なかや一博 ブログ

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琵琶追悼演奏会

肩にきて 人にやさしき 赤とんぼ  漱石

錦心流琵琶第59回富山支部{支部長・嶺瑛水 後援会長・中屋一博}の秋季演奏会を前支部長・杉本紫水{操}追悼演奏会を兼ね、10月14日午後1時から富山駅前マリエ7階県民小劇場オルビスで開催されました。

当日は杉本さんにご縁のある東京より全国一水会本部名誉顧問・森中志水先生を始めとして、金沢・福井両支部からも友情出演がありました。杉本さんは昨年11月28日突然不帰の人となられました。享年81歳でした。

私が最後に杉本さんの演奏をお聞きしたのが、昨年10月22日高岡市能楽堂で開催された秋季演奏会が最後でした。その時、現役最高年齢奏者で90歳の吉崎楓風さんと「富士山」を合奏され、薩摩琵琶特有の大きな撥を華麗に捌き、力強い音色と語り口が遺憾なく発揮され会場を埋めた多くの聴衆を魅了された姿が忘れられません。その後、11月に入り高岡の演奏会の写真を届けていただいた時、お話したのが最後の別れとなりました。

そんなことで,去る5月5日滑川で開催された春季演奏会も杉本さんの出身地でもあり、一応追悼演奏会としましたが、今回は杉本さんとご縁のある本部から森中先生、また、金沢・福井両支部からの友情出演もあり正式な形で追悼演奏会となりました。

当日は1時開演でしたが、10分前に杉本さんが平成29年「じょうはな座」で「井伊直弼」を演奏されたビデオが上映され、在りし日の杉本さんを偲びました。今回12名の方が演奏されましたが、ほとんどが以前杉本さんが演奏された曲目であり、ここでも杉本さんに寄せる思いの表れであったと思います。

また、杉本さんが演奏された「井伊直弼」も会員が演奏したり、春季演奏会でも演奏された、大内隆作詞「晩歌」に、高堂隴水さんが、在原業平の辞世の歌「ついに逝く 道とはかねて聞きしかど 昨日今日とは 思わざりけり」や漢詩・安藤漢城作「追悼の詞」を挿入し、演奏途中「杉本先生 杉本先生」と叫び朗々と奏でられたのには、胸を打たれました。特別出演の森中志水先生は、杉本さんにとっては何かと相談できる頼りがいのある人で、大変親しく接しておられました。森中先生の名は志水。杉本さんは紫水。両者とも「しすい」これも何かの縁かと思います。

それにしても、琵琶を始めて30年、これからまだまだ期待されていただけに、やはり残念であり、世の無常を感ぜずにはおれません。また、昨年90歳で出演された吉崎楓風さんは、今年は91歳で出演され、杉本さんの娘さんである有澤結水さんと「月下の陣」を合奏されました。91歳でも琵琶にかける情熱には驚きますし、私自身に元気,勇気を頂くような気がしました。

「人間は、夢を持ち前へ歩き続ける限り 余生は要らない」伊能忠敬の言葉を思い出します。いづれにしてもこの雰囲気は、杉本さんに届いたような気がしました。演奏会終了後懇親会を開催し、再び杉本さんの思い出に暫し浸りました。

写真は、挨拶する私。在りし日の杉本さん。嶺支部長挨拶。最高齢の吉崎さんと有沢さんの合奏。

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滑川温水プール開設30周年記念

10月14日滑川温水プール開設30周年記念式典がサンアビリティーズ滑川で、関係者多数出席のもと開催されました。
式典は佐藤裕彦理事長の挨拶に次いで、水野市長、尾崎市議会議長の祝辞、私を含めた来賓紹介、続いてプール開設以来30年の永年会員個人と法人及び高齢者の約30名が表彰の栄に浴されました。
短時間ではありましたが厳粛な式典でした。

意外だったのは30年の長きにわたりプールに通い続ける方が30名近くもおられることに正直言って少々驚きました。一口に30年と言っても中々出来ることではありません。
いずれにしてもこの施設が、滑川市並びに周辺地域の人たちの健康増進、体力増強等に大きな役割を果たしていることを改めて再認識をしました。

