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(2023/11/04)

滑川市制施行70周年記念式典

11月1日抜けるような空の青に、新雪輝く立山連峰、加えて11月とは思えないような陽気の中,標記の式典が新装なった複合施設「メリカ」で開催されました。
式典は、来賓に新田知事、山本県議会議長、姉妹都市長野県小諸市、北海道豊頃町、東京滑川会、関西滑川会、県内各市町村長,、各議員等約400名近くの多数の出席のもと盛会裏に開催されました。

第一部 アトラクション
バンド名「匂い蜂」による曲目「なめりかわdays」等の演奏。
本市のPR動画の上映。

第二部
柿沢副市長の開式の辞、国歌斉唱、水野市長の式辞、尾崎市議会議長の挨拶、次いで38団体、個人の記念表彰、新田知事、山本県議会議長の祝辞、来賓紹介、祝電披露、小泉小諸市長の万歳三唱、上田市教育長の閉式の辞。で滞りなく終了しました。

さて、滑川市は昭和28年11月1日1町6か村{滑川町、西加積村、中加積村、東加積村、北加積村、浜加積村、早月加積村}が合併し翌年3月1日市制を施行し昭和31年6月1日旧山加積村の一部を編入し、現在の姿になりました。

ここで、昭和28年11月1日の合併の時、医師であり詩人であった高島高氏は次のように述べています。
大滑川町を祝す  北方荘主人 高島高
その握手は 偉大であった
ことほげよ菊かほる佳日よ
1町6か村が 今こそ親愛と協和との
ちかいに燃えたのだ   ――1953年秋――

次いで、昭和29年3月1日市制施行に伴い「滑川市の歌」が制定された。
作詞は前述の高島高、作曲・信時潔である。

霊峰立山おごそかに いま朝明けの陽に映える ひびきてやまぬ有磯海
悠久の道 教え打つ ここに立ちたる栄光の
ああわれらの市滑川 たたえんわれらの市滑川

世界に比もなき蛍烏賊 海の神秘か蜃気楼 自然の美観にめぐまれて
正義進取の意気高し ここに立ちたる栄光の
ああわれらの市滑川 たたえんわれらの市滑川

作詞した高島高氏は昭和29年2月発行の「広報なめりかわ」に作詞者の言葉として次のような文を寄稿している。
「滑川市の歌」の作詞を依頼されたとき、その責任を感じ、一応辞退したのですが、たってということで、何か一つの奉仕という意味で書いてみました。
20数年間,終始「現代詩」を書きつづけ、そこで悩みたたかって来た私は、曲になる歌は元来不得意なのですが日頃、郷土に貢献することの少ない自分を考え、一つの御奉公と思って書いてみたのです。滑川のもつ自然の美しさと、産業と新生の意愁を主体として作詞してみました。

中でも、後半のくりかえされる歌詞の、「ここに立ちたる栄光の」の栄光という言葉に苦心しました。「栄光」という言葉は、元来なにか、固定された概念的な言葉のように考えられ、これを歌詞の言葉とするには余程、慎重にあつかわねばならぬと考えたからです。

外国の詩人は多くこの栄光という言葉を使っているようですが、極自然で成功している場合が多いのですが、日本語になると中々概念的になりやすい言葉のようです。これは、何か宗教的な意味がふくまれているためでしょうか。前句の「ここに立ちたる」という言葉を書いてみて、はじめて「栄光」という言葉を滑川市を形容する言葉として使いました。

拙い作詞も、さいわいに,日頃親しくしていただいている、例の「海ゆかば」「み民われ」などの国民歌の作曲者として令名あり、又音楽家として稀な芸術院会員であられる信時潔先生が快く作曲をひき受けて下さり、かがやかしい光彩を得たことは、何よりもうれしく思っている次第であります。{1954年2月 北方荘にて}

さすが詩人らしい、この歌にかける意気込みや情熱が伝わってくるような気がします。ただ残念なのは、この素晴らしい歌が、歌われることが少なくなっていることです。せめて市が主催する行事の中で、歌う機会があると思うが・・・
今回の式典でも、歌われませんでした。

尚、式典前日姉妹都市、北海道豊頃町按田町長、中村議長、豊頃滑川会の皆さんと久しぶりに我が家で懇談会を開催し、友好を深めました。
70周年は、80年、100年へと続く一通過点です。これを機に、滑川市が更に発展することを念じ会場を後にしました。

写真は、式辞の水野市長。祝辞の新田知事。按田豊頃町長中村議長等豊頃町の人達と。

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(2023/11/01)

「奥の細道」パート3

早稲の香や 分け入る右は 有磯海  芭蕉

「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也.舟の上に生涯をうかべ馬の口とらえて老いをむかふる者は日々旅にして、旅を栖とす。…」
芭蕉は人生を旅に例えた。

鴨長明は方丈記で「ゆく河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しく留まるためしなし・・・」と人生を河の流れにたとえ、平家物語は「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色,盛者必衰の理{ことわり}をあらわす おごれる人も久しからずや 只春の夢の如し たけき者も 遂にはほろびぬ,偏{ひとえに}に風の前のちりに同じ」と人生の無常と盛者必衰と論じた。

これを以前、高校の英語の先生に英訳出来るか。と質問したら、ドナルド・キーンの英訳を紹介された。数学者の藤原正彦氏が、日本文学を専攻する英国人に「勉強する上で何が難しいか」と尋ねると、彼らは直ちに「もののあわれだ」と答えた。

