なかや一博 ブログ

年別アーカイブ: 2015年

加積雪嶋神社祭礼・獅子舞に参加して

今年は加島町二区が担当で獅子舞が奉納されました。私も、幼稚園から小学6年生までは踊り子として、社会人になってからは、獅子の中に入ったり、口上役として今日までほとんど参加しています。しかし、今年はもう年だし、お断りしましたが、是非との依頼で交通安全の誘導でもお役にたてればと参加しました。参加者は幼稚園児3名、田中小学校生15名の合計18名、加えて保護者や町内会関係者約30人が集まりました。

それにしても、朝、7時30分に町内会館前を出発し、午後8時30分に戻って来ました。
休憩があるとは言え、13時間に及ぶ徒歩での行進であり、子供達にとっては、しんどい一日だったと思います。しかし皆、疲れも見せず上手に踊っていました。子供達にとって良き思い出になったことでしょう。
ここで、滑川の獅子舞について、滑川市教育委員会が平成7年3月発行した滑川の民俗より抜粋して少し記したいと思います。

加島町の獅子舞の起源は明らかでないが、古老の話では、明治年間に能登通いの帆前船によって伝えられたという。獅子舞は胴幕に4人入るいわゆる百足獅子である。
獅子頭を高く掲げて持つ構え方は、高岡市牧野方面の獅子に似ている。射水系の流れを汲むと思われる。獅子は加島町2区、3区で各一頭有している。現在は、毎年交代で加積雪嶋神社祭礼に舞を奉納しているが、昭和20年代後半までは、二頭揃って奉納していた。2区は女〈雌〉獅子で優雅な舞を、3区は男{雄}獅子で勇壮な舞を披露する。獅子舞は5月21日「宵宮」に加積雪嶋神社の春季祭礼に披露される。
両町とも祭礼当日、まず加積雪嶋神社へ獅子舞を奉納し祓いをうける。この時は、ノッタ・ノッタ{2区だけは、この前に前踊りをする}の演目で着飾った幼児二名獅子の胴幕に乗せ、笛、太鼓に囃されて入場する。神社への入退場はノッタ・ノッタ・の演目で行う。

奉納が済むと町回りをする。特に、出演者や世話人などの家や祝い事のあった家では(花を打つ){金一封を出す}ことが慣例となっている。その際、口上が行われる。
町内一巡後、途中、河南神社で休憩後、神明町櫟原神社へ向かう。神社への入退場はすべてノッタ・ノッタ・の演目で行われる。両町とも獅子舞の一行は櫟原神社に渡御されている神輿の先触れをしながら帰ってくる。神社入り口からノッタ・ノッタ・の演目で獅子頭を先頭に幼児を胴幕の上に乗せて来る。歓声とともに拝殿へ飛び込んで鈴を鳴らす。これを(拝殿駆け上がり)と称している。拝殿前でもう一度全演目を披露し、最後はノッタ・ノッタ・の演目で退場となる。フィナーレを飾るにふさわしい幕切れである。
加島町二区で現在使われている獅子頭は井波町彫刻家で日展審査員の横山一夢が昭和25年製作したものである。両町の獅子舞の特色は、十種類以上の演目があり、演目ごとに踊り子が入れ替わり出て踊る。演目名や舞の順序、持ち物などには両町間に多少の違いがあるものの舞には共通点が多い。演目名はおよそ使用する道具の名前から名付けられている。3区の男獅子は軽快なリズムで、音色も高く男性的で、2区の女獅子はそれに比べて音色も低く、優雅な踊りと言われている。

以上が加島町に伝わる獅子舞の概要です。
その他滑川市に伝わる2町内の獅子舞についても少し触れておきます。

【蓑輪の獅子舞】
蓑輪の獅子舞は、村に入婿した利賀村百瀬出身者が伝えたという。今も利賀村の獅子舞の演目と類似したものが残されている。芸態や舞の構成からみても、加島町の獅子舞とは全く趣を異にしている。「注・筆者記す」昭和30年頃より途絶えている

【寺家町の獅子舞】
寺家八坂神社には、獅子頭雄雌二頭と胴幕や道具の一部が残されている。由来については詳らかではない。胴幕には持ち手の穴が三カ所開けられており、三人以上入る百足獅子であろうと推測される。この頭は幕末から(富山の獅子頭)を多く手掛けた田村一族によるもので、雄獅子には{明治37年富山市橋北今町、田村豊次郎製造}の銘が入っている。
雌獅子には{富山市神通町三丁目、獅子頭製造元祖田村六馬自造}の銘がある。これらのことから、寺家町の獅子舞はおそらく明治年間には行われていたのではないかと推定される。

CIMG3182
(加島町2区の獅子頭 横山一夢作)

