なかや一博 ブログ

滑高同窓会総会

向日葵の 百人力の 黄なりけり {加藤静夫}

暦の上では立秋を過ぎれば残暑となりますが、残暑どころか連日35℃を超す猛暑の8月10日富山県立滑川高校同窓会{会長・中屋一博}総会を午後6時滑川市西地区コミュニティーセンターで開催しました。コロナ禍の影響で実に3年ぶりの開催です。

7月7日の役員会で、開催の是非を協議しましたが、その時点では新規感染者は多少高止まりの傾向があるものの、他校の同窓会や各種イベントの開催状況、国、県の動向等を参考にした結果、感染防止策を施した上、総会のみ行い、懇親会は中止として開催することに決定しました。
当日は37℃の猛暑、加えて新型コロナの影響で出席者数が心配されましたが幸い70名程の出席者でホットしました。

総会は、学校の先生である林総務部長の司会で始まり、最初に私が挨拶。その中で3月の卒業式や4月の入学式に出席しましたが、全員での校歌の斉唱がなくテープで流されたことは時節柄止むを得ないとは言え、一抹の淋しさを禁じ得ませんでした。
やはり校歌を歌うことで滑川高校の生徒であること、或は、生徒であったことを自覚するし、連帯感の醸成に繋がる機会でもあります。それがない。やはり淋しい限りである。

そして、私は、いつも生徒に問いかけます。母校とは 同窓会とは何だろう。
例えばプロ野球ロッテ球団で活躍している石川渉選手をマスコミの一部が魚津出身と発表すると、日頃、同窓会とか母校など全く意識しない人が、それは滑川高校出身だと言います。
ましてや滑川高校野球部が甲子園大会に出場した時など、上記のように全く関心を示したことのない友人が大阪から電話をかけてきて、甲子園に応援に行くと言う。そして職場でも、俺の母校だと自慢しているという。日頃意識していなくても、人それぞれの心の中に、心の拠り所として存在する。それが母校であり、同窓会であり 故郷だと生徒諸君に話します。

現在、3万人を超す同窓生を持つ学校は県下でもわが校を含め数校しかありません。その同窓生が各界各層で活躍しておられることは私達の喜びであり、誇りでもあります。今後とも母校の発展にご支援をお願いし挨拶としました。

次いで、亀谷校長より学校の近況報告として5月8日県教育文化会館ホールで開催された、県民ふるさとの日・記念式典の席上本校が、地元企業等の協力を得て、地域資源の活用やふるさとの魅力を発信する活動に取り組んでいること、又、海洋科ではホタルイカ漁で破棄される鰯を活用する地域課題解決に取り組むほか、薬業科では、くすりの富山エキスパート事業などの活動が評価され「県民ふるさと大賞」表彰の栄に浴したこと{6団体表彰}や最近の話題で、インターハイウエイトリフティングで団体,個人でそれぞれ3位に入賞したことなど報告がありました。

次いで、金森実氏が議長に選出され議事に入りました。令和3年度の会務報告は林総務部長、決算報告は杉本事務部長、監査報告を石坂会計監査より報告。いづれも可決。
次に役員改選に入り,過日の役員会での案を議長より発表され承認されました。その結果、不肖私が引き続きその任に当たることになりました。私以外の役員は殆ど留任として、新たに就任して頂いた方々を発表させていただきました。

その中で、去る2月の市長選挙で当選された水野達夫市長は本校の同窓生{昭和56年・第33回卒}であることから、顧問に就任して頂いたこと。
又、滑川市には滑川高校が唯一の高校であること。同時に市選出の県議会議員は一人であること。
そして少子化の流れの中で本校を取り巻く諸問題解決には、地元選出の県議会議員の支援も必要な事から、本校の同窓生ではありませんが、大門良輔県議会議員に相談役をお願いしたことを説明し、いづれも承認を得ました。次に令和4年度の事業計画案、予算案もいづれも異議なく可決されました。

尚、令和5年は本校創立110年になることから、110年記念誌の発刊も了承頂きました。すべての議事が終了後、水野市長と大門県会議員がそれぞれの立場から、滑川高校発展に尽力する旨、力強い言葉がありました。そして本校先生の紹介のあと、最後に従来全員肩を組んで校歌を斉唱していましたが、時節柄全員起立の上、入学式同様テープから流れる校歌を聞き締めとしました。
来年こそは懇親会も110周年を祝う総会となるように念じ散会となりました。

私の挨拶をもう少しだけ記しておきます。
「戦前人口僅か2万人ほどの小さな滑川町に、県立滑川女学校、県立滑川商業学校、県立水産高校となんと県立高校が3校もありました。加えてこれに滑川町立薬学校という専門学校もありました。この当時の他の市町村と比べてみて下さい。驚くべきことです。まさに先人の教育にかける熱き思いを感じます。
中国・斉の国・管中の、「百年の計は、人を樹{う}るに如{し}くはなし」の言葉を引用して「一年先を考えるなら穀物を植えよ。十年先を考えるなら木を植えよ。百年先を考えるなら人材の育成、すなわち教育である。」と話して、先人の教育にかけた情熱を引き継ぎ、母校・滑川高校の更なる発展に努力する旨、申し上げました。

写真は、挨拶する私。亀谷校長。ふるさと大賞パンフレット。県庁正面右手にある元富山県知事・中沖豊氏揮毫と言われる「百年の計・人を樹るに如くはなし」の碑

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(2022/08/11)

八月や 六日、九日 十五日

誰の句かは知らないが、言い得て妙なる句である。昭和20年8月6日午前8時15分広島に、8月9日長崎にB-29より相次いで原爆が投下され、広島では約14万人、長崎では約7万5千人の尊い命が一瞬に奪われた。そして8月15日終戦を迎える。
あれからもう77年、戦後生まれが全人口の大半を占め、戦争の惨禍が徐々に薄れていく。

そんな中、去る8月2日岸田総理が、二ューヨークで、191ヵ国・地域が加盟する核拡散防止条約{NPT}再検討会議に出席し演説をされた。
時あたかもロシアのウクライナ侵攻を機に、核兵器の脅威が深刻化している中で、唯一の被爆国日本の総理として初めての参加であり、しかも広島出身とあって演説内容に関心が集まった。結果は要約すると、核廃絶に向けた5本の柱の行動計画を発表し、来年の広島サミットに向けて核軍縮の気運を盛り上げていくという。しかし、国連安保理常任国であるロシアは核使用を散らつかせ、拒否権を発動する。もはや安保理も形骸化している。

また、NPTは核保有5大国を縛る唯一の条約というが、日本は核保有国等を含め、核兵器禁止条約を批准していない。総理は広島出身ゆえ核廃絶への思いは人一倍強いと思う。だからこそ自作の折り鶴を手に持ち熱弁を振るわれたのだろう。
しかし、現実は厳しい。日本は米国の「核の傘」に依存する安全保障の立場である。だから批准が出来ないのである。

総理は、核禁条約に言及しなかった理由を問われると「条約は核なき世界を目指す上で出口に当たる重要な条約だ」と意義を強調。その上で「理想に向けて現実な取り組みを示すことが大事だという思いでスピーチをつくった」と説明した。とマスコミは報じた。
日本政府は核保有国と非保有国の橋渡し役を自任するが、総理には是非とも現実的な取り組みを示し一歩でも二歩でも前に進めてもらいたいものだ。8月6日グテーレス国連事務総長が広島平和記念式典に出席されるが、ロシアのウクライナ侵攻によって、被爆者の願い、被爆地、広島・長崎の願い、国民の願い、そして、人類の願い、が遠のいていくようで残念である。

それにしても長崎は不幸であった。8月9日の原爆投下地点は、当初北九州小倉であったという。それが、雲量、風向等の関係で長崎に変更されたという。私は、以前広島平和記念公園内の原爆ドームや原爆資料館を、また、長崎では、北村西望作の巨大な平和の像や浦上天主堂などを見学した時のことをいつも思い出す。
やはり戦争は二度と起してはならない。長崎では爆心地に近い医科大学で被爆しながら治療に当たった医師永井博士が妻も原爆で失うなどの事実から出来たのが、サトウハチロウ作詞、古関裕而作曲の有名な「長崎の鐘」である。この曲がヒットした2年後の昭和26年43歳で亡くなった。博士がこの曲を聴いたのち詠んだ一首は「新しき 朝の光のさしそむる あれ野にひびけ 長崎の鐘」であった。

また、8月9日はソ連軍日ソ不可侵条約を一方的に破り満洲に侵攻。8月10日、14日御前会議でポッダム宣言受諾を決定。
8月15日正午玉音放送で終戦を告げる。私から言わせると、終戦と言うよりは敗戦と言うべきでないか。しかし、打ちひしがれた国民感情に配慮したのか、それとも昭和16年12月8日は開戦としたからそれに対し、終戦としたのか、私には分からない。

8月18日、ソ連軍千島列島最北端占守島{シュムシュ島}から千島列島南下、樺太侵攻。8月21日樺太真岡に侵攻したソ連軍に対し、8人の女性電話交換手自決。8月27日、連合国日本進駐開始。8月30日、連合国司令官ダグラス・マッカーサー元帥厚木基地に到着。9月2日、戦艦ミズリー号上で日本全権・外相重光葵と大本営参謀総長梅津美治郎無条件降伏に調印。ここに第二次世界大戦は正式に終結した。

8月15日はお盆であり、先祖との対話の時である。13日は迎え盆。16日は送り盆である。私たちは、一人の例外もなく父と母がいることによってこの世に生を得た。その父と母にもそれぞれ両親がいる。それを遡っていけばどうなるか。10世代で1024人。20世代で104万8576人。30世代では、10億7374万1824人。40世代遡ると、1兆95億1162万7776人。想像を絶する数になる。
この祖先の命が一回も途切れず今日に生きているのが私の命である。この連鎖がどこかで絶ち切れていれば、或は、別の人に代わっていたら私はここに存在しない。そう思うと、今日自分が存在することは、正に奇跡であり、縁としか言いようがない。

8月、それは「平和」「戦争」「命の尊さ」を考える月である。
参考まで、私の手元に昭和天皇実録・第九・自昭和18年―至昭和20年がある。その中の昭和20年8月15日には次のように記してある。{一部抜粋}

「15日水曜日、陸軍省軍務課員らを中心とする一部の陸軍将校は、ポッダム宣言受諾の聖断撤回のため、近衛師団を以て宮城と外部との交通・通信を遮断するとともに、東部軍の兵力を以て要人を拘束、放送局等を占拠する計画を立案し、これを実行に移す{中略}主力の二大隊が、午前2時を以て坂下門を閉鎖し、宮内省の紅葉山通信所その他の要所を占拠して宮城内の交通・通信を遮断、また皇宮警察の武装を解除し、且つ御文庫を包囲する。宮城へ乱入の将兵はさらに、情報局総裁下村宏。日本放送協会会長大橋八郎以下の総勢18名を二重橋門内衛兵所に監禁し、放送用録音盤・御璽、及び宮内大臣・内大臣を捜索する。{中略}侍従徳川義寛・同戸田康英が宮内省庁舎より御文庫に赴き、当直侍従の入江相政・永積寅彦に対し、近衛兵が宮城を占拠し、電話線を切断したため外部との連絡が途絶するも、録音盤及び宮内大臣・内大臣は無事である旨連絡する。{中略}正午、昨夜録音の大東亜戦争終結に関する詔書のラジオ放送をお聞きになる・・・・」

8月15日の日記は他の日付と違い長文であり、ここに記したのは一部であるが緊迫且つ生々しい出来事が記してある。機会があれば、15日の日記の全文と玉音放送の全文を記したいと思う。

令和4年8月4日



(2022/08/04)

富山大空襲

音もなし 松の梢の 遠花火  子規

8月に入ると6日広島、9日は長崎の原爆忌、15日の終戦と続く。マスコミはこれを大きく報道する。しかし、8月2日は何の日?富山県民の若い世代は大半が答えられないかも知れないと言う。
富山大空襲の日である。
8月2日午前0時36分~1時51分まで75分にわたり、米軍爆撃機B-29が富山上空に飛来し、実に12,888発の焼夷弾を投下した。爆撃平均中心点は富山城址東南の角{かっての時計塔付近}とされた。
罹災所帯2万5千。罹災人口11万人。死者判明しているだけで2,275人。実際は3千人は下らないと言われている。

富山市街は、大和百貨店、海電ビル{現、電気ビル}NHK富山放送局、昭和会館、興銀富山支店、残った建物は僅か6か所。まさに市街地は灰じんに帰した。富山市の目標区域にある住宅密集地の破壊率は99.5%と全国92の被災都市の中でも群を抜いた数字である。

私の両親は滑川の海岸から赤々と夜空を焦がす富山空襲を見たという。私は戦後生まれだから、当然見ていないが、昭和31年9月10日の魚津大火は滑川の海岸から眺めた記憶はある。当日の爆撃地は、富山、長岡、水戸、八王子、川崎石油企業群と5か所であった。出撃したBー29は計858機。内、富山飛来は182機。米軍資料によれば、高度4千m、時速300㎞から焼夷弾を投下すると2.4㎞ほど先におよそ28秒で着弾する。初弾に続いて70発の焼夷弾が十数秒の間に次々と投下され、最初の着弾地点から1㎞ほどにわたって着弾したという。

又、富山への空襲はサイパン島のイスレ―飛行場から182機のB-29が2本の滑走路を利用し、1滑走路あたり1分間隔で離陸し、91分で全機が離陸している。密度を高めることによって、爆撃の時間を圧縮し、避難,、消火活動の時間を与えないことを目的としたという。この為、大空襲の炎から逃れようと、多くの人たちが神通川に飛び込んでいったが、命を落としてしまった人も多かった。

