なかや一博 ブログ

年別アーカイブ: 2024年

米寿と誕生日

世の中に 絶えて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし  在原業平

清少納言は「春はあけぼの」と書いた。夜明けの空を赤々と染め上げるように、春は冬の名残りを追い払ってしまう。
4月7日現在、東北以北を除き日本列島の殆どの地域で桜の開花宣言や満開宣言がでている。春は「曙」「朧」「霞」など4月の言葉は、日本的美意識で迫り私は好きだ。

さて、今年のホタルイカ漁は、3月の県内の漁獲量は{暫定値}1152トンと過去10年で最少だった昨年3月{70トン}約16倍である。滑川漁港では、昨年は、17トン、今年は106トン約6倍である。これによって、消費者は「安くて歓迎」片や漁業者は「値崩れ心配」立場の違いが、意見の違い。なかなか難しい。

そんな中4月5日、日頃から公私にわたりお世話になり、かつ尊敬する中尾哲雄富山・魚津両市の名誉市民の米寿と藤井裕久富山市長の誕生日を祝うささやかな懇親会を開催した。まず最初に森雅志前富山市長がお祝いの言葉を述べ、次いで中尾氏が、3月北日本新聞に16回にわたり連載された、「人生のあとさき」にも触れながら傾聴に値するお話であった。

特に印象に残ったのは
「私は砂時計が好きである。1分、3分、5分、30分など様々な砂時計を持っている。1時間の講演では30分の砂時計を持っていく。砂の落ちるのを見ていると「時」とは過ぎ去っていくものではなく、蓄積されていくものだと思う。残り少ない時を寂しく悲しむものでなく、素晴らしい時が体に蓄積されているということを嬉しく思うのだ。」

この言葉には感動した。逆転の発想というのか、時とは過ぎ去るものと思い込んでいた私には新鮮な驚きであった。中尾氏の88年の人生は、僅か16回の連載やわが家での2時間30分で語り尽せるものでない。是非とも出版し、後輩の為の人生の参考書にすべきと申し上げた。己の善を語らない人だから、返答は無かったがニコニコ笑って肩透かしを食ったが、私の感触ではありそうな気がした。

当日は、藤井富山市長の誕生日でもあり、彼の真面目な性格通り、今後の富山市政の発展に尽力するむね力強さと、ユーモアを交えた挨拶でした。
次いで、昨年秋、叙勲の栄に浴された、元・県議会議長稗苗清吉氏、今度富山市新副市長に就任された西田政司氏からご挨拶を頂き、米原蕃県議会議員の乾杯で懇談に入った。

尚、日頃から親交がある民謡歌手・長岡すみ子さんに祝い唄を中心に数曲歌って頂きました。実は藤井市長の奥さんが、長岡すみ子民謡教室におられることから、誕生祝いに長岡さんから藤井市長に、また中尾氏には同じ仕事関係にある向山さんから、それぞれ花束が贈呈されました。

2時間余りのあと、水野滑川市長の閉会の言葉で中締めをし、その後、散会となりました。それにしても、88歳、米寿の中尾氏の元気には驚きます。未だに県外での講演依頼で出張されたり、数々の要職を務める傍ら、ゴルフも結構おやりになるという。
「また呼んでくれ―」の言葉に、勿論と応じお帰りになった。

写真は、4月7日現在富山市松川辺りは満開に近いが、我が家の小さな裏庭の枝垂れ桜と染井吉野はまだまだです。

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皇居三の丸尚蔵館

3月27日、朝快晴の富士山をホテルの窓から眺め、思わずカメラを取り出しシャッターを切った。立山・剣岳も良いがやっぱり富士は日本一の山だ。

さて、この日は午前10時に予約していた、皇居三の丸尚蔵館の名品を鑑賞した。
この尚蔵館は平成元年{1889}昭和天皇まで代々皇室に受け継がれた品々が、上皇陛下と香淳皇后により国に寄贈されたことを機にそれらを保存、研究・公開するための施設として、平成5年{1993}11月に宮内庁三の丸尚蔵館が開館しました。
その後も香淳皇后や各宮家より、平成8年{1996}旧秩父宮家、同17年{2005}には旧高松宮家、さらに、同26年{2014}には三笠宮家から、それぞれご遺増品の品々が加わり、現在約2万点の作品を収蔵しているという。それらは、各時代を代表する数々の名品を含め、日本を中心とする東洋の美術工芸品のほか、時代・地域の分野ともに幅広いことが特徴です。

