なかや一博 ブログ

令和5年度入学式

よきことも 目にも余るや 春の花

4月10日{月}富山県立滑川高校{金田幸徳校長}入学式が体育館で挙行されました。
今年の桜前線は、開花も満開宣言も例年より実に早く当日は学校敷地内の桜は残念ながら葉桜であった。私が小学生の頃は、入学式は桜の開花時期と重なっていたような気がする。だから、小学校の校章の多くは「さくら」である。

さて、3月13日マスク着用は個人判断とされたことから、今年は3年ぶりの顔の見える入学式と思いきや、来賓室に入るや10数人の来賓で私以外は全員マスク着用。会場では保護者ほぼ全員が着用。新入生普通科2クラス、薬業科1クラス、商業科1クラス、海洋科1クラス、計5クラス183名。、着用3クラス、無着用2クラスである。

式後、先生にこの着用、無着用の違いを聞いたところ、判断はそのクラスに任せたという。尚、定員200名に対し183名は県下各校で起きた定員割れである。出席した学校側は校長を含め全員無着用である。
この現象をどう見るか。日本人特有の「人が外せば、自分も」の感覚か。コロナ禍の時は、国歌斉唱も校歌もテープで流され一抹の淋しさを禁じ得なかったが、今回の入学式は国歌は全員で斉唱し、校歌は在校生の合唱クラブのメンバーがステージ上で新入生に披露した。

また、吹奏楽部の演奏によって新入生の入退場が行われた。やはり、これによって厳粛さが一層醸し出されるのだと思う。校長は式辞の中で、今日まで、育てて頂いた多くの方々に感謝の気持ちを持つこと。そして、本校の生徒目標である「高きを求める情熱」を挙げ、志を高く掲げ、目標を持つことの大切さを述べ、自己を鍛錬し、学業に部活に学校行事に積極的に参加して充実した高校生活を送るよう話されました。

次いで、新入生代表の宣誓、在校生代表の歓迎の言葉に続き、1年生に関係する先生方の紹介がありました。男性教員5名、女性教員9名でした。学校全体では86名の教職員の内、男性約40%、女性約60%です。女性の社会進出の進んでいる分野は、薬剤師と教員でないかと私は思う。

入学式での生徒の希望に満ちて輝く瞳を見ると、やはり若いことは素晴らしいと思う。青春とは単に年齢だけで判断すべきでない。それは理解できる。しかし、30年前、スマホやAIをはじめとして、今日を予想した人はいなかったと思う。同様に30年後の日本や世界の変わりようを予想することは難しい。

30年後私は100歳を超えこの世にはいない。
しかし、彼等はまだ50歳にもならない。そんな変わりゆく世の中を見ることができる。
羨ましい限りである。いづれにしても、新入生が3年間で多くの思い出をつくり、かつ、楽しい高校生活を送ってもらいたいと念じ学校を後にした。

ここで、校歌を披露した時、有賀副校長より校歌の歌詞について説明がありましたので記しておきます。
本校校歌は、北園克衛作詞・岡部昌作曲 昭和24年制定。
1題目は 朝日に美しく輝く立山連峰に抱かれて、百年の歴史と伝統を誇るこの滑川高校で熱き夢を語り合おう。
2題目は 蛍を袋に集めて、その光で学んだといわれる中国の学者、車胤の若き日の苦難を思い、かけがえのない青春の一日一日を大切に過ごして欲しいという願いがこめられている。

滑川高校校歌

1朝日に匂う 太刀の峰
 雲井遥かに 青春の
 赤き血に沸{たぎる} 我等の日
 加積の郷{さと}の 学び舎に
 栄えある歴史  うけ継ぎて
 祖国をにない  集える我等

2有磯の海に 風荒れて
 思え車胤を 青春の
 波のごと迅{はやし} 我等の日
 雄々しく潔{きよ}く 血と愛に
 鍛えん時を  惜しみつつ
 理想に燃えて  集える我等

写真は、式辞を述べる金田校長

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(2023/04/11)

企画展・滑川の薬売り―売薬にまつわるあれこれ大集合

頑なに 富山売薬 春の風邪  片桐久恵

4月8日{土}午前9時30分より、市博物館で滑川市制70周年記念事業の一環として標記の企画展が開催されました。
昭和57年{1982}明治、大正、昭和時代に使用された滑川売薬に関する収集した資料は661点、その後の寄贈を含め、現在1000点を超えています。市ではそれを「売薬民俗資料」として滑川市の「有形民俗文化財」に指定し保管しています。
今回それらを主とした企画展で、特に、滑川の売薬さんが江戸時代から昭和時代に使用してきた多くの道具{製造・営業・行商に関するもの}を中心として展示されました。

滑川売薬の歴史{当日配布の資料より}「宝永年間{1704-1711}とする説と、享保18年{1733}説がある。享保18年説によれば,、高月村の高田千右ェ門が富山の薬種商松井屋源右ェ門から反魂丹の製造を習い、製造を開始した。千右ェ門は「反魂丹屋千右ェ門」と名乗り、出雲国{現・島根県}へ自製した反魂丹の行商に出かけました。
その後、滑川では反魂丹の他、熊から採れる熊胆を原料とした熊胆丸や実母散、寄応丸などの薬も生産するようになり、滑川の売薬さんたちの営業範囲が全国へ広がっていったと伝えられます。

嘉永6年{1853}の記録によれば、滑川の売薬に携わった親方と奉公人を含めた人数は、高月村で計140名、滑川町で計148名、と記されており、滑川の売薬がいかに盛んだったかわかります。
また、堀江村の売薬の歴史は滑川市史によれば、「明治初年のころ初代伊藤三郎平と松井弥吉の2人が、高月村の反魂丹屋高田清次郎に約5年間の見習い回商ののち、自立して堀江に自家製剤の場を設け、本格的な売薬業として発展させたといわれる。明治9年{1876}の記録では「堀江村に30有人の売薬人」とある。

参考まで、明治5年{1872}堀江村の戸数78戸とある。また当日配布の資料では、「明治20年代から第二次世界大戦期にかけては、朝鮮や中国、台湾など滑川の売薬は海外にも営業活動を広げていきました。
昭和6年{1931}滑川の売薬者数は、1770人を数え、その主な回商地は、行商者の多い順に東京、埼玉、新潟、北海道、長野、福島、茨城などでした。

一方、昭和8年{1933}に営業していた滑川の製薬会社は中新薬業kk{中町}、保寿堂製薬㏍{四間町}、日ノ本売薬kk{下小泉}、㏍保寿堂製薬{高月町}、東洋製薬kk{田中町}、保寿堂{保命堂か}薬業kk{大町}、また、個人では、金子、久保などの製薬工場があったという」当時と現在を同一に論じることはできないが、売薬者数などを含め今昔の感ひとしをである。

展示品の中に、以前私が寄贈した薬箱もあり、懐かしく見てきた。

尚、博物館1階には売薬常設展示室がある。ここには明治16年売薬業界に対し悪名高き売薬印紙税が科せられ売薬印紙と記された印紙が明治18年まで3年間発行された印紙がある。期間が短かったため現存する物は少なく極めて希少価値が高い。以後19年より通常の印紙が使用されたが、税そのものは大正15年まで続き業界を苦しめた。常設展示場にはその他の貴重な資料や立体模型など企画展とは違った趣がある。

さて、昨今富山の薬業界は不祥事があり、加えて新型コロナの影響で厳しい状況にある。しかし、この企画展を通し、先人は過去の様々な苦難を、叡智と情熱と努力をどの様に傾注し乗り越えたか。歴史の中から何を学び取るか。それが今回の企画展の意義であったと思う。

企画展は、4月8日ー5月7日{日}会場・滑川市立博物館・滑川市開676 ☎076-474-9200

写真は
①企画展のパンフレット
②テープカット、左から上田教育長、尾崎市議会議長,、水野市長、石政薬業会長
③中屋薬品の薬箱
④売薬印紙と記された五厘の印紙

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(2023/04/08)

散る桜 残る桜も 散る桜  良寛

3月29日全日本弓道連盟評議員会出席の為28日上京した。
実は、WBCワールド・ベースボール・クラシックで侍ジャパンが優勝し、そのトロフィーが東京ドーム内、野球殿堂博物館に展示してあり、しかも28日が最終日、それを見る為東京駅到着後博物館へ直行。
さすがに長蛇の列。係員に聞いたところ約3時間待ち。前日は約4時間待ちと比べれば何となく1時間得をしたかのような錯覚を覚える。一瞬列に並ぼうかと思ったが、館内に入ってからトロフィーにたどり着くまで約1時間。これを聞いた途端に断念した。

それにしても、黙々と並ぶ人の姿に、かって昭和45年大阪万博に月の石展示のあるアメリカ館を初め、各国のパビリオンに並んだ長蛇の列や、最近では上野動物園のパンダが中国に帰る時の列の姿をを見ると、日本人は実に辛抱強い人種と改めて思う。
その理由は機会があれば私見を述べるが、隣接地の遊園地にある巨大な観覧車。ジェットコースターの上り約45度、下り90度に近いコースを悲鳴をあげながら、よく乗るものと思う。

諦めて、宿泊近くの山王日枝神社を初めて参詣した。ここの桜は本数は少なかったが満開であった。東京には記録的な速さで3月14日開花宣言が出た。しかし東京はやはり広い。満開のところもあれば、散り始めたところもある。品種や地域によって違うのだろう。

4月1日のニュースでは4月9日が青森での開花予想である。昭和40年代から50年代に何度か青森県の弘前城桜まつりに行った時は4月末から5月のゴールデンウィーク期間であった。その後、さくら前線は津軽海峡を渡り北海道へ上陸すると言われたものである。やはり温暖化の影響だろうか。

また、インバウンド、外国人の観光客も多く見受けられた。しかし、あたかも喧嘩しているかのような大声で会話をすると言われる中国人は殆どいなかった。団体客の訪日を許可していない影響だろう。2019年の訪日観光客数3188万人には遠く及ばないが、確実に戻りつつあると思う。

さて、この山王日枝神社は,、旧官幣大社で主祭神は「大山咋神」で文明年間に太田道灌が江戸城築城にあたり、川越山王社を再勧請し、更に徳川家康入府以降城内鎮守の神と崇められ,紅葉山から麹町を経て万治2年当地に移遷された。
明治維新によって江戸城は皇居となり日枝神社は皇城鎮護の神として皇室のご崇敬殊に篤く、大正天皇ご即位当日には官幣大社極位に列せられた。昭和20年5月の空襲によって壮麗を極めた国宝の社殿は灰塵に帰したが昭和33年再建された。満開の桜を眺めながら、ふと良寛和尚の標句を思い出した。人生もまたしかりである。

28日の夕は旧知の中である藤木俊光経済産業省官房長・同省・戸高秀史審議官、上田英俊衆議院議員、堂故茂参議院議員などと懇談し、有意義な時間を過ごした。
翌、29日富山県首都圏本部で砂原賢司本部長と懇談し、その後、全弓連評議員会に出席し帰宅した。

写真は、満開の桜の山王日枝神社。藤木官房長を囲む懇談会。

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(2023/03/30)

櫻開花宣言

初桜 折りしもけふは 能日{よきひ}かな  芭蕉

気象庁は、3月14日、東京靖国神社にある標本木の桜{ソメイヨシノ}が全国のトップを切って開花したと発表した。これは令和2年、3年と並んで観測史上最も早いとう。
気象庁によると、3月に入ってから気温が上昇し、つぼみが一気に成長したという。富山市のソメイヨシノの開花予想は3月25日、で,平年より9日、昨年より7日も早いという。

やはり地球温暖化の影響だろうか。わが家の小さな裏庭のソメイヨシノは、まだまだのようだ。それにしても、富山湾に春を告げるホタルイカ漁も、解禁日の3月1日は僅か59匹。以後今日16日まで絶不漁である。せめて海上遊覧{4月1日ー5月7日}の始まるまでには何とか平年並みにと願うばかりである。

3月15日は第6回全日本弓道連盟理事会の為日帰りで上京した。3月13日マスク着用は個人判断とされたが、新幹線の車内でも、都内で行きかう人も殆どが着用である。
日本人特有の「人が外せば、私も」の感である。さて、理事会の議題は令和5年度事業計画や収支予算などの重要議題であったが、予定より早く終わったので、久しぶりに知人を訪ねた。

藤木俊光経済産業省官房長である。氏は以前富山県商工労働部長として経産省より出向されていた時懇意になり、時々懇談の機会を持つなどし、今日に至っている。
官房長室で約40分程色んな話題に花が咲いた。氏の前職は経産省製造産業局長から官房長であるが、私の知人が、それなりの立場になり活躍されている姿を見ると、やはり嬉しいものである。
名残りは尽きなかったが、次回の再会を約束し、一層の活躍を期待し部屋を後にした。

写真は、藤木官房長と官房長室にて。

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(2023/03/15)

滑高薬業科特別講演

春風や 闘志いだきて 丘に立つ  虚子

春は名のみのどころか 例年より早く春の到来を感じさせる好天の3月6日{月}午前9時50分ー10時40分まで50分間富山県立滑川高校薬業科一年生40人に「とやまの薬」特に「置きぐすり」について話しました。
これは、後継者対策育成事業の一環として製薬メーカー側と配置側が一年交代で担当し、今年は私が配置側として、1月23日の富山北部高校に次いでの講演となった。

