なかや一博 ブログ

月別アーカイブ: 2018年5月

第61回東京滑川会総会・懇親会

5月26日{土}午前11時30分より大手町サンケイプラザ3階ホールで盛会裏に開催されました。特に、今回は総会に先立ち「滑川の歴史的建造物について」と題し、山形大学教授の永井康雄氏の講演がありました。
氏は私が在職中、度々来滑し本市の歴史的建造物を文科省の補助を得て調査しておられましたので、言わば、旧知の間柄です。氏のご尽力などによって、現在市内に旧宮崎酒造店舗兼主屋や養照寺本堂、城戸家住宅主屋など11件19棟{基}の文化財建造物が国登録文化財となっています。

こうした文化財建造物は、所有者の理解により守り伝えられている貴重な郷土の遺産であり、滑川の歴史・文化を伝えると共にイベントなどの会場としても活用されています。それらをパワーポイントを使い解説されました。意外だったのは参加者が余りご存知でなかったことです。

しかし、故郷を再認識する良き機会だったと思います。総会終了後、懇親会に入り、恒例の新川古代神や越中おわら節などが披露される中、会場のあちこちで再会を喜び合う姿や滑川の話に花を咲かせる風景が見られました。
誰にも心の拠り所として故郷が生きていることを改めて実感しました。

尚、前会長・であり、本会の発展に多大なご貢献をされた山田郁子さんが3月末89歳でご逝去されました。心よりご冥福をお祈り申し上げます。

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(写真は講演の永井教授、新川古代神踊り)

さて、その後、東京を離れ、高崎で群馬県副知事、荻沢滋氏と再会し痛飲しました。氏は元、富山県総務部長に総務省より出向され、その後本省に戻り、昨年7月より現職であります。
豊富なな行政経験と氏の人柄からして、必ずや活躍されるものと思います。高崎発21時04分発はくたか号で富山に帰りました。思い出に残る2日間でした。

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(写真は群馬県副知事、荻沢滋氏)



国立博物館~総理官邸~厚労省ナカヤ会懇親会

濃く淡く 若葉の奥も 若葉かな

誰の句か知りませんが、私の好きな句の一つです。

さて、山々が青葉,若葉で覆いつくされる季節の中、5月25日、東京滑川会総会出席の為上京しました。少し早めに富山を出発し、上野の国立博物館平成館で開催されていた「名作・誕生」{つながる、日本美術}を拝観しました。
今回は、テーマが12章に分けられて、国宝、重文を含め約130点が出品されていました。圧巻は私のような素人でも知っている,雪舟、俵屋宗達、長谷川等伯、伊藤若冲、菱川師宣、葛飾北斎、酒井抱一などや、紙面では紹介しきれない名作の数々でした。展示数の多さ、内容、さすが国立博物館です。駆け足で回ったつもりでしたが約2時間かかりました。

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次に、総理官邸の首相補佐官・宮腰光寛・衆議院議員を補佐官室を訪ねました。官邸は何度か行きましたが、ここが日本の政治の中心と思うといつ来ても、緊張します。
久しぶりの再会でしたが、しばし和やかに懇談し総理官邸を後にしました。前回は官邸内の野上浩太郎内閣官房副長官を訪ねましたが、今回は訪ロ中の安倍総理に同行の為あいにく留守でした。

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(写真は官邸首相補佐官室と宮腰代議士)

その夜19時から例年恒例となっている厚生省ナカヤ会懇親会を富山県赤坂会館で開催しました。今回は第11回であり昨年のように横断幕は掲げませんでした。当日は、安倍政権が最重要法案と位置づける「働き方改革関連法案」が衆院厚生労働委員会で自民・公明両党と維新の会の賛成多数で可決されました。
しかし、強行採決でありました。懇親会での話題は当然それが中心でしたが、私が1点指摘したのは、政府即ち、厚労省が委員会等に提出する資料の数値がずさんなことです。
出席者は前途ある方々ばかりですから、苦言を呈しておきました。いづれにしても一年ぶりの再会を喜び、時の立つのも忘れ夜遅くまで痛飲しました。

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(写真は厚労省の方々)



(一社)秋配協総会

5月21日{月}第8回{一社}秋田県医薬品配置協会総会が秋田市山王4丁目2-12、「ルポールみずほ」で開催されました。私は協会の顧問であり、来賓挨拶と共に業界の現状について講演依頼があり出席しました。

それにしても富山から秋田までの交通機関の不便さにには、改めて驚きました。
まず、あいの風とやま鉄道で滑川発7時07分~泊着7時39分、ここで、えちごトキめき鉄道に乗り換え、泊発7時51分~直江津着9時2分、JR直江津発9時22分~長岡着10時25分 乗り換えで長岡発10時29分~新潟着、11時57分、ここでやっと特急「いなほ」秋田行き12時32分に乗り換え秋田着16時4分。
泊、直江津、長岡、新潟と4回乗り換え、実に9時間を要しました。