その犠牲者のうち十数名の遺体が数日後、氷見市島尾海岸に流れ着きその中に、赤ん坊を背中に背負った母親の遺体もあったという。それを地元の人たちが、松林に埋葬し毎年空襲犠牲者を悼む慰霊祭が行われ、昭和50年地元有志の方々の手によって、立派な慰霊地蔵尊像が建立された。胸の詰まる思いである。

戦後、軍人には軍人恩給が支給されるようになったし、原爆被爆者援護法が制定された。しかし、何の罪もない人々が家を焼かれ、命まで落とした人々には何の補償もない。割り切れない思いもする。

いづれにしても、無抵抗の市民を無差別に大量殺戮する戦争は絶対やるべきでない。ロシアによるウクライナ侵攻も同様である。万物の霊長である人間の最も愚かな行為が戦争である。

さて、今年は3年ぶりに富山市神通川有澤橋下流で納涼花火が打ち上げられた。富山大空襲の犠牲者への鎮魂、平和への願い、加えて今年はウイズコロナに向けて力強い一歩を踏み出す思いを込めたと言う。その願いが叶うように願わずにはいられない。
写真は、3年ぶりに開催された神通川の花火{テレビより}氷見島尾海岸の慰霊地蔵尊像

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(2022/08/02)

4回目ワクチン接種

散れば咲き 散れば咲きして 百日紅  加賀千代女

猛暑の中でも 豪雨の中でも、散っても、散っても次から次へと咲く百日紅のエネルギーには驚かされる。さて、政府は、第七波の急拡大を受け、14日ワクチン接種を全ての医療従事者、高齢者施設の職員に広げるなどの対策を明らかにする中、全国旅行支援の延期を発表した。
ただ、県内や隣県、広域ブロックの旅行を対象とする「県民割」に対する国の補助は、期限を7月14日から8月末宿泊まで延ばすという。止むを得ないと思う。

国内での1日の新規感染者数は7月13日と14日は2日連続で9万人を超え10万人近くになった。
しかも、感染者の初確認から累計100万人まで約1年7か月かかったが、そこから500万人までは半年余り、さらに1千万人までは4か月余りと増加ペースが速まる傾向にある。感染が広がりやすいとされるオミクロン株の派生型「BA-5」への置き換わりが進んでいるのが一因という。

これから夏休みを迎え、人が活発に行動する季節を考えると、まずは3回目のワクチン接種を受けていない若い世代に接種を強く促す必要がある。経口薬が未だ普及していない現状を考えると、新型コロナウイルスの予防は現時点ではワクチン接種しかない。ワクチンの効果と副反応とを比較すると,効果の方をもっと声を大にして叫ぶべきである。
極めて低い確率といわれる副反応を、ことさら大きく取り上げるのがマスコミである。

いづれにしても、私は、4回目の接種は終わった。重症化率は低くなるというが、絶対安心とは言えぬ。今後も十分注意したいし、一日も早い終息を願うものである。

写真は、4回目の接種風景。

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(2022/07/15)

第55回関西滑川会総会 「芭蕉と滑川」

飛び習う 青田の上の 燕の子  麦水

7月2日関西在住の滑川出身者でつくる関西滑川会総会・懇親会が、3年ぶりに、大阪駅隣接のホテルグランヴィア大阪で開かれ、65人が出席旧交を温めた。久し振りの再会であり、開会前から、あちこちで歓談の輪やグータッチで再会を喜ぶ姿が見られた。

千先久矩会長の挨拶、水野達夫滑川市長、金山隆興近畿富山県人会長、大門良輔県議会議員、土肥正明東京滑川会長が祝辞を述べた。
次いで、不肖私が「芭蕉と滑川」と題し約40分ミニ講演として話をした。{内容は後記}

引き続き、高橋久光市議会議長の発声で乾杯し懇親会に入った。余興として上市町在住の民謡歌手・寺崎美幸さんの民謡や演歌など、たっぷりと1時間余り、また近畿富山県人会「おわら教室」のメンバーによる越中おわら踊りを会員と共に楽しんだ。
和やかな雰囲気で会も進み、最後に尾崎照雄市議会副議長と芦田幸恵関西滑川会副会長によってエールの交換が行われ散会となった。11時から3時まで4時間があっという間に過ぎ去った。

<講演要旨>
演題を何故「芭蕉と滑川」としたか。
①奥の細道紀行の折、芭蕉は滑川に宿泊した。残念ながらそのことさえ知らない人が多くなってきている。その場所は。
②秀吟「早稲の香や 分け入る右は 有磯海」はどこの風景を詠んだのか。

この点について話した。
元禄2年{1689}閏3月27日新暦5月16日、芭蕉と曽良は江戸深川から船で千住へ。そして最後の到着地大垣まで156日、約600里,約2400㎞の奥の細道紀行がここから始まる。北は奥州平泉から山形ー酒田―秋田・象潟ここで日本海側を南下、新潟―出雲崎―直江津―市振から越中に入る。実は滑川では戦前から、芭蕉は滑川で宿泊したと伝承として伝わっていた。
しかし、それを証明するものがなかった。魚津か水橋かとも言われていた。ところが昭和18年天理大学附属図書館で曽良旅日記が発見された。
これによって芭蕉の研究が一気に進んだという。この中に、市振を出発した日7月13日次のように記してある。全文を紹介する。

「13日、市振立。虹立。玉木村、市振より14.5丁有。中・後の境、川有。渡って越中方、堺村と言。加賀の番所有。出手形入の由。泊に至て越中の名所少々覚者有。入善に至て馬なし。人雇て荷を持せ、黒部川を越。雨つづく時は山の方へ廻るべし。橋有。壱り半廻り坂有。昼過、雨為振晴。申の下剋、滑河に着、宿。暑気甚し。」

これによって、芭蕉翁一宿の地・滑川が「伝承」から「事実」と認定されたのである。

又、曽良日記には、その日の天候や宿泊場所が記してある。例えば、千住から山中温泉まで125日間の宿泊地を見ると
①既知の俳人宅―61日間
②紹介状あり―37日間
③名主・検断宅―4日間
④一般の旅人として旅籠屋に宿泊―23日
となっている。

残念ながら旅籠屋であっても名が書いてあるのもあれば、空欄になっているのもある。
滑川と高岡も同様空欄である。それ故、伝承となったのであろう。その上、芭蕉が訪れた当時、越中の俳諧は殆ど談林派が主流で蕉風派はいなかったと言われている。
だから越中では僅か2泊3日で素通りしているし、越中で詠んだと言われる句も早稲の香の一句しかない。故に滑川では友人も知人もいなかったと思われる。そうなると当然宿泊場所は旅籠屋とみるべきだろう。当時旅籠屋は川瀬屋と四分一屋に本陣を務める桐沢家があった。しかし、三軒とも談話派であったが、時代が進むにつれて徐々に滑川を含め越中全体が蕉風派になってゆく。

そして、川瀬屋7代当主川瀬知十を中心に宝暦13年{1763}10月12日芭蕉没70回忌追善法要と追善句会が行われ、各地から多数の追善句が寄せられた。これに蕉風俳諧の書物として「俳諧わせのみち」を発刊する。
これを芭蕉の研究を続けておられた柚木武夫氏が「俳諧わせのみち」が有する資料としての重要性に早くから気付き、その成果を「滑川の俳諧」にまとめられた。その中に、知十ら滑川の俳人仲間たちが芭蕉碑を築き、さらに「俳諧わせのみち」を編集・出版した事情が詳細に記されている。

その概要は次のようである。
「わが滑川は芭蕉翁因縁の地であって「奥の細道」の「分け入る右は・・」の秀吟のお声もこの浦の盧の葉末に残っている感もする。
それでここに蕉翁の霊を祀り、永く風雅の道のたよりにしようと語り合い、幸い翁の70回忌に当たるので、有磯の砂を手でさらえ、荒海に洗われた石を社中とともに肩にかつぎあって徳城寺に建碑した。名は他に求めるまでもない。
「わせの香や分け入る右はありそ海」と碑面に刻して「有磯塚」と称する次第である。

俳諧に志ある者は、今より永く香華怠らず、四季折々ここに訪れ、風雅の一筋を怠り忘れてはならないと、過分ながら敢えて述べる次第である。」以上のように記して、最後に「宝暦13初秋12日 富竹園知十謹記」と記してある。10月12日は芭蕉忌であり、当時徳城寺も川瀬屋も現在の荒町の海岸近くにあったという。

ただ、徳城寺は明治13年浪害の為、現在の四間町に有磯塚と共に移転。知十とは川瀬屋7代彦右衛門のことで、徳城寺歴代住職墓所前の燈籠に名を留めている。知十は明和8年{1771}74歳で死去しているが、墓は徳城寺の墓地にある。有磯塚の後方に、径45㎝ほどの八角石碑があり、知十塚としている。これは天明3年{1783}知十の13回忌に川瀬屋が建てたものである。

有磯塚の句碑は県内に十数基あるが、その中で建立の由緒や年代の最も明らかで、早いのが、この徳城寺の句碑であり、これを築いた由緒を明らかにしているのが「俳諧わせのみち」である。
知十は芭蕉と曽良が川瀬屋に宿泊したことを誇りに思い、、いつの日かそれを世に知らせたかったに違いない。それが建碑や追善句会や「わせのみち」発刊につながつたなのだと思う。

さて、奥の細道の序章に「月日は百代の過客にして、行かふ年も又、旅人也。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらえて老いをむかふる者は、日々旅にして、旅を栖とす。
古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそわれて、漂白の思ひやまず・・・・・」これを英語の先生である滑川高校亀谷校長に、関西滑川会に出席されるから、当日これを英語で発表して頂きたいとお願いしたところ、語彙が豊富な日本語でしかも文学を英語にすることは難しい。と難色を示されたが、当日はスラスラと英語で話されました。

私には正直さっぱり判りませんでしたが、さすが校長先生。大きな拍手が起きました。最後に、何故芭蕉について話をしたか。それは、芭蕉の「奥の細道」紀行と滑川宿泊を顕彰しつつ、本市の芸術・文化の活性化に資するとともに、市勢発展の一助になれば幸いと思った次第です。

写真は、挨拶する千先会長。講演する私。英語で話す亀谷校長。徳城寺の有磯塚と知十塚。

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(2022/07/03)

司馬遼太郎記念館

一点の 偽りもなく 青田あり  山口誓子

7月1日 国民作家と言われ 多くの日本人に愛された作家司馬遼太郎記念館を東大阪市に久し振りに訪ねた。今回の企画展は「色紙と自筆原稿でみる司馬遼太郎が考えたこと」であった。その中に河井継之助を題材にした「峠」の自筆原稿もあり,司馬特有の筆跡で書かれ、特注の原稿用紙に書かれた文章には、数多くの推敲や修正が赤や黒ペンで加えられた跡が残っていた。

実は、この「峠」役所広司主演で映画化されたが、新型コロナの影響を受け、3度公開延期となり、今年6月17日やっと公開上映された。
私も映画館に足を運び鑑賞してきた。今、手元に「峠」前編、後編がある。
これを改めて開くと、初版が昭和43年10月10日とあり、私が購入したのは昭和50年7月20日34版のものである。昭和43年から僅か7年間で34版まで増刷されているのだから、当時から人気作家の人気作品だったのだろう。購入したのはもう47年も前であり、定価一冊800円であった。

「峠」の帯封に司馬遼太郎は「燃える情熱と、行動力・・・・一介の武士から長岡藩筆頭家老に栄進、壮大な野心と抱負を藩の運命にかけて、幕末、維新の混乱期に挑んだ英傑河井継之助の生涯」と書き、書き終わったあとがきに「私はこの「峠」において、侍とはなにかということを考えてみたかった。その典型を越後長岡藩非門閥家老河井継之助にもとめたことは書き終わってからも間違っていなかったとひそかに自負している」と書いている。
余程の自信作と思ったのか、あるいは余程満足感に浸っていたのだろうか。

小説では、彼の生涯を書いているが映画では、慶応3年{1867}大政奉還以後、河井継之助の死まで約1年間を描き、戊辰戦争勃発後、小藩越後長岡藩家老河井継之助は東軍、西軍、どちらにも属さない武装中立を目指す。
戦うことが当たり前となっていた武士の時代。民の暮らしを守るため戦争を避けようとした。だが和平を願って臨んだ小千谷会談は,軍監岩村精一郎の頑固な対応に依って決裂した。

継之助は徳川譜代の大名として義を貫き、西軍と砲火を交えるという決断を下す。しかし、3か月に及ぶ激戦の結果、長岡のまちは悉く焼き尽くされ、藩士たちは苦難の「八十里越」を経て会津へ向かう。弾丸を受け負傷し高熱にうなされた継之助も辻篭で悪路に揺れながらこの道を通り、「八十里、腰抜け武士の越す峠」と自嘲の句を詠んだという。

そして塩沢村{現・只見町}の医師・矢沢宗益の家で最後を迎える。継之助は棺と骨箱を作らせ、自分を火葬するための火を起こさせたという。8月16日午後8時頃幕末の風雲を走り続けた継之助は、真っ赤な炎とともに天に昇ったという。享年42歳。
後日、彼の死を知った西郷隆盛や山県有朋、勝海舟もその死を惜しんだという。その西郷も明治10年9月24日西南戦争に敗れ、城山で自刃した時、別府晋介が介錯したという。河井と西郷二人の性格も死に方も違うが、どこか重なっているような気がする。