令和5年{2023}開館30周年を迎え、収蔵品の増加と入館者の増大に対応するために施設の拡充がはかられ令和元年{2019}より新館の建設がすすめられ、その一部が完成しました。それとともに、組織が宮内庁から独立行政法人文化財機構へ移行され、館の名称も新たに「皇居三の丸尚蔵館」と変わりました。

拡張工事は引き続き行われ、全館開館は令和8年{2026}を予定しています。新館の一部開館を記念して開催する本展は館を代表する収蔵品を四期に分けて、第一期は「三の丸尚蔵館の国宝」令和5年11月3日ー12月24日、第二期「近代皇室を彩る技と美」令和6年1月4日ー3月3日、第三期「近世の御所を飾った品々」3月12日ー5月12日、第四期「三の丸尚蔵館の名品」5月21日ー6月23日、いづれも皇室の長い歴史と伝統の中で培われ、伝えられてきた品々です。
私は、今回の第三期と前回の第二期を鑑賞しました。

尚、館名の「尚蔵」は古代律令制において蔵司{くらつかさ}の長官{くらのかみ(かみ)}をさし、大切に保管するという意味と、建設場所が旧江戸城三の丸の地であることから「三の丸尚蔵館」と名付けられました。主な収蔵品には、美術史的、歴史的に高い評価を得ている平安時代の書,、逸品「金沢本万葉集」や鎌倉時代の絵巻き{春日権現験記絵」{蒙古襲来絵詞} 近世絵画を代表する狩野永徳筆{唐獅子図屏風} 狩野探幽筆{源氏物語図屏風}伊藤若冲筆{動植採絵}などの傑作があるほか、横山大観や竹内栖鳳、並河靖之、高村光雲など近代の著名な作家による作品が多数あると言う。

収蔵品はすべて超一級品ばかりであった。それにしても、さすが宮内庁である。70歳以上は証明書を出せば無料であった。他の国立博物館などでは無料は聞いたことがない。

写真は、ホテルの部屋から見た朝の富士山。パンフレット。修学院焼ふくべ形香炉、江戸時代18世紀。糸桜図簾屏風、江戸時代、狩野常信、江戸時代17世紀..簾をはめた金屏風の両面に糸桜を描いた作品。京都御所の伝来品で宮中からの注文品と考えられる。

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友人・知人

3月26日、静嘉堂美術館鑑賞の夕方、久しぶりに3人の友人と懇談した。
一人は財務省出身で県に生活文化環境部長として出向し、その後本省に戻った後、昨年6月まで財務省近畿財務局長を務め、昨年7月から日本政策金融公庫代表取締役専務取締役の岩本氏、もう一人は財務省から県知事政策局長を務め、現在内閣府参事官{総合調整{国内}の吉田氏、もう一人は、厚労省から県くすり政策課課長に出向し、本省に戻り、現在健康衛生局・感染症対策部・予防接種課長補佐・坂西氏の4人で久しぶりに懇談した。話題はやはり富山の思い出である。

丁度料理にほたるいかの酢味噌和えがでてきたので、早速これは富山湾産か否かで始まり、出てきたほたるいかは少し小ぶりだったので、他県産と思ったが結局富山湾産であった。考えて見れば、今年の富山湾産も例年より魚体が小さいように思う。

しかし、不思議なもので富山湾産と聞いただけで、なんとなく美味しく感じる。他愛もない会話から始まり、昨今の金利の引き上げなど話題に事欠くことなく、アッという間の2時間半であった。

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曜変天目・静嘉堂美術館

珍しき 高麗-唐土の花よりも 飽かぬ色香は 桜なりけり 本居宣長

日本人ほど桜をめでる民族はいないであろう。テレビでは連日桜の開花宣言の日が予想され報道されている。
残念ながら、私が上京した時はまだで、29日には開花宣言が発せられるだろう。そんな中、全弓連理事会出席で3月26日ー27日上京した。
上京の楽しみの一つに、美術館や博物館での名画や名品の鑑賞や友人等と会えることである。今回は、東京駅近くの明治生命館1Fの静嘉堂美術館へ行った。

実は、この明治生命館は昭和9年{1934}竣工し、昭和の建造物で初めて重要文化財に指定された由緒ある建物である。
さて、江戸幕府が倒れ西洋文明が流入した明治時代に「美術」という言葉が誕生し、西洋風の建築や油彩画が普及し博覧会が開催され、美術館が初めて開館したのもこの時代であった。急激な変化は「廃仏毀釈」という伝統文化軽視の風潮を生み出した。

