なかや一博 ブログ

年別アーカイブ: 2018年

花見と入学式

 世の中に、絶えて桜のなかりせば
          春の心は、のどけからまし  古今和歌集 在原業平

今年の桜は全国的に開花宣言も満開宣言も昨年より一週間程早く、富山松川の桜も開花宣言が出たのが3月27日。その3日後には満開宣言がでました。
富山気象台観測史上最速という。さて、我が家の裏庭に、樹齢約20年程のソメイヨシノと枝垂れ桜が各1本あります。
そのソメイヨシノが4月1日満開で、やはり、昨年よりかなり早かったです。
早速、友人、知人10数名でバーベキューを開催しました。そして桜の枝に、桜に関する一句や一首を吊るし、それを読み上げ盃を交わし痛飲しました。

枝に吊るしたのは
①初桜、折しもけふは、能日かな 芭蕉
②さまざまな、こと思い出す,、桜かな 芭蕉
③見限りし、故郷の山の、桜かな 一茶
③散る桜 残る桜も 散る桜 良寛
④どの枝も、風を喜ぶ、糸桜
⑤櫻花、いのち一ぱい咲くからに、生命をかけて、わが眺めたり  岡本かの子
⑥清水へ、祇園をよぎる桜月夜、こよひ逢う人、みなうつくしき  与謝野晶子
⑦いっせいに、桜咲きたる花びらの、一つ一つに光ありつつ
{注}④と⑦はどなたが作者かは知りません。

さて、以前は小学校の入学式は桜の開花時期と重なっていた様な気がします。だから小学校の校章の多くは「さくら」です。
私の母校滑川高校の入学式は4月9日午後2時から挙行されました。当日は、あいにく肌寒いお天気で、しかも、葉桜。
しかし、挙式が行われた体育館はさすが新入生の清々しい姿に、寒さも忘れてしまう程でした。来賓と多数の保護者の出席のもと厳粛な内に滞りなく終えましたが、やはり、卒業式とは違い涙はありませんでした。
今年の入学生の数は普通科3クラスが1減の2クラス、商業科1クラス、薬業科1クラス、海洋科1クラス、5クラス計200名でした。
彼らの3年間が思い出多き、充実した学生生活であるよう念じ学校を後にしました。

ここで、滑川高校校歌を紹介します。
本校校歌は、北園克衛作詞、岡部昌作曲により、昭和24年に制定されました。
一題目では、朝日に美しく輝く立山連峰に抱かれて、百年の歴史と伝統を誇るこの滑川高校で熱き夢を語り合おう。
また、二題目では、蛍を袋に集めて、その光で学んだといわれ中国の学者 車胤の若き日の苦難を思い、かけがえのない青春の一日一日を大切に過ごしてほしい。
という願いが込められています。

滑川高等学校校歌 (作詞 北園勝衛  作曲 岡部昌)

一 朝日に匂う 太刀の嶺        
  雲井はるかに 青春の          
  赤き血に沸{たぎる} 我等の日     
  加積の郷{さと}の 学舎に       
  栄えある歴史 うけ継ぎて        
  祖国をにない 集える我等        
     
                      
二 有磯の海に 風荒れて
  思え車胤を 青春の
  波のごと迅{はや}し 我等の日
  雄々しく潔{きよ}く 血と愛に
  鍛えん秋{とき}を 惜しみつつ
  理想に燃えて 集える我等

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平 昌 の 想 い 出

平成7年{1995}8月末当時の県議会議員だった宮腰光寛氏{現、衆議院議員}と二人で平昌を訪問しました。
これは、その2年程前当時江原道道議会議員だった朴、東洛氏が県議会を訪ね、その応接に当ったのが宮腰氏でした。朴氏は平昌在住で、過疎の激しい、産業のない平昌の村おこしの一環として、五箇山のソバと長野県の大王ワサビ園の視察の為来日。
その案内役を宮腰氏に依頼のため、県議会においでになりました。