氏は「悠久の自然とはかない人生との対比の中に美を発見する感性は日本人が取り分け鋭い」と言っている。言い得て妙である。
徳城寺境内の「有磯塚」の向かいに「早稲の香や・・」の句を住職曰く10年程前に寺に来たドナルド・キーン氏が英訳したのを、2021年8月句碑を建立したという。全文を記す。

SWEET SMELLING  RISE FIELDS!
TO OUR RIGHT
AS WE PUSH THROUGH、
THE ARISO  SEA
BASHO

ドナルド・キーン氏{1922-2019}は米国生まれ。日本文学研究・翻訳の第一人者。日本文学史全18巻独力で発刊。2013年日本国籍取得。文化勲章受賞者。

残念ながら私には、この碑からは、日本語の持つ繊細な美意識は感じられない。日頃思うに、日本語は漢字・ひらかな・カタカナの3種類を何の抵抗もなく使いこなす。
漢字に至っては、草書・隷書・楷書・行書など、、多岐にわたる。これが日本語の美しさを一層引き立てているのだろう。俳句や短歌や和歌等はやはり英訳するのは難しい分野と思う。富山社交俱楽部での講演は概ねこの様な内容でしたが、それに多少加筆しました。

最後に、記憶と記録の違いである。記憶は必ず忘れ去られ、消えてゆく。記録は一時の出来事を永遠なものにすることが出来る。記録は世の片隅の出来事を全体のものにすることが出来る。記録は名も無き人の行為を人類に結びつけることも出来る。
記録のみが、消えゆくものを不死なものとすることが出来る。「曽良旅日記」や「俳諧わせのみち」から改めて記録の大切さを学んだような気がした。

写真は、講演中の私。ドナルド・キーン氏英訳の「早稲の香や 分け入る右は 有磯塚」句碑

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(2023/10/28)

「奥の細道」パート2

早稲の香や 分け入る右は 有磯海  芭蕉

現在、早稲の香や・・・の句碑{有磯塚}は県内に10基以上あるが建立年や経緯がはっきりし、そして最も古いのが滑川市四間町徳城寺境内にある「有磯塚」である。
これについて詳細に記した本が「俳諧わせのみち・知十撰」句集として発刊されたのは明和2年{1765}10月12日である。これを発見、解読されたのが旧制富山中学校教諭を振り出しに、小杉、泊、桜井各校長、県立図書館長を歴任された滑川の柚木武夫氏である。

氏は昭和44年12月「滑川の俳諧」を発行され、その中で、戦前小矢部・津沢の中島杏子氏秘蔵の「俳諧わせのみち」を拝見し、ほぼ写させて頂き胸躍る喜びを深くした。戦後あらためて中島氏よりお借りしコピーさせてもらい、ここに深く感謝の意を表する。と述べ、また天理図書館には、汚れの少ないきれいな版本が2冊も蔵せられ、羨望の念禁じ得ない。と述べておられる。
これを解読し出版されたのが前述の「滑川の俳諧」である。滑川市教育委員会発行の「滑川の文化財」より「有磯塚」に関する部分を抜粋して記す。

「この塚を建立したのが川瀬知十など、当時の滑川を代表する俳人たちでした。この塚は芭蕉70回忌の翌年にあたる明和元年{1764}10月12日建立された。」そのいきさつについては,川瀬知十撰「俳諧わせのみち」に次のように記されている。

「翁の遠忌に当たれば、有磯の砂を手してさらへ、荒波のかかれる石を社中と共にかき荷ひて,此神明山徳城寺禅室に碑をたつ。名は何ぞ外を求ん。わせの香やわけ入右はありそ海と碑面にものして、有磯塚と云なるべし。これより香華をおこたらず,俳徒も此石と共にひさしく、春は浦風の桜に通はざる先にと手向、子規{ほととぎす}の暁は裳を汐にひたし、早稲の香吹くはもとより・・・・」と記され芭蕉への深い敬愛の念と俳諧に寄せる熱い思いが語られている。

このように芭蕉の「奥の細道」「曽良旅日記」「俳諧わせのみち」の3点から判断して、まず間違いないのは「早稲の香や・・・」の句は越中路で詠んだことは誰も異論はない。然らばどこの風景を見て詠んだか。柚木氏は曽良旅日記と当時有磯海は富山湾のどのあたりであったか等をキーワードに雨晴付近との説を取っておられる。

私は、素人で恐縮ですが、泊から滑川の間と思う。芭蕉は親不知を越え、市振を越え泊に入ったところで、越中平野が広がる。また「俳諧わせのみち」で有磯塚建立に際し、「有磯の砂を手してさらえ・・・」とあり、滑川海岸を有磯と呼んでいる。氷見には有磯高校があった{現・氷見高校}滑川高校校歌には有磯の海の歌詞がある。湾一帯を有磯海と呼んだんでなかろうか。
又、当時早稲というのは呉西にはなく、新川郡固有の品種との説がある。しかも滑川で宿泊したこと等から考え、私は泊から滑川の間と思う。

次に、滑川の何処で宿泊したかである。これも定かでない。考えられるのは
①俳人、知人友人宅②紹介状
③旅籠屋
④お寺,検断宅等 がある。

曽良旅日記には約3割位は記されているが、残念ながら滑川も高岡も記載なしである。当時の県内の俳諧は大淀三千風の談林派と松永貞門の貞門派が主流だったという。
芭蕉が越中に入る6年前天和3年{1683}6月12日三千風が越中に入り、7月いっぱい魚津に滞在し、越中の方々の万葉の歌枕を訪ねている。滑川では本陣も勤めている桐沢家に7月2日と3日宿泊し一句残している。桐沢家古文書は市史編纂にも多くの資料が利用された。しかし、古文書にも芭蕉の記録がない。この頃旅籠は四歩一屋と川瀬屋もあったという。