これを、北陸新幹線で富山発6時19分かがやきで大宮経由で秋田新幹線に乗り換え、秋田着12時30分。つまり午前10時の会議には間に合いません。
結局日本海ルートで前泊。かつては、大阪~青森間には寝台特急「日本海」が2本と特急「白鳥」や金沢~青森間の急行「しらゆき」などがありました。それを利用していた私としては今昔の感ひとしをです。
やはり、北陸新幹線開業の影響をまともに受けた区間です。しかし、この間、読書の時間が出来た事でよしとしました。

さて、私の講演内容は、最近の業界の諸問題。例えば、来年10月予定では消費税は10%に引き上げられます。そうなると、医薬品や医薬部外品は10%、しかし、軽減税率が同時に導入されるので、健康食品や栄養食品などは従来通り8%。精算が煩雑になることを指摘し、その準備をしておくことなどを話し、最後に今年は明治維新から150年の節目の年に当たり、当時の売薬の苦難を乗り越えた歴史を話しました。

例えば、幕末、緒方洪庵のもとで蘭学を学び、のちに渡米、渡欧を通じて西洋文明を吸収した福沢諭吉は明治に入り漢方薬より洋薬を礼賛。また明治4年11月岩倉具視を代表とし大久保利通、木戸孝充、伊藤博文などの遣欧使節が産業や憲法、軍事、法律、医学など視察、帰国後、医学薬学は西洋医学へと傾いてゆきます。しかし、越中売薬は、ただ手をこまねいていたわけではありません。すでに富山の売薬業界は、激動の時代の中で、自らの変革に取り組んでいました。個々の売薬業者がおのおの調剤を行っていた旧来のやり方を改めて、薬を安定した品質で製造できる製薬会社を共同で設立しました。

明治9年{1876}年に設立された調剤所廣貫堂はその先駆けであり、これが現在の廣貫堂に繋がっていきます。製薬会社では、共有した技術や知識をもとに、より良質の薬を提供しようと試みました。和漢薬のライバル、洋薬のノウハウ導入にもためらいはありませんでした。富山では、西洋医学に基づく化学成分を取り入れた薬を、全国でも早い時期から製造しています。

また、人材を育て、知識や技術を磨く場として明治27{1894}年、共立富山薬学校が設立されました。売薬業者の共同出資で誕生した同校は、やがて全国初の公立薬学専門学校となり、薬学教育の系譜は現在の富山大学薬学部へと受け継がれています。

海外市場の開拓にも積極的だった。明治19年{1886}年、ハワイへの進出を皮切りに、現在の朝鮮半島、中国大陸、台湾へ、或いは樺太へと売薬の販路を広げました。日本人がいる地域であればどこへでも、柳行李を背負って薬を届けました。県民の進取の気質の面目躍如たるものあろう。

昭和万葉集巻四{昭和12-14}の中に次の短歌があります。

「慌ただしく、土民の一家落ちのびし、土間に捨てあり富山の薬」

業界あげての取り組みの陰には、顧客との信頼関係を何よりも大切にし、顧客がひとたび災害や不幸に見舞われた時は、商いを離れて献身的に奉仕した多くの売薬商人がいたことも忘れてはなりません。

このように多くの試練や苦難を先人達たちは忍耐と進取の気性で乗り越えてきたことを話し、出席者を激励しました。
総会終了後、昨年秋多年にわたり秋田県民の保健衛生向上と業界発展に尽力され、厚生労働大臣表彰の栄に浴された佐々木隆氏の祝賀会が賑々しく行われました。

翌日、22日富山に帰る人の車に同乗し夕方安着しました。途中、秋田県と山形県の県境にある鳥海山{2236㍍}がとても綺麗でした。

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薬神神社春季例大祭

恒例の薬神神社春季例大祭は5月8日{火}午前9時より、加積雪島神社境内にある薬神神社において挙行されました。
これは、1月8日の歳旦祭と違い、商売繫盛の祈願と共に、長年配置薬業に従事し近年亡くなった方々を合祀する機会でもあります。

当日は、約30人程の参列者でありましたが、8名の物故者の氏名が旦尾宮司の祝詞奏上の中で読み上げられ、ご遺族の玉串奉奠もありました。
参列者の中には、現役を引退された人も合祀の話しを聞きつけ、駆けつけた人もおられました。合祀された方々は私にとっても薬業青年部時代から親交のあった人々で、数々の想い出が脳裏を去来しました。引き続き社務所に移動して、業界の近況などを話題にして散会しました。