そこで、本市に現在の室内温水プールが建設された経緯について多少記しておきます。
平成4年頃から市内の水泳関係者を含め、2万人を超える署名を添えて、市当局、市議会に「市営温水プール建設」の陳情が出されました。昭和60年に滑川市総合体育館、平成3年武道館が建設されました。

他市にあって本市に無いのは温水プール。そんな思いが陳情活動に繋がったと思われます。当時はバブル経済の真っ只中、全国各地の自治体が地域活性化の名の下、競うようにハードな施設の建設ラッシュでした。竹下首相の「ふるさと創生」として、全国3300余の自治体に1億円を配ったのもこの時代です。国も地方も多少財政に余裕があった時です。
現在と比較すると実に羨ましい限りです。

しかし、当時の本市は滑川中学校と早月中学校の2校の新築を計画しており、プールの建設費は一時的であるが、問題は年間の維持管理費です。当時の試算では3500万円から4500万円程とされました。2校の中学校新築の大型事業を抱えている中で、果たして本市の財政状況で、毎年これだけの支出に耐ええるのか。これが議論になりました。

そんな時、全国各地で温水プールの運営に携わっていたのが、公益財団法人・体力づくり指導協会{事業本部・東京都江東区大島1丁目2-1}でありました。当時の理事長は日本レスリング協会の笹原正三氏であり、その人脈の中に現在滑川市名誉市民の福田富昭氏、加えてこの様な施設の整備に補助金を出していた宝くじ協会に本市に縁のある方もおられ、この協会に運営を委ねる話が持ち上がりました。

その結果、市内に温水プールがないことも考慮し、準市民プール的な存在とし、幅広く市民に利用できるように要望を付け、土地は無償貸与、建物は体力づくり協会と宝くじ協会の補助金等と市費で建設することとなった。

当時の資料を見ると、
竣工式・施設オープン 平成6年7月6日
建設費総費用 4億4496万円
市の補助 約48% 2億1358万円
市の運営管理補助金 年間1344万円
利用料金 大人 300円
プール 25m×7コース 水深1,2m 室内温水プール。

子供から大人までの水泳教室も開催する。
そして建物は集成材を使用した木造建築物として注目を集めてオープンしました。

また、厚生連滑川病院も準市民病院的な総合病院として、市より補助金がでています。近年では、氷見市民病院が建物の建設費は氷見市が負担し、管理運営は金沢医科大学が行い、温水プール同様補助金を出すものです。
いわゆる官民連携による、公設民営化です。

これによって市営でやるよりも、建設費も年間の維持管理費もかなり軽減されます。そして30年後の今日を見ますと、利用料金・大人300円が450円と値上がりしていますが、年間の管理運営費は1374万円余りと殆ど変化はありません。燃料の灯油は平成6年は1㍑50円は現在では倍以上の価格です。消費税も当時の3%から現在では10%。当然のことながら賃金も、各種の維持費も30年間ではそれなりに値上がりしています。こう考えると利用料金の値上げは止むを得ないと思います。

ただ、施設の大規模修繕や改修などは、過去何度かあり、市はその都度応分の負担はしていますが、これだけ長期間運営管理補助金が据え置かれてきたのは不思議な感じがします。もし、市営プールであったら恐らく相当な金額になっていると思います。各種の水泳教室などの企画を通し、地域の人たちの健康増進、体力増強に果たしている貢献は極めて大きいものがあると思います。

また、競技力の向上も目覚ましいものがあり、昨年当プールを利用している早月中学校男子2年生が全国ジュニア・オリンピック・カップで数種目で金メダルを獲得。同選手は12月オーストラリアのクインーズランドで開催されたジュニア・オリンピック11歳-12歳区分で数種目で大会新で優勝するなど、個人の部で7個、団体で2個、計9個の金メダルを獲得するなどの快挙を挙げ、これに続けと魚津西部中学校1年生の生徒もジュニアオリンピックカップで好成績を挙げ「滑川温水プール」の名を一躍有名にしました。
これらのことを総合的に考えると「体力つくり指導協会」の経営努力には敬意を表したいと思います。

