なかや一博 ブログ

京都清水寺・森貫主講演会

散る桜 残る桜も 散る桜  良寛

染井吉野から八重桜へと移り行く中、4月17日{日}恒例の清水寺森清範貫主を講師にお迎えしての市民文化講演会{主催・滑川音羽の会会長・中屋一博}が市民大ホールで開催された。昨年、一昨年と新型コロナウイルスの為、中止となり今回は3年ぶりの開催となった。
会場では、コロナ禍の為「マスク着用」「咳エチケット」「手指消毒」等、感染防止対策を徹底しての開催でした。

前講の清水寺執事補・大西英玄氏に続き森貫主が「清水寺平成の大修理完成す」と題し、講演。貫主は、国宝本堂を始め、13年の歳月を掛けた大修理を振り返り、寛永6年{1629}成就院から火が出て、ほぼ全焼したが、三代将軍家光公が再建を発願し、わずか4年で堂塔伽藍を再建した。
その後、堂の復興と共に成就院の庭園が整備され、名石、名木を配し、巧みに借景を取り込む工夫を凝らし、特に月に照らされる光景が絶妙で「月の庭」として有名になった。これに左京区の妙満寺の「雪の庭」と北野天満宮の梅苑の「花の庭」が京都の三名苑「雪月花」と言われた。しかし、北野天満宮の梅苑が荒廃して、いつの間にか三名苑は雪月の二苑となった。

しかし、近年この梅苑が整備され、今年1月森貫主も出席し、北野天満宮で三苑奉告祭が行われ再出発が祝われたと言う。取り分け、三名苑の中でも清水寺成就院の「月の庭」は最高とのこと。私も何度か成就院の庭園は見学していますが、残念ながら昼ばかりでした。次回は是非とも月の庭を眺めて観たいものです。
また明治元年神仏分離や上地令で清水寺の寺地が十分の一に減少した時の苦労話や明治30年に本堂が国宝に指定され、本堂屋根が檜皮葺に葺き替えられ、以後約50年に一度行われ、今回の大修理でも葺き替えられたと言う。

話題は、ウクライナとロシアの問題にもふれ、両国の歴史から紐解き、文豪トルストイの日露戦争について書いた論文を引用し「東西を隔てた人々を見るといい。一方は、一切の殺生を禁ずる仏教徒であり、一方は世界中の人々は兄弟であり、愛を大切にするキリスト教徒である。今こそ汝の敵を愛せよ。とキリスト教は教えたのではないか」と貫主は話され、お互いに信頼関係を構築して保っていかねばならないと力説されました。

時々ユーモアを交えながらの話にあっという間の一時間でした。会場を埋めた多くの方々から来年も是非との声が寄せられました。

講演会終了後、厚生連滑川病院中庭にある、自噴している孝徳泉と言われる小さな泉の脇にある了安のお墓に、京都から持参された清水寺音羽の滝の水をお墓に掛け、森貫主と大西執事甫によって読経があげられました。

私は、冒頭挨拶の中で、滑川と清水寺との縁にふれ、民話「孝徳泉」の了安と安静親子の話を会場にいた約150名の方々に、ご存知の方に挙手を求めたところ約半数でした。そこで、改めて孝徳泉の謂れを簡単に説明しました。

文禄2年{1593}美作の了安と安静親子が安静の母の菩提を弔うため阿弥陀如来を担ぎ全国を行脚中、滑川の尾張屋に投宿。
その夜から発病。死を悟った了安は息子安静に清水寺の音羽の滝の水が飲みたいと言う。安静は京へ行き清水寺の音羽の滝の冷水を汲み持ち帰ったが既に了安は亡くなっていた。了安が埋葬された所で泣き崩れる安静に阿弥陀如来が現れて、折角の冷水、たっぷりと父に飲ませて上げなさいと告げて消えたという。

音羽の滝の冷水を掛けたところ、そこからこんこんと冷水が湧き出てきた。この親子の美談を聞いた地元の人々が後年、これを「孝徳泉」と名付けて今日まで大切に維持、管理され現在、厚生連滑川病院中庭にある。
また、親子が背負っていた、阿弥陀如来は尾張屋に安置されていたが、元禄年間、阿弥陀如来が尾張屋の主人の枕元に現れて広際寺へ行きたいと告げたという。現在、広際寺の本尊として祀られている。

簡単に説明すると以上である。これが広際寺縁起として巻物として残っている。私も本尊や巻物は見せてもらったことがある。また、250年余経った天保14年本町桐沢家の先代綿屋五郎衛始めてこれを聞きたる形跡を存す。これが桐沢家記録として現存する。
これ等のことが、大正2年発行の滑川町誌に詳細に記されている。
また、昭和8年富山県女子師範学校附属小学校編、終身ー「郷土の例話」昭和13年コドモ芸術学園発行、「伝説美談」。昭和61年滑川市教育委員会発行「滑川の昔ばなし」の中に収められている。昨今の世情を見ると、親が子を、子が親を簡単に殺すニュースが余りにも多すぎる時こそ、義務教育の中で取り上げるべきと思う。

翌日、わが家で休憩後、来年の再会を約し京都へお帰りになった。今回の講演会は25回であり、森貫主曰く、25回も毎年同じ所へ行っているのは滑川だけであり、2年ぶりに県外の講演に出かけるのも滑川が最初である。の言葉には、感謝しかありません。

写真は、挨拶の私、前講の大西執事補,、講演の森貫主,わが家でのスナップ写真

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(2022/04/18)

春の四重奏

桜ばな いのち一ぱい咲くからに 生命をかけて わが眺めたり 岡本かの子

朝日町には、誰が名付けたか「春の四重奏」といわれる絶景が季節限定で春に現れる。残雪の朝日岳をバックに、舟川堤防上の桜並木、菜の花畑、チューリップ畑である。
私は、ここ数年毎年行っているが、今年は4月11日好天日であり、この日は岩手県宮古の31℃を始めとし、全国各地で真夏日や夏日を観測した日である。ただ、天気が良いため残雪の山々がはっきり見えなかった。

さて、舟川の桜並木は1957年の舟川改修の際、堤防の両岸1200mに約280本のソメイヨシノが地元の皆さんの手で植えられ、剪定や防除などを行いながら大切に維持、管理されてきた。植えられてからすでに60年以上が経ち、今は立派な大木となって人々を楽しませて、しかも樹齢を考え、若木もちゃんと植栽されている。
そして、今から十数年前、残雪に桜並木、これに加えて菜の花とチューリップをコラボレーションする案が出た。しかし、桜の開花時期に合わせなければならず、チューリップの品種を早稲にしたり開花時期を調整するなど、苦労が多かったという。

11日は残念ながら、菜の花畑は田んぼ1枚ずれていたので写真は取りずらかったが、それでも充分満足出来た。当日は、平日にも拘わらず、奈良交通の観光バスや姫路、千葉、群馬等、県外ナンバー多数見られ、会場周辺は随分混雑していた。
現在、地元、商工会、自治体などで「四重奏実行委員会」を立ち上げ管理、運営を行っているという。当日も駐車場への誘導やボランティアガイド等は地元の人々が行っていた。

何でも「公助」に期待を寄せる風潮のある中で「春の四重奏」のように「自助」「共助」「公助」の役割について、改めて考える機会になった。
また、今日のように多数の県外客が訪れるようになったのも、地元の人々の努力と協力の賜物であると思う。

「ローマは一日にして成らず」の言葉を思い出す。

写真は、11日の風景とパンプレット

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(2022/04/12)

滑川高校入学式

いっせいに 桜咲きたる花びらの 一つ一つに 光ありつつ

わが家の小さな裏庭に、樹齢約20年位の染井吉野と枝垂れ桜の2本がある。
今年はウソの被害もなく久しぶりの花盛りで、先日友人と一緒にささやかな花見を催した。しかし、花見は1本や2本の桜ではやはり絵にならず、堤防上の数百本の桜や、城をバックにしたり、公園の中などの桜が一番と思う。

さて、4月に入り、どことなくウキウキする入学式や入社式が各地で行われている。滑川高校入学式も4月8日午後2時体育館で挙行された。
当日は学校敷地内の桜も入学式をお祝いするかのように満開であった。入学生は、普通科2クラス、商業科、薬業科、海洋科各1クラスで計5クラス200名である。式は新型コロナウイルスの影響で、国歌、君が代と校歌はテープで流されました。

従来は、君が代は出席者全員で唱和、校歌は在校生十数人がステージ上でピアノ演奏で新入生に聞かせていました。残念ですが止むを得ない事でした。亀谷校長の入学許可のあと、式辞で今日まで育てて頂いた多くの方々に感謝の心を持ち、充実した高校生活を送ってほしい。常に、目標に向かって努力することの大切さ。例え失敗してもそれを糧に、更に成長してほしい。そして、本校の生徒目標である「高きを求める情熱」に向かって学校生活を送り、それを、在校生、学校教職員全員でサポートするなど話されました。

新入生代表の宣誓、在校生代表の歓迎の言葉などや、担任紹介があり,式は滞りなく終了しました。ただ、式には保護者は生徒数ほど出席しておられましたが、在校生は代表者のみであり、これで3回この様な形での入学式でしたた。来年こそは従来の姿に戻ることを願わずにはおれません。冒頭の短歌は誰の歌かは知りませんが、私の好きな歌です。
正に、入学生の希望に満ちて輝く瞳は、満開の桜の花びらの一つ一つの輝きの様でした。やはり若いことは素晴らしいと思う。青春とは、単に年齢だけで判断すべきでない。これは理解できる。

しかし、日進月歩の著しい昨今、30年前、今日の世の中を予想した人はいなかったと思う。それと同様に30年後の日本を世界の変わりようを予測する事は出来ない。30年後、私は100歳を超え、この世にはいないと思う。しかし、彼等はまだ50歳にもならない。そんな変わりゆく世の中を見る事ができる。羨ましい限りである。

写真は、わが家の満開の桜。亀谷校長の式辞。

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(2022/04/08)

広貫堂資料館

頑なに 富山売薬 春の風邪  片桐久恵

桜前線も日本列島を北上中で、間もなく富山県内にも開花宣言が出る季節の中3月25日{金}廣貫堂本社敷地内にあった売薬資料館が62年間の歴史に幕を閉じ閉館することになり最後の機会として訪ねた。
資料館は昭和35年{1960}に開設された「売薬資料館」が平成6年{1994}現在の建物にリニューアルオープンし、富山市の観光拠点の一つとして知られ、県内外の観光客が多数訪れ、1980年代には、年間約3万人が来館した。
しかし、コロナ禍で昨年は約5千人にとどまった。これも要因の一つとなり今回閉館となった。

しかし、展示内容は素晴らしいもので
①大型スクリーンの映像で紹介するシアター
②富山のくすり百選コーナー
③生薬コーナー
④伝統和漢薬コーナー
⑤お土産コーナー

などのほか、越中富山の薬売り、300年を超える歴史を物語る貴重な資料や道具等を集め展示してありました。
生薬コーナーには、六神丸の原料となる、牛黄、センソ、ジャコウ、熊の胆、沈香、人参等を始め、昔からよく使われている代表的な生薬の実物サンプルの展示してある。

特に、多分現存する最古の懸場帳{元治元年{1864}や前田正甫公自筆の「反魂丹」の扁額、或は、元禄3年{1690}の江戸城腹痛事件を再現したジオラマなど、正に、明治9年創業以来150年余県内の代表的な老舗メーカーとして「くすりの富山」をけん引して来た廣貫堂ゆえに建設された資料館であつたと思う。時の流れとは言え誠に残念なことである。

また、大正天皇の行幸、昭和天皇、皇后の行幸啓、現上皇、上皇妃の皇太子時代のご視察など数多くの皇族のご視察記録や写真集なども展示してあった。
さて、これらの貴重な資料は今後どうなるのか。

現在、資料館として県民会館分館金岡邸、富山市立売薬資料館、滑川市立博物館に売薬資料常設展示室がある。また現在議論が停滞している富山城址公園内に「くすりミュージアム」建設構想がある。いづれにしても、展示品は散逸することなく、何処かで保管、展示されることを願うものだ。私自身何度も足を運んだ施設であったので、これが最後かと思うと、やはり一抹の淋しさを禁じ得なかった。

写真は、元治元年の懸場帳、前田正甫公園自筆の扁額「反魂丹」、江戸城腹痛事件ジオラマ。

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(2022/03/26)

滑川高校卒業式

網しぼり きらめき尽くす ほたるいか  高島学人

富山湾に春を告げるほたるいか漁が3月1日解禁になった。初日は50㎏。
昨年の127㎏には及ばないものの今後に期待したい。

さて、前日の同窓会入会に引き続き3月2日、県立滑川高校卒業式が行われた。当日は、新型コロナウイルス感染拡大防止対策のため、式場は保護者は生徒一人に対し一名。在校生は代表者のみ。しかも、国歌、校歌はテープで対応と少し寂しかった。

亀谷校長より197名の卒業者に卒業証書授与が行われたが、驚いたことに197名の内訳は、普通科2クラスで男子30名、女子47名、計77名。
薬業科1クラスで男子17名、女子23名、計39名。商業科1クラスで男子5名、女子34名、計39名。海洋科11ラスで男子19名、女子22名、計41名である。
総数197名の内訳は男子71名、女子126名と圧倒的に女子が多い。取り分け、商業科の男子5名に対し女子34名である。これには驚いた。ゆえに、各科を代表して校長先生より卒業証書を貰ったのは全員女子であった。

また、卒業学年担任の先生14名の内9名が女性教員である。これで野球部やウエイトリフティング或は、レスリング部など男子を主とする部活動の監督や部長等なり手がいるのだろうか。多少心配にもなる。また、126名の女子で名前に子が付いている人は僅か2名である。世の流れを感ぜずにはおれない。

