なかや一博 ブログ

月別アーカイブ: 2024年9月

浄瑠璃寺と岩船寺

22日午前浄瑠璃寺と岩船寺を見学した。
両寺共、京都の最南部にあり行政区域は京都府ですが、奈良県境まで約200mと近く、それゆえ、この一帯は古来より南都{奈良}仏教の聖地として大寺の僧が世俗の喧騒を離れ、修養,研鑽のため出入りした地域で、奈良仏教を色濃く反映した寺であった。

浄瑠璃寺は平安時代後期[藤原期}の日本が生み出した池を中心とした浄土式伽藍で、ただ一つ完全な形で残っている寺である。即ち西方極楽浄土の阿弥陀如来を西に、東方浄瑠璃浄土の薬師如来を東に、中央には宝池をおいて美しい浄土を現出している。
しかも、西の阿弥陀如来は、これも現在ただ一つになった九体仏である。九体仏とは、一つのお堂を厨子に見立て、横一列に九体の阿弥陀如来を並べ、、藤原道長の時代に多く見られる。

しかし、現存するのはここ一か所のみである。又、特別名勝及史跡指定の境内には、多数の国宝や重要文化財など25の宝物が昔のままで守り通されている。

藤原時代の堂塔、仏像、庭園がまとまって存在するこの浄土式伽藍とは、澄みきった清浄の世界を云う。そして、太陽の昇る東方にある浄土の教主は薬師如来で、国宝三重塔は、秘仏薬師如来像{重文}が安置され、片や太陽が進み沈んでいく西方の池越しに、九体阿弥陀堂{国宝}があり、その中の中央に大きな九体阿弥陀如来中尊像{国宝}が安置され、その左右にそれぞれ4体の阿弥陀仏{国宝}安置されている。

つまり、太陽の沈む西方浄土へ迎えてくれる阿弥陀仏を西に向かって拝めるよう東向きにし、前に浄土の池をおき、その対岸から文字通り彼岸に来迎仏を拝ませる形にしたもの{パンプレットより一部抜粋}、特に今回秘仏の薬師如来が彼岸の時期ご開帳とのことで拝観出来ました。又、たまたま団体客が来たことで、住職ご本人がガイド役になって平易に解説して頂いたことは幸いだった。

その後、岩船寺にも立ち寄ったが浄瑠璃寺と重なる部分が多々ありましたので割愛します。三泊四日の旅であったが、前半は幕末の激動期、後半は民の苦悩を救うみ仏との対話。まったく対照的な見学地であったが心に残る旅であった。

昼食後、木津駅から富山へ。夕方安着。走行距離1200㎞以上を一人で運転してくれた甥に感謝、感謝である。

写真は、秘仏薬師如来が安置されている国宝・三重塔。九体の阿弥陀如来が安置されている国宝・九体阿弥陀如来堂。

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鞆の浦と「いろは丸」事件

21日朝食後、坂本竜馬いろは丸事件談判の地、鞆の浦へ向かう。
鞆の浦は瀬戸内海のほぼ中央に位置し、この辺りで、潮の流れが変ることから、潮待ち、風待ちの港として栄え、昭和9年{1934}3月16日,日本で最初の国立公園に雲仙、霧島、そして鞆の浦を中心とした瀬戸内海が指定された。

その鞆の浦の福禅寺は平安時代創建と伝えられ、元禄時代に客殿が建立されました。この客殿からの瀬戸内の眺めが素晴らしく、特に1711年{正徳元年}朝鮮通信使は、この景観を「日東第一形勝」日の昇る東の国で一番の景色であると賞賛し、侍従官李邦彦は書を残しました。また、1748年{延享5年}には正使洪啓嬉は客殿を「對潮楼」と命名し、洪景海も其の書を残している。私もその絶景に暫し見とれた。

さて、慶応3年{1867}4月23日深夜、日本初の蒸気船同士の事故が瀬戸内海の六島沖で起こった。大阪に向かっていた坂本竜馬率いる海援隊の乗った「いろは丸」と長崎に航海していた紀州藩船「明光丸」が衝突。いろは丸は沈没する。沈没前に全員明光丸に乗り移り、避難したのが鞆の浦港であった。ここで3回会談が行われるが決裂した。3度目の会談が行われたのが「對潮楼」であった。