今後とも1人でも多くの人が「滑川室内温水プール」を利用することです。そして地域住民の健康づくりに貢献する施設として、愛され、親しまれる温水プールとなるため、行政・地域住民・協会が連携してゆくことが大事であると思います。

写真は、挨拶する佐藤理事長。温水プール外観と内部。

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「あれから60年」

おさむ節 唄いつづけて60年 還暦迎え 衰え知らず

竹氏修「NHK民謡日本一 あれから60年」と題し 10月6日{日}午前11時より新川文化ホールで盛大に開催されました。
私の知人である竹氏さんが、昭和40年{1965}3月21日東京日比谷公会堂で開催された第18回NHKのど自慢全国コンクール「民謡の部」で越中おわら節を唄い、民謡日本一輝かれました。

その後、昭和42年{1967}魚津郭声{かくせい}会を結成し、日本民謡協会に加盟されました。又、昭和61年{1986}刑務所入所者への民謡指導等により、法務大臣表彰、平成3年{1991}社会福祉活動により富山県功労賞受章、同年協会より民謡技能賞を受章されるなど、民謡・民舞の保存、育成及び普及や地域社会の文化向上に寄与されました。

その後、平成24年{2012}10月30日に、「越中おわら節」の真髄を探求し続けたその歌唱力と鍛錬された伸びやかな高音の美声が民謡会の至宝と認められ、この至芸に対し財団法人日本民謡協会より数少ない民謡名人位の称号が贈られました。

これに感激された竹氏さんは、平成25年{2013}9月22日、清水寺の国宝本堂「ヒノキ舞台」で日頃より懇意にしておられる森清範貫主臨席のもと「越中おわら節」を中心に富山県の民謡を数曲感謝奉納されました。
私も森貫主の隣で鑑賞しましたがその迫力に圧倒されたことを思い出します。

それにしても当日は、郭声会のメンバー、踊り、尺八、三味線、胡弓、太鼓、鐘などの人に加え、応援団を含め総勢100名を超える正に竹氏軍団には驚きました。私は「滑川音羽の会」として竹氏さんとは別行動で、20名で清水寺で合流、鑑賞後別れました。

さて、10月6日は
①オープニングは、竹氏修の唄3曲。利田荷方節。越中おわら節。布施谷節。
②魚津郭声会の唄声。会員10人、其々1曲。
③賛助出演 魚津せりこみ蝶六保存会の唄と踊り。
④賛助出演 藤間松山・踊り。長唄・新曲「鶴の寿」
⑤特別出演 民謡歌手・内山久子の唄。南部よしゃれ。鬼怒の船頭唄。秋田米とぎ唄。
⑥賛助出演 祐和会 唄・谷口寛美。津軽よされ節。
⑦賛助出演 華の会 唄・正調・高岡なき荷方節{CD}踊り・筏井豊華翔他。
⑧賛助出演 北陸秀城会・こきりこ節。踊り、唄い手、囃子、三味線、胡弓、太鼓
⑨賛助出演 魚津蜃気楼節保存会。踊り、魚津蜃気楼節、魚津小唄。
⑩賛助出演 藤間松山・踊り。長唄「老松」
⑪特別出演 民謡歌手・内山久子の唄声。本荘追分。長崎さわぎ。磯はら節。
⑫竹内修がふたたび唄う  唄・新相馬節。踊り・しばんば。唄・お立酒。
⑬みんなで唄おう、踊ろう、越中おはら節。竹氏修ほか出演者の皆さん。

午前11時から午後3時頃まで多彩な内容で飽きない4時間余りでした。
それにしても米寿にしても衰えぬ声量、民謡に寄せる情熱には感服します。

米国の詩人,サミュエル・ウルマンは詩、「青春」で、
「若さとは、人生のある期間を云うのではなく、心の一つの持ち方を云うのだ{中略}年齢を重ねただけでは人は老いない。70歳であろうと、16歳であろうと理想を失った時、初めて老いが訪れる。歳月は皮膚にしわを刻むだけだが、情熱を失う時、精神がしぼんでゆく。」
{以下略}

