なかや一博 ブログ

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中沖豊・元富山県知事、死去

元富山県知事、中沖豊氏が6月24日午後0時20分、肺炎の為死去されました。90歳でした。氏は昭和55年{1985}11月第5代県知事に初当選して以来、県政史上最多の6期連続当選を果たし、24年間にわたって手腕を発揮されました。特に、県民の悲願であった北陸新幹線の整備では、建設促進同盟会長として常に沿線各県の先頭に立ち「ミスター新幹線」と称されました。

「北陸に新幹線を」の言葉が出たのは、昭和40年9月金沢市で開催された佐藤首相の一日内閣の時です。東京オリンピックの開催に合わせ、昭和34年に着工した東海道新幹線が昭和39年10月開業し、東京ー名古屋ー京都―大阪間が日帰り圏となったことにより全国的な話題になり「北陸にも新幹線を」の夢は大きく膨らみ、一日内閣での発言を機に北陸新幹線の沿線国会議員が集り、北回り新幹線建設促進議員連盟を結成。また、沿線自治体関係者によって同盟会が発足しました。その後、北回りを北陸と名称変更し運動を展開。

そして、全国新幹線鉄道整備法に基づき昭和47年10月基本計画、翌48年11月整備計画が決定した。この整備新幹線の対象となったのは、北陸新幹線{東京ー大阪690㎞}、東北{盛岡ー青森}、九州{福岡ー鹿児島}、長崎{福岡ー長崎}、北海道{青森ー札幌}の5線でした。しかし、発表から1ヶ月後の同年12月、昭和49年度予算編成大綱で公共事業の抑制策が打ち出され、整備新幹線5線の凍結が閣議決定されました。

折から世界中を吹き荒れた第一次オイルショックが引き金となったのですが、追い打ちをかけるように昭和51年8月、国鉄監査委員会が新幹線建設中止を提言。当時国鉄の累積赤字は3兆1600億円、長期負債6兆7800億円で破産寸前の状態でした。
膨大な建設費を要する新幹線建設は国鉄にとって到底受け入れられるものではありませんでした。そして、国鉄の意を汲んだ運輸省も新幹線の着工凍結を続けることを表明。しかも、国家財政は悪化の一途を辿り、加えて、第二次オイルショック、行財政改革を錦の御旗に掲げる大蔵省や臨調メンバーの抵抗など最悪の中での知事就任でした。

故に、知事在任中の24年間は、財源の壁、並行在来線分離、地元負担と共に、スーパー特急方式、ミ二新幹線方式、フリーゲージトレイン方式など次から次へと問題が発生しました。しかし、中沖知事は最後までフル規格の信念を曲げることはありませんでした。特に、山形、秋田がミニ新幹線として先行開業した時、北陸新幹線もミニで開業しておればよかったとの声が出た時は本当に辛かったと思います。
しかし、その信念を貫き平成27年2月6日試乗会での感慨はひとしおだったと思います。あの時、私も同乗しており、中沖さんと握手を交わしたことが昨日のことのように思い出されます。まさに、中沖さんのご尽力を抜きにして、北陸新幹線を語ることは出来ません。

その他にも「いい人、いい味、いきいき富山」観光キャンペーンを展開し、全国に富山を発信。富山空港のジェット化や北陸自動車道の全線開通、高志リハビリテーション病院の開設など、氏の治績を上げれば枚挙にいとまがありません。私自身も様々な形でお世話になり、ご指導も頂きました。
我が家にも時々お出でになった事や8年前、私事に対してわざわざお電話で激励を頂いた事など忘れることの出来ない思い出になりました。

『情の中沖』と形容した人がいましたが、まさに、情熱の情と人情の情を持っておられた人だったと思います。6期24年、県勢発展の礎を築かれた名知事中沖豊様のご冥福を心からお祈りいたします。

参考まで 戦前の官選知事は35人。戦後公選知事は、初代、館哲二氏,第2代、高辻武邦氏、第3代、吉田実氏、第4代、中田幸吉氏,第5代、中沖豊氏、第6代は現在の石井隆一知事です。
政治家は色紙や掛け軸或いは石碑などよく揮毫しますが、中沖さんはほとんどない。唯一と思われるのは、県庁正面玄関右手に「百年大計、莫如樹人」の石碑の揮毫が中沖さんと言われるが、署名押印が無い。いかにも中沖さんらしいです。

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①、②

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③、④

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⑤、⑥

写真は
①昭和60年{1985}3月13日知事室表敬訪問。当時私は37歳。
②平成4年{1992}10月4期目の選挙。滑川での出陣式。当時私は45歳
③平成16年{2004}10月25日知事、退任挨拶で来庁。六神丸贈る。
④平成17年{2005}2月16日、中沖前知事に感謝のつどい。典子夫人と共に名鉄ホテルにて。当時私は58歳
⑤平成18年{2006}7月19日、我が家にて。右より、中沖さん、インテック社長、中尾哲雄氏 前副知事、大永尚武氏、
⑥平成21年{2009}8月12日、中尾哲雄氏、植出副知事、中沖さん、大永前副知事、八倉巻忠夫氏等。当時私は62歳



