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日露戦争

日露戦争と言えば、旅順要塞攻略の乃木希典やロシアのバルチック艦隊を撃破し、日本海海戦を勝利に導いた東郷平八郎を思い出す。
私は9月東大阪の司馬遼太郎記念館と翌日下関市長府の乃木神社を訪ね、乃木記念館や乃木夫妻と敵将ステッセル将軍から贈られた愛馬壽号の銅像や「尋常小学校国語読本」に掲載された「水師営の会見」の歌に出てくる「庭に一本{ひともと}棗{なつめ}木」の四代目が植えてあった。

これらは先般の私のブログに書いた。その後、10月31日付け北日本新聞に「戦地から家族思い170通、日露戦争出征祖父の手紙書籍化」と題した記事が掲載された。
それによれば立山町から戦地に赴いた男性が、家族にあてた手紙170通を、孫の内田忠保氏が、書籍「望郷の月」にまとめた。銃弾飛び交う戦場での日々や死への覚悟、望郷の念など、一兵卒のありのままの思いを伝えている、県公文書館によると、日露戦争に従軍した兵士の手紙が纏まって残っているのは県内では例がなく貴重だという。

手紙を書いたのは、内田さんの祖父、内田一忠さんで1904年8月31日に召集を受け、金沢の第9師団歩兵第35連隊補充大隊第四中隊に配属される。約70日間の連隊での訓練を経て旅順要塞攻撃や・奉天会戦で防御工作や斥候を担った。1906年2月2日帰郷している。入隊の訓練期間を含め従軍期間は約17か月にわたる。

1904年9月16日の第一報から1906年1月16日付まで170通確認され、従軍期間から考えると実に3日に一通の割りである。「望郷の月」にも解説文を寄せた県公文書館資料調査専門員、栄夏代氏の協力のもと今回出版された。栄氏によれば「激戦をくぐり抜けて奇跡的に帰郷した農民兵が、戦況や感情を自身の言葉で書き残している。とても価値ある記録だ」と説明。

これらの記事を読んだ時、冒頭述べたことも加わり、早速内田さんにお願いし、「望郷の月」を入手し読んだ。記事の中で内田さんは、日露戦争を描いた司馬遼太郎の「坂の上の雲」は将校の物語なら、祖父の手紙は一兵卒の真実の記録。一人一人が笑ったり涙を流したり、様々な感情を抱きながら生きていたことに気付かされる」と述べておられる。私は、本棚から司馬遼太郎の「坂の上の雲」と乃木希典を描いた「殉死」を取り出し改めてこの2冊をサッと読んだ。

「まことに小さな国が、開花期を迎えようとしてしている 四国は伊予松山に三人の男がいた この古い城下町に生まれた秋山真之は 日露戦争が起こるにあたって 勝利は不可能に近いと言われた バルチック艦隊を滅ぼすに至る作戦を立て それを実施した。
その兄 秋山好古は日本の騎兵を育成し 史上最強と言われる コザック師団を破るという奇跡を遂げた もう一人は 俳句・短歌と言った日本の古い短詩形に新風を入れて その中興の祖となった俳人・正岡子規である。彼らは 明治という時代人の体質で 前をのみ見つめながら歩く 登ってゆく坂の上の碧い天に もし一朶の白い雲が輝いているとすれば それのみを見つめて 坂を登ってゆくであろう」

確かに内田さんが指摘するように「坂の上の雲」はこの3人を主人公に物語は展開する事を思うと将校の物語である。しかし、一忠さんのハガキや書簡は前述した通り一兵卒の生の声である。記事の中で、旅順要塞攻撃のさなかに書かれた1904年11月26日付の手紙には「先26日の大砲の声及び小銃の声は天地に轟はたり」「弾丸の下に飯を喰ろて」「わが軍決死隊となり何分此度は戦死か負傷を致す積りと思居り」とあり、激戦の中で死を覚悟したことが読み取れる。

奉天会戦後の1905年3月30日には、自身と同時期に出征した第4中隊の230人が「残念50名をりません」と記し、多くの死傷者が出たことを伝えている。また、内田さんが特に印象に残っているのが、同年2月20日付の一通だ。「こちらで丸い月を眺めた。故郷の家族も変わらず健康で、同じ月を眺めていると思うとうれしい」といった望郷の念がしたためられており、書籍のタイトルはここから着想した。