さて、私が司馬作品に出会ったのは、「竜馬がゆく」である。以来多数の作品を乱読したが、どの作品も読み進むと、本を手から離せない状態で、前へ前へとのめり込んでいくような感じであった。歯切れの良い、小気味の良い文体がそうさせたのであろう。司馬作品の「竜馬がゆく」の坂本竜馬や「花神」の大村益次郎、「坂の上の雲」の秋山好古、真之兄弟、そして、「峠」河井継之助など、埋もれていた歴史上の人物が司馬作品によって現代に蘇ったといっても過言でないと思う。「まことに小さな国が、開花期を迎えようとしている・・・

のぼってゆく一朶の白い雲が輝いているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう」坂の上の雲の冒頭の言葉である。又、竜馬が暗殺されたシーンを「天が、この国の歴史の混乱を収拾するために、この若者を地上に下し、その使命が終わった時、惜しげもなく天へ召しかえした」これがこの作品の最後の文章であり、いつ読んでも心踊る言葉である。

司馬遼太郎が亡くなったのが1996年2月12日。記念館はその5年後、2001年11月1日東大阪市の自宅の敷地内に安藤忠雄氏設計の記念館を建設して一体化された。1階のフロアーは高さ11mの壁面いっぱいに書棚がとりつけられ、資料、自書、翻訳など2万冊もの蔵書がイメージ展示してある。又、自宅の玄関、廊下、書斎、書庫などの書棚に約6万冊の蔵書があるという。正に図書館である。
この多くの資料の中から、珠玉の一滴一滴を取り出し、光り輝き、躍動する文章にしてゆく。それが司馬作品の魅力なのだろう。中庭から眺めた司馬さんのサンルーム、その奥の書斎。十分満足した2時間余りであった。

私には、司馬遼太郎の死を「天は、未だその使命が終わらぬのに、無情にも、惜しげもなく天に召しかえした」そのように思う。
写真は、司馬遼太郎自筆の表札。記念館前にて。映画「峠」パンプレット

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(2022/07/01)

善光寺ご開帳

遠くとも 一度は参れ善光寺 花溢るる 信濃路の春

残念ながら季節は春ではないし、善光寺には何度か訪れてはいた。しかし、今回は7年に一度のご開帳であり、しかも4月3日から6月29日まで88日間の開催で残り僅かである。
そこで、以前から長野在住の友人からお誘いを頂いていたので、今回22日の上京に合わせ、23日午後立ち寄り友人の家に一泊した。

東京駅から長野駅まで「はくたか」で約1時間速いものである。ホームに降り立つと県歌「信濃の国」が流れてくる。
明治33年発表された県歌であるが、全国の県歌の中では最も古い歌でなかろうか。それが今日まで色あせることなく歌い継がれてきていることは、いかに素晴らしい曲かがわかるし歌詞を紹介出来ないのが残念だが私の好きな歌の一つです。

迎えに来ていた友人の車で自宅へ。小休憩後近くの温泉でひと汗流し、夕食は友人夫婦と市内の小料理屋へ。友人の配慮で海なし県にもかかわらず、鮮度の良いお刺身と鍋料理に舌鼓を打ち、しばし痛飲、友好を深めた。
そこまでは良かったが、帰宅後2次会と称して深夜まで・・・あとはバッタンキューである。

さて、翌日24日朝食後善光寺へ行った。ご存知の通り7年に一度のご開帳は、ご本尊と同じ姿をした「前立本尊」を本堂で公開することである。
内陣の阿弥陀如来の右手に結ばれた金糸は五色の糸となってのびていて、更に白い「善の綱」となって回向柱に結ばれている。
絶対仏であるご本尊の御身代わりが最終的には、本堂前に立つ「回向柱」であろう。それ故、多くの人々が回向柱に片手を添えて願をかける。

私も単純な願いであるが「家内安全」「商売繁盛」を祈願した。この回向柱は、宝永4年{1707}現本堂が再建された際、松代藩が幕府から普請の監督を任され、それが縁で現在まで松代から寄進されていると言う。
それにしても、駐車場、仲見世通り,有料拝観場所どこも人、人、人。
人の波であり洪水である。加えて猛暑である。もはやコロナ禍以前の賑わいが戻って来ている様な気さえする。そんな訳で、本堂内、外陣からのお参りに留めましたが、その場にいた僧侶に善光寺の年間参拝者数を聞いたところコロナ禍以前は約700万人とのこと。
立山・黒部アルペンルートがコロナ禍以前で約90万人でありさすが善光寺である。

昼食は混雑を避けて、かつ旨い処へ。郊外の信濃新町地場産業開発センター経営の「道の駅GIBA」へ。さすがここの蕎麦は旨かった。
多少のお土産を調達し長野駅へ。友人に感謝し富山へ。久し振りの2泊3日の外泊であった。

参考まで「牛に引かれて 善光寺参り」の牛は何処から来たか。それは小諸市千曲川左岸の霊場「布引観音」から。角に布を引っ掛けた牛を追いかけて行ったら善光寺であった。以前聞いた話。真偽は?

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(2022/06/25)

知人・友人を訪ねて

6月22日{水}公益財団法人・全日本弓道連盟定時評議員会に出席で上京した機会に、国の知人・友人を訪ねた。11時に防衛省大臣官房審議官・岩元達弘氏、{財務省より出向}と人事教育局衛生官付・防衛部員・薬学博士・坂西義史氏{厚労省より出向}を訪ねた。

坂西氏がわざわざ市ヶ谷駅近くまで迎えに来てくれたのには恐縮至極であった。二人で審議官室に入ったが、久しぶりの再会であり、話に花が咲きあっという間に1時間が過ぎ去った。別れ際に岩本氏が7月1日付で転勤になるという。驚いた私に新天地の名刺が差し出され、また驚いた。何と近畿財務局長である。色々と話題になった局であったことについ触れてしまったが、氏の性格、能力なら立派に職務を遂行されると激励し、二人の今後の活躍を期待し防衛省を後にした。

午後は全日本弓道連盟の定時評議員会に出席し、夕方、当日の宿泊場所の全国町村会館で文科省の若手職員と懇談した。メンバーのいずれも、25歳前後の時に文科省の研修生として3週間余り滑川市に派遣された折、わが家で懇談した青年たちである。しかし、今では管理職として活躍していることは,嬉しい限りである。中には当日の懇談会には出席できないが、私の顔だけでもと会いに来てくれた人もいた。

又、12月にはフランスに赴任する人もいた。釈迦に説法とは思いつつ、遣隋使や遣唐使の例を挙げ、生命の危険を顧みず、荒海を乗り越え大陸に渡り、技術や制度等を日本に持ち帰り、日本の礎を築いた官僚、の矜持を忘れるなかれ、と話した。言われた本人は判りましたと応えてはいましたが、私は、少々先輩面したことに反省しきりです。

又、ある人は、現在、山梨県教育委員会教育次長として文科省より出向中ですが、わざわざ甲府より山梨ワインを土産に駆けつけてくれたり、本当に有り難いことです。文科省では全国の自治体に研修生を派遣しているが、それらの職員が集まる機会はなく,他からはうらやましく思われているそうです。
ここでの懇談会もあっという間の2時間30分でした。

又、全国町村会館別館6階に岸田総理の派閥である「宏池会」の事務所があり、その事務局長に滑川出身の松倉吉弘が就任している。彼を訪ね暫し懇談話題はどうしても参議院選挙に及んだ。

翌日、23日は午前、経済産業省製造産業局長・藤木俊光氏を局長室に訪ねた。実は富山を出発した22日の北日本新聞に省庁人事が報道され、藤木氏は7月1日付で官房長となっていた。そのことから当然お祝いの言葉から始まった。彼はまだ56歳将来が期待されることを話し、懇談に入った。
次いで、消防庁の国民保護・防災部長・荻澤滋氏を部長室に訪ねた。最近頻発する能登珠洲地震から話題は多岐にわたった。

いづれにしても、今回訪ねたのは、かってそれぞれの省庁から富山県に出向中に知り合った人々で{文科省を除く}元気で活躍している姿を見るとやはり嬉しく思うものです。

写真は、防衛省にて右、岩元氏、左、坂西氏。文科省若手官僚の人々と全国町村会館にて。
経済産業省局長室にて藤木氏。消防庁・部長室にて荻澤氏。

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(2022/06/23)

白洲次郎・正子特別展

樹も草も しずかに梅雨 はじまりぬ  日野草丈

県立水墨美術館で開催中の白洲次郎生誕120年記念特別展ー武相荘折々のくらしーを鑑賞した。
白洲次郎{1902ー1985}は兵庫県芦屋で生まれ育った。綿貿易商「白洲商店」を興して巨額の富を築いた父の下、19歳で旧制神戸一中を卒業後、英国のケンブリッジ大学クレア・カレッジに留学した。
昭和恐慌によって白洲商店が倒産、大学院に在学中の次郎もやむなく日本に戻った。彼は、第二次大戦では開戦当初から日本の敗戦を見抜き、1942年鶴川{現・東京都町田市}に移住「武相荘」と名付けた茅葺きの日本家屋に住み、農業に従事する。

戦後吉田茂に請われてGHQとの折衝に当たるが、英国仕込みの流暢な英語で言うべきことは堂々と主張する姿から「従順ならざる唯一の日本人」と呼ばれたと言う。
又、洗練された身ごなしで「日本人で初めてジーンズをはいた男」とも呼ばれたと言う。特に、日本国憲法制定にも関わったり、1951年9月サンフランシスコ講和条約締結式にも、吉田茂側近として同行し活躍した。吉田の受託演説は当初英文で書かれていたのを白洲の主張で日本語で演説したと言う。

その演説の全文が奉書巻紙に書かれ展示してあった{複製}.これらのことから政界入りを求める声も強かったが、生涯在野を貫き、吉田政権崩壊後、実業家として東北電力会長や軽井沢ゴルフ倶楽部理事長など務めた。旧制中学時代の同級生・今日出海は彼を「野人」と評している。
正子{1910ー1998}は樺山伯爵の次女として、東京に生まれる。

祖父は薩摩出身で海軍大臣等歴任した樺山資紀、父の愛輔は貴族院議員、幼いころから能を習い、学習院女子部初等科卒業、同年米国のハートリッジスクール入学。帰国後互いに一目惚れして結婚。
古典芸能に親しみ、着物や骨董品を愛し、初の著書「お能」を皮切りに、「韋駄天お正」と命名された通り、自分の眼で見、足を運んで執筆する姿勢は、終生変わらなかったと言う。

今回の特別展では、武相荘での暮らしにスポットを当て、次郎の洋服や時計、道具類をはじめ、カントリー・ジェントルマンの志で戦後日本の復興に奔走した資料や正子が愛した着物や骨董品、自筆原稿など展示してあった。特に興味を引いたのは、次郎が英国留学中に購入した愛車の「ベントレー XT7471 1924年製{サワイミュージアム蔵}がエントランスホールに展示してあった。留学生でありながら、車を乗り回すとは、よほど裕福な生活を送っていたのだろう。

又、「武相荘」命名の由来は、武蔵と相模の境にあるこの地に因んだのと、彼独特の一捻りしたという気持ちから、無愛想をかけたと言う。私から言わせると、単に同音異句の駄洒落でなく、品の良いウイットと思う。近衛内閣の司法大臣を務めた風見章氏が「武相荘」と揮毫し額装にして居間に掛けてあると言う。彼の遺言は「葬式無用、戒名不用」であった。正子が亡くなって3年後、2001年10月遺族によって旧白洲邸武相荘として開館した。

それにしても、GHQとも対等に渡りあった気骨ある日本人がいたことは嬉しい限りである。昨今の社会を見ると、政治の世界も経済界もあらゆる分野でこの様な人物が居なくなっていることは淋しい限りである。

写真はパンプレットと1924年製・ベントレー XT7471

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(2022/06/09)

「琉球」

6月1日{水}東京国立博物館平成館で、沖縄復帰50年記念特別展として開催されている「琉球」{5月3日ー6月26日}を鑑賞した。
入館料2100円。正直、高い方である。一瞬えぇと思ったが、最近物価は上がっているし、首里城再建の寄付金と勝手に納得し入館した。

沖縄県は、かって琉球王国という独立国でした。15世紀初頭から約450年以上にわたり海洋国家として独自の文化を繁栄させた。
王都である首里には首里城がそびえ、城内には各国からもたらされた絵画や陶磁器、国内で作られた漆芸品、染織品などで溢れていたという。
しかし、第2次世界大戦のさなか、沖縄は国内では唯一の激しい地上戦が展開され、その結果、首里城を始め、建造物や芸術品など多くが失われた。

そこで、沖縄県では、平成27年度より琉球王国文化遺産集積・再興事業として失われた文化遺産の復元等に取り組みました。
ただ残念ながら令和元年{2019}10月31日未明大規模な火災によって「正殿」など重要な建造物が全焼した。
中でも約450年にわたり、政治、外交、文化の中心的存在であり、さらに王国の祭り、儀式や祈りを行う聖地でもあった首里城は県民の心の拠り所であったことから、政府も令和2年{2020}3月27日関係閣僚会議において「首里城正殿等復元に向けた工程表」が決定され、本殿は令和8年{2026}を復元完成を目途に新しい歩みを始めた。

処で、琉球王国は明治政府によって、明治5年琉球藩を創設。明治12年{1879}4月4日、琉球処分の名の下に沖縄県とした。私は、処分という言い方が理解出来ない。琉球が日本に対し、何か悪いことでもしたのだろうか。
確かに琉球王国時代、清国と薩摩や徳川幕府と二股外交を行っていた。しかし、それは理由にならない。