いずれも談林派で芭蕉を歓迎することもなく、むしろ芭蕉であることさえ知らなかったのでないかと思う。芭蕉は高岡でも宿泊しているが、高岡市伏木出身芥川賞作家堀田善衛が、明治6年生まれの伯母に聞いた話として「それぞれに縄張りがあってやな、俳諧じゃと京の貞門が多かったんや、うちもそうじゃつた」と話している。このように越中では芭蕉が受け入れられる余地がなかったのではないか。

だから2泊3日の間に句会も開いた形跡もなく、しかも疲れていたこともあり、足早に越中を通過したのではと思う。但、芭蕉の弟子である井波瑞泉寺第11世住職浪化上人は芭蕉が越中を通っていったことを知らなかったとして次のように後悔している。
「芭蕉翁当国の行脚も知らず。やや旅程を経て其の句をまふけ、其の人を慕う。「早稲の香や、有そめぐりの つえのあと」浪化の芭蕉を慕うこと並々ならず、以後越中は徐々に蕉風になってゆく。

この様なことと、有磯塚を建立し「俳諧わせのみち」を発刊し、追悼句会を催すなど中心的な役割を果たした俳人川瀬知十は旅籠川瀬屋7代目当主である。芭蕉通過から70年も経過していることを考えると、この頃には滑川も蕉門派が主流になっていたと思われる。

勝手な推測だが、芭蕉が川瀬屋に泊まったことを後年知った知十がそれを誇りに思い、前述の数々の事業を行ったのではないだろうか。
又、旅程600里、150日余りの旅費等は。幕府が出し、幕府隠密説もあるなど、まだまだ不明な点があり、今後の研究を待ちたい。文章が少々長くなったが最後の文はパート3に回す。

写真は、柚木武夫が解読した「俳諧わせのみち」を平成19年7月滑川市がサミット開催に合わせ発行した復刻版・{縦21㎝・横15㎝。}柚木武夫氏著「滑川の俳諧」。徳城寺境内の「有磯塚」。

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(2023/10/25)

「奥の細道」パート1

早稲の香や 分け入る右は 有磯海  芭蕉

10月25日富山電気ビル内に事務局がある「富山社交俱楽部」{会長・金井昌一氏・元電気ビル社長}で「芭蕉と越中」と題し話をした。正直、私は歴史学者でもなければ、芭蕉の研究者でもない。ましてや俳句も素人の者が芭蕉の話をするのは論外であるが、その経緯について多少述べておく。

平成元年{1989}おくの細道紀行300年を記念して、芭蕉生誕の地伊賀上野市{現・伊賀市}が中心になって翁に関する自治体及び関係団体が一堂に会し、第1回「奥の細道」芭蕉サミットが開催された。
滑川市がこれに初めて参加したのは平成9年{1998}第10回サミットである。私が出席したのは平成16年{2005}でやはり伊賀上野市であった。その時、平成17年開催地は山形県尾花沢。18年は東京都足立区{千住のある区}までは決定していた。

そこで平成19年第20回サミット開催地として本市が立候補し決定された。その大きな理由の一つに、芭蕉が奥の細道紀行の途上において滑川に宿泊した。ところが県内においてさえ、この特筆すべきことが忘れ去られようとしている。
芭蕉翁の奥の細道紀行と、滑川宿泊を顕彰しつつ、本市の芸能・文化の活性化に資するためサミットを開催し市勢発展の一助としたい。との思いがあったからである。

さて「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也・・・」有名な「奥の細道」序章の一節である。芭蕉が旅立ったのは元禄2年{1689}閏3月27日{陽暦5月16日}芭蕉46歳、曽良41歳の時である。東北地方を紀行し、日本海側に出て南下、9月に入り最終地岐阜県大垣まで、旅程約600里、150日余の旅であった。
この内容は「奥の細道」として、元禄7年8月盛夏・素龍清書本として出版された。この本が敦賀市の西村久雄が所蔵し、これを平成17年10月写真複製され、復刻本として発行された{縦16,5㎝、横14,5㎝}その中の、越中の部分を紹介する。

「那古ノ浦」
「くろべ四十八が瀬とかや,数しらぬ川をわたりて、那古と云浦に出、担籠{たご}の藤浪は、春ならずとも,初秋の哀といふべきものをと、人に尋ねれば「是より五里、いそ伝ひして、むかふの山陰にいり、あまの苫{とま}ぶきかすかなれば、蘆{あし}の一夜の宿かすものあるまじ」といひおどされて、加賀の国に入。 わせの香や分入右は有磯海」

これが、越中路の全文である。
以前芭蕉は滑川に宿泊したと巷間伝えられていたことを含め、ほとんどわからない。やはり紀行文である。

ところが昭和18年{13年説も有}奈良天理大附属図書館から、芭蕉に随行した曽良の旅日記が発見され、不明な点がかなり明らかになり、芭蕉研究もこれを機にかなり進んだと言われた。曽良旅日記による越中の部分を記す。

