なかや一博 ブログ

「日本海詩人」のきらめき・大村正次・キクをめぐりて

散る桜 残る桜も 散る桜  良寛

4月20日、北海道・松前のソメイヨシノが満開になり、札幌で開花宣言がでた。
30年ー40年前は4月末から5月の連休時期が、青森県弘前城の桜が満開で、桜まつりが開催され、夜桜を含め何度か花見に行った。これが終わると桜前線は津軽海峡を渡り、函館に上陸した。今年の桜の開花宣言は富山を含め全国的に、予想より遅くなった。しかし、北海道はこの様な状態だからやはり地球温暖化の影響だろうか。

さて、その当日、「日本海詩人」と大村正次{まさつぐ}キク夫妻の顕彰誌発行記念シンポジウムとパーティーが富山市の古志の国文学館研修室で開催された。正直言って、大村正次ご夫婦、或は「日本海詩人」と言っても、私は知らなかったし,多分多くの人も同様と思う。

それが縁とは不思議なもので、2015年夏頃、全く面識のない宝塚在住松原勝美氏より突然お電話頂いた。氏の先祖は滑川市荒俣出身で、曾祖父の妻が四ツ屋、中屋より嫁ぎ1900年{明治33}夫婦で北海道へ移住した。滑川に残った松原家を市役所で戸籍等調査したが解らない。せめて曾祖母の実家の中屋はどこか。これが氏の質問である。

私も多少は物好きであるが、明治の半ばに松原家に嫁いだ女性は。これには一服したが、多少四ツ屋部落に詳しいと思われる人の名前を挙げた。氏は氏で調べた結果、たどり着いたのは中屋家の総本家といわれ、当時19代中屋家当主中屋敏子宅を訪問予約をしたという。
10月24日わが家へ来宅したいと言う。そこで勝手ながら中屋家の菩提寺である禅宗の海恵寺{真田光道住職・上市町立山寺住職兼務}に質問事項を事前にお知らせし、最初に松原氏と二人で総本家の中屋家へ。次いで、中屋敏子さんと3人でお寺へ行った。

残念ながら中屋家の過去帳ではあくまで中屋家の人に限られていた。お寺の過去帳は、殆ど名前と戒名と没年月日しか記入してない。これでは探しようがない。お寺にはこれを機会に過去帳に俗名と生年月日位は記入すべきと申し上げた。当然我が家の過去帳にも。生年月日と没年齢{かぞえ}を追加し、この時我が家の家系図も作成した。

ということで残念ながら松原家に関しての調査は進展しなかった。それが数年前、今度は、富山市新庄町の金岡キクを知らないか。とのお電話である。新庄町で金岡と言えば金岡又坐衛門しか知らない。県民会館分館「金岡邸」である。金岡家の家系図が展示してあることをお伝えした。結果は岩瀬の金岡家であった。

その後、氏は大村正次の調査を開始する。松原氏が旭川東高等学校在学中の時、教員に大村正次がいた。当時東高校には校歌があり、加えて逍遥歌を昭和26年教員であった大村正次が作詞したという。現在の私では校歌以外にもう1曲あるとは理解できない。これを当日出席しておられた松原さん以外の東高校同窓生の方に尋ねたところ、かって校歌以外にも寮歌等があったように、戦後も数校に逍遥歌があったと言う。ここで大村正次・キク夫婦の略歴を記す。

大村正次
明治29年6月15日東岩瀬652番地に生まれる。
明治45年。富山師範学校卒業、本科4年制入学。

大正4年 室生犀星の「卓上噴水」に詩「金像」をペンネーム鳳太郎で投稿。掲載される。
大正5年 富山師範学校本科卒業。母校東岩瀬尋常高等小学校訓導{6年間}
大正10年 元同僚金岡キクと結婚。その後高岡や県外転勤のあと、妻キク石動高等女学校勤務が決まり石動町小矢部47に転居。
大正15年県立高岡中学校へ転任。2月「日本海詩人」石川県版が金沢で創刊。この頃「日本海詩人」同人となる。
大正4年2月 井上靖石動町の大村正次宅訪問。この頃より、妻キク大原菊子の筆名で休刊まで作品を発表。
大正7年「日本海詩人」休刊。

昭和2年5月「日本海詩人」富山・新潟版が富山で発刊
昭和3年10月詩集「春を呼ぶ朝」刊行
昭和20年7月旭川へ転居.。旭川中学校嘱託教師となる。妻キク道立旭川高等女学校勤務。旭川市7条11丁目左2号に居住。
昭和23年旭川中学校が道立旭川東高等学校に改称。同校教諭。
昭和26年 旭川東高等学校逍遥歌を作詞 新制高校初めてのものとして「蛍雪時代」に掲載される。
昭和27年 上京した正次は戦後初めて井上靖に会う。
昭和30年 旭川北海ホテルで井上靖と会う。
昭和35年 キクと離婚 旭川東高等学校退職。同校嘱託教師となる。
昭和38年10月旭川を離れ富山へ。東岩瀬新川町2区に住む。藤園女子学園富山女子高校に勤務。
昭和42年「大村清風」と号し北陸書道院月刊誌「臨池」に漢詩を発表。
昭和44年同校退職。
昭和49年6月77歳で逝去。金岡キク8月73歳で逝去。顕彰誌より抜粋。

この様な人生を歩まれた大村正次先生の77年の人生に興味を持たれた松原勝美氏が、何の縁もない富山で、大村家、金岡家の子孫はもとより郷土史家大村歌子氏{大村正次とは無関係}、木下晶氏などを始めとし、富山八雲会、県立図書館、古志の文学館など多くの方々のご協力が得られて、今回の発行になったのであろう。

これも松原勝美氏の誠実な人柄と、情熱と、行動力に心が動かされたからだと思う。当日は約40名程、パーティーには18名の参加でありました。私は3月始め松原勝美氏より,両方の出席と一言挨拶を要請されましたが、場違いであり再三お断わりしましたが、松原氏の情熱に押し切られる形でしたが最後は了承し出席しました。

人生は,良き出会いと良き感動、良き思い出の積み重ねと思う。実際新たな発見もあった。記念誌の中に、稗田菫平氏が平成3年10月24日、小矢部市総合会館で井上靖と詩誌「日本海詩人」と題した講演内容が掲載されていた。
その中に、詩人「北園克衛」の名が出てきた。実はこの人は、滑川高校の校歌作詞者であるが詳細は知らなかった。早速県立図書館で調べたところ詳細が判明し、コピーしたものを校長に渡した。

又、明治2年加賀藩よりロシア留学の命をうけ日本人として初めてシベリアを横断し明治7年帰国した嵯峨寿安の嵯峨家5代目を大村健一が健寿と改め嵯峨姓を名乗り、滑川栗山の石坂太郎左衛門の娘を妻として迎える。その子3男専之助が母の実家石坂家を継ぐ。この専之助が明治15年県議会議員となり、その後、第7代県議会議長となり、明治23年11月より同25年11月まで衆議院議員務めるのである。

又、令和元年12月私が制作した、CD「未来に伝えたい 薬都とやまの歌」の中で、昭和8年[越中富山の薬屋さん」の作曲は滑川出身の音楽家・高階哲夫。作詞が松原与四郎{松原勝美氏とは無縁}である。彼とも大村は親交があったことが分かった。
このように私にとっても新たな事実が判明したことは嬉しかった。当日、松原氏は東京や遠方からくる大村家、金岡家の遺族の方々と岩瀬の大村正次のお墓参りをしたという。教え子の恩師への思慕の念。80歳を超えた松原氏の原点がここにあり、それが何の縁もない富山で多くの人々の心を掴み発行に至ったのであろう。

又、当日、たまたま翌日の企画のため来館していた室井滋館長がいることを聞き、事務室に行き久しぶりにお会いし歓談した。別れ際、彼女の故郷滑川発展に尽力をお願いし、更なる活躍を期待し別れた。ここで旭川東高等学校逍遥歌を5題目まであるが2題目まで記す。

①うつろいかわる蝦夷の地に  かわらぬ清流{流れ}石狩や
 メノコの髪にかざしたる   鈴蘭の香を訪めもみん

②長堤はるかたどり来て    理想をかたる者なりし
 今は東{あずま}のこいしきに アカシアの花散るしきり

最後に「ふだん記」運動の創始者橋本義夫氏の言葉を記す。
記録は 一と時の出来事を、永遠なものにする事が出来る。
記録は 世の片隅の出来事を、全体のものにする事が出来る。
記録は 名もなき人の行為を、人類に結びつける事も出来る。
記録のみが 消えゆくものを不死なものにする事が出来る。

その意味からすれば、今回の発行によって、「日本海詩人」や、大村正次ご夫妻を忘れかけていた人々に再びその足跡を思い出させてくれただろうし、私のように全く知らなかった者にとっても良い機会だったと思います。

改めて発行にご尽力された松原勝美氏や「大村研究会」の大村歌子氏、木下晶氏等関係各位に改めて感謝申し上げます。

写真は、顕彰誌と挨拶する松原氏。

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(2024/04/21)

令和6年度滑高入学式

花びらの エントロピーの 通い路  吉崎陽子

4月8日{月}午後2時県立滑川高校{金田幸徳校長}入学式が同校体育館で挙行された。
今年の桜の開花宣言の予想が全国的に遅れたお陰で、当日は校舎前庭の桜は満開と重なって入学式をお祝いするような風景となった。
翌、9日は全国的に春の嵐が吹き荒れ、揚句のような状態になった。私の小、中、高、の入学式頃は桜は満開だったように思う。桜と入学式。ランドセルを背負った学童と入学式の看板、これに桜。絵になる風景である。
これも、やはり地球温暖化の影響か。開花時期が以前より早くなった。

さて、希望に胸膨らませ入学した生徒数は、普通科2クラス80名。商業科、薬業科、海洋科各1クラス40名計200名のところ薬業科、海洋科各5名の定数割れで今年の入学生は190名である。
定数割れは滑川高校だけでない。県下各校の学科で起きており、高校再編が話題になっている。これも少子化の影響であろう。入学生の男女の比率は、男子90名、女子100名。

式は全員で国歌「君が代」を斉唱。校長より入学許可が全員に与えられ、次いで式辞。
内容は
①出会いを大切に。様々な出会いを通し、自らを高めてほしい。
②志を高く、目標を持つことの重要性
③思いやりを大切に、他者へのいたわり

の3点を話されて、自己を鍛錬し、学業に部活に、学校行事に積極的に参加し、充実した高校生活を送るようエールが贈られました。

次いで、新入生の代表が進み出て宣誓。在校生代表の歓迎の言葉と続き、音楽クラブ、吹奏楽部、生徒会の約40名が壇上で校歌を合唱し新入生に披露しました。
私から見れば40名程の合唱にすれば、少し声が小さかったように思った。。

尚、校歌合唱の前に、有賀副校長より歌詞の説明がありました。これは良かったと思う。
新入生には初めて聞く校歌であり、在校生にとっても歌詞の意味を再確認する良い機会でもあると思う。これは新規採用や転入教職員にも言えることで、一日も早くこの校歌に親しんでもらいたいと思う。

それにしても、新入生の希望に胸を膨らませ、輝くような瞳を見ると矢張り若いことは素晴らしいと思う。青春とは単に年齢だけで判断すべきでない。当然である。しかし、30年前今日のような、スマホやAIなど誰が予想しただろうか。
そう考えると30年後の日本は、世界はどの様に変わっているだろうか。30年後私は100歳を超え、この世にはいない。しかし、彼等はまだ50歳にもなっていない。30年後の世界を彼等は見ることが出来るのである。羨ましい限りである。

いづれにしても彼等が滑川高校生徒として、多くの素晴らしい思い出を作り、楽しい学校生活を送ってもらいたいと念じ学校を後にした。

有賀副校長の校歌の説明と、校歌を記します。
1題目は、朝日に美しく輝く、立山連峰に抱かれて、百年の歴史と伝統を誇るこの滑川高校で熱き夢を語り合おう。
2題目は、蛍を袋に集めて、その光で書を読み勉強をしたと言われる中国の学者、「車胤」の若き日の苦難を思い、かけがえのない青春の一日一日を大切に過ごして欲しいという願いが込められている。
滑川高校校歌 作詞・北園克衛 作曲・岡部昌 昭和24年制定。

一 朝日に匂う 太刀の峰         二 有磯の海に 風荒れて
雲井遥かに 青春の            思え車胤を 青春の
赤き血に沸{たぎる}我等の日       波のごと迅{はやし} 我等の日
加積の郷{さと}の 学び舎に        雄々しく潔{きよ}く 血と愛に
栄えある歴史 うけ継ぎて         鍛えん時を 惜しみつつ
祖国をにない 集える我等         理想に燃えて 集える我等

写真は、式辞を述べる金田校長

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(2024/04/09)

米寿と誕生日

世の中に 絶えて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし  在原業平

清少納言は「春はあけぼの」と書いた。夜明けの空を赤々と染め上げるように、春は冬の名残りを追い払ってしまう。
4月7日現在、東北以北を除き日本列島の殆どの地域で桜の開花宣言や満開宣言がでている。春は「曙」「朧」「霞」など4月の言葉は、日本的美意識で迫り私は好きだ。

さて、今年のホタルイカ漁は、3月の県内の漁獲量は{暫定値}1152トンと過去10年で最少だった昨年3月{70トン}約16倍である。滑川漁港では、昨年は、17トン、今年は106トン約6倍である。これによって、消費者は「安くて歓迎」片や漁業者は「値崩れ心配」立場の違いが、意見の違い。なかなか難しい。

そんな中4月5日、日頃から公私にわたりお世話になり、かつ尊敬する中尾哲雄富山・魚津両市の名誉市民の米寿と藤井裕久富山市長の誕生日を祝うささやかな懇親会を開催した。まず最初に森雅志前富山市長がお祝いの言葉を述べ、次いで中尾氏が、3月北日本新聞に16回にわたり連載された、「人生のあとさき」にも触れながら傾聴に値するお話であった。

特に印象に残ったのは
「私は砂時計が好きである。1分、3分、5分、30分など様々な砂時計を持っている。1時間の講演では30分の砂時計を持っていく。砂の落ちるのを見ていると「時」とは過ぎ去っていくものではなく、蓄積されていくものだと思う。残り少ない時を寂しく悲しむものでなく、素晴らしい時が体に蓄積されているということを嬉しく思うのだ。」

この言葉には感動した。逆転の発想というのか、時とは過ぎ去るものと思い込んでいた私には新鮮な驚きであった。中尾氏の88年の人生は、僅か16回の連載やわが家での2時間30分で語り尽せるものでない。是非とも出版し、後輩の為の人生の参考書にすべきと申し上げた。己の善を語らない人だから、返答は無かったがニコニコ笑って肩透かしを食ったが、私の感触ではありそうな気がした。