卒業証書授与の後、亀谷校長より卒業生に対し
①夢や目標を持つことの大切さ。
②学び続けることの大切さ。
③自分を律することの大切さ。
が話されました。

次いで、「蛍の光」がテープで流れ在校生代表が卒業生に送辞。次いで、「仰げば尊し」がやはりテープで流れ、卒業生代表が亀谷校長に向かい答辞を述べた。3年間の想い出を語り、時として、涙にむせびながら切々と述べられた。中でも1-2年間は新型コロナウイルス禍で学校行事や部活動の殆どが中止や延期になった時の淋しさ。それを励まし、支えてくれた教職員や家族への感謝。
また、昨年はコロナ禍ではあったが、大運動会や学園祭など学校行事や部活動など、ほぼ消化できたのも在校生の協力お陰と感謝の言葉でありました。
そして、滑川高校3年間の思い出を胸に明日から力一杯生きてゆく決意を述べられた。最後に、卒業生が選んだ、GReeeeNの「遥か」の曲に送られて退場し厳粛な中にも滞りなく終えました。

私は、「蛍の光」と「仰げば尊し」は卒業式には必要な曲だと思う。
最近この曲を歌わない学校が増えつつあることは残念なことです。この曲があるからこそ卒業式の厳粛な雰囲気が作られるのだと思う。
また、送辞にしても、答辞にしても純粋だから感動を呼ぶのだろう。高校は教育の場であり、学び習う学習の場ではない。教え育てる教育の場である。その意味からすれば、校長先生の話も巣立ちいく生徒に贈る言葉とすれば私は良かったと思う。

いづれにしても、過ぎし日の青春時代を思い出しながら、卒業生に幸多きことを願い、校舎を後にしました。



(2022/03/02)

滑川高校同窓会入会式

2月28日富山県立滑川高校同窓会入会が行われた。どの学校も同じと思うが卒業と同時に入会となる。
本校の場合は卒業式の前日に毎年行われ、今年は197名が新たに加わった。現在、会員は約3万4千人を数え県下でも最大規模を誇り、プロ野球ロッテマリーンズの石川渉投手をはじめ、多くの有意な人材が各界で活躍しておられることは嬉しい限りある。誰にも生まれ育った「故郷」があり青春のひと時を過ごした母校がある。

中でも青春の中心的舞台は学校生活であり、多感な学校生活を回顧する時、追憶の中から懐かしい思い出が去来し、哀歓彷彿として思い浮かび固い友情に結ばれた出会いと別れ、という青春の讃歌が鮮やかに蘇る。
しかし、学生諸君に同窓会と言ってもピンとこないと思う。私は、例えばロッテの石川渉選手は、時として魚津市出身と書かれる。間違いではない。
しかし、滑川高校関係者は、石川選手は滑川高校出身と反論する。これが、同窓生であり、同窓会である。と生徒諸君に話しました。
いつの日か「故郷」や「母校」がそれぞれの心の拠り所として、生き続けることを念じて・・・・

もう一点、私は福沢諭吉の「学問のすすめ」の話をしました。197名の生徒諸君に「福沢諭吉」を知っていますか。と壇上から問い掛けたところ、知っていると手を挙げた生徒は、約三分の一程でした。私は、思わず、知っている人は多分財布の中に一万円札を入れたことのある人だろうと思わず発言しましたが、意外に少なかったのには驚きました。

「学問のすすめ」は諭吉の故郷、大分県中津に学校を開くに当って故郷の人達から、子供達に役に立つ本を書いてほしい。との要望に応じて、「何故学問をすべきなのか」、ということを示そうと書かれたものである。
明治5年第Ⅰ篇が書かれたが、ある人がこれを読み「この本を中津の人だけに見せるのは勿体ないから広く世間に公表すべきでないか」という勧めに応じ、明治9年まで計17篇発行した。これが明治13年1冊の本となり合本「学問のすすめ」となる。初年の発行以来9年間で70万冊も売れ当時の大ベストセラーとなった。

さて、この本で特に有名な言葉が冒頭「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず。神が人を生じせしめた時から、皆平等である。」とある。広く世に知られた言葉である。
しかし、人間社会を見渡すと、賢い人も愚かな人もいる。貧しい人、金持ちもいる。また、社会的に地位の高い人も、低い人もいる。こうした雲泥の差とも呼ぶべき違いはどうしてできるのだろうか。
それは、人は生まれた時には、人は同じ権利を持ち、生まれによる身分の上下はない。当然、貴賤や貧富の区別はない。と言う意味である。

つまり、しっかり学問をして、物事をよく知っているものは、社会的地位が高く、豊かな人になり、学ばない人は貧乏で低い人となる。
ただ、学問と言っても地理学もあれば物理学、経済学、歴史学など色々な学問がある。まず、人生に役に立つ学問、自分が所属している組織に役に立つ学問、、社会に貢献出来る学問などがを学ぶべきと言っている。

結論として、公に奉仕する公務員だけでなく、大会社で身を立てたい人も、独立して会社を興そうとする人も、すべての人の志が鼓舞され、心を掻き立てられるのが学問である。
「学問のすすめ」はこの様に書いてあることを紹介して、学問の大切さを話しました。
150年前と現在と同一に論じられないと思うが、今でも通用する言葉と思う。
私自身も若かりし頃、もう少し勉強しておればと、反省しても時すでに遅しです。

社会人になる人、進学する人、歩む道はそれぞれ違っても、洋々たる前途が輝かしい未来であることを祈念して、激励と同窓会入会の歓迎の言葉としました。

写真は、挨拶と記念品贈呈風景。

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(2022/03/01)

冬季オリンピック北京大会

第24回冬季オリンピック北京大会は、2月22日、17日間の祭典が幕を閉じた。
それにしても、今回の大会ほど物議を呼びIOCが批判された大会はなかったと思う。

新型コロナウイルス禍の中に、米英諸国の「外交ボイコット」をものともせず、中国ならではの強権的手法で感染拡大を封じ込め、選手の言動やマスコミの取材活動を制限し、新型コロナウイルス対策の「バブル」を巧妙に活用し、人権活動家抑圧や格差問題など中国の負の側面を世界の目から覆い隠し、オリンピックを政治的に最大限利用した。

また、スノーボードの不可解な採点。スキージャンプの規定違反により続出した失格者。「またロシアか」と言われた15歳のカミラ・ワリエワのドービング問題。現在、ロシアはこの問題でオリンピックへは、国家としての参加は認められず,ROCとして参加しているのである。その為、1位に入賞しても、表彰式では、国旗の掲揚や国家の演奏はなく、代わりにROCの旗の掲揚とチャイコフスキーの曲が流れるのである。

しかし、プーチン大統領は、国家としての参加は認められていないにも拘わらず、開会式に招待され、他の外交団とは別格の待遇で大歓迎を受けた。
そして、米英などが弾圧と批判するウイグル族の選手を開会式の聖火リレー最終走者に起用するなどして、大会成功と国家の威信をアピールした。
また、中国の元副首相に性的関係を強要されたと訴えた同国女子テニスの件も真相が解明されないまま幕が降りたような気がする。スエーデンの金メダリストは、帰国後、人権問題を抱える中国での開催を決めたIOCを「極めて無責任だ」と断じた。

北京にバッハ会長の胸像が建てられた。また、ノーベル平和賞を狙っている、との噂もある。
しかし、バッハ会長はドーピングのロシアに対しても、人権問題や政治問題を持ち込まないとする中国に対しても弱腰であり、臭い物に蓋との考えが見え隠れする。この際、オリンピックの原点に帰り今後、どの国の政治家も一切招待しないことと、商業主義をもっと薄めるべきと思う。

そんな中での開催であったが、アスリートたちのひたむきな姿勢は東京オリンピック同様多くの国民に感動と希望を与えた。
私は、メダル至上主義者ではないが、前回のピョンチョンオリンピックの13個を上回る金3個、銀6個、銅9個、計18個のメダルを獲得した。
取り分け、スピードスケート女子高木美帆さんは5種目に挑戦し金1個、銀3個。前回五輪と合わせ7個は夏も含めて日本女子の最多メダル数の記録となった。

また、カーリング女子は決勝で敗れたとは言え、銀メダルを獲得したロコ・ソラーレのメンバーの笑顔。メダルは獲れなかったが、羽生結弦選手の爽やかな記者会見。高橋沙羅選手の謙虚な姿。など感動を与えた選手はこれ以外にも沢山いた。
改めてスポーツの持つ「力」を感じた。そして、20日閉会式は控え目な演出の中、4年後のイタリア、ミラノ・コルティナダンペッツォへと大会旗は引き継がれ、舞台は3月3日開幕のパラリンピックへと移る。

閉会直後の22日ロシアはウクライナ東部の親ロシア派が実効支配する「ドネツク人民共和国」と「ルガンスク人民共和国」を名乗る2地域の独立を承認する大統領令に署名した。2014年ロシア・ソチで冬季オリンピックが開催中クリミヤに侵攻したのと同じパターンである。中国・習近平はこれを注視しながら、パラリンピックを成功させ秋には3選を果たし、ウクライナに対して弱腰外交の米国、機能不全の国連を尻目に、タイミングを見て、台湾有事、そして尖閣諸島、日本有事であり絶対ないとは言えない。
有事は平時に考えておくべきである。有事の時に議論していても間に合わないのである。

写真、銀メダルのロコ・ソラーレのメンバーと閉会式

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(2022/02/22)

三回目ワクチン接種

裏庭に 膨らむ今日の 芽吹きかな

昨日、我が家の小さな裏庭の残雪の隙間から蕗の薹が顔を出していた。
季節は確実に春に向かっている。
でも、春は名のみの、風の寒さや・・・である。

さて、昨年6月7日、6月28日に次いで、2022年2月14日市内開業医で、いづれもファイザー製のワクチンで3回目の接種を行った。
政府は、外国人の新規入国を原則禁止している新型コロナウイルス対策の水際強化措置について、緩和の方向で検討する考えを表明した。
しかし、国内では、未だオミクロン株が蔓延している。ただ、一時期沖縄県では米軍関係者も含め、多数の感染者を出していたが12日の新聞では、11日は334人と富山県の362人より減少している。一部ではオミクロン株の特性からピークアウトしたという説もある。しかし、油断禁物である。

また、12日現在、日本国内での感染者数は約385万人、死者約2万人。これを世界と比較すると、米国・感染者数約7765万人、死者・約92万人。フランス・感染者数2165万人、死者・約13万5千人。イギリス・感染者数約1834万7千人、死者・約16万人。ドイツ・感染者数約1227万人、死者・約12万人。イタリア・感染者数約1199万人、死者・約15万人である。人口などから一概には比較できないが、日本は健闘していると思う。
また、不思議に思うのが基礎的疾患などある人は止むを得ないが、ワクチン接種における副反応を理由に接種をためらう人がいる。しかし、あくまで強制ではないから仕方がないが・・・

例えば、癌にも種類があるが、おおむね治療法は,①手術、②放射線治療、③抗癌剤などの薬物療法などがある。
これによって正常な細胞が破壊されたり、髪の毛が脱毛するなどの副作用がある。しかし、これをマスコミなどが副作用として報道することはない。これ以外に治療法がないから多少の副作用があっても採用しているのである。新型コロナウイルス対応も、現在飲み薬の開発が行われ、間もなく市場に出回ると思うが、残念ながら今のところワクチン接種しかないことを考えると、ワクチンの副反応の発生率は極めて低いことを政府はもっと説明すべきである。

また、ファイザーかモデルナか3回目は選択できる。としたら現場は混乱するし、接種はより遅れるだろう。同一ワクチンを3回接種しても、交互接種も効果は殆ど変わらないことや、副反応も殆どないことも、もっと周知を図るべきと思う。

いづれにしても、私は3回目のワクチンを接種した。やはり一人でも多くの人々は、一日も早く接種すべきと思う。そして、4回目の接種がないことを祈って・・・

写真は、裏庭に芽吹いた蕗の薹と3回目の接種風景。

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(2022/02/14)

目を醒ませ日本!

