なかや一博 ブログ

錦心流薩摩琵琶演奏会

おしなべて 物を思わぬ人にさえ 心をつくる 秋の初風  西行

第58回錦心流琵琶富山支部{支部長・杉本紫水 後援会長・中屋一博}秋季演奏会が前日の時雨模様から一転新雪輝く立山連峰が青空にくっきりと浮かび上がる好天気の10月22日{日}午後1時より、高岡市文化芸能館3階能舞台で開催された。

特に、今回は例年会場は富山でしたが、呉西の方々にも琵琶の魅力に少しでも理解を深めて頂ければとの思いで高岡で開催した。
お蔭様で80名余の鑑賞者があり盛会裏に終えることが出来た。それにしても能楽堂は素晴らしい会場である。
多分、宝生流能楽を始めとした加賀百万石の文化の影響を受け、このような立派な施設があるのだろうと思う。県内で能舞台があるのは富山市と高岡市の二箇所だけだ。

さて、薩摩琵琶の特徴は材質の胴は「桑」で撥{バチ}は「柘植」であり、しかも扇状の撥がかなり大きい。筑前琵琶は胴は桐であり「やわらかい点で女性らしい」に対し薩摩琵琶は、叩きつけるような弾奏のスタイルで、ダイナミックで情緒的で、楽器として計り知れない表現力を持っていると言われている。
これも薩摩武士の剣術は示現流、武士の魂を鼓舞する薩摩琵琶の取り合わせによって生まれているのであろう。「心の琴線に触れる」との言葉も琵琶の音色から発せられたものかも知れない。

毎年、奈良国立博物館で国宝正倉院展が開催される。以前、私も鑑賞したが展示品の中に聖武天皇愛用の螺鈿紫檀五弦琵琶があった。シルクロードを経由しペルシャから奈良時代には既に日本に楽器として存在していたことに驚きを禁じ得ない。
そんな琵琶を始めとし、能楽、詩吟,漢詩など「日本の良き伝統文化が私達の足元から消えていくような気がする。

今回の演奏曲目は「白虎隊」「青葉の笛」「西郷隆盛」「壇ノ浦」「巌流島」など、ほとんどが歴史的な故事に因んだものばかりある。その内容は親子や肉親などの愛情や友との絆など「孝,信、礼、忠,義」など、今の社会で失われつつある大切なことを教えていると思う。

ところで「不易流行」」という言葉がある。世の中が変わっても変えてはいけない事。変わらない事がある。片や、時代の流れの中で変えていかねばならない事もある。
今回の演奏会には、県内最高年齢90歳の現役奏者である吉崎楓水さんの出演である。吉崎さんのように、琵琶が好きだから。琵琶を愛しているから。との思いは、変えてはならないものであり、有沢結水さんの演目、おとぎ琵琶「ぶんぶく茶釜」には会場から笑いがこぼれるなど、これからの若年層の対象を含め、時代の流れに対応したものであろう。この二つが融合したのが今回の演奏会であった。
14名の出演者は日頃の練習の成果を遺憾なく発揮され、会場を埋めた聴衆を魅了した演奏会であった。

写真は、挨拶する私。演目「富士山」を合奏する杉本支部長と吉崎楓水さん。

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(2023/10/23)

芸術の秋パート3

市美術展会場を後にし、少し遅い昼食後、市内瀬羽町にある国登録有形文化財//ぼんぼこさ{-旧宮崎酒造}や有隣庵{/同文化財旧・土肥家}で開催されている
「酒蔵アート㏌なめりかわ2023」へ向かった。10回目となる今回、2名の作家が初めて出品する中、近年会期中に訪れる人も約1800人と年々増えていることは喜ばしいことです。

今年は、彫刻・写真・陶芸・木工・裂織{さきおり}・造形・華・書・絵画・インスタレーションなど22の個人・団体の力作、大作が出品されていた。このような多彩なアートと歴史ある建造物のコラボレーションが楽しめるとともに、瀬羽町の歴史ある街並みの魅力を発信し賑わいづくりにも繋がっている。

今回特に私の目を引いたのは「裂織」である。
作者の野村順子さんは、10周年記念誌の中で、裂織とは、「経糸{たていと}と主に綿、麻糸、絹を使用して緯糸{よこいと}に古布、着物地を細く裂いたものを使用する織物で、裂織の技法を作品作りに展開して、自然の輝きに呼応する思いで。」と書いておられる。
今回の出品は「紅絹の景色」と題し、真っ赤な裂織が大河のように横に流れる大作であった。

又、手繰明子さんの「希望の結び」はポリエステル入り紙、インクに、自分の希望を書き、ぼんぼこさの中庭の藤棚の藤に結ぶもので
ある。私も一枚書いて結んだが一瞬、七夕の竹に吊るす短冊を思い出した。中々面白いアイデアである。
又、阿波加蒼岳氏{富山県美術連合会会長}の書「立山に 曇沸きあがり 稲の花」美恵子の句 と「酒瓶ラベル」も良よかった。氏は記念誌の中で、「日頃、目にする素敵な言葉、心を打つ言葉など書作品を通して,我々の生活の中に活かされ、感動を与え、心の豊かさにつながっていってもらえばと日々研鑽しています」と述べられている。
他にも素敵な作品が沢山ありましたが紙面の関係で残念ながら割愛させて頂きます。

以上、芸術の秋と勝手に称し友人と3か所巡ってきた。芸術には無縁の私だが、もし、この世に芸術といった分野がなかったら,我々はどんな生活を送っているだろうか。考えたことも,想像したこともない。が、ふとそう思う。しかし、実に味気ない生活であることは間違いない。

それにしても、芸術とは、逞しい創造力と豊かな発想力が必要なことを考えるとやはり私には無理かもしれない。だからこそこのような機会に触れることで、少しでも心が癒され、且つ、心豊かな人生を。と願うものです。

写真は、ぼんぼこさ全景。裂織「紅絹の景」。「希望の結び」「美恵子の句」「酒瓶ラベル千代鶴」

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(2023/10/14)

芸術の秋パート2

東部小学校を後にして滑川市博物館へ向い、第70回滑川市美術展を鑑賞した。
美術展はその名の通り、絵画34点、彫刻・工芸21点、書30点、写真30点と文字通り市美術協会の年に一度の一大イベントである。それ故、それぞれの部門に市展大賞、市展賞、市展奨励賞などがあり、作家の創作意欲を鼓舞し、励みにし、この様な機会を通してレベルアップをしてゆくのだろう。どの作品も力作・大作ばかりであった。

今回、70回目の市展ということは、市制が施行された時が第一回である。色んな団体や会があるが70年も続いているのは、数少ないと思う。そこで第一回市美術展開催に際し、寄せられた当時の赤間市長の巻頭言を紹介する。

「人生短く、芸術長し」というが、芸術を作るのが人間であってみれば、人生そのものも 又、芸術であるともいえる。人の集団共同生活体である、わが滑川は 今や市として発足し、自己をみづからの手で創り上げつつある。これ永遠を目ざす自己造形の芸術にあらずして何ぞや。この時にあたり市民の有識者が相はかり、相むすび互いの作品を批判鑑賞することは洵に有意義というべきである。冀い願わくば 滑川市美術協会が市の行政・産業・経済・文化等 あらゆるものを芸術的に建設する先駆者たらんことを。
【昭和29年8月 滑川市長・赤間徳寿】

格調の高い巻頭言である。

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(2023/10/14)

芸術の秋・パート1

時雨する 加積のさとに一夜寝て けさ立山に あふぐ初雪  玉堂

10月10日、知人と芸術の秋の一環として3か所巡った。最初は、東部小学校校長室である。
ここに川合玉堂が滑川で詠んだ一首が掛け軸として保管されている。本年富山県立水墨美術館で7月14日ー9月3日{前期・後期}まで川合玉堂展が開催された。
それを鑑賞した私の感想を7月末ブログで発信した。この時疑問に思ったことの一部が、今回東部小学校を訪ねたことで判明したので改めて記す。

昭和11年秋、玉堂は黒部峡谷や称名滝をスケッチ旅行している。この旅の途上、中新川郡浜和積村曲渕{現・滑川市曲渕}初代滑川市長赤間徳寿邸に一夜投宿する。翌朝赤間邸を出発する時詠んだのが、標記の一首である。学校には、市教育委員会を通し事前に連絡して頂いたお陰で約束の11時に松田校長の出迎えを受け校長室に入った。

既に、軸は壁に掛けられており、まずその大きさに驚く。縦横約1m余の紙に墨書きしてあり、これが軸装してあるのだからそれ以上の大きさであり、共箱も約1,3m位はある。
この共箱には、玉堂自筆で、赤間邸に宿泊したことや一首詠んだこと、歌碑が建立され、掛け軸に至る経緯が記され,その文を松田校長より頂き説明を受けたが残念ながら私のパソコンでは出てこない昔の漢字があった。しかし概ね理解できた。

合わせて平成18年4月市美術協会発行の記念誌の中に、玉堂に関する記事があった。「川合玉堂と赤間家」と題し、青山外二氏が次のように書いている.「大正・昭和にかけての日本画家・村島酉一{富山市}赤間徳寿氏の教え子である」とあることから、村島と玉堂とが何らかの関係があり、その縁で赤間氏に繋がったと思われる。また、共箱に「赤間君に伴はれて、黒部の秋を探る途次、浜加積の君の邸に投す」と書かれている。黒部から赤間氏が同行したことがわかる。

歌は、昭和11年秋であり、共箱の日付は、昭和15年春半ばとあることから、この3年余の間に赤間氏から、玉堂氏に対し、歌の題箋を含めての要望への返答が記されている。その結果、題箋は「立山初雪之歌」となっている。また、掛け軸は、赤間家から地元の浜加積小学校に寄贈された。しかし昭和42年9月29日、早月加積小学校が火災で全焼。これを機に浜加積小学校と統合し、現在の東部小学校が昭和43年9月1日、開校し掛け軸も引き継がれた。

残念なことはこれ等のことが「川合玉堂展」では触れられていなかったことと、滑川市民が滑川で宿泊し一首詠んだこと、そしてその掛け軸が東部小学校に保管されていること等が記憶の中から忘れされようとしていることである。
是非とも後世に伝えていくべき事でないだろうか。松田校長に見送りを受け玄関に出た時は激しい雨であった。翌日は晴天で、あたかも玉堂が赤間邸に投宿した日の天候と同じ様な気がした。

正に、玉堂が共箱に自筆で経緯を記してあったからこそ、また其の内容を文章として残しておいてくれたからこそ、私達はそれらを事実として知ることができるのである。記憶は曖昧であり、いつか消えていく。
しかし、記録は末永く残り後世の我々に歴史的事実であることを教えてくれる。記録の大切さを改めて思った。
共箱の蓋に書いてあった文章を記す。
難しい字はかたかなにしてありご了承ください。

立山初雪之歌
余曽て赤間君に伴はれて黒部の秋を探る途次浜加積の君か邸に投す其夜時雨れて朝立山連峰初雪の輝くを見る其の壮観偶偶余に此歌を作らしむ後日君これを石に刻みて邸内に建てむとせらる余固く固辞するも君の初志翻へすによしなく遂に工成りて池畔老杉の間に永久の記念を留むるに至る甚だ光栄を感すると共に慚愧に堪えさるものあり君更に其原本に装コウを施して幅と成し題箋を需{もと}めらる余益々恐懼措く能はさるもまた否むによし無く茲に函面に題し併て其由識す
昭和十五年春中ガン  玉堂

川合玉堂、赤間徳寿両氏の略歴
<川合玉堂>
 明治6年―昭和32年、愛知県一宮市生まれ。
 昭和15年66歳で文化勲章受賞。
 近代日本画壇の巨匠

<赤間徳寿>
 昭和17年9月~昭和21年4月 衆議院議員。
 昭和28年11月滑川町長。
 昭和29年3月~昭和33年8月 市制施行により初代滑川市長。

写真は、立山初雪之歌の掛け軸。共箱の蓋と記された文章。

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(2023/10/11)

{一社}滑川青年会議所創立50周年

名月を 取ってくれろと 鳴く子かな  一茶

残暑未だ厳しいとは言え、朝夕の冷え込みが一段と進み10月3日の北日本新聞は、「室堂一帯の紅葉が見頃を迎え、雷鳥沢では、2日ナナカマドの赤とミエカエデの黄、ハイマツの緑が山肌を染め、青空に映えている」と報じている。
確実に秋の足音を感じる季節となりました。

さて、10月1日{日}一社滑川青年会議所創立50周年記念式典及び記念祝賀会が盛大に開催されました。
式典は市民大ホールで、現役会員、シニア会員、県内各JC会員、等約200名が出席し節目を祝いました。式典は50年を回顧する映像が2台のスクリーンに写し出されましたが、今は亡き懐かしい方々の姿を見るとやはり50年の歳月を感じました。