最初に、「置き薬」や配置販売業を知っていますか、との私の質問に対し残念ながら誰も知らなかった。
これは、生徒の家庭や関係者の中に配置従事者がいないし置き薬も配置していないと言うことである。これに依って地元富山県内でのPRがいかに必要かを痛感した。
そこで戦前・戦後を通して配置売薬のレコード化された数曲を以前CDにした中から1曲を流した。勿論、置き薬を知らない生徒たちであるが,歌詞の中に「先用後利」など富山売薬を表現する言葉が幾つもあったからである。{最後に歌詞掲載}

まず、薬の歴史として一説によれば、紀元前2700年ー1500年前エジプト、インド,黄河等の古代文明の時代に、それぞれの地域や特性に応じて、医療や薬が編み出されたと言う。人間は衣食住が満たされた時、次に求めるのは、病気の治療薬を含めた健康であった。そして原料を生活の周りにある「草根木皮」「動物胆」「鉱物」などである。

現在、薬を飲む、はかって服むと書いたし、神社仏閣での祈祷や御守りが外服薬であり、服むのが内服薬であったことを説明した.
また、現在県内に、売薬さんや製薬メーカーを購読者とした新聞社が2社ある。何故かを含め、富山と言えば「くすり」「くすり」と言えば富山と言われる所以を話し、その後富山売薬の歴史について説明した。詳細は字数の関係で記しませんが概略を記す。

①富山売薬発祥の起源とされる「2代藩主・前田正甫公と江戸城腹痛事件」「備前の医師・万代常閑と「反魂丹」、薬種商・松井屋源右衛門、諸国への行商を広めた八重崎屋源六。商法「先用後利」について

②他藩への入国が厳しかった江戸時代に何故富山売薬は出入国が容易であったか、特に薩摩藩と昆布と北前船。

③明治に入り、漢方排斥,洋薬礼賛、売薬取り締まり規則や売薬印紙税導入などの苦難の時代をどう乗り越えたのか

④人材の育成に「共立富山薬学校」を設立、それを「富山市立薬学校」に移管、その後、明治43年県立の専門学校として昇格し、薬剤師と売薬行商人養成と新薬開発研究機関としては、日本で初めての薬学専門学校であった。これが今日の富山大学薬学部となっていること。その流れの中に滑川高校や富山北部高校の薬業科があること。

⑤明治の富山の近代化に売薬資本が投下されたこと。
北陸銀行、北陸電力をはじめとして、売薬人によって金融、電力をはじめとして、色々な産業を起こし、印刷、製紙、容器など多くの業界が発展したこと。まさに富山県の近代化の礎は売薬資本によって築かれたと言っても過言ではないこと。

⑥現在、ドラックストアや薬局が普及し、医療機関も整備されている今日でも何故「置き薬」が存在するのか 用を先にし、利を後にする「先用後利」の売薬独特の商法も大きな理由であろうが、同時に17世紀のフランスのジャック・サバリーの「完全な商人」の題名の書物に
 ①信用・信頼性
 ②良い商品
 ③市場調査
 ④記帳と経理{例えば懸場帳面}
の重要性を述べている。
まさにこの商人として必要な4条件を300年も前から身に付けていたことである。そして、富山気質は「信用第一」「薬効第一」「顧客第一」に撤したとは言え、最後はやはり「人」に尽きると思う。

次いで、富山売薬に関するエピソードを紹介しました。

①江戸・天保年間{1830ー44}に大阪で作られた資料では、全国の著名薬46種の番付で富山の「越中反魂丹」が京都の「雨森無二膏薬」伊勢の「朝熊万金丹」奈良西大寺の「豊心丹」などを抑え第一位にランクされていた。

②売薬に必要な読み・書き・そろばん習得の為富山では教育が盛んとなり明和3年{1766}に富山の西三番町に開かれた寺子屋「小西塾」は日本三大寺子屋と称されるほど大規模で、今日の教育県・富山の原点がここにある。

③富山の薬売りを顕彰する石碑{酬恩碑}「富山の青木伝次は現在の山形県米沢市塩井町を行商の折、備中鍬で苦労して田を耕す村人たちを見たのです。伝次の地元富山では既に馬を使った馬耕法が広まっており、その技術を教えようと、明治32年に富山から馬耕機{富山犂}を持参し、その使い方まで指導しました。馬耕機は伝次と地元の鍛冶屋で改良が加えられて更に便利になり置賜一円に広まって農家の重労働を軽減させました。村人は伝次を「先生」と慕い、明治34{1901}年に石碑を建て感謝したのです」{山形県米沢市「広報よねざわ」平成26年12月1日発行より一部抜粋}この他にも仲人役を務めた話など、全国にはこの様な話はいくらでもある。

④廃藩置県が断行された明治4年{1871}の人口調査の資料では富山は全国9位に位置していた。東京69万人、をトップに、2位が大阪29万人、3位京都23万人、4位名古屋・金沢10万人台、6位広島8万人台、7位横浜・和歌山6万人台、次いで仙台と並んで9位に5万人台の富山がある。これも「富山売薬」と言う一大産業によるものと思われる。

最後に配置薬業の素晴らしさを話し、配置業界に就職されることを勧めました。滑川高校は私の母校であり、同窓会長も務めていることもあり、ついつい熱が入り予定の時間を少しオーバーしましたが無事終えました。

昭和43年発売、歌・渚幸子の「愛のともしび」
1 雪の立山 今日また越えて 私しゃ薬の 旅に出る
  人の生命と その幸せを  願う心に 花が咲く 花が咲く

2 用を先にし その利をあとに これが自慢の 置き薬
  今日も明るく 門毎戸毎 届けましょうネ 真心を 真心を

3 深い馴染みの 富山のくすり 今は車で こんにちわ
  年に一度か 多くて二度の たまの逢う瀬に花が咲く 花が咲く

4 風の便りに 聞く花便り 富山平野の 遅い春
  泣きはしません あなたの胸に 愛のともしび ともすまで

個人的には、4題目の歌詞に違和感を感じますが、かって作詞・松原与四郎、作曲・高階哲夫の「越中富山の薬屋さん」、作詞・西條八十、作曲・中山晋平の「廣貫堂音頭」、作詞・相馬御風、作曲・福井直秋の「富山売薬歌」、作詞・多木良作、作曲・黒坂富治の「富山家庭薬の歌」など早々たる人によって作られている。これらを2019年1枚のCDに収めた。

写真は、講演風景と売薬の歌6曲入ったCDのケース。青木伝次の「酬恩碑」

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(2023/03/07)

久しぶりの上京

2月28日全日本弓道連盟第5回理事会出席の為、久しぶりに上京し、その機会に知人・友人と懇談した。理事会の場所はJapan sport olympic squareで、神宮野球場の向かいである。
会議終了後、近くの聖徳記念絵画館を見学した。この建物は、明治天皇・昭憲皇太后お二方ご一代の業績を後世に伝えるため大正8年3月5日着工、大正15年10月22日竣工と約8年の歳月をかけて建設し、日本画画題40点、洋画画題40点計80点の大作が当代一流の画家によって描かれた。展示されている壁画は、この輝かしい雄姿と歴史的光景を史実に基づいた厳密な考証の上で描かれたという。

私が特に関心を持ったのは
①明治38年日露講和条約により、樺太北緯50度以南が日本領土となり、その境界を標示する「樺太日露国境天測標」の壁画である。
これ以前、日本と当時のロシア帝国とは,安政2年{1855}2月7日日露通好条約{下田条約}を締結し、択捉島、国後島、歯舞、色丹島を日本領土と確認した。それが今日の北方領土返還の日になっている。

その後明治8年{1875}日本とロシアは千島樺太交換条約成立によって、択捉島の北、得撫島から最北端占守島まで全18島が日本領土になった。その後、昭和16年{1941}4月モスクワにおいて「日ソ中立条約」を締結した。その第一条には「両国の領土の保全と不可侵」第二条には「第三国への軍事的中立」が規定されている。
有効期間は昭和21年4月までの五年間であり、一方が期間満了一年前に、条約の破棄を通告しない限り、自動延長されることになっていた。つまり、中立と日本領土の保全、不可侵を守る義務があった。
それを、ソ連は昭和20年4月5日、条約不延長を通告8月8日日本に宣戦布告した。明らかに条約有効期間内の違反行為である。そして日本が原爆投下で終戦を決意したのを知った上で、慌てて参戦したのである。
目的は、戦利品つまり「領土」欲しさにあったのは明らかであろう。これによってシベリアに抑留された日本人は57万5千人、死者5万5千人と言われるが、一説には、抑留者70万人とも或は最高200万人との説もある。国と国との約束は条約である。

これを公然と破るのである。トルーマン米大統領は、かってこう語った。「米国は、ソ連と約40もの条約を結んだ。しかし、彼らが守った唯一の条約は、ソ連が日本との戦争に参加する、と約束したヤルタ協定だけだった」{1950年2月5日、ニューヨークタイムズ}これによって、ソ連が、日本と結んだ日ソ中立条約を破棄することになったのは皮肉である。
現在、ロシアのウクライナ侵攻が続いている。これを正当化しょうとするプーチン大統領の発言。ロシアの体質。樺太北緯50度に建てられた「樺太日露国境天測標」壁画を眺めながら感慨深い思いを持った。

②明治8年11月29日東京お茶の水女子師範学校に昭憲皇太后が行啓された壁画であった。この時の思いを「みがかずは 玉も鏡もなにかせむ 学びの道も かくこそありけり」しばし足を止めて見入った。
正に近代日本のあけぼの期を壁画で見る幕末・明治の歴史であった。今、明治神宮外苑の再開発が話題になっている。この森は是非残しておくべきと思う。

28日夜は、昨年6月まで茨城県副知事であり7月に本省に戻り、現在国交省審議官{総合・政策}の小善真司氏、衆議院議員・上田英俊氏、砂原富山県首都圏本部長など関係者が出席し久しぶりに懇談した。
当日は令和5年度国の予算案が衆議院を通過した日であり、上田議員もホットした様子で話に花が咲き、アッという間の2時間半であった。

翌日の3月1日午前はかってNHK富山放送局に勤務し現在はNHK渋谷で活躍のお二人と渋谷で再会し懇談。昼は大宮で以前ヨーロッパ視察のメンバー5人と会食、夕方帰宅した。1泊2泊のハードスケジュールであったが意義ある2日間であった。

写真は、聖徳記念絵画館。小善審議官と共に。
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(2023/03/01)

「院展」富山展

土の香の 濡れて春めく 庭なりし  稲畑汀子

2月12日富山県民会館美術館で開催されている、再興第107回院展富山展を鑑賞した。北陸3県持ち回りで富山開催は三年ぶりである。それにしても、芸術の秋、スポーツの秋と言われるが、その言葉はもう死語なのかもしれない。
院展の次は3月に、富山県美術館で棟方志功生誕120年展が開催されるし、4月に入ると2年に一度の「日展」も予定されている。又、県内各地の美術館でも年中芸術に関する企画展が開催されている。、スポーツも同様で大変有難いことである。

さて、今回の富山展は、パンプレットによれば、「日本美術院の主催する「院展」は日本画の公募展としては国内最大規模を誇ります。
本展では、令和4年9月東京都美術館で開催された「再興第107回院展」の出品作品297点の中から同人作品をはじめとして、受賞作品、富山県を含む北陸出身、在住の入選作品を中心に厳選された66点を展示し、今日の日本画の動向を広く紹介します。」とありました。

私のような素人には、作品を評価することは出来ませんが、どの作品も大作ばかりで、圧倒されますが、どことなく癒されるというか、ほっとする作品ばかりでした。中でも滑川市出身で名誉市民である下田義寛画伯の作品を鑑賞するのも目的の一つでありました。
画伯の作品は「塒」{ねぐら}とあり、バックの森の「塒」から大空に向って飛び出す「オオタカ」の雄姿が描かれ作品の左下に画伯の言葉が掲載されていました。

「大鷹(オオタカ)」大きさからでなく、羽根の色が青味がかった灰色をした鷹を意味する「蒼鷹(アオタカ)」に由来する尾羽が長いのが特徴、中型のからだは森の中で木々や茂みの間を飛行する際に有利であるほか、長い尾羽は空中でブレーキや方向転換に役立つ{ウィキベデイア参照。}中学2年の時、鎮守の森でアカマツの大木の高い場所に直経1m位のオオタカの営巣を発見し、ひそかに巣立ちまで見届けた。

あのわくわくと過ごした時間は今もはっきりと脳裏にやきつけられている。今アトリエには数羽のオオタカの剥製があり、特に大空へ舞い上がろうとする姿が気に入って何度も繰り返し写生する度に、あの時のときめきが鮮明に甦る。」とある。
オオタカは県庁正面3階にも立山・剣をバックとしたと思われる雄姿を含め何点かある。画伯のオオタカに寄せる思いの原点がここにあったとは始めて知った。何度か画伯と飲食を共にしたり、自宅を訪問した思い出がある私にとって、画伯の一層の活躍を願い会場を後にした。尚、富山県立の公共施設での高齢者の割り引き制度はない。他の都道府県ではある。他県の例も参考にして検討してもらえれば有り難いが・・・・。

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(2023/02/13)

幾あまた 通り過ぎゆく 春祈祷

わが家では、先代{私が2代}の時から毎年2月11日は菩提寺の曹洞宗海恵寺{滑川市追分}の住職が来宅し、「大般若経祈祷会」{通称・春祈祷}を行う。今年も導師・松井知良方丈,副導師・積意寺住職によって行われた。

大般若経とは、広辞苑によれば「最大の仏典、600巻。般若波羅蜜{智慧・到彼岸}の義を説く諸仏を集大成したもの」とある。これを真読、または転読して除災招福や護国を祈るものである。
ゆえに、家族一同はもとより、分家した私の子供や孫たちもわが家へ全員集合である。