標記を演題として、2月11日{金}午後1時30分~3時まで滑川市民交流プラザ3階で主催・祝日に日の丸を掲げる会{本田繁会長}協賛・滑川ライオンズクラブによって第5回講演会が入場無料で開催されました。講師・佐々木類氏・産経新聞社・論説副委員長{略歴・別掲}

当日は 北京冬季オリンピックで日本中が沸騰している中、ロシア軍のウクライナ侵攻があるのか。米ロの激しい非難の応酬を含め緊迫した国際情勢の中での開催であり、100名を超す参加者でありました。

1時間半の講演内容を詳細に記すことは難しいので要旨を記します。
①緊迫するウクライナ情勢
2014年ロシアのソチで第22回冬季オリンピックが開催中にもかかわらず、ロシア軍はクリミアに侵攻した。
当時のオバマ大統領、現在のバイデン大統領のロシアに対しての弱腰外交。などの例をあげ、ロシア軍のウクライナ侵攻はある。

②台湾有事はどうなる
習近平氏の最終目標は国家主席の任期を撤廃し3選を果たす。台湾を併合する。タイミングを見て侵攻する。直ちに武力行使でなくとも,親中国派を扇動し内乱を誘発させるたり、「ハイブリッド」戦など展開する。

③中国による浸透工作・・・静かなる日本侵略
台湾有事は日本有事である。日本の政治家、財界は経済事情ばかりを考えている弱腰外交である。尖閣諸島も当然有事になると想定しなければならない。

④中国にも弱点…少子高齢化、だからこそ「危険」
中国の一人っ子政策は、少子高齢社会を出現させ日本以上に深刻な状況になりつつある。ここ数年間が最も国力が充実している時期であり、以後国力は弱体する。事を起こすとすればここ数年間の間である。だから「危険」である。

私の考え。
私は、質問でロシア軍のウクライナ侵攻はあると思う。その時、米軍を含めたNATO軍に加盟していないウクライナに果たしてNATO軍は進攻するだろうか。私は、ないと思う。

然らば、バイデン大統領が繰り返し経済制裁を行う。と警告を発しているが、ロシア軍がクリミア侵攻した時も、北朝鮮への経済制裁を発動しても、ほとんど効果がないことを考えると、クリミアの二の舞いの可能性大と思う。これを注視して見ている中国は、米国の武力介入はないと判断した時、台湾有事であり、日本有事であると思う。その時、尖閣諸島は、米国は日米安保条約第5条の適用範囲と言っている。

しかし、米国から見れば、世界地図の中で、何処にあるかわからないくらいの小さな島々。しかも無人島で日本の施政権も及んでいない島の戦いに米国の青年の血を流せるか。の指摘もある。その時、日本はどうするか。独立国家として領土,領海、領空は自らが守るという気概がないと米国も助けてはくれないということで意見が一致した。

また、政治家であり作家でもあった石原慎太郎氏が亡くなった。「ノーと言える日本」をはじめとし、米国、中国など歯に衣着せぬ発言は時々物議を交わしたが、結局一匹狼ゆえ、永田町の論理には合わず総理大臣にはなれなかった。その石原慎太郎氏をどう評価するか。の問いに氏は彼は稀有な政治家だった。今の自民党には彼のような政治家はいない。真逆な政治家として二階俊博氏の名を上げた。それ以外にも種々意見を交わしたが割愛します。

佐々木類氏の略歴
昭和39年{1964}東京都生まれ。早稲田大学卒業後産経新聞社入社。事件記者、政治記者を経て、政治部次長{デスク}に就任。その後、2010年ワシントン支局長に就任。その後、論説委員、九州総局長兼山口支局長を経て、2018年より論説副委員長に就任。

写真は、講演中の佐々木類氏と控室での二人。

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(2022/02/11)

滑川市長に水野氏当選

2月6日{日}投開票の滑川市長選は、即日開票の結果、元市議会副議長の新人水野達夫氏{58}無所属が、8,432票を獲得し、4選を目指した現職の上田昌孝氏{78}無所属、3期6,719票を1,713票差で破り初当選した。

意外だったのは、マスコミや私も含め、投票率は前回を下回るだろうと予想した。
その理由として
①顔ぶれが前回と同じで、新鮮味に欠けいまいち盛り上がらない。
②新型コロナ禍である。
③週間天気予報では、選挙期間中の天気が雪模様で天候不順等である。

しかし、結果は違った。投票率は当日有権者数、27,505人に対し55.53%と過去最低前回の55.12%を僅かだが0.41%を上回った。
また、期日前投票数も当日有権者数の24.81%、6,824人が事前に投票した。これも前回の18.67%を6.14%上回った。
普通、期日前投票が多くても、全体の投票率は下がる。投票率が下がると固定票を持った現職が有利で、浮動票をターゲットにする新人には不利と言われる。

それでも今回は違った。何故か。私にもわからないが強いて言えば、期日前投票した人も、当日投票した人も、世代交代を唱える58歳の波が78歳を雪崩の如く押し流したのであろう。それが時の流れであり、勢いであり、誰にも押し戻すことの出来ない時流というものである。

さて、勝者も敗者も滑川市の更なる発展を願い選挙戦を戦った筈である。
戦いが終わった以上、双方が力を合わせて市発展に協力すべきであろう。それがノーサイドである。

それにしても、投票率である。毎回どの選挙も下がり続けている。政治不信なのか。政治に無関心なのか。それとも現状に満足なのか。
投票権は天から降って来たのでもなく、地から湧き出たものでもない。先人の血と汗との戦いで勝ち取ったものである。
その歴史を考えるとそう簡単には棄権できない筈である。折角、18歳、19歳にも選挙権が与えられているのである。
今回、なんと12,377人が棄権しているのである。今一度考えて見るべきである。

私自身何のとりえもないが、選挙権を与えられてから今日まで一回も棄権したことがない。

参考まで、過去6回の市長選の投票率を記す。これ以前はもっと高い。
昭和53年4月9日:投票率88.38%
昭和61年2月23日:投票率81.83%
平成14年2月10日:投票率73.24%
平成22年2月14日:投票率65.85%
平成26年2月9日:投票率64.70%
平成30年2月4日:投票率55.12%
*昭和53年4月9日より平成30年2月4日の間に5回無競争。

令和4年2月6日 滑川市長選挙開票結果{選管最終}
当選 水野達夫 8,432無①
   上田昌孝 6,719無③

投票総数15,273 有効投票15,151 無効122
投票率55.53%

写真は、水野氏の総決起大会と当選挨拶風景。いづれも新聞より。

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(2022/02/07)

阪神淡路大震災

平成7年{1995}1月17日午前5時46分、マグニチュード7.3震度7の激震が大都市の直下を震源として大地震が発生した。
阪神淡路大震災である。
気象庁の震度階級に震度7が導入されてから初めて最大震度7に記録された地震である。死者6434人、負傷者43792人、家屋の倒壊10万5000棟、半壊約144000棟。等甚大な被害をもたらした。

ただ、災害でも種類がある。例えば昭和34年{1959}9月26日の伊勢湾台風{台風15号}は死者、4697人、行方不明401人。負傷者38921人、全壊家屋36135棟、半壊家屋、113052棟、流失家屋4704棟等、の被害がでた。
これは台風に高潮が加わったもので、明治以降の日本における台風の災害としては史上最悪の惨事と言われた。

また、大正12年{1923}9月1日午前11時58分発生マグニチュード7.9の関東大震災である。
190万人が被災、死者・行方不明約10万5000人、内、火災での死者は約92000人、それ以外の13000人の内、強い揺れで住宅が全壊したことによる死者数は11000人と非常に多い。
これ程大きな被害がでた原因として、地震発生が昼時で、昼食の準備のため火を使っている家庭が多かったことと、当時の住宅はほとんど木造であったこと等が挙げられる。これを機に、毎年9月1日を「防災の日」と定め、各所で防災訓練が行われている。

次いで、記憶に新しい東日本大震災である。平成23年{2011}3月11日午後2時46分、宮城県牡鹿半島の東南東130㎞付近を震源とする地震で、マグニチュードは1952年のカムチャツカ地震と同じ9、0でこれは日本国内観測史上最大規模で1900年以降世界でも4番目の規模という。
千年に一度とも言われる巨大地震。大津波。火災。加えて原発事故。被害状況は割愛するが、まさに未曾有の大災害である。
これ以外の災害をあげたらきりがない。まさに災害列島日本である。

さて、今年は阪神淡路大震災発生から27年となった。。私にとって毎年この日になると思い出すことがある。
震災のあった翌月2月1日付、読売新聞に「地震につぶされた夢」「父母は自問する 我が子は青春を謳歌したのか・・」と題し、阪神淡路大震災で、神戸大学39人の学生が命を落としていた。そのほとんどが全国から集まった下宿生だった。
銀行員や会計士として一歩を踏み出そうとしていた4年生、ボランティア活動に汗を流す大学院生・・・・。祖国の未来を担うアジアからの留学生も7人いた。一瞬にして押しつぶされた、若者たちの「夢と短い人生」を追った。との記事が掲載され父母や関係者のコメントが報道された。

その中の一人の青年の記事を紹介する。
法学部二年加藤貴光さん{21歳}{広島市}は西宮市のマンションで圧死した。同居していた単身赴任の父宗良さん{44}はたまたま実家に帰っていて無事だった。国連職員か国際ボランティアになるのが夢だった。丑年生まれで愛称は「ウシ」。
荷物を持ったおばあさんを見つけると「飛んでいって手伝うようなやさしい子でした」と母律子さん{46}。
大学に入る時、神戸まで送った母親のコートのポケットに、息子は手紙=別掲=を忍ばせたという。
母はそれをいつも免許証入れにはさんでいた。遺体安置所で、その手紙を読み返した母は、涙を抑えることができなかった。

その手紙とは

親愛なる母上様
あなたが私に生命を与えてくださってから、早いものでもう20年になります。
これまでに、ほんのひとときとして、あなたの優しく温かく大きく、そして強い愛を感じなかったことはありませんでした。
私はあなたから多くの羽根をいただいてきました。人を愛すること、自分を戒めること、人に愛されること・・・・。             
この20年で、私の翼には立派な羽根がそろってゆきました。
そして今、私はこの翼で大空へ翔び立とうとしています。
誰よりも高く、強く自在に飛べるこの翼で。・・・{中 略}・・・
私は精一杯やってみるつもりです。あなたの、そしてみんなの希望と期待を無にしないためにも、力の続く限り翔び続けます。
こんな私ですが、これからもしっかり見守っていてください。・・・{中 略}・・・
また逢える日を心待ちにしております。
最後に、あなたを母にしてくださった神様に感謝の意をこめて。 
翼のはえたーうしーより

私は、この手紙を読むと胸が熱くなる。彼がもし生きていたら、どんな人生を歩んでいただろうか。
果たして私が20歳前後の時、父母にこれだけの感謝の気持ちを持っていただろうか。或は、将来の夢や人生をこれだけハッキリと自覚していただろうか。
恥ずかしながら、なかったと言わざるを得ない。

以前、この話を成人式で何度かした。会場はシーンと静まり返り、中には涙を流す女性もいた。
私は、出席者の中で一人でも感動してくれる人がいればそれで良いと思っている。果たして今の時代と比較すること自体無理なことなのだろうか。

そんな中、「1・17のつどい」が開かれた神戸市中央区の公園「東遊園地」では、竹灯籠約3000本や紙製の灯籠などで「忘・1・17」の文字が形作られ、つどいに向け点火された「忘」の部分が浮かび上がった。と新聞は報じていた。

主催者側によると「忘」は公募で選ばれ「忘れてはいけない」との思いだけでなく「忘れてしまう」「忘れてしまいたい」など様々な声が反映されているという。
私も、あの手紙の内容は「忘れてはならない」し「忘れてはいけない」と思っている。

と同時に、震災の教訓も同様である。

1月18日付 北日本新聞朝刊

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(2022/01/18)

世界に羽ばたく薬都とやま大会

1月11日{火}午後2時から主催・一社富山県薬業連合会のもと表題の大会が、パレブラン高志会館カルチャーホールで開催されました。
第一部・式典は中井敏郎薬連会長が挨拶の中で、県内の医薬品メーカーによる不適切な製造が昨年相次いで発覚したことに対し「行政処分や、自主回収により、消費者や取引先など多くの方に迷惑を掛けたことを、お詫びする」と陳謝し、その上で「このような事態が再び起こらないよう信頼回復に向けて全力で取り組む」と決意が述べられた。

次いで、優良配置従事者らに対する薬事功労者表彰があり、知事表彰3名、薬連会長表彰4名が表彰の栄に浴されました。特に、薬連会長表彰4名の内、藤井秀雄氏、石政章氏、中村信之氏、の3氏は滑川の方々でした。来賓を代表して、知事代理の県厚生部長木内哲平氏が祝辞を述べられました。
閉会直前、客席にいた配置薬業者から、自主回収問題をめぐりメーカーは今回の件を肝に銘じ、しっかりとした製品をつくってほしい」など苦言を呈する場面があり、中井薬連会長は「ご意見は胸に染みた、当該会社の社長及び会長に伝える」と述べ式典は終了した。          

その後、会場を変え、製薬メーカー側は
「世界の動き、日本の動き、富山のこれから」と題し、          
「くすりのシリコンバレーTOYAMA」創造コンソーシアム事業責任者・日本製薬工業協会・専務理事・森和彦氏。

「次の風景、見てみたくないですか?」と題し、
「くすりのシリコンバレー TOYAMA]創造コンソーシアム副事業責任者・TMパートナーズ合同会社・代表社員・森俊介氏

配置従事者対象は
「インボイス制度のポイントと配置販売業における対策について」と題し
税理士法人jタックス・税理士・久保勝孝氏。

のそれぞれ有意義な講演がありました。

翌日、12日午後薬連6Fで配置業者が出席した、配置薬業部会全体会議が開催されました。自主回収をしている会社より会長ほかそれぞれの立場の責任者、計4名の出席がありました。
先ず会長より陳謝の言葉があり、「今回の件の原因をしっかりと検証し、再発防止策をたてる。」「なるべく早く、供給を再開できるように全力を尽くす」「問題がないと判断した製品から段階的に製造・出荷を再開するが、製品によっては早くて3ヶ月から最長1年半位はかかる」等を含め今後の対応について説明があった。出席者からは、先行きを強く懸念する発言やもっと早くこの様な機会を持てなかったか。など厳しい意見が多く出た。いづれにしても、影響の長期化は避けられない見通しとなったことは大変残念なことである。

しかし、不思議に思うことは、独立行政法人医薬品医療機器総合機構{PMDA}のサイトの「回収{医薬品}」の回収一覧はパソコン等でいつでも閲覧できる。それを見ると、その件数は、毎年、実にたくさんのメーカーの製品の実に夥しい品目に及ぶ。
これを健康への危険性の程度に応じて3段階に区分され、重篤な健康被害または死亡の原因となり得る状況を「クラス1」とされる。この「クラス1{医薬品」}のところには、日本赤十字社の血液製剤が並ぶ。
だが、これによる健康被害報告はなく、マスコミ等もこれを大きく報じることもない。

「クラス2」とは、その製品の使用等が、一時的な若しくは医学的に治癒可能な健康被害の原因となる可能性がある状況またはその製品の使用等による重篤な健康被害のおそれはまず考えられない状況をいう。「クラス3」とは、その製品の使用等が、健康被害の原因となるとはまず考えられない状況をいう。いわゆる配置薬における自主回収は「クラス2」にクラス分けして行われるケースがほとんどで、今回の自主回収も「クラス2」で行われているが、2021年度の「クラス2」の一覧だけを観ても、自主回収しているメーカーの数や、その品目の多さには驚くばかりあるし、これを報じないマスコミもおかしいと思う。