西山剛理事長が「これからも、滑川JCとして地域にに根ざした活動を展開し、さらなる発展に邁進する」と力強く挨拶。上田英俊衆議院議員、麻生将豊日本青年会議所会頭等より祝辞がありました。尚、麻生会頭は麻生太郎元総理大臣の息子さんです。
会頭が滑川のように小さなJCの式典に出席されるのは珍しいことです。

さて、JCとは満20歳から満40歳までの青年たちが、自治体や他団体から金銭的支援を受けず、原則、会の運営は会員の会費収入で活動をしている団体です。活動内容は今では、すっかり定着した「わんぱく相撲ほたるいか場所」「文化講演会」等の開催や「ねぶた流し」への参加や各種事業を活発に展開しています。

私はシニア会員の一人として出席しましたが、卒業して36年。現役のメンバーほとんど知らないのにはやはり年齢を感じざるを得なかった。私は、30歳で入会し、40歳まで10年間在籍しましたが、最後は、富山ブロック協議会北方領土問題特別委員会委員長でした。私の職業は売薬であり、私以外のメンバーは市内で事業を展開する若手経営者です。

よく、県外で事業をする売薬さんがJCに入って、どんなプラスがあるのか。と聞かれました。特に、県外に出張することが多い為、月一回の例会にも中々出席が難しい。そんなハンディもあったが、JCは全国にあり、出張先の秋田県大館、宮城県塩釜、仙台、北海道、深川、留萌、滝川の各JCの例会に出席した。このようにJCに入ったお陰で、異業種交流ができたことは、何よりの財産になった。

また、JCの綱領に「志を同じゅうする者相集い力を合わせ青年としての英知と勇気と情熱をもって明るい豊かな社会を築き上げよう」この言葉に感動した。正直言って、薬業青年部をはじめ業界の様々な会合にでても、このような言葉は無縁でした。
それ故新鮮な驚きを覚えた。私の心の中の何処かに、この言葉と一致した思いがあったから、25歳の時、第一回富山県青年の船に参加したのかも知れません。

そして、JCの「綱領唱和」は薬業青年部の中に取り入れ、文章をかえた形で「配置薬業綱領」として青年部の全国大会で採用した。或は、会や組織の運営についても多くを学んだ10年間であった。結果的にその行動の延長に政治の世界があったと思う。現在現役メンバーが17名と県下では最小のJCですが「小さくともきらりと光る」そんなJCを目指し、60年、70年と引き継いでほしいものです。

懇親会は、会場を新装なった「メリカ」に移し、新田八朗知事も出席され、長岡すみ子民謡シヨーが雰囲気を盛り上げ盛会裏に終了した。
写真は、式典での西山理事長挨拶、麻生会頭祝辞。祝賀会での新田知事祝辞。鏡割り。

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(2023/10/03)

石原良純さんと共に

肩にきて 人にやさしき 赤とんぼ  漱石

9月30日{土}石原良純さんが、上市町新町制70周年記念事業の文化講演会の講師として出席のため来町の帰途、滑川に立ち寄られ、久しぶりに再会し、しばし歓談、痛飲した。彼もコロナ禍はほとんど講演依頼はなく、県外に出ることもなかったという。

そんなことで、彼と合うのは数年ぶりである。会話の中で、やはり昨年2月1日89歳で亡くなった父、慎太郎氏のことである。新型コロナの為、お別れの会は延期され、6月9日東京都内で行われた。
私は新聞報道でその様子を知ったが、各界関係者多数の中で、岸田首相は弔辞で「歯に衣着せぬ物言い,信念を貫くための果断な行動で、強烈な個性に強く引かれた」をはじめ多くの人の弔辞の後、最後に長男の伸晃氏が遺族を代表し「天上界で父は本当に感謝していると思う」と述べられた。

お別れの会に先立ち、記者団の取材に応じた良純さんは「父は皆さんに夢を託されて生きた人間だった」と述べていた。この点について彼は私の問いに「父らしい生き方で、悔いのない、いい人生であった」には私も面識はなかったが同感である。

また、昨年4月彼より「石原慎太郎短編小説全集」①②が送られてきた。その中に、伸晃,良純、宏高、延啓の4兄弟各氏が、はがき大の大きさの台詞に、それぞれの思いが述べられていた中、良純氏は「父にとっては、石原文学の頁を開いて頂けることが何よりの喜びなのではないかと思い献本させていただきます」と記してあった。

今年春には、彼がテレビCM出演している某製薬メーカーの第3類医薬品が送られてきた。私の健康を気使ってくれることには、感謝したい。

さて、私と彼との出会いは2002年4月19日、ホタルイカの海上遊覧の取材で滑川を訪れ市内で宿泊し、その夜寿司屋で会ったのが最初である。その時女優秋野暢子さんも同席していた。それ以来の付き合いだから、もう21年になる。
当日、秋野暢子さん同席の写真を含め思い出のスナップ写真を10枚程持参したが、お互い若かりし頃を懐かしみ16時過ぎから18時半頃まで、話に花が咲きあっという間の2時間半であった。

今回、大学生の息子さん良将君が同行し30日は金沢泊。明日10月1日は日曜日で仕事が入っていないので、親子で金沢市内を見物し帰京するという。良純さんらしい家族思いの一面である。

写真は良純さんと息子良将君。2002年4月良純さんと秋野暢子さん。自宅で家族と。小杉寿司にて等。

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(2023/10/01)

基準地価上昇

9月20日、県は2023年7月時点の県内基準地価を公表した。同時に全国各地の地価の変動も公表された。
県内の基準地価は商業地で2年連続上昇、富山市がプラス1.9%で、10年連続の上昇、理由は新幹線開業と南北接続で利便性向上等があげられる。

住宅地は前年同様、富山市と舟橋村で上がったほか、立山町がプラス0.9%となり、2003年以来20年ぶりに上昇に転じた。
富山市との隣接エリアで分譲地の開発が進んでいる影響とみられている。1㎡当たりの最高価格地点は、商業地が富山市桜町2丁目の56万8千円{2万6千円増・1坪187万4400円}で32年連続、住宅地が富山市舟橋南町の12万8千円{4千円増・1坪42万2400円}で35年連続、上昇率が最大だったのは、富山市牛島町の商業地域で6,9%である。

しかし、下がった地域もある。下落率が最大だったのは射水市新片町{新湊}の住宅地で3,7%だった。しかし、上昇は60地点で2022年度から10地点増えた。全国的には商業地の全国平均は1,4%,三大都市圏は4%のプラスで最高価格は東京都中央区の「明治屋銀座ビル」で1㎡当たり4010万{1坪1億3千233万円}で2019年以来4年ぶりの上昇である。

さて、資本主義社会では、「売る、買う」は需要と供給によって決まり、上昇や下落は当然であり、それぞれ功罪はある。故に、マスコミも今回は淡々と報道していたように思う。
そこで、司馬遼太郎が生前産経新聞「風塵抄」に月1回寄稿していた。平成8年2月12日付「日本に明日をつくるために」として掲載された文を少々長いが紹介する。実はこの日の午後8時50分73歳で亡くなった。まさに死の何日か前に書かれたものであろうが言わば「遺言」のようなものである。

「風塵抄――日本に明日をつくるために」 司馬遼太郎
「この世にはわからぬ事が多い。私の仕事は、古い書籍にかこまれていなければ,常在、不自由する。このため、東京オリンピックのあった昭和39年{1964}に、大阪の西区のアパートから、地価の安い東郊の外れに越してきた。早くいえば場末で、大阪市内であふれ出た家並みの東限になる。乱雑に家屋や木造アパートが建ちつつあった。

それらの低い建物にかこまれて、半段ほどの青ネギの畑があった。ときどき耕すとも見回るともつかぬ態度で、老農婦が姿を見せる。このひとは、法的に農地から宅地に転用されるまでのあいだ、青ネギを植えているいるのである。宅地に転用されれば、坪8万円になるという。法的には、体裁として栽培している。
あるいは、擬態として。さらにいえば半段の農地が大金を生みだすための時間待ちとして、1本5円ほどの青ネギをうえているのである。日本史上、はじめて現出したこの珍事象には、いままでの農業経済論も通用せず、労働の価値論もあてはまらない。労働のよろこびもなく、農民の誇りもない。

いかにえらい経済学者でも、この現象を、経済学的に説明することは、不可能にちがいない。青ネギが成長するころ、その農地は大願成就して、木造二階建アパートになり、そのころには、坪数十万円ぐらいになっていた。いかなる荒唐無稽な神話や民話でも、この現象の荒唐性には、及ばない。
これをもって経済現象と言えるだろうか。日本中が、そのようになっていた。物価の本をみると、銀座の「三愛」付近の地価は、先の青ネギ畑の翌年の昭和40年に一坪450万円だったものが、わずか22年後の昭和62年には、1億5千万円に高騰していた。坪1億5千万円の地面を買って、食堂をやろうが何をしようが、経済的にひきあうはずがないのである。とりあえず買う。1年も所有すればまた騰{あが}り、売る。

こんなものが、資本主義であろうはずがない。資本主義は、モノを作って、拡大再生産のために原価より多少利をつけて売るのが、大原則である。その大原則のもとで、いわば資本主義はその大原則を守ってつねに筋肉質でなければならず、でなければ亡ぶか、単に水ぶくれになってしまう。更には、人の心を荒廃させてしまう。

こういう予兆があって、やがてバブルの時代がきた。日本経済は――とくに金融界がーー気が狂ったように土地投機にむかった。どの政党も、この奔馬に対して、行手で大手を広げて立ちはだかろうとはしなかった。
なにしろ、バブル的投機がいかに妖怪であっても、困ったことに、憲法が保証する経済行為なのである。立法府も行政府も、法を基準としている以上、正面から立ちはだかるのは、立場上、やりにくかったのだろう。

しかし、誰もが、いかがわしさとうしろめたさを感じていたに相違ない。その後ろめたさとは、未熟ながらも倫理観といっていい。
日本国の国土は、国民が拠って立ってきた地面なのである。その地面を投機の対象にして物狂いするなどは、経済であるよりも、倫理の課題であるに相違ない。ただ、歯がみするほど口惜しいのは、「日本国の地面は、精神の上において,公有という感情の上に立ったものだ」という倫理書が、書物としてこの間、誰によってでも書かれなかったことである。

例えば、マックス・ウェバーが1905年に書いた「プロテスタンティズムと資本主義の精神」のような本が、土地論として日本の土地投機時代に書かれていたとすれば、いかに兇悍のひとたちも、すこしは自省したに違いなく、すくなくともそれが終息したいま、過去を検断するよすがになったに違いない。

住専の問題がおこっている。日本国にもはや明日がないようなこの事態に、せめて公的資金でそれを始末するのは当然のことである。その始末の痛みを通じて、土地を無用にさわることがいかに悪であったかを――思想書を持たぬままながら――国民の一人一人が感じねばならない。でなければ、日本国にあすはない」

これが全文である。

私には、このような名文は書けないが意とすることは理解できる。
資本主義とは、土地を無用にさわる事は、等かってのバブル崩壊から我々は多くの教訓を得たはずである。バブルとは膨れ上がった風船である、いつか破裂する。破裂した時が崩壊である。
平成8年前後と現在とは、社会情勢も経済環境もちがうから、同一には論じられない。あの時、県内のある金融機関も600億円を超す公的資金が投入された忘れることの出来ない苦い思いがある。基準地価が徐々に上がりつつある現在、バブル崩壊した時の教訓を思い起こすべきであろう。私の思いが杞憂に終わることを念じ――。

写真は、平成8年{1996}2月12日の産経新聞。

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(2023/09/23)

第75回滑川高校体育大会  テーマ 飛龍乗曇~飛ぶ勢いのまま~

大歓声 騎馬戦 綱引き 青き空

標記大会が当初は6日でしたが、雨天順延となり9月7日開催されました。当日は前日と打って変わり、午前中は青空が広がり、ほどよき秋の風が頬をよぎる絶好の体育大会日和となりました。

本校は、普通科1クラス40名で2クラス。商業科、薬業科、海洋科各1クラス、1学年5クラス計200名。全校生徒数3学年合計600名です。私は、戦後の第一次ベビーブームの年代で、1学年、普通科4クラス、商業科6クラス、薬業科、家政科各1クラス、計12クラス、1クラス50名でしたから、1学年だけで600名。
現在の全校生徒数と同じです。1学年600名3学年ですから、全体で1800名。これに当時定時制課程があり、合計2000名を超えていました。今日では到底考えられません。

ですから運動会の団編成は、全日制が4団、1団450人。定時制1団、計5団です。.ゆえに、応援合戦や、リレーなど、それは、それは凄まじく迫力あるものでした。団の名称も「青龍」「白虎」「朱雀」「黄鶴」「玄武」の5団です。それに比べると現在は「青龍」「白虎」「朱雀」の3団、1団200名です。

