なかや一博 ブログ

月別アーカイブ: 2018年7月

中沖豊、前富山県知事県民お別れの会

音もなし 松の梢の 遠花火  (子規)

7月29日、去る6月24日90歳で死去された中沖豊さんの「県民お別れの会」が県民会館で開催されました。当日は今夏最高37,4度を富山で記録し蒸し暑い日にも拘わらず、県内外から各界の関係者約800人が参列し、6期24年にわたり県政発展に邁進し、富山発展の基礎を築いた中沖さんの遺徳を偲び、ご冥福をお祈りしました。

会場は「ミスター新幹線」中沖さんがこよなく愛したふるさと富山を象徴する立山連峰と富山湾、そして富山平野を疾走する北陸新幹線をイメージし,キク、カーネーションで飾られた祭壇が設けられ、柔和な表情の中沖さんの遺影が掲げられていました。
まさに、故人にとって、最もふさわしい祭壇だったと思います。

式次第は次の通りでした。

1、開式のことば 実行副委員長 森 雅志 県市長会長
2、黙禱
3、追悼のことば 実行委員長  石井隆一 富山県知事、
4、メモリアル映像上映
5、お別れのことば
  綿貫民輔、元衆議院議長
  宮腰光寛、内閣総理大臣特別補佐官衆議院議員
  高野行雄、県議会議長
  久和 進、北陸経済連合会会長
6、弔電奉呈
7、献奏 県オーケストラ連盟特別編成ストリングスによるモーツアルトの「レクイエム」
8、献花
9、遺族代表挨拶  長男 中沖 剛さん
10、閉式のことば  金森勝雄 県内町村会長
11、一般献花

多くの方々から、追悼、お別れ、思い出のことばがのべられましたが、石井知事の「功績は、末永く県史に刻まれ、愛してやまなかった古里の発展を見守り続けてほしい」に言い表されていたと思います。また、メモリアル映像や、会場ホール前の中沖さんの業績を振り返る写真を観ながら私自身、在りし日を懐かしんだ一人でした。
献奏にしても、中沖さんが音楽を如何に愛しておられたかの証と思います。

遺族を代表し長男の剛さんは、「新幹線の開業を生きているうちに目にし、大変喜び、誇りに思っていた。
退任して15年近くたったのに、こんなに多くの方々にご参列頂くと思ってもいなかった」と感謝の言葉を述べられ、「県政に邁進する一方、家族にも深い愛情を注いでくれたとして、自分や二人の弟に残した「運、鈍,、根」の言葉を紹介。
「物事を進めるには、運と鈍感なくらいの辛抱強さ、根気強さが必要という自身の信念を示したかったのでしょう」と語られました。

そう言えば私自身も一度この言葉を中沖さんからお聞きしたことがありました。
また、以前私が中沖さんに「私は大いなる楽観論者です」と話したところ、「それはダメだ。繊細なる楽観論者が良い」といわれました。私の性格を見透かされたような気がし、自分自身の軽率な発言を反省したことがありました。
今回、初めて知りましたが、中沖さんには三人の息子さんがおられます.。名前はご本人は豊さん、長男は剛{ごう}さん、次男は雄{ゆう}さん、三男は陽{よう}さん。如何にも中沖さんらしいです。

式典閉会後の一般献花にも300人もの人々が訪れたという。剛さんの話にもありましたが、知事退任後、15年近く経過しているにもかかわらず、「お別れの会」が開かれれ、多くの参列者があったのも、その功績の大きさと、人徳のしからしむ所以と思います。

ミスター新幹線と共に、ミスター富山だったと思います。

何度か我が家にもおいでになり、色々御指導頂いたことに心より感謝申し上げ、ご冥福をお祈りします。尚、中沖さんのご功績は前回発信した私のブログに記しましたので今回は略しました。

写真は知事初当選直後の昭和56年3月、知事室表敬訪問。当時私は、34歳。他は正橋富山市長や自宅で中尾哲雄氏や大永尚武氏。
そして典子夫人などの思い出の一コマ。

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千住博展

6月9日{土}―7月29日{日}まで富山県美術館で開催された千住博展を7月28日鑑賞しました。当日は富山で連続16日間真夏日を記録する蒸し暑い日でしたが、翌日が最終日という事もあり大勢の入館者でした。
これは、高野山金剛峯寺襖絵完成記念として企画され、富山での展示が初公開で第一章、全44面の奉納襖絵・障壁画「瀧図」「断崖図」展示室。第二章、瀧神展示室。第三章、千住博のあゆみ1980-2018展示室でした。
正直言って私は千住博の名前と氏の美術館が軽井沢にある程度の知識しかありませんでした。故に、作品を論評する資格はありませんので、会場入口に千住さんの言葉が掲載されていましたのでご紹介します。