当日は、藤井富山市長の誕生日でもあり、彼の真面目な性格通り、今後の富山市政の発展に尽力するむね力強さと、ユーモアを交えた挨拶でした。
次いで、昨年秋、叙勲の栄に浴された、元・県議会議長稗苗清吉氏、今度富山市新副市長に就任された西田政司氏からご挨拶を頂き、米原蕃県議会議員の乾杯で懇談に入った。

尚、日頃から親交がある民謡歌手・長岡すみ子さんに祝い唄を中心に数曲歌って頂きました。実は藤井市長の奥さんが、長岡すみ子民謡教室におられることから、誕生祝いに長岡さんから藤井市長に、また中尾氏には同じ仕事関係にある向山さんから、それぞれ花束が贈呈されました。

2時間余りのあと、水野滑川市長の閉会の言葉で中締めをし、その後、散会となりました。それにしても、88歳、米寿の中尾氏の元気には驚きます。未だに県外での講演依頼で出張されたり、数々の要職を務める傍ら、ゴルフも結構おやりになるという。
「また呼んでくれ―」の言葉に、勿論と応じお帰りになった。

写真は、4月7日現在富山市松川辺りは満開に近いが、我が家の小さな裏庭の枝垂れ桜と染井吉野はまだまだです。

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(2024/04/07)

皇居三の丸尚蔵館

3月27日、朝快晴の富士山をホテルの窓から眺め、思わずカメラを取り出しシャッターを切った。立山・剣岳も良いがやっぱり富士は日本一の山だ。

さて、この日は午前10時に予約していた、皇居三の丸尚蔵館の名品を鑑賞した。
この尚蔵館は平成元年{1889}昭和天皇まで代々皇室に受け継がれた品々が、上皇陛下と香淳皇后により国に寄贈されたことを機にそれらを保存、研究・公開するための施設として、平成5年{1993}11月に宮内庁三の丸尚蔵館が開館しました。
その後も香淳皇后や各宮家より、平成8年{1996}旧秩父宮家、同17年{2005}には旧高松宮家、さらに、同26年{2014}には三笠宮家から、それぞれご遺増品の品々が加わり、現在約2万点の作品を収蔵しているという。それらは、各時代を代表する数々の名品を含め、日本を中心とする東洋の美術工芸品のほか、時代・地域の分野ともに幅広いことが特徴です。

令和5年{2023}開館30周年を迎え、収蔵品の増加と入館者の増大に対応するために施設の拡充がはかられ令和元年{2019}より新館の建設がすすめられ、その一部が完成しました。それとともに、組織が宮内庁から独立行政法人文化財機構へ移行され、館の名称も新たに「皇居三の丸尚蔵館」と変わりました。

拡張工事は引き続き行われ、全館開館は令和8年{2026}を予定しています。新館の一部開館を記念して開催する本展は館を代表する収蔵品を四期に分けて、第一期は「三の丸尚蔵館の国宝」令和5年11月3日ー12月24日、第二期「近代皇室を彩る技と美」令和6年1月4日ー3月3日、第三期「近世の御所を飾った品々」3月12日ー5月12日、第四期「三の丸尚蔵館の名品」5月21日ー6月23日、いづれも皇室の長い歴史と伝統の中で培われ、伝えられてきた品々です。
私は、今回の第三期と前回の第二期を鑑賞しました。

尚、館名の「尚蔵」は古代律令制において蔵司{くらつかさ}の長官{くらのかみ(かみ)}をさし、大切に保管するという意味と、建設場所が旧江戸城三の丸の地であることから「三の丸尚蔵館」と名付けられました。主な収蔵品には、美術史的、歴史的に高い評価を得ている平安時代の書,、逸品「金沢本万葉集」や鎌倉時代の絵巻き{春日権現験記絵」{蒙古襲来絵詞} 近世絵画を代表する狩野永徳筆{唐獅子図屏風} 狩野探幽筆{源氏物語図屏風}伊藤若冲筆{動植採絵}などの傑作があるほか、横山大観や竹内栖鳳、並河靖之、高村光雲など近代の著名な作家による作品が多数あると言う。

収蔵品はすべて超一級品ばかりであった。それにしても、さすが宮内庁である。70歳以上は証明書を出せば無料であった。他の国立博物館などでは無料は聞いたことがない。

写真は、ホテルの部屋から見た朝の富士山。パンフレット。修学院焼ふくべ形香炉、江戸時代18世紀。糸桜図簾屏風、江戸時代、狩野常信、江戸時代17世紀..簾をはめた金屏風の両面に糸桜を描いた作品。京都御所の伝来品で宮中からの注文品と考えられる。

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(2024/03/28)

友人・知人

3月26日、静嘉堂美術館鑑賞の夕方、久しぶりに3人の友人と懇談した。
一人は財務省出身で県に生活文化環境部長として出向し、その後本省に戻った後、昨年6月まで財務省近畿財務局長を務め、昨年7月から日本政策金融公庫代表取締役専務取締役の岩本氏、もう一人は財務省から県知事政策局長を務め、現在内閣府参事官{総合調整{国内}の吉田氏、もう一人は、厚労省から県くすり政策課課長に出向し、本省に戻り、現在健康衛生局・感染症対策部・予防接種課長補佐・坂西氏の4人で久しぶりに懇談した。話題はやはり富山の思い出である。

丁度料理にほたるいかの酢味噌和えがでてきたので、早速これは富山湾産か否かで始まり、出てきたほたるいかは少し小ぶりだったので、他県産と思ったが結局富山湾産であった。考えて見れば、今年の富山湾産も例年より魚体が小さいように思う。

しかし、不思議なもので富山湾産と聞いただけで、なんとなく美味しく感じる。他愛もない会話から始まり、昨今の金利の引き上げなど話題に事欠くことなく、アッという間の2時間半であった。

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(2024/03/27)

曜変天目・静嘉堂美術館

珍しき 高麗-唐土の花よりも 飽かぬ色香は 桜なりけり 本居宣長

日本人ほど桜をめでる民族はいないであろう。テレビでは連日桜の開花宣言の日が予想され報道されている。
残念ながら、私が上京した時はまだで、29日には開花宣言が発せられるだろう。そんな中、全弓連理事会出席で3月26日ー27日上京した。
上京の楽しみの一つに、美術館や博物館での名画や名品の鑑賞や友人等と会えることである。今回は、東京駅近くの明治生命館1Fの静嘉堂美術館へ行った。

実は、この明治生命館は昭和9年{1934}竣工し、昭和の建造物で初めて重要文化財に指定された由緒ある建物である。
さて、江戸幕府が倒れ西洋文明が流入した明治時代に「美術」という言葉が誕生し、西洋風の建築や油彩画が普及し博覧会が開催され、美術館が初めて開館したのもこの時代であった。急激な変化は「廃仏毀釈」という伝統文化軽視の風潮を生み出した。

そんな中、三菱を創業した岩崎弥太郎の弟で三菱第2代社長岩崎弥之助{1851-1908}は明治10年代、刀剣を収集し大名道具を購入するなど文化財の保護に努め、明治25年静嘉堂文庫を創設した。
「静嘉堂」の名称は、中国の古典「詩経」から採った弥之助の堂号で、祖先の霊前への供物が美しく整う、という意味。弥之助の死後、その子岩崎小弥太・三菱第四代社長{1879-1945}が父の意志を継ぎ、美術品の収集と静嘉堂文庫の拡充に努めた。

また、弥之助の援助のもと制作された、橋本雅邦、{竜虎図屏風}重文や岩崎邸を飾った黒田清輝{裸婦婦人像}など親子二代にわたって創設・拡充された「静嘉堂美術館」には、現在、国宝7件、重要文化財84件を含む、およそ20万冊の古典籍と約6500件の東洋古美術品が収蔵されており、年数回企画展が開催されている。今回の企画展は、3月ということもあり「岩崎家のお雛さま」であった。雛飾り、お雛さま、どれをとっても,贅の限りを尽くした豪華で見事な物ばかりであった。

今回、企画展とは関係ないが、国宝「曜変天目」が出品されていて、これを見るのも目的の一つであった。私は茶道には無知であり、美術品のコレクターでもない。好奇心が旺盛ゆえに出かけるのである。さて、広辞苑によれば、この小茶碗「曜変天目」は南宋時代12-13世紀、中国福建省建窯で作られ陶磁器の焼成中、漆黒彩面が変化して斑紋が生じ大小の星紋が浮かび、そのまわりが玉虫色に光沢を放つ。

日本では、国宝・曜変天目は大阪、藤田美術館、京都大徳寺塔中・龍光院と静嘉堂美術館の3点しかない。何れも割れると再現は不可能と言われ、同じものは創れないといわれている。静嘉堂美術館の「曜変天目」は徳川三代将軍家光公から春日局にわたり、親戚の稲葉家へゆき、そこで代々伝えられてきたが、昭和9年5月稲葉家から小弥太が入手した物である。
それ故「稲葉天目」ともいう。小碗の中の大宇宙と表現されていたが、まさに小碗の中で、無数の星が夜空に輝いているかのようであった。中々見れない物を見た満足感に浸りながら会場を後にした。写真は、企画展のパンフレットと国宝・「曜変天目」

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(2024/03/26)

第76回滑川高校卒業式

龍宮の 庭から散りて ほたるいか   坪谷水哉

陽光燦燦として大地を覆い 野が山が海が躍動の季節を迎える中、富山湾に春を告げる風物詩 ホタルイカ漁が3月1日解禁となった。
能登半島地震で富山湾では海底地滑りが発生し、水橋漁港ではホタルイカの定置網が流失し大きな被害が出た。幸い滑川漁港では、ホタルイカの定置網には余り被害がなかったが、昨年の解禁日の漁獲量は僅か59匹{1㎏未満}であったから、関係者は随分心配していた。

しかし、今年の解禁日は106㎏とまずまずの水揚げで関係者はホッとしていた。そして、県水産研究所は、1日今年の湾内でのホタルイカ状況予報を発表し、今年の総漁獲量は2238トンで平年{過去10年の平均}の1261トンを上回るとした。今後に期待したいと思う。

さて、その3月1日滑川高校{校長・金田幸徳}の卒業式が挙行された。昨年は、まだ新型コロナ感染防止対策の為、式場では、保護者にも人数制限やマスク着用が求められた。しかし、今年は久しぶりに制限なしで、開式の辞に続き、全員で国歌「君が代」を斉唱し、次いで金田校長より卒業証書が181名の卒業生に授与された。

校長は式辞の中で
①「熱意をもって物事にあたってほしい」
②「心の回復力{レジリエンス}を高めてほしい」
③「感謝の気持ちを持ち、人を支える側になってほしい」

の3点を中心に話し、激励とお祝いの言葉が述べられました。
祝電披露の後、「蛍の光」がテープで流れる中、在校生代表が進み出て、卒業生に送辞。次いで「仰げば尊し」が、やはりテープで流れる中、卒業生代表が進み出てステージ上の金田校長に向い答辞を述べ、3年間の思い出を語り、特に1-2年生の時コロナ禍で学校行事や部活動の殆どが中止や延期になった時の淋しさ、それを励まし支えてくれた教職員や家族への感謝の言葉。3年生の一年間は、学園祭や大運動会など学校行事や部活動などほぼ消化出来たのも在校生の協力のお陰と語り、時として涙ぐむ姿には私も胸を打たれました。

そして滑川高校での3年間の思い出を胸に、明日から力一杯生きてゆく決意を述べられました。。送辞も答辞も純粋だから感動を覚えるのだろう。次いで、校歌を全員で斉唱したのち、卒業生が選んだ「RADWIMPS」の「正解」のメロディーと拍手に送られて退場し厳粛な中にも滞りなく終えました。

それにしても「RADWIMPS」も「正解」の曲も正直私は知りませんでした。つくづく年齢差を感じるとともに、181名の卒業生の内、女子生徒90名で内、名前に子が付いているのは1名だけであった。やはり時の流れを感じざるを得ない。

ただ、残念だったのは、国歌「君が代」と「校歌」はピアノ伴奏のもと全員で斉唱したが、「蛍の光」と「仰げば尊し」はテープで流れるだけである。私の記憶ではコロナ禍以前は、「蛍の光」は在校生が「仰げば尊し」は卒業生が唱和していた。
校歌二題目に「思え車胤を 青春の」とある。これは「蛍の光」の歌詞と通ずるものである。いづれにしてもこの2曲の歌詞には、今の世に失われてゆく大切なことを教えている。誠に残念である。

極端なことを言えば、この2曲が卒業式の雰囲気を作り出していると言っても過言でない。現在県内に県立高校39校。私立高校10校ある。
この中で、「蛍の光」を歌っている学校は本校を含め僅か6校である。「仰げば尊し」は県立では本校だけ。私立で1校。これを聞いて正直驚いた。多分教えないからだろう。

以前歌っていたものが、コロナ禍で教えなくなった。このままでは数年後にはこの2曲も消えてゆくのではないだろうか。私はそれを危惧する。高校は教え育てる教育の場である。学び習う学習の場ではない。「伝承無きところ モラルなし」との言葉がある。

良き伝統や良き事はきっちりと、伝え教えていくべきである。校長の話も巣立ちゆく卒業生に、教え、諭し、前途に幸多きことを願う教育者としての言葉であり良かったと思う。
そして、校長と教頭には私の個人的見解として、来年は「蛍の光」は在校生、「仰げば尊し」は卒業生が唱和すべきと申し上げた。滑川高校の良き伝統の一つとして県下でただ一校になっても、「蛍の光」と「仰げば尊し」の2曲が歌われている学校として続けてもらいたいと思う。いづれにしても、過ぎし日の学生時代を懐かしみながら校舎を後にした。

参考まで、「蛍の光」と「仰げば尊し」を解説しておきます。
「蛍の光」・・・以前も少し説明しましたが、「蛍の光 窓の雪・・・」の歌詞は、古代中国「晋」の学者・車胤が「貧しくて油が買えないため蛍を集めて、その光で書を読み、同じく孫康が雪明かりで勉強した」という故事からとったもので、一生懸命勉強することを、「蛍雪の功」といった。これを参考に作詞されたのが前述した滑川高校校歌であると思う。

実に素晴らしい歌詞である。原曲はスコットランド民謡で、久方ぶりに出逢った幼なじみ同士が祝杯をあげる歌という。明治14年刊行の「小学校歌集」に「蛍」の題名で発表されたが作者不詳である。スコットランド民謡を敢えて翻訳しないで{徳性涵養}の教育方針から道徳的な詩がはめ込まれたという。