「花しょうぶ」と「紫陽花」

紫は 水に映らず 花しょうぶ   虚子

滑川に行田公園がある。面積6,6ha、市中心部にあって 鬱蒼とした木立に囲まれ、昼なお暗いまさに自然が残っている貴重な公園である。また、平成の名水百選にも選ばれている行田の沢清水も湧水している。それもそのはず、出来るだけ人の手を加えないで残そうと今日まで努力して来たからであろう。
さて、ここは、かって京都祇園社の荘園の一部であり、祇園田と呼ばれていたのが、なまって行田となったと言う。

ここに88種、4万株の花しょうぶが、東、西、南の3ヶ所のしょうぶ園で咲き乱れる。
これは、昭和49年7月静岡県掛川市在住の斎藤通治さん{市内、加島町出身}が当時35種、1万5千株を市に寄贈移植されたものです。小雨に煙る中や雨上がりの「花しょうぶ」は格別の趣がある。ところで、「あやめ」と「かきつばた」と「花しょうぶ」の違いは?と問われると、よく解らない。公園内の案内板から抜粋すると

あやめ
 葉には中脈があるが目立たない。山野の草地に生える。(古名―はなあやめ)
かきつばた
 葉に中脈があるがはっきりしない。水湿地に生える。
花しょうぶ
 水辺の湿地に生える。江戸時代「の花しょうぶ」を観賞用に改良したもの。
しょうぶ
 平地の池や溝、小川に生える。(古名―あやめ)

また、花の大きさや外花被と内花被の形が違うと記されていますが、私はよくわからない。

紫陽花や 藪を小庭の 別座敷   芭蕉

紫陽花がユキノシタ科の観賞用落葉低木で原産地が日本と知ったのは10数年前である。土の性質を選ばず、どこにでも馴染み、湿気を吸い取ってくれる有り難い植物でもある。
上記の芭蕉の句は、紫陽花と人の織りなす季節のしっとりとした情感がしみじみ伝わってくる。平凡社の百科事典によると、海岸近くに自生していた額紫陽花を観賞用に育成することが始まったのは鎌倉時代であり、江戸時代に磨きがかかり中国に渡って庭園に植えられ、さらに、中国から英国、そして欧州各地に広がり、そこで品種改良がなされ、日本に帰ってくるようになったという。

私は、いつも思うのですが、紫陽花は道端に咲いていても、路地裏に咲いていても、藪庭に咲いていても、公園に咲いていても、座敷の床の間の一輪差しでも一服の絵になる不思議な花である。いずれにしても、「花しょうぶ」の後には「紫陽花」が咲き乱れる憩いの場、それが、行田公園です。私が、訪れたのは、「花しょうぶ」」祭りも終わった6月24日であったが、「花しょうぶ」は、盛りを過ぎていましたが「花しょうぶ」と「紫陽花」のコラボレーションは十分楽しめました。

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写真は、何れも6月24日撮影。



国際交流姉妹校

飛び習う 青田の上や 燕の子   麦水

6月11日{月}滑川高校と平成23年[2011}姉妹校の締結を結んだ大韓民国・仁川海洋科学高校3年生と2年生の一部63名及び權校長など教職員7名、計70名が本校に来校しました。
目的は、「生徒同士の交流活動を実施し、韓国の経済・文化・歴史学習を通して異文化の理解を図り、国際的視野を広める。」とあります。ご存知の通り本校には海洋科があることから姉妹校として締結された2011年から相互訪問が始まりました。
今回の日程は、6月7日仁川を出発し、海洋大学所有の約千トンの船で洋上実習を重ね約60時間かけて6月9日夕方富山新港着。宿泊は全て船中泊です。10日、立山アルペンルート、雪の大谷、室堂など散策。天気は良かったそうです。帰路100円ショップにてお買い物。これが、意外と人気があるそうです。

6月11日午前本校訪問。深層水の実習棟でのサクラマスの養殖などを見学。午後、市民交流プラザで昼食会。私は、同窓会長としてここから出席しました。最初に本校石倉校長挨拶。次に權校長挨拶。次いで、両校生徒代表挨拶。本校代表は韓国語で、仁川高校代表は韓国語で挨拶。両校とも立派な挨拶でしたが、本校の代表は韓国語ですから大したものです。
その後、両校の実習や活動内容などをプロジェクターを使いそれぞれ紹介した後に昼食、歓談に入りました。
通訳の方は現在富山県庁国際課にいる韓国の人でした。昨年の朴校長は定年で退職されていました。韓国では教職員の定年は62歳。退職は誕生日を基準日とし、2月と8月の2回あると言う。ここが日本と違うところであろう。
また、生徒が感動したのは、やはり雪の大谷であるという。韓国では、標高2千m以上の山はなく、雪そのものが珍しい中、6月にもかかわらず10mを越す雪の壁には驚いていたといいます。