竹氏さんを見ていると青春の詩とダブって見える。
我もまた、かくありたいものである。

写真は、プログラムと「越中おわら節」を唄う竹氏さん。       

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浄瑠璃寺と岩船寺

22日午前浄瑠璃寺と岩船寺を見学した。
両寺共、京都の最南部にあり行政区域は京都府ですが、奈良県境まで約200mと近く、それゆえ、この一帯は古来より南都{奈良}仏教の聖地として大寺の僧が世俗の喧騒を離れ、修養,研鑽のため出入りした地域で、奈良仏教を色濃く反映した寺であった。

浄瑠璃寺は平安時代後期[藤原期}の日本が生み出した池を中心とした浄土式伽藍で、ただ一つ完全な形で残っている寺である。即ち西方極楽浄土の阿弥陀如来を西に、東方浄瑠璃浄土の薬師如来を東に、中央には宝池をおいて美しい浄土を現出している。
しかも、西の阿弥陀如来は、これも現在ただ一つになった九体仏である。九体仏とは、一つのお堂を厨子に見立て、横一列に九体の阿弥陀如来を並べ、、藤原道長の時代に多く見られる。

しかし、現存するのはここ一か所のみである。又、特別名勝及史跡指定の境内には、多数の国宝や重要文化財など25の宝物が昔のままで守り通されている。

藤原時代の堂塔、仏像、庭園がまとまって存在するこの浄土式伽藍とは、澄みきった清浄の世界を云う。そして、太陽の昇る東方にある浄土の教主は薬師如来で、国宝三重塔は、秘仏薬師如来像{重文}が安置され、片や太陽が進み沈んでいく西方の池越しに、九体阿弥陀堂{国宝}があり、その中の中央に大きな九体阿弥陀如来中尊像{国宝}が安置され、その左右にそれぞれ4体の阿弥陀仏{国宝}安置されている。

つまり、太陽の沈む西方浄土へ迎えてくれる阿弥陀仏を西に向かって拝めるよう東向きにし、前に浄土の池をおき、その対岸から文字通り彼岸に来迎仏を拝ませる形にしたもの{パンプレットより一部抜粋}、特に今回秘仏の薬師如来が彼岸の時期ご開帳とのことで拝観出来ました。又、たまたま団体客が来たことで、住職ご本人がガイド役になって平易に解説して頂いたことは幸いだった。

その後、岩船寺にも立ち寄ったが浄瑠璃寺と重なる部分が多々ありましたので割愛します。三泊四日の旅であったが、前半は幕末の激動期、後半は民の苦悩を救うみ仏との対話。まったく対照的な見学地であったが心に残る旅であった。

昼食後、木津駅から富山へ。夕方安着。走行距離1200㎞以上を一人で運転してくれた甥に感謝、感謝である。

写真は、秘仏薬師如来が安置されている国宝・三重塔。九体の阿弥陀如来が安置されている国宝・九体阿弥陀如来堂。

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鞆の浦と「いろは丸」事件

21日朝食後、坂本竜馬いろは丸事件談判の地、鞆の浦へ向かう。
鞆の浦は瀬戸内海のほぼ中央に位置し、この辺りで、潮の流れが変ることから、潮待ち、風待ちの港として栄え、昭和9年{1934}3月16日,日本で最初の国立公園に雲仙、霧島、そして鞆の浦を中心とした瀬戸内海が指定された。

その鞆の浦の福禅寺は平安時代創建と伝えられ、元禄時代に客殿が建立されました。この客殿からの瀬戸内の眺めが素晴らしく、特に1711年{正徳元年}朝鮮通信使は、この景観を「日東第一形勝」日の昇る東の国で一番の景色であると賞賛し、侍従官李邦彦は書を残しました。また、1748年{延享5年}には正使洪啓嬉は客殿を「對潮楼」と命名し、洪景海も其の書を残している。私もその絶景に暫し見とれた。