自主回収は、場合によっては製薬会社に極めて深刻な経営ダメージを与える。今回の自主回収件数のすべてが、本当に自主回収まで行わなければいけないほどに、服用して健康被害が起きかねないほどのケースなのだろうか?
との声を聞く。私もそう思う。

マスコミは事実を報道するのは当然であるが、前述した「PMDA」の発表を公平に報道するのもマスコミの筈である。
今回のマスコミの報道は余りにも違和感を覚える。

写真は、式典で挨拶する中井会長。配置薬業者を対象とした講演会

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(2022/01/11)

薬神神社歳旦祭

新年は まず我が身を 新たなり

終日快晴の好天に恵まれた1月8日{土}午前9時より恒例の新年薬神神社歳旦祭{主催・石倉雅俊会長}が執り行われました。当日は気温は低めでしたが、雲一つない青空の下、凛とした空気の中、横川宮司の手によって厳粛な中にも滞りなく行われました。この日はあいにく同時刻から市の出初式が行われており来賓は従来より少なかったです。

宮司の祝詞奏上に次いで、玉串奉奠が石倉会長、顧問の私、吉田前会長、石政市薬業会長、中屋市薬業青年部長、薬業関係者、来賓の尾崎市議会副議長、網谷市産業民生部長、杉田市商工会議所専務理事、渡辺加積雪島神社総代等が順次行い、商売繁盛、と新型コロナウイルスの一日も早い終息を祈願しました。

引き続き石倉会長は挨拶の中で「新型コロナや製品の自主回収など、先の見えない不安はあるが、今日まで幾多の困難を業界一丸となって克服してきた。今回も業界が結束し、この困難を乗り越え、お得意様に待ち望まれるようにしなければならない」と会員に呼び掛けた。
また、来賓からも配置薬業の重要性とともに激励の言葉がありました。

尚、今回も感染症防止策として、マスク着用や「三密」などを講じ「直会」も中止となりました。
しかし、会員は久しぶりの再会を喜び、しばし、業界の現状について意見交換をして散会しました。

写真は、玉串奉奠の私。当日の夕日を浴びて茜色に輝く立山連峰。

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(2022/01/08)

新年明けましておめでとうございます。

降り積もる 深雪に耐えて色あせぬ 松ぞ雄々しき 人もかくあれ (昭和天皇御製)

令和3年{2021}は既に地平線下に没し 令和4年の陽は昇りました。昨年は一昨年同様新型コロナに翻弄された一年でした。
その中にあって一年遅れで開催された「東京オリンピック・パラリンピック」は 多くの反対論のある中、無観客という制約の中で開かれました。
しかし、アスリートたちの躍動は多くの国民の心を動かしたし、スポーツ選手の様々な活躍は私達を大いに励ましてくれました。

大谷翔平選手の投打の「二刀流」の活躍は、それまで野球に関心がなかった人々も魅了し続けました。まさに、スポーツの持つ「力」を改めて感じました。
こんな事から、毎年京都・清水寺で発表される今年の世相を反映される漢字一文字が、コロナをはじめとして暗いニュースの多い中、敢えて明るい話題を求めたのか、「金」が選ばれました。
私の予想には全くありませんでした。

平成7年{1995}から始まった漢字一文字の中で3度目の「金」でした。
さて、当たるも八卦当たらぬも八卦、と言いますが今年の「干支」は「壬」「寅」水の兄{え}の寅で、五黄土星の年です。
ご存知の通り、「干支」は十二支の「子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥」で、これに十干「甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、壬, 葵」を組み合わせたのが「干支」である。今年の「壬」と「寅」の組み合わせを含め60年に一度しかない。

これは、紀元前の中国で暦や時間を表すために使われ始めたのが起源という。その後、この十二支を浸透させようと、王充{おういつ}という人物が動物の名前に変えた。つまり動物の意味は後から付け足されたという。
例えば、子を鼠にしたのは繁殖力の高い、子宝の象徴、子孫繁栄。丑を牛にしたのは、生活のパートナーであり、畑を耕したり,重い荷物を運んだりする。寅を虎としたのは、勇猛果敢な動物でありその勇ましさから虎が当てられた等々である。日本には6世紀半ば欽明天皇の頃伝わったと言われている。

幕末維新の戦いを戊辰戦争!{1868}という。つまり「戊」つちのえ「辰」たつの干支であり、甲子園野球場の名前も「甲」きのえ「子」ねの干支の1924年完成。また現在でも我々は契約書などに甲は乙に対してなどの表現に何の抵抗もなく使っている。
12時を正午と言い、その前を午前、その後を午後というなど我々の生活の中に溶け込んでいる例はいくらでもある。

そこで、今年の「干支」壬は水の兄{え}で水の象である。つまり、この年は水による災害、洪水、豪雨、がけ崩れ等々が多いと言われる。
また、壬は「任せる」「妊む」と言われ、「任せる」から任務を果たす、とか「妊む」から色々と身体の中から生み出す。創り出す。の意があると言われ、寅の文字は「飛んで行く矢の姿を表した象形文字」や「勢い良く飛び出して行く」とも言われます。
また、五黄土星は九星の「中心星」で「帝王の星」で非常に強い星と言われています。これらを総合的に判断すると、現在オミクロン変異株が世界中に猛威をふるっていますが、春先頃には収束に向かい、ウイズコロナの流れを生み出し、寅の象形文字の如く五黄土星の如く運気の強い上昇期に入るような気がしますが、果たしてどうなるか。

「当たるも八卦、当たらぬも八卦」

写真は、富士山上空からのダイアモンド富士。竜神池のWダイアモンド富士。いずれもテレビ画面より。

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(2022/01/02)

藤井富山市長を訪問

ともかくも あなた任せの としの暮 一茶

新田八朗富山県知事に次いで、藤井裕久富山市長を12月22日9時30分市長室に訪ね、しばし歓談した。
知事に「富山のくすり」滋養強壮薬をプレゼントしたが、藤井市長には「酒は百薬の長」、「適量の酒は、どんな良薬よりも効果がある」との持論を展開すると市長は、笑いながら同感です、と頷いておられました。

その後、最近、富山のくすりがマスコミを賑わしているが、富山と言えば「くすり」、「くすり」と言えば「富山」を釈迦に説法と知りつつ、今日まで業界が富山の発展に貢献して来たことを話し、これからも変わらぬ支援、振興をお願いした。市長は当然のことと話されました。

そののち、市長の県議時代の想い出や最近の県内の政治状況ななど歓談した。市議会12月定例会も終了した後だったのか多忙な日程にもかかわらず30分以上も語り合った。

尚、この席に私と以前より親交のあった三浦良平副市長{国交省より出向}も同席した。
彼は、いづれ本省へ復帰するが、その時は富山を第二の故郷として、富山の発展に尽力してくれるだろう。一年の労をねぎらい、お二人の更なるご活躍を期待し市長室を後にした。

写真は、真ん中が藤井市長、右側、三浦副市長 {市長室にて}

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(2021/12/22)

新田知事を訪問

一年を 包む風呂敷 年忘れ

12月9日、就任以来1年余、精力的に活動を展開しておられる新田八郎知事を午後4時30分知事室に訪ねた。前知事石井さんは、新「元気とやま塾」入門、県政4期16年の軌跡を出版され一応の区切りを付けられた。私は、先月多年の労に感謝する意味で慰労の機会を持った。
その上で、新知事を訪問し、しばし懇談した。

最初に少子化対策と同様に高齢者対策も重要として、高齢者が県立施設を利用しても割引制度がないこと。明治16年5月9日富山県が石川県から分県独立した日を「県民の日」として県営施設は県民すべてに無料開放されている。
しかし、例えば県立水墨美術館を含めた芸術文化やその他の施設にもない。国立美術館や博物館なども同様ない。でも、富山市立の場合は高齢者の割引制度はある。
多少意見のやり取りはあったが、知事は真剣にメモしておられた。

また、以前某地鉄幹部に奇想天外と言われたが、北陸新幹線黒部・宇奈月温泉駅、隣接地に富山地鉄の新駅が建設された。
この駅から宇奈月駅までの地鉄の線路内に関電のトロッコ電車の線路を敷設する。{十分可}新駅ー宇奈月駅間はノンストップとする。これによって地鉄の既存の駅のホームやトンネルの改修は不要。時速240Kから時速20Kの落差と田園風景を約30分ほど楽しむ。
しかも、欅平駅までは宇奈月駅で乗り換えなしで行ける。2024年には欅平駅から黒部ダムまでの関電ルートが解放される。鉄道路盤は上下分離で地鉄が関電に貸し付ける。従来の地鉄のダイヤはそのまま維持する。

勿論、地鉄宇奈月駅と関電宇奈月駅との接合など問題は多々あることは承知しているが、私は技術的にはクリアー出来ると思う。かって佐伯宗義氏が「立山にトンネルを」と訴え立山・黒部アルペンルート構想を発表した時も奇想天外と言われた。
しかし、今日富山県の代表する観光資源であり、それが欅平―黒部ダムと結ばれ周遊ルートになるとは誰が予想しただろうか。
知事は頷きながら聴いておられたが、北陸新幹線開業後、県民に知事の言うワクワクする様な政策の必要性については意見が一致した。

また、最近「富山のくすり」がマスコミを賑わしているが、やはり、「とやま」と言えば「くすり」「くすり」と言えば「とやま」である。知事は63歳とまだ若いですが「富山のくすり」の安全性を申し上げ、疲労回復の和漢薬をプレゼントしました。それ以外にも種々懇談しましたが時計を見ると5時近く、多忙な知事に30分近くの時間を裂いて頂いたことに感謝し、一層の活躍をご期待し上げ、知事室を後にしました。

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(2021/12/10)

高島 高シンポジウム

母「母は 傷みやぶれた手風琴です」 北方の詩より 高島 高

12月5日{日}詩人であり医師でもあった高島 高のシンポジウムが富山市立図書館本館2階で開催された。高島 高は滑川市加島町に明治43年{1910}7月1日に生まれ、昭和30年{1955}5月12日45歳の若さで亡くなった。
それ故、高島 高と言っても、没66年もたち、知る人はそう多くはないと思う。

しかし、剣岳や立山を題材にした「北方の詩」など郷土の風土を題材にした雄大な作品で知られるとともに市内の田中、寺家、西加積、富山市呉羽老田、小杉の各小学校や県立水産高校の校歌、また「滑川市の歌」「滑川情緒」などを作詞している。
こんな事から滑川市においても、昭和58年{1983}7月、滑川市文化センターで「ふるさとの詩人高島 高展」が開かれ、次いで平成17年{2005}8月6日―28日まで市立博物館で企画展「いのち輝くときー孤高の詩人 高島 高展」が開催された。
それが、今年6月滑川市緑町出身のグラフィックデザイナー伊勢功治氏が、高島 高の知られざる一生を明らかにした著書を刊行され、富山の芸術文化の振興に貢献した人に贈られる翁久允賞を受賞されたことを機に、翁久允財団が今回企画されたものと思う。

シンポジウムの出席者は、
①公益財団法人・翁久允財団 須田 満氏{翁久允の孫}演題・久允と高島 高の関わり
②県詩人協会・顧問 池田瑛子氏 演題 詩の光が呼ぶ
③歌人 細川喜久恵氏 演題 文学の原点
④富山文学の会{富山商業高校教諭} 金山克哉氏 演題 久遠の自像・人生記銘
⑤グラフィックデザイナー 伊勢功治氏 演題 東京時代の高島 高

それぞれの立場で話をされた後、金山氏がコーディネーターとなって進行されました。
特に印象に残ったのは、細川さんは現在98歳で、18歳当時立山製紙にタイピストとして勤務。社長は滑川の深井粂次郎氏。
多分そんな縁で会社の保険医が高島 高。高島が詩壇選者を務める郷土文化誌「高志人」に投稿し、直接指導を受けた話はまさに生き証人の話であった。

「詩とは孤独をエサとして成長する」
「詩の光は永遠」
「詩は生命にプラスする」

などの言葉や漢字の使い分け。同じひげでも口ひげと顎ひげの違いや、曼殊沙華のあかと夕日のあかの違いなど教えられた話など、98歳とは思えない元気な語り口でした。

伊勢氏は講演の中で蛍烏賊の足の刺身を「竜宮ソーメン」或は、「イカソーメン」と呼ぶのは萩原朔太郎が昭和14年6月滑川を訪れ食べた時、初めてこの言葉を使ったという。伊勢氏に確認しましたがその通りとのことでした。
いづれも高島 高の詩を語り継ぐ大切さを述べられました。

私の場合、高島 高同様加島町に生まれ育ち現在に至っていることから、幼少の頃、風邪などで診察を受けたことや、当時,人力車に乗って往診に行かれるカッコ良い姿を今でもはっきりと覚えている。
また、高先生が亡くなった後、高島医院を継承されたのが、弟の高島 学先生です。学氏も医師であり俳人であった。両兄弟の文学の素養は、父の地作氏が医師であり、号を半茶と称し地元でも有名な俳人で、著名な文人墨客との交流があった。

そんな血筋が高島兄弟に流れているのだろうと思う。私は、お二人の医師には診察は受けたが、詩や俳句を教えて貰わなかったのは今となっては残念なことである。
しかし、母校田中小学校校歌「希望の丘」や「滑川市の歌」「滑川情緒」はよく口ずさんだし、また、弟の学先生の時には時々モダンな応接室で歓談もした。そんなことから私自身は身近な存在で親しみを覚える。

さて、私は、詩や文学に関しての知識や能力はありませんから、高島 高の詩を論評する資格はありません。しかし、凄い詩人だったことは幾つかの事例で理解できる。

例えば、昭和25年{1950}「現代詩人展」で高村光太郎の「智恵子抄」草野心平の「蛙」などとともに、高島 高の「北方の貌」がこの年のベスト5に選ばれているのを見てもわかる。
また、昭和10年{1935}萩原朔太郎、北川冬彦、千家元麿、佐藤惣之助、が選考委員の詩コンクールで「北方の詩」が一等入選。昭和13年{1938}処女詩集「北方の詩」を刊行。それに萩原朔太郎と北川冬彦の二名が序文を載せている。