私の孫が通っている田中小学校は現在生徒数215名で、運動会は「赤」「白」「青」「黄」と4団です。小学校と高校、種目数や内容などの違いがあり、同一に論じることは出来ませんが、高校は4団あっても良いと思います。

また団名に使用されている四神図が一躍有名になったのは、昭和47年{1972}奈良県明日香村で高松塚古墳の発掘調査によって、飛鳥美人と呼ばれる極彩色壁画が日本で初めて発見された時、石室内部の天井及び四周の東側中央に「青龍」その上に日輪、西側中央に「白虎」、その上に月輪、北側中央に「玄武」南側中央に剥落していたが「朱雀」が描かれていたという。

また、星縮図等々も描かれ、日、月、四神を従者にし、死者が永遠の眠りにつく小宇宙を形成しており,中国思想に基づいた貴人の墓とも言われこの時から四神図が世に広く知られるようになったと思います。
私も以前この地を訪ね、施設の中でカビ防止等々の修理中の四神図を窓越しに見学してきました。

さて、私が高校3年生の時は昭和40年。高松塚古墳発見の7年前です。この時既に体育大会の団の名称に四神図が取り入れられていることに驚きます。また、四神図以外に「黄鶴」が団の名称に使っていますが、この出典はわかりません。
例えば、詩人李白が友人「孟浩然」との別れを惜しみ贈った漢詩「黄鶴楼にて・・・」や、中国武漢市のシンボル「黄鶴楼」或は中国料理店の店名によく使われる「黄鶴楼」などからヒントを得たのか、いつ頃、誰のアイデアで四神図などが使われるようになったのか。知りたいものです。現在の生徒諸君も団名の由来ぐらいは知っておくべきです。

いずれにしても、前日の雨天と打って変わった好天気の中、グランドに足を踏み入れた時の熱気から、若さとか、青春とかを感ぜずにはおれませんでした。
私も、青春のひと時を過ごした高校時代を思い出す中、元気を貰った1時間半程でした。

尚、滑川高校創立百十周年記念式典は次のとおり。
日時:11月10日{金}13時30分
   ・記念公演 14時30分、
   ・祝賀会  18時(場所:レストラン光彩、会費:8千円)

希望者は滑川高校事務局 電話076-475ー0164まで申し込みください。

写真は挨拶する金田校長、開会式、3団の応援席。

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(2023/09/08)

滑川市武道大会

こおろぎや あかつき近き 声の張り  内田百間

暦の上では処暑を過ぎ、8月も末になると朝夕はどことなく涼しさを感じ、どこからともなく虫の声が聞こえてくる。
暑い中にも季節の移り変わりを感じる8月27日{日}、第56回滑川市武道大会{主催・滑川市・滑川市教育委員会・滑川市体育協会・主管・滑川弓道会}が市総合体育センター内、弓道場・澄心館で多数の参加を得て盛大に開催されました。

柔道・剣道も開催されましたが、弓道競技は県内の弓人を対象に今年で56回の歴史を誇る大会です。
特に、今年は、姉妹都市長野県小諸市弓道会より6名の参加があり、大会に花を添えて頂きました。久しぶりの再会に平成20年11月9日小諸懐古園内、懐古射院弓道場竣工式に私と妻が招待され、二人で一つ的礼射を行ったことに話題が及びました。

午前9時、弓道競技の開会式が道場で行われ、山岸光隆会長が挨拶、4年ぶりの開催を喜び、日頃の練習の成果を遺憾なく発揮されるように述べ、次いで私が激励の言葉を述べました。
次に教士6段山岸光隆、介添え・4段石坂孝文・介添え3段石尾遼太郎の3氏で矢渡しが行われました。この時は会場は静寂に包まれました。

以後、午前中は高校の部・団体戦と個人戦・いづれも四ッ矢2回8射の的中数で順位を決定。
団体戦は1チーム3人で高校生30人参加。午後は一般の部・団体戦・個人戦で的の直経36㎝は高校生と一緒であるが、順位は点数である。的は赤や黄・青などの色的で、真ん中が10点以下7点、5点、3点、1点で四ッ矢2回、8射の的中の合計点で順位を決定する。

このような形の競技は国体の遠的競技だけであり、県内の大会では滑川だけである。しかし、射撃やアーチュリーにしても点数制である。
いかに目標に正確に当てるか。これが醍醐味の一つであるから、和弓にも点数制は必要と思うが、36㎝の小さな的では、点数の確認などは煩雑で、しかも時間を要することなど問題点があることは理解しているつもりである。

一般の部では38チーム110人を越える参加者であり、この点数制を楽しみに参加している方々も多数おられた。
いづれにしても4年ぶりの開催であり、心地よい弦音の響きに酔いしれた1日でした。

成績は以下のとおり。
<高校生>
 個人男子 1位:富山第一B 山下皇冴 2位:滑川A・坂本琥太郎
 個人女子 1位:富山いずみA・山崎結愛 2位:富山第一・河上心優

<一般の部>
 個人男子 1位:射水A・水口辰郎 2位:富山H・飯田一夫
 個人女子 1位:小諸・小山田理恵 2位:高岡川口幸子
 *団体の部は割愛

特に、一般の部、個人女子で1位になられた小山田さんは、遠路小諸から参加されての1位でしたから良かったと思いました。
大会終了後、久しぶりに懇親会が開催されましたが、私の知らない人も数人出席し、確実に組織は若返りつつあり、山岸会長のもと、滑川弓道会の更なる発展を願い散会となりました。

写真は、矢渡しする山岸会長。表彰式で一般女子個人の部1位の小諸の小山田さん。

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(2023/08/28)

地域の想いに出会う 富山県滑川市・上市町の調査記録 地域社会の文化人類学的調査について32

8月19日{土}午後1時ー4時まで市内ショッピングセンター会議室で、富山大学文化人類学研究室が、1979年研究室創設以来、教育の一環として、学生たちが、北陸の一地域を選び調査実習を行い、その成果を報告書に纏めてその発刊を機に学生たちの報告が標記のテーマで発表されました。調査報告書の作成は今回で32回目だそうです。

報告書は2年間{4半期}にわたる授業の集大成で学生たちは、2年次前期にあたる2021年の春から初夏にかけて県内の複数の土地を訪れ、秋に調査地を滑川市と上市町に決定。
以後、授業時間を利用した日帰り調査を重ね、いわゆるフィールドワークとして足をかけ、耳を傾けての活動は、地域の人々の真剣な眼差しや生き生きとした語りに出会い、これまで誰も文字にしてこなかった情報も報告書には多く盛り込まれている。

報告書は
第一部 つくる・つなぐ
第1章 「にぎわい」はどこからやってくるのか 滑川市街地の事例――窪田歩実
第2章 ネブタ流しの今昔と子供の参加からみる可能性――――――大井萌莉
第3章 上市町におけるさまざまな農業 問題解決に向けた取り組みを中心に―富岡雪乃
第4章 滑川市及び上市町で活躍する作家たちと彼らの作品――中国留学生・丑

第二部 おもう・かたる
第5章 宿場町の過去と現在 滑川市瀬羽町の事例を中心に―――――浦上結衣
第6章 上市市街地の歴史を紡ぐ 街と人々の記憶――――――――松井成弥
第7章 上市町における歓楽街の昔と今―――――――――――――上野由愛
第8章 自然を求める人々 山岳と緑に恵まれた上市町において――渡辺聖菜

第三部 まつる・いのる
第9章 滑川市加島町における獅子舞 次世代へと継承される伝統――小林滉
第10章 道端の石仏と地域の人々との関わり 上市町の地蔵を中心に―森由希子
第11章 「霊水」に魅せられる人々 上市町黒川地区の穴の谷霊場の事例―星野正樹

調査には11名が参加しているが、今回は滑川市に関する発表で5名であった。
この内、第9章加島町の獅子舞は2区と3区の2ヶ所があり、長野県出身の小林君が調査に来宅した。私の住んでいる2区では数人が調査に協力したが私もその中の一人であったことから今回の発表会に出席した。

私は2区に生まれ、育ったことから、当然幼稚園児の時から踊り子として参加し、社会人になっても獅子の中に入ったり,口上を述べるなど70歳くらいまで現役で参加しているから多少の知識があり、知りうる限り彼に説明をした。
しかし、数回にわたり来宅するものだから、その情熱にほだされて、滑川駅まで送ってあげたり、昼食を出したりした。
しかし、この報告書を読むと、実に素晴らしい。

他の方の報告も同様だが、紙面の関係で、小林君の報告の大要を記します。
はじめにー始まり
1ー加島町概要
 ①ー①加島町について
 ①ー②加島町の歴史
 ①ー③加積雪島神社
2ー加島町獅子舞概要
 ②ー①概要
 ②ー②獅子舞の流れ
 ②ー③演目
 ②ー④道具・衣装
 ②ー⑤鯛灯行{やさこ}
3ー獅子舞を支える組織および役割について
 ③ー①睦会{2区}と3区獅子舞保存会
 ③ー②獅子舞を支える女性たち
4ー住民の語り
 ④ー①獅子舞を支える男性たちの語り
 ④ー②獅子舞に携わっている女性の語り
 ④ー③主役となる子どもたち
5ーまとめ・謝辞とそして参考文献

加えて写真も11枚。加島町の略図を添付するなど実に詳細に報告され、A4版230ページに及ぶ分厚い報告書には、正直感心した。
どこに出しても恥ずかしくないと思う。

勿論、彼以外の報告も素晴らしいものであった。
私はかねがね、滑川というコップの中の水は、滑川以外の水も入れ、かき混ぜることによって、より活性化すると思っている。幸い、当日水野市長に柿沢副市長も出席でした。

市では現在、ランタン祭や街Ing滑川など色々アイデアを凝らし、活性化に努めておられますが、彼らの提言も参考にされ頑張って頂きたいと思います。
それにしても、彼らの真摯な発表の姿や何の関係もない滑川を調査しようとするエネルギーに改めて感心した。こんな大学生がいたことに驚いたし、日本もまだまだ捨てたものでないとも思った。

写真は、発表する小林君。前列5人の発表者と富大野澤準教授、水野市長、柿沢副市長。

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(2023/08/20)

薬業人バーベキュー

お盆に迎えた先祖の霊を送り出す8月16日、午後3時より、我が家の小さな中庭で、「夏バテを吹き飛ばし、商売繁盛」を掲げ、4年ぶりにバーベキューを開いた。

参加者22名は全員配置薬業関係者、いわゆる売薬さんである。ただ一人途中から突然参加された水野市長を含めると23名で実に賑やかであった。
当日は台風7号が近畿、東海、中国地方で猛威を振るい随分やきもきしたが幸いにも、台風の強風域が県内を霞めるように日本海に抜けそのまま北上したので風の影響は全くなかった。
ただ雨である。朝から時々通り雨のようにパラパラと降っていた。しかし、もし雨なら屋内で行う。その時は、焼き肉や焼きソバはなくバーベキューとは名ばかりの懇親会である。

晴れれば当然屋外である。判断に迷うところであるが、1時30分頃から会場設営に集まったメンバーがスマホを片手にウエザー情報を私に教えてくれる。最終的に2時現在、雨雲レーダーでは、滑川上空の雨雲は25分後には消え、その後は晴れるとの情報を最終判断として屋外での開催を決定し設営に入った。
それにしてもスマホの威力には改めて驚いた。

さて、22名も集まれば、回商地が北海道から九州まで、しかも一人で複数県回商するから話題も豊富であり、話に花が咲くのも当然である。
そんな中、水野市長がどこで情報を入手のか、突然参加した。氏の父親も売薬さんであり、親の背を見て育ち、現在氏の弟さんがその後を継いでいることなどから売薬には理解のある市長の一人である。
そんな市長が、富山市に次いで滑川市も物価高騰の折、売薬さんに対し、燃料代等の助成を決定し、すでに市内の売薬さん宛へ郵送済であり、大いに活用して貰いたい。と話された後、業界の発展を祈念し乾杯の盃をあげ再び懇談に入った。

またメンバーの中には、本職と間違う位の調理人がいて、焼き肉や、焼きそばなど実に美味しく頂いた。
それにしても、現代のように情報が簡単に入らない時代には、売薬さんがもたらす全国各地情報は、富山県民の生活や文化の向上、産業の発展に大きな貢献をしたことを忘れてはならないと思う。そして、参加者から、自家栽培の野菜や、県外の銘酒などの差し入れもあり、和気あいあい、かつ中身の濃いバーベキューだった。