私が始めて海外に行ったのは24歳の時、昭和46年{1971}第一回富山県青年の船の団員として、韓国、台湾、香港を訪問しました。見るもの、聞くもの、全てが新鮮で驚きと感動の連続でした。でも、海外へ行くなら、むしろ先進国より発展途上国へ行った方が良いのではないだろうか。何故なら、何不自由なく生活している日本がどれ程有り難いか。そして、日本の良さを認識する絶好の機会になるのではないでしょうか。

今、日本と韓国の関係は多少ギクシャクしている。しかし、21世紀は間違いなく彼らの時代である。2050年と言っても彼等はまだ50歳です。故に、この様な交流の積み重ねによって、日・韓両国の未来が希望の絆で結ばれると信じたい。その後、ほたるいかミュージアムを見学し記念写真を撮り、3時頃帰宅しました。彼等は、12日宇奈月・黒部峡谷へ行き、13日富山新港から仁川へ帰る日程と言う。いずれにしても、双方にとって内容はのある交流会でした。

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市民交流プラザで挨拶する本校石倉校長。左、權・仁川高校校長。記念写真ははまなす公園。



京都清水寺、貫主森清範猊下文化講演会

紫陽花や 藪を小庭の 別座敷    芭蕉

平年より2日、昨年より15日早く6月5日中国地方は梅雨入りしました。間もなく北陸地方も梅雨が訪れますが、しっとりと雨に濡れた「紫陽花」や「花しょうぶ」は何とも言えない「美」があります。
さて、6月3日恒例の京都清水寺貫主森清範猊下を講師にお迎えして、第23回市民文化講演会{主催・滑川音羽の会・会長中屋一博}が300名をこえる多数の来場者のもと、西地区コミュニティーセンターで開催されました。

今回が23回目、連続23回も同じ所へ講演に行くのは滑川だけだそうです。本当に有り難いことです。今回の演題は「色即ーしきすなわち―」最初に主催者会長の私が開会のご挨拶を申し上げ、次いで、大西英玄清水寺執事補の前講が約20分ほどありました。氏は清水寺中興の祖と言われ109歳まで長生きされた大西良慶和上のお孫さんです。

その後、森清範猊下のユーモア交えた講演でアッという間の1時間でした。会場を埋めた多くの方々から、とても良かった。来年も是非との声があちこちから寄せられました。
次いで、厚生連滑川病院に会場を移し、かって、厚生連滑川病院に勤務され、昨年厚生連理事長で退任された黒部市在住の荻野孝次氏が病院に感謝の思いを込め、森清範猊下に「孝」の一字の揮毫を依頼しておられたものを寄贈され、その除幕式が行われました。「孝」は了安、安正親子の伝説がある同病院中庭の「孝徳泉」からしたためられました。
この揮毫に際し音羽の会会長として、森清範猊下へ橋渡しをした一人として除幕式に立ち会いました。
南里院長は病院の宝として末永く残してゆきたいと述べられました。

次いで、同病院中庭に場所を移して、毎年のことながら、了安の供養塔で森清範猊下と大西執事補によって読経があげられました。

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写真は、左より講演会の冒頭挨拶する中屋。講演中の森清範猊下。

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「孝」の除幕式、左より南里泰弘厚生連滑川病院長。寄贈された荻野孝次氏。森清範猊下。中屋。



錦心流琵琶演奏会

山々も 若葉がせめし 雨上がり

5月末に降った雨のおかげで、山々の青葉、若葉の緑が色鮮やかで、,麓から中腹に攻めて行くような勢いを感じます。そんな中、6月2日、錦心流琵琶{後援会長、中屋一博}演奏会が国登録文化財、旧宮崎酒造で開催されました。

先般ご紹介しましたが市内には現在11件19棟{基}の国登録文化財がありますが、その中でも最もイベント会場として活用されているのが、旧宮崎酒造です。さて、素人の私が説明するのもおこまがしいのですが、琵琶には、薩摩琵琶、筑前琵琶、平家琵琶、雅楽琵琶、など弦は4本ですが5弦琵琶もあるそうです。また、琵琶の楽器の材質も桑や桐であったり、バチの大きさやバチさばきにも、流派によって違いがあるそうです。

当日の演奏曲目は①西郷隆盛②敦盛③耳なし芳一④坂崎出羽守⑤ひめゆりの塔の5曲でした。
いずれも歴史的事実に基づいての物語を琵琶の音色で語るものですが、曲目は、どちらかと言えば悲しい内容が多いように思います。
これを、哀調を帯びた琵琶の音色で語る訳ですから、やはり現代の若者には今一なのかもしれません。しかし、物語の内容は、愛とは、情とは、人の道とは何か、まさに戦後の日本人が失ったものを問いかけるものばかりです。
これは、日本の良き伝統芸能の一つであり、後世に伝えてゆくべきものと思います。

今回も、演目の間に詩吟が数曲披露され、花を添えて頂きました。特に、今回の来場者数は80余名と多数でありました。演奏した者はもとより会員一同、勇気、元気を貰いました。
本当にありがとうございました。

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