そんな中、三菱を創業した岩崎弥太郎の弟で三菱第2代社長岩崎弥之助{1851-1908}は明治10年代、刀剣を収集し大名道具を購入するなど文化財の保護に努め、明治25年静嘉堂文庫を創設した。
「静嘉堂」の名称は、中国の古典「詩経」から採った弥之助の堂号で、祖先の霊前への供物が美しく整う、という意味。弥之助の死後、その子岩崎小弥太・三菱第四代社長{1879-1945}が父の意志を継ぎ、美術品の収集と静嘉堂文庫の拡充に努めた。

また、弥之助の援助のもと制作された、橋本雅邦、{竜虎図屏風}重文や岩崎邸を飾った黒田清輝{裸婦婦人像}など親子二代にわたって創設・拡充された「静嘉堂美術館」には、現在、国宝7件、重要文化財84件を含む、およそ20万冊の古典籍と約6500件の東洋古美術品が収蔵されており、年数回企画展が開催されている。今回の企画展は、3月ということもあり「岩崎家のお雛さま」であった。雛飾り、お雛さま、どれをとっても,贅の限りを尽くした豪華で見事な物ばかりであった。

今回、企画展とは関係ないが、国宝「曜変天目」が出品されていて、これを見るのも目的の一つであった。私は茶道には無知であり、美術品のコレクターでもない。好奇心が旺盛ゆえに出かけるのである。さて、広辞苑によれば、この小茶碗「曜変天目」は南宋時代12-13世紀、中国福建省建窯で作られ陶磁器の焼成中、漆黒彩面が変化して斑紋が生じ大小の星紋が浮かび、そのまわりが玉虫色に光沢を放つ。

日本では、国宝・曜変天目は大阪、藤田美術館、京都大徳寺塔中・龍光院と静嘉堂美術館の3点しかない。何れも割れると再現は不可能と言われ、同じものは創れないといわれている。静嘉堂美術館の「曜変天目」は徳川三代将軍家光公から春日局にわたり、親戚の稲葉家へゆき、そこで代々伝えられてきたが、昭和9年5月稲葉家から小弥太が入手した物である。
それ故「稲葉天目」ともいう。小碗の中の大宇宙と表現されていたが、まさに小碗の中で、無数の星が夜空に輝いているかのようであった。中々見れない物を見た満足感に浸りながら会場を後にした。写真は、企画展のパンフレットと国宝・「曜変天目」

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第76回滑川高校卒業式

龍宮の 庭から散りて ほたるいか   坪谷水哉

陽光燦燦として大地を覆い 野が山が海が躍動の季節を迎える中、富山湾に春を告げる風物詩 ホタルイカ漁が3月1日解禁となった。
能登半島地震で富山湾では海底地滑りが発生し、水橋漁港ではホタルイカの定置網が流失し大きな被害が出た。幸い滑川漁港では、ホタルイカの定置網には余り被害がなかったが、昨年の解禁日の漁獲量は僅か59匹{1㎏未満}であったから、関係者は随分心配していた。

しかし、今年の解禁日は106㎏とまずまずの水揚げで関係者はホッとしていた。そして、県水産研究所は、1日今年の湾内でのホタルイカ状況予報を発表し、今年の総漁獲量は2238トンで平年{過去10年の平均}の1261トンを上回るとした。今後に期待したいと思う。

さて、その3月1日滑川高校{校長・金田幸徳}の卒業式が挙行された。昨年は、まだ新型コロナ感染防止対策の為、式場では、保護者にも人数制限やマスク着用が求められた。しかし、今年は久しぶりに制限なしで、開式の辞に続き、全員で国歌「君が代」を斉唱し、次いで金田校長より卒業証書が181名の卒業生に授与された。

校長は式辞の中で
①「熱意をもって物事にあたってほしい」
②「心の回復力{レジリエンス}を高めてほしい」
③「感謝の気持ちを持ち、人を支える側になってほしい」

の3点を中心に話し、激励とお祝いの言葉が述べられました。
祝電披露の後、「蛍の光」がテープで流れる中、在校生代表が進み出て、卒業生に送辞。次いで「仰げば尊し」が、やはりテープで流れる中、卒業生代表が進み出てステージ上の金田校長に向い答辞を述べ、3年間の思い出を語り、特に1-2年生の時コロナ禍で学校行事や部活動の殆どが中止や延期になった時の淋しさ、それを励まし支えてくれた教職員や家族への感謝の言葉。3年生の一年間は、学園祭や大運動会など学校行事や部活動などほぼ消化出来たのも在校生の協力のお陰と語り、時として涙ぐむ姿には私も胸を打たれました。