それにしても、天気予報は随分進歩したものである。台風にしても発生場所、進路、規模,或は雷の発生場所,各前線や高気圧、低気圧の位置、各地の最高気温や最低気温などの予報はほぼ正確である。これも科学技術の進歩によリ、昭和50年代前半から打ち上げられている気象衛星のお陰であろう。
しかしながら、地震と火山噴火予知は難しい。大規模地震の場合は、直前に地震警報が発せられるが余りにも時間的に余裕がない。火山噴火にしても、段階的に注意や警報が発せられるが、御岳山の噴火を見ても、中々予知は難しい。しかし、科学技術の進歩によっていづれ解決される時代が来ると思う。

一方で、火事の場合は人災が多い。ハワイ・マウイ島の大規模山火事は「強風によって切断された電線が枯草に引火した」との説がある。これも、ある程度の強風になると、停電のマイナスがあるが、送電を中止するとかを考えねばならないと思う。
かって「地震、雷、火事,親父」の言葉も親父の権威も低下し、男女平等が声高らかに叫ばれる今日ではこの言葉は死語になりつつあるように思う。

参考まで、日本で始めて天気予報が出されたのは、明治17年{1884}6月1日東京市内の交番に「全国一般 風の向きは定りなし。天気変りやすし。但、雨天勝手」として貼り出された。
139年前のことであり、隔世の感である。

写真は水野市長を囲み。

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(2023/08/17)

令和5年滑川高校同窓会総会

「越中おわら」の八尾で39℃。石川県小松で40℃。しかも県内では19日間連続猛暑日かつ今年に入り23日猛暑日と富山気象台観測史上最多を記録し、加えて熱中症警戒アラートが連日発令されるなど、正に「地球温暖化」から「地球沸騰化」を実感するような猛暑日の8月10日市内、西地区コミュニティーセンターで滑川高校同窓会{会長・中屋一博}総会・懇親会が午後6時から約60名の参加を得て盛会裏に開催されました。

当日は4年ぶりの飲食を伴う懇親会もあり、出席者はどことなく生気があるように思いました。

総会は毎年曜日に関係なく、8月10日と定められ、会員は
①戦前の水産高校
②滑川高等女学校
③滑川商業学校
④滑川薬学校
⑤水橋商業学校
⑥県立滑川中学校
⑦昭和23年以降の新制滑川高等学校
⑧定時制高校県立水産高校
⑨県立海洋高校

などの卒業生です。

これ程、多様で多くの学校が集まり現在の滑川高校になっています。
同窓生も3万7千人と県下最大規模を誇る同窓会として発展し、各界、各層に有意な人材を輩出し、各分野で活躍しておられることは、私たちの誇りとするものです。

その滑川高校が今年創立110年周年の記念すべき節目を迎えます。大正2年{1913}4月、町立滑川実科高等女学校として開校したのが歴史の第一歩ですが、大正2年と言えば、男女平等や男女共同参画などの意識が極めて低い時代に「女子にも中等教育の機会を」のスローガンのもと、町立で女学校を設立した先人の教育に寄せる熱き思いや、その後、やはり町立で創立する滑川商業学校の2校を相次いで県立に移管するのである。

その後、昭和10年町立薬学校を創立する。つまり戦前には、中新川郡滑川町という人口2万人にも満たない小さな町になんと、県立高校が女学校、商業学校、水産高校と3校もあり、加えて町立薬業校もあったのである。百年の大計は、教育である。つまり「人づくり」の言葉がある。
私たちの先人は、そんな思いで相次いで教育機関を立ち上げたのだろうと思うと、その情熱とエネルギーには頭が下がる。そんな話を私の挨拶でする中、なぜ戦後一時期といえ県立滑川中学校が存在したか。この事実さえも知る人が少なくなってきていることは、私とすれば残念なことであるとも申し上げました。

いづれにしても、年齢も考えも学んだ学科も違うものが、「同窓」の二文字で心が通じ合う。
不思議なことだが、それが同窓会だと思う。誰にも生まれ育った「ふるさと」があるように、青春のひと時を数々の想い出と共に過ごした「学び舎」、それが母校であります。何歳になっても、人それぞれの心の拠り所として、生きる続けているものと思います。

懇親会では、久しぶりの再会を喜び合う姿が見られました。また東京滑川会会長・土肥正明氏も同窓生の一人として、参加して頂きました。最後に、全員で校歌を合唱し母校の更なる発展を祈り,再会を約し散会となりました。

110周年記念事業をご案内いたします。{8月10日現在}
1記念式典 令和5年11月10日{金}13時30分{約1時間}
      場所 滑川高校 第一体育館
2記念公演 令和5年11月10日{金} 14時30分{約1時間30分}
      場所 滑川高校 第一体育館
      内容 音楽鑑賞 東京サロンシンフォニー キャラバン隊
記念祝賀会 令和5年11月10日{金} 18時{約1時間30分}
場所 パノラマレストラン 光彩 会費 8000円

参加は自由ですが人数等把握の為、希望者は学校事務局まで、事前に申し込み下さい。
滑川高校事務局、電話076ー475-0164まで。

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(2023/08/11)

「温暖化」から「沸騰化」

言うまいと 思えど今日の 暑さかな

国連のグレーテス事務総長が「地球温暖化」は終わり、「地球沸騰化」時代に入り、各国が対策を講じるよう発言した。
それを裏付けるように、世界各地で40℃を超す猛暑を観測し、中でも米国・カルフォルニア・デスバレーで55℃、中国・新疆ウイルグル自治区で52℃。また世界各地で多発する山火事。北極海の氷の面積が年々減少、ロシアのツンドラ地帯や、南極大陸そしてアルプス山脈やヒマラヤ山脈の氷河が、かってないスピードで溶け始めている。

こんな二ユースを耳にしても多くの日本人はピンとこない。
先日、7月27日世界気象機関{WMO}は「7月の世界の平均気温は観測史上最も高くなる。7月の世界の平均記録で最も暑かったのは、2019年7月の16,63℃だが7月23日までの平均が既に、16,95℃に上がっており、過去最高記録を大きく更新すると発表し、WMOのターラス事務局長は「温室効果ガスの排出を減らす必要性は、今までにないほど急を要している」と警告している。
国内でも同様である。7月に入って全国各地で40℃に迫る連日の猛暑である。

片や、線状降水帯なる新たな気象用語も日常化し、秋田を始め各地で水害被害が発生している。富山県内でも7月12-13日の県西部を中心に被害が出た豪雨では線状降水帯が始めて観測され、南砺市や小矢部市では土砂災害が発生。
また、6月28日に立山、上市など、県東部を襲った豪雨は「バックビルディング」現象と富山気象台が発表したが、これも耳にしたことのない気象用語である。

県内の猛暑日も8月2日現在11日連続35℃を超し、熱中症警戒アラート連日のように発令されている。
こんな現状でも日本人は他人事のように受け止めているのではないだろうか。確かにこの問題は日本だけで解決出来るものではない。
故に政府はもっと国民にことの重要性を訴え、世界の中で日本の果たせる役割を通して、国際世論をリードすべきでないだろうか。

参考まで記録の一部 国内での最高気温
山形市・40.8℃{1933年7月25日}
熊谷市・多治見市・40.9℃{2007年8月16日}
四万十市・41℃{2013年8月12日}
熊谷市・41.1℃{2018年7月23日}
浜松市・41.1℃{2020年8月17日}
国内での最高気温 熊谷と浜松の41.1℃であるが山形の40.8℃から熊谷・多治見の40.9℃へ0.1℃上がるのに実に74年を要した。
しかし四万十市の41℃まで0.1℃上がるのに僅か6年。次の0.1℃上がる熊谷まで5年、やはり異常である。

富山での最高気温は、1994年8月14日、富山市39.5℃、伏木39.7℃
世界の最高気温 1913年7月10日 米国カルフォルニア、デスバレー 56.7℃
世界の最低気温 2010年8月10日 NASA南極東部 -93℃ 
日本の最低気温 1902年1月25日 旭川-41℃

日本の寒暖の差は82℃である。世界的にも珍しいと思う。
また2013年10月9日 糸魚川市で35.1℃。10月では最高気温。
2019年5月26日 北海道佐呂間町39.5℃ 5月では最高気温。

写真は、米国・カルフォルニア・デスバレー。写真家髙橋明旺氏撮影。1981年10月

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(2023/08/02)

富山大空襲

遠花火 開いて消えし 天の闇  寺田寅彦

8月1日、今年も恒例の富山市神通川有澤橋下流で第75回納涼花火大会が開催された。東京隅田川の花火の103万人の人出{主催者発表}には及ばないが、県内最大の花火である。
ただこの花火の意義は、昭和20年8月2日、富山大空襲の犠牲者の鎮魂や街の復興、そして平和への願いを込めて大空襲から2年後の昭和23年から始まった。8月2日、日本三大花火と言われる長岡の花火も開催趣旨は富山と同様である。

さて、富山大空襲は昭和20年8月2日午前0時36分に、米軍B29爆撃機182機が飛来。午前2時27分までの111分間に12888発の焼夷弾を富山市中心部に投下した。爆撃中心点は富山城址東南の角{以前の時計台付近}とされ、市街地の90%以上の1377haが焼き尽くされ、まさに灰塵に帰した。罹災所帯2万5千、罹災人口11万人、死者は確認されているだけで2719人。実際は3千人は下らないと言われている。

当日の爆撃地は、富山、長岡、水戸、八王子、川崎石油企業群の5か所であった。駿河湾沖や紀伊半島沖から出撃したB29は計858機、内、富山飛来は182機と言われている。富山市街は、大和百貨店、海電ビル{現・電気ビル}、県庁、昭和会館、興銀富山支店、NHK富山支局、と残った建物は僅か6か所だけだった。

この空襲から数日後、氷見市島尾海岸に11体の遺体が漂着した。これは、空襲の熱さから逃げようと神通川へ飛び込んだものの力尽き富山湾へ流れ出したものであった。中には、胸に赤子をしっかりと抱いた若い母親や、離れぬように手を紐で縛り合った12-13歳位の姉と6-7歳位の弟の遺体もあったという。

地元の人たちは遺体を漂着した場所のそばにある松の木の根元にそれぞれ埋葬し、墓標代りに石を置いて毎年供養していた。その後、地蔵尊が建立され現在でも慰霊祭が行われていると言う。戦争とは最高権力者が決断し、被害は庶民である典型的な例である。
それにしても、意外に知られていないことに、大空襲に先立つ7月、2度にわたりB29は富山上空に飛来し、模擬爆弾を投下し訓練を行っている。7月20日、軍需工場と思われる「不二越製鋼東岩瀬工場」「日本曹達富山工場」「日満アルミニウム東岩瀬工場」が標的とされ3発投下された。

しかし、目標地点に命中せず富岸運河左岸に着弾、死者47名、負傷者40名以上の被害がでた。米軍はこの訓練は「うまくいかなかった」として26日再度同じ3工場を攻撃目標として飛来した。しかし、雲量の影響で1発投下。豊田本町に着弾。死者16名。負傷者40名以上の被害が出たという。また焼夷弾も改良された。大正12年9月1日午前11時58分発生の関東大震災で死者10万人と言われるが、これは地震の被害というよりも、家屋が木造建築であり火災での死者がほとんどであったという。これに着目した米軍は焼夷弾を木造建築がより燃えやすく、かつ面的に広がるように改良したという。

それにしても、第2次世界大戦では、300万人以上の日本人が亡くなった。
しかも、その大半が民間人である。戦後、政府は軍人には軍人恩給を支給し、原爆被爆者援護法制定により原爆被爆者にも救済の道は開かれてきた。しかし、昭和20年1月から8月まで空襲を受けた37府県215都市のなんの罪もない、無抵抗の市民を無差別に大量殺りくし、家を焼き命まで落とした人々には何の補償もない。割り切れない思いである。
ロシア・ウクライナでも同様なことが行われている。やはり戦争はやるべきでない。戦後生まれがほとんどを占め、戦争体験者が少なくなったが、神通川の花火の時期が来ると空襲での犠牲者への鎮魂、街の復興、平和への願いに思いを馳せる。

写真は、8月2日の花火{北日本新聞より}。当夜わが家の2階からの月。

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(2023/08/02)

川合玉堂展

時雨さす かづみの里に一夜寝て 今朝立山に 仰ぐ初雪(昭和11年秋)

初雪の 高嶺を裂きてみ空より もみぢの中に 落つる大滝 (昭和11年秋 称名滝にて)