そして、住職が経典を読経し、今年一年の家内安全・無病息災・商売繁盛・交通安全などを、出席者ひとり一人の頭や肩などに読経しながら経典をあて祈願し、併せて先祖の供養もするのである。この様な仏事は多分禅宗だけでなかろうかと思う。住職によれば最近は、檀家の中でも春祈祷を行う家は、減少しつつあると言う。

かって御寺は地域の人々にとって心の拠り所であった。しかし、昨今新築の家は、仏間も神棚もない時代である。しかも、戦後数多くの新興宗教団体が現れた。これは既存の宗教団体の日常活動の怠慢とまでは言わないが、これから先20年30年後、果たして御寺の存在はどうなっているだろうか。甚だ心元ない限りである。やはり御寺も人が集まってくる。或は人を集めることも考えるべきでないかと思う。住職にはそのように話をしたが頷いておられるだけだった。

いづれにしても終了後、家族全員で場所を変え昼食を取り、わが家の絆を確認して散会した。

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(2023/02/11)

ふきのとう

裏庭に ひょっこり膨らむ ふきのとう

わが家の小さな裏庭に、ふくらみ芽吹く「蕗の薹」を見つけた。
例年よりかなり早い。まだ1月19日だ。

これも地球温暖化の影響だろうか。蕗は20数年前秋田の知人から数株譲り受けた「秋田蕗」を移植したもので、普通の蕗よりかなり大きく、民謡「秋田音頭」の歌詞に「雨が降っても、カラ傘など要らぬ、手ごろの蕗の葉ソロりと差して、サッサと出て行かん」とあるように、成長すると茎の高さは1.5m、葉も直径1m以上になる。

それゆえ、芽吹きと言っても直径4㎝{写真}もある。

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(2023/01/19)

2023世界に羽ばたく 薬都とやま大会

国めぐり 山々見ればふるさとの 越の立山 たぐい希なり  山田孝雄

1月11日の県内は、高気圧に覆われて抜けるような青空が広がり、白銀輝く立山連峰の雄姿がくっくりと見えた。それにしても青空に映えるパノラマのはいつ見ても感動する。この風景を見ると富山県人なら誰もが富山県には生まれた喜びと誇りを無意識に感じると思う。そして元気,勇気が湧いてくるような気がする。

その好天気の中、標題の大会が午後2時{一社}富山県薬業連合会主催のもと パレブラン高志会館カルチャーホールで開催された。
第一部式典の冒頭中井敏郎会長は挨拶で、「昨年は、医薬品メーカーによる不祥事があり、多くの方々に迷惑を掛けたことに対し陳謝し、今後この様な事態が再び起こらないよう信頼回復に向け全力で取り組む。
今年の干支は「卯」でありピョンチョン跳ねる前進の年である。しかし、因幡の白兎の例を挙げ、油断大敵であることも話されました。

次いで、優良配置従事者に対する薬事功労者表彰があり、知事表彰3名、薬連会長表彰4名が表彰の栄に浴されました。受賞者を代表し謝辞は知事表彰の左近忠久氏が、来賓祝辞は知事代理の有賀玲子厚生部長が述べられました。
次に、富山市主催の中学生・高校生「薬都とやまアイデアコンテスト」最優秀賞の表彰がありました。これは公募し、多数の個人が応募した中から数名ごとにグループ化してその成果を競うものです。

そして、富山大学薬学部のセミナーを受講したり、薬の製造過程や製薬メーカーや印刷会社の社員から各社の取り組みや課題について勉強し、その成果を発表するコンテストである。
その結果、中学生3人1チーム、高校生4人1チーム計7名が関野孝俊・市商工労働部長より最優秀賞の表彰状が授与されました。
受賞者一人ひとりから感想が述べられ、薬の勉強が出来たことや、今後は薬都のPRに努めたい等々の発言がありました。この様な若年層に対して「くすりの富山」への理解を深める企画は良かったと思いました。

第二部、講演会は京都清水寺・森清範貫主を講師に、演題「言霊」{ことだま}と題し行われました。
1時間の内容を詳細について記すことは出来ませんが、言葉には「力」がある。言葉には「魂」がある。それは「心」から発するからである。
豊富な知識、経験、時々ユーモアを交えての話術。アッという間の1時間でした。

特にロシアのウクライナ侵攻に触れ、かって日本はロシアと戦った。日露戦争である。その時、ロシアの文豪トルストイは明治37年6月ロンドンタイムズに投稿し、日本は殺生をしない仏教国である。片やロシアは人類皆兄弟である。しかも汝の敵を愛せよ。と説くキリスト教ではないか。と投稿し戦争の停止を訴えたという。
又、ユネスコ憲章の前文の冒頭で、「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心に平和の砦を築かなければならない」と宣言していると話され、命の大切さ、尊さを訴えられました。

それを聞きながら、ローマ法王を含め、世界の宗教家が命の大切さ、命の尊さ、そして戦争の愚かさをプーチン大統領に、世界にもっと声を大にして発するべきでないか。私はつくづくそう思った。
講演会終了後、控室で昨年4月滑川での講演会以来の再会を喜び、しばし歓談しました。
新年早々ご多忙の中、日帰りでのご講演に感謝し、会場からお見送りをして別れました。

写真は、白銀輝く立山連峰。大会冒頭挨拶する中井会長。講演の森貫主。

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(2023/01/11)

武道稽古始め

梓弓 春{張る}立つ今朝の心もて 年のひととせ 過ぐしてしかる 
(賀茂すえたか)

恒例の弓道、剣道、柔道、空手の四武道の稽古始めが、1月8日市総合体育館で開催された。私の所属する弓道は体育館内市営弓道場「澄心館」で高校、一般各男女計約40名が参加して行われた。

最初に、山岸光隆市弓道会長から挨拶があり、1年の計は元旦に在り。弓道の元旦は「稽古始め」の今日である。各自はそれぞれの一年間の目標を掲げて練習に励んでもらいたい。

例えば
①大会に出場すること
②昇段審査に挑戦すること
③弓道を通し、弓道を楽しみ、より豊かな人生を過ごす。
など目標を持つ大切さを話されました。

次いで、山岸会長の一手{2本}の矢渡しが行われ、緊張が張り詰めた射場に弦音が響き渡りました。その後、参加者全員が一手をひきました。次に白扇落とし。射割り。風船割りなどが行われ、的中するたびに歓声が上がるなど、日頃では見られない正月ならではの賑やかな風景が展開された。

白扇の扇や射割りの板には髙橋前会長が弓に関する言葉を揮毫して,賞品と共に的中者にその意味を解説して手渡された。私も若かりし時の金的や射割りの板を今も持っている。今回も良き思い出になった事と思う。

最後に私が挨拶し、「1月5日前後の小寒から2月3日の立春までの約1ヶ月が一年で一番寒い時期である。この期間に仏教や神道のような宗教や武道などが行う勤行や稽古を寒修行や寒稽古と言う。寒修行は大岩山日石寺の滝行や神職の水行などがある。武道の稽古始めは寒稽古の期間中ある。つまり、「稽古始め」は技を磨くと言うよりは、精神力を養うことに力点が置かれていると思う。それは一朝一夕に築かれるものではない。鍛錬の「鍛」とは千日の稽古を以て「鍛」とし、万日の稽古を以て「錬」とするが語源であることを話し、地道な努力と目標を持つ大切さを話し」閉会の挨拶としました。

尚、水野市長と上田教育長は競技中会場を訪れ、しばし観戦。山岸会長に激励の言葉をかけ退席された。
他の武道では会場は冷暖房完備と聞く。これでは寒稽古と言ってもピントこない。その点、弓道は28m離れた的に向かって射場から矢を放つ。それ故、射場に冷暖房の入れようがない。私はむしろこの方が良いと思う。凛とした空気や多少の寒暖があってこそ寒稽古であり、武道始めと思う。

写真は、射場風景。射割り{15㎝×15㎝}。風船割り。

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(2023/01/08)

令和5年薬神神社歳旦祭

鮟鱇も わが身の業も 煮ゆるかな  久保田万太郎

1月8日午前9時恒例の薬神神社歳旦祭{主催・薬神神社奉賛会会長石倉雅俊}はいまにも降り出しそうな曇り空の下、旦尾嘉宏宮司のもと厳粛な中にも滞りなく執り行われた。
来賓は水野滑川市長、尾崎市議会議長、大門県議会議員、杉田市商工会議所専務理事、雪島神社総代を始め、配置販売業者、市内製薬会社等関係者約30名出席した。

最初に、宮司の祝詞奏上に次いで石倉会長、顧問の私、石政薬業会長、中屋市薬業青年部長、薬業関係者、来賓等が順次玉串奉奠を行い、商売繁盛、新型コロナの終息など、それぞれの立場で祈願しました。
次いで、石倉会長は挨拶で新型コロナに感染した自らの体験を話し、各位にも健康に気を付けて、新型コロナを克服し業界一丸となってこの困難を乗り越え、お得意様に待ち望まれる業者になろうと呼びかけがありました。

又、水野市長、尾崎市議会議長、大門県議会議員よりそれぞれ市の重要な産業である配置業の更なる発展を願い、支援する旨の発言がありました。尚、今回も時節柄「直会」は中止になりましたが、出席者は久しぶりの再会を喜び、しばし、業界の現状について意見交換をし散会した。

参考まで、水野市長のお父さんは配置販売業者であり{今は故人}、市長の弟さんが後継者となり、現在島根県松江市に現地居住し島根県配置協議会の役員として活躍中です。

薬神神社の祭神は,、神農、少彦名命、大己貴命の3体が合祀されています。
写真は、玉串奉奠する私。

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(2023/01/08)

令和5年迎春

初暦 めくれば月日 流れそむ

新年あけましておめでとうございます。
令和4年{2022}はすでに地平線下に没し、干支も「壬寅」から「癸゚卯」に引き継がれ、月日の流れは暦を刻み始め、ここに輝かしい令和5年{2023}の幕が上がりました。

さて、十二支が「干支」の意味で用いられることがある。しかし、「干支」とは本来「十干十二支」を略した呼び名で、「十干」と「十二支」を組み合わせたもので60通りある。ゆえに今年は「十干」の「癸{き・みずのと}」と「十二支」の「卯{う}」「癸・卯」であり、次は60年後の2083年である。

「十干」は古代中国殷の時代に10日を{一旬}として一旬を構成するそれぞれの日に名前を付けたことで始まったと言われ、その後万物はすべて「陰」と「陽」の二つの要素に分けられる「陰陽説」とすべての物事は「木」「火」「土」「金」「水」の5つの要素からとする「五行説」が結び付き、それぞれの意味を表すようになった。

十干とは、①甲{こう・きのえ}②乙{おつ・きのと}③丙{へい・ひのえ}④丁{てい・ひのと}⑤戊{ぼ・つちのえ}⑥己{き・つちのと}⑦庚{こう・かのえ}⑧辛{しん・かのと}⑨壬{じん・みずのえ}j⑩癸{き・みずのと}の総称で元はⅠから10までを数えるための言葉だった。
「癸」は雨や露、霧など静かで温かい大地を潤す恵みの水を表している。十干の最後にあたる「癸」は生命の終わりを意味するとともに、次の新たな生命が成長し始めている状態を意味している。

又、十二支はご存知の通り①子{ね・ねずみ}②丑{うし}③寅{とら}④卯{う・うさぎ}⑤辰{たつ}⑥巳{み・へび}⑦午{うま}⑧未{ひつじ}⑨申{さる}⑩酉{とり}⑪戊{いぬ}⑫亥{いのしし}である。
十二支には動物の名が充てられているが、これは中国の王充{おういん}という人が、十二支を民衆に浸透させるために動物にして文献に書いたとされます。

「卯」は穏やかなうさぎの様子から安全、温和の意味があります。又、うさぎのように跳ね上がるという意味もあり、卯年は何かと開始するのに縁起が良く、希望に溢れる年になると言われる。
又、毎年、年末に京都清水寺森貫主から干支に因んだ色紙を頂く。昨年末に「玉兎」{たまうさぎ}と揮毫された色紙が贈られてきた。広辞苑によれば、「玉兎」とは歌舞伎舞踊。月から飛び出した兎が影勝団子の所作や狸との立ち回りをみせる。とある。

これらのことなどから、今年の干支「癸・卯」は「これまでの努力が花開き、実り始める年で「飛躍や向上の年」である。この様な思想が日本には6世紀半ば欽明天皇の頃伝わったと言われている。
3年ぶりに年末年始の行動制限が解除になったとはいえ、新型コロナの陽性感染者数も死亡者数も高止まりの傾向である。又、ロシアのウクライナ侵攻も10ヶ月を経過したが、収束の目途がたっていない。
エネルギー、ウクライナ避難民、物価高,地球温暖化、環境問題、加えて日本を取り巻く安全保障など国内外とも問題山積している。

「当たるも八卦当たらぬも八卦」とは言え、今年は是非とも干支のような年でありたいものだ。

参考まで、
60年前、昭和38年。1963年。新千円札が聖徳太子から伊藤博文になる。38豪雪。。NHK大河ドラマ第一回「花の生涯」放送開始。舟木一夫「高校3年生」でデビュー、シングル盤年間100万枚以上売り上げ。坂本九「上を向いて歩こう」「スキヤキ」で米国ヒットチャートビルボードの週間ランキングでⅠ位を獲得。日清食品が世界初の即席そば「日清焼きそば」発売開始。通信衛星による日米間テレビ中継に成功、最初の衛星二ュ―スはケネディ大統領暗殺事件。プロレス力道山赤坂のキャバレーでやくざに刺され死亡。