「仰げば尊し」・・・明治17年に日本で初めての音楽教材集「小学唱歌集」に載っている。
ところがこの歌の作者については、編集に関係した人たちの誰かだろうと言われているが、今のところ判っていない。外国の民謡らしいという説にも根拠がなく、もし日本人の曲であるとしたら当時としては非常に珍しい西洋風の長音階である。
戦後の一時期、卒業式にこの歌が歌われることに教師側が抵抗を感じたことがあったが、PTA側が卒業式はこの歌でなければ承知しなかったと言う。映画「二十四の瞳」でこの歌をテーマ曲に使い、多くの人々を感動させたのも、この歌に対する感傷性が大きかったせいだと言われている。

「心のうた、日本のうた」より一部引用。



(2024/03/02)

令和5年度同窓会入会式

2月29日{木}県立滑川高校同窓会入会式が行われた。本校の場合、卒業と同時に同窓会に入会し会員となる。
今年は181名の入会であったが、現在約3万7千人の会員を擁し県下でも最大規模を誇り、各界各層で活躍されていることは嬉しい限りである。

誰にでも生まれ育った「故郷」があるように、青春のひと時を過ごした「母校」がある。
中でも、青春の中心舞台は多感な学校生活であり、それを回顧する時、追憶の中から懐かしい想い出が去来し、哀歓彷彿として思い浮かび、堅い友情に結ばれた出会いと別れ、という青春の讃歌が鮮やかに蘇る。しかし、学生諸君には学生時代の思い出は残っても、同窓会への意識は稀薄である。

しからば、同窓会とは何だろう。それは、日頃同窓会に興味を示さない人でも、例えば、滑川高校野球部が甲子園出場を果たした時、多くの人々は素直にそれを喜び、友人、知人にそれを誇らしげに話す。
これが、卒業生であり、同窓会であり母校の存在だと私は思う。県外在住の富山県人が帰省し、青空に広がる立山連峰の雄姿を見た時、富山県人であることを再認識すると同時に、どこか元気,勇気が湧いてくる。それが故郷の存在なのだろう。

この様に、「故郷」や「母校」の存在は人それぞれの心の拠り処として、生き続けているものと思う。もう一点、私は、夢と志の違いを話した。

広辞苑によれば
夢・・・睡眠中に持つ幻覚。とある。つまり睡眠中に現実に起きていないことを起きているかのように思う錯覚である。
志・・・心のむかうところ。成し遂げようとする目標を心に決めること。

とある。

かって、札幌農学校のクラーク博士が離任する時、「少年よ大志を抱け」の言葉を残した。夢でなく、志である。「医学」を志す。「音楽」を志す。人生に目標を持つことの大切さを話しました。卒業後は社会人になる人。進学する人。
歩む道はそれぞれ違っても、彼らの洋々たる前途が輝かしい未来であることを祈念し、同窓会入会の歓迎の言葉としました。

写真は、私と、同窓会入会者代表の言葉。

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(2024/03/01)

文科省友人

平成15年より文科省から滑川市へ研修生として約3週間派遣されていた事業が20年を迎えた機会に、久しぶりにかっての研修生と2月14日再会した。
事業は東日本大震災とコロナで2回計3回派遣が中止になり、研修生は17名である。彼等が十数年前、文科省なかや会を結成し私が上京の折、時々懇談の機会を持っていた。

平成30年秋の叙勲の際も上京の折、色紙に全員がサインをして記念品を頂いた。感激の極みである。彼等は30歳前後から都道府県等に文科省から出向する。その為、現在本省にいるのは10人位であるが、出向中のメンバーで、例えば現在ある県の教育長やユネスコ日本政府代表部一等書記官としてパリに赴任している人,或は、都道府県の教育委員会に出向中の人などいることから、当日出席したのは私を含め8人であった。メンバーで滑川市へ研修生で来たときは25歳であったのが今や45歳で既に本省の課長の人もいる。

最年少は昨年滑川市に来た25歳の人である。彼等は文科省関係の様々な分野で頑張っており、そんな人々と接する機会があることは私自身も刺激になるし嬉しくも思う。彼等の近況を聞きながら、私はささやかな人生の先輩として話すことは「国家公務員の矜持とは」を問いかける。
かって遣隋使や遣唐使として身命を賭して荒海を渡り、大陸に上陸しても、そこから長安まで数か月かけ、律令制度を含め様々なことを学び、日本に持ち帰る。無事帰国できたのは、渡航した人数の約3分の一との数字もある。

危険を冒してまで渡航に駆り立てるのは何か。この心意気、志が今の国家公務員に欠けている。と、やんわりと指摘する。余り偉そうなことを言うと、場がしらけるのでほどほどで止めるが、彼等がこれからの文部行政を荷っていくことを思うと、やはりエールを送り激励した。
10周年と同様今回は、20年ということもあり,主催・文科省なかや会と書いた横断幕を掲げての懇談会であった。また、当日は欠席でしたが、出向先から会場にワインを差し入れてくれるメンバーもいるなど、有難いことである。6時30分から9時30分まで3時間あっという間であった。

途中ハプニングで別室で会議に出席していた県内選出国会議員が私の姿を見て挨拶に近寄ってきてどんなメンバーかと尋ねるので、事情を説明すると慌てて名刺を取り出すので、文科省のメンバーも全員起立し名刺交換を行った。
5分位のち別の国会議員がくる。また5分位後に別の国会議員がき来て同様の風景が3回展開され、その都度私は彼等を紹介する役であった。3人の国会議員は選挙区の人との懇談会であったと言う。

いづれにしても,彼等とは、和やかな雰囲気での懇談会であったが、今後の活躍を祈り、再会を約し散会した。

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(2024/02/17)

中尊寺金色堂

五月雨の 降のこしてや 光堂  芭蕉

わが家の小さな裏庭に春を告げる「フキノトウ」が芽吹き始めた。
2月14日~15日、全弓連理事会出席で上京した。その折、東京国立博物館本館で開催されている国宝・中尊寺金色堂特別展{1・23~4,14}を鑑賞した。
金色堂は誰もが一度は訪れたことがある所で、私も過去三度金色堂を含め周辺を見学した。今回は、藤原清衡公{1056~1128}よって建立され、東北地方現存最古の建造物で、天治元年{1124}の上棟から、今年が900年になるのを記念して開催された。

特に、今回は堂内中央の須弥壇に安置されている国宝の仏像11体が一堂に展示されたほか、きらびやかな堂内荘厳具の数々も展示されていた。
また、会場内には、大型ディスプレイ8KCGの原寸大に再現された金色堂の内部が迫力ある映像で見ることが出来た。

さて、金色堂は中尊寺創建当初の姿を今に伝える建造物で、数ある堂塔の中でも取り分け意匠が凝らされ、極楽浄土の有様を具体的に表現しょうとした清衡公の切実な願いによって、往時の工芸技術が集約されたのが金色堂と言われる。
特に、内外に金箔の押された「皆金色」と称される御堂の内陣部分は、はるか南洋の海からシルクロードを渡ってもたらされた「夜光貝」を用いた螺鈿細工や象牙によって飾られているのには驚く。
須弥壇の中心の阿弥陀如来は両脇に勢至菩薩、観音菩薩、六体の地蔵菩薩、持国天、増長天を従え、他に例のない仏像構成で、全仏像が展示してあった。

この中尊寺を造営した初代藤原清衡公をはじめとして、宇治平等院を模した毛越寺を造営した二代基衡公、源義経を平泉に招き入れ、無量光院を造営した三代秀衡公、そして、四代泰衡公の亡骸は金色の棺に納められ、孔雀のあしらわれた須弥壇の中に今も安置されていると言う。

仏教美術の円熟期とも称される平安時代末期、東北地方の二度にわたる大きな戦い{前九年・後三年の役}で亡くなった生きとし生ける者の霊を敵味方なく慰め「みちのく」と言われ、辺境とされた東北地方に、仏国土{仏の教えによる平和な理想社会}を建設すると言うものだった。
その規模は、鎌倉幕府の公式記録「吾妻鏡」によると寺塔が四十、禅坊が三百に及んだと記されているという。平泉はおよそ百年近くにわたって繁栄し、「みちのく」は戦争のない「平泉の世紀」だった。しかし平家を倒した源義経が兄・頼朝と対立し平泉に落ちのびる。
だが、義経を保護した秀衡公が病死すると、四代泰衡公は頼朝の圧力に耐えかね義経を自害に追い込んだのはご存知の通りであるが、その泰衡公も頼朝に攻められ、文治5年{1189}奥州藤原氏は滅亡する。

その金色堂を風雪から守るため正応元年{1228}覆堂が作られる。その後、鎌倉時代以降、大きな庇護者を失った中尊寺は次第に衰退し、建武4年{1337}の火災で惜しいことに多くの堂塔、宝物を焼失する。
芭蕉が奥の細道紀行で訪ねた元禄2年{1689}頃は、かなり朽ち果てていたらしく、堂の四囲を板で囲んでいるだけだっらしいがそんな簡単な覆堂でも500年以上も風雨雪から守り続けた木造建築には驚かされる。まったくよく残ったもので多分芭蕉の句は、五月雨もここだけよけて降ったので、幸い光堂が残ったのかもしれない。と思って詠んだのかもしれない。

尚、現在の覆堂は、昭和38年{1963}の金色堂解体修理とともに建てられた。この地方に平和をもたらすべく建立した中尊寺の堂塔が古の栄華を今に伝え、その代表的な建物が金色堂であろう。平成23年{2011}に中尊寺を含む「平泉の文化遺産」が世界文化遺産に登録された。いずれにしても見ごたえのある企画展だった。

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(2024/02/16)

藤井聡太8冠対伊藤匠7段

昨年2023年10月11日、第71期将棋王座戦5番勝負第4局が京都で開催され、3勝1敗で勝利し、藤井聡太8冠が誕生した。21歳の若者が将棋のタイトルを総なめにした二ユースは、将棋界の枠を超えて日本中の注目を集めた。
ただ、全冠制覇という意味では、1996年当時の7冠を羽生善治9段も達成している。

ただし、藤井棋王の場合は特筆すべき点が2点ある。
①登場した19回のタイトル戦で一度も敗れることなく8冠を達成したこと。
②タイトル戦のみならず、4つの一般棋戦でも優勝、出場できる12の棋戦すべてを制していること。
完全制覇であり、まさに「藤井1強」である。

そんな8タイトルを独占する藤井聡太棋王{21歳}竜王、名人、王位、叡王、王座、王将、棋聖に初タイトルを狙う、伊藤匠7段{21歳}が挑戦する第49期棋王戦5番勝負第1局が2月4日{日}新川文化ホールで開催され、その大盤解説会に、へぼ将棋を自負する私も参加した。

立会人は森内俊之9段が務め、解説者は地元魚津市出身の村田顕弘6段{37歳}、富山市出身・服部慎一郎6段{24歳}同市出身・野原未蘭女流初段{20歳}の3人の富山県出身者が戦況を分かりやすく解説された。
対局は午前9時から文化ホール内、別室で始まり、大盤解説会は大ホールで、別室から中継する形で行われた。しかし、午前中は早いペースで進み、10時30分頃には、80手まで進んでいたという。

大盤解説会が始まる午後1時には1200名の座席はほぼ満席であった。しかし、解説が始まった時は、解説者の話では戦況は終盤の様相だという。だが、ここからが中々手数が進まない。ステージ上のスクリーンに映し出される対局室の風景には、藤井棋王が何度も身を前傾姿勢にし長考にふけるシーンが映り出される。

この時、入場時に貰った次の一手を記入し係に手渡す。伊藤匠7段の次の一手であったが、これは解説者2名がそれぞれの案をA案、B案、それ以外のc案の3案から1案を選び、正解者から抽選で藤井棋王の扇子、色紙、それに当日出席の各棋士の色紙計7点が2度プレゼントされた。私は2度挑戦したが次の一手は2度とも外れた。2名のプロ棋士の予想も2度とも外れたのは意外であった。

当選者の中には遠く静岡や東京からの人たちがいたことにも正直驚いた。藤井フアンの追っかけなのか、それとも純粋な将棋フアンなのか・・・・
1時解説が始まったが、2時頃には解説者がこのまま進めば、持将棋になるのでは。と発言しだした。結果は5時35分129手で予想通りタイトル戦では珍しい「持将棋」となった。

少し古い話で恐縮ですが、昭和40年代後半、私は宮城県塩釜市周辺を回商していた折、宿泊旅館の近くの地区公民館で「中原誠名人の集い」があり、会費はお菓子付きで300円で誰でも入場出来たので私も参加した。
その中で特に印象に残ったのは、会場の人からの質問コーナーで、小学生と思われる児童が,なん手位先を読むか、との問いに、序盤、中盤、終盤では違ってくるが、やはり中盤から終盤にかけてであり、約120手位を3通り、それを3回復唱するとの答弁には正直ビックリした。
この時は約120分の長考とのこと。また、次の一手の正解者に抽選で「中原誠の自然流」の本がプレゼントされた。永世十段を含め5つの永世の称号を持ち、通算1308勝は羽生、大山、谷川、加藤一二三に次いで、歴代5位。

大山康晴・永世名人を含め5つの永世の称号を持ち、タイトル獲得80期。この人とお会いしたのは、昭和57年黒部JC5周年記念の記念講演講師として黒部においでになった時で、中原誠の集いに、質問した児童と同じ様な質問をしたところ同様な答えであった。
ところが平成18年{2006}10月5日魚津第一インで開催された、羽生善治講演会で控室で彼とお会いした。現在彼は無冠の帝王であるが、日本将棋連盟会長である。ご存知の通り25歳で、当時のタイトルすべてを制覇し、7冠王{名人,竜王、王位、王座、棋王、王将、棋聖}でしかも、47歳で7大タイトル全ての永世資格を得て将棋界初の永世7冠を達成した。

現在でもタイトル獲得99期は1位であり、2位大山康晴80期、3位中原誠64期で羽生善治氏はダントツである。この記録を破るとすれば、やはり藤井聡太8冠であろう。

さて羽生善治さんとお会いした時、彼は36歳でまだ3冠を持っておられた。この時も同様な質問をしたところ意外な答えであった。彼は多少手数は読むが、最後は直感である。その直感が最も冴えるのが、10代半ばから20代半ばであり、以降直感が衰える分は、経験でそれをカバーするとの答えだった。事実彼は25歳で7冠を達成しているし、藤井聡太8冠の年齢を見ても納得できる様な気がする。しかし、その裏には、詰め将棋やコンピューター将棋など,たゆまぬ努力と研究、それに裏打ちされた直感であろうから、常人の及ばぬところである。それにしても始めての体験である大盤解説会であったが、大変よかった。