かって、私は歴史教科書で神功皇后時代、新羅を含め南朝鮮半島一帯を「三韓征伐」と称して攻め入った。或は、豊臣秀吉の時代、朝鮮征伐と称して「文禄の役」、「慶長の役」を起こす。また、明治6年{1873}西郷隆盛の征韓論が台頭する。いづれも相手国は日本に対し侵略でもしただろうか。日本に攻めてきたのは蒙古来襲ぐらいである。明治政府の富国強兵政策に依って教科書も政府に都合のいいように作られた一例であろう。

そう考えると、沖縄県民の米軍基地反対運動の根底にあるのは、或は、琉球処分まで遡るのかも知れない。昭和47年{1972}5月15日沖縄は本土に復帰し50年が経過した。
しかし、未だに本土とは県民所得では格差があると言う。これらを含め一日も早く本土と同等になる事を願うものである。

さて、展示品であるが余りにも多くあり、書きようがないが首里城正殿に掛けられていたという鐘で、琉球の象徴ともいえる宝であり重要文化財指定で天順2年{1458}藤原善作の「万国津梁{ばんこくしんりょう}の鐘」や王権のシンボル、国王の冠{国宝}など見どころ満載であり、「百聞は一見に如かず」である。特に私の興味を引いたのは、沖縄県うるま市勝連城址から出土した「ローマ帝国貨幣」や「オスマン帝国」貨幣である。
琉球王国はアジア各地はもとより、いかに幅広く交易があったかが分かる。何度も沖縄へは行ったが、やはり日本とは芸術、文化、建造物どれを見ても違う異国情緒溢れた所である。

当日は、公益財団法人・日本弓道連盟理事会が久し振りに対面会議として開催され、上京した折、鑑賞したものです。

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(2022/06/02)

「蜃気楼」

みつけしは 非番の厨夫 蜃気楼  山口誓子

5月25日{水}午後1時頃魚津で蜃気楼を見た。友人5人で昼食後、友人の1人が今日の蜃気楼情報では、出現率が40%と高いから見に行くか。との声で昼食場の近くにある「蜃気楼スポット」と言われる「海の駅」に行った。「道の駅」はよくあるが、ここは海辺に面しているので「海の駅蜃気楼」と言われている。

駐車場の道路沿いの堤防には、大勢の人々が、望遠レンズのカメラや双眼鏡、或は、望遠鏡等を構え観測していた。ボランティアガイドの方は,私達に肉眼でも見えるという。
しかし、元の原形が無いから、これが蜃気楼か、一瞬戸惑う。でも景色が大きく伸びているので、やはりこれが蜃気楼か、と納得する。残念ながら私達は観測機材は何もなく、仕方なく他人の双眼鏡をお借りして覗いたら、はっきりとした風景であった。

双眼鏡はカメラで使う三脚の上にセットされブレる心配はない。なるほど、こんな観測の仕方もあるのか、と感心した。私が見たのは、富山・射水方面であったが、富山新港の新湊大橋がローマ字の[X]を描くように変形しているのが、はっきりと確認出来たし橋脚が上部に反転したように見え、虚像の方が大きくなっていたし、富山の岩瀬ドームがロケットのように伸びている姿や、富山市内のビル郡もみな伸びているなど蜃気楼の特徴がすべて現れていたように思った。ガイドさんの話では、蜃気楼のランクはA–Eまで5ランクあるが、当日はcランクと言う。ランク付けの基準は「観測時間の長さ」「蜃気楼の長さ」「鮮明度」等総合的に判断するとのことでした。

また、当日の魚津は風も少しあり、波立っていたので最初は駄目かと思っていましたが、ガイドさんの話では、富山・射水地方は波も風もないからで、観測地点の天候より出現地域の天候が大事とのこと。この様子は翌26日の北日本新聞でも報道され、今季25回目の上位{春型}蜃気楼であったことや、午前中には黒部方面にEランク、そして同11時50分頃から私が見た富山・射水方面も観測されたと報じていた。
北日本新聞では、毎日の気象情報の中で「今日の蜃気楼・魚津市付近」として予報が出される。帰宅後25日の予報を見ると、魚津では、午前中を中心に晴れて、北寄りの微風、蜃気楼の出現する可能性ある。確率40%と報じていた。

さて、蜃気楼と言えば魚津だが、実は滑川でも観測することが出来る。私の家から海岸まで200m位である。高校生の時までよく蜃気楼が出た、との情報で海岸へ見に言ったことを憶えている。しかし、昭和39年海岸浸食の為に堤防が6m嵩上げ工事が行われ、あたかも、刑務所の塀のような高さになり、出現していても中々見る事が出来なくなった。
しかし、明治・大正・昭和20年代までの観光パンフレットは「滑川の二大奇観」と称し「ほたるいか」と「蜃気楼」を取り上げている。片や魚津でも「ほたるいか」の漁獲量は滑川ほどないが結構ある。

そんな中、滑川では「ほたるいか」の海上遊覧を行っていたので,両市がすみ分けし「ほたるいか」の滑川、「蜃気楼」の魚津になったと言う。私も数十年ぶりの蜃気楼との出会いであった。しかもCランクで見ごたえのある自然現象の短いドラマを堪能した。

今回は残念ながらカメラに収めることはできなかったが、パンフレットには「蜃気楼は見れないと諦めていませんか。実は「魚津の蜃気楼は誰にも見る事が出来るんです」との見出しで、出現4条件が書いてありました。詳細は記しませんが、興味のある方は下記へ。
魚津市埋没林博物館 電話番号 0765ー22ー1049

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(2022/05/26)

第65回東京滑川会総会

塵にまみれし街路樹に いと麗しき小雨降りけり

5月21日{土}11時ー13時30分まで、東京大手町サンケイプラザ3階にて総会・懇親会が開催されました。会場に入った10時30分頃より雨が降り出しましたが、会場を後にした午後2時頃には晴れ上がり、木々の塵が洗い流され、新緑の緑が一層鮮やかに輝いていました。

さて、例年なら100名前後の出席者でしたが、今回はやはり新型コロナの影響で出席者は約60名と少なかったですが、やむを得ないことと思います。
それでも、3年ぶりの開催とあって、開会前からあちこちで再会を喜び合う輪が出来ました。
総会は上田会長の挨拶のあと、会長を議長にして進められ、物故会員に対しての黙祷、令和3年事業及び会計報告、令和4年事業計画及び予算案がいづれも承認され、次いで、役員改選に入り上田芳夫会長が退任、新たに土肥正明氏{清水町出身が}就任、それぞれ挨拶がありました。

上田氏には、8年間の長きにわたり会長として会報「ほたるいかだより」を発行されるなど、会の運営に新風を送るなど、今日までのご尽力に敬意を表するものです。
尚、上田氏と関西滑川会会長千先氏と私は滑川高校の同級生と言う縁もあり大変親しくさせて頂きました。本当にご苦労様でした。
また、土肥新会長には、会の更なる発展の為にご活躍を祈念するものです。

次いで、来賓紹介のあと、滑川会副会長の平山紀夫氏が「ワクチンのことを知ろう」と題しミニ講演がありました。
演題が身近な話題であり、かつ、判りやすく解説され出席者は真剣に聞き入っていました。平山氏は農水省時代主に動物ワクチンを担当し、現在は岡山理科大学獣医学部非常勤講師として活躍されておられます。会員には多彩なメンバーがおられることに改めて感心しました。

懇親会に移り、まず、来賓祝辞は市長代理で柿沢昌宏副市長が市政の現状とふるさと納税に理解と協力を求める言葉がありました。
次いで、富山県首都圏本部本部長の砂原賢司氏は氏の父親が警察官だったので滑川赴任時、田中小学校当時の思い出も含めて話され、次いで東京富山県人会連合会専務理事・伊東靖史氏の3名で、乾杯は千先久矩関西滑川会会長の発声によって懇親会に入りました。

余興は、会員による新川古代神踊りや越中おわら節などが披露され、懇親会が盛り上がりました。和やかな雰囲気で時間は流れ、最後に滑川市と滑川会双方のエールの交換があり3年ぶりの再会ゆえ名残りは尽きませんでしたが、滞りなく終了しました。

いつも思うことですが、遠く故郷滑川を離れても、いつも故郷を忘れることなく、ふるさとの発展を願っておられる方がいることは、本市にとっても本当に心強い限りです。

写真は、土肥正明新会長の就任挨拶。

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(2022/05/23)

令和4年薬神神社春季例大祭

今日 何も彼も なにもかも 春らしく  稲畑汀子

5月8日{日}午前9時より恒例の例大祭{主催・薬神神社奉賛会・石倉雅俊会長}が加積雪島神社境内にある薬神神社において、横川宮司によって厳粛に執り行われた。
今年のGWは4月29日から5月8日まで、最長10日間であり、その最終日であったが当日は、雲一つなく抜けるような空の青さ、黄色味がかった若葉がキラキラと輝き、青葉の新緑が色鮮やかな最高の日和でした。

宮司による祝詞奏上、石倉会長はじめ薬業関係者、来賓、出席者等順次玉串奉奠を行い、商売繁盛、交通安全、コロナ禍の早期終息等を祈願しました。
今回は、2月の市長選挙で初当選された水野達夫市長も参列されました。
また、昨年6月に75歳で急逝された故石崎則紀氏の奥さんと息子さんが参列され玉串奉奠を行い、先人同様薬神神社に合祀されました。石崎氏は今から40年前、私の後、第7代滑川市薬業青年部部長を始めとし、旧富山県薬業配置部会連合会・栃木県部会長など多くの要職を歴任し、業界の発展に寄与されました。私個人としても大変お世話になった方で、ご遺族と在りし日の氏を偲び、しばし、思い出にふけりました。終了後、石倉会長より挨拶があり、市長の参列に謝意を表し、市に対し引き続き業界の振興に理解を求められました。

石崎氏のご遺族には故人の功績を称えた。そして新型コロナは社会に大きな変化を与えた。我々もその変化に対応する必要性を述べ、自主回収や、市内の製薬会社の最近の動向などにも触れ、多くの困難があるが力を合わせ乗り越えてゆかねばならないと決意が述べられた。

次いで、来賓挨拶で水野市長は自身の父が14年前亡くなったが、それまで配置業者として島根県を回商していたこと。その懸場帳は父と共に回商していた自身の弟さんが、10数年前より現地居住し大田市周辺を回商し、現在家族と一緒に松江市に住んでいることなど、薬業と自身の関わりを話、業界の発展に尽力する旨述べられました。

また、大門良輔県議会議員は自分の健康は自らが守ること、すなわちセルフメディケーションの重要性を述べ、幸福も健康であって始めて成り立つ。そこに置き薬の果たす役割がある事を述べ、激励された。

例大祭の後始末を終えた後、社務所に集まり、故石崎氏の思い出や、業界の諸問題について語り合い散会した。

写真は、玉串奉奠する私。挨拶する石倉会長。水野市長。

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(2022/05/08)

令和4年度 第10回「日本海開き」

咲きみちて こぼるる花も なかりけれ  虚子

5月2日{月}午後1時10分から滑川高校恒例行事の「日本海開き」が上市川河口、高月海岸で開催された。これは、かって県立水産高校時代の昭和26年{1951}から始まり、平成12年{2000}海洋高校と改名後も続き、平成22年{2010}高校再編で現在の滑川高校海洋科へと引き継がれている伝統行事です。
再編後から10回目、通算71回の歴史を刻んでいる。当日は、海洋科の生徒1-3年生約120名が参加した。

目的は「海洋高校の伝統を継承し、富山県立滑川高等学校の生徒のはつらつとした若さと旺盛な心意気で、海に挑む海洋精神と粘り強い意気の高揚を図る」とある。
開催時刻の天候は、気温14℃、海水温13℃{昨年は15℃}少々風があり、見物している私でも肌寒く感じる天候でした。

体感温度は、風速1m/S増加するごとに1℃低くなると言われるから生徒諸君にとってはかなり寒かったと思う。最初に学年ごとに円陣を組み、気合を入れた後、ピストルの合図で3年生が一斉に海に飛び込み、20m先の浮きまで泳ぐ者、波打ち際で水を掛け合う者など様々でした。
3年生が上がると、2年生、1年生と順次行い、その間水野市長、私、大門県議、亀谷校長が太鼓を打ち鳴らし、生徒の士気を鼓舞します。

それにしても、やはり若いとは、素晴らしいし、羨ましい。焚き火を囲んでいるとは言え、勢いよく飛び込む姿には、冒頭の「咲きみちて こぼるる花」のように感じました。また、いつも思う事だが、「日本海開き」とは、少々大袈裟に聞こえるが、それ位の気概を持つように、との願いの表れだろうと思う。

写真は、太鼓を打つ亀谷校長、私、3年生の風景

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(2022/05/02)

姉妹都市・豊頃町

さまざまなこと 思い出す 桜かな  芭蕉

函館では・桜の開花宣言が出たという。これを聞くとやはり地球温暖化を、思わずにおれない。昭和40年代青森県弘前城の桜まつりを何度も見物に行った。時期は4月末から5月のGW期間中であった。これが終わると、桜前線は津軽海峡を渡った。その時と比べれば随分開花が早くなっている。

さて、北海道中川郡豊頃町と滑川市が姉妹都市の提携を結んだのは昭和59年{1984}7月である。それ以外にも滑川市は、長野県小諸市・昭和49年{1974}4月・栃木県西那須野町{現・那須塩原市}平成8年{1996}4月・米国イリノイ州シャンバーグ市平成9年{1997}4月と国際姉妹都市を結んでいる。そんなことから米国を除き、数年に一度相互交流が行われている。