120年前、明治36年。1903年。大谷光瑞率いる探検隊インドビハール州ラージギル郊外で釈迦の住んでいた霊鷲山を発見。日本初のゴルフ場神戸ゴルフ倶楽部開業。浅草六区に日本初の映画館が開館。早稲田大学野球部と慶応義塾大学野球部初の対抗戦開催{早慶戦の起こり}.ライト兄弟人類初の有人動力飛行に成功。長岡半太郎原子模型の理論を発表。

写真は、わが家の正月風景。

①玄関の小さな門松。
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②床の間(右の掛軸、神農像。左は菅原道真公像。真ん中は百鶴か齢鶴が100羽舞っている。)
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③清水寺森貫主揮毫の「玉兎」の色紙。
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④ダイアモンド富士1日6時52分テレビより。
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(2023/01/01)

北国街道をゆく――絵図に見る江戸時代の新川町・村の姿

ともかくも あなた任せの としの暮  一茶 

江戸時代の滑川の様子を、絵図を通して紹介する企画展が11月12日―12月25日まで市博物館で開催されていた。
又、11月20日鈴木景二富山大学教授による記念講演「道中記に見る北国街道の旅」と題し開催された。
この講演を聞いたあと、12月に入り再度博物館を訪ね展示品を見た。これは東岩瀬{現・富山市}から境関所{現・朝日町}までの加賀領新川地域の宿場町15町村の絵図である。
企画した近藤博物館長は「古文書の展示解説と違い、絵図は分かりやすく、最近ブームの街歩き気分も味わえると思う」と語り,館長自身、絵図に添付する現在地の写真を撮るため,貸自転車なども使って街を歩いたというからこの企画展に込める熱い思いが伝わるような気がした。

さて、パンプレットによれば「絵図とは、一言で表せば現代の地図にあたり、日本では古代中国から絵図が作られ、広く普及したのは江戸時代.幕府が諸大名に命じて作成させた国絵図、町村絵図、旅人たちに利用された街道絵図など、実に多種多様な絵図が存在した。
本展では、北国街道{北陸道}の宿場町として栄えた滑川町・街道沿いの立地のため街場化した高月村など、現在の滑川市域の町村とともに、東岩瀬から境関所までの加賀藩新川地域の宿場町や在郷町など15町村の様子を絵図を通じて紹介します」と記してある。私のような素人は江戸時代の絵図を見ながら、つい私の家は、私の住んでいる町内は、と捜す。残念ながら展示資料で一番新しい滑川町惣絵図は天明3年の{1783}絵図で、この時、堺町{現・加島町2区}は形成されていない。

滑川町誌によれば,堺町の町名は滑川町の境界に位置することに由来し、弘化2年{1845}12月23日の高波で倒壊した山王町の33軒が,翌3年南方の田地を開いて移住した所。とある。
話が横にずれたが、いづれにしても絵図を見ながら町形成の過程がよく理解できる。ただ質問時間がなかった為、消化不良になったのは、3点である。鈴木教授の「道中記に見る北国街道の旅」の中で
①売薬商人の日記が紹介された。元治2年{1865}2月15日の日記で、越後国高田を回商し集金した40両が盗難にあったという。
詳細は省くが40両は現在の価格ではいくらぐらいか。

②江戸時代の参勤交代では加賀藩の大名行列は2千人ー4千人。これが滑川宿に宿泊したという。藩主は本陣に泊まるとしても、旅篭屋は数件しかない。これだけの多数がどこで宿泊したのだろうか。

③主催者に聞けばよいのだが、企画展のテーマは「北国街道をゆく」である。
私は「北陸街道」と思う。北陸自動車、北陸新幹線、北陸線、北陸銀行、富山県は北陸地方である。
確かに石川県では、北国銀行、北国新聞がある。しかし、富山県はやはり北陸と思う。
今回の開催に際し、富山市教育委員会、富山県立図書館、富山大学附属図書館中央図書館、射水市新湊博物館、黒部市歴史民俗資料館、石川県立図書館をはじめ十数か所の協力を得て資料を収集されたのには敬意を表したいと思います。

それにしても、余すところ今年も僅かになった。ロシアのウクライナ侵攻によってエネルギー資源や食糧は大混乱である。日本でも石油等のエネルギー資源や小麦などの食料資源の高騰から物価は軒並み高騰した。日本国憲法が前文で謳う「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼してわれわれの安全と生存を保持しょうと決意した」とある。
国連決議や国際法を公然と無視し、しかも核を保有した国がわが国の周辺にある現実を直視すべきである。でも、とにかく2022年はもう終る。2023年は佳き年であるように願わずにはおれない。                

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(2022/12/23)

「国宝展」

十二月 ひと日ひと日が 消えてゆく

東京国立博物館創立150年記念特別展として、12月11日まで同館で開催中の国宝展を鑑賞した。
同館は明治5年{1872}湯島聖堂の大成殿で開催された博覧会を機に誕生した。その目的は、博覧会を通して日本の近代化を図るとともに、日本の文化を国内外に発信すること。そして急激な改革により、危機的状況にあった文化財を守り、博物館に加え、植物園、動物園、図書館の機能を合わせ持つ総合博物館を目指した壮大なものであった。明治2年5月函館戦争が終わり戊辰戦争は終結した。

明治新政府は直ちに版籍奉還に踏み切り、明治4年廃藩置県、郵便制度導入、明治5年新橋―横浜間鉄道開業、明治6年義務教育制度導入、明治7年江藤新平の佐賀の乱、以後新政府に不満を持つ士族の反乱が相次ぐ。萩の乱、秋月の乱、新風連の乱、そして、明治10年西南戦争と続く。まさに国内は混乱と不安定な時期、しかも膨大な戦費と近代化を推進する為の費用、新たな技術の導入のための外国人技術者招聘など。問題山積の中、政府は近代化、富国強兵へと突き進む。その意志の強さと情熱には驚かざるを得ない。

そんな中、当然何の生産性のない博物館や美術館など大きな反対論が当然沸き起こる。しかしその壁を打ち破ったのは、幕末や維新に欧米諸国に派遣された留学生や遣欧使節団として海外に見聞を広めてきた人々であった。その代表的人物は町田久成である。彼は旧薩摩藩士,慶應元年他の18名と共にイギリスへ留学。のち初代館長となった。明治10年{1877}第一回内国勧業博覧会を全国規模として上野公園で開催し、約8万4千点を展示し、3か月余りの会期中に約45万人が来場したという。第二回は明治14年{1881}上野公園で開催。約33万点を展示し、4か月余りの会期中に約82万人が来場したという。「価値の高いもの」「国民の宝」を後世に残すべきとの熱い思いが多くの反対論の扉を開けたのであろう。

さて、今回の国宝展では150年に積み重ねた約12万点に及ぶ収蔵品の中から国宝89点全てが始めて公開された。第一部では、これらを絵画、書跡、東洋絵画、東洋書跡、法隆寺献納宝物、考古、漆工、刀剣の8分野に分け、150年の歴史を分かりやすく展示してあった。特に私が興味を持ったのは、土佐光信筆、室町時代、永正14年{1517}の「清水寺縁起絵巻・巻中」{重文}である。この絵巻は元々清水寺所蔵の物であった。

それが明治の廃仏毀釈の嵐の中で流出する。以前、清水寺・貫主森清範先生よりその経緯と、現在、東京国立博物館にあることもお聞きしていた。この絵巻物は、清水寺開山から約500年の絵巻物であるが、平成27年{2015}[清水寺平成縁起絵巻」として、開山宝亀9年{778}から平成まで約1200年の絵巻物を10年の歳月をかけ、箱崎睦昌画伯によって全9巻として立派に完成した。

その時、貫主より完成記念として全9巻1か月ほど公開してあり、今後、全巻の公開は中々ないとのことで、清水寺を訪問し、森先生と箱崎画伯から直接解説して頂いた。その時思わず貫主に、国に返還を申し入れればどうですか。と発言したら、笑っておられたのを思い出しました。でも、森貫主の時代に完成されたことの満足感を感じるお顔は忘れることができません。
その流出したそのものを見た時、何とも言えぬ感慨にふけった。

さて、89点の国宝はすべて素晴らしい物で、歴史の教科書で見たものばかりですが数点あげれと言われればなかなか難しい。紙面の関係もあり5点紹介します。いずれも国宝展で購入した図録より転載した。解説は一部抜粋。
縄文時代・弥生時代・飛鳥時代などその時代にこんなに素晴らしい作品を作る技術や美意識、人々は何を幸せと感じ生活していたのだろうか、希望や夢は。家族の愛は。自ら治める自治とはどんな形で存在していたのだろうか。などその時代の背景に思いを馳せ鑑賞して来ました。

参考まで令和4年10月現在、国宝に指定されている美術工芸品は902件ある。東京国立博物館ではその約一割となる89件を所蔵し、日本最大の国宝コレクションを誇る。
尚、富山県には、テーマ博物館として、立山砂防博物館があるが、県立総合博物館がない。ないのは、富山県、愛知県、静岡県の3県である。

写真は、
①清水寺縁起絵巻{重文}室町時代・永正14年{1517}土佐光信筆
清水寺の草創と本尊千手観音の利益を描いた絵巻。全三巻33段の構成は観音が33の姿に変えて衆生を救うという数にちなむ。清水寺ヒノキ舞台。
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②遮光器土偶・縄文時代
教科書でお馴染みの土器。極端にデイフォルメされた身体表現と装飾が調和した縄文時代を代表する土器。
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③篇平紐式銅鐸・弥生時代
卓越する特徴は豊かな身を飾る豊かな絵画。
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④龍首水瓶・飛鳥時代
器形に竜をかたどり文様に四頭の有翼馬を配した卓抜な意匠。聖徳太子ゆかりの宝器と言われる。
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⑤自在龍置物・江戸時代
鉄鍛造による150以上のパーツから構成される。首、胴体、尾は自在に屈曲し、頭や手足も可動する。135㎝の大きさながらバランスのとれた姿など完成度は極めて高い。
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(2022/12/01)

山中温泉

ハァー 忘れしゃんすな 山中道を 東ゃ松山 西ゃ薬師
ハァー 送りましょうか 送られましょうか せめて二夫の橋までも

ご存知、民謡の名曲「山中節」の一節である。この哀調を帯びた名曲のふるさと「山中温泉」に一晩久しぶりに宿泊した。従来は、北陸自動車のICに近い、片山津、粟津,山代等の温泉に宿泊し、山中温泉は地理的にどうしても遠方との思いがあった。
その中で今回「山中」を選んだのは、鶴仙{かくせん}渓谷の紅葉がまだ見頃との情報が入ったからである。

それにしても、「山中」は以外に近かった。従来の「加賀」ICが「加賀・山中」と標識が変更になっていた。不思議に思いながら下車するとそこからは立派なバイパス道路が「山中」へ向かって開通していた。なるほど、これならIC名を変更したのも理解できる。時雨模様の天候であったが順調にホテルに到着した。

翌日は幸いにも雨は上がっていた。山中温泉周辺には、見所が沢山ある。俳聖松尾芭蕉が奥の細道紀行の折、この地に1週間余り滞在したことによる「芭蕉の館」、女優・森光子に関する記念館,総湯などがあるが、時間の関係上今回は「鶴仙渓」遊歩道を「こおろぎ橋」から「黒岩橋」まで約1㎞を散策した。

雨上がりのため、落ち葉に足を掬われないよう、かつ、アップ・ダウンの激しい狭い遊歩道を、手すりにつかまり乍ら1時間余りをかけ散策した。渓谷というだけあって、私達が想像する渓谷よりも小さいし川幅も狭い。でも立派な渓谷でありV字峡である。そのV字の底を歩いている訳で、足元の落ち葉を踏みしめながら、対岸の景色が目に入る。

又、頭上を仰いでも、黄色、赤、緑、情報通りまだ紅葉は胸を張って、私の足を度々止めた。途中京都鴨川を連想させる「川床」の風情も一幅の趣を持って楽しんだ。限られた時間であったが晩秋のひと時を過ごした。
山中温泉――歴史は古く、今から約1300年前奈良時代の高僧行基が発見したと伝えられる。行基は丸太に薬師仏を刻んだ祠を造り、温泉のお守りとした。多くの人が「山中」を訪ね、その湯で病を癒したとされる。

鶴仙渓―――山中温泉にある渓谷。大聖寺川の中流にあり「こおろぎ橋」から「黒岩橋」に至るまでの約1㎞の区間を指す。
砂岩の浸食によって数多くの奇岩が見られる景勝地であり、南北に長い山中温泉の東側を並行し、温泉客の散策地として人気が高い。
鶴仙渓は明治時代の書家・日下部鳴鶴 が好んだ渓谷に由来していると言う。奇岩としては、烏帽子岩、蛙岩、弁慶岩等ある。
写真は、鶴仙渓、こおろぎ橋、川床。

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(2022/11/15)

晩秋の称名滝

初雪の 高嶺を裂きてみ空より 紅葉の中に落つる 大滝 
昭和11年秋 川合玉堂

全国的に人気スポットの一つである、称名滝を11月7日{月}久しぶりに知人と訪ねた。当日は暦の上では立冬であったが、冬は名のみので、抜けるような青空に、雲一つない快晴であった。
標記の一首は、明治、大正、昭和の文人墨客の一人であり文化勲章受賞者の川合玉堂の歌である。

彼は、昭和11年11月4日当時の中新川郡滑川町曲渕の赤間徳寿氏{元・衆議院議員、初代滑川市長}宅に投宿、翌朝「時雨さす、加積の里に一夜寝て、今朝立山に仰ぐ初雪」と詠み、称名滝へ向かった。{歌碑は現在赤間邸中庭にある}、標記の歌碑は八郎坂へ向かう「ひりゅう橋」の袂にある。