また、久しぶりにお会いした方々とは、数日後、居酒屋で盃の友情を交わし青年部時代の想い出話に花を咲かせ、時の立つのも忘れ、楽しいひと時を過しました。

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県青連創立50周年

富山県配置薬業青年連合会{中屋如貴会長}創立50周年記念式典及び交流会が5月7日富山市千歳町パレブラン高志会館2階嘉月で開催されました。(以下、県青連と略す。)
最初に中屋会長の挨拶のあと、50年の歩みをパワーポイントで紹介されました。
創立は昭和42年8月です。この前後、県下各地で相次いで青年部が発足し、滑川市薬業青年部も同時期、県青連と歩調を合わせ発足しました。私は当時20歳、先輩に誘われ設立総会に参加し、その後、県青連にも一会員として参加しました。

当時の県青連は各地区の青年部同様部員の年齢は35歳以下で、地区青年部は、富山ニッケの会、呉羽アシの会、水橋、浜黒崎、上市、滑川、中部{滑川中加積}射北、中田、高岡の10地区会員数1641名でスタートしました。
この内、滑川は189名、中部146名滑川市内で35歳以下が実に335名もいたことを思うと今昔の感ひとしおのものがあります。
そして、50年。この間、私は滑川市薬業青年部第6代部長{昭和54年ー58年}また県青連では第4代会長{昭和54年ー58年}として、また、全国の第14代会長{昭和55年ー56年}を務め、全国大会へは何度も出席するなど、私にとって人生を語る時、青年部活動を抜きにしてはあり得ません。それ故に、映像で50年の歩みを感慨深く見ました。

さて、映像のあと40周年から50周年までの会長経験者に感謝状の贈呈があり、次いで、来賓祝辞に移りました。最初に、塩川知規県厚生部くすり政策課課長、中井敏郎富山県薬業連合会会長より、それぞれの立場でお祝いと激励の言葉がありました。

次いで、パネルディスカッションが行われました。
テーマは「県青連のこれまでと、今後」
パネリスト・県青連第11代会長・折田・忠氏。 同12代会長・井藤潤一氏。 同15代会長・大間知政憲氏
コーディネーター {一社}全国配置薬協会・事務局長・清水・剛氏

によって活発な討議が行われました。また、会場を埋めた歴代会長などにも意見が求められる中、私は地場産業や伝統産業など多くの業種も問題を抱えていることを指摘する中、この業の素晴らしさを述べ、今年は明治維新から150年。
明治という新しい時代の扉を開いたのは、志を持った青年たちの勇気ある行動だったことを話し、高杉晋作の辞世の句と言われる「面白き こともなき世を面白く 棲みなすものは 心なりけり。」を引用し青年部の今後に期待する言葉としました。

いずれにしても、交流会も含め久しぶりに懐かしいメンバーにもお会いでき、有意義な機会でした。ここで、会長の挨拶を掲載します。
(写真は挨拶する中屋会長)

<挨拶>
 昭和40年代初頭、貿易・資本の自由化の波が日本経済を襲い、国内外からの経済攻勢が激しさの一途を増し、富山県の配置薬業界も新時代に対応するため、体質改善が叫ばれていました。
こうした背景の中で、配置薬業に若者の新しい感覚を取り入れようと県内の35歳以下の青年配置従事者1650名が大同団結し、昭和42年8月に現在の富山県配置薬業青年連合会の前身にあたる富山県医薬品配置員青年部連絡協議会が設立されました。

 昭和48年には、現在の富山県配置薬業青年連合会に名称を変更し、研修会、配置薬のPR活動、共同事業等を通じて業界発展に努めて参りました。その後、配置業界は個人業者の高齢化や後継者不足、法人販社における雇用難による人手不足、外的な要因として、ドリンク剤等の新指定医薬部外品移行によるコンビニ販売自由化、一般医薬品販売制度の改正、登録販売者試験制度の創設、インターネット販売の解禁など、取り巻く環境は、大きく変化し厳しいものとなっておりますが、一方で平成29年1月にセルフメディケーション税制{医療費控除の特例}が創設される等、追い風となる明るい話題もございました。

 現在は、各地区の部員の減少があるものの、活動内容は時代の流れを見据え、より充実したものになり、先輩各位の雅量によって50歳の新たなる旅たちのときを迎えることができました。青年部を卒業された先輩方も今や業界の指導的立場となっておられ、正に喜びに堪えません。創立50周年を迎えたことを機に、今一度、初心に戻り青年部の柔軟な思考力や卓越した行動力で、各種事業の遂行、問題解決に積極的に取り組んでいくよう決意を新たにしている次第であります。

 今後とも、富山県配置薬業青年連合会に温かいご指導・ご支援を賜りますよう、会員の皆様はじめ、関係各位にお願い申し上げ、ご挨拶といたします。

平成30年5月7日     
富山県配置薬業青年連合会
19代会長・中 屋 如 貴

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