7月13日市振立。虹立。玉木村、市振ヨリ十四、五丁有。中・後ノ堺、川有。渡テ越中方,堺村ト云。加賀ノ番所有。出手形入ノ由。泊ニ至テ越中ノ名所少々覚者有。入善ニ至テ馬ナシ。人雇テ荷ヲ持セ、黒部川ヲ越。雨ツヅク時ハ山ノ方へ廻ベシ。橋有。壱リ半ノ廻リ坂有。昼過、雨為降晴.。申ノ下尅、滑河ニ着、宿.暑気甚し。

14日、快晴,暑甚シ。富山カカラズシテ{滑川一リ程来,渡テトャマへ別}、三リ、東岩瀬野{渡シ有。大川}。四リ半,ハウ生子{渡有。甚大川也。半里計}。氷見へ欲行、不往。

高岡へ出ル。ニリ也。ナゴ・二上山・イワセノ等ヲ見ル。高岡ニ申ノ上刻、,着テ宿。翁、気色不勝。暑極テ甚。小?同然。
15日 快晴。高岡ヲ立、埴生八幡ヲ拝ス。源氏山、、卯ノ花山也。倶利伽羅ヲ見テ、未ノ中刻、金沢ニ着。」

これが曽良旅日記の越中に於ける全文である。{注}7月13日は閏で陽暦では8月27日。
文中?は判読不明。曽良旅日記とは、宿に辿り着いては、疲れた足も伸べやらず無造作に、自己の心覚えにもと、書き留めたそのままのものが、文章も整えられず、清書もされないで、筆者の曽良の手から俳諧ゆかりのある人物の間に転々と秘蔵されつつ、ほとんど世に知られず240年余を経過し昭和10年代に発見されたのである。

これによって芭蕉は間違いなく滑川で宿泊した事をはじめとして、幾つものことが明らかになった。
しかし、現在でも論争になり、定かでない点もある。

①芭蕉の宿泊場所
②早稲の香や・・の句は、どこの風景を見て詠んだのか
③2泊3日の越中路は走り旅で、一句しか詠まず、句会も開かれた形跡さえない。等は今日でもはっきりしない。
現在、早稲の香や・・・の句碑{有磯塚}は県内に10基以上あるが、建立年や経緯、そして最も古いものが滑川市四間町徳城寺境内にある「有磯塚」である。

文章が少々長くなるので,以降はパート2に回す。
写真は、「奥の細道」復刻版を片手に。会場風景。「奥の細道」復刻版。

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(2023/10/25)

錦心流薩摩琵琶演奏会

おしなべて 物を思わぬ人にさえ 心をつくる 秋の初風  西行

第58回錦心流琵琶富山支部{支部長・杉本紫水 後援会長・中屋一博}秋季演奏会が前日の時雨模様から一転新雪輝く立山連峰が青空にくっきりと浮かび上がる好天気の10月22日{日}午後1時より、高岡市文化芸能館3階能舞台で開催された。

特に、今回は例年会場は富山でしたが、呉西の方々にも琵琶の魅力に少しでも理解を深めて頂ければとの思いで高岡で開催した。
お蔭様で80名余の鑑賞者があり盛会裏に終えることが出来た。それにしても能楽堂は素晴らしい会場である。
多分、宝生流能楽を始めとした加賀百万石の文化の影響を受け、このような立派な施設があるのだろうと思う。県内で能舞台があるのは富山市と高岡市の二箇所だけだ。

さて、薩摩琵琶の特徴は材質の胴は「桑」で撥{バチ}は「柘植」であり、しかも扇状の撥がかなり大きい。筑前琵琶は胴は桐であり「やわらかい点で女性らしい」に対し薩摩琵琶は、叩きつけるような弾奏のスタイルで、ダイナミックで情緒的で、楽器として計り知れない表現力を持っていると言われている。
これも薩摩武士の剣術は示現流、武士の魂を鼓舞する薩摩琵琶の取り合わせによって生まれているのであろう。「心の琴線に触れる」との言葉も琵琶の音色から発せられたものかも知れない。

毎年、奈良国立博物館で国宝正倉院展が開催される。以前、私も鑑賞したが展示品の中に聖武天皇愛用の螺鈿紫檀五弦琵琶があった。シルクロードを経由しペルシャから奈良時代には既に日本に楽器として存在していたことに驚きを禁じ得ない。
そんな琵琶を始めとし、能楽、詩吟,漢詩など「日本の良き伝統文化が私達の足元から消えていくような気がする。

今回の演奏曲目は「白虎隊」「青葉の笛」「西郷隆盛」「壇ノ浦」「巌流島」など、ほとんどが歴史的な故事に因んだものばかりある。その内容は親子や肉親などの愛情や友との絆など「孝,信、礼、忠,義」など、今の社会で失われつつある大切なことを教えていると思う。

ところで「不易流行」」という言葉がある。世の中が変わっても変えてはいけない事。変わらない事がある。片や、時代の流れの中で変えていかねばならない事もある。
今回の演奏会には、県内最高年齢90歳の現役奏者である吉崎楓水さんの出演である。吉崎さんのように、琵琶が好きだから。琵琶を愛しているから。との思いは、変えてはならないものであり、有沢結水さんの演目、おとぎ琵琶「ぶんぶく茶釜」には会場から笑いがこぼれるなど、これからの若年層の対象を含め、時代の流れに対応したものであろう。この二つが融合したのが今回の演奏会であった。
14名の出演者は日頃の練習の成果を遺憾なく発揮され、会場を埋めた聴衆を魅了した演奏会であった。