それにしても、日本語は美しい。文部省唱歌に紅葉{もみじ}明治44年がある。
「秋の夕日に照る山もみじ、濃いも薄いも数ある中で、松を彩る楓や蔦は、山のふもとの裾模様」
正に一幅の風景を思い浮かべる。こんな美しい言葉を多国語ではどう表現するするのだろうか。やはり日本語に勝る繊細な美意識を表わす言語はないと思う。

さて、最初に現れたのは称名川左岸の「悪城{あくしろ}の壁」は見ごたえがあった。次いで、川合玉堂の歌碑を見て、滝壷に向い、橋から眺める男性的で雄大な瀑布には毎度のことながら圧倒される。滝しぶきを浴びながら暫し見とれていた。
残念ながら落差500mのハンノキ滝は水枯れで落下していなかった。日光華厳の滝、那智の大滝など多くの滝を見てきているが、滝壷近くで眺める称名滝は圧巻である。紅葉は盛りを多少過ぎたとは言え、まだ見どころはあり、しかも青空にV字の渓谷に落下する大瀑布、緑の木々の中にまだまだ残る落葉樹の鮮やかな彩り。
当日は平日だったこともあり県外ナンバーの車も、観光客も以外に少なかった。以前、NHKの番組で冬の凍結したハンノキ滝を登攀した番組や、称名滝を登り称名峡谷を探検した番組が報道されたことがあったが、いろんな冒険家がいることに驚いたことがあった。昼食は近くの山菜専門店で舌鼓を打ち大満足の晩秋のひと時であった。

ここで称名滝とハンノキ滝について記す。
称名滝
立山にその源を発する称名川の流れが立山の大噴火による溶結凝灰岩をV字型に150mも深く侵蝕した称名廊下の末端から落下する大瀑布である。この滝は4段に分かれ、第一段は40m、第二段は58m、第三段は96m、第四段は126m、これが連続して一条の滝となり、最上部の爆流落差30mを含め、その全落差は350mを有している。
又、直径約60m、水深6mの滝壷に落下する水は凄まじい自然の力を誇示している。称名滝を含む称名峡谷は、自然景観に優れ、学術的価値も高く、又保護すべきものとして、国の名勝及び天然記念物に指定されている。

ハンノキ滝
雪解け水や雨の多い時だけ称名滝の右側に現れる滝。見られる時期が限られているため、幻の滝とも言われその為、正式に滝には認定されていない。落ち口は称名滝より高く、落差500mは季節によっては日本一と呼ばれる。

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(2022/11/08)

「長岡すみ子の会」45周年

民謡歌手長岡すみ子さん主宰の「長岡すみ子の会」創立45周年記念公演会・民謡唄と踊りの祭典「和のこころ,唄いつがれて」が10月30日{日}午後1時より、黒部市国際センターコラーレで約600名の観衆のもと盛大に開催された。

実は、私の妻と長岡さんが滑川高校時代の同級生であることから、以前より親しくお付き合いをさせて頂いだき、今回も二人揃って招待を受け鑑賞して来ました。黒部市は長岡さんの出身地で、冒頭の挨拶で「いろいろな困難を全員が一丸となって乗り越えてきた。生まれ故郷での節目のステージであり感動しています。
又、民謡を先輩から私が、そして後輩へ引き継いでゆくのが使命」と話されました。多分、タイトルの「和のこころ,唄いつがれて」にはそんな思いが込められていたのだろうと思います。

出演者は約80人の大勢で、唄や演奏、華やかな踊りなど、舞台狭しと繰り広げられました。ゲストとして、長岡さんの師である民謡加賀山流家元・加賀山昭さん、娘の紋さん、また、「はぐれコキリコ」がヒットした歌手成世昌平さんが出演。さすがプロの歌声に感嘆。
全部で5部構成、小学生らのステージを皮切りに「民謡おはこ集」では2019年度、民謡民舞全国大会で優勝し内閣総理大臣賞を受賞した中村優さんが受賞曲「布施谷節」を歌い、会場内に美声が響き渡りその歌声に暫しウットリしました。まさに長岡さんが育てた立派な後継者だと思います。

又、長岡さんは、本年7月9日北海道釧路市生涯学習センターで、主催・富山釧根文化交流民謡まつり実行委員会。釧路市、同教育委員会、釧路富山県人会、根室富山県人会、長岡すみ子の会などが共催し「富山・釧根文化交流民謡まつり」を開催し大好評を博しました。
このまつりの世話人の一人である釧路市の歯科医の方が「越中おはら節」に心を打たれ、数年前わざわざ釧路から長岡さんに習いに来られたのが、今回のまつりに繋がったエピソードも披露されました。今回は、釧路から多数来場され「釧路川筏井流し」が歌われました。又、幕あいに、黒部市「沓掛獅子舞い」が舞われました。滑川では見れない迫力のある獅子舞いでした。最後のコーナーは長岡すみ子の世界として、地元生地地区の「じばんば」を皮切りに朝日町の「大家庄田植え祝い唄」また長岡さんの父が好きだった「秋田おわら節」オリジナル曲「人生だからおもしろい」など「すみこ節」で7曲を謳いあげ、フィナーレは出演者全員で「とやまいきいき音頭」で締めくくった。

まさに、「民謡は心のふるさと」の言葉通り、民謡にたっぷり浸り、十二分に酔いしれた3時間40分であった。それにしても45年よく頑張って来られたと敬意を表したいと思います。富山県と縁の深い北海道との文化交流、県内では毎年チャリティーショーを開催し福祉の分野に寄付をし社会貢献活動を続けておられる「長岡すみ子の会」の45年、それは50年に向けての一通過点であり、更なる活躍を期待し長岡さんと別れを惜しみ会場をあとにした。

写真は、熱唱する長岡さん。ゲストの成世昌平さんと。民謡日本一の中村優さん。

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(2022/10/31)

令和4年度 滑高文化部発表会・芸術鑑賞会 ―最高の笑顔をもう一度ー

10月27日{木}~28日{金}の2日間に亘り恒例の滑川高校生徒会主催による標記の催しが開催された。
これは生徒たちの一年間の課外授業の集大成としての発表会と年に一度、本物の芸術に触れる機会としての芸術鑑賞会である。芸術鑑賞会は音楽・演劇・日本伝統芸能を3年に一度の順で、一昨年は音楽、昨年は演劇、今年は日本伝統芸能で生徒諸君には3年間で一通りの鑑賞が出来るようになっている。

10月27日は芸術鑑賞会で、今年は「狂言」である。
三宅狂言会―和泉流の名家・三宅家.主宰である三宅右近を中心に、その子息である狂言会のプリンス右矩、近成、そして実力派として注目の高沢祐介と三宅家のお弟子達で構成された狂言会。
学校公演は影向舎と共に1985年から展開、現在では年間80ー100ステージを誇り実績、評判ともに業界随一。国内での活動はもとより海外実績も多く、その活動は多岐にわたっている。{パンフレットより}
        
私は都合で鑑賞出来なかったが、本場の芸能を生で鑑賞出来た生徒諸君には好評であったと言う。会場は黒部市国際文化センター「コラーレ」で、全生徒600名は15台のバスを連ねての移動である。本来なら、市内であるべきだが残念ながら本市にはその様な施設が無いから止むを得ないのであろう。

10月28日 文化部発表会
ステージ発表{全体鑑賞}と生徒諸君の企画展示とステージ発表{いづれも自由鑑賞}など多彩な内容である。全体鑑賞は体育館で音楽部・吹奏楽部・薬業科・海洋科の課外活動の成果発表である。音楽部は澄みきった歌声での合唱で、アンコールでは3年生2名も加わり、心を一つにした歌声だった。

吹奏楽部ーー迫力ある演奏でした。コロナ禍で練習も思う様に出来なかった、昨年、一昨年などと違い、日ごろの練習の成果を発表する機会があることはそれなりの目標を持つことが出来るし、練習にも力が入った事と思う。いづれにしても生徒諸君の真剣な眼差しが印象的だった。

薬業科の発表は、「お米の力を借りてみん米け」をテーマにして薬業科の生徒が研究・開発した、米ぬかから「ガンマ―・オリザノール」を抽出して「ヘアーオイル」を作るのである。今年は一昨年作った「日焼け止めクリーム」」を改良した新商品として作られた。この製造過程をスライドを使って紹介された。
尚、県の高校工業技術コンテストに昨年は「水に流さなくてもよい手洗い石鹸」で優秀賞、一昨年は「日焼け止めクリーム」で最優秀賞を受章している。来年1月のコンテストに向けて、現在準備中とのことです。来年のコンテストが楽しみです。

海洋科の発表は、「おいしーら富山おでん」ーサンぺイ活性化プロジェクトーと題し富山の低利用魚であるサンぺイ{1㎏未満のシイラ}を使った缶詰製作プロジェクトとして発表された。これは富山県民は余り口にしないシイラを活用して、シイラをすり身にしておでんの具材の一つとして缶詰を作ったのである。その製造過程をスライドを使って紹介された。その発想力の豊かさに感心する。
以前、サバ缶やカニ缶も製造したが全て売り切れで在庫はないと言う。私も是非一度食べてみたいと思う。

会場の体育館には保護者の出席や9月の体育大会で生徒が作った各団の名称である縦・横約5m位の「白虎」「青龍」「朱雀」が掲げられ会場の雰囲気を盛り上げていた。
又、商業科は10月29日付け北日本新聞22面でも大きく報道された通り、商業科の模擬株式会社「滑商」が、黒部市の小桜精肉店の協力を得て、黒部名水ポークを使った肉まんを考案した。28日校内で150個限定で販売したところ生徒らが列をつくってあっという間に完売したという。残念ながら私の口には入らなかった。肉まんは直経約10㎝と大きめ、通常の肉まんと差別化を図るため皮をピンク色にし具材を多めにしてボリューム感を出したという。
29日から北陸自動車道有磯海サービスエリア上り線{滑川市栗山}のフードコートで販売開始され、黒部市内の道の駅などでも順次販売する予定という。社長の野口彩花さん{3年}は北日本新聞のインタビューに「県外の人にも旅のお供として味わってほしい」と話している。

それにしても、普通科には発表の機会はないが、生徒は音楽部や吹奏楽部の部員で活躍し、職業科の生徒は職業科でなければ出来ない課外活動を発表し、しかも生徒諸君の生き生きとした姿に、高校時代の青春を謳歌していることを実感した。
学生時代を懐かしく思うとともに、やはり若いとは、うらやましい限りである。

写真は、会場に掲げられた「白虎」「青龍」「朱雀」。音楽部・吹奏楽部の発表。

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(2022/10/29)

谷内正太郎氏特別講演会

「激震が走る国際秩序と日本の進路」
予断を許さない国際情勢を読み解く・・・ロシアのウクライナ侵攻!日米中関係!

の演題で、10月21日{金}西地区コミュニティセンターで午後2時から開催されました。
氏の豊富な経験から内容は多岐にわたり予定時間を15分オーバーする1時間45分に及ぶ内容の濃いものでした。当日はコロナ感染防止対策として定員100人と限定されていましたが、もったいないような講師でした。
この講師は今家英明商工会議所会頭の尽力で実現したとのことでした。

講演内容は多岐にわたり{当日配布資料より}
1、最近の国際情勢 
 ①分断、対立、混迷
 ②グローバリゼーションの後退 
 ③利己的ナショナリズムの噴出
 ④グローバル・ガバナンスの劣化

2、国際社会の課題
{1}米中対立
 ①中国の台頭
 ②米国の国力、国際的地位の相対的低下
 ③覇権争い
{2}パンデミック
 ①自国対応優先
 ②民主主義か権威主義か
{3}グリーン、デジタル、経済安全保障
{4}中東からインド太平洋へ
{5}ロシアのウクライナ侵攻

3,ウクライナの教訓
{1}パワーポリティックスの実現
{2}戦後国際秩序の挑戦
{3} 防衛力のあり方{自助努力と同盟体制}
{4} 国連の限界
{5}「核」への対処
{6}情報・宣伝戦、ハイブリット戦

4 日本の進路
 {1} 湾岸戦争{1991,1}から約30年
 {2} 国際社会での日本の立ち位置
 {3}何をなすべきか?
 {4}日本の外交・安保政策の基本
 {5}防衛力の強化

これに基づいて講演されましたが、詳細に記すには限界がありますので、会場での私の質問と回答の概略を記します。
Q、ロシアはウクライナの4州を一方的に併合し、世界的に孤立している。かって日本は昭和7年満州国を承認した。当時の国際連盟などから不承認となり、孤立化する中、昭和8年国際連盟を脱退した。ロシアの国連脱退は?
A、ないと思う。国連に入っていることでのメリットが大きい。

Q、北方領土について
安倍・プーチン時代は20数回も会談を重ね、ひよっとすると返還もあるかと淡い期待を持った。しかし、今の日・ロの関係は最悪である。
私の勝手な考えだが、この際プーチン大統領はウクライナ戦争で失脚し、国内では内乱状態の時に奪取するようでないと無理でないか
A、安倍さんは人間の信頼関係で打開しようと思っていたと思うが、晩年は、プーチン大統領はその様な人間でないことが分かって来ていたと思う。
中々難しい問題だが、外交とはいつ、どの様なことが起きるか分からない。今後とも粘り強く外交努力を続けるしかない。