CIMG3181
(獅子舞ノッタノッタ 雪嶋神社前にて)



奈良~東京滑川会総会

5月14日(木)春日大社の第60次式年造替記念として、20年に一度国宝御本殿の特別公開と御本殿(磐座)の初公開を見ました。その後、東大寺大仏殿、興福寺国宝館などを見学し充実した二日間でした。

CIMG3167
(奈良 春日大社にて)

CIMG3169
(奈良 東大寺大仏殿前にて)

5月16日(土)東京滑川会(会長・上田芳夫氏)総会・懇親会が大手町サンケイプラザ3Fで盛会に開催されました。私は滑川高校同窓会長として、澤井校長共々主席しました。
滑川市名誉市民であり、日本レスリング協会長・福田富昭氏や関西滑川会長・畑岸隆一氏関東滑川高校同窓会長。小幡哲夫氏を始め、100名を越す方々の参加で賑やかな会でありました ふるさとは遠くにありて思うもの との言葉がありますが、会員の皆様にはふるさとは、いつも心の拠り所として存在していることを改めて感じました。

願わくは、滑川市民の皆様も、自分自身のふるさと滑川へ一層の思いを寄せて頂きたいものと思いました。



京都清水寺を訪ねて

5月13日(水)久し振りに、清水寺森清範貫主を訪問しました。目的は清水寺「平成縁起絵巻」が10年の歳月をかけ、この度めでたく完成し、特別公開されているのを知ったからです。
実は、清水寺には室町時代に描かれた「清水寺縁起絵巻」全三巻がありましたが、明治維新後の神仏分離令や廃仏毀釈の嵐の中、寺より流失してしまいました。
だが、幸いにも現在東京国立博物館に、国重要文化財として収蔵されています。しかし、当然のことながら室町時代以前の事柄で終っております。
そこで、平成の今日に至る清水寺1200年の歴史を描く絵巻物との森貫主の情熱が10年の歳月をかけ、全長65メートル、全9巻の絵巻物として完成したものです。筆は、京都嵯峨芸術大学名誉教授、箱崎睦昌画伯によるものです。

3時30分頃清水寺に入り、森貫主と応接室で30分程懇談。特別公開は、清水寺成就院で開催され、5月13日が最終日。午後4時で終了でしたが、清水寺学芸員、坂井輝久氏のご案内で箱崎画伯まで一諸に約1時間解説して頂だき大変恐縮しました。
画伯によれば、最も苦慮したのは長期保存に耐えうる基底材と表現技法とのことでした。当然和紙の選択も考えましたが、手織りの絹と裏彩色技法を選択したとのことでした。色々と苦労話をお聞きしましたが、素人の私には理解出来ない点も多々ありました。
それにしても、1巻約8メートル、全9巻がそれぞれガラスケースに収められ、正に壮観そのものでした。森貫主によれば、全巻一同に公開するのは、当分ないとのことでした。

それ故、貴重なものを見せて頂いたことに感激で一杯でした。

また、森貫主いわく、「中屋さんは最終日の最後の見学者、これも何かのご縁ですね」との言葉にまた恐縮した次第です。清水寺は、1200年の歴史の中で応仁の乱を始めとし度々火災に見舞われています。特に寛永6年「1629」成就院から出火、堂塔、伽藍のほとんどが焼失しました。
しかし、本尊は駆け付けた僧二人が戸帳に包んで運び、脇侍の地蔵菩薩と毘沙門天も抱いて出され、さらに長谷川久蔵筆の大絵馬も猛炎の中から搬出されました。その僅か4年後の寛永10年(1633)徳川家光公の再建発願により復興がなり、本尊の遷座が行われた。

その後、成就院等も含め徐々に再建され現在の姿になりました。そして昭和27年(1952)本堂が国宝、西門、鐘楼、馬駐が重要文化財に指定されています。また、平成6年(1994)世界文化遺産に登録された。これも、清水寺中興の祖と言われる大西良慶和上と、その弟子である現貫主・森清範師お二人のご尽力に負うところ大なるものがあると思います。
特に、今年は大きな行事が目白押しです。
①大西良慶和上が大正4年開講された暁天法話「8月1日~5日」が100回を迎える。
②大西良慶和上が昭和58年(1983)涅槃の日に数え109歳で示寂されてから33回忌を迎える。
②北法相宗として立宗。昭和40年(1965)から50年を迎える。
④清水寺「清水」誌発刊200号を迎える。
⑤清水寺1200年歴史絵巻物完成。などがある。