尚、いつも話題になる「将棋めし」は藤井棋王は魚津産ベニズワイガニを贅沢にのせた「スパイシーカレー」.伊藤7段は,バイ飯や氷見牛のローストなどが楽しめる松花堂弁当。また、午前と午後の2回のおやつは、藤井棋王が「いちご大福」。伊藤7段が「加積りんごのタルトタタン」午後は伊藤7段が「いちご大福」。藤井棋王は「加積りんごの果汁100%のジュース」などの飲み物であった。

そして、いつも思うことだが、藤井聡太さんと大谷翔平さんの、己の善を語らず,他者を批判しない。常に謙虚な姿勢には感心する。両親はどんな教育をされたのか。機会があれば是非ともお聞きしたいものである。
写真は、新川文化ホールステージ上の大盤解説会。対局風景。会場に飾られた藤井聡太8冠の色紙。大山康晴氏。羽生善治氏。

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(2024/02/05)

頑張れ能登! 能登は、やさしや 土までも

今年のお正月は、元旦は能登半島地震と輪島市の大規模火災。2日羽田空港滑走路上での日航機と海保飛行機の衝突炎上事故。3日北九州市小倉での35棟の火災。記憶にも、記録にも、歴史にも残る3か日であった。
特に、地震はM7,6、最大震度7を観測し、お屠蘇気分を吹き飛ばす大惨事となった。

富山県内でも広範囲に激しい揺れに見舞われ、震源地に近い氷見市を始め小矢部市、高岡市、射水市、富山市などでは1922年観測以来、県内で初めて震度5強を観測した。
特に、氷見市や小矢部市では多数の建物被害や全市域での断水、停電、インフラに大きな被害が出た。高岡、射水、富山市では、液状化現象が各所で発生で。富山市では富山城址公園横を流れる桜の名所松川辺りの車道や歩道に地割れや亀裂が走りったり、陥没で段差が生じたりした。能登地方の被害状況は連日のテレビ放送や新聞などで報道されているので、割愛するが胸の痛むのを覚える。
そこで私の思いを述べる。

インフラの復旧や復興は、国、県、市町村、多くのボランティア活動、また義援金等もある。阪神淡路大震災や東日本大震災も、お金とある程度の時間があれば復旧、復興が可能なことを示した。しかし、能登地方は珠洲市の高齢化率52%を始めとし、他の市町村も同様過疎地域である。2次避難所は広範囲であり、復興までそれなりの時間がかかる事を考えると、果たして人々は元に帰るだろうか。より過疎化が進むのではないか。それが心配であり、それを危惧する。
是非とも国、県、市町村は知恵を絞って頑張ってもらいたい。「能登は やさしや 土までも」の為にも。

その中で、明るい兆しも出てきている。輪島塗の漆器店の店主や能登の酒造りの蔵元も珠洲の七輪造りの職人も「伝統の灯」は消せない、との力強い言葉に感動した.。取りあえず、前述した伝統産業と日本三大朝市の輪島朝市の復興と温泉などの観光産業の復活そしてインフラ整備に全力を挙げるべきと思う。「頑張れ 能登!」

戦後、日本海側で発生した主な地震と大震災の一部を記す。
福井地震
 昭和23年{1948}6月28日、午後4時13分、M7,1 震度6
 死者約4000人。

新潟地震
 昭和39年{1964}6月16日、午後1時2分、M7,5 震度5
 液状化 昭和大橋落橋 信濃川で津波確認。

日本海中部地震
 昭和58年{1983}5月26日、午前11時59分、M7,7 震度5
 地震発生後8分で男鹿半島に津波到達。
 遠足に来ていた北秋田郡合川小学校の児童13名を含め津波で亡くなった人100人。
 峰浜村で津波の高さ14mを観測。

北海道南西沖・奥尻島地震 
 平成5年{1993}7月12日、午後10時17分 M7,8 震度6
 火災や津波で死者不明230人。

阪神淡路大震災
 平成7年{1995}1月17日、午前5時46分、M7,6
 国内初の震度7を記録。死者不明約6400人。

鳥取県西部地震
 平成12年{2000}10月6日、午後1時30分、M7,3 震度6弱
 液状化現象で港湾施設に大きな被害。

新潟県中越地震
 平成16年{2004}10月23日、午後5時56分、M6,8
 震源地に近い小千谷で約24㎝隆起。上越新幹線で脱線事故。
 1996年の震度改正以降、震度計で震度7が始めて観測された。死者56人。

能登半島地震
 平成19年{2007}3月25日、午前9時41分、M6,9、震度6強 
 總持寺祖院被害大。県内初の震度5弱を滑川市と高岡市で観測。

新潟県中越沖地震
 平成19年{2007}7月16日、午前10時13分、M6,8 震度6強
 死者15人。負傷者2345人、家屋全壊1319棟、
 家屋半壊5621棟、一部破損3万5千棟。

東日本大震災
 平成23年{2011}3月11日、午後2時46分、M9、最大震度7
 津波の潮位9,3m以上。Mは1900年以降、1952年のカムチャツカ地震と同じでM9、
 1960年のチリ地震M9,5が最大で世界で東日本大震災は4番目の巨大地震であった。 
 直接的被害は約16,9兆円、阪神淡路大震災の9,6兆円の1,7倍。
 戦後最大の自然災害。住宅被害は全半壊一部損壊約115万5千棟、死者不明2万人以上。

熊本地震
 平成28年{2016}4月14日、~16日、午後9時26分、M6,5
 本震16日、午前1時35分、M7,3、震度7。家屋の全壊約8300棟。
 家屋被害計約16万棟。死者55人。

令和6年能登半島地震
 令和6年{2024}1月1日、午後4時10分、M7,6
 震度7。県内では氷見市、小矢部市、高岡市、射水市、富山市などで震度
 強を県内で始めて観測された。滑川市や黒部市等で震度5弱を観測。
 尚、魚津市は震度4である。昨年、令和5年5月5日、、午後2時42分
 M6,5、珠洲市で最大震度6強が観測され、家屋被害も出た。
 これを令和5年奥能登地震と命名された。
 平成19年にも能登半島地震が発生していることから、今回は正式名として、令和6年能登半島地震と命名さされた。

飛越地震
 安政5年{1858}2月26日午前2時頃、推定震度6.立山、鳶山崩落。

さて、これを見ると戦後78年余の間に日本海側で発生した地震は9回である。つまり約9年に一度は震度5~7の地震が発生している。
これに地震が頻繁に発生している太平洋側を加えると、まさに日本列島は地震列島で、その上に住んでいる我々は何処に住んでいても地震から逃れることは出来ない。

いつどこで起こるかわからないことを認識すべきと思う。私自身、考えが甘かった点があった。能登でここ数年地震が多発していた。
しかし、かっての松代群発地震と同様何れ、収束すると思っていた。もう一つ富山湾では津波は発生しないと思っていた。これも違っていた。富岸運河では80㎝観測された。しかも、地震発生後、僅か5分位で到達したことや、山手に避難しょうとする車の大渋滞や、珠洲から輪島にかけて約80㎞の海岸が隆起するなど、まったく想定外の事ばかりであった。

この経験をやはり今後に生かさなければならない。また、国においては、地震や津波に関しては、太平洋側を中心に研究や調査などが行われてきたが、今後は日本海側も力を入れて、調査等行うべきと思う。災害は忘れぬうちにやってくる。

高杉晋作の辞世の詩に「面白き 事もなき世を面白く 棲みなすものは 心なりけり」
物事は ポジティブに 前向きに! 頑張れ能登!「能登はやさしや 土地までも」

地震の予知は難しいが、わが国で地震の観測が本格的に始まったのは明治18年{1885}で、それ以前の古い地震は歴史地震といわれ、日本書紀などの国書、貴族の日記,藩や寺社の記録、、幕府への訴状,個人の手紙などの記録を元に推定震度などを算出している。
日本で最初の地震記録は、日本書紀に允恭天皇5年{416}7月14日、とだけ記してあるが、天武天皇13年{684}10月白鳳南海地震で南海トラフを起源とするのが、最初の地震記録で、「国中の男女が叫び戸惑った。山が崩れ,河が溢れて官舎や寺社が数え切れないほど倒れた」とある。

わが国で、最初の天気予報が出たのは、明治17年{1884}6月1日の天気予報が第1号で、東京市の交番に貼り出され「全国一般風の向きは、定まりなし。天気変りやすし。但し、雨天勝手なり」当時の予報能力はこの程度だったのであろう。

写真は、県庁裏松川べりの間の道路に、地割れや亀裂が生じた車道と歩道。

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(2024/01/23)

令和6年 薬神神社新年歳旦祭

1月8日午前9時恒例の薬神神社新年歳旦祭{主催・薬神神社奉賛会会長石倉雅俊}が開催され、小雪が舞う肌寒い中、横川宮司のもと、厳粛なうちに滞りなく執り行われました。
当日は,荒天の為社務所の中から神社を遥拝する形で行われた。来賓の市長、市議会議長は公務で欠席でしたが、大門県議会議員、杉田市商工会議所専務理事、雪島神社総代を始め、市内の配置薬業業者、製薬会社等々関係者約30名が出席した。

最初に横川宮司の祝詞奏上に次いで、石倉会長、顧問の私、石政市薬業会長、中屋市薬業青年部部長、薬業関係者、来賓等順次玉串奉奠行い、商売繁盛、交通安全などそれぞれの立場で祈願した。次いで、挨拶に立った石倉会長は、昨年末回商した鹿児島のミカン農家では、「ミカンの苗木を植えて大きくなるまで3年、出荷出来るまで5年かかるという。
その方は78歳、5年後83歳である。しかし俺のミカンが美味しいと言ってくれる人がいる以上は栽培を続ける」との話をして我々も同様、「薬を待っているお客様がいる以上お互い頑張ろう」と、出席者を激励した。大門県議は、これからも薬業の振興に尽力するむねの力強い言葉がありました。最後に私にも指名があり挨拶をしました。

特に、今年の正月三か日は、元旦の能登半島地震、2日の羽田空港滑走路上の飛行機衝突炎上事故、3日の北九州市小倉での飲食店35棟の火災など、記憶にも、記録にも、歴史にも残る大惨事で、中でも、能登半島地震は1995年1月17日の阪神淡路大震災、2011年3月11日の東日本大震災、2016年4月14日の熊本地震に並ぶものである。

しかも、能登半島地震の珠洲市は私の回商地である。しかし、未だ被害の実態が不明であるが、想像するに私のお得意様も甚大な被害が出ていると思う。しかし、前述した大震災で被災した地域も人も復興に立ち上がった。物事をネガティブに考えるのでなく、ポジティブに前向きに考える事の重要性を話した。かって、幕末の志士、高杉晋作は辞世の句として「おもしろき、こともなき世をおもしろく 棲みなすものは 心なりけり」を引用した。

最後に、いつもなら神社の鳥居の前での祈願が、社務所の中からの祈願のお陰で、神社とその横の禅宗の寺院に同時に祈願出来たことで、今年は神仏両方からのご加護があると締めくった。終了後、横川宮司も物事をポジティブに考えることについて同感との賛意を得た。名残りは尽きなかったが、三々五々散会した。

写真は、薬神神社。先人の像。玉串奉奠の私。

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(2024/01/08)

令和6年 武道稽古始め

初暦 めくる月日は 流れそむ

今年のお正月は、記憶にも、記録にも、歴史にも残る3か日であった。
元旦には令和6年能登半島大震災、2日羽田空港滑走路上での日航機と海保飛行機との衝突炎上事故、3日北九州市小倉での飲食店35棟焼失。今年の干支「甲」{きのえ」の「辰」{たつ}の予想とは真逆の大事件が勃発した。
それ故、1月5日市賀詞交歓会や6日消防出初式が中止となり、武道稽古始め{主催・市武道連絡協議会}の関係者は、開催か否か、悩まれたことと思います。その結果、7日の二十歳の式典{旧・成人式}が予定通り開催されることから、稽古始めも開催が決定されたものと思います。

さて、当日は、8時市総合体育館内の武道館で弓道、剣道、柔道、空手の4武道の総合開会式が行われ,水野市長など来賓の挨拶の後、各道持ち回りの演武が今年は剣道が担当し、形の披露がありました。その後、それぞれの会場で稽古始めが行われました。
市弓道会{会長・山岸光隆}の稽古始めは8時45分より、市営弓道場「澄心館」で行われ、最初に矢渡しがありました。
射手・川内尚美錬士6段、介添え板東由美子4段、島瀬夢乃3段とすべて女性で行われました。射手が女性の場合.時々この様なスタイルはありますが、見ごたえがありました。次いで、一般、高校生の参加者約50名全員が一人一手{2本}を緊張感を持って弓を射ました。

次いで、緊張感から解放された雰囲気で、正月のようなお目出度い時に行われる,白扇、射割り{12㎝四方の板}風船割りなどが和やかな中に進行されました。しかし、能登半島地震の被災者に対する思いの会話が多く交わされた稽古始めでもありました。

また、前会長の髙橋芳邦氏が、弓道に関する言葉を白扇に揮毫し、{真、善、美、不動心など}射抜いた人に意味を説明し、激励をして手渡され、もらった人は大喜びでした。私は、閉会の言葉で能登半島地震に多少触れ「1年の計は元旦に在り」を説き、「鍛錬」とは「千日の稽古を以て鍛とし、万日の稽古を以て錬とする」
つまり一芸を極めることは「努力」「精進」「年月」の必要な事を話、目標を持って努力するすることの大切さを話し激励しました。
お昼頃には滞りなく終了し、今年1年の活躍を期待し散会しました。

参考まで、白扇を射抜いたのは6人、射割りは3人、風船割りは20人、意外と少なかったです。
写真は、3人の女性による「矢渡し」。白扇、射割り、風船割り。

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(2024/01/07)

令和6年迎春

元旦や 今年もあるぞ 大晦日

新年明けましておめでとうございます。
令和5年はすでに地平線下に沈み、ここに新しい年、令和6年の幕が上がりました。
干支も「癸卯」から「甲辰」に引き継がれ、月日の流れは休むことなく、新しい時を刻み始めました。昨年はロシアのウクライナ侵攻から2年目を迎え、秋にはイスラエルのパレスチナ「ガザ」地区侵攻が始まり、残念ながらどちらも収束の気配が見えません。

また、グレーテス国連事務総長は、もはや地球温暖化ではなく、地球沸騰化の時代であると警告を発した。事実都心では、昨年1年間に夏日が143日、真夏日が90日、猛暑日が22日と最多記録を更新し、全国各地で気象台観測以来の記録が続出し、富山県でも線状降水帯が始めて観測された。まさに異常気象に振り回された挙句、12月には政治とカネの問題が政治不信を増大させた。