Q、韓国について
前回の大統領選挙で僅差で敗れた李在明氏は韓国最大野党「共に民主党」の党首であり、去る10月7日党会議で日本は「韓国を武力で支配した国」である以上「歴史について真摯に反省、謝罪すべき」又、日米韓の合同軍事演習は「日本の軍事大国化を支える」と主張し中止を求めている。この人が次期大統領選挙で勝利する可能性があると言われている。この国をどう思うか。
A、李氏の発言は理解できない発言であきれている。無視してもよいと思うが、国内では一定の反日グループがいるのも事実。しかし、今の伊大統領は日本との関係を修復しようと努力しているし隣国である。日韓友好に双方が努力しなければならない。

Q、中国について
中国は第20回党大会で、習近平氏は領土・主権は一切譲歩せず、祖国統一を実現させるとし、そのため武力の行使は排除しない。と述べている
中国は今回のロシアのウクライナ侵攻を何故苦戦しているか。NATO加盟国でもないウクライナを何故米国やEUが支援しているのかなどから、多くの教訓を分析していると思う。
私は、武力での台湾侵攻はあると思う。台湾有事は日本有事でもある。日米安保条約では尖閣諸島は防衛の対象となっていると米国は言うが、果たしてどうか。米国国民から見れば、世界地図でどこにあるのかも分からず、しかも無人島である。そんな島の防衛に米国民は血を流すだろうか。そして、わが国民はウクライナのように政府と国民は一体になれるだろうか。私は残念ながら疑問に思う。
A、中国の外交戦略は息の長いもので、当面は情報・宣伝戦・ハイブリット戦や内乱状態を引き起こすなどはするだろうが、直ちに武力行使はないと思う。

Q、移民・難民の受け入れについて
現在、我が国には例えば100万人{もっと多いが}以上の外国人がいるが、日本に3年住めば、祖国から家族や友人・知人に日本へくることを勧めるという。現在、我が国の合計特殊出生率は1.3であるが、外国人の移住が進めばこの率が3になるという。数学者によれば、100年後には1千万人。200年後には1億人になるという。その時、日本人の数は,想像するだけでゾッとする。私は、移民受け入れに反対する者ではないがルールが必要でないか。
A、在日外国人の中でも,反日感情を持って帰国する人もいるから、必ずしもそうなるとは限らないがその懸念はある。やはり国として何らかのルールは必要と思う。

以上が概略である。
又、谷内氏は、外交と防衛は車の両輪で経済力はエンジンである。ウクライナは8か月も戦いを続けている。
日本はこれほどの長期間果して戦い続けれるだろうか。その為にも、強靭で持続可能な経済力を持つことが経戦能力に繋がる。と共に,血を流しても領土・主権を守る覚悟が問われる。
そして、日本人は自分が武器を持たなければ相手は攻めてこないと思っている。しかし、今回のロシアのウクライナ侵攻で、はっきりと分かったことは国際法を全く無視し、核を持っている国が持っていない国に堂々と侵攻してくること。
国連が機能していないいないことが現実であることがよく分かったことである。同感である。有事のことは有事で議論しても遅い。平時の時にこそ議論すべきと思う。

谷内正太郎氏のプロフィール                                   
1944年生まれ、富山県出身。1969年3月東京大学大学院法学政治学研究科修士課程終了。同年4月外務省入省。数々の役職を経て、99年より条約局長。その後、総合外交政策局長、内閣官房副長官補をて2005年より外務事務次官。08年外務省退職後、09年から政府代表、外務省顧問、内閣官房参与を務めた後、14年から19年9月まで初代国家安全保障局長兼内閣特別顧問{国家安全保障担当}として外交・安全保障分野で政権を支えた。20年4月に富士通フュ-チャ―スタディーズ・センター理事長に就任。
写真は、控室での私と講演中の谷内正太郎氏。

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(2022/10/22)

酒蔵アート㏌なめりかわ 2022

山の水 汲むとき正面 ぜんぶ秋  {八木忠栄}

芸術の秋にふさわしく 各地で美術展などが開催されている。滑川市においても10月に入り、東福寺野自然公園研修センター・青雲閣で10か国13人の画家や版画家の「とやま国際アートキャンプ2022」や市美術展が開催された。

引き続き、「ぼんぼこさ」と「有隣庵」{いづれも国登録有形文化財}の二会場で標記の美術展が開催された。
展示内容は、
写真・大志摩洋一氏。彫刻・田中郁聡氏。陶芸・五島彰二氏、宮内尚惠氏。
木工・蜷川渉氏、裂織・野村順子氏。造形・手操明子氏、三隅摩里子、三宅寛享氏。
華・小船井美千代氏、前佛明泉氏。書・阿波加蒼岳氏、大愛魚苑氏、鈴木孤雲氏。
絵画・西方哲成氏、坪川華乃氏、橋本文良氏、水野利詩恵氏、綿屋偵以氏。
インスタレーション・neutral/production・若林斉氏。

これに加えて「とやま国際アートキャンプ2022」に参加した海外作家の小品展も同時開催された。
又、期間中に「アーティストトーク」や「ワークショップ」、「苔テラリウム」、そして、ライブ・水の都楽団、など多彩な内容でした。
古民家を今回はミニ美術館として活用し9回目という。関係者の話では来年は10周年の節目として、心はもう10周年の企画に思いを馳せておられるのには驚いたし、この様な方々のお陰で身近な所で芸術に触れる機会があることに感謝し会場を後にした。

写真は、阿波加蒼岳氏の書3点。鈴木孤雲氏の6曲1双の屏風。絵画・西方哲成氏のWHO・ARE//YOUなど。

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(2022/10/16)

五か所めぐり 其の二

9月28日
魚料理の「民宿」を9時20分出発。約10分ほどで、かほく市出身の哲学者、西田幾多郎記念哲学館に到着。

④西田幾多郎記念哲学館
建物は平成14年建築家・安藤忠雄氏が設計し、石川県が建設。管理運営は、かほく市である。私のような者には、「哲学」と言われてもピンとこない。パンフレットによれば、

「哲学とは、「知ることを愛する」ということ。それは、情報を増やすことではありません。
哲学は、自ら、迷い、考え、真実を追い求めることです。すぐに分かる必要はありません。
哲学は、ひとことで言いあらわすこともできません。
自分で歩き、立ち止まり、また来た道を戻ってください。
すぐに答えを求めず、考えながら、ゆっくりと。」

と書いてあります。

その為か、建物の内部はまるで迷路{ラピリンス}のように入り組み、来館者は、そこで迷い、行き先を自ら考えることになります。どうか「迷い、考えること」をお楽しみにください。とも書いてある。
館内は、1F展示室1「哲学へのいざない」2F展示室「西田幾多郎の世界」B1F展示室「西田幾多郎の書」これに、「空の庭」として「四角に切られた空からは、雨の日には雨が降り注ぎ、雪の日には雪が降り積もる。四方を直線の壁にかこまれ、地下から空にだけ開かれた何もない思索の空間です」とある。凡人の私にはわかったようで分からない。やはり何度もこの哲学館に足を運ばなければ理解できないのかもしれない。

尚、1974年住む者がいなくなった京都の西田邸が取り壊されるにあたり、書斎「骨清窟」だけが、かほく市の哲学館の敷地内に修復され移築されている。
又、西田とともに明治3年に生まれ、金沢の第四高等中学校で知り合い、生涯を通して親友となった「鈴木大拙」がいる。西田は1945年75歳で鈴木は1966年95歳でその生涯を終えた。

⑤曹洞宗 大本山總持寺祖院 輪島市門前町1-18-1
「元々は諸嶽山總持寺と言い、今から約700年前、元亨元年{1321}瑩山禅師によって開創されました。翌元亨2年夏、禅師に帰依された後醍醐天皇は綸旨を下され、總持寺を勅願所として、「曹洞賜紫出世第一の道場」と定められました。
その後、寺運益々隆盛を極め、全国に末寺1万6千余を数えるに至りましたが、明治31年4月13日不幸にして災禍により七堂伽藍の大部分を焼失しました。

これを機に、布教伝道の中心を神奈川県横浜市鶴見に移しました。当時は、祖廟として次々に堂宇再建され、山内約2万坪の境内には焼失を免れた伝燈院、慈雲閣、経蔵などのほかに七堂伽藍も再建され、今なお山水古木と調和し、風光幽玄な曹洞宗大本山の面影をしのばせ、一大聖地として現在に至っています」パンプレットより抜粋。

鶴見に移転当時、門前町の空洞化を心配して多くの人々が反対したという。又、平成19年の能登半島地震で、山門、法堂を始め、多くの伽藍が被災したが昨年復興大法要が営なわれ見事に蘇った。又、總持寺二尊と言えば,大祖瑩山禅師と二祖峨山禅師ですが,、峨山禅師の五哲の一人である大徹宗令が上市町眼目の眼目山立山寺の開祖である。この立山寺の分家が滑川市追分の海恵寺であり滑川市四間町の徳城寺である。輪島市内で昼食後一路滑川へ安着した。いづれにしても、神社仏閣、美術館、哲学館など中身の濃い一泊二日の旅であった。 

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(2022/09/29)

5カ所巡り 其の一

こおろぎや あかつき近き 声の張り  内田百間

9月27日{火}ー28日{水}友人・知人5人で一泊2日の研修旅行と銘打って、バラエティーに富んだ5ヶ所を巡った。

9月27日
①県立水墨美術館 山本春挙展
京都画壇を代表する画家・山本春挙{1872ー1933、滋賀県出身}は,,円山四条派を学び、その影響を受けながら雄大な風景に代表される独自の画風を確立し、円山派の写生をふまえた華麗で壮大な風景画を数多く生み出しました。文展や帝展、国内外の博覧会などで活躍し、その多くが宮内庁御用画となり、明治天皇もファンであったといいます。
明治から昭和にかけて、竹内栖鳳とともに京都画壇の二大勢力となり、近代化に貢献しました。今回の企画展は、生誕150年を記念し、伝統的な写生画の流れをくみながらも洋画の写実主義に心を寄せ、日本画の近代化と真正面から向き合った一人の画家の表現世界とその画業を見つめ直す。とありました。特に、数多くの屏風が展示されていましたが、「雪松図」の六曲二双は圧巻でした。又、黒部川の猿飛峡を描いた「黒部写生」見事でした。

②埴生護国八幡宮 主神 八幡大神
社名 「護国」とは、江戸時代の初め慶長年間に当地方に凶作が続き、庶民の生活が苦しかったので、前田利長公が当社に豊作を祈願されたところ,霊験いちじるしく、この尊号を奉ったことによる。
由緒 木曽義仲の祈願社として知られる古社である。宮縁起によれば、奈良時代養老年間に宇佐八幡宮の御分霊を勧請{お迎え}したのに始まり、天平時代に越中の国守大伴家持が祈願したと伝えられる。平安時代後期に、埴生の地は石清水八幡宮の荘園であった。
平安時代の末、寿永二年{1183}5月、木曽義仲は埴生に陣をとり、倶利伽羅山に二倍の軍勢を布く平維盛の大軍と決戦するに当り、当社に祈願をこめ、いちじるしい霊験あった。
このことは、平家物語、源平盛衰記、謡曲木曽など、多くの古典文学の中に語られている。戦国時代には、武門、武将が篤い信仰を寄せ、武田信玄、佐々成政、遊佐慶親などの祈願や社領の寄進が続いた。

「本殿」は慶長5年{1600}前田利長公が大聖寺へ出陣の際、祈願あり、御帰陣の後、寄進。
「釣殿」は慶長16年{1611}前田利長公が高岡在城の折、病気平癒を祈願して寄進。
「拝殿」「幣殿」は元和8年{1622}に前田利常公夫人天徳院の産後平癒祈願のため改造寄進を約し、正保3年{1646}完成。いづれも国指定重要文化財。パンフレットより抜粋。
尚、宮司の埴生さんとは知人の関係で社務所の中で詳細に説明を頂いた。

③高野山真言宗 別格本山 倶利伽羅山 不動寺
倶利伽羅峠を越えた山頂付近に山頂本堂がある。ここからが石川県である。
縁起 今から約1300年前、インドの高僧善無畏三蔵法師によって開かれた全国でも珍しいお姿の倶利伽羅不動明王を御本尊とする古刹寺院で日本三不動の一つに数えられています。源平倶利伽羅峠の合戦場になったことから、歴史と文化を感じながら古くからの信仰に豊かな自然の中で触れていくことができ、しかも、石川・富山の県境に位置し、倶利伽羅山から望む立山連峰と砺波平野の景観がとても素晴らしい。パンフレットより抜粋。
この日は、かほく市の魚料理民宿に宿泊し食べきれない魚料理に大満足し英気を養う。

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(2022/09/29)

鉄道開業150年記念

汽笛一声新橋を はやわが汽車は はなれたり・・・・・・

1872年{明治5}10月14日日本最初の鉄道が新橋ー横浜間に開業してから今年で150年を迎えた。それを記念して企画展が旧新橋停車場・鉄道歴史展示館で11月6日まで開催されており、私は9月21日上京の折、見学した。

この建物は、日本最初の鉄道ターミナル新橋停車場の駅舎の外観を、当時と同じ位置に出来るだけ忠実に再現されたものです。アメリカ人R・Pブリジエンスの設計による木骨石張りの構造で、1872年{明治4}5月に着工、同年12月に完成し、西洋建築がまだ珍しかった時代の東京で、開業直後に西洋風に整備された銀座通りに向かって、偉容を誇っていたという。
1914年{大正3}、新設の東京駅に旅客ターミナルの機能が移り、それまでの烏森駅が新橋の名を引き継いで現在の新橋駅となり、貨物専用駅となった旧駅は汐留駅と改称、物流の大拠点として戦前戦後を通じて東京の経済活動を支えていた。

