なかや一博 ブログ

月別アーカイブ: 2016年7月

霊山歴史館を訪ねて

7月10日。訪ねた霊山歴史館は、別称、幕末維新ミュージアムといわれ昭和45年に開館したわが国初の幕末維新の総合博物館です。隣接地には、わが国最初の護国神社である霊前護国神社があり、その敷地内には、坂本竜馬や中岡慎太郎或いは木戸孝允など多くの志士達の墓碑があります。

さて、今回の企画展は「幕末維新の群像」がテーマで見どころは新撰組副長、土方歳三愛用の刀と京都見回り組、今井信朗の脇差しが特別展示してありました。
また、常設展示として、いまだに暗殺の下手人をめぐり様々な説がある坂本竜馬暗殺に使用されたといわれる脇差しも展示してあります。この脇差しは京都見回り組、桂、早之助「鳥羽、伏見の戦いで戦死」所有のもので霊前歴史館では竜馬暗殺は桂早之助と断定していると思われます。。

それにしても、竜馬と中岡慎太郎が暗殺された「近江屋」を始めとして「池田屋」「伏見、寺田屋」など、幕末、京を舞台に血で血を洗う殺戮を繰り返した彼らは、ある意味歴史の荒波に翻弄された人々だったのだろうと思います。また、志士と呼ばれた人たちの年齢をみると実に若い。

明治元年{1868}で勝海舟46歳、岩倉具視44歳、西郷隆盛42歳、松平春嶽41歳、大久保利通39歳、木戸孝允36歳、松平容保34歳、井上馨33歳、徳川慶喜32歳、板垣退助32歳、後藤象二郎31歳、山県有朋31歳、伊藤博文28歳、陸奥宗光25歳、西園寺公望20歳、志半ばで亡くなった坂本竜馬33歳、中岡慎太郎30歳、吉田松陰30歳、高杉晋作29歳、橋本左内26歳、久坂玄端25歳、(注、満年齢と数え年齢でズレ有り)

殆ど20代、30代です。いつの時代でも純粋な青年たちの英知と勇気と情熱によって新しい世が切り拓かれたのであろう。司馬遼太郎記念館に引き続き訪れた施設であった故、歴史について考える良い機会でした。

参考まで 霊山歴史館は、京都市東山区清閑寺霊山町1.TEL-075-531-3773
次いで、京都国立博物館で開催中の、徳川将軍家と京都の寺社―知恩院を中心にーを見学し充実した一日でした。

DSCF2831
<幕末維新の群像>

DSCF2832
<徳川将軍家と京都の寺社知恩院を中心に>



関西滑川会総会に出席して

7月9日。第49回関西滑川会総会及び懇親会が大阪市のホテル大阪ベイタワーで会員、関係者43名出席のもと盛会に開催されました。

私は、東京滑川会同様、滑川高校同窓会長としてお招きを頂き出席しました。
ご存知のように、高校再編により滑川市内では、唯一校の高校となり、会員の皆様にとっては、故郷同様心の拠り所となっています。

今回、余興として会員の皆様による「恋するフォーチュンクッキー」の踊りや、石田千治氷見同郷会長による歌謡ショー、輪投げや射的など、懐かしい夜店の遊びなどで大いに盛り上がりました。最後に、万歳を三唱し「ふるさと」を合唱し散会しました。

それにしても、いつも思うことですが、ふるさとを離れていても、常にふるさと滑川を気に留め、滑川の発展を願っておられる人々がいることは、本当に有りがたいことだと思います。

CIMG3497
<総会にてあいさつ>

CIMG3503
<懇親会の余興>



司馬遼太郎記念館を訪ねて

7月8日。国民作家と言われ、老若男女を問わず多くの日本人読者に愛された司馬遼太郎。
私も、そのフアンの一人としていつか記念館を訪ねてみたい。そんな思いが実現しました。
氏が亡くなったのは1996年2月12日。その5年後、2001年11月自宅敷地内に建設されました。

さて、私が司馬作品に最初に出会ったのは、やはり、「竜馬がゆく」です。もう50年も前のことです。以来、多くの作品を乱読したが、どの本も読んでゆくと、血沸き、肉躍り、本から手を離せない状態で、ずつと本を読ませる。そんな印象です。
そして、坂本竜馬を始め、「峠」の河井継之助、「花神」の大村益次郎。「坂の上の雲」の秋山好古、真之兄弟など、多くの歴史上の人物が司馬作品によって現代に蘇ったといつても過言でないと思います。
私は、司馬作品に論評を加える程の資格も素養もないが、印象に残った幾つかを述べてみたいと思います。司馬さんが亡くなったのは前述した1996年2月12日。月1回寄稿しておられた産経新聞に、風塵抄―「日本の明日をつくるために」と題し次の文が掲載されていました。{この日の産経新聞を私は保存しています}