写真は、挨拶する私。演目「富士山」を合奏する杉本支部長と吉崎楓水さん。

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(2023/10/23)

芸術の秋パート3

市美術展会場を後にし、少し遅い昼食後、市内瀬羽町にある国登録有形文化財//ぼんぼこさ{-旧宮崎酒造}や有隣庵{/同文化財旧・土肥家}で開催されている
「酒蔵アート㏌なめりかわ2023」へ向かった。10回目となる今回、2名の作家が初めて出品する中、近年会期中に訪れる人も約1800人と年々増えていることは喜ばしいことです。

今年は、彫刻・写真・陶芸・木工・裂織{さきおり}・造形・華・書・絵画・インスタレーションなど22の個人・団体の力作、大作が出品されていた。このような多彩なアートと歴史ある建造物のコラボレーションが楽しめるとともに、瀬羽町の歴史ある街並みの魅力を発信し賑わいづくりにも繋がっている。

今回特に私の目を引いたのは「裂織」である。
作者の野村順子さんは、10周年記念誌の中で、裂織とは、「経糸{たていと}と主に綿、麻糸、絹を使用して緯糸{よこいと}に古布、着物地を細く裂いたものを使用する織物で、裂織の技法を作品作りに展開して、自然の輝きに呼応する思いで。」と書いておられる。
今回の出品は「紅絹の景色」と題し、真っ赤な裂織が大河のように横に流れる大作であった。

又、手繰明子さんの「希望の結び」はポリエステル入り紙、インクに、自分の希望を書き、ぼんぼこさの中庭の藤棚の藤に結ぶもので
ある。私も一枚書いて結んだが一瞬、七夕の竹に吊るす短冊を思い出した。中々面白いアイデアである。
又、阿波加蒼岳氏{富山県美術連合会会長}の書「立山に 曇沸きあがり 稲の花」美恵子の句 と「酒瓶ラベル」も良よかった。氏は記念誌の中で、「日頃、目にする素敵な言葉、心を打つ言葉など書作品を通して,我々の生活の中に活かされ、感動を与え、心の豊かさにつながっていってもらえばと日々研鑽しています」と述べられている。
他にも素敵な作品が沢山ありましたが紙面の関係で残念ながら割愛させて頂きます。

以上、芸術の秋と勝手に称し友人と3か所巡ってきた。芸術には無縁の私だが、もし、この世に芸術といった分野がなかったら,我々はどんな生活を送っているだろうか。考えたことも,想像したこともない。が、ふとそう思う。しかし、実に味気ない生活であることは間違いない。

それにしても、芸術とは、逞しい創造力と豊かな発想力が必要なことを考えるとやはり私には無理かもしれない。だからこそこのような機会に触れることで、少しでも心が癒され、且つ、心豊かな人生を。と願うものです。

写真は、ぼんぼこさ全景。裂織「紅絹の景」。「希望の結び」「美恵子の句」「酒瓶ラベル千代鶴」

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(2023/10/14)

芸術の秋パート2

東部小学校を後にして滑川市博物館へ向い、第70回滑川市美術展を鑑賞した。
美術展はその名の通り、絵画34点、彫刻・工芸21点、書30点、写真30点と文字通り市美術協会の年に一度の一大イベントである。それ故、それぞれの部門に市展大賞、市展賞、市展奨励賞などがあり、作家の創作意欲を鼓舞し、励みにし、この様な機会を通してレベルアップをしてゆくのだろう。どの作品も力作・大作ばかりであった。

今回、70回目の市展ということは、市制が施行された時が第一回である。色んな団体や会があるが70年も続いているのは、数少ないと思う。そこで第一回市美術展開催に際し、寄せられた当時の赤間市長の巻頭言を紹介する。

「人生短く、芸術長し」というが、芸術を作るのが人間であってみれば、人生そのものも 又、芸術であるともいえる。人の集団共同生活体である、わが滑川は 今や市として発足し、自己をみづからの手で創り上げつつある。これ永遠を目ざす自己造形の芸術にあらずして何ぞや。この時にあたり市民の有識者が相はかり、相むすび互いの作品を批判鑑賞することは洵に有意義というべきである。冀い願わくば 滑川市美術協会が市の行政・産業・経済・文化等 あらゆるものを芸術的に建設する先駆者たらんことを。
【昭和29年8月 滑川市長・赤間徳寿】

格調の高い巻頭言である。

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(2023/10/14)

芸術の秋・パート1

時雨する 加積のさとに一夜寝て けさ立山に あふぐ初雪  玉堂

10月10日、知人と芸術の秋の一環として3か所巡った。最初は、東部小学校校長室である。
ここに川合玉堂が滑川で詠んだ一首が掛け軸として保管されている。本年富山県立水墨美術館で7月14日ー9月3日{前期・後期}まで川合玉堂展が開催された。
それを鑑賞した私の感想を7月末ブログで発信した。この時疑問に思ったことの一部が、今回東部小学校を訪ねたことで判明したので改めて記す。

昭和11年秋、玉堂は黒部峡谷や称名滝をスケッチ旅行している。この旅の途上、中新川郡浜和積村曲渕{現・滑川市曲渕}初代滑川市長赤間徳寿邸に一夜投宿する。翌朝赤間邸を出発する時詠んだのが、標記の一首である。学校には、市教育委員会を通し事前に連絡して頂いたお陰で約束の11時に松田校長の出迎えを受け校長室に入った。