そんな中、明るい話題と言えばスポーツの世界であった。3月野球のWBC世界選手権で日本が優勝。特に大谷選手が試合前にロッカールームで、栗山監督から指名され、「憧れるのはやめましょう。憧れたら越えられません。僕たちは、勝つためにここに来たのです」この言葉は、従来の強い口調で檄を飛ばすのとは違い、ソフトな語り掛けであったが、印象に残った。
阪神タイガースの38年ぶりの日本シリーズ優勝。また、大谷選手は米大リーグで日本人初の本塁打王と満票でのMVPの栄冠を獲得した。そして、大谷翔平選手と山本由伸投手のドジャースへの移籍入団。

将棋の藤井聡太さんが若干21歳で8冠を制覇した。大谷選手は29歳。あの謙虚な姿勢を含めこの二人の両親は殆どメディアには出てこない。どんな風に育てたのだろうか.是非一度お聞きしたいものである。
また、今年8月パリで開催される五輪の予選では、男子バスケットボールが48年ぶりで自力で五輪出場権を得たことや、サッカー、ラクビ―、バスケットボール等、多くのスポーツが国民に感動や勇気、元気を与えてくれた年でもあった。そして、新型コロナ5類移行後初の年末年始には、成田空港からの海外旅行者は114万人、関西空港では12月22日から1月3日までの海外旅行者は80万9千人と言う。現在、ロシアとウクライナ、イスラエルとパレスチナ「ガザ」地区でのハマスとの戦争を考えると、多少の不満があっても日本は平和な国と思う。

さて、「干支」とは本来「十干十二支」を略した呼び名で、「十干」と「十二支」を組み合わせたもので60通りある。今年の「十干」は「甲{きのえ」の「辰{たつ}」で次は60年後の2084年である。当然私はこの世にはいない。
「十干」は古代中国殷の時代に10日を{一旬}として一旬を構成するそれぞれの日に名前を付けたことで始まったと言われ、その後万物はすべて「陰」と「陽」の二つの要素に分けられる「陰陽説」と、すべての物事は「木」「火」「土」「金」「水」の5っの要素からとする「五行説」が結び付き、それぞれの意味を表すようになった。
「十干」とは①甲②乙③丙④丁⑤戊⑥己⑦庚⑧辛⑨壬⑩癸の総称で元は1から10までを数えるための言葉だった。
「十二支」はご存知の通り①子②丑③寅④卯⑤辰⑥巳⑦午⑧未⑨申⑩酉⑪戌⑫亥である。

しかし、十二支にはよく動物の名が当てられる。これは中国の王允{おういん}と言う人が、十二支を民衆に浸透させるために動物にして文献に書いたとされます。つまり動物の意味は後から付け足されたと言う。
例えば、子を鼠にしたのは繁殖力の高い子宝の象徴、子孫繁栄。丑を牛にしたのは、生活のパートナーであり、畑を耕したり,重い荷物を運んだりする。寅を虎にしたのは、勇猛果敢な動物でありその勇ましさから虎が当てられた等々である。

日本には6世紀半ば欽明天皇の頃伝わったと言われている。幕末維新の戦いを「戊辰戦争」慶応4年{1868}と言う。つまり「戊」つちのえ「辰」たつの干支であり、甲子園野球場の名前も「甲」きのえ「子」ね、の干支の年で大正13年{1924}完成したことによる。また、現在でも我々は契約書などに甲は乙に対してなどの表現に何の抵抗もなく使用しているし、12時を正午と言い、その前を午前、その後を午後というなど我々の生活の中に溶け込んでいる例はいくらでもある。

さて、今年の干支「甲辰」はどんな年になるだろうか。
まず、十干の「甲」は、甲、乙、丙、丁・・・・の最初に位置しており生命や物事の始まりを意味する一方で、硬い殻にこもってまだ発芽しない状態も同時に表しています。
また、十二支の「辰」は想像上の生き物「龍」のことを指していて「力強さ」や「成功」を象徴していることから、新たな始まりや、チャンスの兆しと考えることができます。この二つが合わさった「甲{きのえ}の「辰{たつ}」は成功に繋がるための努力が種子の内側でどんどん育っていく年だとされます。

参考まで、60年前の昭和39年{1964}は、東海道新幹線開業、東京オリンピック開催などこれを契機に高度経済成長へと進んでいく。また、120年前の明治37年{1904}は日露戦争勃発。日本も多大な犠牲を払ったが、多くの産業の近代化が促進する。大阪朝日新聞が「天声人語」始める。大林店が大林組と改めたのもこの年である。

さて、今年は国際的には、1月台湾総統選挙、3月ロシア、11月米国の大統領選挙。この結果によっては、ロシアとウクライナや中東での戦争に影響を与えるだろうし、国内のエネルギー問題や物価高騰にも関係する。同時に国内では政治とカネ、裏金問題で揺らぐ岸田政権。地球沸騰化、少子化対策、減税と増税等々問題山積。
さて当たるも八卦当たらぬも八卦である。でも干支を信じない人でも、年賀状は殆ど干支を使うから不思議なものである。
願わくは、昨年より今年は良り善き年でありますように。

写真は、昨年12月30日の剣岳と立山。年末清水寺・森清範貫主から届いた干支「龍」の色紙。

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(2024/01/01)

全弓連定時評議員会

大晦日 定めなき世の 定めかな  井原西鶴

12月20日{水}全弓連定時評議員会出席のため上京した。当日、朝、家を出る時は寒風が吹きみぞれ混じりのお天気で、思わずブーツか長靴に手がゆきそうになったが、待てよ、天気予報は東京は晴れである。慌てて革靴を履いたが、案の定東京は快晴である。

新幹線の車窓から眺めた浅間山も、青空にくっきりと浮かび、21日の朝、宿泊ホテルの全国町村会館13階の部屋から眺めた富士山も雲一つない青空に白銀が輝いていた。まさに、冬の日本海側と太平洋側のお天気ではこんなに違うものかと、改めて実感した。

さて、上京の折、博物館や美術館での鑑賞や知人・友人との再会も楽しみの一つである。
今回の定時評議員会は、6月の役員改選後初の理事・評議員など役員全員が顔を合わせる機会でもあり、従来会議は事務局のある「JAPAN、SPORT、OLYMPIC、SQUARE」から、明治記念館に場所を変更して、会議と懇談会が開催された。

この場所は、私にとっても思い出の所で、以前綿貫民輔元衆議院議長が国会議員在職25年記念祝賀会が開催され、来賓の竹下登元総理が、祝辞で、「綿貫さんは、昭和2年生まれで、昭和一桁生まれの国会議員は稀有壮大、中でも、民チャンはぴか一である」との言葉が忘れられない。またこの時、小矢部出身の瀬島龍三氏との写真も残っている。

また、関東滑川高校同窓会総会もこの会場で、その時、福田富昭日本レスリング協会会長{氏も滑川高校同窓生}がオリンピック金メダリストの伊調馨さんや吉田沙里さんを同行してこられ、会を盛り上げられ、懇親会では私の横に伊調さんが座り親しく話をしたのも明治記念館であった。

尚、評議員会終了後の懇談会で、私の横にいた弁護士のN理事と懇談していたところ、彼は元厚労省に入省したが、弁護士になりたくて退官し、勉強し司法試験に合格し、現在弁護士だと言う。実はこの夜、私は厚労省の職員と懇談会を予定しているので、彼と同じ位のメンバーの名前を言ったところ、同じ課で仕事をしていてよく知っていると言う。縁とは本当に不思議なものである。

評議員会の懇談会は5時過ぎに終え、宿泊ホテルに直行した。
6時30分より前述の厚労省のメンバーと懇談会に入った。やはり弁護士N氏の事を出席者のU君に話したところ同じ課で仕事をしたことや、優秀な人物で弁護士への夢を語り、それを実行した事を褒め称えていました。
その時、出席者のM君が富山県の現在の厚生部長は自分と同期であるなど厚労行政の話より、別の話題で盛り上がった。9時過ぎまで2時間30分あっという間で、別れを惜しみつつ再会を約し解散した。

翌日21日9時30分岩元達弘氏と再会した。氏は本年7月1日付けで、財務省近畿財務局長から、日本政策金融公庫専務取締役に就任したので公庫を訪ねた。氏とは1年半ぶりであったが財務省出身だけあって財政や金融に関してはやはりプロである。数字にも強く到底私には太刀打ちできない。しばし、懇談し更なる活躍を期待し別れた。

次いで大宮で、かって昭和63年「世界青少年交流協会」のヨーロッパ視察に参加したメンバー5人と再会し、昼食会をともにした。もう35年も前であるが、そのメンバーが、私が上京した折、時々昼食会と称し再会するが、会う度によくもこんなに長く続くと感心する事から始まる。
最高齢者は91歳。会うたびに、一期一会と言い、できるだけ長く続けようと話し、大宮発15時49分で帰宅した。

東京は快晴。富山は一面白銀の世界。狭い日本といえども、やはり日本は広い。

写真は、20日新幹線車窓よりの「浅間山」。21日朝ホテル13階より「富士山」を望む。
20日、夜厚労省のメンバーと。21日、日本政策金融公庫専務取締役室にて岩元達弘氏と。

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(2023/12/23)

楠 木 正 成

楠木正成は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。出自は諸説あり。自称は橘氏後裔。息子に正行、正時、正儀。
元弘の乱{1331年ー1333年}で後醍醐天皇を奉じ,大塔宮護良親王と連携して、千早城の戦いで大規模な幕軍を千早城に引きつけて日本全土で反乱を誘発させることによって、鎌倉幕府打倒に貢献した。

また、建武の新政下で、最高政務機関である記録所の寄人に任じられ、足利尊氏らとともに天皇を助けた。延元の乱での尊氏反抗後は、新田義貞、北畠顕家とともに南朝側の軍の一翼を担ったが、湊川の戦いで尊氏の軍に敗れて自害した。建武の元勲の一人。明治以降は「大楠公」と称され、明治13年{1880}には正一位を追贈された。また、湊川神社の主祭神となった。

戦前までは国語・歴史・修身に忠臣の花形としてもてはやされ、明治32年6月南朝の武将楠木正成と、その息子正行との別れが「桜井の訣別」{青葉茂れる桜井の・・・}の歌として発表される。
田中小学校の楠木正成騎馬像は、戦時中軍に供出され今はない。台座だけ残っているが,銘板ははがされてない。私の推測では二宮金次郎像・奉安殿・同様加藤金次郎氏寄贈と思われる。

さて私は、戦後生まれで、奉安殿も楠木正成騎馬像も学校では見たことはなかったが、戦前教育を是とするものではない。
結論として、戦前小学校に二宮金次郎像・奉安殿・楠木正成騎馬像が三点セットとして設置されたのは、忠君愛国、国家神道思想推進のため、小学生から教育したことである。
まさに独裁国家であり、その為に三点セットが利用されたのである。教育の影響の大なるを感じる。ただ二宮金次郎像の語ることや車胤の話は一概に否定すべきでないと思う。

写真は、楠木正成騎馬像があった台座。

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(2023/12/15)

奉 安 殿

奉安殿とは、戦前の学校に必ず設置された施設で天皇・皇后{明治天皇と昭憲皇太后・大正天皇と貞明皇后・昭和天皇と香淳皇后の写真{御真影}教育勅語を納めていた建物です。

御真影の下賜が始まった時期は、教育勅語が制定された後の1910年代であり、奉安殿の成立もその時期と思われる。また学校への宿直も、この御真影の保護を目的として始められた面もあるという。四大節祝賀式典の際には、職員・生徒全員で御真影に対しての最敬礼を奉る事と、教育勅語の奉読が求められた。また、登下校時や単に前を通過する際にも、職員・生徒全てが服装を正してから最敬礼するように定められていた。

当初は講堂や職員室・校長室内部に奉安所が設けられていたという。しかし、この場合、校舎火災や地震などによる校舎倒壊の際などに御真影が危険に晒される可能性が高く、万全を期して校舎内部の奉安所は金庫型へ改められ、また独立した「奉安殿」の建築が進められた。
校舎一体型は旧制中学などに多く、独立建築型は小学校に多く見られたという。田中小学校もこの独立型である。建築物としては様々なバリエーションがあり、ギリシャ建築風や鉄筋コンクリート造り、レンガ造りの洋風建築から旧来の神社風建築など、小型ながら頑丈な耐火耐震構造、さらに威厳を損ねぬように、荘厳なデザインであったという。田中小学校の奉安殿はギリシャ風の鉄筋コンクリート造りであった。

これが、第二次世界大戦で敗れた1945年{昭和20年}12月15日GHQの神道指令により奉安殿の廃止が決定。さらに1946年から全面撤去する指示が出された。しかし、中央からの指示は「撤去」であるとし、移設や学校の敷地から切り離すことで解体を免れた奉安殿が、21世紀の現在でも尚、全国各地に残っているという。資料によれば、北海道では、1991年の時点で36棟が残存しているという。

田中小学校の奉安殿も、解体を惜しむ有志によって、寺家町専長寺境内に移設された。
その後、「水神社」創建の議が起きた時、専長寺境内にある奉安殿を永久保存と護持のため、最も適切な方途であると判断し、門徒総代会にはかり、早月川左岸豊隆橋袂に「水神社」本殿として寄進することになった。
また、奉安殿は、加藤金次郎氏が田中小学校に寄付したことが銘板に記してある。やはり、田中小学校が完成した昭和11年の翌年12年二宮金次郎像と共に新築祝いとして寄付されたのであろう。この銘板は、専長寺住職・梅原隆章氏の名前で昭和61年10月の日付で記されているから、この時移設されたものであろう。

写真は、早月川左岸豊隆橋袂の現・水神社{かっての奉安殿}

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(2023/12/15)

二宮金次郎・奉安殿・楠木正成

十二月 ひと日ひと日が 消えてゆく

11月28日皇居東御苑特別参観の折、皇居前広場で楠木正成像の前での写真を掲載し、戦前は、どこの小学校にも二宮金次郎像・奉安殿・楠木正成騎馬像があったことを書いたところ、その理由について数人の方から質問を頂いたので、私の考えをここに記す。

二宮金次郎{尊徳}
江戸時代後期の農政家・思想家である。比較的裕福な農家に生まれ、教育にも恵まれて育ちます。
異常天候によって川が氾濫し、家の田畑が荒廃して、復旧の為借金を抱え、家は貧困を極め、その上、両親も亡くなる悲劇に見舞われます。しかし、地道な努力を重ね、家政の再建を行ったため、財政や農村再建の専門家として有名になります。