いろは丸は土佐藩が大洲藩から15日間一航海500両で借用した蒸気船で、160トンの英国製。一方明光丸は、御三家・紀州藩の蒸気船で887トン英国製である。竜馬の主張は、万国公法を持ち出し、非{詳細は割愛}は明光丸にあり。
よって「いろは丸」の積荷、最新式ミニエー銃400丁を含め、大量の銃火器類や、当時高価な砂糖などの補償として金8万三千両を要求。紀州藩は断固拒否。鞆の浦、滞在3日間,3度の激烈な断交も決裂し、逃げるように明光丸は長崎へ向かう。後を追うように竜馬らも長崎へ。数度にわたる交渉の結果、7万両の賠償金が支払われた。

御三家の一つ紀州藩を相手に万国公法を持ち出し、賠償金を手にした竜馬や海援隊の名は一気に上がったという。近年地元では何度か潜水調査が行われたが、残念ながら400丁の鉄砲のかけらも発見されていない。果たして竜馬のはったりだったのか。未だ謎である。謎の方がロマンがあって良いかもしれない。鞆の浦には竜馬が滞在中の桝谷清右衛門宅の部屋が当時のまま保存されていたり、潜水調査でいろは丸から引き上げられた船体部分や日用品などの遺物などが展示してあるいろは丸展示館や、実物の5分の2に復元され小島との定期便として運行されている「いろは丸」など見どころ満載の鞆の浦でした。

慶応2年{1866}1月21日竜馬立会いのもと、薩長同盟成立。1月23日伏見寺田屋で幕吏の襲撃を受ける。寺田屋事件。慶応3年4月23日いろは丸事件。6月26日京都で「船中八策」成文化。11月15日近江屋で暗殺される。竜馬16日未明死去。享年33歳。一緒にいた中岡慎太郎17日死去.享年30歳。17日京都東山霊山墓地に埋葬。現在、竜馬のお墓の横に中岡慎太郎、その脇に当日「しゃも」を買いに行った下僕藤吉の小さな墓石があり、東山の山麓から京都市中を眺めているように立っている。

司馬遼太郎の「竜馬がゆく」では「天が、この国の歴史の混乱を収拾するために、この若者を地上に下し、その使命が終わった時、惜しげもなく天へ召しかえした」と表現している。又、この地には幕末の動乱や維新の戦いで亡くなった多くの人々のお墓もある。この墓地の下の方に、護国神社があり、その前に「霊山歴史館」がある。この建物は、松下財団が明治100年を記念して、昭和43年建設したもので、別名幕末維新ミュージアムとも言われ、暗殺現場の近江屋二階が立体的に再現されていたり、竜馬暗殺に使用されたと言われる刀が展示してある。館名通り幕末維新に特化した歴史館で、年2-3回企画展が開催され、私も何度も見学している。

さて、「人間は二度死ぬ。と云う。一度は肉体が滅びた時。もう一度は、人々の記憶から消えた時。と云う。」竜馬のお墓には,香が絶えることがないと云われ、霊山歴史館では、竜馬の生き生きとした姿を見るとその言葉を思い出す。

竜馬は長崎での談判の最中、「よさこい節」の歌詞を変え、「船を沈めたそのつぐないは、金を取らずに国を取る・・・」などの唄を、丸山の花街からはやらせ庶民の同情を集め賠償金交渉を有利に導いたとも言われている。

竜馬の短歌に
①丸くとも 一かどあれや人心 余りまるきは転びやすきぞ
②世の人は われをなにとも ゆはばいへ わがなすことは われのみぞしる

こんな唄を、妻お竜が好きだった月琴を奏でながら弾いている姿を勝手に想像したりした。
いづれにしても、満足した鞆の浦紀行であった。遅い昼食後木津川へ帰還した。
写真は、「對潮楼」から眺めた借景式の瀬戸内海。いろは丸展示館。

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下関・長府散策

19日は姉の木津川市に宿泊し20日未明、2時、甥の運転で下関-長府へ出発。目的は幕末の長州・長府を旅する。であります。
京都・大阪周辺の迷路のような高速道路のジャンクションを経て,山陽道へ、途中休憩をはさみ9時頃長府到着。

①功山寺
文久3年8月18日の政変で尊王攘夷派の筆頭三条実美を始めとした七卿の都落ちの際、滞在した潜居の間がある。境内に高杉晋作騎馬像の回天義挙の銅像

②長府毛利邸
毛利元就の四男で初代長府藩主として、下関の礎を築いた毛利秀元公銅像があり、明治36年長府毛利家の邸宅として造られ、大正8年まで使用された。

③乃木神社
乃木希典将軍の旧宅があった所に乃木神社が建てられた。夫妻の遺品や資料が多数展示してある資料館や乃木夫婦とステッセル将軍から贈られた愛馬壽号が並んだ銅像。「水師営の会見」の歌詞に出てくるナツメの木が移植され、現在6代目として大木に成長していた。

