なかや一博 ブログ

年別アーカイブ: 2019年

万葉集とその未来

5月4日、富山国際会議場で元号「令和」の考案者と言われている古志の文学館館長で万葉研究の第一人者である中西進先生の「万葉集とその未来」と題して特別講演会がありました。
最初に県より電話を頂いた時、留守にしていたので先生から県に電話をかけた。ひょっとしたら給料を上げてもらえるのかと思い喜んで電話をしたが講演依頼のお話で少しがっかりした。と、ユ―モアたっぷりの話しぶりに会場は笑いに包まれました。

当初、県からの要望は「万葉集と元号」であったが先生の考えで表記の演題にしたとのこと。そして、令和の「和」は聖徳太子が定めたとされる17条憲法第1条の「和を以て貴しとなす」に由来していることを説明されました。
「令」はご令嬢、ご令息、ご令室などを引用し「秩序を持った美しさが『令』。単なる平和ではなく一段と麗しき平和を重ねていくのが我々の宿命」と語られました。
翌日の新聞で知りましたが特別講演会には内外から1140人の応募があり、抽選で選ばれた630人と招待者を合わせた800人が参加したとのこと。さすが、時の人の講演会であり、とても良かったです。

また、帰途、県民会館で開催中の「日展」を鑑賞しました。隅から隅まで見ていると多少疲れましたが見応えのある大作ばかりでした。以前は芸術と言えば「秋」でしたが、県立水墨美術館や近代美術館をはじめとして県内各地に美術館があり、今では年中芸術に触れる機会があることはとても良いことだと思います。

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全日本弓道大会

5月2日―3日第70回全日本弓道大会が、京都市勧業館「みやこ・めっせ」で開催されました。
その折、不肖、私が表彰の栄に浴し夫婦で出席しました。全日本弓道連盟会長、中野秀也・八段範士より賀詞を頂きました。{写真}
表彰終了後、富山県弓道連盟会長・岡本仁・七段教士と共に記念撮影{写真}その後、中野会長の矢渡し{写真・会の姿}を見せて頂きました全日本弓道連盟会長の矢渡しを見る機会は中々ありません。

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即 位

京都産業大学ギャラリーで「即位」に関する大学所蔵資料展を見学してきました。
元号が平成から令和になった日であり多くの人で賑わっているかと思いきや、意外や意外、わずか数人でした。
企画展の場所が場所だけに、また、そんなにPRもされていなかったためと思われます。

内容は、202年ぶりに退位された第119代光格天皇前後桜町天皇などが、京都御所紫宸殿での即位の儀式が詳細な絵図面等で展示してありました。
また、京都迎賓館の調査で見っかった昭和饗宴殿の遺構に関する資料や、それを建設した当時の大林組の写真集など興味深い資料ばかりでした。

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新 選 組

5月1日観光客でごった返す京都へ行きました。さすが、京都です。あふれんばかりの外国人観光客。
コインロッカーは空を探すのに苦労。名所、旧蹟やレストランに入るのに待ち時間が2時間位は当たり前。普段でも観光客で賑わう京都であることを考えると、ゴールデンウイークの真っ只中を思うとやむを得ないのかもしれませんがこの時期には2度と行くべきでないと思いました。しかし、意外にも観光客が少なかったのは、新撰組壬生屯所遺蹟でした。

①八木邸 ②前川邸 ③壬生寺

①八木邸は新撰組が結成された家です。
八木家{写真}は壬生村きっての旧家で長屋門は今から約200年程前の文化元年{1804}、主屋は文化6年の造営です。八木家奥座敷は新撰組三大内部抗争の一つ、芹沢鴨暗殺の場で時は文久3年9月18日どしゃ降りの深夜、泥酔した芹沢鴨、平山五郎ら4人が惨殺されました。
現存する刀傷の一部{写真}がその凄惨さを物語っています。また、深手を負いながらも隣の部屋に逃げようとした芹沢鴨が「文机」につまずき、ここで、とどめを刺された「文机」が当時のまま置かれていました。
隊の規律違反を度々お越した厄介者だったとは言え、隊士によって暗殺され、しかも、その場所が屯所であり、奉行所へは犯人は長州藩士だと届け、葬儀は盛大に行い、近藤勇が弔辞を読んだという。
ガイドの話では、新選組の手によって殺された隊士の数が、暗殺された勤王の志士達の数を上回っていたというから驚きです。
夫婦で写したのは八木邸前です。