4月18日豊頃町から昨年4月無競争当選された按田武町長、藤田博規議長等9人が来滑された。公式行事の後、19時過ぎから我が家で暫し懇談会を開いた。そこで今回は豊頃町について述べる。

豊頃町は道東帯広市の約30㎞程に位置し、直近の資料によれば、人口3024人、面積536.1K㎡。滑川市は人口33320人、面積54.6K㎡。つまり、人口は滑川市が10倍以上あるが、面積は約10分の1である。豊頃の語源は諸説あるが、アイヌ語でトフヨコロ・・岬の燃イタ跡の所と言われている。

ーー新天地を求めて ふるさとをあとにーー
明治から大正の終わりごろまで、多くの人々が滑川の地をあとに、新天地を求めて去った。その行先は、昼なお暗い原始林に覆われた厳寒の地北海道であり不毛な原野・那須野が原であり、過酷な労働と生命の危険にさらされ続けた足尾銅山であった。
滑川市史によれば、豊頃への入村は「明治26年{1893}旧・中加積村森尻新村の碓井順平が最初で家族と妻の兄・神谷諒平の一家と共に豊頃村{現・豊頃町}の無願開墾地ウシシュべツの原野に入植した。のち、ウツプトに転居した碓井は貸付地3万坪のほか6万坪を買い入れ、小作人を雇い開墾を進めたが、この様な資本力のある者は、極めて希なケースであった。碓井、神谷両人の勧めで、翌27年按田甚七、神谷喜作ら7戸入植。明治31年、豊頃村は戸数398、人口1871人を数え、移住者は富山県人が最も多かったという。

これより前、ウシュシュべツへ最も早く入植したのは片原長吉{上島村・9人} 石田久助{栃山・8人}尾崎吉次郎{東福寺村・5人}尾沢庄次郎{吾妻町・8人}と言われている。豊頃村は十勝川の両岸にまたがる広大な原野で、明治26年十勝川河口の大津と帯広間の道路が開通、茂岩駅が設けられ人馬の継立てをするようになった。移住者は大津港で下船し、川をさかのぼって入植地へ向かったという」帯広市史や池田町の歴史書に当時の入植状況が記されている。

川原栄次郎{旧・浜加積村北野}夫婦は子ども5人と共に、明治31年{1898}3月7日滑川出立、魚津から船で伏木港へ行き大型船に乗船、北海道へ向かった。前年の大凶作で生まれ故郷に見切りをつけ、北海道開拓の希望を燃やしたと言われる。七昼夜を費やして大津着。およそ36㎞積雪約60㎝の雪道を目的地の利別太の碓井宗吉方へ16日夕刻到着したという。移住者は、第一に草小屋を建てて開墾に着手するが、川筋の肥沃地は大体大樹林で、先ず伐木から始めなくてはならない。根株を手で掘り起こす大仕事であった。

大木は一日がかりで伐り倒し、その枝を重ね柴を積み上げて火をつけた。女や子どもは、下草のトクサを刈り、乾くを待って焼いた。草原地帯はおもにカシワの疎林であったから手間は省けたが、鈴蘭、カヤ、萩の根が堅く表土に絡んで、その手起し、開墾は容易でなかった。

樹林地は、草原より苦労が多いかわり肥沃地であった。小屋掛けは、なるべく秋に行うのが得策と言われ、伐木道具、縄、釘が要った。15坪の掘立小屋を建てる材料の材木は、自分で伐さい、草はカヤ、ヨシ、クマササを刈り、材料不足の時は、周りをむしろで囲い風雪を防ぐ。
のち春に樹の皮をはいで補修し、秋を待って、カヤ,ヨシ、の類で補修を加えなければ厳寒を過ごすことができなかった。大自然の厳しさ、十勝川とその支流の氾濫と、4年に一度の冷害は、開拓に携わる人々の努力を度々打ち崩した。この為、移転する人も少なくなかった。滑川から希望を持つて移住した者すべてが成功した訳ではない。苦闘に耐えかねて、再び故郷に戻る者、東京などの都市へ流入する者,或は、炭坑や土木工事の人夫となって働く者など様々であった」と記している。

その中で艱難辛苦に耐え、滑川出身者が心の拠り所として、「豊頃滑川会」を結成、団結し、ふるさと滑川に思いを馳せながら頑張り、今日を迎えた多くの人々がいた。それを、昭和56年頃「豊頃滑川会」があることを知った当時の滑川市長・宮崎進策氏が豊頃町を訪問し歓談。昭和58年9月、市制30周年記念事業として、市民参加の「ふれあいの船」を豊頃町などに派遣した。当時私は、北海道を配置薬業に従事中で、一泊だけメンバーと合流し懇談した思い出がある。これらが縁の一つとなり姉妹都市締結に繋がった。豊頃町での締結式には私自身も出席した一人であり、その後、何度も訪問する機会があり、今でも交流が続き友人もいる。こんなことから4期16年町長を務め昨年4月引退された宮口孝氏もその一人で何度か我が家で懇談もした。それ故、私にとって思いの強い地ある。

また豊頃町は福島県相馬市とも姉妹都市を結んでいる。これは、明治30年二宮尊徳の孫である二宮尊親一行が相馬から入植、二宮農場を開き、開拓に尽力し、その象徴として二宮神社が町内にある。豊頃町との関係を簡単に述べたが豊頃町の今日の発展は多くの人々の血と涙と汗と努力の結晶の賜物であることは、滑川市もまた同様である。

滑川市の今日までの長い道のりは、昭和44年の早月・上市川の決壊による大水害をはじめ、豪雪や寄り回り波による高波被害など自然災害に繰り返し見舞われ、また、昭和34年から9年間にわたる財政再建団体としての辛く苦しい時期を経験するなど、決して平坦なものでなった。
この様に自治体経営も困難の連続でしたが,様々な苦難を乗り越えた幾多の先人先達の艱難辛苦とその営為の跡を回顧することも時として必要である。人々が歩んだ歴史の中に、未来に花咲くヒントや種子が一杯詰まっている。そう思うからこの様に書いた訳である。

写真は真ん中が按田町長、隣が藤田議長。入植者に按田姓があることから、町長の先祖かも

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(2022/04/24)

京都清水寺・森貫主講演会

散る桜 残る桜も 散る桜  良寛

染井吉野から八重桜へと移り行く中、4月17日{日}恒例の清水寺森清範貫主を講師にお迎えしての市民文化講演会{主催・滑川音羽の会会長・中屋一博}が市民大ホールで開催された。昨年、一昨年と新型コロナウイルスの為、中止となり今回は3年ぶりの開催となった。
会場では、コロナ禍の為「マスク着用」「咳エチケット」「手指消毒」等、感染防止対策を徹底しての開催でした。

前講の清水寺執事補・大西英玄氏に続き森貫主が「清水寺平成の大修理完成す」と題し、講演。貫主は、国宝本堂を始め、13年の歳月を掛けた大修理を振り返り、寛永6年{1629}成就院から火が出て、ほぼ全焼したが、三代将軍家光公が再建を発願し、わずか4年で堂塔伽藍を再建した。
その後、堂の復興と共に成就院の庭園が整備され、名石、名木を配し、巧みに借景を取り込む工夫を凝らし、特に月に照らされる光景が絶妙で「月の庭」として有名になった。これに左京区の妙満寺の「雪の庭」と北野天満宮の梅苑の「花の庭」が京都の三名苑「雪月花」と言われた。しかし、北野天満宮の梅苑が荒廃して、いつの間にか三名苑は雪月の二苑となった。

しかし、近年この梅苑が整備され、今年1月森貫主も出席し、北野天満宮で三苑奉告祭が行われ再出発が祝われたと言う。取り分け、三名苑の中でも清水寺成就院の「月の庭」は最高とのこと。私も何度か成就院の庭園は見学していますが、残念ながら昼ばかりでした。次回は是非とも月の庭を眺めて観たいものです。
また明治元年神仏分離や上地令で清水寺の寺地が十分の一に減少した時の苦労話や明治30年に本堂が国宝に指定され、本堂屋根が檜皮葺に葺き替えられ、以後約50年に一度行われ、今回の大修理でも葺き替えられたと言う。

話題は、ウクライナとロシアの問題にもふれ、両国の歴史から紐解き、文豪トルストイの日露戦争について書いた論文を引用し「東西を隔てた人々を見るといい。一方は、一切の殺生を禁ずる仏教徒であり、一方は世界中の人々は兄弟であり、愛を大切にするキリスト教徒である。今こそ汝の敵を愛せよ。とキリスト教は教えたのではないか」と貫主は話され、お互いに信頼関係を構築して保っていかねばならないと力説されました。

時々ユーモアを交えながらの話にあっという間の一時間でした。会場を埋めた多くの方々から来年も是非との声が寄せられました。

講演会終了後、厚生連滑川病院中庭にある、自噴している孝徳泉と言われる小さな泉の脇にある了安のお墓に、京都から持参された清水寺音羽の滝の水をお墓に掛け、森貫主と大西執事甫によって読経があげられました。

私は、冒頭挨拶の中で、滑川と清水寺との縁にふれ、民話「孝徳泉」の了安と安静親子の話を会場にいた約150名の方々に、ご存知の方に挙手を求めたところ約半数でした。そこで、改めて孝徳泉の謂れを簡単に説明しました。

文禄2年{1593}美作の了安と安静親子が安静の母の菩提を弔うため阿弥陀如来を担ぎ全国を行脚中、滑川の尾張屋に投宿。
その夜から発病。死を悟った了安は息子安静に清水寺の音羽の滝の水が飲みたいと言う。安静は京へ行き清水寺の音羽の滝の冷水を汲み持ち帰ったが既に了安は亡くなっていた。了安が埋葬された所で泣き崩れる安静に阿弥陀如来が現れて、折角の冷水、たっぷりと父に飲ませて上げなさいと告げて消えたという。

音羽の滝の冷水を掛けたところ、そこからこんこんと冷水が湧き出てきた。この親子の美談を聞いた地元の人々が後年、これを「孝徳泉」と名付けて今日まで大切に維持、管理され現在、厚生連滑川病院中庭にある。
また、親子が背負っていた、阿弥陀如来は尾張屋に安置されていたが、元禄年間、阿弥陀如来が尾張屋の主人の枕元に現れて広際寺へ行きたいと告げたという。現在、広際寺の本尊として祀られている。

簡単に説明すると以上である。これが広際寺縁起として巻物として残っている。私も本尊や巻物は見せてもらったことがある。また、250年余経った天保14年本町桐沢家の先代綿屋五郎衛始めてこれを聞きたる形跡を存す。これが桐沢家記録として現存する。
これ等のことが、大正2年発行の滑川町誌に詳細に記されている。
また、昭和8年富山県女子師範学校附属小学校編、終身ー「郷土の例話」昭和13年コドモ芸術学園発行、「伝説美談」。昭和61年滑川市教育委員会発行「滑川の昔ばなし」の中に収められている。昨今の世情を見ると、親が子を、子が親を簡単に殺すニュースが余りにも多すぎる時こそ、義務教育の中で取り上げるべきと思う。

翌日、わが家で休憩後、来年の再会を約し京都へお帰りになった。今回の講演会は25回であり、森貫主曰く、25回も毎年同じ所へ行っているのは滑川だけであり、2年ぶりに県外の講演に出かけるのも滑川が最初である。の言葉には、感謝しかありません。

写真は、挨拶の私、前講の大西執事補,、講演の森貫主,わが家でのスナップ写真

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(2022/04/18)

春の四重奏

桜ばな いのち一ぱい咲くからに 生命をかけて わが眺めたり 岡本かの子

朝日町には、誰が名付けたか「春の四重奏」といわれる絶景が季節限定で春に現れる。残雪の朝日岳をバックに、舟川堤防上の桜並木、菜の花畑、チューリップ畑である。
私は、ここ数年毎年行っているが、今年は4月11日好天日であり、この日は岩手県宮古の31℃を始めとし、全国各地で真夏日や夏日を観測した日である。ただ、天気が良いため残雪の山々がはっきり見えなかった。

さて、舟川の桜並木は1957年の舟川改修の際、堤防の両岸1200mに約280本のソメイヨシノが地元の皆さんの手で植えられ、剪定や防除などを行いながら大切に維持、管理されてきた。植えられてからすでに60年以上が経ち、今は立派な大木となって人々を楽しませて、しかも樹齢を考え、若木もちゃんと植栽されている。
そして、今から十数年前、残雪に桜並木、これに加えて菜の花とチューリップをコラボレーションする案が出た。しかし、桜の開花時期に合わせなければならず、チューリップの品種を早稲にしたり開花時期を調整するなど、苦労が多かったという。

11日は残念ながら、菜の花畑は田んぼ1枚ずれていたので写真は取りずらかったが、それでも充分満足出来た。当日は、平日にも拘わらず、奈良交通の観光バスや姫路、千葉、群馬等、県外ナンバー多数見られ、会場周辺は随分混雑していた。
現在、地元、商工会、自治体などで「四重奏実行委員会」を立ち上げ管理、運営を行っているという。当日も駐車場への誘導やボランティアガイド等は地元の人々が行っていた。

何でも「公助」に期待を寄せる風潮のある中で「春の四重奏」のように「自助」「共助」「公助」の役割について、改めて考える機会になった。
また、今日のように多数の県外客が訪れるようになったのも、地元の人々の努力と協力の賜物であると思う。

「ローマは一日にして成らず」の言葉を思い出す。

写真は、11日の風景とパンプレット

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(2022/04/12)