生誕150年記念「川合玉堂展」が、県立水墨美術館で7月14日ー8月6日{前期}8月8日ー9月3日{後期}まで開催されており、私も、7月29日鑑賞した。

上記の「時雨さす・・」の一首は、昭和11年10月末、中新川郡浜加積村曲渕{現・滑川市曲渕}赤間徳寿{初代滑川市長}氏宅に一夜投宿した翌朝詠んだものである。

赤間宅中庭には歌碑が建立されているし、拓本が東部小学校にある。赤間宅に投宿した訳は知りませんが、氏は昭和17年9月―昭和21年4月まで衆議院議員であるのでこの時の人脈の中に玉堂もいたのではないかと思う。赤間宅から称名滝へ向かう。
「初雪の・・」はこの時の詩である。称名滝の少し下流「ひりゅう橋」袂に歌碑がある。まさに一幅の絵を想像する私の好きな詩の一つである。年譜の中に、昭和11年秋、黒部・立山周辺をスケッチ旅行とあるからこの時であろう。

さて、川合玉堂{明治6年・1873}―{昭和32年・1957}は近代水墨画を語る上で欠くことのできない近代日本画壇の巨匠で愛知県一宮市に生まれ、少年期は岐阜で過ごし、その後、京都、東京と転居を重ねる中で、円山四条派や狩野派などの技法を取得した。
さらにそれらを融合して、伝統的な墨の表現、線の表現を、近代日本画の中によみがえらせた独自の画境をひらき、詩情豊かな風景画の名作を数多く残した。

自然の中に身を置き、風景写生を重視し、そこに暮らす人々に温かいまなざしを注いだ初期から晩年にいたる約40点により日本の原風景とも呼べるように味わい深い玉堂の絵画の世界」パンプレットより。
素人の私には、論評する資格はありませんが、作品の多くに人馬が小さく描かれている。私の感想ですが、大自然の中では人間は小さな存在であることを表現していると同時に、大自然の雄大さと厳しさ、その中で生きる人々のたくましさが描かれているように思った。

また、写生帳も展示してあり、10代の頃の鳥や花の描写は本物と見間違う程の緻密な描写である。
ふと、NHK朝の連続ドラマ「らんまん」の植物学者牧野富太郎を思いだした。また、このスケッチ帳に「黒部・権現山」があり、県内に関する作品はこの一点だけであった。
前述した通り黒部・立山周辺をスケッチ旅行している訳あであり、称名滝を含め県内の風景を題材にした作品が他にあるのか、無いのか知りませんが、あれば見たいし、無ければ少々残念である。特に、印象に残った作品に、金地に紅白の梅をダイナミックに配した六曲一双屏風「紅白梅」は郷倉和子氏の「紅梅白梅」とは違った味わいがあるように感じた。「野馬群」や「老松蒼鷹」の六曲一双の屏風も圧巻であった。

玉堂は、昭和15年{1940}66歳で文化勲章を受章して画壇の頂点に立ち、昭和32年{1957}84歳で亡くなるまで描き続けた作品は日本人の原風景とも言える、おおらかさと懐かしさをもたらし、玉堂が画面に描いた景色は、100年近く経った今日でも、見る者を引き付けてやまない。これは、唱歌「ふるさと」とも同様である。だから私は後期にもう一回鑑賞したいと思う。兎も角、「百聞は、一見に如かず」である。

参考まで、玉堂の号は、彼が師とした一人に望月玉泉がいて、一字を貰い玉堂とした。
写真は、二日月{ふつかつき} 紅白梅{六曲一双屏風の右隻} 秋・彩雨。

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(2023/07/30)

京都・三千院・寂光院

7月3日{月}前日の伊根の舟屋と天橋立に続き大原三千院と寂光院と訪れた。

京都、大原、三千院、恋に疲れた女がひとり・・・
結城に塩瀬の素描きの帯が、池の水面に揺れていた
京都、大原、三千院、恋に疲れた女がひとり・・・・

作詞・永六輔 作曲・いづみ・たく{昭和40年}

三千院、と言えばやはりこの曲を思い出す。清水寺は元々有名なお寺であったが、現貫主森清範氏が今年の漢字一文字を清水寺で平成7年から揮毫されるようになってからメディアが取り上げ、森貫主の顔も世に知られ、寺そのものの知名度も一層アップした。
三千院もデュークエイセスが歌った「女ひとり」がヒットしたことによって清水寺同様観光客が一気に押し寄せるようになった気がする。

さて、当日は京都市バスと地下鉄が1100円で一日乗り放題のチケットを利用した。京都駅からバスで終点大原バス停まで約1時間20分程要した。大原、貴船、鞍馬のエリアを洛北と言う。
京の奥座敷とも言われ、自然豊かな風景が広がりのどかな山あいであった。それ故、皇族、貴族が隠棲したという。又、京都駅からこれ程の遠方だからか、外国人を含め観光客は意外に少なかった。しかも、バス停から三千院までが15分から20分かかる。

パンフレットによれば、「大原の地は千有余年前より魚山と呼ばれ、仏教音楽{声明}の発祥の地であり、念仏聖による浄土真宗の聖地として今日に至ります。創健は伝教大師最澄上人{767-822}が比叡山延暦寺建立の際、草庵を結ばれたのに始まります。
{中略}現在の名称は、明治4年法親王還俗にともない梶井御殿内の持仏堂に掲げられていた霊元天皇宸筆の勅願により、三千院と公称されるようになりました」とある。また境内にある「往生極楽院」はお堂に比べて大きい「阿弥陀三尊像」{国宝}を納める工夫として、天井を船底型に折り上げているのが特徴で、その天井には極楽浄土に舞う天女や諸菩薩の姿が極彩色描かれている。人間の知恵とは凄いと思う。
寂光院・・・三千院から大原バス停に戻りここから15-20分位である。

天台宗の尼寺で、推古2年{594}に聖徳太子が御父・用明天皇の菩提を弔うために創建された。本尊は、六万体地蔵尊である。平成12年{2000}5月9日の火災で残念ながら損傷{現在も重要文化財指定}新たに復元された本尊が本堂に安置されている。
しかし、寂光院と言えばやはり建礼門院である。建礼門院徳子は平清盛の息女、高倉天皇の中宮で安徳天皇の国母である。

平家は寿永4年{1185}4月源平合戦最後の激戦地壇ノ浦の戦いで敗北し一門は滅亡する。
この時徳子は6歳の安徳天皇を抱え入水するが徳子だけは源氏に助けられ、京へ送還され出家し文治元年{1185}9月大原寂光院に入寺、以後30年余り、安徳天皇と平家一門の菩提を弔い健保元年{1214}12月60歳余の生涯を終えたと言う。
彼女の最後の言葉として「人の世にある苦しみは,全て自分のこととして、思い知らされました。一つとして分からぬ苦しみはございません」また、御詠歌に「思ひきや み山のおくに住居して雲井の月を よそに見むとは」{建礼門院}がある。

この2寺を訪ね、深緑の中の静寂,縁淵に佇み眺める苔むす庭園、いにしえに思いをはせ、しばしのもの思い。
どれを取っても都会の喧騒から離れた至福のひと時でした。帰りは大原から国際会館までバスで行き、ここから地下鉄で京都駅。
なんと万歩計は1万7千歩を記録していた。17時9分のサンダーバード号で帰宅した。

6月29日に上京後、大阪、京都など4泊5日の充実した日程でした。
最後に、観光地へ行くと目的場所まで何分と書いた看板がある。以前あるところで15分とあったので歩いたところ、私の足で25分かかった。
例えば、「40代で15分」とか、せめて年代を書いておくと、自分の年齢と比較し判断できると思う。

写真は、三千院と寂光院

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(2023/07/04)

伊根の舟屋と天橋立

股のぞき 帰り際に股のぞき 未練がましく股のぞき  私の愚作

関西滑川会の翌日、7月2日{日}快晴の下、京都在住の甥っ子がドライバーとなって伊根の舟屋{以前は舟納屋と言った}と日本三景・天橋立に行った。

出発地は京都府内であるが奈良に近い方で、朝6時半出発し、京奈和自動車道と京都縦貫自動車道を利用したが、伊根には約3時間を要した。一口に京都府と言っても実に広い。
広い意味での若狭湾の中に、敦賀湾、小浜湾、舞鶴湾などとともに、丹後半島の東側に伊根湾や宮津湾がある。いづれも若狭湾の中での湾であるからそんなに大きくはない。
しかも、伊根湾は小さな半島が湾を抱くような形の地形で尚且つ湾の入り口に小さな青島がある。これが天然の防波堤となり、結果的に湾内は年中海は荒れることなく、舟屋の建設を可能にしたのだろう。それにしても生活の智慧とは凄いものである。

さて、舟屋とは、1階が舟小屋、2階が二次的な居場所として使用される建物で、伊根湾の周囲5㎞に約230軒の舟屋が並び、現在でも使用されている。古いのは江戸時代の建物もあり、その左右に明治、大正の舟屋もあると言う。
かって、湾内では小魚から鯨まで獲れ京都の魚の消費量の3分の1は伊根産であったという。

当日は遊覧船で湾内を1周後、ガイドさんに約1時間周辺を案内して貰いました。特に、ガイドさんが現在住んでいる自分の舟屋も見せて頂き、伊根の人々の生活の一部も知ることができました。昼食は町内の飲食店で、私は6点盛りの刺し身定食、他の一人はアラの煮付け定食。、富山湾の魚も美味しいですが、やはり伊根の魚も鮮度抜群。特に勘八と鯛の兜煮付けは、ボリュウム満点であった。

昼食後、天橋立に向かう。
天橋立には、二大展望所として「傘松公園」から眺めるのと、宮津の天橋立がある。宮津は天橋立を南側から一望できる展望所でここからの眺めは、天に舞う龍のように見えることから「飛龍観」と呼ばれている。私はここをお勧めする。
展望所にはリフトとケーブルがあるが,暑い日には、リフトの方が頬をよぎる風が心地良い。

いづれにしても,中々行くことの出来ない二箇所であり、しかも好天に恵まれ最高の観光でした。

めずらしく 晴れわたりたる朝なぎの 浦わにうかぶ 天橋立 
(昭和天皇御歌・昭和26年11月13日)

写真は、伊根周辺のマップと伊根の舟屋。天橋立・股のぞき。

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(2023/07/03)

第56回関西滑川会

飛び習い 青田の上の 燕の子  麦水

恒例の関西滑川会{会長・千先久矩氏}の総会・懇親会が7月1日{土}70余名の多数の参加のもと、ホテルグランヴィア大阪で盛会裏に開催されました。
総会では、滑川市の歌、滑川高校の校歌を全員で合唱し、次いで千先会長が挨拶。
特に、今年は滑川市が市制施行70年の節目の年に当たり、関西滑川会も陰に陽にご支援を頂いていることから何らかの形でご恩返しをしたいとの有難い発言がありました。

来賓の水野市長は,是非ふるさと納税にご支援と滑川市史3巻の購入のお願いと共に市政の現況についての説明と会の更なる発展を願うご挨拶でした。
次いで古城近畿富山県人会長はこの様な集いで高校の校歌が歌われることは珍しいと述べられ、次いで大門県議、金田滑川高校校長,土肥東京滑川会長、最後に私が滑川高校同窓会長としてご挨拶をしました。
今年110年の周年記念を迎えること。ふるさと納税は、滑川市以外に滑川高校にもできることになったこと。市同様滑川高校にもお願いしました。また、滑川高校は大正2年{1913}滑川町立実科高等女学校として110年の第一歩を踏み出し今日を迎えたこと。

当時は男女平等や男女共同参画などの意識が極めて低い時代にあって、私たちの先人が女子にも中等教育の場を、との熱い思いで創立したこと。大正12年町立を県立に移管。大正13年町立商業学校を創立。昭和3年県立に移管。昭和10年町立薬業学校創立。
これに県立水産高校を加えると、戦前滑川町という2万人にも満たない小さな町に何んと県立高校が3校に町立といえども薬業学校があったことに驚かざるを得ない。

近隣市町村を見れば、いかに先人の教育にかける情熱が高かったかが解る。国家百年の大計は人材の育成即ち教育である。これら110年を振り返りました。また、この様な会で高校の校歌を歌うことが出来るのは,多分本市に高校が1校しかないから歌えるのかも知れない。やはり地域にとって心の拠り所は学校であろうと思う。

又、水野市長が購入を勧められた「滑川市史」は滑川市の百科事典であり、米騒動や蛍烏賊等々を含め、滑川の歴史を網羅した書物であり、滑川に思いがあるなら是非とも購入を勧めました。

懇親会は尾崎市議会議長の乾杯の発声で始まりました。当日は久しぶりのマスクなしでの懇親会であり、故郷滑川の話題や、友人、知人の消息などあちこちで会話の輪が出来ました。
それにしても、どなたも故郷滑川の発展を願っておられることに改めて嬉しく、心強く感じました。和やかに進んだ中で、近畿県人会副会長石田千治氏の歌謡ショ―、民謡歌手寺崎美幸さんの民謡ショー、近畿県人会「おわら教室」の皆さんのおわら節や神輿を担いで会場を練り歩くなど、大いに盛り上がりました。