既に、軸は壁に掛けられており、まずその大きさに驚く。縦横約1m余の紙に墨書きしてあり、これが軸装してあるのだからそれ以上の大きさであり、共箱も約1,3m位はある。
この共箱には、玉堂自筆で、赤間邸に宿泊したことや一首詠んだこと、歌碑が建立され、掛け軸に至る経緯が記され,その文を松田校長より頂き説明を受けたが残念ながら私のパソコンでは出てこない昔の漢字があった。しかし概ね理解できた。

合わせて平成18年4月市美術協会発行の記念誌の中に、玉堂に関する記事があった。「川合玉堂と赤間家」と題し、青山外二氏が次のように書いている.「大正・昭和にかけての日本画家・村島酉一{富山市}赤間徳寿氏の教え子である」とあることから、村島と玉堂とが何らかの関係があり、その縁で赤間氏に繋がったと思われる。また、共箱に「赤間君に伴はれて、黒部の秋を探る途次、浜加積の君の邸に投す」と書かれている。黒部から赤間氏が同行したことがわかる。

歌は、昭和11年秋であり、共箱の日付は、昭和15年春半ばとあることから、この3年余の間に赤間氏から、玉堂氏に対し、歌の題箋を含めての要望への返答が記されている。その結果、題箋は「立山初雪之歌」となっている。また、掛け軸は、赤間家から地元の浜加積小学校に寄贈された。しかし昭和42年9月29日、早月加積小学校が火災で全焼。これを機に浜加積小学校と統合し、現在の東部小学校が昭和43年9月1日、開校し掛け軸も引き継がれた。

残念なことはこれ等のことが「川合玉堂展」では触れられていなかったことと、滑川市民が滑川で宿泊し一首詠んだこと、そしてその掛け軸が東部小学校に保管されていること等が記憶の中から忘れされようとしていることである。
是非とも後世に伝えていくべき事でないだろうか。松田校長に見送りを受け玄関に出た時は激しい雨であった。翌日は晴天で、あたかも玉堂が赤間邸に投宿した日の天候と同じ様な気がした。

正に、玉堂が共箱に自筆で経緯を記してあったからこそ、また其の内容を文章として残しておいてくれたからこそ、私達はそれらを事実として知ることができるのである。記憶は曖昧であり、いつか消えていく。
しかし、記録は末永く残り後世の我々に歴史的事実であることを教えてくれる。記録の大切さを改めて思った。
共箱の蓋に書いてあった文章を記す。
難しい字はかたかなにしてありご了承ください。

立山初雪之歌
余曽て赤間君に伴はれて黒部の秋を探る途次浜加積の君か邸に投す其夜時雨れて朝立山連峰初雪の輝くを見る其の壮観偶偶余に此歌を作らしむ後日君これを石に刻みて邸内に建てむとせらる余固く固辞するも君の初志翻へすによしなく遂に工成りて池畔老杉の間に永久の記念を留むるに至る甚だ光栄を感すると共に慚愧に堪えさるものあり君更に其原本に装コウを施して幅と成し題箋を需{もと}めらる余益々恐懼措く能はさるもまた否むによし無く茲に函面に題し併て其由識す
昭和十五年春中ガン  玉堂

川合玉堂、赤間徳寿両氏の略歴
<川合玉堂>
 明治6年―昭和32年、愛知県一宮市生まれ。
 昭和15年66歳で文化勲章受賞。
 近代日本画壇の巨匠

<赤間徳寿>
 昭和17年9月~昭和21年4月 衆議院議員。
 昭和28年11月滑川町長。
 昭和29年3月~昭和33年8月 市制施行により初代滑川市長。

写真は、立山初雪之歌の掛け軸。共箱の蓋と記された文章。

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(2023/10/11)

{一社}滑川青年会議所創立50周年

名月を 取ってくれろと 鳴く子かな  一茶

残暑未だ厳しいとは言え、朝夕の冷え込みが一段と進み10月3日の北日本新聞は、「室堂一帯の紅葉が見頃を迎え、雷鳥沢では、2日ナナカマドの赤とミエカエデの黄、ハイマツの緑が山肌を染め、青空に映えている」と報じている。
確実に秋の足音を感じる季節となりました。

さて、10月1日{日}一社滑川青年会議所創立50周年記念式典及び記念祝賀会が盛大に開催されました。
式典は市民大ホールで、現役会員、シニア会員、県内各JC会員、等約200名が出席し節目を祝いました。式典は50年を回顧する映像が2台のスクリーンに写し出されましたが、今は亡き懐かしい方々の姿を見るとやはり50年の歳月を感じました。

西山剛理事長が「これからも、滑川JCとして地域にに根ざした活動を展開し、さらなる発展に邁進する」と力強く挨拶。上田英俊衆議院議員、麻生将豊日本青年会議所会頭等より祝辞がありました。尚、麻生会頭は麻生太郎元総理大臣の息子さんです。
会頭が滑川のように小さなJCの式典に出席されるのは珍しいことです。

さて、JCとは満20歳から満40歳までの青年たちが、自治体や他団体から金銭的支援を受けず、原則、会の運営は会員の会費収入で活動をしている団体です。活動内容は今では、すっかり定着した「わんぱく相撲ほたるいか場所」「文化講演会」等の開催や「ねぶた流し」への参加や各種事業を活発に展開しています。