高野山の襖絵を描くということ

空海の開創した高野山金剛峯寺の襖絵を描かせていただく、という有難いお話をいただいた。それで色々な本を読み空海を理解しようとした。しかし、読めば読むほどわからなくなった。室戸岬や高野山を訪ね、問い続けても答えは何一つ返ってこない。仕方なく、だったら私は私で好きにしょう。と思うに至り一部屋目は、襖に崖を描き始めた。
しかし、画面に思っていた表情が出ない。今までの経験が全く生きない。何枚も描き直しながら一人でこつこつと胡粉を作って大画面に塗っていた時、このもどかしさは、どこかで経験したことがあると思い出してきた。
それは、藝大に入学して、一番最初に体験した感覚だった。ゼロにリセットし画業を振り出しからやっていると感じた時、これは空海から届いた最初のメッセージなんだという気がした。

次に、瀧にとりかかった。・・・・以下中略

考えて見れば始めから終りまでひたすらうまくいかない画面との格闘だった。まるで絵が自分のなりたいように私を引っぱっていったようだ。今までは、私は年を取らないと感じていた。
少くとも絵を描いている自分は若者だとずっと思っていた。しかし、高野山の襖絵を描き終わり画業のやるべきことは全てここでやり切ったという気持ちになってふと、鏡を見た。そこにいた60歳の私が映っていてしばし愕然とした。
(千住 博)

全文を掲載できませんでしたが、この文章からだけでも氏の襖絵に賭けた意気込みがわかるような気がします。また、ビデオで「崖」と「瀧」の制作風景を見ながら、その描く手法に氏の日本画の新しい可能性を模索する姿を見る思いがしました。
いずれにしても、渾身の思いを込めて制作された襖絵が、世界遺産・高野山金剛峯寺に奉納されるとなかなか見れない貴重な作品でした。特に、ビデオの中で氏は、「千年前に描かれた作品が今でも残っている。その時の素材、手法を基に描いた襖絵も千年のスパーンで描いた」との言葉が特に印象的でした。

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霊山歴史館・国立京都博物館

7月8日久しぶりの青空。奈良より京都へ。東山の高台寺近くにある霊山{りょうぜん}歴史館を見学。この歴史館は幕末維新の総合歴史博物館として、明治100年{1968}を記念して昭和45年{1970}開館。我が国唯一の幕末維新ミユージアムです。

収蔵資料は5,000点を超え、常設展、特別展では約100点展示されています。
特に、今年は明治維新から150年で、企画展として昨年秋より「龍馬と西郷隆盛」展、今年に入り、通年特別展として、「大西郷」展、第1期1月3日―3月18日、第2期3月20日ー5月13日、第3期5月15日ー9月2日、第4期9月ー12月として企画されました。

今回私が見学したのは第3期展で「薩長同盟から大政奉還」までです。NHK大河ドラマも「西郷どん」であり、多くの参観者で賑わっていました。ぺリーが浦賀に来航したのは嘉永6年{1863}6月3日。おそらく「幕末」という大きなうねりが音を立てて動き出したのはここからだと思います。
その後、明治元年{1968}まで、わずか15年で265年続いた徳川幕府は瓦解する。江戸から明治へとこの大業を成し遂げ、近代日本の礎を築いた人々の多くは20代、30代の若者でした。

<参考まで、明治元年{1868}当時の年齢>
西園寺公望20歳、陸奥宗光25歳、伊藤博文28歳、山県有朋31歳、後藤象二郎31歳、
板垣退助32歳、徳川慶喜32歳、井上馨33歳、松平容保34歳、木戸孝充36歳、大久保利通39歳、
松平春嶽41歳、西郷隆盛41歳、岩倉具視44歳、勝海舟46歳、

志、半ばで世を去った久坂玄瑞25歳、橋本左内26歳、高杉晋作29歳、吉田松陰30歳、
中岡慎太郎30歳、坂本龍馬33歳、頼三樹三郎35歳、武市瑞山37歳、平野國臣36歳
{満年齢と数え年齢と多少の差あり}

