なかや一博 ブログ

年別アーカイブ: 2017年

書道連盟展

滑川市書道連盟創立35周年を記念して、連盟展が9月2日{土}-9月10日{日}まで市博物館で開催されました。
会員、33名が1人2点出品し合計66点の力作、大作ばかりでありました。

不肖、私も顧問となっており、出品を依頼されました。実は、私は幼稚園児の時から、小学2年生まで約4年間、書家、大平山涛先生に教えて頂いていたご縁で、顧問の肩書きになった訳ですが、正直いって、わずか4年間ですから、まったくの素人といっても過言でありません。
しかも、力作、大作の中にあって一目療然素人とわかる作品であり、最初はお断りしましたが、何かの機会がないと書くことが出来ないので、恥を偲び再三の要請を受け了承し2点出品しました。

1点は唐の詩人、杜甫の「曲 江」の詩です。
「曲 江」
「朝 回 日 日 典 春 衣」 朝より回りて日日春衣を典し
「毎 日 江 頭 尽 酔 帰」 毎日江頭に酔いを尽くして帰る
「酒 債 尋 常 行 処 有」 酒債尋常行く処に有り
「人 生 七 十 古 来 稀」 人生七十古来稀なり

この「曲江」は私の現状の姿と重ね合わせると、ピッタリの言葉で有り選びました。これを書いていると、妻が「それではこれから先は?」との質問があり、「笑進笑明」を選びました。
誰の言葉かは知りませんが、多分、造語だと思います。意味は、字の通りと思いますが私の好きな言葉の一つです。

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滑川高校秋季大運動会

9月6日{水}2017秋季大運動会が小雨の中、予定より1時間遅れの9時40分始まりました。
当日は天気予報通り、あいにくの小雨だったが11時過ぎから雨も上がり、その後、途中ちらついた時もありましたが、16の全種目を無事終えました。

私は、午前中のみ顔を出しましたが、水はけの良いグランドとは言え泥まみれになり、ぬかるみに足をとられながらも奮闘する選手に対しての大歓声と、保護者の声援の中、熱戦が繰り広げられました。
私にも、かってこんな時代があったのですが、やっぱりうらやましい。サミゥル・ウルマンの「青春」の詩は言葉としては理解出来るが、肉体の衰えは如何ともしがたい。

ただ、残念に思ったのは、かって私の時代に団は、天の四方をつかさどる四神として高松塚古墳の壁画に描かれた「朱雀」「青龍」「白虎」[玄武]に加え「黄鶴」と計5団でありました。それは、定時制があったからです。
しかし、少子化の中で、現在は、玄武と定時制が抜け3団になりました。でも、生徒数は720人、これを4団にしても1団180人。団として充分成り立つと思うのですが・・・。
また、団の意気込みを示す団の看板もいまはアニメ調となり四神の面影を探すのに苦労します。これも時代の流れかもしれません。いずれにしても、夏休みが終わり、練習量が少ない中、しかも、小雨の中健闘した生徒諸君を称えたいと思います。

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平和、戦争、命の尊さ

8月は1年で平和、戦争、命の尊さを考える月間と思います。8月2日の富山空襲は午前0時36分―1時51分まで75分にわたり、米軍爆撃機B-29が富山上空に飛来し実に12888発の焼夷弾を投下しました。
爆撃平均中心点は富山城址東南の角{かっての時計塔付近}とされました。これにより、市街地は灰じんに帰しました。
罹災世帯2万5千。罹災人口11万人。死者、判明しているだけで2275人、実際は3000人を下らないと言われています。富山市街は、大和百貨店、海電ビル{現、電気ビル}、県庁、NHK富山放送局、昭和会館、興銀富山支店と、残った建物は僅か6カ所だけでした。
当日の爆撃地は、富山、長岡、水戸、八王子、それに川崎石油企業群と5カ所であった出撃したB-29は計858機。内、富山飛来は182機、焦土となりました。

