なかや一博 ブログ

月別アーカイブ: 2017年3月

滑川高校薬業科特別講演

3月13日{月}午前9時50分~10時40分まで薬業科生徒1年生と2年生生徒を対象に「富山のくすり」と題し講演しました。
これは1月25日北部高校に次いでのものです。私自身滑川高校出身であり、同窓会長も務めている者として、つい力がはいりました。本題に入る前に、WBC,侍ジャパン、ワールドベースボール、クラシックで活躍中のロッテ球団石川歩投手の話をした時、生徒諸君の瞳が輝いていました。彼は、本校出身者であり様々な分野で同窓生が活躍している報に接すると誰もが嬉しく思うし、誇りにも思います。それが、母校の存在であると思います。

さて、本題に入り「富山のくすり」取り分け家庭約配置販売業を中心に話しました。
元禄3年{1690}江戸城大広間{帝鑑の間}に控えていた、第2代富山藩主前田正甫公は居合わせた三春藩主秋田河内守輝季公の突然の腹痛に出くわし、懐中の薬聾から丸薬[反魂丹]を取り出し服ませたところたちどころに平癒し、それを目の当たりにした諸国大名が、その妙薬の霊験あらたかなる効用に目をみはり、各藩の領内で置き薬が始まったと言う「江戸城腹痛事件」の一説から話し、その商法が、用を先に、利を後にするという「先用後利」つまり、預けた薬のうち、使用した分の代金だけを後から請求する画期的な商法を説明しました。

当時、医療が普及していない時代にあって、いつ、どんな病気にかかり、どんな薬を使用することになるかわからない状況の中で、数種類もの薬を購入、備蓄することは、当時の多くの民衆に経済的に不可能な話。
そうした中で、先用後利の売薬商法は地域の人々にすれば理想的なものとなり、同時に売薬行商人にとっても継続的な取引と信頼関係の醸成に結びつくことになったこと。
又、文化13年{1816}半官半民で「反魂丹役所」が設置され官民一体となって売薬行商人の教育の徹底と薬の品質確保向上に取り組み今日に至る伝統の礎を築いたこと。

明和3年{1766}富山西3番町に開かれた「小西塾」は当時の日本3大寺小屋と言われるほどの大規模なものとされ、富山売薬が飛躍的に進展した文化年間{1804-17}には急速に寺小屋の数が増加したとされました。当時の寺小屋の学習内容を北陸三県で比較した場合、読み、書き、については大きな差異はないものの、算については、富山9割弱に対し、石川、福井が5割前後といった記録があると言われています。
特に算では、算術や珠算をはじめ、高度な和算として知られる関流算法が取り入れられるなどしたことは、商売上必要にせまられてのことと思われます。文献によれば文久年間(1861-63)には富山藩だけで売薬行商人数が2200人を数え、年間売上高は20万両に上がり,藩財政の一翼を担っていました。

しかし、明治に入って、売薬業はそれまでの東洋医学から西洋医学への転換を求められた。特に、営業税は3倍余りの増税となり、明治16年{1883}には、「売薬印紙税」として薬に10%もの消費税が付加された・デフレのなかの重税でした。このような苦境の、中で売薬行商人たちは次々に新しい事業を興していきました。
明治9年,洋薬を取り入れた製剤会社広貫堂設立。{各地域でもそれぞれ設立。}11年、仲間たちへの融資と財産を保持する為、「富山第百ニ十三国立銀行{現北陸銀行}を設立{各地でもそれぞれ設立。さらに26年には商人たちの献金で「共立富山薬学校」が開設されました。

また、30年には「富山電灯会社{現北陸電力}}を設立し、32年には大久保発電所を建設して北陸初の自力発電を図ります。小口融資を求める仲間たちの為に、35年「富山売薬信用組合{富山信用金庫}」も生まれました。{各地で相次ぎ設立}このほか、売薬業にかかわる業種{鉄道、保険、出版、新聞、印刷、容器製造など}の会社設立にも力を注ぎました。
正に、今日、富山県経済の中心的役割を担っている北陸銀行や、各地における信用金庫、北陸電力など、富山県近代化への基盤を築いたのは売薬商人たちであり、それが今日もなお脈々と生き続いている流れの中に滑川高校や北部高校に薬業科があることを話しました、
そして、平成27年{2017}の医薬品生産額が暫定値であるが、富山県が7356億円と全国1位となり2位の埼玉県の6417億円に1千億円以上の差をつけ、初めて日本一になる可能性がでてきたことも話しました。

最後に、今日これほど医学が発達し、医療機関が整備され、薬局、ドラックストアーなどが普及していても、何故、配置販売業が存在するのか?
それは、「先用後利」の商法はもとより、消費者との信頼関係、それぞれの家庭のヘルス・コンサルタントとして、薬に対しての情報の提供や健康相談な、自己治療すなわちセルフ・メデケーションの役割を果たし、社会が必要とする職種であること。
それ故、300年もの長きにわたり国民生活の中に定着していることを力説し、一人でも配置販売業に従事される事を求め話を終えました。