その後、中川副議長と近堂関西滑川会副会長によるエールの交換があり、最後に「ふるさと」を全員で合唱し締めくくりました。
名残を惜しむ声があちこちで交わされましたが再会を約し散会となりました。

写真は、好評だった千先会長手作りの総会資料。挨拶する千先会長と私。

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(2023/07/02)

全弓連定時評議委員会と大阪浮世絵美術館

6月29日{木}13時全弓連定時評議員会がJAPAN SPORT OLYMPIC SQUAREで開催され上京した。

議題は以下のとおり。
 第1号 令和4年度事業報告書{案}ついて 
 第2号 令和4年度決算報告書{案}について
 第3号 評議員の選任について
 第4号 理事の選任について
 第5号 監事の選任について

1号、2号議案は原案通り賛成全員で可決。
次に、評議員、理事の任期は2年ですが,監事は4年であり監事の私は当然退任するものと思っていましたが再任となりました。
特に驚いたことは、新たな評議員15名、理事15名、監事3名の新役員案は一人一人の略歴などが事務局からの説明と選考委員会の意見も加え、出席評議員の記名式による投票で決定されることでした。

評議員、理事は票数の発表はなく全員過半数を得たことの報告で当選となりました。又、私を含めた監事3名は全員賛成で当選となりました。
この上は、全弓連発展のため微力ですが尽力したいと思います。

翌日30日東京から大阪へ行き心斎橋駅近くの大阪浮世絵美術館で北斎・広重浮世絵展を鑑賞しました。特に、この美術館では葛飾北斎の有名な「富嶽三十六景・神奈川沖浪裏」が常時展示してありいつでも鑑賞出来ることです。

さて、パンフレットによれば「江戸時代後期、街道や宿場の整備により、庶民の間で巡礼や観光目的の旅行が大流行し、全国各地の名所、名物を紹介する本や浮世絵版画が数多く出版されました。
企画展では、浮世絵の巨匠と呼ばれる葛飾北斎と歌川広重の作品を中心に、江戸時代の人々の愛した観光名所と描かれた「名所絵」人々が旅をしている様子を描いた「道中絵」と呼ばれる、旅にまつわる浮世絵版画を約55点展示してあります」と記てありました。浮世絵には素人の私ですが、見ごたえのある浮世絵展を鑑賞しました。

パンフレットと北斎の「富嶽三十六景神奈川沖浪裏」

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(2023/07/01)

知人・友人

6月7日{水}全弓連令和5年度第2回理事会出席で上京した。

その折友人・知人と懇談した。今回の主役は、総務省財政局財政課長・新田一朗氏である。
氏は総務省から県に出向され富山県経営企画管理部長や知事政策局長として活躍された人である。新田八朗県知事とは一字違いの氏名であり、よく間違われると言って笑わせられる。

又、以前からの知人である衆議院議員・橘慶一郎氏、参議院議員・堂故茂氏にも声をかけたところ快く出席され、加えて参議院議員・野上浩太郎氏秘書野村氏、たまたま公務で上京中の水野滑川市長も参加した。

懇談会の進行は私が行い、開会の挨拶は堂故議員、新田課長挨拶、橘議員の乾杯で進んだが、会話はやはり5年近く出向された富山県の想い出から始まった。自然・文化・食に続いて人物評である。歯に衣を着せぬ言語明瞭、意味明瞭の表現であるが、氏の人徳であろう後に爽やかさが残るから不思議である。

特に、氏は地方行政のエキスパートであり、やはり、昨今の国と地方を取り巻く財政状況についてのやり取りが主であった。最後は新田氏が、今後も富山県発展に微力ながら努力する言葉で締めくくられた。心強い限りである。
6時30分から9時30分まで3時間あっという間に過ぎ去りました。

再会を約し散会しましたが、翌日出席者から、お礼のメールや電話そして次回の開催を要望する声も頂きました。
翌日午後富山駅から薬業連合会へ直行、研修会で1時間話し、5時30分から別メンバーと懇談、帰宅したのは夜10時頃であった。
多少疲れたが自己満足の1泊2泊であった。

写真は、出席者と共に。

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(2023/06/08)

市民文化講演会

恒例の京都清水寺・森清範猊下をお迎えしての市民文化講演会が6月4日{日}開催予定でしたが、5月末、突然体調が整わず出席出来ない旨のお電話がありました。
しかし、市民の皆さんには、既に市広報等を通し周知してあることから清水寺とも相談の結果、ここ数年森貫主の講演前に、前講として講演頂いていた清水寺執事補・大西英玄氏にお願いすることにしました。
氏の父は清水寺執事長・大西真興氏、祖父は清水寺中興の祖と言われる大西良慶和上で、大正3年{1914}奈良法相宗管長・興福寺住職が清水寺住職を兼務して晋山されました。

以後昭和40年{1965}北法相宗を立宗。初代管長に良慶和上が就任されました。興福寺の北の方角に清水寺があることから北法相宗とし宗派の代表の管長になり、清水寺の代表を貫主と呼ぶようになりました。
又、昭和51年{1976}NHK鹿児島放送局の山下夫妻の5ッ子誕生に名付け親となられたことが、全国的な話題となりました。和上は昭和58年{1983]2月15日「涅槃の日」に数え109歳で示寂されました。
実に69年の長きにわたり、寺の護持、発展にご尽力になり数々の功績を上げられました。また全国を行脚され昭和20年代―30年代に滑川の地にも何度か宿泊され,掛け軸や額装、漢詩「滑川行」など市内でもその足跡が残されています。

そのお孫さんが今回講演された大西英玄氏、でありこれも何かの「縁」だろうと思う。当日、森猊下から私宛の手紙を大西氏から頂きましたので,その文を会場で披露しました。
体調不調になったことで、滑川へ来れなくなったことをお詫びし、市民の皆さんと再会できないことを残念に思うこと。少々の不調であり早く元気になり、滑川へ行くことを心待ちにしていること。重ねて陳謝の文であったこと。これらを話し皆さんに私からも理解を求めました。

大西英玄氏の講演内容は、やはり、以前にはなかったプロジェクターの映像を使うなど青年僧侶らしさが随所に出た内容でした。奥さんとの出会いから結婚に至る話へと始まり、我々は35日に1度は奇跡と思われる事象に遭遇している。それが分からないだけである。
世の中の縁と同様と思いました。会場にお越し頂いた多くの市民の皆様には満足してお帰りになったと思います。

講演後、会場を厚生連滑川病院に場所を移し、昨年南里前院長が森猊下に揮毫をお願いしていた「徳」の一文字の除幕式が南里前院長、小栗院長、大西英玄氏、と私の4人で行われました。
以前森猊下が揮毫された「孝」の一文字に続き、「徳」で「孝」「徳」となりました。これは、同病院中庭に自噴している小さな池が昔から「孝徳泉」と呼ばれている。その由来は、今から430年前文禄2年{1593}美作の国の了安と安静親子が旅の途中滑川に宿す。了安長旅の疲れからか病に臥す。了安息子安静に末後の水に音羽の水を求める。
安静昼夜を問わず走り、清水寺音羽の水を持ち帰ったが父は既に亡くなっていた。その水を埋葬地にかけたところ、滾々と水が湧き出た。親子の絆に感動した人々は何時ごろからか、それを「孝徳泉」と呼ぶようになったという。
これが滑川の民話として今日まで伝承されている。

昭和52年病院が改築された折、この池から墓石が発見され、それが了安の墓石であり、池の傍に安置された。平成10年縁あって森猊下が本市で講演された時この話が話題となった。以後、講演の後わざわざ音羽の水を京都から持参され、墓石に掛けて読経されるようになった。了安・安静親子も草葉の陰できっと喜んでいると思う。森猊下は読経が終わると「全国色々の所へ行くが、病院の中で読経をあげるのは、ここだけです」と言って笑いを誘われます。

「孝」はすでに孝徳泉を眺める廊下に掲げてあり、その横に「徳」が掲げられて「孝」「徳」が並び末永く見守ってくれることになりました。その後、宿泊先で音羽の会のメンバーと行事が無事終了したこと。森猊下の早期回復。大西氏の一層の活躍を念じ歓談しました。
翌朝わが家にお立ち寄りになり少々懇談し京都へお帰りになりました。それにしても、森猊下は大したことがなくて本当に良かったです。私も安堵しました。

参考まで大西英玄氏の略歴を記します。
清水寺執事補。1978年5月9日清水寺成就院生まれ。
平成元年得度。平成12年関西大学卒.渡米留学を経て清水寺帰山。現在清水寺成就院住職。
世界宗教者平和会議日本委員会青年部会副幹事長。社会福祉法人同和園副理事長であり、京都産業大学、京都ノートルダム女子大学 などで講義を行っておられます。

写真は、挨拶の私。講演の大西英玄氏。4人の除幕式。孝徳泉での法要。

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(2023/06/05)

長野にて講演会

第63回長野県医薬品配置協議会{折田忠会長}総会が5月30日{火}長野市で開催された。
雨上がりの青葉、若葉の輝きは特に色鮮やかで美しい。長野市は周囲を山に囲まれているから一層その感を強くした。講演は研修会、総会後の午後2時から約1時間程である。

長野駅に降り立ってまず感じたことは、列車の発着時にどの駅でもメロディーが流れるが、長野駅は長野県民歌「信濃の国」である。47都道府県があるが、県民歌が流れるのは長野駅位でなかろうか。明治33年{1900}に作られ100年以上も経っている。
いかに県民に愛され、親しまれているかが解る。私の好きな曲の1つである。

次に新幹線のホームに「立食いソバ」がある。これがあるとどことなく旅情をそそる。富山駅を含め他の駅は自販機のみで大宮と東京駅はこれに売店があるだけだ。次に、新幹線のホームと在来線ホームの高さがほぼ同じである。軽井沢駅も同様である。是も珍しいのではないか。普通新幹線のホームは高架である。多分駅構内の中に踏切が無いから出来るのであり、もしあっても地下道だったり、道路が高架橋だからだろう。もう一点、駅から会場までタクシーに乗ったが、車の中で運転手さんと話に花が咲き、サービスすると言う。
何をサービスかと思いきや下車の折、料金が1540円を40円をサービスしてくれた。タクシー代をサービスするとは、これも余り聴いたことがない。冒頭こんな話をしながら本題に入った。

演題は「配置薬業の過去・現在・未来」で講演依頼者からの要望である。講演依頼はコロナ以前からあったが、延び延びになり今回実現した。

さて①過去の話は、主に明治以降の苦難の歴史をどう切り抜けたか。
まず明治維新になって新政府の洋薬礼讃、漢方排斥の方針である。新政府は医学・軍事・法律・産業やあらゆる分野や制度を西洋から学んだ。その影響は薬業にも大きな影響を与えた。明治3年売薬取締り規則公布。明治4年売薬取り扱い品目7品目に制限。加えて各地で不満士族の反乱が相次ぎ、明治7年佐賀の乱、山口県での萩の乱、福岡県での秋月の乱、熊本県での神風連の乱、そして明治10年西南戦争と続く。
これらの内戦に要した膨大な戦費。これは売薬に対して増税という形で現れてくる。明治10年売薬営業税、鑑札税が課税され、明治16年ついに悪名高き売薬印紙税となり、大正15年までこれが続く。これに対し、売薬業者は単に指を加えて眺めていたのではなく、悪税や規則緩和の要望を行う一方、製造、販売両面に於ける近代化、そして教育機関の設置による人材の育成、海外進出など抜本的な産業戦略を展開し幾多の困難を乗り越えてきた。ここまでは過去の話である。

そこで②現在はどうか。
今は自主回収問題に翻弄されている。正に明治の売薬印紙税導入された時と同様な打撃である。
自主回収問題を機に廃業する人。潜在的に後継者不足。明るい材料が無いような雰囲気である。これが現在の姿だろう。

それでは③未来は。
やはり過去から学ぶべきである。業界が活気があった時。それは競争があった時である。昭和20年代ー40年代この時代は一人帳主もメーカー直々の新掛けも盛んに行われた。
つまり競争のない産業は衰退するの言葉通りである。これらの人々の新規拡張が一段落した時、怒涛の如く拡張を始めたのが現在の大型販社と言われる。こう考えると守りから積極的な行動に出るべき時期である。
もはや「300年の歴史と伝統」「先用後利の商法」を叫ぶだけだけでは、新たな道は開けない。もっと考えることがあるのではないか。
例えば、ドラックストアは本来店名からして、薬が本業であるはずが、店に入ると生鮮食料品店と錯覚するくらい、野菜あり、精肉あり、魚あり、冷凍食品ありで何でもござるである。しかし消費者はむしろ便利性を喜んでいる。