実は、今年が滑川市でご講演頂いて記念すべき20回目の節目の年です。私は勝手に清水寺6大行事と言っていますが、6月7日(日)午後3時30分滑川市民大ホールで『施しのこころ』と題し市民文化講演会が開催されます。
特に20回記念として市民から募集した漢字一文字をご講演の前にお書き頂くことになっています。
また、毎年12月12日お書きになる、今年の漢字一文字を平成7年の『震』から平成16年の『税』まで、一同に展示されます。6月9日(火)~14日(日)まで滑川市立博物館でも同様展示されます。
最後に森貫主さんが、「中屋さん、重大決意をする時、いつでも清水の舞台をお貸ししますからお使い下さい」とのユーモア溢れる言葉でお別れし清水寺をあとにしました。

この日は、東山にある坂本竜馬と中岡慎太郎のお墓をお参りし、霊山歴史館(幕末、維新ミュージアム)で開催中の企画展「松陰をめぐる人びと」を見ました。。
また、京都国立博物館で(桃山時代・狩野派・永徳の後継者たち)を見て国宝の襖絵や屏風の大作の数々には圧倒されました。やはり、京都でなければ見れない物ばかりでした。

CIMG3158
(清水寺 森清範貫主と清水寺迎賓館にて)

CIMG3153
(霊山歴史館坂本竜馬像前にて)



富山県民生涯学習カレッジ高岡地区センターにて

4月22日(水)富山県民生涯学習カレッジ高岡地区センター「JR高岡駅前・ウイング・ウイング高岡」7Fで平成27年度前期・通年講座が始まりました。
目的は『ふるさ富山で実践されている研究や活動に理解を深め、郷土の魅力を再認識するとともに、こころを豊かにする文化的な生活を考える』とあります。

内容は人間探求コース①ふるさとの知と技、②ふるさとの歴史と文化。教養講座として
a自然に親しむ、b健やかにくらす、などがあり、それぞれ8月まで前期5回開催されます。私は①の分野で第1回目として「とやまのくすり配置薬業300年の歴史と未来に向かって」と題し話しをさせて頂きました。
それにしても、その他共学講座や教養講座・自遊塾など実に多彩な内容です。正直私もこれ程充実した内容で県民生涯学習カレッジが開催されているとは知りませんでした。汗顔の至りです。

さて、幕末の儒学者佐藤一斉の言葉に「少にして学べば、壮にして為す 壮にして学べば、老にして衰えず 老にして学べば、死して朽ちず」とあります。
正に生涯学習とはこのことでしょう。広辞苑によれば、教育とは、教え育てる。学習とは経験によって新しい知識、技能 態度 行動 傾向認知用式などを習得する。とあります。
福沢諭吉の「学問のすすめ」も同様です。彼のふるさと大分県中津の子供たちの為に書いたこの本を開くと「天は人の上に人を造らず 人の下に人を造らず 人間皆平等である」有名なこの言葉で始まる[学問のすすめ」。しかし、世の中どうであろうか?貧富の差はあるし社会の中でもさまざまな格差が歴然とあります。

なぜか 結論は勉強や努力する者としない者とは格差がつく。当たり前のことであると私は理解しています。だから本のタイトルが「学問のすすめ」です。やはり人間一生学習すべきと改めて思いました。
ところで、実に10数年ぶりにJR高岡駅に降り立ちました。駅舎も一新、万葉線も駅に乗り入れ駅前の風景も様変わりしていました。ウイング、ウイング高岡もそうであろう。1Fがリトルウイングとして市民の憩いの場。2F・3Fは市立図書館、4Fホール、5F研修会場、6F男女共同参画室、7F県生涯学習高岡地区センター及び県立志貴野高校校長室など、その上が高校の教室等であります。正に複合施設の典型的な好例であろう。

それにしても、受講者の皆さんの真剣な眼差しには感心しました。
終わりに、10数年前と変わらなかったのは、大伴家持像とかたかごの花をつむ乙女の像でありました。
 『もののふの、八十をとめらが、つみまがふ
               寺井の上の かたかご花』

◆富山県民生涯学習カレッジ高岡地区センターにて
CIMG3127CIMG3130



とやまのくすり講座と北陸新幹線開業

3月12日(木)滑川高校で『とやまのくすり』がテーマの講座を担当しました。これは昨年12月の富山北部高校に次いでのものです。
当日は、薬業科1年生40名、2年生40名合計80名が対象でした。内容は、売薬の歴史を含め、くすりのとやま全般に亘るものです。