高島 高は明治43年{1910}医師高島地作の二男として市内加島町にうまれる。旧制魚津中学校卒業後文学を志し、日本大学文科に進学したが、父の高島医院を継ぐため、昭和医学専門学校{現、昭和大学医学部}に進み医師になり、昭和14年{1939}郷里滑川へ帰り開業。
昭和16年{1941}第二詩集「山脈地帯」を刊行するなど文学の道も諦めずに詩作に励む。
昭和17年{1942}「高志人」詩の選者となる。昭和18年{1943}軍医として応召。
昭和20年{1945}タイにて終戦。収容所生活。昭和21年{1946}南方より帰還。
その後も詩作活動を続ける中、昭和24年9月田中小学校校歌「希望の丘」作詞。作曲は高木東六である。

また、昭和29年3月滑川市が市制を施行した時「滑川市の歌」を作詞した。作曲は信時潔である。氏は「海ゆかば」など国民歌の作曲者として、また音楽家として稀な芸術院会員となっている。この様に帰郷後も中央の著名人との太いパイプがあったことがわかる。彼は昭和30年{1955}5月12日45歳の若さで惜しまれてこの世を去った。
昭和40年{1960}5月12日没10年の節目に市内行田公園の一角に詩碑建設委員会の名において詩碑が建設された。
その詩は「北方の詩」の一部で下記の通りです。

剣岳が見え
立山が見え
一つの思惟のように風が走る
北川冬彦 書

この時、昭和13年刊行の処女詩集「北方の詩」が再刊された。
また、昭和59年10月15日、編者・稗田菫平・発行者・高島 高詩集刊行会が 名作選 高島 高詩集を刊行した。その序に昭和22年に刊行した「北の貌」に序として相馬御風が長文を寄せている。
この詩集の後記の最後に稗田菫平氏は「詩人としての高島 高については、萩原朔太郎、北川冬彦、相馬御風氏らの序にも見られるごとく、詩壇的には評価が定まっており、あらためて加えることはない。名作選の名に恥じないこれらの詩編が、多くの人びとに迎えられて愛唱されることを切に希うものである。」私も全く同感である。

詩碑はもう一か所ある。市営堀江野球場ライト側ポケットパークに平成5年{1993}9月18日滑川ライオンズクラブによって建設された詩碑である。
「北方の詩」の中にある

「力」
肉体をつらぬく焔がある
この焔をこめて燃え上がった生命があるというのだ
ぶつかれ!

詩碑が建設されて20年近くたち、詩碑の前に植樹された樹木は詩碑を覆いかぶさるような大木なっている。

また、高島医院の山側の隣接地に滑川市民会館分館西地区コミュニティーセンターがあり、医院の横には田中川が流れている。
それ故、ホール正面側の壁面と、田中川に面した壁面に縦約2m横約3mの大きさの陶板焼きのタイルに地元の書家によって書かれた「蛍烏賊」と「田中川有感」の詩がある。蛍烏賊の詩は幾つもあるが、そのうちの一つです。

先ずは、改めてもう一度ご覧ください。
私な好きな蛍烏賊の詩と昭和28年11月1日滑川町と近郷6か村が合併した時に色紙に書かれた言葉を記します。
幾つもありますがその一つの

「蛍烏賊」
太古への郷愁をたとえてみれば
闇の海の底へとしずんでゆく
ほたるいかでしょううか
滑川という越中の小さな町の

昭和28年11月1日滑川町と近郷6か村が合併した時の色紙に記した言葉。

大滑川町を祝す
北方荘主人 高島 高

その握手は 偉大であった
ことほげよ 菊かほる佳日よ
今こそ 親愛と協和との
ちかいに燃えたのだ   
1953年 秋

写真は、シンポジウム風景。行田公園の詩碑。堀江野球場の詩碑。昭和28年11月1日の色紙{広報なめりかわ縮刷版より}。
西地区コミュニティーセンター壁面。昭和40年再版の「北方の詩」と昭和59年発行の名作選・高島 高詩集。

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(2021/12/06)

京都・清水寺~東京

11月24日京都清水寺で聖徳太子1400年聖偉法要が営まれ、また、その機会に一字写経が募られ、寺よりお誘いの声を掛けて頂いたことを勝縁として参拝しました。
12時30分頃清水寺に到着。係員より迎賓館に案内され、森清範貫主と2年ぶりの再会を喜び、しばし歓談。
次いで、貫主の案内で13時から多数の信者で埋め尽くされた観音堂で行われたお勤めに最前列に座り参列しました。その後、貫主自らの案内で、50年ぶりに、檜皮葺きに吹き替えた国宝本堂や、新装なった檜舞台を含め、13年の歳月をかけ大修理が行われた諸堂を解説して頂いたのには恐縮しました。正に江戸時代寛永の姿がもみじの紅と銀杏の黄色などの紅葉と清水寺とが一体となり、実に美しい風景でした。

13時より円通殿で法要に先立ち、清水寺執事補大西晶允氏の前講がありました。
貫主同様ユーモアを交え、太子と清水寺の縁などを話されました。以前、清水寺の青年僧侶、森清顕氏、大西英玄氏、大西晶允氏、大西晧久氏、の4氏が「清水寺へあいにこないか」の本を出版され、これを読んだことと、今回の前講をお聞きし、いずれこの4人の方々が次代の清水寺を背負ってゆかれることと大変頼もしく思いました。法要が行われた円通殿の真ん中に観世音菩薩像、像の前に清水寺の塔頭の一つである来迎院の経書堂に安置されている太子像のお前立が特別に置かれ、右手に清水寺中興の祖、大西良慶和上の坐像があり、森貫主が導師となり、太子和讃の読経を始めとして厳粛に営まれました。

その後、森貫主の法話があり15時過ぎ滞りなく終了しました。前述の通り、太子を祀る経書堂があり清水寺と太子の縁は古くよりあったようです。それ故、森貫主は4月5日法隆寺で開催された太子1400年法要にも招待され、奉讃文奉呈の依頼を受けて出席されています。奉讃文は私も頂き一読させて頂きました。
この様に太子と縁のある法隆寺はもとより、四天王寺,、橘寺等清水寺同様各地で1400年法要が営まれているとのことでした。手荷物は寺務所に置いてあった為、そこに戻り、来年の市民文化講演会での再会を約し寺を後にしましたが、貫主が玄関の外まで見送りに出られたのには頭が下がる思いでした。

清水寺には観光客や修学旅行の生徒たちで溢れていましたが、インバウンド、つまり外国人観光客がほとんどいなかったのには、一抹の淋しさを感じました。しかし、いづれ従来の賑わいを取り戻すと思います。

24日は京都泊。25日全日本弓道連盟理事会出席で東京へ。当日は終日快晴で静岡付近の新幹線の車窓から眺めた富士山は青空にくっきりと浮かび実に綺麗だった。最近の会議はリモートであったが、久しぶりの対面会議であり、議論は活発で迫力があり臨場感がありやはり対面会議の良さを実感した会議であった。

その後、環境省の中井徳太郎事務次官を訪ね、しばし歓談しました。氏は財務省出身で富山県に生活環境部長として出向の折、我が家で盃の友情と称し、よく歓談したものです。

いづれにしても、富山―京都―東京―富山と回った旅でしたが金沢からのサンダーバード号も、京都―東京間の東海道新幹線も、東京―富山間の北陸新幹線も、そして京都駅、東京駅、加えて清水寺の賑わい。或は、東京などは会食も4人から8人と制限緩和されるなど確実に経済活動は活発になりつつある。
しかし、最近ではブレークスルーと言われるように、ワクチンや抗体薬の効果が落ちてくることが懸念され、3度目のワクチン接種も行なわれることになった。第6波が危惧される中、ヨーロッパ各地で感染が拡大し、新型コロナウイルスの新たな変異株「オミクロン」が南アフリカなどで確認されたという。クリスマスから年末年始を控え油断禁物。一日も早い終息を願わずにはおれません。

写真は①清水寺貫主森清範氏と清水寺迎賓館にて。②円通殿にて聖徳太子1400年法要。③快晴の富士山新幹線車窓から静岡付近。④環境省事務次官中井徳太郎氏、次官室にて。

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(2021/11/26)

松桜閣見学(11月5日)

4日は宇奈月温泉で一泊。前日同様快晴である。10時黒部市若栗にある松桜閣を見学。
松桜閣{しょうおうかく}はパンフレットによれば、「初代富山県知事国重正文が1883年に現在の富山市に建て5年住んだ建物です。
国重が富山県知事職を離れた後、黒部の豪農であった西田収三が購入し、現在の場所に移築しました。

その後、地元の天真寺が西田家から1931年に買い取りました。現在はNPO法人松桜閣保勝会が管理しています。
松桜閣は日本の茶道様式に基づく、数奇屋造りの建築様式で建てられ、「北陸の銀閣」と呼ばれています。庭はもともと西田収三が造ったものでしたが、1932年に庭師の城川久治により、「近江八景」をモデルに改めて設計されました。
「ここでは日本の伝統を感じ、四季折々を楽しむことができます。」と記してあります。

ただ、松の古木は確かに多くありましたが、桜は枝垂れ桜2本だけだった。しかも、木の太さや大きさからして、戦後植樹した木のようで、説明員にただしたところ解らないとのこと。
多分富山市で建設当時は桜も結構あったと思われる。それ故,松桜閣と名ずけられたのだろう。確かに京都北山の「銀閣寺」に似ていた。建物や庭園は実に見事なものであった。
尚、国重正文は長州の人である。場所は、北陸新幹線黒部・宇奈月温泉駅より250mの所にあります。

その後、あいの風とやま鉄道水橋駅前「世界一かわいい美術館」を見学した。両日とも天候もよく、充実した一泊二日の小旅行でした。
写真は、松桜閣にて。

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(2021/11/06)

黒部トロッコ電車と宇奈月温泉(11月4日~5日)

谷という 器溢れる 紅葉かな

11月4日{金}~5日{土}紅葉の黒部峡谷をトロッコ電車で家族と共に楽しんだ。
4日、10時44分、宇奈月駅を出発。新山彦橋を通過。宇奈月温泉の源泉のある黒薙。排砂ゲートのある出し平ダム、猫又、鐘釣など滑川出身の室井滋さんの分かり易いナレーションを聴きながら、12時03分終点欅平駅着。
20.1㎞。所用時間約80分の旅である。

欅平駅周辺には、特別名勝、特別天然記念物、猿飛峡があるが残念ながら途中道路が不通の為行けなかった。
そこで、名剣温泉まで散策したが、人食い岩の岩肌を彩る木々の黄色や常緑樹の緑に、朱塗りの奥鐘橋が鮮やかであった。

さて、トロッコ電車を運行する黒部峡谷鉄道は、今年創立50周年を迎えた。平成の始めから約15年間は100万人を超える乗降客数は1994年には137万人と過去最高を記録し、立山・黒部アルペンルートを凌ぐ勢いであった。
しかし、最近10年間は観光の多様化もあり60万人から70万人台まで減少。そこに新型コロナが追い打ちを掛けた。これは単に宇奈月温泉だけでなく全国の観光地も同様である。

実は10月21日~22日に今回と同じコースで宇奈月へ行ったが観光客もまばら、トロッコ電車もガラガラで、正に閑古鳥が泣いていた。
しかし、10月末には緊急事態宣言も蔓延防止等も解除されたことから、トロッコ電車もほぼ満席状態で、結構賑わいが戻って来ているように思えた。
日本広しと言えども、これ程変化に富み、80分も峡谷美を満喫出来るトロッコ電車は此処しかないと思う。
これを含め、立山・黒部アルペンルート等魅力的な山岳観光が富山県に、しかも、こんなに身近な所にあるのは嬉しい限りである。
これを、もっともっと内外に発信してゆきたいものだ。

写真は、トロッコ電車。欅平にて。奥鐘橋より人食い岩を望む。名剣温泉。

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(2021/11/06)

立山砂防の防災システムを世界遺産に

初雪の 高嶺を裂きてみ空より もみじの中に 落つる大滝 称名滝にて  川合玉堂 

10月30日{13時30分―17時}富山国際会議場メインホールで、世界遺産登録推進シンポジウム{主催・富山県世界遺産登録推進事業実行委員会}が開催された。
開催主旨は「富山県は、日本イコモス委員会によって「日本の20世紀遺産20選」に選定された立山砂防の歴史的砂防群の世界遺産登録を、関係機関や民間団体等と連携しながら目指す」とパンプレットにあります。
そして、今回のシンポジウムでは、立山砂防の世界遺産登録に向けた評価を確立するため、世界遺産の最前線で活躍する専門家による世界遺産を活かしたまちづくりについての講演や世界遺産とツーリズムの現状・防災遺産のツーリズム活用についてのパネルディスカッションをとおして立山砂防の顕著な普遍的価値を広く発信する機会として企画されたものです。
 
当日は、
13時30分 開会 主催者挨拶 新田八朗{富山県知事}
13時45分 基調講演「世界遺産を活かしたまちづくり」宗田好史氏{京都府立大教授}
14時45分 報告 「富山県の立山砂防の世界文化遺産登録への取り組み」 新田八朗 富山県知事
15時30分―17時 パネルディスカッション
 ・コーディネーター 西村幸夫氏{日本イコモス国内委員会顧問}
 ・パネリスト 松浦晃一郎氏 {第8代ユネスコ事務局長}
        宗田好史氏 {京都府立大・教授}
        小山内信智氏 {政策研究大学院大学教授}
        北河大次郎氏 {文化庁文化財調査官}