現在、8月1日花火が打ち上げられています。これは、亡くなった人々への鎮魂、慰霊と戦災からの復興の祈りの花火です。これは、長岡も同様です。
また、戦後、軍人には軍人恩給が支給されるようになったし、村山政権当時原爆被爆者援護法が制定されました。しかし、なんの罪もない人々が家を焼かれ、命まで落とした人々には何の保障もありません。
割り切れない思いもします。いずれにしても、無抵抗の市民を無差別に大量殺りくする戦争は絶対やるべきででない。万物の霊長である人間の最も愚かな行為が戦争です。

8月6日、広島に原爆投下、死者十万人。8月9日、長崎に原爆投下、死者7万4千人。8月9日、ソ連軍、日ソ不可侵条約を一方的に破り満州に侵攻。8月10日、14日御前会議でポッダム宣言受諾を決定。
8月15日終戦。玉音放送で終戦を告げました。私から言わせると、終戦と言うよりは敗戦と言うべきでないか。しかし、打ちひしがれた国民感情に配慮したのか、それとも、昭和16年12月8日は開戦としたから、それに対し終戦としたか。私は、わかりません。
8月18日、ソ連軍、千島列島最北端、占守島{シュムシュ島}から千島列島南下、樺太侵攻。8月21日、樺太真岡に侵攻したソ連軍に対し、8人の女性電話交換手自決。8月30日、連合軍司令官ダグラス・マッカーサ元帥厚木基地に到着。9月2日、戦艦ミズリー号上で、日本全権、外相重光葵と大本営参謀総長梅津美治郎無条件降伏に調印。9月3日、連合軍のほとんどが9月3日を戦勝記念日としています。

8月15日、お盆、先祖との対話の時です。13日が迎え盆、16日送り盆です。
私たちは、一人の例外もなく父と母があることによって、この世に生を得た。その父と母にもそれぞれ両親がいます。それをさかのぼっていけばどうなるのか。10世代で1024人。20世代で104万8576人。30世代では10億7374万1824人。40世代さかのぼると、1兆95億1162万7776人。想像を絶せる数になります。
この祖先の命が一回も途切れず今日に生きているのが私の命です。この連鎖がどこかで断ち切れていれば、あるいは別の人に代わっていたら私はここに存在しません。そう思った時、今日自分が存在することは、正に奇跡であり、縁としか言いようがありません。
8月、それは、平和戦争、命の尊さを考える絶好の機会でした。



滑川高校同窓会総会

恒例の滑川高校同窓会{会長・中屋一博}及び懇親会が8月10日{木}西地区コミニティーセンターで午後6時より150名近くの多数の参加のもと開催されました。
当日は心配した台風5号の通過後であり、まさに台風一過午前は青空が広がり、午後は曇り空と全く影響はありませんでした。

それにしても迷走を続けた台風5号は7月21日午前9時発生し8月9日午前3時消滅するまで実に19日余りという気象庁観測史上3位の長命台風となりました。台風にも長寿の名称がつくなどは驚きですが、その分日本列島を横断するのに時間がかかり各地で被害が発生しました。
しかし、台風の中心が富山県内を通過したにもかかわれず県内では被害はほとんどありませんでした。中心が通過した8日の県内の全ての観測地点で最大風速が10M以下でした。富山気象台でははっきりした理由はわからないとのことですが、いずれにしても被害が無いということは有難いことです。尚、台風の中心が県内を通過したのは2003年以来とのことです。

さて、誰にでも生まれ育った「ふるさと」があるように青春のひとときを数々の思い出と過ごした学び舎、すなわち母校があります。それは、人それぞれの心の拠りどころとして生きているものと思います。滑川高校同窓会も会員数も3万人を越す県下でも最大規模を誇る同窓会として発展し、各界、各層に有為な人材を輩出していることは誇りとするものです。