特に、農村振興策である報徳仕法を指導した農政家である。明治に入り幼名金次郎が薪を背負って歩きながら本を読む姿の像が示すように、家の手伝いをしながら学びを怠らない理想の像として、国策として広められたと思う。それ故、戦後直ちに撤去とはならなかったのであろう。
しかし、昭和30年代に入り校舎の老朽化と共に新築され、徐々に消えてゆく。加えて滑車をかけたのは保護者の声である。「児童の教育方針にそぐわない」「子供が働く姿を勧めることは出来ない」「戦時教育の名残り」「歩いて本を読むのは危険」などの声が上がってきたこと等である。私が昭和50年代、田中小学校のPTA会長の時、「本を読みながら歩くと交通事故に遭い時代に合わない」等 同様な意見が出た。

その時、私は田中小学校の卒業式に歌う「蛍の光」の歌詞の蛍の光や窓の雪を引用し、「蛍雪の功」の由来を話しました。書物によれば蛍雪の功の「蛍雪」は、苦労して勉学に励むことを意味し,「功」は成し遂げた仕事や功績を意味する。

これは次の故事による。
「中国の晋の時代に車胤{しゃいん}と孫康{そんこう}という二人の青年がいた。
二人は官吏を志望していたが、夜に本を読むための灯火の油を買うこともできないほど、ともに家が貧しかった。そこで車胤は、夏の夜に蛍を数十匹つかまえて絹の袋に入れ、蛍の光で本を読んで勉強し、孫康は冬の夜に窓辺に雪を積み上げて、雪の明かりで勉強し続けた。二人の努力は報われて、のちに高級官吏に出世した。この故事にある「蛍」と「雪」から、「蛍雪」という言葉が生まれた」このように話し理解を求めましたが、今から三十数年前のことですから、現在でも通用するか、どうかは分かりません。

私の母校滑川高校の校歌は戦後作られましたが、二題目に「思え車胤の青春を」とある。素直に解釈すればよいと思う。
参考まで、滑川市は昭和59年7月北海道中川郡豊頃町と姉妹都市の盟約を結んだ。これは、明治26年滑川の先人3所帯が開拓に入植した。その後、入植者が増え「豊頃滑川会」が結成され、これが縁で姉妹都市提携に至ったのであるが、滑川からの入植前後に、福島県相馬から、二宮尊親{尊徳の孫}を中心として、尊徳の報徳の思想を以て開拓に入植した。それ故、豊頃町と相馬市の姉妹都市提携は滑川市よりも早い。現在では豊頃開拓の祖として、二宮神社があり心の拠りどころとなっている。

写真の田中小学校は、昭和11年に木造校舎として完成し、昭和62年「富山の建築百選」に、平成22年「とやまの近代歴史遺産百選」にも選ばれ、末永く残されている。結果的これが幸いし、二宮金次郎像が残ったものと思う。
像の台座の後ろの銘板に昭和12年4月建設。寄贈・加藤金次郎とある。校舎は加藤金次郎が代表者である、「加藤組」が建設したので、新築を祝い寄贈したと思われる。奉安殿・楠木正成騎馬像も或は氏かもしれない。
尚、氏は昭和14年8月から17年6月まで町長を勤めている

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(2023/12/15)

民謡・長岡すみ子の会

一日も おろそかならず 古暦  虚子

民謡,唄と踊りの祭典、第8回歳末恒例長岡すみ子の会、チャリティーショーが、12月10日{日}富山市婦中ふれあい館で4年ぶりに開催されました。

当日は、満席の盛況の中、ゲストとして津軽三味線の椿俊太郎さん{津軽三味線・みちのく全国大会優勝・高岡市出身・東京}、特別出演・幻想尺八・入江要介さん{東京}友情出演・琴、桂さん、踊り、筏井豊華翔と華の会{公財}日本民謡協会全国大会優勝2回、尺八、坪内隆悦さん{北日本民謡民舞連合会理事長}等多彩な顔ぶれを迎え、全員合奏の「津軽の響き」で①オープニングの幕が上がりました。

次いで、
②唄いつぐジュニアたち
③民謡お国めぐり
④ゲストコーナー1
⑤長岡すみ子オリジナル演歌集
⑥ゲストコーナー2
⑦長岡すみ子おはこ集
⑧フィナーレは全員で、とやまいきいき音頭合唱。

で幕を閉じましたが、見ごたえのある2時間半でした。

特に印象に残ったのは、椿俊太郎さんの津軽三味線による力強いバチ捌きの「津軽じょんがら節」や坪内さんの尺八と津軽三味線の椿さんとの伴奏に華の会の踊りが加わり、長岡さんが唄った「津軽あいや節」、また、尺八の演奏者坪内さんが「帆柱起こし祝い唄」を声量たっぷりに唄い挙げられたのは圧巻ででした。

長岡さんは、昨年10月芸能活動45周年記念公演を出身地の黒部市コラーレで開催され会場を満席にされるなど、根強い人気を持っておられる方です。

今年は46周年です。でも、一口に46年というのは簡単ですが、この間、コロナ禍を含め苦労もあったと思います。
それを乗り越えて民謡の火を灯し続けた46年には敬意を表したいと思います。

また、民謡の普及振興はもとより、後継者の育成にも力を注ぐなど、今回も4歳の子どもたちも数人、唄や踊りに出演したり、80代の唄い手もいるなど、まさに老若男女の出演で、和気あいあいの中にも民謡の楽しさを十分堪能したチャリティーショーでした。
当然チャリティーショーですから、出演者が募金箱を持つて会場を回り、その結果20万5千円余りの募金額が発表され、席上、富山テレビの代表者に渡され従来通り社会福祉活動に寄付されるものです。

長岡さんには、過日開催された滑川高校110周年記念祝賀会にも出演して頂くなど、日頃から親しくしていますが、46年は50年に向う一通過点であり、更なる活躍を念じ会場を後にしました。

写真は、坪内さんの尺八と椿さんの津軽三味線で「津軽あいや節」を唄う長岡すみ子さん。越中おわら節を優雅に舞う会員。

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(2023/12/11)

懇談会と国交副大臣を訪ねて

11月28日夕、久しぶりに懇談会を開催した。出席者は上田英俊衆議院議員、国交省小善政策統括官、中西土地政策課・公共用地室長、砂原富山県首都圏本部長、公務で上京中であった水野滑川市長等である。

小善氏とは前回お会いした時は審議官であったが、今回は統括官として、ランクは一段上がっていた。本市出身者がこの様に活躍しておられる姿を見ることは嬉しい限りです。
また、中西さんも本県出身者であり今後更なるご活躍を期待するものであります。出席者が8人もいれば話題も豊富で時間の経つのも忘れ歓談しました。

翌29日国交省に堂故茂副大臣を訪ねました。本来28日の懇談会に出席の予定が公務が入り欠席だった為、急遽29日の訪問になりました。
友人・知人が国政で或はそれぞれの立場で頑張っておられることは頼もしいことです。30分余りの滞在でしたが、今後の活躍を期待し国交省を後にしました。
午後からは、当初の予定通り全弓連理事会に出席し帰宅しました。

唯、驚いたことに28日はなんと22300歩、29日は12000歩も歩いていたことです。
ところが帰宅後は以前同様数千歩。もう少し歩かねばと思っています。

写真は、28日の懇談会と29日の国交省副大臣室で堂故茂氏と。

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(2023/12/02)

皇居東御苑臨時公開

金色の 小さき鳥の形して 銀杏散るなり 夕日の丘に   与謝野晶子

11月28日全弓連第4回理事会出席の為、上京の折皇居東御苑を散策した。この御苑は、皇居造営の一環として、皇居東地区の旧江戸城本丸、二の丸及び三の丸の一部を皇居附属庭園として整備することとなり、昭和36年に着工し、昭和43年9月に完成したもので、面積21万㎡の庭園です。

さて、今回の臨時公開は、桜の時期、大阪造幣局の通り抜けと同様、紅葉時期に坂下門から入り、東御苑の紅葉や季節の移ろいを感じながら一方通行で宮内庁庁舎、昭和41年香淳皇后の還暦を記念して建てられた音楽堂「桃華楽堂」、汐見坂、同心番所、百人番所、松の大廊下跡、富士見多聞、天守台、江戸城天守復元模型、{順不同}三の丸尚蔵館前を通り、大手門を抜けるという約750mのコースで、期間は11月25日から12月3日まででした。

普通、東京駅から坂下門までは私の足では15分位ですが、期間中は東京駅から大きな道路を横断したところで左折して、ぐるりと回り二重橋を見て右折して坂下門への向うため倍ぐらいの時間を要しました。正直言って、モミジやカエデの紅葉はいまいちでした。ただ銀杏だけは都内全体が綺麗でした。
ゆえに、標題の一首を掲げました。

ここで、現存する江戸城の天守台について記しておきます。
江戸時代の天守閣は、慶長12年{1607}に完成した。当初、石垣の高さは約14mあり、その上に我が国最大の天守閣がそびえていたが、明暦3年{1657}明暦の大火で焼失した。
翌万治元年に加賀藩が担当して再建された天守台では、建物は計画図面まで描かれたが、再建は中止された。時代は4代将軍徳川家綱。武家社会では天守閣は権威の象徴。しかし家綱は明暦の大火で焼失した江戸城下の再建と民生の安定を優先した。

その結果、天守が無い状態が以後210年間続き明治を迎える。見方を変えれば,明暦の大火当時には、すでに徳川幕府に大規模に反乱を起こす勢力はなく、徳川安定期に入っており、大火の後も210年間徳川幕府が続いたのであろう。加賀藩が築いた天守台に登り周りを眺め往時を偲び、一人感慨にふけった。

大手門を出て、再び皇居前広場に戻り、楠正成騎馬像へ行きました。戦前、どこの小学校にも、二宮尊徳像、奉安殿、楠正成騎馬像があった。しかし、戦時中騎馬像は軍へ供出し、戦後奉安殿は撤去されたが、二宮金次郎像は辛うじて残った。
それでも昭和30年代から校舎の老朽化に伴い、新築が相次ぐ中で徐々に消えてゆく。唯、私の母校田中小学校には残っている。奉安殿も戦後某寺院の境内に移設されたが、現在は早月川左岸、箕輪豊隆橋袂に「水神様」を祭る社代りとして鎮座している。

豊隆橋の名の由来は、当時、滑川出身・参議院議員石坂豊一氏の「豊」と富山市出身衆議院議員・内藤隆氏の「隆」の二文字からと言う。それらにも思いを馳せた皇居参観であった。

写真は、東御苑の紅葉。加賀藩担当の天守台。江戸城復元模型。楠正成騎馬像。

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(2023/11/28)

第三部 記念祝賀会

祝賀会は18時より場所を「パノラマレストラン光彩」に移し、水野市長、大門県議会議員、土肥東京滑川会会長、千先関西滑川会会長{いづれも同窓生}、森関東滑川高校同窓会事務局長を迎え80名の参加を得て、盛会裏に開催されました。

オープニングアトラクションには本校同窓生である、民謡歌手・長岡すみ子さんのお目出度い宮城県民謡「お立ち酒」を聞き、次いで私が開宴の挨拶。来賓の大門県議会議員、東京滑川会、関西滑川会を代表して千先会長が挨拶.水野市長の乾杯の音頭で和やかに宴会に入りました。

宴の半ばには、再び長岡さんの美声が会場に響き渡り、「新川古代神」や「越中おはら節」などには、出席者が自然な形で踊りの輪ができるなど、大いに盛り上がり、時の経つのも忘れ、あちこちで談笑の塊りが出来ました。
宴もたけなわの頃、金田校長の万歳。そして、全員で110年の記念行事が無事終了したことを喜び、祝い、更なる発展を願い、声高らかに校歌を斉唱し、名残を惜しみつつ、散会となりました。

写真は、開宴の挨拶。美声を響かせる長岡さん。

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(2023/11/11)

第二部 記念公演

東京サロンシンフォニー・オーケストラ・キャラバン隊による記念公演がありました。
このオーケストラは、音楽本来の楽しさを若い世代に伝えることを第一とし、学校公演を中心に活動している10人編成のキャラバン隊で、司会のもと、生徒に近い位置で、楽器に触れ、音楽を身近に感じるプログラムとなっていました。

1 レクチャー&ワークショップ
①オープニングの演奏「美しき青きドナウ」

②楽器の解説コーナー
 ~さまざまな楽器の名前や、どんな音色を奏でるか~
 なじみのある曲を楽器の特徴に合わせ、ワンフレーズ演奏

③演奏体験コーナー
 生徒や先生がその場でステージに上がって
 バイオリンやチエロなどの音楽演奏に挑戦

④指揮者体験コーナー
 ~指揮者になりきって、タクトを振ってみよう~
 タクトを振る人によって、音色の速度・変化に注目

⑤校歌演奏  司会者が校歌を独唱

⑥滑川高校音楽部との合同演奏  オンブラ・マイ・

<休憩>

2 クラシックコンサート
①キャラバン隊の演奏
 「アイネクライネナハトムジーク」
 「くまん蜂の飛行」など

②キャラバン隊とテノールの共演
 「荒城の月」「オーソレミオ」など

③りクエストコーナー
 ワンフレーズ曲を演奏し生徒の拍手の大きさで、曲目決定

④チャルダッシュ

⑤滑川高校吹奏楽部との合同演奏
 サウンドオブミュージック

記念公演は概ねこの様な内容であったが、生徒には好評だったと思う。大歓声に大きな拍手。
会場は笑顔と楽しさが溢れた時間であった。参加型の記念公演であり大成功だったと思う。
                     
写真は、東京サロンシンフォニー・オーケストラ・キャラバン隊の演奏風景。 

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(2023/11/10)

「滑川高校創立110年記念式典」

山河錦秋有磯邉 慶賀盛典百十年
文武逸材溢学舎 愛校無限拓次編

11月10日{金}富山県立滑川高等学校{校長・金田幸徳 同窓会長・中屋一博}創立110周年記念式典・記念公演・記念祝賀会が開催された。
式典では、有賀教頭の開式の辞で始まり、国歌斉唱・次いで、①金田校長の式辞、②祝辞は新田八郎県知事、県議会議長代理奥野詠子副議長、荻布桂子県教育委員会教育長、水野達夫滑川市長がそれぞれの立場で述べられました。
次いで来賓紹介・祝電被露の後、私が同窓会長として挨拶をし、生徒代表の喜びのことば、校歌斉唱、閉会の辞を以て厳粛な中にも滞りなく終了しました。

私の挨拶の大要は次の通りです。
「大正2年{1913}滑川町立実科高等女学校として創立したのが歴史の第一歩です。今から110年前、まだ封建時代の名残りが色濃く残っている時代に、「女子にも中等教育を」と町に女学校の設立を働きかけるのである。当時町や村には明治40年{1907}の国民学校令により、尋常小学校6年、その上に高等小学校2年があった。