その後、2年程経ってから栽培が成功したから、宮腰氏に是非とも訪韓の要請がありました。
そこで、以前から親交のあった私に誘いの声がかかりました・そこで、二人で行った訳です。当時、富山と韓国金浦空港とに定期便が開設された直後であり、富山県内の市町村議員と県議会議員で構成する富山県日韓議員連盟訪韓団の日程に合わせ、二人が先行しそののち、ソウルで訪韓団と合流し富山県と姉妹関係にある江原道庁などを訪問しました。

金浦空港には午後4時頃到着。朴氏が迎えに来てくれ、氏の車で高速道路から一般道路で約6時間平昌のホテルに到着したのは午後10時頃でした。早速歓迎パーティーが始まり、私たち二人に対し、相手方は朴氏をはじめ、平昌郡の郡長、郡の教育長など10数名の方々に歓迎を受けました。
日本では戦前郡長制度がありましたが、戦後廃止されました。しかし、韓国ではまだありました。さて、翌日視察しましたが、ソバ畑は一面真っ白い可憐な花を咲かせ、それに大王ワサビ園より輸入した6千株のワサビも立派に成長していました。
また、ワサビ畑を流れた清水でイワナの養殖をしておられました。私は、何度か韓国へ行きましたが、どうしても、ソウルが中心で食べ物は焼き肉やキムチなどで、刺し身などは無縁でした。しかし、韓国には刺し身はあるし特に、朝鮮半島の東側、つまり日本海側ではイカやヒラメなどの姿作りがあるのには驚きました。

朴氏の話では、ソバや刺し身にはワサビが必要だし、そこにイワナを加え一つの産業が生まれたとのことでした。しかし、ここまで来るのにそれなりの苦労もあったことを話されました。ソバ畑、ワサビ畑、イワナの養殖場などの視察のあと、次に行ったのはオリンピック会場になった所です。朴氏の話ではおそらく韓国最後の大規模リゾート開発で、投資額は約400億円程でホテルやスキー場などの建設が始まったばかりでした。

朴氏はここに冬季オリンピックを誘致すると熱く語っておられたのが印象に残っていました。
その後、施設の完成と共に誘致運動が活発に展開され、幾多の困難を乗り越えて、今回の開催にこぎつけました。この時は正直言ってこの地でオリンピックが・・とは思いも考えませんでした。
この建設現場の視察のあと日本海側の軍事境界線やかっての金日成主席の別荘なども朴氏のおかげで見学できました。また、前述した刺し身も食することができたのも想い出の一つです。その後、議員連盟のメンバーとソウルで合流し江原道庁をはじめとして各所を視察しました。

ただ、残念ながら朴、東洛氏は平成11年頃国際電話で訃報が入りました。
二人で話し合った結果、その時、既に国会議員になっておられた宮腰氏がわざわざ平昌での葬儀に参列されました。宮腰氏の律儀な人柄の一面を見た思いでした。

写真は朴、東洛氏、宮越光寛氏とワサビ畑で{平成7年8月29日}。
もう一枚は江原道庁で宮腰氏と県議会議員・森、雅志氏{現、富山市長}と共に。{同年8月31日}

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広野あさみ選手母校を訪問

3月29日午前11時平昌オリンピックスノーボード女子スロープスタイル、ビッグエアー日本代表として出場した広野あさみ選手が日本代表の青いブレザーに身を包み母校の滑川高校を訪れた。校長先生や当時の担任、部活の担当先生方の大きな拍手に迎えられ校長室に入りました。滑川高校卒業生からオリンピックに出場したのは、昭和43年メキシコオリンピックのレスリングの故堀内岩雄さん以来、実に50年ぶりです。

彼女は在学中はソフトテニス部に所属し、当時の先生の話では運動神経はどの分野を取っても抜群だったそうです。彼女の話では在学中から家族の影響でスノーボードを始め、雷鳥バレーでよく楽しみ、卒業後、新潟のスポーツ専門学校に進み本格的に始めました。
その後、メキメキ腕を上げ、卒業後、世界大会や多くの国際大会で結果を出し今回のオリンピック代表の切符を手に入れたそうです。
結果はスロープスタイル12位でしたがオリンピックの12位ですから凄いと思います。ただ、強風には悩まされたそうです。