それ以外に長州藩武家屋敷、下関市立歴史博物館などを見学しました。長府を舞台にした激動の幕末の1ページ充分堪能した散策でした。
尚、日清講和記念館や赤間神社、馬関戦争資料館などは以前見学していましたので今回は割愛しました。

この日は西条市で宿泊。

写真は、功山寺境内の高杉晋作回天義挙の騎馬像。乃木神社境内の夫妻と愛馬壽号の銅像。     

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司馬遼太郎記念館

9月19日{金}東大阪市にある司馬遼太郎記念館を久しぶりに訪ねた。以前その時の思い出を書いているので、今回は多少加筆する。

さて、氏が亡くなったのは1996年2月12日である。その5年後2001年自宅敷地内に記念館が建設された。
私が、司馬作品に最初に出会ったのはやはり「竜馬がゆく」であった.昭和40年代前半、年代は20代の前半である。以来多くの作品を乱読したが、どの本を読んでも、血湧き、肉踊り、次のページ、次のページとめくり、本から目を離せない状態で読んだ記憶がある。

又、氏の特徴は「峠」の河井継之助,「花神」の大村益次郎、「坂の上の雲」の秋山好古・真之兄弟など,余り知られていなかった人物が竜馬を筆頭に、司馬作品によって現代に蘇ったと言っても過言ではないと思う。

私は、司馬作品に論評を加える程の資格はないが、印象に残っている2点を述べてみる。
産経新聞に月1回寄稿しておられた、風塵抄―1996年2月12日付に「日本に明日をつくるために」と題し,寄稿文が掲載された。実はこの日が氏が亡くなった日である。多分これが氏の絶筆と思われるから、不思議な縁を感じる。

要約すると、氏が東大阪に引越ししたのが昭和39年である。「当時自宅周辺の畑は1本5円ほどの青ネギ畑で、この土地を宅地に転用されれば坪8万円になる。ところが、青ネギが成長する頃には,坪数十万円になっていた。そして銀座の「三愛」付近の地価は、昭和40年、坪450万円だったものがわずか22年後の昭和62年には1億5千万円に高騰していた。
坪1億5千万円の土地を買って、食堂をやろうが、何をしょうが、経済的に引き合うはずがないのである。とりあえず買う。1年も所有すればまた上がり、売る。こんなものが資本主義であろうはずがない。

資本主義はモノを作って、拡大再生産のために原価より多少利をつけて売るのが大原則である。その大原則のもとでいわば資本主義はその大原則を守って常に筋肉質でなければならず、でなければ滅ぶか、単に水ぶくれになってしまう。さらに人の心を荒廃させてしまう。こういう予兆があって、やがてバブルの時代が来た。

しかし、どの政党も、この奔馬に対して行く手で大手を広げて立ちはだかろうとはしなかった。{中略}しかし、誰もがいかがわしさと、うしろめたさを感じていたに相違ない。そのうしろめたさとは、未熟ながらも倫理観といっていい。日本国の国土は、国民が拠って立ってきた地面なのである。その地面を投機の対象にして物狂いするなどは、経済であるよりも倫理の課題であるに相違ない。

「日本国の地面は、精神の上において,公有という感情の上に立つものだ」という倫理書が、書物としてこの間、誰によってでも書かれなかったことである。{中略}住専の問題がおこっている。日本国にもはや明日がないようなこの事態に、せめて公的資金でそれを始末するのは当然のことである。その始末の痛みを感じて、土地を無用にさわることがいかに悪であったのかを・・・思想書を持たぬままながら・・・国民の一人一人が感じねばならない。でなければ、日本国に明日はない。」

これが28年前書かれた文である。現在でも、将来にわたっても通用する言葉である。

政治家、経済人、国民も今一度この言葉を噛み締めるべきでなかろうか。
次に、小学6年生の教科書向けに書き下ろし,「自己の確立」を説いた「21世紀に生きる君たちへ」{1989}である。この中で、司馬さんは、歴史とはなんでしょう、と聞かれるとき「それは大きな世界です。かって存在した何億という人生がそこに詰め込まれている世界なのです」と答えることにしている。私には幸いこの世にたくさんの素晴らしい友人がいる。