滑川高校入学式

いっせいに 桜咲きたる花びらの 一つ一つに 光ありつつ

わが家の小さな裏庭に、樹齢約20年位の染井吉野と枝垂れ桜の2本がある。
今年はウソの被害もなく久しぶりの花盛りで、先日友人と一緒にささやかな花見を催した。しかし、花見は1本や2本の桜ではやはり絵にならず、堤防上の数百本の桜や、城をバックにしたり、公園の中などの桜が一番と思う。

さて、4月に入り、どことなくウキウキする入学式や入社式が各地で行われている。滑川高校入学式も4月8日午後2時体育館で挙行された。
当日は学校敷地内の桜も入学式をお祝いするかのように満開であった。入学生は、普通科2クラス、商業科、薬業科、海洋科各1クラスで計5クラス200名である。式は新型コロナウイルスの影響で、国歌、君が代と校歌はテープで流されました。

従来は、君が代は出席者全員で唱和、校歌は在校生十数人がステージ上でピアノ演奏で新入生に聞かせていました。残念ですが止むを得ない事でした。亀谷校長の入学許可のあと、式辞で今日まで育てて頂いた多くの方々に感謝の心を持ち、充実した高校生活を送ってほしい。常に、目標に向かって努力することの大切さ。例え失敗してもそれを糧に、更に成長してほしい。そして、本校の生徒目標である「高きを求める情熱」に向かって学校生活を送り、それを、在校生、学校教職員全員でサポートするなど話されました。

新入生代表の宣誓、在校生代表の歓迎の言葉などや、担任紹介があり,式は滞りなく終了しました。ただ、式には保護者は生徒数ほど出席しておられましたが、在校生は代表者のみであり、これで3回この様な形での入学式でしたた。来年こそは従来の姿に戻ることを願わずにはおれません。冒頭の短歌は誰の歌かは知りませんが、私の好きな歌です。
正に、入学生の希望に満ちて輝く瞳は、満開の桜の花びらの一つ一つの輝きの様でした。やはり若いことは素晴らしいと思う。青春とは、単に年齢だけで判断すべきでない。これは理解できる。

しかし、日進月歩の著しい昨今、30年前、今日の世の中を予想した人はいなかったと思う。それと同様に30年後の日本を世界の変わりようを予測する事は出来ない。30年後、私は100歳を超え、この世にはいないと思う。しかし、彼等はまだ50歳にもならない。そんな変わりゆく世の中を見る事ができる。羨ましい限りである。

写真は、わが家の満開の桜。亀谷校長の式辞。

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(2022/04/08)

広貫堂資料館

頑なに 富山売薬 春の風邪  片桐久恵

桜前線も日本列島を北上中で、間もなく富山県内にも開花宣言が出る季節の中3月25日{金}廣貫堂本社敷地内にあった売薬資料館が62年間の歴史に幕を閉じ閉館することになり最後の機会として訪ねた。
資料館は昭和35年{1960}に開設された「売薬資料館」が平成6年{1994}現在の建物にリニューアルオープンし、富山市の観光拠点の一つとして知られ、県内外の観光客が多数訪れ、1980年代には、年間約3万人が来館した。
しかし、コロナ禍で昨年は約5千人にとどまった。これも要因の一つとなり今回閉館となった。

しかし、展示内容は素晴らしいもので
①大型スクリーンの映像で紹介するシアター
②富山のくすり百選コーナー
③生薬コーナー
④伝統和漢薬コーナー
⑤お土産コーナー

などのほか、越中富山の薬売り、300年を超える歴史を物語る貴重な資料や道具等を集め展示してありました。
生薬コーナーには、六神丸の原料となる、牛黄、センソ、ジャコウ、熊の胆、沈香、人参等を始め、昔からよく使われている代表的な生薬の実物サンプルの展示してある。

特に、多分現存する最古の懸場帳{元治元年{1864}や前田正甫公自筆の「反魂丹」の扁額、或は、元禄3年{1690}の江戸城腹痛事件を再現したジオラマなど、正に、明治9年創業以来150年余県内の代表的な老舗メーカーとして「くすりの富山」をけん引して来た廣貫堂ゆえに建設された資料館であつたと思う。時の流れとは言え誠に残念なことである。

また、大正天皇の行幸、昭和天皇、皇后の行幸啓、現上皇、上皇妃の皇太子時代のご視察など数多くの皇族のご視察記録や写真集なども展示してあった。
さて、これらの貴重な資料は今後どうなるのか。

現在、資料館として県民会館分館金岡邸、富山市立売薬資料館、滑川市立博物館に売薬資料常設展示室がある。また現在議論が停滞している富山城址公園内に「くすりミュージアム」建設構想がある。いづれにしても、展示品は散逸することなく、何処かで保管、展示されることを願うものだ。私自身何度も足を運んだ施設であったので、これが最後かと思うと、やはり一抹の淋しさを禁じ得なかった。

写真は、元治元年の懸場帳、前田正甫公園自筆の扁額「反魂丹」、江戸城腹痛事件ジオラマ。

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(2022/03/26)

滑川高校卒業式

網しぼり きらめき尽くす ほたるいか  高島学人

富山湾に春を告げるほたるいか漁が3月1日解禁になった。初日は50㎏。
昨年の127㎏には及ばないものの今後に期待したい。

さて、前日の同窓会入会に引き続き3月2日、県立滑川高校卒業式が行われた。当日は、新型コロナウイルス感染拡大防止対策のため、式場は保護者は生徒一人に対し一名。在校生は代表者のみ。しかも、国歌、校歌はテープで対応と少し寂しかった。

亀谷校長より197名の卒業者に卒業証書授与が行われたが、驚いたことに197名の内訳は、普通科2クラスで男子30名、女子47名、計77名。
薬業科1クラスで男子17名、女子23名、計39名。商業科1クラスで男子5名、女子34名、計39名。海洋科11ラスで男子19名、女子22名、計41名である。
総数197名の内訳は男子71名、女子126名と圧倒的に女子が多い。取り分け、商業科の男子5名に対し女子34名である。これには驚いた。ゆえに、各科を代表して校長先生より卒業証書を貰ったのは全員女子であった。

また、卒業学年担任の先生14名の内9名が女性教員である。これで野球部やウエイトリフティング或は、レスリング部など男子を主とする部活動の監督や部長等なり手がいるのだろうか。多少心配にもなる。また、126名の女子で名前に子が付いている人は僅か2名である。世の流れを感ぜずにはおれない。

卒業証書授与の後、亀谷校長より卒業生に対し
①夢や目標を持つことの大切さ。
②学び続けることの大切さ。
③自分を律することの大切さ。
が話されました。

次いで、「蛍の光」がテープで流れ在校生代表が卒業生に送辞。次いで、「仰げば尊し」がやはりテープで流れ、卒業生代表が亀谷校長に向かい答辞を述べた。3年間の想い出を語り、時として、涙にむせびながら切々と述べられた。中でも1-2年間は新型コロナウイルス禍で学校行事や部活動の殆どが中止や延期になった時の淋しさ。それを励まし、支えてくれた教職員や家族への感謝。
また、昨年はコロナ禍ではあったが、大運動会や学園祭など学校行事や部活動など、ほぼ消化できたのも在校生の協力お陰と感謝の言葉でありました。
そして、滑川高校3年間の思い出を胸に明日から力一杯生きてゆく決意を述べられた。最後に、卒業生が選んだ、GReeeeNの「遥か」の曲に送られて退場し厳粛な中にも滞りなく終えました。

私は、「蛍の光」と「仰げば尊し」は卒業式には必要な曲だと思う。
最近この曲を歌わない学校が増えつつあることは残念なことです。この曲があるからこそ卒業式の厳粛な雰囲気が作られるのだと思う。
また、送辞にしても、答辞にしても純粋だから感動を呼ぶのだろう。高校は教育の場であり、学び習う学習の場ではない。教え育てる教育の場である。その意味からすれば、校長先生の話も巣立ちいく生徒に贈る言葉とすれば私は良かったと思う。

いづれにしても、過ぎし日の青春時代を思い出しながら、卒業生に幸多きことを願い、校舎を後にしました。



(2022/03/02)

滑川高校同窓会入会式

2月28日富山県立滑川高校同窓会入会が行われた。どの学校も同じと思うが卒業と同時に入会となる。
本校の場合は卒業式の前日に毎年行われ、今年は197名が新たに加わった。現在、会員は約3万4千人を数え県下でも最大規模を誇り、プロ野球ロッテマリーンズの石川渉投手をはじめ、多くの有意な人材が各界で活躍しておられることは嬉しい限りある。誰にも生まれ育った「故郷」があり青春のひと時を過ごした母校がある。

中でも青春の中心的舞台は学校生活であり、多感な学校生活を回顧する時、追憶の中から懐かしい思い出が去来し、哀歓彷彿として思い浮かび固い友情に結ばれた出会いと別れ、という青春の讃歌が鮮やかに蘇る。
しかし、学生諸君に同窓会と言ってもピンとこないと思う。私は、例えばロッテの石川渉選手は、時として魚津市出身と書かれる。間違いではない。
しかし、滑川高校関係者は、石川選手は滑川高校出身と反論する。これが、同窓生であり、同窓会である。と生徒諸君に話しました。
いつの日か「故郷」や「母校」がそれぞれの心の拠り所として、生き続けることを念じて・・・・

もう一点、私は福沢諭吉の「学問のすすめ」の話をしました。197名の生徒諸君に「福沢諭吉」を知っていますか。と壇上から問い掛けたところ、知っていると手を挙げた生徒は、約三分の一程でした。私は、思わず、知っている人は多分財布の中に一万円札を入れたことのある人だろうと思わず発言しましたが、意外に少なかったのには驚きました。

「学問のすすめ」は諭吉の故郷、大分県中津に学校を開くに当って故郷の人達から、子供達に役に立つ本を書いてほしい。との要望に応じて、「何故学問をすべきなのか」、ということを示そうと書かれたものである。
明治5年第Ⅰ篇が書かれたが、ある人がこれを読み「この本を中津の人だけに見せるのは勿体ないから広く世間に公表すべきでないか」という勧めに応じ、明治9年まで計17篇発行した。これが明治13年1冊の本となり合本「学問のすすめ」となる。初年の発行以来9年間で70万冊も売れ当時の大ベストセラーとなった。

さて、この本で特に有名な言葉が冒頭「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず。神が人を生じせしめた時から、皆平等である。」とある。広く世に知られた言葉である。
しかし、人間社会を見渡すと、賢い人も愚かな人もいる。貧しい人、金持ちもいる。また、社会的に地位の高い人も、低い人もいる。こうした雲泥の差とも呼ぶべき違いはどうしてできるのだろうか。
それは、人は生まれた時には、人は同じ権利を持ち、生まれによる身分の上下はない。当然、貴賤や貧富の区別はない。と言う意味である。

つまり、しっかり学問をして、物事をよく知っているものは、社会的地位が高く、豊かな人になり、学ばない人は貧乏で低い人となる。
ただ、学問と言っても地理学もあれば物理学、経済学、歴史学など色々な学問がある。まず、人生に役に立つ学問、自分が所属している組織に役に立つ学問、、社会に貢献出来る学問などがを学ぶべきと言っている。

結論として、公に奉仕する公務員だけでなく、大会社で身を立てたい人も、独立して会社を興そうとする人も、すべての人の志が鼓舞され、心を掻き立てられるのが学問である。
「学問のすすめ」はこの様に書いてあることを紹介して、学問の大切さを話しました。
150年前と現在と同一に論じられないと思うが、今でも通用する言葉と思う。
私自身も若かりし頃、もう少し勉強しておればと、反省しても時すでに遅しです。

社会人になる人、進学する人、歩む道はそれぞれ違っても、洋々たる前途が輝かしい未来であることを祈念して、激励と同窓会入会の歓迎の言葉としました。

写真は、挨拶と記念品贈呈風景。

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(2022/03/01)

冬季オリンピック北京大会

第24回冬季オリンピック北京大会は、2月22日、17日間の祭典が幕を閉じた。
それにしても、今回の大会ほど物議を呼びIOCが批判された大会はなかったと思う。

新型コロナウイルス禍の中に、米英諸国の「外交ボイコット」をものともせず、中国ならではの強権的手法で感染拡大を封じ込め、選手の言動やマスコミの取材活動を制限し、新型コロナウイルス対策の「バブル」を巧妙に活用し、人権活動家抑圧や格差問題など中国の負の側面を世界の目から覆い隠し、オリンピックを政治的に最大限利用した。

また、スノーボードの不可解な採点。スキージャンプの規定違反により続出した失格者。「またロシアか」と言われた15歳のカミラ・ワリエワのドービング問題。現在、ロシアはこの問題でオリンピックへは、国家としての参加は認められず,ROCとして参加しているのである。その為、1位に入賞しても、表彰式では、国旗の掲揚や国家の演奏はなく、代わりにROCの旗の掲揚とチャイコフスキーの曲が流れるのである。

しかし、プーチン大統領は、国家としての参加は認められていないにも拘わらず、開会式に招待され、他の外交団とは別格の待遇で大歓迎を受けた。
そして、米英などが弾圧と批判するウイグル族の選手を開会式の聖火リレー最終走者に起用するなどして、大会成功と国家の威信をアピールした。
また、中国の元副首相に性的関係を強要されたと訴えた同国女子テニスの件も真相が解明されないまま幕が降りたような気がする。スエーデンの金メダリストは、帰国後、人権問題を抱える中国での開催を決めたIOCを「極めて無責任だ」と断じた。

北京にバッハ会長の胸像が建てられた。また、ノーベル平和賞を狙っている、との噂もある。
しかし、バッハ会長はドーピングのロシアに対しても、人権問題や政治問題を持ち込まないとする中国に対しても弱腰であり、臭い物に蓋との考えが見え隠れする。この際、オリンピックの原点に帰り今後、どの国の政治家も一切招待しないことと、商業主義をもっと薄めるべきと思う。