しかし殆どの女子は義務教育の6年を終えると社会人となった。これに憂慮した人々が「女子にも」と叫んだのである。しかし、学校を創ることは町の財政にとって、大きな負担となる。運動場や校舎の用地の確保。校舎の建設費。年間の経費等を考えると大きな決断だったと思う。その後、より教育内容の充実を求め県立への移管を働きかけ、大正12年{1923}県立滑川女学校となる。

しかし翌大正13年これからは商人が必要な時代である。.その為には簿記、そろばん、貸借対照表等商業知識の必要性を論じ、滑川町立商業学校を設立する。しかしこれも昭和3年県立へ移管し、県立滑川商業学校となる。これで終わりかと思いきや、昭和10年{1935}売薬の町の面目躍如たるものとして、薬業知識の習得を以て、製薬会社への人材の供給と配置員の育成を目的に、滑川町立薬業学校を設立する。

つまり、戦前中新川郡滑川町という人口2万人にも満たない小さな町に、なんと県立学校が県立水産学校。県立滑川女学校。県立滑川商業学校と3校、加えて町立といえども薬業学校とこれだけの教育機関があったことに驚かざるを得ない。県庁本館右手に石碑がある。
これには、「百年之計、莫如樹人」つまり百年の計は人を樹{う}うるに如{し}くはなし。中国・春秋時代・斉の賢相菅仲の言葉と言われ、、1年先を考えるなら穀物を植えよ。10年先を考えるなら木を植えよ。100年先を考えるなら人づくり、つまり、教育であり、その重要性を説いた言葉と言われる。この石碑は、中沖知事時代の25年程前に教育県富山に相応しい言葉として建てられた。

しかし滑川の先人は百年以上も前にすでに「女子にも中等教育を」を掲げその重要性を認識し、熱い思いを持ってそれを実践していたことに、改めて感嘆せざるを得ない。しかし、簿記やそろばんでは戦争に勝てない。そんなことで、滑川商業学校は、昭和18年で新入生の募集を停止し、昭和19年県立滑川工業校として新入生を募集する。

しかし昭和20年終戦によって昭和21年3月で工業校を廃止し、21年4月県は県立滑川中学校を設置する。当時県立中学校は魚津中学校、富山中学校、神通中学校や高岡、砺波、氷見、射水と県内には7校があり、滑川で8校になった。当然県立ゆえ入学試験があり、合格した人達は希望に燃えて入学式に出席したところ、工業校と商業学校の生徒が先輩として出席し、しかも校歌は商業学校の校歌だったという。
県立滑川中学校に入学したと思っていた新入生には大きな戸惑いであった。その上、翌22年4月から6・3制の義務教育制度が導入され、町立滑川中学校が設置される。これによって入試のない中学校に対し、入試に合格した県立滑川中学校の生徒には多少のプライドがあり混乱する。

結局昭和23年に戦後の学制改革が行われ現行の「6・3・3・4制」導入によって,前述した多くの学校が統合し昭和23年9月現在の富山県立滑川高等学校となる。県立滑川中学校は滑川高等学校併設中学校として吸収される。
彼らは県立滑川中学校に入学したにもかかわらず、その名の後輩や先輩がいない。同級生だけで、しかも県立滑川中学校としての卒業式もなく、滑川高校生として卒業するのである。彼等の心中を思うと胸が痛む。8校の多数の学校が合併し1校になる。県内でも極めて珍しい合併である。戦後の混乱期とは言え県立滑川中学校の件や合併など、いびつな制度に翻弄された事実は、歴史の中に埋没させることなく県教育史の中にしっかりと記して置くべきことと思う。

この点、式典の前に控室で荻布県教育長に話したところ、「しっかりと受け止めました」とのご返事を頂きました。

この様に幾多の変遷を得て、今日まで着実に発展し今や同窓生は3万7千人余を数え、各界各層に有為な人材を多く輩出してきたことは同総会としても喜ばしい限りであります。これも偏に今日まで、ご支援ご協力を頂いた関係各位のお陰であります。さて、どこの学校にも校風や伝統そして歴史があります。

本校も然りであります。然らば伝統とは何であろうか。それは単に受け継がれただけでは意味はない。新しい創造が絶えずその上に加えられることによって限りなく前進してゆくのである。それによって初めて不滅の生命が伝統に吹きこまれてゆくのです。

そう考えると、この際、私達にとって最も重要なる課題は、本校の光輝ある伝統の上に如何にして新しい創造、逞しい前進の1ページを加えるかということです。110年は130年、150年へと続く一通過点であり「耕不尽」耕せど尽きることなき営みを続けてきた滑川高校の更なる発展を願いました。この文は挨拶に多少加筆しました。

写真は、式辞の金田校長。祝辞の新田知事。挨拶の私と正門前で。

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(2023/11/10)

田中小学校創立150周年

天一枚 傷一つなし 秋の空

快晴 まさに雲一つなき青空に新雪輝く立山連峰を仰ぐ絶好の日和の中、私の母校滑川市立田中小学校{校長・玉木彰治・児童数215名}創立150周年記念式典・学習発表会・祝賀会等が盛会裏に開催されました。

本校は明治6年{1873}9月6日滑川小学校として、田中村西光寺の堂宇を仮用して設置されました{明治8年開達小学校と称した}
式典は昭和11年完成し現在国登録有形文化財の木造校舎の一部旧本館と、平成26年完成の新校舎に囲まれた中庭「きぼうの広場」で行われました。

当日は、水野市長をはじめ多数の来賓や学校関係者、地元自治会役員,姉妹校の長野県小諸市坂の上小学校PTA関係者、が出席し青空の下での開催でした。野外での式典ははじめての試みでしたが、校長の思いを推進した実行委員会の判断には敬意を表したいと思います。
式典後の学習発表会は通常通り体育館でした。

それにしても、150年前設置されたどの学校も独立校舎を持ったものは皆無で、寺院、又は地域有志の個人宅を借りて、教師も多くは寺小屋の師匠やその他域内における文字を解する者を委嘱してこれにあてたという。
それから150年、日本は少なくともアジアでは勿論世界の中でも、日本の識字率の99%をはじめとして教育水準は世界でもトップクラスです。

考えてみれば、明治新政府の近代化へ向けてのエネルギーは凄まじいものがあった。慶応4年、1月3日鳥羽伏見の戦いで戊辰戦争が始まった。3月江戸城無血開城。4月上野彰義隊。5月越後長岡北越戦争。7月江戸を東京とす。8月会津戦争白虎隊。9月慶応を明治に改元。明治2年、{1868}5月函館五稜郭で戊辰戦争終結。版籍奉還。明治3年、郵便制度視察で前島密を英国へ派遣。明治4年廃藩置県。文部省設置。岩倉遣欧使節団派遣。郵便制度スタート。

明治5年新橋・横浜間鉄道開業。8月「学制」発布。そこには「人々自ら其身を立て其産を治め其業を昌にして以て其生を遂るゆえんのものは他なし身を修め智を開き才芸を長ずるによるなり」として、「学問は身を立るの財本」であり、それ故に学制を定めて全国に学校を設けることにしたので、今後は一般の人民はすべて学校に学び、「必ず邑{むら}に不学の戸なく家に不学の人なからしめん事を期す」と述べている。

即ち、華士族・農工商の差別なく、また男女の別なく教育を受けるという近代教育の基本理念が、ここに明確に打ち出された。これが明治5年、いまだ明治政府の基礎が固まってない中で、教育の重要性を掲げることに驚かざるを得ない。
まさに「国家百年の大計」は人材の育成即ち教育の重要性を先人達が認識していたことである。司馬遼太郎の「まことに小さな国が 開花期を迎えようとしている」ではじまる「坂の上の雲」を思い出す。

滑川小学校もこの流れで設置され、明治8年開達小学校と名を変え、幾多の変遷をへ着実に発展し今日の150年の佳節を迎えた。しかし、これは170年、200年へと続く一通過点であり更なる発展を願うものである。さて祝賀会の最後に私に万歳の指名があり、以前、疑問に思っていたことの一つを話しました。それは、校歌と言われる「希望の丘」についてである。

ここで「希望の丘」の歌詞の全文を掲載する。

「希望の丘」
1 風も緑だ 若葉の朝だ 空にきらきら 陽ものぼる
  みんな元気で 元気でつよく こころ合わせて ほがらかに
  今日も越えよう 希望の丘を

2 明けてたのしい 大地の朝だ みんな若葉よ 萌え出る意気よ
  夢もあかるく 心も勇み ちから合わせて ゆるみなく
  今日も越えよう 希望の丘を

3 嵐吹こうと 雨荒れようと のびよのばせよ 若葉のいのち
  ぐんとぐんぐん 胸をば張って 歩調合せて ひとすじに
  今日も越えよう 希望の丘を

この曲の作詞は、「滑川市の歌」と同様医師であり、詩人であった高島高氏、作曲は高木東六氏である。これは昭和24年創立記念日の9月6日に披露された。

①当時の資料を見ても、どこにも曲目を田中小学校校歌と書いてない。あくまで「希望の丘」である。普通どの学校を見ても・・・小学校校歌であり・・・中学校校歌である。

②三番目までの歌詞の中に 田中小学校を思い起こすような歌詞が全くない。
普通どの学校の校歌を見ても、市内の場合は、有磯海とか立山や剣岳或は加積の里などの歌詞が入っている。

高島高氏は昭和30年5月12日44歳で逝去しておられるので、もはや本人からは聴くことは出来ない。そこで奥さんが存命中に私はカセットテープを持って高島医院を訪ねたことがある。
そして当時流行していた、例えば「緑の丘の赤い屋根 とんがり帽子の時計台 鐘がなります・・・」のような児童歌でないか。だから曲目も歌詞も田中小学校に関する言葉がないのでは。との問いに、奥さんは依頼においでになったのは、当時の教頭毛利隆先生{のち市教育長}と後援会の魚躬常次郎氏と二人で昭和23年夏頃おいでになりはっきりと「校歌」の作詞を依頼された。と述べられました。

そこで今度はやはり存命中であった毛利先生を訪ねて、同様の質問をしたところ、先生も校歌の作詞を依頼したが、翌年昭和24年春頃出来上がった楽譜が学校に届けられたのを見て、一瞬私と同じ様な事を思った。
しかし、よく読んでみると戦後の混乱期、単に田中小学校の児童にとどまらず、全ての子供たちが元気・勇気が湧くような歌詞で誰でもが気軽に口ずさめるような歌として作詞されたのではないか。それはとてもスケールの大きなことで詩人高島高先生の真骨頂であり名曲である。と話されたのが忘れられない。

当時私は30代の若造で実に単純な疑問であったが、さすが毛利先生。このように含蓄ある言葉で教えて頂いた。その後、毛利先生と音楽担当の黒田先生と二人で上京、高木東六宅を訪ね、「希望の丘」の指導を受けて、生徒とともに練習に励み、昭和24年の創立記念日9月6日に発表,被露された。高島先生は「滑川市の歌」を作詞された後、昭和29年「広報なめりかわ」2月号に作詞された感想を寄稿されている。ここでも、記憶より記録の大切さを改めて感じた。

写真は、式辞を述べる玉木校長。中庭「きぼうの丘」で式典の215名の生徒。

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(2023/11/04)

滑川市制施行70周年記念式典

11月1日抜けるような空の青に、新雪輝く立山連峰、加えて11月とは思えないような陽気の中,標記の式典が新装なった複合施設「メリカ」で開催されました。
式典は、来賓に新田知事、山本県議会議長、姉妹都市長野県小諸市、北海道豊頃町、東京滑川会、関西滑川会、県内各市町村長,、各議員等約400名近くの多数の出席のもと盛会裏に開催されました。

第一部 アトラクション
バンド名「匂い蜂」による曲目「なめりかわdays」等の演奏。
本市のPR動画の上映。

第二部
柿沢副市長の開式の辞、国歌斉唱、水野市長の式辞、尾崎市議会議長の挨拶、次いで38団体、個人の記念表彰、新田知事、山本県議会議長の祝辞、来賓紹介、祝電披露、小泉小諸市長の万歳三唱、上田市教育長の閉式の辞。で滞りなく終了しました。

さて、滑川市は昭和28年11月1日1町6か村{滑川町、西加積村、中加積村、東加積村、北加積村、浜加積村、早月加積村}が合併し翌年3月1日市制を施行し昭和31年6月1日旧山加積村の一部を編入し、現在の姿になりました。

ここで、昭和28年11月1日の合併の時、医師であり詩人であった高島高氏は次のように述べています。
大滑川町を祝す  北方荘主人 高島高
その握手は 偉大であった
ことほげよ菊かほる佳日よ
1町6か村が 今こそ親愛と協和との
ちかいに燃えたのだ   ――1953年秋――

次いで、昭和29年3月1日市制施行に伴い「滑川市の歌」が制定された。
作詞は前述の高島高、作曲・信時潔である。

霊峰立山おごそかに いま朝明けの陽に映える ひびきてやまぬ有磯海
悠久の道 教え打つ ここに立ちたる栄光の
ああわれらの市滑川 たたえんわれらの市滑川

世界に比もなき蛍烏賊 海の神秘か蜃気楼 自然の美観にめぐまれて
正義進取の意気高し ここに立ちたる栄光の
ああわれらの市滑川 たたえんわれらの市滑川

作詞した高島高氏は昭和29年2月発行の「広報なめりかわ」に作詞者の言葉として次のような文を寄稿している。
「滑川市の歌」の作詞を依頼されたとき、その責任を感じ、一応辞退したのですが、たってということで、何か一つの奉仕という意味で書いてみました。
20数年間,終始「現代詩」を書きつづけ、そこで悩みたたかって来た私は、曲になる歌は元来不得意なのですが日頃、郷土に貢献することの少ない自分を考え、一つの御奉公と思って書いてみたのです。滑川のもつ自然の美しさと、産業と新生の意愁を主体として作詞してみました。

中でも、後半のくりかえされる歌詞の、「ここに立ちたる栄光の」の栄光という言葉に苦心しました。「栄光」という言葉は、元来なにか、固定された概念的な言葉のように考えられ、これを歌詞の言葉とするには余程、慎重にあつかわねばならぬと考えたからです。

外国の詩人は多くこの栄光という言葉を使っているようですが、極自然で成功している場合が多いのですが、日本語になると中々概念的になりやすい言葉のようです。これは、何か宗教的な意味がふくまれているためでしょうか。前句の「ここに立ちたる」という言葉を書いてみて、はじめて「栄光」という言葉を滑川市を形容する言葉として使いました。

拙い作詞も、さいわいに,日頃親しくしていただいている、例の「海ゆかば」「み民われ」などの国民歌の作曲者として令名あり、又音楽家として稀な芸術院会員であられる信時潔先生が快く作曲をひき受けて下さり、かがやかしい光彩を得たことは、何よりもうれしく思っている次第であります。{1954年2月 北方荘にて}