「戦地でも古里を大切に思っていたことに感動した。人間味にあふれた優しい人だったのだろう」と内田さんの言を報じている。
また、本の中で1905年1月3日付の手紙では、
「謹啓 就いては特に特にたる旅順口もついに1月2日を以て陥落せり 先昨月31日午前7時に出て採業を致す又戦争す翌日明て目出度と新年祝と一度に一の井砲台山を自分我等は占領す又左側の砲台山を35連隊の三大隊を以て占領す又同夜けかん{鶏冠}山を11師団は占領す 実に万歳の声は天下に轟きけり 旅順口は此の山より三・四町程の麓なり故降参人又種々の人名降附せり 就いては我々は明後日を以て旅順口へ入る次第故何分此度は万歳にて正月を致す被下度候 さて軍隊の正月は旅順にて致近頃は隊より沢山なる魚酒沢山牛肉当たる候故又身体は壮健にて旅順口の陥落の採業を致したる事は実に自分等の幸福と云ふべし 就いては近近20日前より日夜寝たる事は実に僅かにて二三夜分丈寝たる事故此度旅順は我々の掌へ入りたり次第実に愉快の事なり 先此度全く壮健にて旅順へ入りたる故御家内始め親類隣近傍迄酒肴にて祝いて万歳を唱へ被下度此段希望仕候 就いては自分之事を寸分たる共心配之無当地の万歳を祈る余は後便にて申候へ共御家内様の壮健を祈る。」

これが1月3日の手紙である。203高地が陥落し、1月2日水師営の民家において日露両軍の委員による事務折衝が行われた。日本軍の委員は伊地知幸介であった。そして5日有名な乃木希典大将とステッセル将軍との「水師営の会見」が行なわれた。故に一忠の書簡は1月2日、3日8日2通、9日、10日付などの書簡は旅順陥落を正月と共に祝い、酒、魚,沢山出され、加えて牛肉まで振舞われたことがわかる。

しかし、この間一日僅かしか寝ていないけど元気でいること、家族の健康を案じていることがわかる。そして、170通に共通しているのは、平和を願い、望郷の念を抑えながらも、家族を案じ、農作業にも心を寄せていることである。ここが、将校の日露戦争でなく、一兵卒の率直な心を吐露した物語との大きな違いであろう。

ご存知の通り日本がロシアに宣戦布告をしたのは、1904年2月10日である.この時陸軍は、すでに第一軍司令官に黒木為禎{ためもと},第二軍司令官に奥保たか、で大陸に兵を展開している。そして旅順の存在を軽視した。10年前の日清戦争の時に乃木希典は旅団長の少将として従軍し、師団と混成第12旅団をもって、わずか1日の攻撃で落とした。しかも、この1日の戦闘で日本軍の死傷者はたった280余名であった。この10年前の経験が軽視の一因となった。

ところが、旅順要塞はその後人知を尽くし,巨費を惜しまず天嶮山に加え,人工の極至をもって築き上げた。露将クロパトキンが「永久に難攻不落である」と言った大要塞であった。この様な状況の中で、日本海軍は旅順港内に停泊中の極東ロシア艦隊がいる。これに自由を許せばやがて極東に回航されるだろうバルチック艦隊に加われば,日本海軍も勝ち目がない。そこで海軍は旅順艦隊を港内に閉じ込めようとした。

旅順港はその港口が極めて狭く、老朽船舶を港口に沈めることによって閉ざそうとした。このため決死の閉塞隊が募られ、敵の要塞砲火を冒して何度も決行するが成功せず、ついに絶望視された。このため、陸軍によって要塞をその背面から攻め、それを攻め陥すことによって旅順艦隊を港外に追い出し、撃沈する以外にないということになった。

海軍は陸軍にそのように要請し、大本営参謀本部も了承した。そして第3軍が編成されることになり、その司令官に乃木希典がなる。乃木は、日清戦争での旅順経験者であり旅順を知っている、土地の案内に詳しい。理由はほぼこれである。乃木が新設の第3軍司令官として現地に赴くべき東京駅を離れたのは開戦後3ケ月を過ぎた5月27日である。

そして、6月1日宇品を出港し、6日、金州湾に上陸した。その後金州城から南山要塞にかけての新戦場を視察した時、乃木は金州城の東門の前に馬をとどめた。。実は長男勝典が小隊をひきい金州城の北門に向かう途中この東門付近にさしかかり、その楼上からにわかに機関銃の射撃を受け南山野戦病院へ担ぎ込まれたが死亡する。この経緯は乃木は知っていた.帰路、夕刻になり、満州特有の血のように赤い落日が南山の一帯を染めた。乃木は馬を止め詩を賦した。

これが有名な「金州城外斜陽に立つ」の漢詩である。
「山川草木転荒涼{うたたこうりょう}十里風腥{なまぐさし}新戦場 征馬不前人不語{馬前に進まず・人語らず} 金州城外立斜陽」と詠んだ。私も、2012年7月この地を訪れた折、この詩の上の言葉を引用して漢詩擬きの詩を詠んだ「山川草木深青松 十里風穏古戦場 人馬一體賑金州 百年遥憶感無量」。

参考まで、正岡子規は日清戦争の時従軍記者として、金州城を訪れた時「春風や 酒をたまわる 陣屋かな」の句を残している。さて、この時でさえ乃木は、現実の旅順要塞は築城を長技とするロシア陸軍が8年の歳月とセメント20万樽を使って作り上げた永久要塞で、すべてべトンをもって練り固め、地下に無数の塹壕を持ち、砲台、弾薬庫、兵営すべて地下にうずめ、それを塹壕と塹壕とを地下道をもって連絡している。