そんな中での開催であったが、アスリートたちのひたむきな姿勢は東京オリンピック同様多くの国民に感動と希望を与えた。
私は、メダル至上主義者ではないが、前回のピョンチョンオリンピックの13個を上回る金3個、銀6個、銅9個、計18個のメダルを獲得した。
取り分け、スピードスケート女子高木美帆さんは5種目に挑戦し金1個、銀3個。前回五輪と合わせ7個は夏も含めて日本女子の最多メダル数の記録となった。

また、カーリング女子は決勝で敗れたとは言え、銀メダルを獲得したロコ・ソラーレのメンバーの笑顔。メダルは獲れなかったが、羽生結弦選手の爽やかな記者会見。高橋沙羅選手の謙虚な姿。など感動を与えた選手はこれ以外にも沢山いた。
改めてスポーツの持つ「力」を感じた。そして、20日閉会式は控え目な演出の中、4年後のイタリア、ミラノ・コルティナダンペッツォへと大会旗は引き継がれ、舞台は3月3日開幕のパラリンピックへと移る。

閉会直後の22日ロシアはウクライナ東部の親ロシア派が実効支配する「ドネツク人民共和国」と「ルガンスク人民共和国」を名乗る2地域の独立を承認する大統領令に署名した。2014年ロシア・ソチで冬季オリンピックが開催中クリミヤに侵攻したのと同じパターンである。中国・習近平はこれを注視しながら、パラリンピックを成功させ秋には3選を果たし、ウクライナに対して弱腰外交の米国、機能不全の国連を尻目に、タイミングを見て、台湾有事、そして尖閣諸島、日本有事であり絶対ないとは言えない。
有事は平時に考えておくべきである。有事の時に議論していても間に合わないのである。

写真、銀メダルのロコ・ソラーレのメンバーと閉会式

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(2022/02/22)

三回目ワクチン接種

裏庭に 膨らむ今日の 芽吹きかな

昨日、我が家の小さな裏庭の残雪の隙間から蕗の薹が顔を出していた。
季節は確実に春に向かっている。
でも、春は名のみの、風の寒さや・・・である。

さて、昨年6月7日、6月28日に次いで、2022年2月14日市内開業医で、いづれもファイザー製のワクチンで3回目の接種を行った。
政府は、外国人の新規入国を原則禁止している新型コロナウイルス対策の水際強化措置について、緩和の方向で検討する考えを表明した。
しかし、国内では、未だオミクロン株が蔓延している。ただ、一時期沖縄県では米軍関係者も含め、多数の感染者を出していたが12日の新聞では、11日は334人と富山県の362人より減少している。一部ではオミクロン株の特性からピークアウトしたという説もある。しかし、油断禁物である。

また、12日現在、日本国内での感染者数は約385万人、死者約2万人。これを世界と比較すると、米国・感染者数約7765万人、死者・約92万人。フランス・感染者数2165万人、死者・約13万5千人。イギリス・感染者数約1834万7千人、死者・約16万人。ドイツ・感染者数約1227万人、死者・約12万人。イタリア・感染者数約1199万人、死者・約15万人である。人口などから一概には比較できないが、日本は健闘していると思う。
また、不思議に思うのが基礎的疾患などある人は止むを得ないが、ワクチン接種における副反応を理由に接種をためらう人がいる。しかし、あくまで強制ではないから仕方がないが・・・

例えば、癌にも種類があるが、おおむね治療法は,①手術、②放射線治療、③抗癌剤などの薬物療法などがある。
これによって正常な細胞が破壊されたり、髪の毛が脱毛するなどの副作用がある。しかし、これをマスコミなどが副作用として報道することはない。これ以外に治療法がないから多少の副作用があっても採用しているのである。新型コロナウイルス対応も、現在飲み薬の開発が行われ、間もなく市場に出回ると思うが、残念ながら今のところワクチン接種しかないことを考えると、ワクチンの副反応の発生率は極めて低いことを政府はもっと説明すべきである。

また、ファイザーかモデルナか3回目は選択できる。としたら現場は混乱するし、接種はより遅れるだろう。同一ワクチンを3回接種しても、交互接種も効果は殆ど変わらないことや、副反応も殆どないことも、もっと周知を図るべきと思う。

いづれにしても、私は3回目のワクチンを接種した。やはり一人でも多くの人々は、一日も早く接種すべきと思う。そして、4回目の接種がないことを祈って・・・

写真は、裏庭に芽吹いた蕗の薹と3回目の接種風景。

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(2022/02/14)

目を醒ませ日本!

標記を演題として、2月11日{金}午後1時30分~3時まで滑川市民交流プラザ3階で主催・祝日に日の丸を掲げる会{本田繁会長}協賛・滑川ライオンズクラブによって第5回講演会が入場無料で開催されました。講師・佐々木類氏・産経新聞社・論説副委員長{略歴・別掲}

当日は 北京冬季オリンピックで日本中が沸騰している中、ロシア軍のウクライナ侵攻があるのか。米ロの激しい非難の応酬を含め緊迫した国際情勢の中での開催であり、100名を超す参加者でありました。

1時間半の講演内容を詳細に記すことは難しいので要旨を記します。
①緊迫するウクライナ情勢
2014年ロシアのソチで第22回冬季オリンピックが開催中にもかかわらず、ロシア軍はクリミアに侵攻した。
当時のオバマ大統領、現在のバイデン大統領のロシアに対しての弱腰外交。などの例をあげ、ロシア軍のウクライナ侵攻はある。

②台湾有事はどうなる
習近平氏の最終目標は国家主席の任期を撤廃し3選を果たす。台湾を併合する。タイミングを見て侵攻する。直ちに武力行使でなくとも,親中国派を扇動し内乱を誘発させるたり、「ハイブリッド」戦など展開する。

③中国による浸透工作・・・静かなる日本侵略
台湾有事は日本有事である。日本の政治家、財界は経済事情ばかりを考えている弱腰外交である。尖閣諸島も当然有事になると想定しなければならない。

④中国にも弱点…少子高齢化、だからこそ「危険」
中国の一人っ子政策は、少子高齢社会を出現させ日本以上に深刻な状況になりつつある。ここ数年間が最も国力が充実している時期であり、以後国力は弱体する。事を起こすとすればここ数年間の間である。だから「危険」である。

私の考え。
私は、質問でロシア軍のウクライナ侵攻はあると思う。その時、米軍を含めたNATO軍に加盟していないウクライナに果たしてNATO軍は進攻するだろうか。私は、ないと思う。

然らば、バイデン大統領が繰り返し経済制裁を行う。と警告を発しているが、ロシア軍がクリミア侵攻した時も、北朝鮮への経済制裁を発動しても、ほとんど効果がないことを考えると、クリミアの二の舞いの可能性大と思う。これを注視して見ている中国は、米国の武力介入はないと判断した時、台湾有事であり、日本有事であると思う。その時、尖閣諸島は、米国は日米安保条約第5条の適用範囲と言っている。

しかし、米国から見れば、世界地図の中で、何処にあるかわからないくらいの小さな島々。しかも無人島で日本の施政権も及んでいない島の戦いに米国の青年の血を流せるか。の指摘もある。その時、日本はどうするか。独立国家として領土,領海、領空は自らが守るという気概がないと米国も助けてはくれないということで意見が一致した。

また、政治家であり作家でもあった石原慎太郎氏が亡くなった。「ノーと言える日本」をはじめとし、米国、中国など歯に衣着せぬ発言は時々物議を交わしたが、結局一匹狼ゆえ、永田町の論理には合わず総理大臣にはなれなかった。その石原慎太郎氏をどう評価するか。の問いに氏は彼は稀有な政治家だった。今の自民党には彼のような政治家はいない。真逆な政治家として二階俊博氏の名を上げた。それ以外にも種々意見を交わしたが割愛します。

佐々木類氏の略歴
昭和39年{1964}東京都生まれ。早稲田大学卒業後産経新聞社入社。事件記者、政治記者を経て、政治部次長{デスク}に就任。その後、2010年ワシントン支局長に就任。その後、論説委員、九州総局長兼山口支局長を経て、2018年より論説副委員長に就任。

写真は、講演中の佐々木類氏と控室での二人。

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(2022/02/11)

滑川市長に水野氏当選

2月6日{日}投開票の滑川市長選は、即日開票の結果、元市議会副議長の新人水野達夫氏{58}無所属が、8,432票を獲得し、4選を目指した現職の上田昌孝氏{78}無所属、3期6,719票を1,713票差で破り初当選した。

意外だったのは、マスコミや私も含め、投票率は前回を下回るだろうと予想した。
その理由として
①顔ぶれが前回と同じで、新鮮味に欠けいまいち盛り上がらない。
②新型コロナ禍である。
③週間天気予報では、選挙期間中の天気が雪模様で天候不順等である。

しかし、結果は違った。投票率は当日有権者数、27,505人に対し55.53%と過去最低前回の55.12%を僅かだが0.41%を上回った。
また、期日前投票数も当日有権者数の24.81%、6,824人が事前に投票した。これも前回の18.67%を6.14%上回った。
普通、期日前投票が多くても、全体の投票率は下がる。投票率が下がると固定票を持った現職が有利で、浮動票をターゲットにする新人には不利と言われる。

それでも今回は違った。何故か。私にもわからないが強いて言えば、期日前投票した人も、当日投票した人も、世代交代を唱える58歳の波が78歳を雪崩の如く押し流したのであろう。それが時の流れであり、勢いであり、誰にも押し戻すことの出来ない時流というものである。

さて、勝者も敗者も滑川市の更なる発展を願い選挙戦を戦った筈である。
戦いが終わった以上、双方が力を合わせて市発展に協力すべきであろう。それがノーサイドである。

それにしても、投票率である。毎回どの選挙も下がり続けている。政治不信なのか。政治に無関心なのか。それとも現状に満足なのか。
投票権は天から降って来たのでもなく、地から湧き出たものでもない。先人の血と汗との戦いで勝ち取ったものである。
その歴史を考えるとそう簡単には棄権できない筈である。折角、18歳、19歳にも選挙権が与えられているのである。
今回、なんと12,377人が棄権しているのである。今一度考えて見るべきである。

私自身何のとりえもないが、選挙権を与えられてから今日まで一回も棄権したことがない。

参考まで、過去6回の市長選の投票率を記す。これ以前はもっと高い。
昭和53年4月9日:投票率88.38%
昭和61年2月23日:投票率81.83%
平成14年2月10日:投票率73.24%
平成22年2月14日:投票率65.85%
平成26年2月9日:投票率64.70%
平成30年2月4日:投票率55.12%
*昭和53年4月9日より平成30年2月4日の間に5回無競争。

令和4年2月6日 滑川市長選挙開票結果{選管最終}
当選 水野達夫 8,432無①
   上田昌孝 6,719無③

投票総数15,273 有効投票15,151 無効122
投票率55.53%

写真は、水野氏の総決起大会と当選挨拶風景。いづれも新聞より。

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(2022/02/07)

阪神淡路大震災

平成7年{1995}1月17日午前5時46分、マグニチュード7.3震度7の激震が大都市の直下を震源として大地震が発生した。
阪神淡路大震災である。
気象庁の震度階級に震度7が導入されてから初めて最大震度7に記録された地震である。死者6434人、負傷者43792人、家屋の倒壊10万5000棟、半壊約144000棟。等甚大な被害をもたらした。

ただ、災害でも種類がある。例えば昭和34年{1959}9月26日の伊勢湾台風{台風15号}は死者、4697人、行方不明401人。負傷者38921人、全壊家屋36135棟、半壊家屋、113052棟、流失家屋4704棟等、の被害がでた。
これは台風に高潮が加わったもので、明治以降の日本における台風の災害としては史上最悪の惨事と言われた。

また、大正12年{1923}9月1日午前11時58分発生マグニチュード7.9の関東大震災である。
190万人が被災、死者・行方不明約10万5000人、内、火災での死者は約92000人、それ以外の13000人の内、強い揺れで住宅が全壊したことによる死者数は11000人と非常に多い。
これ程大きな被害がでた原因として、地震発生が昼時で、昼食の準備のため火を使っている家庭が多かったことと、当時の住宅はほとんど木造であったこと等が挙げられる。これを機に、毎年9月1日を「防災の日」と定め、各所で防災訓練が行われている。

次いで、記憶に新しい東日本大震災である。平成23年{2011}3月11日午後2時46分、宮城県牡鹿半島の東南東130㎞付近を震源とする地震で、マグニチュードは1952年のカムチャツカ地震と同じ9、0でこれは日本国内観測史上最大規模で1900年以降世界でも4番目の規模という。
千年に一度とも言われる巨大地震。大津波。火災。加えて原発事故。被害状況は割愛するが、まさに未曾有の大災害である。
これ以外の災害をあげたらきりがない。まさに災害列島日本である。

さて、今年は阪神淡路大震災発生から27年となった。。私にとって毎年この日になると思い出すことがある。
震災のあった翌月2月1日付、読売新聞に「地震につぶされた夢」「父母は自問する 我が子は青春を謳歌したのか・・」と題し、阪神淡路大震災で、神戸大学39人の学生が命を落としていた。そのほとんどが全国から集まった下宿生だった。
銀行員や会計士として一歩を踏み出そうとしていた4年生、ボランティア活動に汗を流す大学院生・・・・。祖国の未来を担うアジアからの留学生も7人いた。一瞬にして押しつぶされた、若者たちの「夢と短い人生」を追った。との記事が掲載され父母や関係者のコメントが報道された。