そして滑川高校での3年間の思い出を胸に、明日から力一杯生きてゆく決意を述べられました。。送辞も答辞も純粋だから感動を覚えるのだろう。次いで、校歌を全員で斉唱したのち、卒業生が選んだ「RADWIMPS」の「正解」のメロディーと拍手に送られて退場し厳粛な中にも滞りなく終えました。

それにしても「RADWIMPS」も「正解」の曲も正直私は知りませんでした。つくづく年齢差を感じるとともに、181名の卒業生の内、女子生徒90名で内、名前に子が付いているのは1名だけであった。やはり時の流れを感じざるを得ない。

ただ、残念だったのは、国歌「君が代」と「校歌」はピアノ伴奏のもと全員で斉唱したが、「蛍の光」と「仰げば尊し」はテープで流れるだけである。私の記憶ではコロナ禍以前は、「蛍の光」は在校生が「仰げば尊し」は卒業生が唱和していた。
校歌二題目に「思え車胤を 青春の」とある。これは「蛍の光」の歌詞と通ずるものである。いづれにしてもこの2曲の歌詞には、今の世に失われてゆく大切なことを教えている。誠に残念である。

極端なことを言えば、この2曲が卒業式の雰囲気を作り出していると言っても過言でない。現在県内に県立高校39校。私立高校10校ある。
この中で、「蛍の光」を歌っている学校は本校を含め僅か6校である。「仰げば尊し」は県立では本校だけ。私立で1校。これを聞いて正直驚いた。多分教えないからだろう。

以前歌っていたものが、コロナ禍で教えなくなった。このままでは数年後にはこの2曲も消えてゆくのではないだろうか。私はそれを危惧する。高校は教え育てる教育の場である。学び習う学習の場ではない。「伝承無きところ モラルなし」との言葉がある。

良き伝統や良き事はきっちりと、伝え教えていくべきである。校長の話も巣立ちゆく卒業生に、教え、諭し、前途に幸多きことを願う教育者としての言葉であり良かったと思う。
そして、校長と教頭には私の個人的見解として、来年は「蛍の光」は在校生、「仰げば尊し」は卒業生が唱和すべきと申し上げた。滑川高校の良き伝統の一つとして県下でただ一校になっても、「蛍の光」と「仰げば尊し」の2曲が歌われている学校として続けてもらいたいと思う。いづれにしても、過ぎし日の学生時代を懐かしみながら校舎を後にした。

参考まで、「蛍の光」と「仰げば尊し」を解説しておきます。
「蛍の光」・・・以前も少し説明しましたが、「蛍の光 窓の雪・・・」の歌詞は、古代中国「晋」の学者・車胤が「貧しくて油が買えないため蛍を集めて、その光で書を読み、同じく孫康が雪明かりで勉強した」という故事からとったもので、一生懸命勉強することを、「蛍雪の功」といった。これを参考に作詞されたのが前述した滑川高校校歌であると思う。

実に素晴らしい歌詞である。原曲はスコットランド民謡で、久方ぶりに出逢った幼なじみ同士が祝杯をあげる歌という。明治14年刊行の「小学校歌集」に「蛍」の題名で発表されたが作者不詳である。スコットランド民謡を敢えて翻訳しないで{徳性涵養}の教育方針から道徳的な詩がはめ込まれたという。

「仰げば尊し」・・・明治17年に日本で初めての音楽教材集「小学唱歌集」に載っている。
ところがこの歌の作者については、編集に関係した人たちの誰かだろうと言われているが、今のところ判っていない。外国の民謡らしいという説にも根拠がなく、もし日本人の曲であるとしたら当時としては非常に珍しい西洋風の長音階である。
戦後の一時期、卒業式にこの歌が歌われることに教師側が抵抗を感じたことがあったが、PTA側が卒業式はこの歌でなければ承知しなかったと言う。映画「二十四の瞳」でこの歌をテーマ曲に使い、多くの人々を感動させたのも、この歌に対する感傷性が大きかったせいだと言われている。

「心のうた、日本のうた」より一部引用。