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<滑川高校薬業科特別講演にて>



沖田川放水路竣工式

3月4日午前10時より表記竣工式が石井隆一県知事、宮腰光寛代議士を始め来賓、地権者、自治会、工事関係者等多数の出席のもと執り行われました。御存じの通り、早月川河口から上市川河口までの海岸線は約8KMです。

この間、富山湾に注ぎ込む川らしき川は、かつて中川だけでした。しかも河口手前の橋場で、沖田川、大町川、伝五郎川、四間町川等の小河川が合流します。この為、少し雨が降ると増水した中川に小河川の水が橋場で入り込めません。それ故、戦前より町部で水害が多発しました。そこで、県営田中川排水改良事業として昭和23年より昭和26年まで4年の歳月をかけ畑であつた所を掘削して人工的に造られたのが田中川です。

しかし、昭和40年代に入り高度経済成長とともに宅地開発が盛んに行われ、保水に重要な役割を果たしている田畑が消滅してゆきます。特に昭和44年8月の豪雨では、中川及び支川沖田川の河績不足により、滑川市街地において甚大な被害が発生したため抜本的な治水対策の必要が生じました。このため、下流市街地の洪水被害を防止する目的で市街地上流部において各支川を連結させ、洪水を全量カットして滑川漁港の西側に放水する放水路の整備が行われました。そして、中川上流宮窪地内において分水。これが「中川放水路」です。

昭和47年から約30年の歳月と約76億円の巨費を投じ平成13年度完成しました。
これによって下流域で浸水被害が著しく少なくなると考えられました。しかし、その後も続く宅地開発や沖田川流域の郊外に大型店の出店、大型駐車場の出現、また、近年ヒートアイランド現象の発生と局地的集中豪雨の多発、加えて沖田川は残流域が大きく流下能力が低いなどから、沖田川を河端地内JR北陸線{現あいの風鉄道}沖田踏切海側で分水し町内の道路下を暗渠として富山湾に注ぎます。これが「沖田川放水路」計画です。
これを、強力に推進する為関係団体が集まり、期成同盟会が結成され、県や国に対し要望、陳情を繰り返し行われました。

折しも、平成13年6月29日の豪雨で459棟の家屋が浸水被害に見舞われた。その結果、県では沖田川の下流域における治水の安全性を高める為、平成14年度から滑川市が整備する都市計画道路、加島町―下島線の地下に箱型の水路を設置し富山湾に直接洪水を放水する工事として始まりました。

そして、ここに15年余の歳月と約37億円の巨費を投じ竣工式を迎えたのです。これによって地域の洪水不安はかなり軽減されると思います。私自身も期成同盟会の活動に長年携わってきた一人として感慨無量な思いであり、喜びもひとしおであります。

尚、祝賀会では滑川中央保育園園児による、かわいい子供獅子舞が披露されました。
会場からは園児の演技を称える大きな拍手が鳴りやみませんでした。

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滑川高校同窓会入会式及び卒業式

2月28日午前11時40分同校体育館で同窓会{会長、中屋一博}入会式が行われました。
これは、卒業式の前日に行われる恒例の行事であり卒業後本校の同窓生であることを自覚し誇りを持ってもらうことを目的の一つとして行われるものです。

誰にでも生まれ育った故郷があるように、誰にも、青春のひと時を過ごした学舎すなわち母校があります。
富山県人なら、抜けるような青空の中に輝く立山連峰を眺めた時、どことなく元気、勇気を感じると共に、人それぞれの心の拠りどころとして存在しているような気がします。

母校も同様です。卒業した後、母校の活躍が報じられると誰しも嬉しく思うし誇りに思います。
プロ野球ロッテ球団の石川投手もしかりです。WBC侍ジャパンのメンバーとして活躍したり、日本レスリング協会長の福田富昭氏の活躍を聞くと同窓生で有ることを誇りに思います。
青春のひと時を友と語り、数多くの出会いと想いでを与えてくれた母校。やはり母校の存在は生涯、心の拠りどころとして、生き続けるものです。

そこで、生徒諸君に、「光陰矢の如し」次の詩を贈り、同窓会入会の歓迎の言葉としました、

「今の今を」
まばたきする間に 一日は散ってゆき
車窓の景色のように 一週間は飛んでゆき
後を振り向く間に 一か月は過ぎてゆき
海・山を見ている間に 一年は消えてゆくなり
一生だって短いもの 励もう励もう今の今を

翌日3月1日は241名の卒業式であった。入学時は1クラス40名、普通科3クラス120名、薬業科1クラス40名、商業科1クラス40名、海洋科1クラス40名、計、240名であったが卒業時は普通科が121名で総計241名となりました。
これは、1名転入者があったためだが、入学時の生徒全員が卒業式を迎えることは極めて珍しいことです。
澤井校長もこの点を式辞の中で強調され喜びを表現しておられました。

いずれにしても、卒業式をもって社会人となる人、進学する人、それぞれの道を歩み始めるわけですが、彼らの洋々たる前途に輝かしい未来があることを願い学校を後にしました。

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<同窓会入会式でのあいさつ(左) 代表に記念品贈呈(右)>