その中の一人の青年の記事を紹介する。
法学部二年加藤貴光さん{21歳}{広島市}は西宮市のマンションで圧死した。同居していた単身赴任の父宗良さん{44}はたまたま実家に帰っていて無事だった。国連職員か国際ボランティアになるのが夢だった。丑年生まれで愛称は「ウシ」。
荷物を持ったおばあさんを見つけると「飛んでいって手伝うようなやさしい子でした」と母律子さん{46}。
大学に入る時、神戸まで送った母親のコートのポケットに、息子は手紙=別掲=を忍ばせたという。
母はそれをいつも免許証入れにはさんでいた。遺体安置所で、その手紙を読み返した母は、涙を抑えることができなかった。

その手紙とは

親愛なる母上様
あなたが私に生命を与えてくださってから、早いものでもう20年になります。
これまでに、ほんのひとときとして、あなたの優しく温かく大きく、そして強い愛を感じなかったことはありませんでした。
私はあなたから多くの羽根をいただいてきました。人を愛すること、自分を戒めること、人に愛されること・・・・。             
この20年で、私の翼には立派な羽根がそろってゆきました。
そして今、私はこの翼で大空へ翔び立とうとしています。
誰よりも高く、強く自在に飛べるこの翼で。・・・{中 略}・・・
私は精一杯やってみるつもりです。あなたの、そしてみんなの希望と期待を無にしないためにも、力の続く限り翔び続けます。
こんな私ですが、これからもしっかり見守っていてください。・・・{中 略}・・・
また逢える日を心待ちにしております。
最後に、あなたを母にしてくださった神様に感謝の意をこめて。 
翼のはえたーうしーより

私は、この手紙を読むと胸が熱くなる。彼がもし生きていたら、どんな人生を歩んでいただろうか。
果たして私が20歳前後の時、父母にこれだけの感謝の気持ちを持っていただろうか。或は、将来の夢や人生をこれだけハッキリと自覚していただろうか。
恥ずかしながら、なかったと言わざるを得ない。

以前、この話を成人式で何度かした。会場はシーンと静まり返り、中には涙を流す女性もいた。
私は、出席者の中で一人でも感動してくれる人がいればそれで良いと思っている。果たして今の時代と比較すること自体無理なことなのだろうか。

そんな中、「1・17のつどい」が開かれた神戸市中央区の公園「東遊園地」では、竹灯籠約3000本や紙製の灯籠などで「忘・1・17」の文字が形作られ、つどいに向け点火された「忘」の部分が浮かび上がった。と新聞は報じていた。

主催者側によると「忘」は公募で選ばれ「忘れてはいけない」との思いだけでなく「忘れてしまう」「忘れてしまいたい」など様々な声が反映されているという。
私も、あの手紙の内容は「忘れてはならない」し「忘れてはいけない」と思っている。

と同時に、震災の教訓も同様である。

1月18日付 北日本新聞朝刊

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(2022/01/18)

世界に羽ばたく薬都とやま大会

1月11日{火}午後2時から主催・一社富山県薬業連合会のもと表題の大会が、パレブラン高志会館カルチャーホールで開催されました。
第一部・式典は中井敏郎薬連会長が挨拶の中で、県内の医薬品メーカーによる不適切な製造が昨年相次いで発覚したことに対し「行政処分や、自主回収により、消費者や取引先など多くの方に迷惑を掛けたことを、お詫びする」と陳謝し、その上で「このような事態が再び起こらないよう信頼回復に向けて全力で取り組む」と決意が述べられた。

次いで、優良配置従事者らに対する薬事功労者表彰があり、知事表彰3名、薬連会長表彰4名が表彰の栄に浴されました。特に、薬連会長表彰4名の内、藤井秀雄氏、石政章氏、中村信之氏、の3氏は滑川の方々でした。来賓を代表して、知事代理の県厚生部長木内哲平氏が祝辞を述べられました。
閉会直前、客席にいた配置薬業者から、自主回収問題をめぐりメーカーは今回の件を肝に銘じ、しっかりとした製品をつくってほしい」など苦言を呈する場面があり、中井薬連会長は「ご意見は胸に染みた、当該会社の社長及び会長に伝える」と述べ式典は終了した。          

その後、会場を変え、製薬メーカー側は
「世界の動き、日本の動き、富山のこれから」と題し、          
「くすりのシリコンバレーTOYAMA」創造コンソーシアム事業責任者・日本製薬工業協会・専務理事・森和彦氏。

「次の風景、見てみたくないですか?」と題し、
「くすりのシリコンバレー TOYAMA]創造コンソーシアム副事業責任者・TMパートナーズ合同会社・代表社員・森俊介氏

配置従事者対象は
「インボイス制度のポイントと配置販売業における対策について」と題し
税理士法人jタックス・税理士・久保勝孝氏。

のそれぞれ有意義な講演がありました。

翌日、12日午後薬連6Fで配置業者が出席した、配置薬業部会全体会議が開催されました。自主回収をしている会社より会長ほかそれぞれの立場の責任者、計4名の出席がありました。
先ず会長より陳謝の言葉があり、「今回の件の原因をしっかりと検証し、再発防止策をたてる。」「なるべく早く、供給を再開できるように全力を尽くす」「問題がないと判断した製品から段階的に製造・出荷を再開するが、製品によっては早くて3ヶ月から最長1年半位はかかる」等を含め今後の対応について説明があった。出席者からは、先行きを強く懸念する発言やもっと早くこの様な機会を持てなかったか。など厳しい意見が多く出た。いづれにしても、影響の長期化は避けられない見通しとなったことは大変残念なことである。

しかし、不思議に思うことは、独立行政法人医薬品医療機器総合機構{PMDA}のサイトの「回収{医薬品}」の回収一覧はパソコン等でいつでも閲覧できる。それを見ると、その件数は、毎年、実にたくさんのメーカーの製品の実に夥しい品目に及ぶ。
これを健康への危険性の程度に応じて3段階に区分され、重篤な健康被害または死亡の原因となり得る状況を「クラス1」とされる。この「クラス1{医薬品」}のところには、日本赤十字社の血液製剤が並ぶ。
だが、これによる健康被害報告はなく、マスコミ等もこれを大きく報じることもない。

「クラス2」とは、その製品の使用等が、一時的な若しくは医学的に治癒可能な健康被害の原因となる可能性がある状況またはその製品の使用等による重篤な健康被害のおそれはまず考えられない状況をいう。「クラス3」とは、その製品の使用等が、健康被害の原因となるとはまず考えられない状況をいう。いわゆる配置薬における自主回収は「クラス2」にクラス分けして行われるケースがほとんどで、今回の自主回収も「クラス2」で行われているが、2021年度の「クラス2」の一覧だけを観ても、自主回収しているメーカーの数や、その品目の多さには驚くばかりあるし、これを報じないマスコミもおかしいと思う。

自主回収は、場合によっては製薬会社に極めて深刻な経営ダメージを与える。今回の自主回収件数のすべてが、本当に自主回収まで行わなければいけないほどに、服用して健康被害が起きかねないほどのケースなのだろうか?
との声を聞く。私もそう思う。

マスコミは事実を報道するのは当然であるが、前述した「PMDA」の発表を公平に報道するのもマスコミの筈である。
今回のマスコミの報道は余りにも違和感を覚える。

写真は、式典で挨拶する中井会長。配置薬業者を対象とした講演会

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(2022/01/11)

薬神神社歳旦祭

新年は まず我が身を 新たなり

終日快晴の好天に恵まれた1月8日{土}午前9時より恒例の新年薬神神社歳旦祭{主催・石倉雅俊会長}が執り行われました。当日は気温は低めでしたが、雲一つない青空の下、凛とした空気の中、横川宮司の手によって厳粛な中にも滞りなく行われました。この日はあいにく同時刻から市の出初式が行われており来賓は従来より少なかったです。

宮司の祝詞奏上に次いで、玉串奉奠が石倉会長、顧問の私、吉田前会長、石政市薬業会長、中屋市薬業青年部長、薬業関係者、来賓の尾崎市議会副議長、網谷市産業民生部長、杉田市商工会議所専務理事、渡辺加積雪島神社総代等が順次行い、商売繁盛、と新型コロナウイルスの一日も早い終息を祈願しました。

引き続き石倉会長は挨拶の中で「新型コロナや製品の自主回収など、先の見えない不安はあるが、今日まで幾多の困難を業界一丸となって克服してきた。今回も業界が結束し、この困難を乗り越え、お得意様に待ち望まれるようにしなければならない」と会員に呼び掛けた。
また、来賓からも配置薬業の重要性とともに激励の言葉がありました。

尚、今回も感染症防止策として、マスク着用や「三密」などを講じ「直会」も中止となりました。
しかし、会員は久しぶりの再会を喜び、しばし、業界の現状について意見交換をして散会しました。

写真は、玉串奉奠の私。当日の夕日を浴びて茜色に輝く立山連峰。

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(2022/01/08)

新年明けましておめでとうございます。

降り積もる 深雪に耐えて色あせぬ 松ぞ雄々しき 人もかくあれ (昭和天皇御製)

令和3年{2021}は既に地平線下に没し 令和4年の陽は昇りました。昨年は一昨年同様新型コロナに翻弄された一年でした。
その中にあって一年遅れで開催された「東京オリンピック・パラリンピック」は 多くの反対論のある中、無観客という制約の中で開かれました。
しかし、アスリートたちの躍動は多くの国民の心を動かしたし、スポーツ選手の様々な活躍は私達を大いに励ましてくれました。

大谷翔平選手の投打の「二刀流」の活躍は、それまで野球に関心がなかった人々も魅了し続けました。まさに、スポーツの持つ「力」を改めて感じました。
こんな事から、毎年京都・清水寺で発表される今年の世相を反映される漢字一文字が、コロナをはじめとして暗いニュースの多い中、敢えて明るい話題を求めたのか、「金」が選ばれました。
私の予想には全くありませんでした。

平成7年{1995}から始まった漢字一文字の中で3度目の「金」でした。
さて、当たるも八卦当たらぬも八卦、と言いますが今年の「干支」は「壬」「寅」水の兄{え}の寅で、五黄土星の年です。
ご存知の通り、「干支」は十二支の「子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥」で、これに十干「甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、壬, 葵」を組み合わせたのが「干支」である。今年の「壬」と「寅」の組み合わせを含め60年に一度しかない。

これは、紀元前の中国で暦や時間を表すために使われ始めたのが起源という。その後、この十二支を浸透させようと、王充{おういつ}という人物が動物の名前に変えた。つまり動物の意味は後から付け足されたという。
例えば、子を鼠にしたのは繁殖力の高い、子宝の象徴、子孫繁栄。丑を牛にしたのは、生活のパートナーであり、畑を耕したり,重い荷物を運んだりする。寅を虎としたのは、勇猛果敢な動物でありその勇ましさから虎が当てられた等々である。日本には6世紀半ば欽明天皇の頃伝わったと言われている。

幕末維新の戦いを戊辰戦争!{1868}という。つまり「戊」つちのえ「辰」たつの干支であり、甲子園野球場の名前も「甲」きのえ「子」ねの干支の1924年完成。また現在でも我々は契約書などに甲は乙に対してなどの表現に何の抵抗もなく使っている。
12時を正午と言い、その前を午前、その後を午後というなど我々の生活の中に溶け込んでいる例はいくらでもある。

そこで、今年の「干支」壬は水の兄{え}で水の象である。つまり、この年は水による災害、洪水、豪雨、がけ崩れ等々が多いと言われる。
また、壬は「任せる」「妊む」と言われ、「任せる」から任務を果たす、とか「妊む」から色々と身体の中から生み出す。創り出す。の意があると言われ、寅の文字は「飛んで行く矢の姿を表した象形文字」や「勢い良く飛び出して行く」とも言われます。
また、五黄土星は九星の「中心星」で「帝王の星」で非常に強い星と言われています。これらを総合的に判断すると、現在オミクロン変異株が世界中に猛威をふるっていますが、春先頃には収束に向かい、ウイズコロナの流れを生み出し、寅の象形文字の如く五黄土星の如く運気の強い上昇期に入るような気がしますが、果たしてどうなるか。

「当たるも八卦、当たらぬも八卦」

写真は、富士山上空からのダイアモンド富士。竜神池のWダイアモンド富士。いずれもテレビ画面より。

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(2022/01/02)

藤井富山市長を訪問

ともかくも あなた任せの としの暮 一茶

新田八朗富山県知事に次いで、藤井裕久富山市長を12月22日9時30分市長室に訪ね、しばし歓談した。
知事に「富山のくすり」滋養強壮薬をプレゼントしたが、藤井市長には「酒は百薬の長」、「適量の酒は、どんな良薬よりも効果がある」との持論を展開すると市長は、笑いながら同感です、と頷いておられました。

その後、最近、富山のくすりがマスコミを賑わしているが、富山と言えば「くすり」、「くすり」と言えば「富山」を釈迦に説法と知りつつ、今日まで業界が富山の発展に貢献して来たことを話し、これからも変わらぬ支援、振興をお願いした。市長は当然のことと話されました。

そののち、市長の県議時代の想い出や最近の県内の政治状況ななど歓談した。市議会12月定例会も終了した後だったのか多忙な日程にもかかわらず30分以上も語り合った。

尚、この席に私と以前より親交のあった三浦良平副市長{国交省より出向}も同席した。
彼は、いづれ本省へ復帰するが、その時は富山を第二の故郷として、富山の発展に尽力してくれるだろう。一年の労をねぎらい、お二人の更なるご活躍を期待し市長室を後にした。

写真は、真ん中が藤井市長、右側、三浦副市長 {市長室にて}

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(2021/12/22)
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