さすが詩人らしい、この歌にかける意気込みや情熱が伝わってくるような気がします。ただ残念なのは、この素晴らしい歌が、歌われることが少なくなっていることです。せめて市が主催する行事の中で、歌う機会があると思うが・・・
今回の式典でも、歌われませんでした。

尚、式典前日姉妹都市、北海道豊頃町按田町長、中村議長、豊頃滑川会の皆さんと久しぶりに我が家で懇談会を開催し、友好を深めました。
70周年は、80年、100年へと続く一通過点です。これを機に、滑川市が更に発展することを念じ会場を後にしました。

写真は、式辞の水野市長。祝辞の新田知事。按田豊頃町長中村議長等豊頃町の人達と。

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(2023/11/01)

「奥の細道」パート3

早稲の香や 分け入る右は 有磯海  芭蕉

「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也.舟の上に生涯をうかべ馬の口とらえて老いをむかふる者は日々旅にして、旅を栖とす。…」
芭蕉は人生を旅に例えた。

鴨長明は方丈記で「ゆく河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しく留まるためしなし・・・」と人生を河の流れにたとえ、平家物語は「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色,盛者必衰の理{ことわり}をあらわす おごれる人も久しからずや 只春の夢の如し たけき者も 遂にはほろびぬ,偏{ひとえに}に風の前のちりに同じ」と人生の無常と盛者必衰と論じた。

これを以前、高校の英語の先生に英訳出来るか。と質問したら、ドナルド・キーンの英訳を紹介された。数学者の藤原正彦氏が、日本文学を専攻する英国人に「勉強する上で何が難しいか」と尋ねると、彼らは直ちに「もののあわれだ」と答えた。

氏は「悠久の自然とはかない人生との対比の中に美を発見する感性は日本人が取り分け鋭い」と言っている。言い得て妙である。
徳城寺境内の「有磯塚」の向かいに「早稲の香や・・」の句を住職曰く10年程前に寺に来たドナルド・キーン氏が英訳したのを、2021年8月句碑を建立したという。全文を記す。

SWEET SMELLING  RISE FIELDS!
TO OUR RIGHT
AS WE PUSH THROUGH、
THE ARISO  SEA
BASHO

ドナルド・キーン氏{1922-2019}は米国生まれ。日本文学研究・翻訳の第一人者。日本文学史全18巻独力で発刊。2013年日本国籍取得。文化勲章受賞者。

残念ながら私には、この碑からは、日本語の持つ繊細な美意識は感じられない。日頃思うに、日本語は漢字・ひらかな・カタカナの3種類を何の抵抗もなく使いこなす。
漢字に至っては、草書・隷書・楷書・行書など、、多岐にわたる。これが日本語の美しさを一層引き立てているのだろう。俳句や短歌や和歌等はやはり英訳するのは難しい分野と思う。富山社交俱楽部での講演は概ねこの様な内容でしたが、それに多少加筆しました。

最後に、記憶と記録の違いである。記憶は必ず忘れ去られ、消えてゆく。記録は一時の出来事を永遠なものにすることが出来る。記録は世の片隅の出来事を全体のものにすることが出来る。記録は名も無き人の行為を人類に結びつけることも出来る。
記録のみが、消えゆくものを不死なものとすることが出来る。「曽良旅日記」や「俳諧わせのみち」から改めて記録の大切さを学んだような気がした。

写真は、講演中の私。ドナルド・キーン氏英訳の「早稲の香や 分け入る右は 有磯塚」句碑

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(2023/10/28)

「奥の細道」パート2

早稲の香や 分け入る右は 有磯海  芭蕉

現在、早稲の香や・・・の句碑{有磯塚}は県内に10基以上あるが建立年や経緯がはっきりし、そして最も古いのが滑川市四間町徳城寺境内にある「有磯塚」である。
これについて詳細に記した本が「俳諧わせのみち・知十撰」句集として発刊されたのは明和2年{1765}10月12日である。これを発見、解読されたのが旧制富山中学校教諭を振り出しに、小杉、泊、桜井各校長、県立図書館長を歴任された滑川の柚木武夫氏である。

氏は昭和44年12月「滑川の俳諧」を発行され、その中で、戦前小矢部・津沢の中島杏子氏秘蔵の「俳諧わせのみち」を拝見し、ほぼ写させて頂き胸躍る喜びを深くした。戦後あらためて中島氏よりお借りしコピーさせてもらい、ここに深く感謝の意を表する。と述べ、また天理図書館には、汚れの少ないきれいな版本が2冊も蔵せられ、羨望の念禁じ得ない。と述べておられる。
これを解読し出版されたのが前述の「滑川の俳諧」である。滑川市教育委員会発行の「滑川の文化財」より「有磯塚」に関する部分を抜粋して記す。

「この塚を建立したのが川瀬知十など、当時の滑川を代表する俳人たちでした。この塚は芭蕉70回忌の翌年にあたる明和元年{1764}10月12日建立された。」そのいきさつについては,川瀬知十撰「俳諧わせのみち」に次のように記されている。

「翁の遠忌に当たれば、有磯の砂を手してさらへ、荒波のかかれる石を社中と共にかき荷ひて,此神明山徳城寺禅室に碑をたつ。名は何ぞ外を求ん。わせの香やわけ入右はありそ海と碑面にものして、有磯塚と云なるべし。これより香華をおこたらず,俳徒も此石と共にひさしく、春は浦風の桜に通はざる先にと手向、子規{ほととぎす}の暁は裳を汐にひたし、早稲の香吹くはもとより・・・・」と記され芭蕉への深い敬愛の念と俳諧に寄せる熱い思いが語られている。

このように芭蕉の「奥の細道」「曽良旅日記」「俳諧わせのみち」の3点から判断して、まず間違いないのは「早稲の香や・・・」の句は越中路で詠んだことは誰も異論はない。然らばどこの風景を見て詠んだか。柚木氏は曽良旅日記と当時有磯海は富山湾のどのあたりであったか等をキーワードに雨晴付近との説を取っておられる。

私は、素人で恐縮ですが、泊から滑川の間と思う。芭蕉は親不知を越え、市振を越え泊に入ったところで、越中平野が広がる。また「俳諧わせのみち」で有磯塚建立に際し、「有磯の砂を手してさらえ・・・」とあり、滑川海岸を有磯と呼んでいる。氷見には有磯高校があった{現・氷見高校}滑川高校校歌には有磯の海の歌詞がある。湾一帯を有磯海と呼んだんでなかろうか。
又、当時早稲というのは呉西にはなく、新川郡固有の品種との説がある。しかも滑川で宿泊したこと等から考え、私は泊から滑川の間と思う。

次に、滑川の何処で宿泊したかである。これも定かでない。考えられるのは
①俳人、知人友人宅②紹介状
③旅籠屋
④お寺,検断宅等 がある。

曽良旅日記には約3割位は記されているが、残念ながら滑川も高岡も記載なしである。当時の県内の俳諧は大淀三千風の談林派と松永貞門の貞門派が主流だったという。
芭蕉が越中に入る6年前天和3年{1683}6月12日三千風が越中に入り、7月いっぱい魚津に滞在し、越中の方々の万葉の歌枕を訪ねている。滑川では本陣も勤めている桐沢家に7月2日と3日宿泊し一句残している。桐沢家古文書は市史編纂にも多くの資料が利用された。しかし、古文書にも芭蕉の記録がない。この頃旅籠は四歩一屋と川瀬屋もあったという。

いずれも談林派で芭蕉を歓迎することもなく、むしろ芭蕉であることさえ知らなかったのでないかと思う。芭蕉は高岡でも宿泊しているが、高岡市伏木出身芥川賞作家堀田善衛が、明治6年生まれの伯母に聞いた話として「それぞれに縄張りがあってやな、俳諧じゃと京の貞門が多かったんや、うちもそうじゃつた」と話している。このように越中では芭蕉が受け入れられる余地がなかったのではないか。

だから2泊3日の間に句会も開いた形跡もなく、しかも疲れていたこともあり、足早に越中を通過したのではと思う。但、芭蕉の弟子である井波瑞泉寺第11世住職浪化上人は芭蕉が越中を通っていったことを知らなかったとして次のように後悔している。
「芭蕉翁当国の行脚も知らず。やや旅程を経て其の句をまふけ、其の人を慕う。「早稲の香や、有そめぐりの つえのあと」浪化の芭蕉を慕うこと並々ならず、以後越中は徐々に蕉風になってゆく。

この様なことと、有磯塚を建立し「俳諧わせのみち」を発刊し、追悼句会を催すなど中心的な役割を果たした俳人川瀬知十は旅籠川瀬屋7代目当主である。芭蕉通過から70年も経過していることを考えると、この頃には滑川も蕉門派が主流になっていたと思われる。

勝手な推測だが、芭蕉が川瀬屋に泊まったことを後年知った知十がそれを誇りに思い、前述の数々の事業を行ったのではないだろうか。
又、旅程600里、150日余りの旅費等は。幕府が出し、幕府隠密説もあるなど、まだまだ不明な点があり、今後の研究を待ちたい。文章が少々長くなったが最後の文はパート3に回す。

写真は、柚木武夫が解読した「俳諧わせのみち」を平成19年7月滑川市がサミット開催に合わせ発行した復刻版・{縦21㎝・横15㎝。}柚木武夫氏著「滑川の俳諧」。徳城寺境内の「有磯塚」。

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(2023/10/25)

「奥の細道」パート1

早稲の香や 分け入る右は 有磯海  芭蕉

10月25日富山電気ビル内に事務局がある「富山社交俱楽部」{会長・金井昌一氏・元電気ビル社長}で「芭蕉と越中」と題し話をした。正直、私は歴史学者でもなければ、芭蕉の研究者でもない。ましてや俳句も素人の者が芭蕉の話をするのは論外であるが、その経緯について多少述べておく。

平成元年{1989}おくの細道紀行300年を記念して、芭蕉生誕の地伊賀上野市{現・伊賀市}が中心になって翁に関する自治体及び関係団体が一堂に会し、第1回「奥の細道」芭蕉サミットが開催された。
滑川市がこれに初めて参加したのは平成9年{1998}第10回サミットである。私が出席したのは平成16年{2005}でやはり伊賀上野市であった。その時、平成17年開催地は山形県尾花沢。18年は東京都足立区{千住のある区}までは決定していた。

そこで平成19年第20回サミット開催地として本市が立候補し決定された。その大きな理由の一つに、芭蕉が奥の細道紀行の途上において滑川に宿泊した。ところが県内においてさえ、この特筆すべきことが忘れ去られようとしている。
芭蕉翁の奥の細道紀行と、滑川宿泊を顕彰しつつ、本市の芸能・文化の活性化に資するためサミットを開催し市勢発展の一助としたい。との思いがあったからである。

さて「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也・・・」有名な「奥の細道」序章の一節である。芭蕉が旅立ったのは元禄2年{1689}閏3月27日{陽暦5月16日}芭蕉46歳、曽良41歳の時である。東北地方を紀行し、日本海側に出て南下、9月に入り最終地岐阜県大垣まで、旅程約600里、150日余の旅であった。
この内容は「奥の細道」として、元禄7年8月盛夏・素龍清書本として出版された。この本が敦賀市の西村久雄が所蔵し、これを平成17年10月写真複製され、復刻本として発行された{縦16,5㎝、横14,5㎝}その中の、越中の部分を紹介する。

「那古ノ浦」
「くろべ四十八が瀬とかや,数しらぬ川をわたりて、那古と云浦に出、担籠{たご}の藤浪は、春ならずとも,初秋の哀といふべきものをと、人に尋ねれば「是より五里、いそ伝ひして、むかふの山陰にいり、あまの苫{とま}ぶきかすかなれば、蘆{あし}の一夜の宿かすものあるまじ」といひおどされて、加賀の国に入。 わせの香や分入右は有磯海」

これが、越中路の全文である。
以前芭蕉は滑川に宿泊したと巷間伝えられていたことを含め、ほとんどわからない。やはり紀行文である。

ところが昭和18年{13年説も有}奈良天理大附属図書館から、芭蕉に随行した曽良の旅日記が発見され、不明な点がかなり明らかになり、芭蕉研究もこれを機にかなり進んだと言われた。曽良旅日記による越中の部分を記す。

7月13日市振立。虹立。玉木村、市振ヨリ十四、五丁有。中・後ノ堺、川有。渡テ越中方,堺村ト云。加賀ノ番所有。出手形入ノ由。泊ニ至テ越中ノ名所少々覚者有。入善ニ至テ馬ナシ。人雇テ荷ヲ持セ、黒部川ヲ越。雨ツヅク時ハ山ノ方へ廻ベシ。橋有。壱リ半ノ廻リ坂有。昼過、雨為降晴.。申ノ下尅、滑河ニ着、宿.暑気甚し。

14日、快晴,暑甚シ。富山カカラズシテ{滑川一リ程来,渡テトャマへ別}、三リ、東岩瀬野{渡シ有。大川}。四リ半,ハウ生子{渡有。甚大川也。半里計}。氷見へ欲行、不往。

高岡へ出ル。ニリ也。ナゴ・二上山・イワセノ等ヲ見ル。高岡ニ申ノ上刻、,着テ宿。翁、気色不勝。暑極テ甚。小?同然。
15日 快晴。高岡ヲ立、埴生八幡ヲ拝ス。源氏山、、卯ノ花山也。倶利伽羅ヲ見テ、未ノ中刻、金沢ニ着。」

これが曽良旅日記の越中に於ける全文である。{注}7月13日は閏で陽暦では8月27日。
文中?は判読不明。曽良旅日記とは、宿に辿り着いては、疲れた足も伸べやらず無造作に、自己の心覚えにもと、書き留めたそのままのものが、文章も整えられず、清書もされないで、筆者の曽良の手から俳諧ゆかりのある人物の間に転々と秘蔵されつつ、ほとんど世に知られず240年余を経過し昭和10年代に発見されたのである。

これによって芭蕉は間違いなく滑川で宿泊した事をはじめとして、幾つものことが明らかになった。
しかし、現在でも論争になり、定かでない点もある。

①芭蕉の宿泊場所
②早稲の香や・・の句は、どこの風景を見て詠んだのか
③2泊3日の越中路は走り旅で、一句しか詠まず、句会も開かれた形跡さえない。等は今日でもはっきりしない。
現在、早稲の香や・・・の句碑{有磯塚}は県内に10基以上あるが、建立年や経緯、そして最も古いものが滑川市四間町徳城寺境内にある「有磯塚」である。

文章が少々長くなるので,以降はパート2に回す。
写真は、「奥の細道」復刻版を片手に。会場風景。「奥の細道」復刻版。

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