尚、この歴史館の展示品の中には、坂本竜馬を斬ったと伝わる刀や、竜馬暗殺現場の立体模型など興味深い品々に加え、西郷隆盛の書をはじめ、薩長同盟から大政奉還までの多数の資料が展示してあり、内容の濃い企画展でした。
この歴史館の中央の壁面に縦、横、各2メートル位の大きさで、平野國臣の歌が書いてあります。

憂国十年・東に走り、西に馳せ、成敗天に在り、魂魄地に帰す

彼には、もう一つ有名な歌があります。
 わが胸の、燃ゆる思ひにくらぶれば 煙はうすい、桜島山

{注}平野國臣{1828-64} 福岡藩士 尊王攘夷の志士..。西郷隆盛が清水寺・成就院住職僧・月照と共に、鹿児島・錦江湾に入水自殺をした時、二人を救い上げたのが彼です。
月照は助からなかったが、西郷隆盛は蘇生した。安政5年{1858}12月20日、上記の歌に幕末、江戸に、京に、大阪に、土佐に,長州に、長崎に、そして薩摩にと東奔西走している志士達の姿や情熱が眼に浮かぶようです。

次に京都国立博物館を見学しました。
今回は、常設展でしたが、新収納展として、重文・「正親町天皇宸翰消息」です。
解説によれば、正親町天皇{1517-93}が正倉院に伝わる有名な香木「蘭奢待」を織田信長{1754-99}が強引に木片を切り取ったあの有名な事件の直後に記され九条稙通に宛てたものです。
また、「ふりよ」{不慮}という文言に、天皇の苦々しい思いがにじみ出ている書簡で堂々たる筆致が感じられる手紙だそうです。
江戸時代の画家・長澤芦雪{1754-99}の「人物鳥獣画巻」など素晴らしい見応えのある作品ばかりでした。

午後サンダーバード号で帰郷しました。

写真は霊山歴史館まえにて。京都国立博物館パンフレット

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第51回関西滑川会

7月7日恒例の関西滑川会{会長・千先久矩氏}総会及び懇親会が多数のご参加のもと、盛会裏に開催されました。ただ、7月5日頃から、富山県を含め、北陸地方や西日本一帯に大雨特別警報が出ていて、開催を心配していました。
しかし、延期や中止の連絡もなく、関係者に確認したところ開催するとのことで、安全を期し前日の6日に出発しました。

ところが朝8時に富山駅に行ったところ案の定、金沢-大阪間は「サンダーバード」号も名古屋行き「しらさぎ」号も全面運休。しかし、手持ちの富山-大阪の切符で、特急券の差額を負担することで、北陸新幹線-東京経由-東海道新幹線-大阪に行けることからこれを利用しました。
富山発9時45分「かがやき」で東京へ、北陸新幹線は定刻でしたが、東海道新幹線は浜松までは順調。しかし、それ以後は雨のため大幅に遅れ、しかも、新大阪より先は運転中止。現在運行しているのは大阪環状線だけ。それ以外は運行のメドは立たない、ただ、近鉄電車は運行しているとのことで、京都駅で下車、近鉄で奈良へ。実に3時間遅れで姉の家に到着。やはり疲れました。

翌日、7日近鉄奈良駅から鶴橋駅-環状線で弁天町駅下車、総会会場アートホテル大阪ベイタワーに定刻入ることができました。意外であったのは悪天候にも拘わらず当日の欠席者は僅かだったことです。そして、参加者の多くは、やはり、1年に1度の再会で故郷滑川の現状や未来を話題して話をするのが楽しみにしておられることです。故郷の発展に熱い思いを持っておられることを改めて感じました。

また、滑川からの来賓はやはり当日東京経由で、多少遅れられましたが出席されました。特に、懇親会に入り、東京滑川会より参加された方が、持参の和服を着こみ、新川古代神や越中おわら節を先頭を切って踊られ、次第に和踊りになってゆき会場は大いに盛り上がりました。
歌あり、民謡あり、輪投げゲームあり、神輿を担いで会場を練り歩くなどアッという間の3時間でした。最後に関西滑川会と滑川市のエールを交換し、別れを惜しみ散会しました。

終わりに、この度亡くなられた元関西滑川会会長篠原寛氏のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
その後、私は、大阪駅で友人達と再会し歓談後奈良へ戻りました。

写真は、祝辞を述べる私と新川古代神を踊る会員。

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