たとえ野戦砲兵をもってこれを砲撃しても何の効果もないことも知らなかった。この様な中で旅順要塞攻撃は8月19日の第一回強行攻撃から何度か繰り返された総攻撃も鉄条網に悩まされ、新兵器の機関銃に倒され旅順の山々の斜面はことごとく日本兵の屍で覆われた。この戦局を変えたのは海岸要塞砲ともいうべき28センチ榴弾砲である。旅順の1m30のべトンを割るには最低22センチの口径の砲が必要だが、日本には28センチ砲がある。東京湾観音埼砲台にそなえられている特殊海岸砲であった。

しかし、砲一門そのものの機構が鉄製の城塞のように巨大で、原則移動は不可能とされ、もし移動するとすれば、その据付工事だけで1カ月以上かかるとされた。しかし、この案以外にないと決定した。日数の多くは砲床のべトンの乾きを待つことであり、直ちに砲床構築班を先発させれば日数の節約になる。おそらく砲が到着してから10日で第一発を打てるとし、そして解体輸送され、戦地に送られる。

203高地。それは旅順攻撃の象徴的存在になったが、この攻略もまた海軍からの要望であった。この高地からは港が一目で見える。ここに28センチ榴弾砲を備え付ければ、旅順艦隊を撃滅することは容易である。その巨砲12門が要塞正面で火を噴いたのは10月1日であった。以後、犠牲を払いつつも2か月後旅順は陥落する。ただ乃木の次男保典も203高地で戦死する。前述した金州城と共に203高地や旅順の水師営の会見場となった民家を私も訪れているので感慨深く内田一忠さんの書簡を読んだ。

さて、司馬遼太郎が乃木希典を描いた小説「殉死」がある。この中で司馬は「筆者はいわゆる乃木ファンではない。しかしながら大正期の文士がひどく毛嫌いしたような、あのような積極的な嫌悪もない」と書いているが、、しかし、「殉死」の文中には、乃木の軍人としての無能さを表現する言葉が随所にでてくる。例えば、司馬は「乃木希典は軍事技術者としてほとんど無能にちかかったとはいえ、詩人としては第一級の才能にめぐまれていた」や「児玉源太郎にとって乃木は無能で手のかかる朋輩はなく、ときにはそのあまりな無能さゆえに殺したいほどに腹だだしかった」など数多くある。また、乃木自身も戦いが終わった直後、陸相の寺内に出した手紙に、「無知無策ノ腕力戦ハ,上二対シ下に対シ、今更ナガラ恐縮千万二候」と手紙に書いている。

この様に乃木の軍事的無能さを表す文章は「殉死」の中で随所にでてくる。無論これは、司馬のあくまで小説であり、これに対し反論もある。ただ無能な司令官を何故更迭ができなかったか。それは理論的には攻略中に司令官を更迭することは、全軍の士気に悪影響を及ぼすということと、海外特派員によって世界にそのニュースが流れることは、戦費調達のための国債の発行にも大きな影響があったと思われる。
いずれにしても、軍神と言われた乃木希典がもし「殉死」の小説の通り軍事的には無能な指揮官であったら、そのもとで古里を思い、肉親を思い、友を思い、農作業を心配しながら死んでいった兵士は浮かばれないと思う。

つまり、日本国,或は都道府県や市町村の司令官が政治や自治に、また会社の司令官が企業の経営が無能であったら、それこそ国民や社員が不幸になる。そんなことを考える機会でもあった。
私が203高地を訪ねた時、「爾霊山{203高地}には砂礫に混じっていまも無数の白骨の破片がおちている」とか「雨が降れば人のあぶらが流れる」と言ったような話がまことしやかに語られていた。そんな激戦地を生き延び、その後北進。、これも激戦の奉天会戦で第一線で戦い生き延びた内田一忠さんは奇跡のようなものである。その彼が残した170通余りのハガキや書籍は、歴史的にも貴重な資料であり、これを出版されたことは、内田家の先祖への供養にもなったことと思う。

「記憶とは、いつか忘れ去られる。記録は一と時の出来事を永遠なものにす事が出来る。記録は、世の片隅の出来事を、全体なものにすることが出来る。記録は、名もなき人の行為を、人類に結びつけるも出来る。記録のみが、消えゆくものを不死なものにする事が出来る」改めてこの言葉を思い出した。

尚、一忠さんはその後、村会議員や村の助役も務めたという、几帳面で誠実な人であったろうと思われる。
尚、文の一部は司馬遼太郎「殉死」文芸春秋発行「坂の上の雲」と「日露戦争」より引用。

写真は、
①内田忠保氏出版の「望郷の月」
②1905・1・5旅順の水師営の会見で乃木将軍とステッセル将軍
③2012・7水師営会見場で私
④乃木将軍の漢詩と私の漢詩擬き
⑤奉天城内八将軍の会合 左寄り黒木第一軍司令官・野津第四軍司令官・山形有朋元帥・大山巌元帥参謀総長・奥第二軍司令官大将・乃木第二軍司令官大将・児玉源太郎満州軍総参謀長大将・川村景明鴨緑江軍司令官大将・明治35年{1905}7月26日撮影

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