そして、オリンピックとワールドカップとの違いは、やはり、オリンピックは日本中が注目し、日本からの応援団の大声援や選手村や食堂での他競技の各国の選手とのふれあい。スケートの羽生結弦選手や宇野昌磨選手などと話をする機会が会ったこと、それにもまして、開会式や閉会式の感動はワールドカップや国際大会とは比較にならないものだったそうです。それらは彼女にとって貴重な体験であり忘れられない思い出になったそうです。

彼女の言葉を紹介します。
「一歩一歩階段を上がってきて、やっとたどり着いた。諦めなくてよかった。」
「たくさんの方々のおかげで、ここまで来られた」
「1人でも、1人じゃない。」

先生方に感謝の言葉を述べての帰国報告会でしたが、校長先生より機会を見て全校生徒に話をしてもらいたいとの要望に快く引き受けてくれました。
同窓会として些少の餞別しかお渡しできませんでしたが、色々な分野で同窓生が活躍していることは、嬉しいことであり、また、誇りにも思います。彼女は今後富山に拠点を置き、スノーボードの普及や指導に当たるそうです。益々のご活躍をお祈りいたします。
「1人でも1人じゃない」の色紙を持ち記念写真を撮りました。

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叙勲祝賀会

大いなる 叙勲の花は咲きにけり 更なる飛躍 米寿目指して

3月20日{火}午後6時富山第一ホテルで吉田昌雄さんが、昨年秋の叙勲で旭日単光章受章の栄に浴され、その祝賀会が開催されました。吉田さんは、医薬品配置販売業を通じて、地域の保健衛生への貢献とともに、関係団体の役員として業界の発展に尽力された功績は大きいものがあります。

現在{一社}富山県薬業連合会副会長や富山県医薬品配置協議会会長などの要職にあるほか、全国配置家庭薬協会配置部会長、富山県薬業配置部会連合会会長、同、北海道部会長、同、栃木県部会長、などを歴任し、その功績が認められたものと思います。
そんなことで、氏の祝賀会は、私も参加しましたが、すでに昨年12月13日{一社}富山県薬業連合会主催で、また、北海道部会によって本年1月17日開催されました。
しかし、その二度の祝賀会に出席出来なかった多くの薬業人から、もう一度開催の声が寄せられました。そこで、1月に入り本人を含め、世話をして頂ける人が集まりました。
その結果、氏が会長を務めている富山県医薬品配置協議会が中心となり、氏が副会長の滑川市薬業会と配置薬業千歳会に打診したところ、快く賛同を頂きました。

そして、発起人代表として協議会の顧問であり、氏とは長年の付き合いがあり、公私にわたりお世話になったことから、不肖私に強い要請があり引き受けました。
世話人会の話し合いで、今回の祝賀会の対象をできるだけ過去の祝賀会に出席していない人。出席者数は88名とした。それは、氏が受章された時は77歳。つまり、喜寿であります。これからも88歳、米寿まで、まずはご活躍を。そんな思いで88名としました。
結果は、案内状を出していない方も出席希望があり100名近い出席者となりました。
これも吉田さんの人徳の表れだと思います。

式は  {敬称略}
①開会のことば 発起人、滑川市薬業会会長、荒井義博
②発起人代表あいさつ 富山県医薬品配置協議会顧問、中屋一博
③来賓祝辞 富山県知事代理 県厚生部長 前田彰久
      富山県議会議長 稗苗清吉
      滑川市長代理 副市長 石川忠志
      {一社}富山県薬業連合会会長 中井敏郎
      {一社}全国配置薬協会会長 塩井保彦

引き続き、富山県医薬品配置協議会より記念品贈呈
次いで、吉田さんのお孫さん8名が壇上に上がり、吉田御夫婦に花束を贈呈。
さすがこの時お2人は目を細め、嬉しさいっぱいのお顔でした。
次いで、吉田さんから感極まった表情でお礼のことばがあり、河上宗勝{一社}全国配置薬協会配置部会長の発声で乾杯があり懇親会に入りました。