又、富士フイルムとコダック社の例を挙げて、今やカメラ店に行ってもコダックのフイルムや製品は店の片隅にあり、ほとんど見かけなくなった。これは、1975年デジカメを最初に開発したのがコダック社である。
しかし、役員会では種々理由を上げ日の目を見ることはなかった。この結果コダックは印刷業に軸足を移し、規模を縮小して事業を続ける。最盛期に14万5千人いた従業員は4200人に減ったという。片や対照的に日本では、富士フイルムがフイルムに代わる新たなビジネスモデルを目指して、いち早くデジタル化の波を察知してフイルムメーカーから脱皮する。

同社がデジタルカメラを開発したのはフイルム需要が旺盛だった1988年。使い切りカメラ「写ルンです」を86年に発売し、新たな市場を切り開いたさなかのことで、デジカメはフイルムと競合するため社内で反発もあったという。
しかし、経営陣はデジタルの画質がフイルムを上回るという確固たる信念を持っていたという。と同時にフイルムの技術を活用出来る分野として、医療や化粧品の分野へ参入する。富山化学工業を傘下に置くのもこの流れである。

この結果昨年3月期の連結売上高は2兆5千億と、フイルム需要がピークを迎えた2001年3月期の約1,7倍に拡大するという。
特に、後藤禎一社長は「われわれは、変化を自ら起そうとする企業文化がある。変化の先取り、先読みすることが大事だ」という。ここが薬業界との大きな違いである。

どんな企業でも、常に右肩上がりで繁栄を続けるのは難しい。上場一部の企業でも紆余曲折があり今日がある。確かに薬業人は、今日までの苦難の歴史を紐解くと、「まごころ」があり「したたかさ」があり「知恵」をもってその時々の社会の変化に対応してきた。
しかし、これから先、配置薬業が存続していけるか、何処にも保証は無い。

結論は社会の変化に対応出きる者は生き残るし、逆の者は自然淘汰されるだろう。そのためにも配置薬業が社会に必要な職種であるためには何を為すべきかを考えなければならない。そうでないと前途は暗い。予定の1時間を20分もオーバーした。
この文章は、講演内容に多少加筆したが、内容は概ねこの様なものである。

尚、折田会長は滑川出身であり、かって滑川市薬業青年部長や富山県配置薬業青年連合会長そして長野県部会長等々の要職を歴任した人で、私の古くからの友人である。
翌日31日は長野から上京し、全弓連評議委員会に出席し夕方帰宅した。

写真は講演中の私。
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(2023/06/01)

春尽きて 山いっぱい 葉の怒涛

時々上京する機会があるが その時の楽しみの一つに博物館や美術館巡りがある。
と同時に友人、知人との懇談の機会である。5月24日、全弓連理事会で上京した折、友人たちと懇談した。集まったメンバーは、厚労省から富山県厚生部「くすり政策課」課長として2-3年赴任して「くすりの富山」の発展に尽力してくれた人たちである。

厚労省から本県に派遣されたくすり政策課{旧・薬業振興課含む}課長は現在の課長で15代であるが、当日3人程度と思っていたが6人も集まった。平成18年4月の9代から昨年3月、14代までの6人である。
一人は都合上6時から7時頃まで私に会いたいということで、取り敢えず2人で先に始めた。7時頃に他の5人が合流したのち先の一人は帰った。あとは私を含め6人となったが、彼らは富山県から厚労省に戻ってそれぞれの立場で厚労行政の推進に活躍しているが、一堂に会する機会はなかなかないと言う。それ故あたかも同級会のようである。

富山時代を懐かしむ話や近況を語り合う者やら、或は、新型コロナで苦労した事など話題は尽きることはなかった。閉店9時30分と告げられていたにも拘わらず店の配慮で10時過ぎまで、まさに時の経つのを忘れ痛飲歓談した。
しかし、彼らの共通の思いは、やはり富山県に寄せる熱き思いである。私からは、今後とも「くすりの富山」の発展,振興に支援して頂くようお願いした。
年齢や立場の違いはあっても、かけがえのない友人たちである。

写真は、先に帰った人と、残った歴代課長。

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(2023/05/25)

第66回東京滑川会総会

濃く淡く 若葉の奥も 若葉かな

青葉、若葉が重なり眩しく光輝く季節の中、恒例の東京滑川会{土肥正明会長}総会・懇親会が5月20日{土}11時ー14時まで、東京大手町サンケイプラザ3階で開催されました。
新型コロナも第2類から第5類へ移行し、あらゆる活動がコロナ前に戻りつつある中での開催ゆえ、昨年の手指消毒、検温、マスク着用もなく会場では再会を喜び合う歓声があちこちで響きあっていました。そんなことで参加者は昨年より多く79名でした。

総会は物故者黙祷から始まり,土肥会長挨拶の後、会長が議長となり 総会に付議された案件すべて可決、来賓紹介のあと、講演として、滑川市博物館・近藤浩二館長が「大正7年{1918}の米騒動と滑川」と題し約30分程ありました。

これは米騒動から100年の2018年に市が企画展を開催した後、館長に講演を依頼されていたのが、コロナ等により延期され、今年になったものです.。普通1時間でも短い時間ですが、彼に与えられた時間は30分。結局要点講演になりましたが、当時の時代背景から始まり、実に分かり易く話されました。さすが学芸員であり、館長です。
しかし、ちょっと気の毒な感もしました。
米騒動に関しての私の見解は以前のブログで発信しておりますので割愛します。

来賓祝辞では、昨年7月の参議院議員選挙で神奈川県から立候補初当選された水野素子氏が紹介され、氏は自らの生い立ちや、現在両親が滑川に住み事業を営んでおられること。時々子供を連れて滑川へ行ったこと。最近でも父の誕生日で帰省した事など話し滑川との縁をPRされました。氏は東京大学法学部。JAXA入社後、国会議員に転身現在に至る。

その他、水野達夫滑川市長より今年は市制70周年記念の年。是非故郷を訪問して欲しいと共に以前発行した「滑川市史」全3巻を今回特に割引価格で販売するので購入を勧められました。私は全3巻持っていますが、これは辞書と同じで、毎日開いて見るものでは無いですが、ふるさと滑川の歴史について詳細に記してある書物です。
米騒動も同様です。郷土を愛する滑川会の人々ですから一人でも多く購入された方が良いと思います。

千先関西滑川会長は早速申し込んでおられました。市長のあいさつの後、砂原富山県首都圏本部長、富山県人会代表の後、千先関西滑川会長の発生で乾杯し、懇親会に入りました。
余興は会員による新川古代神や越中おわら節などが披露される中、じゃんけん大会で滑川の「こしひかり」がプレゼントされるなど、いやがうえにも盛り上がりました。

最後に、「滑川市の歌」と「故郷」を合唱し、尾崎照雄市議会議長より、又、東京滑川会の上田芳夫前会長よりそれぞれの万歳でエールを交換し平山副会長の閉会の言葉で幕を閉じました。誰もが別れを惜しみ、来年の再会を楽しみに会場を後にしました。

いつも思うことですが、遠く故郷滑川を離れていても、いつも故郷を忘れることなく、ふるさとの発展を願っておられる方がおいでになることは本市にとって本当に有難いことです。

写真は、挨拶する土肥会長。講演の近藤館長。

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(2023/05/21)

稗苗氏・杉本氏両氏を慰労し励ますささやかな会

「修身治人」・・自己修養に励んで徳を積み、その徳で人々を感化していくこと

5月15日午後5時よりわが家で4月の任期満了をもって県議を退任された両氏の慰労と激励を兼ねささやかな会を催した。
参加者は、30年来の付き合いのある分家静男元射水市長、石灰昭光元高岡市議会議長、稗苗・杉本氏両氏と私、加えて各夫人も同席計10名の参加者です。稗苗氏は4月メンバーが違いましたが、一度同趣旨の会を開き、稗苗氏の功績や人柄は既に当ブログで発信していますので、今回は杉本氏について紹介します。

氏は、昭和50年若干26歳で富山市議会議員に初当選し、当時全国最年少議員として話題を呼びました。5期20年前務め、平成7年県議選へ転身、以後7期28年間の中で県議会議長の要職などを務め、この度後進に道を譲り退任されました。

氏は、私より1歳年下ですが、人生の半分以上48年間の長きにわたり地方政治一筋に歩まれた記録は中々ないと思います。又、48年間毎年議会だよりを発行し、しかも自ら手配りで有権者に配布し続けられ、多くの市民に好印象を与えたことも48年間議員活動を続けられた理由の一つと思います。しかし「言うは易く行うは難し」48年間も手配りで有権者に配布する。これも中々出来ない事だと思います。

又、氏は、そんなに上手とは思いませんが、相撲甚句をその場、その場の雰囲気を得意即妙に歌詞に取り入れあちこちで披露し、人心を掴む妙は他の追随を許さぬものがあります。
当日も、その場の雰囲気の歌詞で、2曲披露されました。当日集まった5人は、かって自民党県連青年部・局時代の幹部仲間で、平成6年5月約30年前滑川市東福寺野自然公園で夫人同伴でバーベキューを開催した時の写真を眺め、今も昔も変わらぬ元気と、30年以上も続いている友情に驚くやら、話に花が咲き時間の経つのを忘れる3時間余りでした。

稗苗・杉本両氏の市政と県政発展に尽力された功績に敬意を表し、慰労&激励状を渡し、陰に陽に夫を支え内助の功を発揮された両氏の夫人に花束を贈りました。
今後それぞれが健康に留意し,再会を約し散会しました。

写真は、両氏と全員写真、94年東福寺野自然公園での集合写真。

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(2023/05/15)

6回目ワクチン接種完了

5月11日6回目のワクチンを接種した。
3月13日、マスク着用は個人の判断に委ねられ、5月8日、感染法上第2類から第5類に移行した。世の動きを見ても、数万人の入湯者のスポーツ観戦もノーマスク、声出し応援も可。GWは国内の移動者は2450万人。どの行楽地も人、人、人で溢れ、新幹線の乗車率もコロナ以前に戻りつつある。

それにしても3年前の1月、国内で初めて感染者が確認され、1月末中国武漢の日本人がチャーター便で帰国した。2月横浜港に停泊の豪華客船ダイヤモンド・プリンセス号にクラスターが発生。この時、今日の社会的混乱を誰が予想しただろうか。ましてや東京オリンピックやパラリンピックが1年延期になるとは。しかし、人類2000年の歴史はウイルスとの闘いの歴史である。

ペスト、赤痢、コレラ、天然痘、黄熱病、マラリア、スペイン風邪、結核、エイズ、エボラ出血熱、デング熱、サーズ、マーズ、新型インフルエンザ、そして今回の新型コロナなど数多くの感染症が人類を襲ったがその都度制圧してきた。しかし、新型コロナは感染者数ゼロには中々ならないだろう。なぜなら、わが国でも、奈良時代疱瘡と呼ばれた天然痘は今回同様3年にわたって続いた。

この為、社会の動揺を鎮めようと、聖武天皇が命じたのは、東大寺大仏建造である。建造着手747年{天平19年}-大仏開眼752年{天平勝宝4年}これが、18世紀終わりのイギリスの農村部の開業医であるエドワード・ジェンナーが牛の病気である牛痘が人にうつると、その後天然痘にかからないと言われていた。
これに着目し、牛痘を少年に接種して効果を証明した。安全性の高いワクチンの発見である。
ジェンナーは後に「近代免疫学の父」と呼ばれ、この時からほぼ200年を経た1980年に世界保健機構{WHO}は地球上からの天然痘撲滅を宣言した。これらを考えると息の長い闘いである。

しかも、いつかはもっと毒性の強いものが人の社会に入ってくるだろう。何故なら、人類は人口増に伴う経済発展により、奥地の開発が進み、人が動物を通して未知の病原体と接することで新しい病気にかかることが20世紀後半から起きている。ましてやグローバル化の流れの中では、尚更である。ロシアのツンドラ地帯が温暖化で溶け始め、その中から未知のウイルスが発見されたニュースも伝わってきている。
こう考えると感染症も、繰り返される流行と同じで、豊かさや、新しさを常に追い求める暮らし方の中にあると思う。

いずれにしても、病院や車中は当分マスク着用しておけばよいと思う。

写真は、美人の女医さんから接種を受ける。

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(2023/05/11)

令和5年薬神神社春季例大祭

塵にまみれし街路樹に いと麗しき小雨降りけり

5月8日{月}午前9時より恒例の薬神神社春季例大祭{主催・石倉雅俊薬神神社奉賛会会長}が執り行われた。
今年のGWの前半は好天に恵まれ、各地の行楽地などは、コロナ以前の賑わいに戻ったと言う。国内での旅行者数は2450万人との予想があったが、行動制限なし。スポーツ観戦もノーマスク、声出し応援可、感染症の位置付けが,第2類から第5類に移行もこれを後押ししたのだろう。