それぞれ専門分野のエキスパートを一堂に会したシンポジウムでした。

ご存知の通り、立山カルデラは、今から163年前1858年{安政5年}、跡津川断層の活動において推定M7,3-7,6の安政飛越地震が発生し、大鳶山、小鳶山が崩壊し約4億㎥の大量の土砂が立山カルデラとその出口付近に堆積し天然ダムできた。
その後、ダムが決壊し大土石流が発生した。これが安政の大災害である。その後、常願寺川は氾濫を繰り返す暴れ川に変わり人々を苦しめた。そこで1906年{明治39年}富山県は砂防工事に着手し1926年{大正15年}より国に引き継がれた。

立山カルデラでは富山平野で暮らす人々の生命や安全を守るため、厳しい自然環境の中に、今日でも砂防工事が続けられている。これによって長年にわたり崩れを防ぎ、流れ出す土砂を止め、下流の富山平野に住む人々を土砂災害から守り続けてきた。それが立山カルデラの歴史的砂防施設群として存在している。
特に1939年{昭和14年}に完成した「白岩堰堤」は副堤をふくめた総落差が108mと日本一の高さの大規模な堰堤だ。1936年{昭和11年}に完成した「本宮堰堤」は、日本最大級の貯砂量500万㎥を誇る。「泥谷堰堤」は1938年{昭和13年}に完成した階段式堰堤で、渓岸や山腹を安定させ、崩壊地の植生回復に寄与している。

これらの防災遺産は、今なお現役で国土の保全に重要な役割を担っている。2017年{平成29年}11月には、常願寺川水系を一体的に治める治水対策の礎となった施設であり、我が国の治水上、価値が高いとして、すでに指定されていた白岩堰堤に、本宮堰堤と泥谷堰堤を加え「常願寺川砂防施設」として国の重要文化財に指定された。{一部シンポジウム資料より}

3時間半にわたる内容を限られた文章で述べることは困難ですが、世界遺産登録申請にはまだまだ克服すべき課題があること。
例えば重要文化財に指定された3ヶ所の堰堤を中心にすべきなのか。或は、それら等を含めたエリアとすればその範囲は。などがあるが、何と言っても県民の盛り上がりが必要不可欠であることだ。
その為にも、小学生の総合学習の場でも取り上げるべきとか。また、ユニークな意見でしたが、子供たちに「トロッコ電車に乗って、たどり着いた天涯に富山平野を守ってきた天涯の村があった」などの童話を作ってはなどの提案もありました。

いづれにしても、富山平野に住む私たちが、災害から守られているのは立山砂防のお陰であるとの意識が希薄なような気がする。それは、普通災害復旧工事と言えば,我々の目に見える場所で行われることがほとんどで,それ故、その有難さを十分感じることができる。
しかし、立山砂防工事は我々の暮しから、遥かに遠い立山カルデラの中であることが、立山カルデラや砂防工事そのものへの認識を希薄にしているのだろう。このシンポジウムを機に改めて立山砂防工事の重要性を再認識した。
国内外へのさらなる発信が必要であり、いつの日か「日本固有の防災遺産―立山砂防の防災システム」が世界遺産に登録されることを願うものです。
地鉄立山駅向かいに「立山カルデラ砂防博物館」があり是非をお勧めしたい。

写真は、パンフレットとシンポジウム風景。

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(2021/11/01)

東山魁夷展

若葉して 御目の雫 拭はばや 唐招提寺にて 芭蕉

先日は紅葉の立山、黒部アルペンルートと称名滝を散策したが、今回は芸術の秋を楽しんだ。
10月12日知人と共に「東山魁夷唐招提寺御影堂障壁画展」を富山県美術館で鑑賞した。以前長野県立美術館、東山魁夷館で画伯の作品を鑑賞したことはあったが、今回は国宝鑑真和上坐像が安置されている奈良唐招提寺御影堂の障壁画は、東山魁夷画伯が一期・二期通算11年の歳月をかけて1980年に全68面完成されたものを、この度、御影堂の全面改修に伴い、富山を含め全国数ヶ所で一堂に展示される貴重な機会となった。

パンプレットによれば、「唐招提寺開山鑑真和上は、12年の歳月を費やし、5度の挫折の末に視力を失いながらも6度目にして来日を果たされました。
この鑑真和上の苦難を御慰めするため東山魁夷画伯によって、和上が御覧になる事の出来なかった日本の山景と海景の障壁画が鑑真和上を奉る唐招提寺御影堂に納められ、続いて鑑真和上の故郷である「揚州」の水郷風景と、中国を代表する「黄山」と山川絶景の「桂林漓江」がそれぞれ中国の風景美として納められました」と記してあります。

また、製作にあたっては日本や中国各地を歩いてスケッチを重ね、いく度も構成を練る中で、山を描く旅は、富山県黒部から始まり、宇奈月から黒部渓谷鉄道に乗り、数多くの写生を残した画伯は、黒部渓谷で目にした風景について「正に渓谷美の醍醐味を満喫させてくれるもの」とあります。
また、東山魁夷「唐招提寺への道」の中に「渓谷としては、是非、黒部へ行ってみたい。

眼を閉じると、障壁画の構想が、朧気ながら浮かんで来る」と記してあり、パンプレットにも、障壁画の「山雲」には、富山で取材した渓谷のイメージが反映されていると考えられる。書いてあるから、障壁画と富山とは無縁ではないのだろう。
私は、障壁画を美術的に論じる知識もなければ、資格もない。ただ、画伯が鑑真和上に捧げた祈りの美は、ほんの少しだけだが理解できたように思う。また、画伯が昭和15年、31歳の時の作品「山・海」の屏風が展示してありました。これは、滑川のある市民の方が県に寄贈されたものと思います。

そして、会場を回りながら、鑑真和上が5度も挫折し、しかも、視力を失いながらも日本に仏教を広めようとした「強い意志」と「情熱」には驚かざるを得ない。また、遣隋使や遣唐使は異国の文化や制度を持ち帰り日本の国造り、取り分け唐の律令制度は日本の国家運営に大きな影響を与えた。

遣隋使では小野妹子。遣唐使では山上憶良、吉備真備、そして、阿倍仲麻呂は唐朝で科挙と呼ばれる役人になる試験にも合格し、高官にまで登り、詩人李白や王維とも親交があったという。在唐54年、日本に帰ることを夢見ながら、異境の地で生涯を終えた。2004年井真成の墓誌が発見されて話題を呼んだが、墓誌まであることからそれなりの人物であったと思われる。

遣隋使は600年ー618年推古天皇の時代に新たな技術や制度を学ぶ為に5回派遣され、唐の時代618年―907年には20回ほど派遣されたという。この中には唐で仏教を学ぶ留学僧も派遣され、その中にいた空海は帰国後真言宗を最澄は天台宗を興す。彼らの帰還する船で日本に仏教を広める為に、唐の僧も日本へやってきた。その一人が鑑真和上である。

2010年上海国際博覧会で復元された遣唐使船を見ると、長さ約30m、幅10mに満たない木造船であった。渡航ルート等々は省略しますが、要は鑑真和上の例を出すまでもなく、命がけで数か月をかけて長安や洛陽を目指した遣唐使の有為な人材も約3―4割は難破、遭難,約3割は帰国出来ず。
こんな危険を冒しても彼等は国の将来に思いを馳せ、荒波を蹴って唐に渡った。

これに比べると、昨今多発する官僚の不祥事は、正に国家公務員としての矜持を忘れているとしか思えない。この、遣隋使、遣唐使として異国の地に渡った先人の姿を思い出してほしいものです。

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(2021/10/13)

錦秋の立山・黒部

継ぎ目なき 天一枚 秋の空

誰の句か知りませんが、私の好きな句です。この句の様にはいきませんでしたが、多少の雲があったとは言え、青空が一杯に広がり山々の稜線がくっきりと浮かび上がる中、10月8日~9日一泊二日で立山黒部アルペンルートの大自然の雄大さを堪能してきました。

我が家を朝6時に車で出発。6時50分立山駅{標高457m}に到着。当日乗車券売り場にはすでに30人ほどの観光客で溢れていましたが、難なくチケットを購入。臨時便が増発され、立山駅発8時10分ー美女平{標高977m}行きケーブル約7分で到着。美女平発8時30分高原バスにて室堂{標高2450m}へ9時20分着。
つまり、海抜0mの我が家から標高2450mの室堂まで、僅か3時間20分である。
これを黒部ダムまで直行すれば、室堂からトロリーバスで10分で大観峰。ロープウェイで黒部平から黒部湖駅。我が家から約4時間で黒部ダムである。なんと便利になったことか。

かって、私は当時の中沖豊知事にこの時間帯を説明して、午前中は室道周辺での夏山スキー昼食後下山し、4時頃から富山湾で海水浴が出来る富山県。これを売りにすればどうだろうか。と話したことがある。
それにしても、春先訪れた際の雪の大谷はどのあたりか。雪が全くないのだから探すのに苦労する。
しかし、それに代わって紅葉である。見事だったのは、大観峰から黒部平へのロープウェイから眺めるタンポ平{標高約1800m}の紅葉と黒部湖である。
赤色やオレンジ色、黄色など鮮やかに映えていた。特に、感心するのは、栄養分が全くないと思われる岩肌にへばりつくように咲いている赤のナナカマドが印象的だった。

室堂辺りは既に紅葉は終え、弥陀ヶ原より少し下の七曲{標高1680m}辺りが見頃である。しかし、バスの車窓からは、秋色に彩られた高原は見えにくく、やはり、これはヘリコプターなどで、上空から眺めるのが一番であるが、所詮庶民には無理な話である。

それにしても、石原裕次郎主演の「黒部の太陽」でもお馴染みの「黒四ダム」は7年の歳月をかけ、大破砕帯との遭遇をも克服し、171名の殉職者を出しながら昭和38年6月完成させた。
この先人達の英知と努力。それは、全線開通50周年の節目を迎えたアルペンルートにも言える。これを最初に提唱した佐伯宗義氏に賛同する者はほとんどいなかったと言う。

考えてみれば、北海道を除く46都道府県が隣接する県が車道で結ばれていないのが、富山県と長野県位である。立山を貫き富山県と長野県に光を。こんな思いもあり、アルペンルートを運営する社名は、立山黒部貫光{株}で、観光でなく貫く光である。

現在、富山県では立山連峰にトンネルを堀り長野県大町周辺と直接道路で結ぼうとする案がある。立山連峰にトンネルを。と言っても、3案があると言われ、まだ夢の段階であるが、北陸新幹線後の夢のプロジェクトであろう。今の日本の土木技術では私は可能と思う。

要は採算性であろう。北陸新幹線は構想から完成まで50年以上の歳月を要したことを思うと、私の眼の黒い間には無理かもしれないが夢は持ち続けたいものである。
「黒四ダム」にしても「立山黒部アルペンルート」にしても、先人達の開発にかける情熱や不屈の闘志と使命感には驚かざるを得ない。特に昨今の環境問題を考える時、アルペンルートは50年も前から環境に配慮し、排ガス対策としてマイカーの乗り入れを禁じたり、トンネル内はトロ―リバスを導入するなど、先進的な施策を展開していることは特筆すべき事と思う。2時半を過ぎると雲も多少厚くなり下山。
3時半頃立山駅から車で称名滝へ。この時間帯になるとほとんど観光客はいなかった。滝の水量は一年で一番水量が少ない時期なのか、大瀑布とまではいかなかったがそれでも圧巻であった。また、ハンノキ滝は消滅していた。

立山山麓で一泊後、翌日は立山カルデラ砂防博物館の見学と大自然の雄大さをたっぷり満喫して帰路に着いた。観光客については非常事態や蔓延防止等が解除され、富山県独自の防止策もステージ1になったこともあってか、室堂では県内の中学生が日帰り旅行として多数来ていたり、まずまずの観光客で賑わっており、一昨年までとはいかないものの、少しずつではあるが元に戻って来ているように思えた。
一日も早く元に戻るように願うものです。

帰宅後、友人に黒部ダムの話をすると、ダムの放水を見るためには3階建てのダムレストハウスへ行くか、あるいは下へ降りる方法がある。その下へ降りる階段は自分が設計したと言う。詳細は省きますが私も驚きました。同級生には多彩な人物がいることを改めて嬉しく思いました。

写真は、雄山をバックに。紅葉のタンポ平と右に黒部湖。放流する黒四ダム。称名滝。

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(2021/10/10)

滑高祭2021

落ち鮎の 佳き香り立つ 囲炉裏焼  高島学人

秋晴れの下、青空の広がる中、10月1日{金}~2日{土}「彩色・滑高を個性の色に」をテーマに、滑高祭2021が開催された。
これは、学校行事の一環であり、体育大会、修学旅行と並ぶ3大行事の一つでもある。昨年はコロナ禍で中止となったが、生徒にとっては入学から、卒業までの3年間で一度の開催であり昨年の3年生には気の毒なことであった。

1日は演劇鑑賞として、今なお世界中で愛されているシェイクスピアの4大喜劇の1つである、コメディミュージカル「真夏の夜の夢」{劇団・(株)笑う猫}を全生徒が黒部コラ‐レで鑑賞した。
私自身、鑑賞はしていないので感想は述べれませんが、先生の話では、結構生徒は喜んでいたとのことでした。

2日は生徒15クラス、27部活、2委員会・学科等を各教室を会場にしての発表でした。
9時~9時30分、第一体育館ステージで吹奏楽部の「滑高コンサート」は全生徒参加で、その他の発表等は自由見学であった。
私は全部の発表は見なかったが、今朝、上市川河口で釣った「ハゼ」や「ヤマメ」の水槽飼育展示。姉妹都市、小諸市、豊頃町、那須塩原市の物産展。
プロ並みの写真展。体育大会の様子を記録編集したDVDを上映し、予約販売。
映画鑑賞として「タイタニック」の上映があるなど多彩で趣向を凝らした発表会であったが、企画から設営までの努力が思い出になるのであり、賛辞を贈りたい。