配置薬業の起源、先用後利の精神、配置薬業が明治維新後の富山県の近代化に果たした大きな足跡、配置薬業に従事する為に必要な資格、仕事を通じての喜び、医薬品の種類や富山県内の医薬品の生産額が全国第3位であること等を話しましたが、1時間の中ではなかなか語り尽くせる筈もありません。
薬業科の卒業生の約8割が医薬品関連に就職するとのことですので、是非とも配置薬業に1人でも従事してもらいたく、配置薬業の良さを大いにPRしてきたつもりです。
また、『とやまのくすり』と言えば何を思うか?との私の質問に対し、エボラ出血熱の治療薬、アビガン錠は県内で製造されていると答えた生徒がいたのには驚きましたし、嬉かったです。
ただ 北部高校同様、配置薬業を知っている者は80名中数名しかいなかったのは少し残念でした。と同時にもう少し県内での配置薬業のPRが必要と思います。

しかし、先生の話によれば新年度から在学中に登録販売者の資格取得に挑戦させようとのことでした。とても良いことです。ライセンスは若い時ほど取得しやすいものです。

また、2月5日、堀川中学校1年生約50名の皆さんにも話をさせていただきましたが、その後全員から感想文が送られて来たのにはやはり驚きましたが、日本もまだまだ捨てたものではありませんね。むしろ、この子達から私が元気・勇気を頂きました。

3月14日(土)待望の北陸新幹線がついに金沢まで開業しました。
これを記念して、『北陸新幹線富山県内しゅん功開業式・祝賀会』と併せて、『あいの風とやま鉄道開業祝賀会』が富山市内のホテルで行われました。
当日は約千人の多数が出席し盛大に開催されました。来賓には大田昭宏国土交通大臣を始め綿貫民輔元衆議院議長、中沖豊元知事など今日まで建設に多大な尽力をされた、政・財・官など各界、各層からの出席でした。私も微力であったが、議員として20年、首長として8年、計28年建設促進運動に関わった1人として招かれたものと思います。

さて、開業後3日間の利用実績がJR西日本とJR東日本から発表されました。
それによると、富山駅からの乗車人数1日平均4700人・新高岡駅1600人・黒部宇奈月温泉駅700人、3駅合計7000人だった。金沢駅は9800人、終着駅が1番賑わうとの予想道りの結果になりました。
しかし、JR西の真鍋社長は18日の記者会見で、大変好調なスタートと評価したうえで一過性に終わらせず定着するよう取り組む姿勢を強調。と新聞が報じましたが当然のことと思います。
ただ、懸念材料もあります。私の知人が開業日の14日京都から来宅しました。京都から金沢間はサンダーバード。金沢駅から新幹線「つるぎ」で富山へ。しかし、開業日でありながら自由席4両のうち、1両が知人1人で、まさに貸切り同様であったといいます。

私も、17日所用で金沢へ行きました。
富山駅―金沢駅は高速バスで運賃930円。所用時間約1時間。しかも、金沢駅から香林坊経由兼六園下まで行っても930円です。
あいの風とやま鉄道は、運賃1220円。所用時間約1時間。
片や、新幹線は、運賃970円。自由席特急券1840円。計2810円。これが指定席となると運賃970円。指定席2360円。計3330円。所用時間約23分。
確かに速い。しかし、料金でこれだけ差があるのだから、今後は目的、時間的なことを考えて、この3つの交通手段を上手に選択しなければならないと思います。

また、あいの風とやま鉄道にしても、朝、普通列車が混雑して乗客を乗せ切れなかった
問題が発生しました。これは、JRが運行していた13日以前は4両だった編成を2両に縮小したことが原因といいます。結果論だが4両を2両の半分にすれば、朝夕のラッシュ時にはこのようなことが起きると当然予想されたと思うが・・・・
取りあえず予備車を投入し混雑解消がはかられたが4月は高校の新入生が増えるし、この対策が急務でしょう。

また、富山空港の存続も大きな課題です。今のところ、機体が小さい機種に一部変更されたものの一日6便は維持され、新幹線開業前と比較してもあまり影響はなかったとのことで一応ホッとしています。しかし、かつて仙台―羽田。新潟―羽田便など新幹線開業後いずれも減便そして廃止となりました。航空会社は赤字が続けばいとも簡単に撤退するのが現実です。新幹線と、どうバランスをとるか、これも課題でしょう。
いずれにしても、新幹線開業を機にそのメリットを、それぞれの地域が観光に或いは企業誘致などに、どう生かしていくか、そして、どう地域を活性化してゆくか。

地方創生が叫ばれる時代 自治体、観光協会、商工会議所など正に智慧の出しどころです。それによって自治体間に格差が生まれます。それが地方自治というものであると思います。
そして、北陸新幹線の最終目的地は大阪であることを忘れてはなりません。

IMG_9860
【3月12日 滑川高校にて】

IMG_9865
【3月14日 しゅん功開業式・祝賀会】

IMG_9871
【3月14日 永原功北陸経済連合会会長と吉田忠裕YKK会長】