要約すると、氏が現在地の東大阪へ引っ越ししてきたのが昭和39年。当時自宅周辺の畑は1本5円程の青ネギ畑で、この土地を宅地に転用されれば坪8万円になる。ところが、青ネギが成長するころには、坪数十万円になっていた。そして、銀座の「三愛」付近の地価は、昭和40年、坪450万円だったものがわずか22年後の昭和62年には、Ⅰ億5千萬園に高騰していた。

坪1億5千萬園の土地を買って、食堂をやろうが、何をしようが、経済的にひきあうはずがないのである。とりあえず買う。1年も所有すればまたあがり、売る。こんなものが資本主義であろうはずがない。資本主義はモノを作って、拡大再生産のために原価より多少利をつけて売るのが、大原則である。その大原則のもとでいわば資本主義はその大原則をまもってつねに筋肉質でなければならず、でなければ亡ぶか、単に水ぶくれになってしまう。さらに人の心を荒廃させてしまう。こういう予兆があって、やがてバブルの時代が来た。しかし、どの政党も、この奔馬に対して行手で大手をひろげて立ちはだかろうとはしなかった。{中略}しかし、だれもが、いかがわしさとうしろめたさを感じていたに相違ない。そのうしろめたさとは、未熟ながらも倫理観といっていい。日本国の国土は、国民が拠って立ってきた地面なのである。

その地面を投機の対象にして物狂いするなどは、経済であるよりも倫理の課題であるに相違ない。「日本国の地面は、精神の上に於いて、公有という感情の上に立つものだ」という倫理書が、書物としてこの間、だれによってでも書かれなかったことである。{中略}住専の問題がおこっている。日本国にもはやあすがないようなこの事態に、せめて公的資金でそれを始末するのは当然のことである。
その始末の痛みを感じて、土地を無用にさわることがいかに悪であったのかを―――思想書を持たぬままながら国民の一人一人が感じねばならない。でなければ、日本国に明日はない。

これが、20年前に書かれた文です。政治家、経済人、今一度この言葉を噛みしめるべきでないでしょうか。
次に、小学6年生の教科書向けに書き下し、「自己の確立」を説いた「21世紀に生きる君たちへ」{1989年}です。
この中で、司馬さんは、歴史とはなんでしょう、と聞かれるとき、「それは、大きな世界です。かって存在した何億という人生がそこにつめこまれている世界なのです」と答えることにしている。私には、幸い、この世にたくさんのすばらしい友人がいる。歴史の中にもいる。そこには、この世では求めがたいほどにすばらしい人たちがいて、私の日常を、はげましたり、なぐさめたり、してくれているのです。

だから私は少なくとも二千年以上の時間の中を、生きているようなものだと思っている。
又、自分にきびしく、相手にやさしく、いたわり、それを訓練せよ、それらを訓練することで、自己が確立されていくのである。そして、たのもしい君たちになっていくのである。

{抜粋}司馬さんは21世紀を待たずに72歳で亡くなった。国民作家が子供たちに未来を託した作品は世代を超えて読み継がれて、今なお力強いメッセージを放っている。
お薦めしたい1冊です。

次に、司馬作品には天皇を政治史的に扱った作品がないように思います。何故か,私にもわかりません。司馬遼太郎全講演①の中に1972年11月21日京都国立国際会館で日本ペンクラブ主催の日本文化研究国際会議での講演が主題、日本の明治維新前後における朝鮮、日本、中国という三国の元首の呼称について。として講演し、その中で天皇について文化史的に朝鮮では王、中国では皇帝、そして、日本の天皇について述べている程度です。いずれにしても、記念館は、Ⅰ階のフロアーは高さ11メートルの壁面いっぱいに書棚が取り付けられ、資料、自書、翻訳など2万冊もの蔵書がイメージ展示してあります。

また、自宅の玄関、廊下、書斎、書庫などの書棚に約6万冊の蔵書があるという。正に、
図書館である。この多くの資料の中から、珠玉の一滴一滴を丹念に取り出し、光輝き、躍動する文章にしてゆく。それが、司馬作品なのかもしれません。
そして、25年間続いた「街道をゆくシリーズ」も43濃尾参州記2009年5月30日新装版第1刷発行が絶筆となった。これを執筆するに当たり、書斎の机の上には名古屋や尾張などに関する書籍が30冊以上積み上げられていたという。
中庭から眺めた司馬さんのサンルーム、その奥の書斎。2時間余りの滞在であったがアッという間に過ぎ去ったような気がしました。

CIMG3488
<司馬遼太郎記念館前にて>

CIMG3491
<中庭から見る司馬遼太郎サンルームと書斎>