特に、人気があったのは,体育館のステージ上でのダンスである。暗くなった場内で10数名の男子生徒が踊りだすと、女子生徒が持つペンライトが揺れ歓声が上がる。コロナ禍の中、練習するのも大変だったと思う反面、私には中々ついていけないのも年齢の違いだろうか。
この時間帯、他の会場は見学者はほとんどいなかった。

いづれにしても、スポーツ活動や文化活動など平常に少しずつではあるが戻ってくると、生徒たちも喜喜としてくると先生はいう。
考えてみれば、悠久の時の流れには「節」はない。
しかし、人間は「節」を付けた。60秒で1分、60分で1時間、24時間で1日、30日或は31日で1ヶ月、12か月で1年としたり、また1年を春夏秋冬に分けたり、24節気、72候、雑節など、時の流れに「節」を付けた。大晦日に飲む水も元旦に飲む水も本来同じ水である。
しかし、元旦に飲む水はどこか清々しく感じる。それは時の流れに「節」があるからである。高校生活も同様です。コロナ禍で「節」を失った。これによって、自己喪失に陥った生徒もいたのではないかと思う。
しかし、ワクチン接種も進み、緊急事態も蔓延防止も解除された。富山県独自の防止策もステージ1に引き下げられた。
だからといって安心とはいかないが、徐々に回復に向かっていることは歓迎すべきであろう。

写真は、ポスターと男子生徒によるステージダンス

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(2021/10/03)

満月と中秋の名月

名月を 取ってくれろと 泣く子かな   一茶

9月21日は満月と中秋の名月が重なった。我が家でも、19時30分頃からは雲間に見え隠れする満月を、23時頃からはくっきりと現れた満月に暫し見とれた。ただ、月齢によって、旧暦15日が満月になるとは限らないが来年と再来年は同一日である。

先日知人から俳句の季語を集めた季語集「季寄せ」の中から、月に関する資料を頂いた。
それによると、月の名称が実に多くあるのに驚いた。
①上り月…上半月が次第に丸みを加え満月になるまで
②下り月…満月から一夜ごとに欠け始めてゆく月{下弦の月}
③十三夜…満月の2日前をいう。中秋の名月と翌月の十三夜をともに楽しむ風習が、後に日本で生まれた。どちらか一方のみを眺める月を「片見の月」と呼び、忌み嫌った。
④待宵…陰暦8月14日の夜の月.古人は満月前夜のこの月を「宵待月」と呼んだ。
⑤名月…陰暦8月15日の夜の月
⑥良夜…十五夜の月の夜
⑦十六夜…陰暦8月16日の夜の月。満月の翌日の月
⑧立待月…陰暦8月17日の夜の月。立って待っているうちに出てくるの意。
⑨居待月…陰暦8月18日の夜の月。座って待って居れば出てくるの意。
⑩寝待月…陰暦8月19日の夜の月。月の出るのが遅く寝て月を待つ意。
⑪更待月…陰暦8月20日の夜の月。夜が更けて出る月を待つの意。
⑫真夜中の月…陰暦8月23日の夜の月。
⑬後の月…陰暦9月13日の夜の月。
⑭有明月…夜明けになお空に残っている月。

これ以外にも、朧月夜など本当に月を表す言葉は多い。
日本人は、美しい満月も、翌日には欠けてゆく、そんな月にも無常の美しさを見出した。
古人の豊かな感性と繊細な美意識に加え、俳句や短歌によって語彙がより豊かになった。これが日本語の素晴らしい点であり、外国語では到底表現出来ないことである。英語を始めとし外国語の普及は当然としても、日本語は守っていかねばならない母国語である。

さて、旧暦、太陰太陽暦では7月から9月までを秋とし、その真ん中、8月15日{十五夜}の満月を「中秋の名月」と称し、芋や団子を供えて秋の収穫を月に感謝したという。春は花見、夏は花火、秋は月見、日本人が愛する折々の情趣の中では、秋の月見は消えつつある。しかし、我が家では、スーパーでお団子を買い、ススキとともに仏壇に供えて、カーテンに切り絵ではあるが、月、うさぎ、雲などを貼り付け家族で団子を食す。孫に「月にウサギが居て餅つきをしている」と言っても相手にもしてくれない。

考えてみれば、中国の月無人探査機「じょうが4号」を世界で初めて月の裏側に着陸させたり、日本の「はやぶさ2号」が惑星「りゅうぐう」から岩石を採取し地球に持ち帰る時代である。しかし、どんな時代になっても、日本の良き伝統、文化、美しい日本語などは残していかねばならない。満月を眺めながら、ふとそう思った。

写真は、我が家の2階からの19時30頃と23時頃の満月。

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(2021/09/24)

滑川高校体育大会

北海道大雪山系旭岳では山頂は紅葉が始まり山をおり始めたという。紅葉前線は南下で桜前線は北上と表現する。
日本語の美しさと同時に、日本列島の南北の長さを改めて思う。
さて、第73回県立滑川高校体育大会は9月14日{火}午前8時40分より、曇り空ながら、暑くもなく、寒くもなく絶好の体育日和のもと開催された。

当初、9月2日でしたが、県内は、県独自の指標となるステージ3の最高レベルの非常事態で、しかも、富山市に蔓延防止等重点措置が9月12日まで発出されており、14日に延期となっていたものです。幸い、まん防は12日に解除され、私が見学に行ったのは10時頃より11時20分までの時間帯でした。
そこで感じたのは、団編成は、白虎団,青龍団、朱雀団の3団でした。この様になってから10年以上になると思います。
中学時代までは、赤、白、青、黄の色分けです。それでは、生徒諸君はこの意味を理解しているのだろうか。学校関係者に質問したところ,多分知らないだろう。とのこと。

ご存知の通り、白虎等々の四神図が一躍有名になったのは、昭和47年{1972}3月21日発見され、現在国宝に指定されている「高松塚古墳」と昭和58年{1983}11月7日発見された「キトラ古墳」の石室から、「白虎」、「青龍」、「朱雀」、「玄武」加えて、「天文図」やいわゆる「飛鳥美人」と言われた極彩色の美人群像などは世紀の発見とされ広く報道された以降と思う。
しかし、私が高校時代はそれ以前であるから、誰が、どんな理由で、いつ頃、四神図を団の名称にしたかは、私にはわからない。しかし、この、四神図の謂れぐらいは教えるべきでないだろうか。

また、私は戦後の団塊の世代であり、1学年普通科4クラス、商業科6クラス、薬業科、家政科各1クラス、50人1クラスで1学年600人、3学年計1800人これに定時制があった。運動会は四神に加え黄鶴団と5団であった。
綱引きにしろ、騎馬戦、棒倒し、リレー、応援合戦どの種目を見ても青春のエネルギーが爆発している感があった。それに比べると、現在は1学年200人3学年で600人であるから同一に論じる訳にはいかないが、関係者に何人くらいで1団の編成が可能か。と質問したところ150~200人である。という。
150人はぎりぎりかもしれないが、私は4団が良いと申し上げた。

4団になればすべての種目が盛り上がると思う。いづれにしても、昨年は新型コロナの影響でほとんどの学校行事や部活も中止になった。
幸い、今年は体育大会は実施出来た。しかし各学年の遠足はすでに中止と決定。、2年生の2泊3日の県外修学旅行も中止と決定したが、代案として名称変更し日帰りで検討中。3年に1度の文化祭は、昨年は中止であったが、今のところ予定しているとのこと。

この様に、生徒が楽しみにしている行事や,部活など、日頃の練習の成果を発揮する機会が失われることは誠に残念なことです。
僅か、3年間という短い高校時代に作る青春の思い出は、生涯忘れえぬ思い出として、心の中で生き続けるものでです。
生徒諸君には中止となった分、それに代わる新たな思い出作りに知恵を出してほしいと念じグランドを後にした。

写真は、体育大会の大縄跳び競争と綱引き

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(2021/09/15)

「多様性を認め共生へ」「感動をありがとう」

TOKYO2020夏季五輪は7月23日開幕し、9月5日パラリンピックの閉幕をもって完結した。
新型コロナウイルスの影響で1年延期となり、賛否両論の中、緊急事態宣言下しかも、原則無観客での開催となった。しかし、パラリンピックでは世界中から161か国・地域、難民選手団の障害のある4403人の史上最多の選手が参加し、22競技、539種目で個性や能力を発揮し、多様性を尊重し合う「共生社会」の意義を発信した。

そして、日本勢は金メダル13個、銀メダル15個,銅メダル23個、計51個。前回リオの計24個の倍以上を獲得し、2004年アテネ五輪に次いで最多の数となった。
この中で、出場した県勢3人、車いすバスケットボール男子の宮島徹也さん、岩井孝義さん、ボッチヤ・チームの藤井友里子さんの全員がメダリストに名を連ねた。快挙である。
これによって、先のオリンピックでメダリストとなった柔道混合団体の向翔一朗さん、スケートボード女子ストリートの中山楓奈さんを含め、5名が県民栄誉賞の栄に浴することになった。

しかし、私はメダルの獲得数が多かったことも大事だが、問題は、標題に掲げたことが重要なのである。
大会が終った直後のある世論調査で、五輪を開催して「よかった」と回答した人の割合が62%に上り、コロナの感染拡大を不安視する意見が多かった開幕前の調査と一変した。との記事をあった。
そして、始まってみれば、多くの国民に「開催してよかった」という感情が芽生えた。
それは自然なことだ。国を代表した人たちが競い合うというのは、団結心を強く抱かせる機会になるし、日本の選手たちが奮闘する姿を見ることで、日本人であることを意識し、誇らしく思った人も多かったのではないか。
国歌が流れ、国旗日の丸が掲揚されると、胸に熱いものを感じるのは、私一人ではないと思う。
特に、開閉会式は、どこか和気あいあいとした雰囲気で私は良かったと思う。
むしろこれはパラリンピックの原点に近い姿だったのではないか。

いづれにしても、パラリンピックは終った。選手も関係者も、国民も、それぞれが競技を楽しみ、生きがいを見つけ、多くのメディアが取り上げ、大会に対する知名度が上がり、競技に関する知識も増えた。
そして、多くの選手の口から発せられた「たくさんの仲間に感謝したい」の言葉や「性別、年齢,障害の重さを問わず、多様な選手が活躍した姿から「障害があっても挑戦できる」という勇気を多くの人々に与えた。
人生で「努力。諦めない。夢。」の大切さを改めて、教えてもらった。

特に、印象に残った言葉を記す。
①IPCパーソンズ会長
閉会式で「皆さんは、自分が誰で、何者かを決められる唯一の存在だ。

②道下美里さん
マラソン女子で金メダルの彼女は、前回のリオでは、銀メダルだったことから、「今回は5年前の忘れ物を取りに行く」と話し「目に見えないことは何も出来ないことだと思った。
しかし、一人で出来ないことは二人で出来た。二人で出来ないことは三人で出来た。可能性は無限である。

③杉浦桂子{50歳}さん
自転車女子ロードレースとロードタイムトライアルの2冠に輝いた彼女は「最年少記録は2度と作れないが、最年長記録は作れる」

とに角、パラリンピックは終った。
しかし、東京大会の理念である「共生社会の実現」は簡単ではない。これからは、選手が競技を離れたところで行っている仕事や、福祉事業といった活動にも今まで以上に目を向ける必要があるし、障害は社会全体で克服すべき課題だという認識を国民ひとり一人が持つことであり、その意識の強弱にあると思う。
コロナ禍と猛暑の中で開かれた五輪とパラリンピックの成否を現時点で判断するのは早計で、時間をかけて検証すべきと思う。

「感動ありがとう」

写真は、9月5日の「閉会式」と「消えゆく聖火」

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(2021/09/07)

平和と戦争と命

終戦から76年を迎えた8月15日、政府や富山県主催の戦没者追悼式がそれぞれ開催された。
日本の総人口の8割超えが戦後生まれとなり、戦争の悲惨さを語れる人が年々減少し、戦禍の悲惨な記憶が遠のいて行っているような気がする。

8月。それは、平和、戦争,、命の尊さ、を考える絶好の機会である。
8月2日史上最大級の富山大空襲は午前0時36分~1時51分まで75分にわたり、米軍爆撃機B29が富山上空に飛来し実に12,888発の焼夷弾を投下した。爆撃平均中心点は富山城址東南の角{かっての時計塔付近}とされた。
これにより市街地の90%以上が灰塵に帰した。罹災所帯2万5千。罹災人口11万人。死者は判明しているだけで2,275人。
実際は3千人を下らないと言われている。富山市街は大和百貨店、海電ビル{現、電気ビル}県庁、昭和会館、興銀富山支店、NHK富山放送局、と残った建物は僅か6か所だけだった。

当日の爆撃地は、富山、長岡、水戸、八王子、川崎石油企業群の5か所であった。
出撃したB29は計858機。内、富山飛来は182機であった。今年の8月13日の北日本新聞の「残す伝える」とやまの戦争遺構欄で「空襲から数日後、氷見市島尾海岸に11体の遺体が漂着した。
これは、空襲の熱さから逃れようと神通川へ飛び込んだものの力尽き、富山湾に流れ出したものであった。中には、胸に赤子をしっかりと抱いた若い母親や、離れぬように手をひもで縛り合った12-13歳くらいの姉と6-7歳くらいの弟の遺体もあったという。

地元の人たちは、遺体を漂着した場所のそばにある松の木の根元にそれぞれ埋葬し、墓標代わりの石を置いて毎年供養した。
その後、地蔵尊が建立され現在まで慰霊祭が行われている。8月12日の慰霊祭では国泰寺{高岡市}の澤大道管長らが読経し、「地元の人たちが守ってきた地蔵尊に今後も平和を願い続けていきたい」澤管長は読経を終え、そっと参列者に語りかけた」。と報じていた。
現在、8月1日花火が打ち上げられている。これは、亡くなった人々への鎮魂,慰霊と戦災からの復興への祈りの花火である。
これは、長岡も同様である。