さて、慶応3年{1867}4月23日深夜、日本初の蒸気船同士の事故が瀬戸内海の六島沖で起こった。大阪に向かっていた坂本竜馬率いる海援隊の乗った「いろは丸」と長崎に航海していた紀州藩船「明光丸」が衝突。いろは丸は沈没する。沈没前に全員明光丸に乗り移り、避難したのが鞆の浦港であった。ここで3回会談が行われるが決裂した。3度目の会談が行われたのが「對潮楼」であった。

いろは丸は土佐藩が大洲藩から15日間一航海500両で借用した蒸気船で、160トンの英国製。一方明光丸は、御三家・紀州藩の蒸気船で887トン英国製である。竜馬の主張は、万国公法を持ち出し、非{詳細は割愛}は明光丸にあり。
よって「いろは丸」の積荷、最新式ミニエー銃400丁を含め、大量の銃火器類や、当時高価な砂糖などの補償として金8万三千両を要求。紀州藩は断固拒否。鞆の浦、滞在3日間,3度の激烈な断交も決裂し、逃げるように明光丸は長崎へ向かう。後を追うように竜馬らも長崎へ。数度にわたる交渉の結果、7万両の賠償金が支払われた。

御三家の一つ紀州藩を相手に万国公法を持ち出し、賠償金を手にした竜馬や海援隊の名は一気に上がったという。近年地元では何度か潜水調査が行われたが、残念ながら400丁の鉄砲のかけらも発見されていない。果たして竜馬のはったりだったのか。未だ謎である。謎の方がロマンがあって良いかもしれない。鞆の浦には竜馬が滞在中の桝谷清右衛門宅の部屋が当時のまま保存されていたり、潜水調査でいろは丸から引き上げられた船体部分や日用品などの遺物などが展示してあるいろは丸展示館や、実物の5分の2に復元され小島との定期便として運行されている「いろは丸」など見どころ満載の鞆の浦でした。

慶応2年{1866}1月21日竜馬立会いのもと、薩長同盟成立。1月23日伏見寺田屋で幕吏の襲撃を受ける。寺田屋事件。慶応3年4月23日いろは丸事件。6月26日京都で「船中八策」成文化。11月15日近江屋で暗殺される。竜馬16日未明死去。享年33歳。一緒にいた中岡慎太郎17日死去.享年30歳。17日京都東山霊山墓地に埋葬。現在、竜馬のお墓の横に中岡慎太郎、その脇に当日「しゃも」を買いに行った下僕藤吉の小さな墓石があり、東山の山麓から京都市中を眺めているように立っている。

司馬遼太郎の「竜馬がゆく」では「天が、この国の歴史の混乱を収拾するために、この若者を地上に下し、その使命が終わった時、惜しげもなく天へ召しかえした」と表現している。又、この地には幕末の動乱や維新の戦いで亡くなった多くの人々のお墓もある。この墓地の下の方に、護国神社があり、その前に「霊山歴史館」がある。この建物は、松下財団が明治100年を記念して、昭和43年建設したもので、別名幕末維新ミュージアムとも言われ、暗殺現場の近江屋二階が立体的に再現されていたり、竜馬暗殺に使用されたと言われる刀が展示してある。館名通り幕末維新に特化した歴史館で、年2-3回企画展が開催され、私も何度も見学している。

さて、「人間は二度死ぬ。と云う。一度は肉体が滅びた時。もう一度は、人々の記憶から消えた時。と云う。」竜馬のお墓には,香が絶えることがないと云われ、霊山歴史館では、竜馬の生き生きとした姿を見るとその言葉を思い出す。

竜馬は長崎での談判の最中、「よさこい節」の歌詞を変え、「船を沈めたそのつぐないは、金を取らずに国を取る・・・」などの唄を、丸山の花街からはやらせ庶民の同情を集め賠償金交渉を有利に導いたとも言われている。

竜馬の短歌に
①丸くとも 一かどあれや人心 余りまるきは転びやすきぞ
②世の人は われをなにとも ゆはばいへ わがなすことは われのみぞしる

こんな唄を、妻お竜が好きだった月琴を奏でながら弾いている姿を勝手に想像したりした。
いづれにしても、満足した鞆の浦紀行であった。遅い昼食後木津川へ帰還した。
写真は、「對潮楼」から眺めた借景式の瀬戸内海。いろは丸展示館。

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