②前川邸{写真}は、八木邸だけでは手狭になった為、新たに屯所に使われた家です。
この家で芹沢派といわれた隊士・野口健司が切腹したり、総長・山南敬助が脱走の罪で同じく切腹した所でもあります。
また、新撰組に捕縛された古高俊太郎が土方歳三に取り調べられ、尋問、拷問の末ついに自白し「池田屋事件」が起きた。それが前川邸であった。現在は、玄関入口付近で新撰組に関するお土産が販売されています。
尚、内部は住居として使用されており非公開でした。
いづれにしても、壬生から西本願寺、不動堂村、更には伏見へと隊の膨張と時勢の変転につれて屯所は移ってゆきました。

③壬生寺 壬生狂言でも有名なこの寺も新撰組と縁のある所です。境内には新撰組局長・近藤勇の胸像と遺髪塔があり、暗殺された芹沢鴨と平山五郎の墓や「池田屋事件」で亡くなった隊士三名を含む七名の合祀墓などがあります。毎年7月16日の「池田屋事件」の日に新撰組隊士等慰霊供養祭が行われている。

いづれにしても、「池田屋事件」など新撰組の最盛期を迎えましたが、壬生に生まれ、足かけ3年の新撰組と幕末動乱の京に思いをはせました。

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世の中に 絶えて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし
(古今和歌集 在原業平)

清少納言は「春はあけぼの」と書きました。夜明けの空を赤々と紅色が染め上げるように春は冬の名残りを追い払ってしまいました。
「曙(あけぼの)、朧(おぼろ)、霞(かすみ)」4月の言葉は日本的美意識で迫り私は好きです。

さて、我が家の小さい裏庭に樹齢20年程の染井吉野と枝垂れ桜があります。
今年は花弁の数が少なく桜花爛漫とはいかなかったけれど、7日{日}好天の下、花見を楽しみました。
「花の下の半日の客 月の前の一夜の友 めぐる盃、桜の下で客と接し友と語る」まさに花咲き、鳥歌い、野が山が海が躍動する季節。それが4月だと思います。

ところで、飛鳥や奈良時代から平安時代くらいまでは、花見と言えば「梅」だったそうです。それが桜に変わったのは、「梅」の花見は旧暦1月。寒さが厳しく、「桜」になったと言う説がありますが、信疑の程は私には分かりません。
万葉集全4516首の内、桜に関する歌は47首、梅は約120首です。桜は自生している「山桜」であり、「梅」は宅地内にあり、桜より身近な存在だったのでしょう。
また、「梅」は盆栽にもあるように香りや木{ぼく}の美しさを愛でるのに対し「桜」は、桜花爛漫のような風景を眺め楽しむとの違いがあると思います。

4月1日「大化」(645年)}から数えて248番目の元号が「令和」と発表されました。
出典は従来の中国の古典ではなく、国書{日本古典}である「万葉集」から採用され、確認出来る限り初めてという。
これは、天平2年{730}旧暦の正月13日太宰府の大伴旅人{大伴家持の父}家で梅見をしながらの宴会で詠まれた32首の和歌の前に置かれた漢文の序文「初春令月、気淑風和」から「令和」の2文字が取られたという。約120首の「梅」の歌のうち32首がこの時の歌というから驚きです。

我が家の染井吉野も天候不順が幸いして例年より長持ちしていますが、今日11日から散り始めました。いづれにしても、日本人にとって「桜」を抜きにして春は語れないのかもしれません。

写真は、4月10日の我が家の染井吉野です。

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