しかし、米軍の周到さには驚く。7月2度にわたり、B29は富山上空に飛来し、模擬原爆を投下し訓練を行っている。20日軍需工場と思われる「不二越製鋼東岩瀬工場,日本曹達富山工場,日満アルミニウム東岩瀬工場」が標的とされ3発投下された。しかし、命中せず富岸運河左岸に着弾、被害者、死者47名負傷者40名以上。米軍はこの訓練は「うまくいかなかった」として26日再度同じ3工場を攻撃目標とした。
しかし、曇量の影響で、1発が豊田本町に着弾。死者16名、負傷者40名以上の被害がでた。
また、空襲に使用された焼夷弾も改良された。大正12年{1923}9月1日午前11時58分発生した関東大震災である。死者10万人と言われるが、これは地震の被害というよりは、民家は木造建築ゆえ火災での死者がほとんどである。

ここに着目して焼夷弾を木造建築が燃えやすく、かつ面的に広がるように改良したという。
或は、3月10日は日露戦争の奉天会戦の大勝利からこの日を「陸軍記念日」とした。
この日に東京大空襲を行っている。このような例はいくらでもある。
また、戦後、軍人には軍人恩給が支給されるようになったし、村山政権当時、原爆被爆者援護法が制定された。最近では広島での、「黒い雨」裁判でも原告勝訴の判決が出た。しかし、なんの罪もない人々が家を焼かれ、命まで落とした人々には何の補償もない。割り切れない思いもする。いづれにしても、無抵抗の市民を無差別に大量殺りくする戦争は絶対やるべきでない。

万物の霊長である人間の最も愚かな行為が戦争である。
8月6日、広島に原爆投下死者14万人。
8月9日長崎に原爆投下死者7万4千人。
8月9日、ソ連軍日ソ不可侵条約を一方的に破り満洲に侵攻。8月14日御前会議でポッダム宣言受諾を決定。
8月15日正午玉音放送で終戦を告げる。

私から言わせると、終戦と言うよりは、敗戦と言うべきでないか。しかし、打ちひしがれた国民感情に配慮したのか、それとも昭和16年12月8日は開戦としたから、それに対し終戦としたのか。私はわからない。
月18日、ソ連軍千島列島最北端、占守島{シュムシュム島}に上陸、以後千島列島南下、8月21日樺太真岡にソ連軍侵攻、8名の女性電話交換手自決。
8月30日連合軍司令官ダグラス・マッカーサー元帥厚木基地に到着。9月2日米戦艦ミズリー号上で、日本全権・外相重光葵と大本営参謀総長・梅津美治郎が無条件降伏に調印。この為、連合国のほとんどが9月3日を戦勝記念日としている。
8月15日、お盆、先祖との対話の時である。13日は迎え盆。16日は送り盆である。私達は、一人の例外もなく父と母があることによってこの世に生を得た。
その父と母にもそれぞれ両親がいる。それを遡っていけばどうなるか。10世代で1024人。20世代で104万8576人。30世代では10億7374万1824人。40世代遡ると何と1兆95億1162万7776人。
想像を絶する数になる。人類皆兄弟の言葉を思い出す。

しかし、この祖先の命が一回も途切れず今日生きているのが私の命である。
この連鎖がどこかで断ち切れていれば,或は、別の人に代わっていたら私はここに存在しない。
そう思うと、今日自分が存在することは正に奇跡であり、縁としか言いようがない。8月、それは「平和の有難さ」「戦争の悲惨さ」「命の尊さ」を考える絶好の機会である。

最後「記録は一と時の出来事を永遠なものにする事が出来る。記録は世の片隅の出来事を、全体のものにする事が出来る。記録は名もなき人の行為を、人類に結びつけることも出来る。記録のみが、消えゆくものを不死なものにする事が出来る。」との言葉がある。

写真は、8月15日県民会館での県主催、戦没者追悼式。北日本新聞より
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(2021/08/16)

東京オリンピック

賛否両論渦巻く中、7月23日開幕した第32回夏季五輪東京大会は、8月8日17日間の熱戦の幕を閉を下した。史上初の1年延期とコロナ禍で、しかも緊急事態宣言の中、大半の会場が無観客での開催である。
まさに、異例ずくめゆえ、批判と混乱の中での開催である。しかも、開催直前までトラブルの連続であった。

盗作疑惑のエンブレム撤回。大会組織委員会の森会長発言。開閉会式の演出担当者の女性差別的プラン。音楽担当者のいじめ問題。ディレクターの「ユダヤ人大量惨殺ごっこ」など、開幕直前まで不祥事が相次ぎ、加えて大会開催により新型コロナ感染者が更に拡大するのではないかとの不安。果して本当に開催出来るのか。そんな中で開幕した。

翌日のメディアは、盛り上がらない、単調な開会式と報じた。しかし、私から言わせるとこれが、もし逆であって、大いに盛り上がった開会式であったら、おそらくメディアはコロナ禍の中、お祭り騒ぎとは、と批判したと思う。
どちらに転んでもメディアはそんなもんである。私は、現下の情勢を考えると、開会式は日本らしく良かったと思う。
そして、世界から、200を超える国・地域から1万1千人の選手の参加を得て17日間の熱戦が始まった。どの新聞も一面は日本人の活躍を含め、五輪関係の内容であった。テレビニュースも最初の報道は五輪であった。コロナはその次である。

コロナが吹き飛んだとまでは言わないが、開幕前の批判の声は何処にいったのか、と思う位五輪一色である。
テレビにしても、朝から晩まで、どのチャンネルを回しても五輪番組である。県勢は8競技14人が出場した。開会式では、八村選手が旗手を務めた。これは、2004年アテネ五輪で日本選手団総監督、2008年北京五輪で日本選手団団長を務めた福田富昭氏{滑川市出身}以来の快挙である。そして、競技結果は、柔道混合団体で向選手が銀、スケートボート女子ストリートで中山選手が銅メダルに輝いた。

日本は、連日のメダルラッシュで金27、銀14、銅17、計58個のメダルを獲得した。金では、米国、中国に次いでの数である。
確かに追加種目の「純増」も日本が希望して入れた、野球、ソフトボール、空手、スケートボードでメダルを上積みしたことも大きかったと思うが率直にこの結果に拍手を贈りたい。今後この記録は中々破られないと思う。
また、リオ五輪でもそうであったが入賞した選手はインタビューで異口同音に、親へ、監督へ、コーチへ、関係者へ、そして声援を送った人々への感謝の言葉。「忘己利他」つまり他者への思いやり。これこそが日本人の特筆すべき点である。
参加した全員が、いや、全世界の人々がこの様な心を持てば戦争も起こらないと思うし、是非とも教育の場でこのようなことを教えてもらいたいものである。

とに角、開催まで紆余曲折はあったが、逆境を乗り越えた選手たちの雄姿は人々の心を揺さぶった。勝者の涙、敗者の涙、そこに繰り広げられた数々のシーンから、多くの感動と勇気をもらった。
特に、日本人が1位の表彰台での、国歌君が代の演奏、国旗日の丸の掲揚の時には、日頃国歌、国旗に無関心の人でも、胸が熱くなったと思う。これがスポーツの持つ力であろう。
また、大会終了後の世論調査では、五輪開催を「よかった」「どちらかといえばよかった」が61%、「すべきでなかった」「どちらかといえばすべきでなかつた」が38%である。

私は、無観客は残念であったが、やって良かったの一人である。
とに角夏季大会は終った。終った途端に新聞では「祭りの後、問題山積」赤字は誰が負担するか、などの活字が踊る。
しかし、夏季大会とパラリンピックは表裏一体のもので、評価、総括はパラリンピック終了後、行うべきものである。ましてや、赤字は誰が負担するかなどは、1年延期になったことでの経費やコロナ対策としての費用など、まだわからぬ中でこの見出しである。
いずれにしても、長野五輪の時のように、会計帳簿が破棄されることのないように、きっちりとした検証、総括は必要である。また、24日からパラリンピックが始まる。県勢は3人出場するがご健闘をお祈りしたいと思います。

そして、誰も経験したことがない環境の中での開催だが、夏季大会での教訓をパラリンピックに生かすべきであろう。
さて、五輪が終わるとともに、全国高校野球選手権、夏の甲子園大会が人数制限があるものの2年ぶりに開幕した。私は、高校野球と五輪はどこか共通点があるように思う。
勝者と敗者の涙.高校野球では、勝者の栄誉を讃え校歌が流れ、五輪では国歌の演奏と国旗の掲揚がある。何と言ってもアスリートのひたむきな姿勢から伝わる感動である。
それが、スポーツの持つ魅力であり不思議な力である。

いずれにしても、パラリンピック成功の為にも、新型コロナ対策にしても政府は、もっと明確な発信が必要であり、国民も緊急事態宣言が出されていても、都内では、繁華街や主要な駅の人の流れは大きく減っていない現状を良く認識し、危機感を共用すべきだと思う。

尚、滑川市博物館{滑川市開676。電話076-474-9200}で滑川スポーツ史なめりかわ・スポーツの輝き、と題し、滑川市民のオリンピック出場や滑川高校の甲子園出場記録・大相撲立浪部屋を作り、横綱・双葉山や羽黒山を育てた横道出身・緑島友之助の企画展が7月22日~9月5日まで開催されています。入場無料。

写真は、企画展のポスター
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(2021/08/11)

新湊内川周辺ツアー

たたまれて いても涼しき 日傘かな  福井三治

天いつぱい青空が広がる中、30度を超す真夏日、射水市新湊の内川周辺と遊覧船のツアーに友人4人と参加した。
このツアーは新型コロナで県外旅行が出来ない県民をターゲットに企画されたもので、「県民割引キャンペーン・地元で遊ぼう県内周遊日帰りツアー」と銘打ち、今回の企画は、自己負担金7千円、県・助成金5千円、富山おみやげクーポン券2千円付である。
この制度を活用し、地元の女性3人がユニットを組み、ツアーズ・ジャパン射水オフィスが企画した。

1人はそろばん塾「木谷総合学園」副学園長・木谷泰子さんと貸衣装店「おきがえ処・内川KIPPO」のオーナー川口貴巳さんと旅行業「紅コーポレーション」代表・紅粉広恵さんである。紅粉さんとは旧知の中で、友人と共に参加した。この紅粉さんがユニット「美心{びじん}三姉妹」として参加者をもてなすものである。今回は我々5人だけのツアーであった。

我々は車で新湊へ向かい、11時30分民宿施設、内川の家「奈呉」で昼食である。
この建物は、かって廻船問屋として栄え、築100年以上の古民家で、以前新湊市長を務めた渡辺氏の邸宅を改装したものである。宿泊ルームとコミュニティレンタルスペースがあり、昼食はレンタルスペースで、フランス料理であった。シェフはホテル新湊第一インから派遣され、食材は氷見牛など、地元産をふんだんに使い、古民家、日本庭園、フランス料理、違和感もなく大変美味しかった。

昼食後、電気自動三輪車「べいぐるん」で市内の観光スポットを車から眺め、最初に訪れたのは、木谷さんが経営する「我楽堂」内川店である。
木谷さんの説明で店内を案内して頂いた。建物に入って直ぐに眼に飛び込んだのは、清水寺・森清範貫主揮毫の縦書きの「そろばん資料館」の額である。館内には清水寺で貫主との記念写真や礼状を額入りに表装したものなど展示してあり、貫主との縁についての説明を聞き、不思議な思いにとらわれた。
しかも、私は、木谷さんとは初対面であったが、木谷さんは私を知っているとのことで驚いた。

それにしても、木谷さんの一代記を聞きながら、書や絵画に親しみ、自らアコーディオンを演奏して我々と合唱するなど、多彩な趣味の持ち主であることと旺盛なる好奇心には感心した。これが若さを保つ秘訣かと思う。

1階は主にコレクションでしたが、2階は資料館であった。江戸時代の測量家、石黒信由と伊能忠敬やそろばんの歴史。また乃木希典や東郷平八郎の扁額など興味深い品々が多数展示してあった。
特に、木谷さんの口から度々両親と祖父母への感謝と恩の言葉が発せられたのが印象的だった。帰り際にご本人の著書・「喪{うしな}われていく「母」の物語」を頂いた。

次いで、貸衣装店「おきがえ処・内川KIPPO」で抹茶を頂きながら小休憩。休憩中に若い女性が二人来て、涼しそうな浴衣に着替えて颯爽と街へ出かけて行った。1日のレンタル料金は着付け代含め2千円とのこと。

次いで、川の駅新湊から観光船に乗船。富山湾とつながる内川の両岸には漁船が係留され、ほとりには風情ある民家が軒を連ねていた。
内川は川の流れが判らないくらい穏やかで それ故、ほとんど船の揺れを感じなかった。しかし、富山湾に出たとたん波は高く、アップ・ダウンが激しかった。それも海王丸パークのある新港内に入ると、波は穏やかであった。

約50分程のクルージングであった。午後の僅かな時間で新湊全部どころか、内川全体も見ることは出来ない。もう一度機会を作り行きたいと思う。それにしても、元気な「美心三姉妹」の町おこしに寄せる情熱にはエールを送りたい。この様な方々がもう少し増えたなら、街は、もっともっと活性化していくと思う。やはり町つくりは一人では出来ない。住民一人一人がこの街を良くしよう、との思いが一つになって始めて良くなるだろう。

改めて町つくりについて、考える機会になった。木谷さんには休館中にもかかわらず開館して頂いたり、勇気、元気を与えて頂いたり感謝申し上げたい。

詳細は、ツアーズジャパン射水オフィス。電話0766-75-4268。
写真は、「奈呉」パンフレットより、「べいぐるん」と「遊覧船から新湊大橋と左、紅粉さん」

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(2021/07/19)
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