歴史の中にもいる。そこにはこの世では求めがたいほどに素晴らしい人たちがいて、私の日常を励ましたり、慰めたりしてくれているのである。だから私は少なくとも二千年以上の時間の中を、生きているようなものだと思っている。
又、自分に厳しく、相手にやさしく、いたわり、それを訓練せよ。それらを訓練することで、自己が確立されていくのである。そして、たのもしい君たちになっていくのである。」{以下略}

司馬さんは21世紀を待たずして72歳で亡くなった。国民作家が子どもたちに未来を託したこの本は世代を超えて読み継がれ、今、尚、力強いメッセージを放っている。お薦めしたい1冊である。

記念館は1階のフローアは高さ11mの壁面いっぱいに書棚が取り付けられ、資料、辞書、翻訳など2万冊もの蔵書がイメージ展示してある。

又、自宅の玄関,、廊下、書斎、書庫などの書棚に約6万点の蔵書があるという。正に、図書館である。
この多くの資料の中から珠玉の一滴一滴を丹念に取り出し、光り輝き、躍動する文章にしてゆく。それが司馬作品なのだろうと思う。尚、今回の企画展は「空海の風景」であったが機会があればこの内容もお伝えしたいと思います。

2時間半余りの滞在であったが、アッという間の時間であった。この日は京都府木津川市にいる姉の家に宿泊した。
写真は、記念館前にて。中庭から見たサンルームと奥は書斎。ここで数々の作品が生まれた。

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関東滑川高校同窓会

落ち鮎の 佳き香り立つ 囲炉裏焼  高島学人

9月14日{土}12時より東京ガーデンパレスで標題の総会・交流懇親会が約50名の参加のもと開催されました。富山からの参加は私と金田幸徳校長と二人です。

さて、この会は東京周辺の滑川高校卒業生が、母校や故郷の縁ある者が集まる機会があれば、との思いから、昭和55年6月東京の富山会館で180名が参加し,隔年開催として「関東滑川高校同窓会」が設立されました。以後、平成12年頃一時休止。再開後もコロナ感染症での中止など紆余曲折を得て、久しぶりの開催となりました。

議案審議は滞りなく終えましたが、小幡会長は体調不良のため退任され、新会長に13回卒業の松村俊夫氏が就任されました。松村会長挨拶の後、来賓の金田校長から学校の近況報告、福田富昭氏{13回卒}より村上英士朗選手を含めたパリ五輪の報告がありました。

私には、記念講演として「滑川高校110年の歴史と伝統」と題し話しました。当初10分程度と言われましたが、110年の歴史や伝統は10分では話せないと申し上げたところそれでは20分となりましたが、多少消化不良でした。
しかし、同窓生の方々を前にして、このような機会を与えて頂いたことに感謝しています。

乾杯は平山隆一顧問{11回卒}の音頭で始まり賑やかに懇親会に入りました。
余興として、都内神田で歌声喫茶を経営している方がアコーデオンの伴奏で、私の年代なら誰もが知っている歌を十数曲歌われました。私の青春時代には、歌声喫茶は富山市内にありましたが、今はなく大変懐かしく思わず私も口ずさみました。

それにしても、数年ぶりの再会であり,各テーブルでは、それぞれの健康を気使いながら談笑の輪ができていました。私も何回か出席しましたが、小幡前会長には、100周年の折お世話になりました。今日までの労に心から感謝申し上げ、松村新会長のご活躍をお祈りしたいと思います。

最後に全員で校歌を合唱し閉会となりましたが、校歌を歌うとどうしても多感なる高校生活の懐かしい思い出が去来するし、時代時代の明暗と哀歓が彷彿として思い浮かんできます。
そしてその一コマ一コマは深い友情で結ばれた出会いと別れという青春の讃歌が鮮やかに蘇り、胸の熱くなるのを覚えます。誰にも生まれ育った故郷があり多感な青春時代を過ごした学び舎、母校があります。

その母校の発展は、関東滑川高校同窓会とも共通の願いであり喜びでもあります。滑川を離れ、遠く関東から母校に心を寄せている方々がおられることは、本当に有難く心強い限りであります。
関東滑川高校同窓会の発展を念じ、別れを惜しみつつ再会を楽しみにして会場を後にしました。

写真は、講演中の私。滑川市名誉市民、日本レスリング協会元・会長の福田富昭氏

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