私はシニア会員の一人として出席しましたが、卒業して36年。現役のメンバーほとんど知らないのにはやはり年齢を感じざるを得なかった。私は、30歳で入会し、40歳まで10年間在籍しましたが、最後は、富山ブロック協議会北方領土問題特別委員会委員長でした。私の職業は売薬であり、私以外のメンバーは市内で事業を展開する若手経営者です。

よく、県外で事業をする売薬さんがJCに入って、どんなプラスがあるのか。と聞かれました。特に、県外に出張することが多い為、月一回の例会にも中々出席が難しい。そんなハンディもあったが、JCは全国にあり、出張先の秋田県大館、宮城県塩釜、仙台、北海道、深川、留萌、滝川の各JCの例会に出席した。このようにJCに入ったお陰で、異業種交流ができたことは、何よりの財産になった。

また、JCの綱領に「志を同じゅうする者相集い力を合わせ青年としての英知と勇気と情熱をもって明るい豊かな社会を築き上げよう」この言葉に感動した。正直言って、薬業青年部をはじめ業界の様々な会合にでても、このような言葉は無縁でした。
それ故新鮮な驚きを覚えた。私の心の中の何処かに、この言葉と一致した思いがあったから、25歳の時、第一回富山県青年の船に参加したのかも知れません。

そして、JCの「綱領唱和」は薬業青年部の中に取り入れ、文章をかえた形で「配置薬業綱領」として青年部の全国大会で採用した。或は、会や組織の運営についても多くを学んだ10年間であった。結果的にその行動の延長に政治の世界があったと思う。現在現役メンバーが17名と県下では最小のJCですが「小さくともきらりと光る」そんなJCを目指し、60年、70年と引き継いでほしいものです。

懇親会は、会場を新装なった「メリカ」に移し、新田八朗知事も出席され、長岡すみ子民謡シヨーが雰囲気を盛り上げ盛会裏に終了した。
写真は、式典での西山理事長挨拶、麻生会頭祝辞。祝賀会での新田知事祝辞。鏡割り。

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(2023/10/03)

石原良純さんと共に

肩にきて 人にやさしき 赤とんぼ  漱石

9月30日{土}石原良純さんが、上市町新町制70周年記念事業の文化講演会の講師として出席のため来町の帰途、滑川に立ち寄られ、久しぶりに再会し、しばし歓談、痛飲した。彼もコロナ禍はほとんど講演依頼はなく、県外に出ることもなかったという。

そんなことで、彼と合うのは数年ぶりである。会話の中で、やはり昨年2月1日89歳で亡くなった父、慎太郎氏のことである。新型コロナの為、お別れの会は延期され、6月9日東京都内で行われた。
私は新聞報道でその様子を知ったが、各界関係者多数の中で、岸田首相は弔辞で「歯に衣着せぬ物言い,信念を貫くための果断な行動で、強烈な個性に強く引かれた」をはじめ多くの人の弔辞の後、最後に長男の伸晃氏が遺族を代表し「天上界で父は本当に感謝していると思う」と述べられた。

お別れの会に先立ち、記者団の取材に応じた良純さんは「父は皆さんに夢を託されて生きた人間だった」と述べていた。この点について彼は私の問いに「父らしい生き方で、悔いのない、いい人生であった」には私も面識はなかったが同感である。

また、昨年4月彼より「石原慎太郎短編小説全集」①②が送られてきた。その中に、伸晃,良純、宏高、延啓の4兄弟各氏が、はがき大の大きさの台詞に、それぞれの思いが述べられていた中、良純氏は「父にとっては、石原文学の頁を開いて頂けることが何よりの喜びなのではないかと思い献本させていただきます」と記してあった。

今年春には、彼がテレビCM出演している某製薬メーカーの第3類医薬品が送られてきた。私の健康を気使ってくれることには、感謝したい。

さて、私と彼との出会いは2002年4月19日、ホタルイカの海上遊覧の取材で滑川を訪れ市内で宿泊し、その夜寿司屋で会ったのが最初である。その時女優秋野暢子さんも同席していた。それ以来の付き合いだから、もう21年になる。
当日、秋野暢子さん同席の写真を含め思い出のスナップ写真を10枚程持参したが、お互い若かりし頃を懐かしみ16時過ぎから18時半頃まで、話に花が咲きあっという間の2時間半であった。

今回、大学生の息子さん良将君が同行し30日は金沢泊。明日10月1日は日曜日で仕事が入っていないので、親子で金沢市内を見物し帰京するという。良純さんらしい家族思いの一面である。

写真は良純さんと息子良将君。2002年4月良純さんと秋野暢子さん。自宅で家族と。小杉寿司にて等。

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(2023/10/01)

基準地価上昇

9月20日、県は2023年7月時点の県内基準地価を公表した。同時に全国各地の地価の変動も公表された。
県内の基準地価は商業地で2年連続上昇、富山市がプラス1.9%で、10年連続の上昇、理由は新幹線開業と南北接続で利便性向上等があげられる。

住宅地は前年同様、富山市と舟橋村で上がったほか、立山町がプラス0.9%となり、2003年以来20年ぶりに上昇に転じた。
富山市との隣接エリアで分譲地の開発が進んでいる影響とみられている。1㎡当たりの最高価格地点は、商業地が富山市桜町2丁目の56万8千円{2万6千円増・1坪187万4400円}で32年連続、住宅地が富山市舟橋南町の12万8千円{4千円増・1坪42万2400円}で35年連続、上昇率が最大だったのは、富山市牛島町の商業地域で6,9%である。