文明開化の象徴として親しまれた旧駅舎は、1923年{大正12}9月1日の関東大震災で火災のため焼失。1934年{昭和9}から始まった汐留駅改良工事のため、残存していたプラットホームや構内の諸施設も解体された。1986年{昭和61}汐留駅はその使命を終えて廃止され、跡地の再開発工事に先立つ埋蔵文化財の発掘調査が1991年{平成3}から行われた結果、旧新橋停車場駅舎とプラットホームなどの構内の諸施設の礎石が発掘された。
それ故、開業当時の駅舎の実物は現存しないが、遺構が良好な状態で発掘されたので、それを現地に埋め戻し、復元駅舎をその真上に建設された。外観は、当時の鮮明な写真、駅舎基礎などの信頼性の高い資料が残っており、これを基に可能な限り正確に再現された。更に、埋め戻された遺構の保存箇所が見えるように、駅舎基礎石、プラットホームの一部など4箇所の見学窓を設置するなど工夫して公開されていた。

処で、明治維新の時期世界各地に新しい波が押し寄せ、それが日本にも及ぶ。1869年{明治2}5月18日箱館五稜郭の戦いで戊辰戦争は終った。以後新政府は近代国家建設へと凄まじいエネルギーで突き進んでいく。1870年{明治3}最初に必要なのは、通信と交通のインフラ整備と考え、まず連絡が出来て、それに至る物流の道をつくること計画。前島密をイギリスに派遣。帰国後1871年{明治4}郵便制度をスタート。

そして1870年{明治3}新政府は鉄道計画を立て、さっそく測量に取り掛かり、芝汐留から横浜野毛山に至る区間の工事が始まる。一方、イギリスから四輪連結の水槽付機関車八輌と炭火車付機関車二輌を購入した。そして、1872年{明治5}10月14日新橋ー横浜間の開業式が行われた。この日は明治天皇の行幸も仰ぎ,自ら乗車になって横浜へ赴かれ、文明開化のお手本を示されたという。

しかし、明治元年から10年間だけを見ても実に多くの制度や法律を制定し、武士の時代から、近代国家へと転身をはかる。例えば、明治元年には江戸を東京と改称。明治2年版籍奉還。明治3年工部省設置。明治4年郵便制度スタート、廃藩置県断行、岩倉使節団欧米に派遣。明治5年陸・海軍省設置、富岡市に官営製糸場開業、6歳以上の子供に義務教育制度導入、横浜でガス燈点灯、太陽暦を採用し12月3日を明治6年1月1日とする。
明治6年徴兵制公布、内務省設置、地租改正で土地所有者に納税義務。明治7年東京警視庁設置、屯田兵北海道開拓、佐賀の乱。明治8年樺太・千島交換条約締結、樺太はロシア領、千島は日本領となる。明治9年帯刀禁止令公布。明治10年東京大学設立、西南戦争。明治11年東京証券取引所開設、東京で電燈が点灯。これ以外にあげればきりがない。

まさに、矢継ぎ早に新政策を打ち出していく。しかし、内に在っては慶應4年鳥羽伏見の戦い、上野戦争、北越長岡戦争、会津戦争、箱館戦争、やっと一息ついたと思いきや、明治7年佐賀の乱、次いで、神風連の乱、萩の乱、秋月の乱、最後に西南戦争である。
これらに費やした膨大な経費は何処から調達したか.人材難は政府と戦った幕府軍から有為な人材を登用したが外国人の技術者招聘等の費用、結局はイギリスなどからの借金である。新橋停車場の設計もアメリカ人である。

特に感心するのは、北陸銀行の前身が第12国立銀行として明治10年{1877年}8月26日設立された。この年の9月24日西郷隆盛が鹿児島の城山で自刃し西南戦争が終わったのである。
まさに国内が内乱状態の中で、当時の加賀前田家から資本金20万円のうち14万円、現在の貨幣価値で約100億円に相当する出資をし、その他は売薬人等の出資を得て第12国立銀行が設立され、全国に広がっていく。翌11年東京証券取引所が設立される。
この様な混乱時でも近代化を押し進めていく。そこに驚かざるを得ない。去る9月23日西九州新幹線が武雄温泉{佐賀県}から長崎まで開業した。整備計画のうち長崎県の一部区間は整備方式が決まらず着工の見通しが立っていない。リニア新幹線も静岡県内で工事が着工出来ない場所がある。
社会が未成熟でかつ国民の知的レベルが低い時代や革命後の混乱した状態、あるいは独裁国家などでは大胆な発想でも案外簡単に実行できる。しかし、民主主義が成熟した国家などでは「公」より「個」が重んじられる。、時間がかかるのは止むを得ないことだが残念な気もする。

いづれにしても、150年前、明治の先人は中央集権国家、富国強兵、そして近代国家建設へと駆り立てた情熱の理由は何だったのだろうか。その背景を想像しながらの1時間半でした。
旧新橋停車場はJR新橋駅「銀座口」から徒歩5分。
写真は、復元された旧新橋停車場正面玄関。明治5年当時の駅舎。

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(2022/09/23)

三年ぶりの演奏会

二人乗り したるこの道 思い草  吉崎陽子

9月18日{日}13時ー15時40分まで、JR富山駅前マリエ7階県民小劇場「オルビス」で、第57回錦心流琵琶富山支部{支部長・杉本紫水、後援会長・中屋一博}秋季演奏会が3年ぶりに開催された。

どんな会も、様々な行事も、新型コロナの影響で、中止や、延期を余儀なくされた3年余であった。今回の開催もワクチン接種が進んでいるとは言え、陽性感染者が高止まりの傾向にあり、開催の是非について支部長など、かなり悩まれたが、感染症対策に万全を期して開催することになった。
それにしても友情とは有難いものである。今回も遠く大阪支部より水原吟水副支部長を始め、内田景水福井支部長、増泉友水金沢支部長等演奏会に花を添えて頂いたのも杉本支部長の熱意の表れであろう。当日の観客数は60人ほどとまずまずであった。

さて、琵琶には平家琵琶、筑前琵琶、雅楽琵琶に錦秋流の薩摩琵琶がある。薩摩琵琶は戦国時代薩摩の島津忠良が藩士の士気を鼓舞する教訓的な歌詞を作り、盲僧が曲を付けたのが始まりと言われる。
豪壮な音が出るように、糸を押しつけて、柱を高くし、大きなバチで腹板をたたく独自の奏法も生まれた。薩摩では、剣術の示現流と共に武士のたしなみとされた。薩摩琵琶の材質は、伊豆諸島御蔵島の桑の木が最適でその大木を伐採後、10年は自然乾燥で寝かせると言う。琵琶の魅力は、音色と魂に訴えかけるような響きであると言う。人の心の琴線に触れるとは、このことを指すのだろうと私は勝手に思っている。

琵琶は古代ペルシャの楽器バルバットが起源といわれ、7世紀日本に伝わったという。正倉院宝物の中に聖武天皇愛用螺鈿細工の琵琶がある。
私も、以前、国宝正倉院展を鑑賞し、この琵琶を見たことがあるが、1400年余りの遥か昔、遠くシルクロードを経由し、終着点の奈良に伝わってきたことに驚いたことを思いだす。いづれにしても、琵琶の演奏曲目は、殆ど歴史的故事に由来したものばかりである。歴史の好きな私には、演奏を聴きながらその歴史的背景に思いを馳せた2時間40分余であった。

会員にとって、コロナ禍で練習量も少ない中での開催で多少の不安もあったと言う。又、いくら練習をしても、その発表の機会がないということはモチベーションを保つのは中々難しいとも言う。しかし、終了後あちこちから良かったとの声を耳にした時、会員はホッと胸をなでおろすと共に、多少の充実感を味わった事と思う。
盛会裏に終えた後、場所をかえ暫しの直会を以て散会した。貴方も琵琶を始めてみませんか。

参考まで当日の演奏曲目と演奏者を記します。
①曲目 新曲川中島 演奏者 伊藤恭章 
②本能寺 松田惠水 
③ひめゆりの塔 有澤結水 
④紅葉狩 嶺瑛水 
⑤乃木将軍 金沢支部 中井蘭水 
⑥石童丸 大阪支部副支部長 水原吟水 
⑦実盛 金沢支部長 増泉友水 
⑧血染の聖教 福井支部長 内田景水
⑨白虎隊 富山支部長 杉本紫水

写真は、挨拶する私。白虎隊を演奏する杉本支部長。

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(2022/09/19)

友との別れ

歳一つ 七十四基積み重ね 散るや電力一筋にして

北陸電力社長や北陸経済連合会長を始め、多くの公職を務め、去る6月25日、74歳で死去された永原功氏の「お別れの会」が9月9日富山市の「ANAクラウンプラザホテル富山」で開催された。経済、政治、文化など各界から約850人が参列し、地域の発展に尽力された故人の功績を偲んだ。
私のような者まで参列するのは多少気が引けたが折角案内状も頂いたので参列し、祭壇に献花し、在りし日の思い出に心を馳せた。

氏とは10数年来親しくお付き合いをさせて頂き、年2回程我が家で友人、知人と歓談の機会を持っていた。今年も4月19日10人程のメンバーが我が家に集まり「ホタルイカ」の刺し身などで歓談した。
以前、生きた「ホタルイカ」を発泡スチロールに入れ、電燈を消し、発光ショーを演出したがうまく発光せず一同大笑いしたこともあった。しかし、エネルギー問題や経済問題はさすが専門家。その意見には感心することも多かったし、知らないことを教えてもらうことも多々あった。でも偉ぶることもなく、庶民的でいつもにこにこと話されていた姿が忘れられない。あっという間に3時間ほどがたった。

2日後その時の写真を持って北陸電力本社を訪ねた。いつもは応接室であったが、この日は特別顧問室の永原氏の部屋に案内され暫し歓談した。結果としてこれが最後の別れになろうとは・・・・・私より1歳年下の彼が私より先立つとは・・・・・只々残念です。

8月、私の同級生二人が永原氏同様あんなに元気だったのに突然この世を去った。
別れとは何故悲しいか、何故淋しいか、それは、新たな思い出を作ることも、新たな教えを請うことも、何より2度とお会いすることが出来なくなるからだろうと思う。

まさに、数々の思い出が脳裏を去来しますが、此は是、存者の還らぬ繰り言と言う外はなく、世の無常を嘆かざるを得ません。

散る桜 残る桜も 散る桜  良寛

いづれ私も彼の地へ行った時、再び盃の友情を交わし、語り合えたらと思う。

写真は、お別れの会。北陸新幹線開業記念祝賀パーティー・富山第一ホテル{平成27年3月14日}写真左。 我が家にて{令和4年4月19日}写真右端}

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(2022/09/10)

第74回滑高体育大会

こほろぎの 鳴くやいづこの 畳にて   山口誓子

朝夕虫の声が聞こえ、あちこちでコンバインの音が響き、稲刈りの風景が展開される9月6日{火}午前8時40分から滑川高校の体育大会が開催された。当日は白雲たなびく中、青空も広がり、殆ど雪が消えた立山連峰の雄姿もはっきりと見えるお天気であった。
しかし、開始早々はまだ良かったものの、6日は県内に台風11号が最接近し、次第に強風が吹き、砂ぼこりが舞い、各団のテントも張れず、しかも最高気温が昼頃では37℃に近く、まさに強風と猛暑での体育大会となった。

加えて、生徒の通学の足である「あいの風とやま鉄道」は昼前に午後2時頃より計画運休すると発表した。これを受けて、学校側は総合的に判断した結果、午後1時再開後応援合戦を以て中止と決定された。生徒諸君には、この日の為に努力してきたことが如何なく発揮されることなく消化不良の形で終わったのは残念なことだったと思う。
しかし、止むを得ない決断だった。それでも生徒諸君の精一杯青春を謳歌頑張っている姿は、やはり感動する。青春って素晴らしい。若いって羨ましい。つくづくそう思う。

処で、私の時代は「体育大会」でなく「秋季大運動会」と称した。いつ頃名称が代わったのかは分からないが、私は戦後のベビーブーム、いわゆる団塊の世代である。それ故、1学年600人。3学年で1800人。これに定時制があった。運動会の団編成も、白虎、青龍、朱雀、黄鶴、玄武の5団である。これが、綱引き、棒倒し、リレー、応援合戦、どの種目も迫力があったし、全員興奮した記憶が懐かしい。それに比べると・・・・と言ったら愚痴になる。
少子化で現在全校生徒数600人。これを考えると、これも時代の流れと理解せざるを得ない。今昔の感ひとしおである。

さて、ご存知の通り高松塚古墳の壁画が発見されたのは昭和47年{1972}である。その壁画に極彩色の美人画と共に四神図が描かれていた。その四神図が団の名称になっている。私の学生時代は古墳発見以前だったとは言え、その由来について正直考えても見なかった。いつ頃、誰がこの名称を付けたのか。又、校歌の歌詞に「思え車胤を青春の」とある。中国の故事「蛍雪の功」の車胤である。先人の智慧の深さ、重さに驚かざるを得ない。砂ぼこりの舞うグランドを後に帰宅した。

写真は、プログラム。応援合戦。グランドから見た立山連峰

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(2022/09/07)

米騒動

五箇山の 水こだまして 新豆腐  吉崎陽子

9月4日{日}滑川市民交流プラザで市博物館館長・近藤浩二氏を講師に「中流社会の生活難と滑川の米騒動」―米騒動を巡る新たな視点ーと題し講演会が開催された。これは、4年前、平成30年{1918}が滑川に米騒動が発生して100年の節目を迎えたことから「米騒動100年」として、企画展やシンポジウムが開催され、大々的に新聞でも取り上げられた。以来4年が経過した中で、今回表題の講演会が開催されることになった。