宴の途中で、アトラクションとして、津軽三味線が披露されました。
中締めの万歳は今家英明滑川商工会議所会頭が行い、閉会のことばは宮崎吉美発起人千歳会会長が述べ盛会裏に終了しました。
特に、印象に残ったのは、家族のテーブルに吉田さんの御両親の写真が置かれていました。
いかにも、吉田さんの人柄を示すものであります。草葉の陰からこの度の受章をきっと喜んでおられたと思います。

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滑川高校卒業式

3月2日{金}午前10時より234名の卒業式が多数の来賓、保護者出席のもと挙行されました。本校は普通科1学年3クラス、商業科1学年1クラス、薬業科1学年1クラス、海洋科1学年1クラス、新川地区では最大の総合学科を擁する県立高校です。毎年卒業式に招かれて出席している1人ですが、今回特に感じたことを記します。

①石倉校長の式辞は、地球の成立ちから、氷河期の到来、恐竜の絶滅、ダービンの進化論哲学者、パスカルの「人間は考える葦である」などを引用し、強い者が生き残り、弱い者が絶滅するのではなく、環境の変化に柔軟に対応してきた者が生き残ってきた例を上げてこれからの人生を重ねあわせ,示唆に富んだ式辞でした。

②在校生から卒業生への送辞は、蛍の光を在校生全員で合唱する中、在校生代表が登壇し、3年生に対し部活や生徒会活動を通じて指導を受けた数々の想い出を語り、先輩が築いてきた本校のよき伝統を引き継ぐ決意と感謝の言葉でした。

③卒業生から在校生への答辞は、仰げば尊しを卒業生全員が合唱する中、卒業生代表が登壇し答辞が述べられました。内容は、3年間の想い出を一つ一つ丁寧にに述べ、在校生と教職員への皆さんへの感謝と御礼の言葉でした。そして、様々な想い出を胸に新たな人生を歩んでゆく力強い決意表明でした。

答辞は女子生徒で約20分と少し長かったですが、長さを感じさせない内容で、送辞、答辞、どちらも素晴らしい内容で感心して聞いていました。

最後に、卒業生は、平昌オリンピックがNHKで放映された時  流れたSEKAI NO OWARIの「サザンカ」の曲に送られて退場しました。卒業生を送る曲としては素敵な曲でした。それにしても、130年余りも前に作られた「蛍の光」と「仰げば尊し」の歌詞が素晴らしい。やはり、よきものは何時までも残さねばならないと思います。

参考まで
「蛍の光」 蛍の光 窓の雪・・・の歌詞は、古代中国の「晋」の学者車胤が{貧しくて灯油が買えないため、蛍を集めてその光で書を読み、同じく孫康が雪明かりで勉強した}という    故事からとったもので、一生懸命勉強することを{蛍雪の功}といった。
原曲はスコットランド民謡で、明治14年刊行の「小学唱歌集」に「蛍」の題名で発表されたが作者不詳である。スコットランド民謡を敢えて翻訳しないで、「徳性涵養」の教育方針から、道徳的な詩がはめこまれた。
{注}滑川高校校歌二題目に「思え車胤の青春の」とでてきます。

「仰げば尊し」 明治17年に日本で初めての音楽教材集「小学唱歌集{三}」に載っている。ところがこの歌の作者については、編集に関係した人たちの誰かだろうといわれているが、判っていない。外国の民謡らしいという説にも根拠がなく、もし日本人の曲であるとしたら当時としては非常に珍しい、西洋風の長音階である。
戦後の一時期、卒業式にこの歌が歌われることに教師側が抵抗を感じたことがあっが、//PTA/側が卒業式はこの歌でなければ承知しなかった。映画「二十四の瞳」でこの歌をテーマ曲に使い、多くの人々を感動させたのも、この歌に対する感傷性が大きかったせいではなかろうか
発行日平成4年1月31日 CBSソニーファミリークラブ「心のうた、日本のうた」より