しかし、後半のお天気は下り坂になった。大祭当日もあいにくの小雨模様。止む無く神社に隣接の社務所から神社に向かっての神事となった。横川宮司による祝詞奏上、石倉会長はじめ、私を含む薬業関係者に続き,水野達夫滑川市長、尾崎照雄市議会議長、大門良輔県議会議員、杉田隆之市商工会議所専務理事等順次玉串を奉奠し、商売繁盛、交通安全等を祈願した。

石倉会長は5月7日まで開催されていた、企画展・「滑川の薬売り―売薬にまつわるあれこれ」を見てきた感想を述べ、幼少の頃、薬を整理している父との会話を思い出した。同時に先人の苦労も偲ぶなどの話しの後、コロナ後の社会の変化に対応することの重要性を述べ、業界を取り巻く環境は厳しい状況だが、一致結束して乗り切ろうと訴えられた。

又、来賓もそれぞれの立場で激励の言葉が述べられました。尚、今回、昨年9月85歳でお亡くなりになった、故・渡邉弘武氏が薬神神社に合祀されました。私個人としても大変お世話になった一人で、感慨深い思いを禁じ得ませんでした。
氏は昭和43年滑川市薬業青年部創設者で氏に誘われて設立総会に私は出席しました。氏は2代目青年部部長でこの時私が第一回富山県青年の船団員に応募した時、青年部幹事長の役職を新設し私に与えてくれるなど物心両面の支援のお陰で団員に選ばれた。

又、現在では何の抵抗もないが、昭和40年代半ばに配置薬に使用期限の導入を提唱された。しかし、保守的な考えの強い業界では、総すかんであったが、粘り強い運動の結果、昭和50年代前半には現在の配置期限の導入が決定された。
又、福島県協議会が毎年開催し、昨年第28回を数えた福島県中学生「家族の健康」作文コンクールを提唱し、実現に奔走したのも氏であった。今では最優秀賞に厚生労働大臣賞が授与されるなどは、社会的にも認知される団体であり、事業であることを証明するものである。

世間には様々な団体が催す行事の中で大臣賞が授与されることは中々ないことである。これも氏の功績と言っても過言でないと思う。
兎に角アイデアマンであり行動力があった人であった。そのような素晴らしい先輩が合祀されてゆくことを見ると、感慨無量なものを憶える。

大祭終了後、しばし業界の諸問題について意見交換し散会した。
社務所を出た時には、雨上がりとなり、青葉、若葉の木々の塵が洗い流され一層色鮮やかな緑が目に飛び込んできた。コロナも2類から5類になった日でもあり、新たなスタートになった様な気がした。

写真は、社務所から見た薬神神社。玉串奉奠する私。水野市長を含め全員写真。

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(2023/05/08)

令和5年琵琶演奏会

逞しき 若葉青葉の せめぎ合い

5月5日・こどもの日に恒例の錦心流琵琶富山支部{支部長・杉本操・後援会長・中屋一博}の春季演奏会が、中川原町内詩吟の会の皆さんのご出演も頂き市内瀬羽町国登録有形文化財「ぼんぼこさ」{旧・宮崎酒造}で開催された。

当日は、こどもの日・端午の節句であり会場の土間には吹き流しの大きな鯉が数匹吊るされ、演奏場所には10種類の武者人形も飾られるなど雰囲気を盛り上げていました。
私は挨拶の冒頭思わず、こんな立派な兜なら大谷翔平選手所属のエンゼルス球団に寄付して使ってもらえばどうだろう。つい発言してしまいました。

それにしても当日午前中、私用で富山市へ出かけましが、8号線を走行中でも、屋外での鯉のぼりは全く見かけませんでした。家の構造上、屋外での設置場所や竿の長さ、保管場所など考えれば、屋内での武者人形に変化するのも時代の流れなのだろう。しかし、5月5日は歴史的にも、現在の実態も男の子の日である。この日が祝日で女の子の日、つまり3月3日桃の節句は祝日でない。

私の解釈では、戦後昭和23年7月国民の祝日に関する法律が制定された時、男女平等を考え、「こどもの日」としたのだろうと思う。当日午前11時富山市の気温が28,7度と全国最高気温であった。6月下旬から7月の暑さだという。
考えてみると、3月1日ホタルイカの解禁日には、漁獲量は僅か59匹。
以後今日まで記録的な不漁である。又、桜の開花や満開宣言は全国的に観測史上最速を記録している。以前話しましたが、昭和40年代私は、何度も青森県の「弘前城桜祭り」を見物した。時期は4月末から5月5日までのGWであった。

その後桜前線は津軽海峡を渡り、北海道に上陸すると言われた。それが、数日前、日本最北端稚内で蝦夷山桜の開花宣言が発表された。これで開花宣言は終了する。やはり、地球温暖化は確実に進行していると思う。

それにしても、日本は美しい。桜の時期は桜花爛漫、それが終わる百花繚乱、そして若葉・青葉の季節とくる。

さて、今回の演奏目録は
一 青葉の笛  演奏者 伊藤紫紺
二 詩吟{合吟「富士山」佐々明山 小田寿山 山口紀泉 山岸明山 神田恵子
三 羅生門   演奏者 嶺瑛水
四 詩吟{独吟}「大楠公」 前佛謙岳
       「早稲の香や」 山岸宏岳
       「自訟」    佐々岳晟
五 敦盛   演奏者  有澤結水

である。青葉の笛は源平合戦の折、平家の若武者平敦盛が一の谷の合戦で源氏の熊谷直実に討ち取られた時、敦盛が持っていた青葉の笛と我が子と同年代の若者の死を悼み、世の無情を感じ出家する。
その後一の谷を訪れた時、どこからともなく青葉の笛の音が聞こえる。など歴史的故事に因んでいる。羅生門にしても平安時代後期の説話集「今昔物語集」に由来し、これを元に芥川龍之介の短編小説「羅生門」が書かれている。
詩吟も同様に歴史的な故事に由来している。

そんな中、今回、詩吟で山岸宏岳氏が松尾芭蕉の奥の細道紀行の折、滑川で詠んだと言う「早稲の香や 分け入る右は 有磯海」を詩吟で郎ろうと吟じられた。「曽良随行日記」が昭和18年世に明るみに出て、芭蕉が滑川で宿泊したのが事実となる。
時は元禄2年閏7月13日である。この事実さえ市民から忘れ去られようとしている。残念なことである。山岸さんが詩吟の分野に芭蕉の句を取り上げられたことに敬意を表したいと思う。

先に「鯉のぼり」について話をしたが、大正2年「鯉のぼり」の歌がある。
①甍の波と雲の波 重なる波の中空を 橘かおる朝風に 高く泳ぐや鯉のぼり
2題目からは省略しますが、大正2年である。この時「早春賦」もある。大正元年には「茶摘み」や「春の小川」大正3年には「故郷」や「朧月夜」などの名作が数多くあるし、私の母校滑川高校の卒業式では、今でも在校生は明治14年の「蛍の光」卒業生は明治17年の「仰げば尊とし」を歌う。

学ぶ意欲があれば、蛍の光を集めても勉強をする例えであり、わが師の恩とは、恩師に対する感謝の気持である。
詩吟や琵琶の演奏曲目の内容は戦後教育の中で、忘れ去られてきたものである。漢詩はいつの間にか、教育の中から消えてゆこうとしているし、琵琶を含め日本の良き伝統文化も同じではないだろうか。
古くても大事なことは沢山あることを挨拶で話しました。

参考まで五節句とは
1月7日{人日・じんじつの日}
3月3日{上巳・じょうみ・桃の節句}
5月5日{端午の節句}
7月7日{七夕の節句}
9月9日{重陽の節句}

写真は、パンフレット。私の挨拶。会場風景。

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(2023/05/05)

「第11回{第72回}日本海開き」

「海」
 松原遠く消ゆるところ 白帆の影は浮ぶ 干網浜に高くして 
 鷗は低く波に飛ぶ 見よ 昼の海 見よ昼の海 
 {大正2年・文部省唱歌}

恒例の滑川高校海洋科による「日本海開き」が5月1日{月}午後13時10分より上市川河口滑川市高月海岸で行われた。
これは、かって水産高校時代の1951年{昭和26年}から始まり、海洋高校、そして現在の滑川高校へと引き継がれている伝統行事の一つです。再編統合から数えて今回は第11回ですが、通算第72回です。
県内では水産関係の高校は、以前単独校として滑川市の海洋高校と氷見市の有磯高校の2校がありましたが、再編統合の結果、海洋高校は滑川高校と有磯高校は氷見高校と統合し,旧校の精神を引き継ぐ形で各校に学科として存続し今日に至っています。

当日は、1ー3年生100名が参加しました。目的は「海洋高校の伝統を継承し、滑川高校の溌剌とした若さと旺盛な心意気で海に挑む海洋精神と粘り強い意気の高揚を図る」とあります。この様な目的ゆえ、あえて「富山湾開き」と言わず、志を高く持つようにとの思いで「日本海開き」となった様な気がします。
尚、この名称は第1回からだそうです。

この日は、やや風が強かったものの、海水温約15度、気温24度前後と各学年ごとに一斗缶にマキが焚かれる中、空一杯に広がる青空など、まずまずのお天気でした。ただ波が少し高かったが泳ぐ場所が突堤や消波ブロックに囲まれている為、以外に消波ブロックの沖より静かでした。ただ、泳ぐ場所が上市川河口傍のため真水が入り込み、消波ブロックの沖合より多少海水温は冷たかったと思う。

最初に、ピストルの合図で3年生が飛び込み、金田校長の太鼓が生徒を鼓舞し約30m沖合の消波ブロック手前の「浮き」まで泳ぐのである。3年生が岸に上がると大門県議の太鼓で2年生、柿澤市副市長の太鼓で1年生と繰り返し、最後に私が打ち鳴らし、全員による遊泳で終わりました。中には海に入らず波打ち際で戯れる生徒もいましたが、これも海洋科の生徒しか味合うことの出来ない思い出の一つと思います。

それにしても、元気溢れる姿から私も元気を貰いました。又、県内でこの様な行事があるのは本校だけであり、今後とも良き伝統行事として引き継がれてほしいものです。

写真は、太鼓を打ち鳴らす金田校長と私。

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(2023/05/01)

稗苗清吉県議を慰労する会

「百術不如一誠」

4月14日{金}午後6時よりわが家で、旧知の中である富山県議会議員・稗苗清吉氏の退任慰労会{任期は4月29日まで}をささやかに開いた。氏とは40年来の付き合いで私にとっては良き兄貴分としての存在である。
氏は、昭和55年{1980}36歳で魚津市議会議員に初当選。議長等経験後5期途中の平成11年{1999}55歳で県議選初当選。
以来6期24年間議長等々の要職を務め、今度任期満了79歳をもって引退を決意されました。

79年の人生の半分以上の43年間の長きにわたり、市議、県議として地方政治一筋に歩まれました。氏は「台所のつぶやき」「路地裏のささやき」を政治信条として、小さな声を、庶民の声を、政治の舞台で具現化を図ると言う大衆政治家であります。

こんなことから、多少の慰労と思い友人・知人に声を掛けました。当日の出席者は、藤井富山市長、美濃部副市長、森前富山市長、水野滑川市長、柿沢副市長、中尾富山・魚津両市名誉市民も長崎市へ会議で出張中にもかかわらず、長崎―羽田―富山と乗り継ぎ駆けつけて頂きました。

稗苗氏は、数多くの思い出を語る中で、特に印象深いとして、平成29年{2017}5月27日―29日天皇・皇后両陛下が富山県魚津市の桃山運動公園を主会場に開かれた第68回全国植樹祭ご出席のため富山県を訪れられた折、当時の県議会議長としてずっと両陛下に随行した時、食事の席で「くすりの富山」をアピールすべく「富山の置き薬」を話題にしたところ,美智子皇后様が「あっ、あの紙風船の・・・」と即座に仰せられ「富山の置き薬」をご存知だったことに、とても感動した事など話されました。

今後も県外に出かけるときは、紙風船を持って富山の薬と富山県をPRするとの力強い言葉もいただきました。私も平成6年{1994}当時の皇太子殿下、雅子妃殿下{現・天皇・皇后両陛下}がインターハイが富山県で開催の折、来県された時、滑川市の企業を訪問され、企業の玄関でお迎えした。その時、二言三言ご挨拶したことを思い出した。

中尾氏の乾杯で懇談に入り数々の思いの話に花が咲きました。また、友人である民謡歌手の長岡すみ子さんから、三味線に得意の歌声を披露するなど、和やかな中にも稗苗氏の更なる活躍を祈った3時間余であった。
9時過ぎ稗苗氏の奥さんが迎えにおいでになり、しばし懇談しましたが、43年間の長きにわたり、影の力として夫を支えて来られたことに敬意を表しました。

稗苗氏の人柄は「百術不如一誠」であり、冒頭この言葉を記しました。

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(2023/04/15)
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