私は、4年前の企画展も見たし、シンポジウムも聴いたが、展示された資料は写真を含め500点にも及び,それらの殆どが近藤浩二氏の尽力によるものと聞き、その調査能力に驚くとともに、私の知らなかった多くのことも学んだ。そこで、改めてはっきりしたことは、滑川を含め県内の米騒動は非暴力であったこと。町内の米穀{米肥}商、地主宅を巡り、米の積み出し{移出}停止と安売り{廉売}を哀願、路上に「土下座」や「端座」して窮状を訴え続ける。
つまり非暴力の哀願、懇願運動であった。ゆえに米肥商の建物を破壊したり,米を略奪したり,放火をしたりは一切無かったことである。これが、他県の騒動と決定的に違う点である。同じ米騒動でも、東京では焼き打ち事件など発生している。都市や農村など地域によってその運動の動機や行動は全く違っていたことである。

次に、私は今でも不思議に思っていることに、この騒動の時、男性は何をしていたのか。
歴史の傍観者であったのではなかろうか。講演の中で紹介される当時の新聞は、県内も全国紙も殆どが「女一揆」・「滑川の女一揆」・「女軍米屋にせまる」と報じた。又、県が内務省に出した報告書の表題も「越中の女一揆」である。このように、新聞記事や各種の資料,あるいは、後日の証言者の口からも男性の名前は殆ど出てこない。

又、講演会当日、大正7年7月ー12月まで富山県内で起きた主な米騒動の発生した
①日時
②市町村名
③内容
④人数等
51か所を記録した資料が配布されていた。これによれば8月12日富山市で市役所へ救済要求、男女100人。これが男が参加した唯一の記録である。それ以外は、漁民女房46人、或は、婦女700ー800人、婦人100人等殆どが女性である。

8月6日の滑川の騒動は2000人としか記入していない。男女の内訳は書いてない。ただ、当時魚津中学校教諭斉藤一二氏の8月6日付の日記を見ると「入浴後,晒屋二行ク、数百人金川宅へ押シ寄セ居タリ、就寝十時」と記している。これを、斎藤一二氏を含めた中流層の人々は、最前線に出てゆくのではなく、野次馬として、遠巻きに見物していただけと思われ、このような存在が騒動を拡大した一因との考えもある。

又、県より内務省への8月6日の報告書には「婦女子の騒動参加者は僅少{約百名}ナル二反シ、中層階級{羽織オ着タル者、巻煙草オ喫スル者等}又ハ知識階級{学生風・会社員風}者、スコブル多ク、所謂細民又ハ、窮民ト目スへキ者少ナカリシハ、変調オ来シタリト認ムへキ特色ナリト信ス」とある。
しかし、当日の参加者は約2000人と報じている。婦女子100人とすれば、男性1900人になる。ちょっと信じられない。これだけ多くの男性が騒動を起しているとすれば、「滑川の女一揆」とは言わない筈である。又、2000人の多数の騒動であるから、警察官が出動し多少のトラブルも発生している。そして、首謀者と思われる人の衣服にチョーク等を付着させ、のち人物を特定し検挙したという。しかし、検挙者数や男女の内訳の資料もない。

又、戦後米騒動に関する研究も進み多くの書籍も発行されたり、多くの証言者も現れた。でも滑川の川村イトさんを始め殆どが女性である。又、北陸タイムズに騒動から5年後、大正12年8月12日付に、次の記事を掲載している。「所詮米騒動なる者があって、今年で5年がたった。米騒動と言えば滑川の女、滑川の女と言えば米騒動、両者は茲に離るることの出来ない腐り縁の業縁につながれた。」5年たってもこの様な報道である。全くけしからんと思うが、残念ながらこの様な報道がまかり通ってしまったことにより、米騒動=滑川の女、というイメージが定着したような気がする。

確かに8月6日の滑川の騒動は県下最大規模であったことが、高岡新聞そして大手の日刊紙も大々的に報じたことが滑川の名を日本中に広めたものと思う。しかし、それが結果として以後滑川では米騒動のことを口にする事はなくなったという。しかし、騒動から50年がたった昭和43年{1968}頃から前述した研究が進み、証言も多数得られるようになり、米騒動の真実が少しづつ明らかになってきた。しかし、この騒動に男性はどの様な関わりを持つたのか。以前私は、滑川は売薬の町である。騒動が起きた8月6日前後はお盆直前で男性は県外出張中で居なかったのだろうと思っていた。果して男性は何をしていたか。もう少し調査しなければと思う。

次に、もう一点。
新聞の殆どが「女一揆」と表現している。しかし、広辞苑によれば

一揆とは、「近世の百姓一揆などのように、支配者層への抵抗・闘争などを目的とした農民の武装蜂起」
騒動とは、「徒党を組み騒動を起こすこと。多くの人が集まって騒ぎを起し治安を乱すこと」

これを見ると、私は明らかに「米騒動」と表現すべきで一揆とは違う。これを新聞が一斉に一揆と報じるから、よりセンセーショナルに全国に伝播したのだと思う。当時全国に130社以上の新聞社が存在したが、その内、紙面が現存し富山県の米騒動を事件として報じたことが確認できた52紙から、滑川の騒動を取り扱った記事89件、東西水橋町60件前後、富山市21件、魚津18件などの資料を見ても圧倒的に滑川の記事が多い。これらの資料等、すべてが近藤館長が調査、収集されたものです。
その努力、能力には本当に感心します。

私がこの文章を書くにあたり、引用した資料は近藤館長の収集されたもので感謝します。そして、時あたかも講演会に合わせたかのように、8月31日NHKテレビ午後10時より近藤館長も出演した「歴史探偵、米騒動!日本を揺るがした事件、謎のカギは暴れババ?知られざる騒動の発端」次いで、9月6日午後10時NHK、Eテレ知恵泉で「米騒動、高まる民衆の怒り不安、政治家はどう向き合う貧困問題に民衆の秘策、大正デモクラシーとは」と相次いで放映された。

これも何かの縁か?最後に、近藤館長が言うように、「米騒動を単に大正7年の夏の出来事を、下層社会の話に収れんしてはいけない。当時の社会情勢を含め視野を広げて考えるべき」との指摘には同感です。

写真は、講演の近藤館長と大正7年{1918}7月ー12月に富山県内で起きた主な米騒動の記録

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(2022/09/05)

2企画展

秋来ぬと 目にはさやかに見えねども 風の音にぞ 驚かれぬる  藤原敏行

猛暑、激雨の8月も過ぎ、9月に入るとやはり秋の気配をあちこちで感じます。
さて、芸術の秋、スポーツの秋など、秋は様々な形容詞で飾られる季節ですが、芸術もスポーツも、今や1年中接する機会があることから、もはや死語になりつつあるように思う。
そんな中、県水墨美術館でのコレクター福富太郎の眼「昭和のキャバレー王が愛した絵画」と県美術館でのミロ展がいずれも9月4日閉幕ということもあり、相次いで鑑賞した。

福富太郎{1931-2018}は1964年の東京オリンピック景気を背景に、全国に44店舗にものぼるキャバレーを展開して、キャバレー王の異名をとった。その一方で少年期から興味を持った芸術品収集にも熱中した。画家の名前や人気にとらわれることなく、自分がよいと思う感性を信じ、幅広いジャンルで収集を重ねていった。
さらには、それに関連する資料や情報も集めて対象への理解を深めて、美術に関する分筆も積極的に行ったことでも知られている。今回は、福富太郎の審美眼に焦点をあて、優れたコレクションが鑑賞できる機会であった。

今年7月京都国立近代美術館で開催された鏑木清方展を鑑賞したが、その清方の作品10数点をはじめ,日本画、洋画、戦争画など多彩なコレクションであり、中でも日本画の美人画を多く収集し、特に鏑木清方の作品は京都では見なかった作品ばかりであった。
又、上村松園、岡田三郎助,山本芳翠、松浦舞雪,竹久夢二、北野恒富、小磯良平、向井潤吉など、約80点の見応えのある企画展であった。

次に、スペイン、バルセロナで生まれた芸術家,ジュアン・ミロ{1893-1983}は20世紀を代表する巨匠として紹介されていましたが、正直私のような素人には、ウンーと唸る作品もあれば、よく理解できない作品も多くあった。
又、富山県出身の詩人・美術評論家の滝口修造と親交があった事や、ミロが2度来日していたことも今回はじめて知った。
前衛とは所詮私のような芸術に素人の者には、理解しにくい分野なのかもしれない。

写真は、両企画展のパンプレット
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(2022/09/02)

玉音放送

玉音の あの日も今日も 蝉しぐれ   高村寿山

昭和20年8月15日正午、初の天皇の肉声による「大東亜戦争終結の詔書」いわゆる玉音放送が全国に流されて、もう77年が経過した。徐々に戦争の惨禍が薄れていく中、せめて1年の内で8月くらいは、戦争の悲惨さ、そして犠牲になるのは常に弱者である国民であることなど、二度と戦争は起してはならないことを考える月にしたいものだ。

さて、昭和16年12月8日開戦の聖断を下した時、天皇は40歳。終戦の聖断を下した時44歳。現在の私達の考える年齢からすると、私にこのような重大な決断ができるだろうか。ふとそう思う。
特に、昭和20年に入ってからは、3月10日の東京大空襲を始めとする全国各地に激化する空襲。5月ドイツ降伏。6月事実上の沖縄戦の敗北。7月ポッダム宣言無条件降伏を発出。8月広島、長崎への原爆投下。ソ連の参戦。戦争続行を唱える陸軍。
早期終結の海軍と内閣。徹底抗戦の一部陸軍将校らによるクーデター未遂事件。片や鉄鋼、原油など全て疲弊した国力。まさに、激動という時流に身を置く青年天皇に決断を迫る鈴木総理。そして、ポッダム宣言受諾を決断する。

昭和天皇は、明治34年{1901}4月29日生まれで、昭和20年{1945}8月終戦までの44年間は現人神として、その後、昭和64年{1989}1月7日87歳で崩御される43年間は人間天皇として、天地がひっくり返るほど違った激動の人生を歩まれた。しかし、戦後は、常に国民に寄り添い共に歩まれる姿に国民は尊敬の念を持ったのだろう。ここに玉音放送の全文を記す。

終戦の詔書
朕、深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み、非常の措置を以て時局を収拾せんと欲し,茲に忠良なる爾臣民に告ぐ。
朕は、帝国政府をして、米英支蘇四国に対し、其の共同宣言を受諾する旨、通告せしめたり。抑々帝国臣民の康寧を図り、万邦共栄の楽しみを偕にするは、皇祖皇宗の遣範にして、朕の拳拳措かざる所、さきに米英二国に宣戦せる所以も、亦実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾するに出でて、他国の主権を排し、領土を侵すが如きは、固より朕が志にあらず。

然るに交戦已に四歳を閲し、朕が陸海将兵の勇戦、朕が百僚有司の励精、朕が一億衆庶の奉公、各々最善を尽せるに拘らず、戦局必しも好転せず、世界の大勢亦我に利あらず。しかのみならず、敵は新たに残虐なる爆弾を使用して、頻りに無辜を殺傷し、惨害の及ぶ所、真に測るべからざるに至る。
而も尚、交戦を継続せんか、終に我が民族の滅亡を招来するのみならず、延て人類の文明をも破却すべし。斯の如くんば、朕何を以てか億兆の赤子を保し、皇祖皇宗の神霊に謝せんや。是れ朕が帝国政府をして、共同宣言に応ぜしむるに至れる所以なり。

朕は、帝国と共に終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し、遺憾の意を表せざるを得ず。帝国臣民にして戦陣に死し、職域に殉じ、非命に斃れたる者、及び其の遺族に想いを致せば、五内為に裂く。且つ戦傷を負い、災禍を蒙り、家業を失いたる者の厚生に至りては、朕の深くシン念する所なり。惟うに、今後帝国の受くべき苦難は、固より尋常にあらず。爾臣民の衷情も、朕善く之を知る。
然れども朕は、時運の赴く所、堪え難きを堪え,忍び難きを忍び、以て万世の為に太平を開かんと欲す。

朕は、茲に国体を護持し得て、忠良なる爾臣民の赤誠に信椅し、常に爾臣民と共に在り。
若し夫れ情の激する所、濫りに事端を滋くし、或は同胞拝斉、互いに時局を乱り、為に大道を誤り、信義を世界に失うが如きは、朕最も之を戒む。宜しく挙国一家、子孫相伝え、確く神州の不滅を信じ、任重くして道遠きを念い,総力を将来の建設に傾け、道義を篤くし、志操をツヨくし、誓いて国体の精華を発揚し、世界の進運に後れざらんことを期すべし。
爾臣民、其れ克く朕が意を体せよ。
御名 御璽

以上が玉音放送の全文である。

昭和天皇の数多くある御製から、開戦の翌年、昭和17年1月と終戦の翌年、昭和21年1月の「歌会始」の二首を記す。
峯つづき おほふむら雲 ふく風の はやくはらへとただいのるなり{昭和17年1月}
ふりつもる み雪にたへて いろかへぬ 松ぞををしき人もかくあれ{昭和21年1月}
又、ポッダム宣言受諾の聖断を下した心境を身はいかになるとも いくさとどめけり ただたふれゆく 民をおもいてこれらの御製から、昭和天皇の思いが伝わるような気がする。

写真は、
①軍服姿の昭和天皇{昭和18年11月30日撮影}
②御文庫地下壕での御前会議、ポッダム宣言受諾を決定。{昭和20年8月14日}
③ポッダム宣言詔書
④連合国最高司令官マッカーサー元帥と会見{昭和20年9月27日}

写真は、いづれも正論2005年8月号より
令和4年8月15日記す。

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(2022/08/15)
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