しかし、下がった地域もある。下落率が最大だったのは射水市新片町{新湊}の住宅地で3,7%だった。しかし、上昇は60地点で2022年度から10地点増えた。全国的には商業地の全国平均は1,4%,三大都市圏は4%のプラスで最高価格は東京都中央区の「明治屋銀座ビル」で1㎡当たり4010万{1坪1億3千233万円}で2019年以来4年ぶりの上昇である。

さて、資本主義社会では、「売る、買う」は需要と供給によって決まり、上昇や下落は当然であり、それぞれ功罪はある。故に、マスコミも今回は淡々と報道していたように思う。
そこで、司馬遼太郎が生前産経新聞「風塵抄」に月1回寄稿していた。平成8年2月12日付「日本に明日をつくるために」として掲載された文を少々長いが紹介する。実はこの日の午後8時50分73歳で亡くなった。まさに死の何日か前に書かれたものであろうが言わば「遺言」のようなものである。

「風塵抄――日本に明日をつくるために」 司馬遼太郎
「この世にはわからぬ事が多い。私の仕事は、古い書籍にかこまれていなければ,常在、不自由する。このため、東京オリンピックのあった昭和39年{1964}に、大阪の西区のアパートから、地価の安い東郊の外れに越してきた。早くいえば場末で、大阪市内であふれ出た家並みの東限になる。乱雑に家屋や木造アパートが建ちつつあった。

それらの低い建物にかこまれて、半段ほどの青ネギの畑があった。ときどき耕すとも見回るともつかぬ態度で、老農婦が姿を見せる。このひとは、法的に農地から宅地に転用されるまでのあいだ、青ネギを植えているいるのである。宅地に転用されれば、坪8万円になるという。法的には、体裁として栽培している。
あるいは、擬態として。さらにいえば半段の農地が大金を生みだすための時間待ちとして、1本5円ほどの青ネギをうえているのである。日本史上、はじめて現出したこの珍事象には、いままでの農業経済論も通用せず、労働の価値論もあてはまらない。労働のよろこびもなく、農民の誇りもない。

いかにえらい経済学者でも、この現象を、経済学的に説明することは、不可能にちがいない。青ネギが成長するころ、その農地は大願成就して、木造二階建アパートになり、そのころには、坪数十万円ぐらいになっていた。いかなる荒唐無稽な神話や民話でも、この現象の荒唐性には、及ばない。
これをもって経済現象と言えるだろうか。日本中が、そのようになっていた。物価の本をみると、銀座の「三愛」付近の地価は、先の青ネギ畑の翌年の昭和40年に一坪450万円だったものが、わずか22年後の昭和62年には、1億5千万円に高騰していた。坪1億5千万円の地面を買って、食堂をやろうが何をしようが、経済的にひきあうはずがないのである。とりあえず買う。1年も所有すればまた騰{あが}り、売る。

こんなものが、資本主義であろうはずがない。資本主義は、モノを作って、拡大再生産のために原価より多少利をつけて売るのが、大原則である。その大原則のもとで、いわば資本主義はその大原則を守ってつねに筋肉質でなければならず、でなければ亡ぶか、単に水ぶくれになってしまう。更には、人の心を荒廃させてしまう。

こういう予兆があって、やがてバブルの時代がきた。日本経済は――とくに金融界がーー気が狂ったように土地投機にむかった。どの政党も、この奔馬に対して、行手で大手を広げて立ちはだかろうとはしなかった。
なにしろ、バブル的投機がいかに妖怪であっても、困ったことに、憲法が保証する経済行為なのである。立法府も行政府も、法を基準としている以上、正面から立ちはだかるのは、立場上、やりにくかったのだろう。

しかし、誰もが、いかがわしさとうしろめたさを感じていたに相違ない。その後ろめたさとは、未熟ながらも倫理観といっていい。
日本国の国土は、国民が拠って立ってきた地面なのである。その地面を投機の対象にして物狂いするなどは、経済であるよりも、倫理の課題であるに相違ない。ただ、歯がみするほど口惜しいのは、「日本国の地面は、精神の上において,公有という感情の上に立ったものだ」という倫理書が、書物としてこの間、誰によってでも書かれなかったことである。

例えば、マックス・ウェバーが1905年に書いた「プロテスタンティズムと資本主義の精神」のような本が、土地論として日本の土地投機時代に書かれていたとすれば、いかに兇悍のひとたちも、すこしは自省したに違いなく、すくなくともそれが終息したいま、過去を検断するよすがになったに違いない。

住専の問題がおこっている。日本国にもはや明日がないようなこの事態に、せめて公的資金でそれを始末するのは当然のことである。その始末の痛みを通じて、土地を無用にさわることがいかに悪であったかを――思想書を持たぬままながら――国民の一人一人が感じねばならない。でなければ、日本国にあすはない」

これが全文である。

私には、このような名文は書けないが意とすることは理解できる。
資本主義とは、土地を無用にさわる事は、等かってのバブル崩壊から我々は多くの教訓を得たはずである。バブルとは膨れ上がった風船である、いつか破裂する。破裂した時が崩壊である。
平成8年前後と現在とは、社会情勢も経済環境もちがうから、同一には論じられない。あの時、県内のある金融機関も600億円を超す公的資金が投入された忘れることの出来ない苦い思いがある。基準地価が徐々に上がりつつある現在、バブル崩壊した時の教訓を思い起こすべきであろう。私の思いが杞憂に終わることを念じ――。

写真は、平成8年{1996}2月12日の産経新聞。

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(2023/09/23)
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