今回は役員改選期に当たり、不肖私が再度会長を務めることとなりました。室山副会長、高倉会計監査のお二人は退任されましたが長い間本当に御苦労様でした。心より感謝と御礼を申し上げます。後任に千先副会長、石坂会計監査、幹事1名を追加し他の役員はすべて留任となりました。
新役員を代表し私から、役員一丸になって,会の発展と同窓会の立場から学校の発展に支援努力することをお話し各位のご協力をお願いして総会を終えました。

引き続き、懇親会に移り滑川高校校歌がBGMで流れる中、学校職員紹介や会員のスピーイチなど和やかな雰囲気であちこちで談笑の輪ができました。
年齢も考えも学んだ科も違う者が同窓の二文字で心が通じ会う。それが、同窓会であり素晴らしいことと思います。
来年の再会を約し散会しました。

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関西滑川会総会、司馬遼太郎記念館。

平成29年関西滑川会{会長、千先久矩氏}第50回総会・懇親会が7月8日{土}ホテル大阪ベイタワーで多数の参加のもと盛会裡に開催されました。
1年ぶりの再会ゆえ、和気あいあい、和やかな内にも、ふるさとの話しや友人、知人の消息など、話題は尽きることはありませんでした。
誰にも生まれ育ったふるさとがありその存在は人それぞれの心の拠りどころとして生きつずけているのであろうと思います。

それにしても、いつもふるさとに想いを馳せ、ふるさとの発展に陰に陽にご支援を頂いていることに、胸に熱くなるものを禁じ得ません。
今回は、50回と言う大きな節目の年でしたが、私は、挨拶の中で、歴代会長、畑岸隆一さん、篠原寛さん、斎藤国夫さん、柳原秀一さん、神保さん、川尻さん等の名前を上げ、その方を始めとして、多くの役員や関係者のご尽力で50年の歴史を築いてこられました。

そのご尽力に衷心より敬意と感謝を申し上げました。「井戸水を飲むときは、井戸を掘った人の恩を忘れてはならない」との諺があります。千先会長を中心に関西滑川会の更なる発展を願い散会しました。
 
7月7日、東大阪市の司馬遼太郎記念館を訪れました。
一昨年も訪れましたが、今回は、司馬遼太郎の代表作「竜馬がゆく」と「坂の上の雲」の自筆の原稿計47枚が発見され、同記念館で一部が7月1日から8月31日まで、特別展示で公開されていることにより、訪れたものです。
特に存在しないとみられていた原稿で「竜馬がゆく」の自筆原稿が確認されたのは初めてという。幕末の志士、坂本竜馬の生涯を描いた「竜馬がゆく」は昭和
37年―昭和41年産経新聞夕刊に連載され、いわゆる、竜馬を世に送り出したのは、この作品であるといつても過言ではないといわれています。
さて、竜馬が暗殺されるラストシーンは「天が、この国の歴史の混乱を収拾するためにこの若者を地上にくだし、その使命がおわったとき、惜しげもなく天へ召しかえした」これが、この作品の最後の文章です。

次に、「まことに小さな国が、開花期をむかえようとしている。」から始まる「坂の上の雲」は昭和43年―昭和47年産経新聞夕刊に連載され、明治維新から日露戦争までの日本の近代化を描いたものです。この作品の自筆原稿の一部が欠けた状態で日本近代文学館に寄贈されています。今回、冒頭の章や「坂の上の雲」の3パターンの題字を書いた色紙も展示されていました。

竜馬が絶命する場面や「坂の上の雲」の初回の「まことに小さな国が・・・・」という書き出しは司馬さん特有の筆跡で書かれ、特注の原稿用紙に書かれた文章には、数多くの推敲の跡や、編集担当記者らによる修正の跡が残っています。新聞報道によれば、同記念館の上村館長は「代表作の肝に当たる部分が現存して良かったです。特に「竜馬がゆく」で主人公の最期を描く部分の推敲跡からは、筆者の竜馬への強い思いがうかがえる。と話しておられます。私は、上手くは表現出来ないが、その通りと思います。

いずれにしても、行って良かった二日間でした。

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