なかや一博 ブログ

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養照寺本陣

真宗大谷派藤谷山養照寺{藤谷恵住職滑川市領家町}の建物の内、江戸時代に加賀藩主の休憩、宿泊施設「本陣」の全体を「養照寺本陣」として3月市指定文化財に指定されました。
これを機会に説明会が5月3日養照寺において開催されました。今回は、新型コロナ対策として、手指消毒、検温は当然として、参加者1回10人程度に限定され、13時、14時と2回に分けて行われました。

さて、従来は、滞在中の藩主の部屋だった「御居間」だけが「養照寺本陣(上段の間)」として指定されていましたが、このほど山形大学工学部建築・デザイン学科,永井康雄教授が行なった調査研究により、上段の間だけでなく棟全体が江戸時代後期に建築された当時のまま現存している貴重なものだと判明したため、指定範囲と名称を変更したものです。
永井教授は度々滑川を訪れ、岩城家文書{約6000点}を解読されるなどの第一人者で、市内数ヶ所ある国登録文化財の登録に尽力された方です。

説明会では主に
 ①養照寺の建築について、加賀藩本陣と本堂
 ②滑川宿本陣、養照寺の建築について
  ㋐養照寺の概要
  ㋑火災と滑川宿御旅屋と本陣の変遷
  ㋒「岩城家文書」と養照寺本陣の変遷
  ㋓古図面と現状図比較

など、資料、スライド等を使って解説されました。

参勤交代での加賀藩主の定宿、休憩場所として寛永2年{1625}桐沢家が御旅屋となったのが始まりである。
しかし、度重なる火災で天保9年(1838}高月焼で桐沢家及び養照寺本陣も焼失。片や、養照寺が本陣を勤めたのは寛政元年{1789}以降で、藩主が養照寺を利用した記録は天保7年4月6日と天保13年3月の2度である。今回追加指定された部分も含め建物は天保12年に再建されているから天保13年3月の御成り前には、上段の間{御居間}、白書院、黒書院、滝ノ間、桜の間、玄関、など現在の建物が完成していたと考えると、天保13年に藩主が養照寺を利用することを前提に建築されたと思われる。

それにしても記録では、わずか2度しか利用していないのに普請するなど、かなりの散財である。
しかし、それに耐ええる財を持っていたということであろう。弘化元年{1844}からは小泉屋{旧宮崎酒造}と交互に本陣を勤めるが、やがて激動の幕末になり幕府の権威も権力も衰え参勤交代の規模も縮小、そして廃止となる。
それでも幕末の加賀藩主の参勤交代は約2000人規模であつたという。

藩主は養照寺を利用、それ以外は周辺の民家。現代のホームステイか。さぞかし混雑したことであろう。それにしても藩主の命とあらば断れなかったのだろう。
本陣とは江戸時代藩主が参勤交代や藩内巡視のために、自領や他領を通行する際に、休憩や宿泊する施設。養照寺は元々脇本陣だったが・滑川の本陣であった桐沢家が前述の通り火災のために、これに替り、江戸時代後期から小泉屋{旧宮崎酒造}とともに本陣となった。桐沢家は御旅屋と言われ藩営であり加賀藩専用である。片や本陣は民営である。

上段の間は藩主専用の10畳敷の部屋で、周囲よりも一段高くなっており、身分の高い人物{藩主}の部屋であり、柱には黒部奥山から調達した良質な木材が使用されるなど、随所にこだわりが見られるという。県内で唯一後世の改変を受けていない本陣であるという。
永井教授の、大変解かりやすく、丁寧な解説に感謝します。

参考資料 永井教授配布資料及び広報なめりかわ5月号 
写真は、棟全体、上段の間、解説する永井教授

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高岡市内見学

4月16日{金}高岡市内5か所を知人と見学しました。

①国宝・瑞龍寺
②高岡市美術館
③高岡市万葉歴史館
④勝興寺

①曹洞宗高岡山瑞龍寺
加賀二代藩主前田利長公の菩提を弔うために三代藩主利常公によって建立された寺である。
利長公は慶長10年{1605}44歳で家督を利常{当時13歳}に譲り富山へ。街並みの整備や富山城を築くが、いたち川付近からの出火で焼失。
慶長14年9月高岡へ。高岡城を築城し、慶長19年{1614}53歳でこの地で没した。墓所は利長公33回忌に建立された。

瑞龍寺の造営は正保年間から、利長公の50回忌の寛文三年{1633」まで約20年間の歳月を要した。当時、寺域は3万6千坪、周囲に堀をめぐらし、まさに城郭の姿を思わせるものがあった。
そして、長年にわたる大修理の後、平成9年{1997}12月3日、山門、仏殿,法堂が国宝に指定された。県内での国宝はここしかないから少し淋しい。私の記憶では、北陸3県で寺院が国宝に指定されているのは、福井県小浜市の明通寺と2件である。
福井の永平寺も金沢市内の寺院にも国宝はない。そう考えると貴重な建築物である。墓所も瑞龍寺も利常公によって建立されたもので、いかに利常公は利長公に深くその恩を感じていたかがわかる。建築は大岩日石寺をはじめとして数々の寺社仏閣を建築した名匠山上善右衛門である。
尚、国宝以外の総門,禅堂,大庫裏、回廊、大茶堂は国の重要文化財に指定されている。

利長公の戒名は「瑞龍院殿聖山英賢大居士」であり、寺名「瑞龍寺」はこの戒名に由来すると思われる。
また、受付で偶然お会いした金岡さんというご住職と話している内、私の家は曹洞宗であることを話すと、金岡さんは曹洞宗の滑川の寺院や眼目山・立山寺の住職とも懇意にしていることなど話され急に親しくなり、お陰で寺院内を案内して頂き大変ありがたかった。
いづれにしても、総門、山門、仏殿、法堂を一直線に配列し、左右に禅堂と大庫裏を置き、加えて四周を回廊で結ぶなど、厳粛且つ整然たる七堂伽藍でした。

②高岡市美術館
高岡市美術館創立70周年記念「笑まふ・ほっこりコレクション」が開催されていました。
私が見たかったのは、特別陳列として重要文化財〈勝興寺本・洛中洛外図屏風}{6曲一双}が両隻そろえて展示されている屏風です。実は、「洛中洛外図屏風」は京都の寺院を中心に何点もありますが、二条城の本丸天守閣は勝興寺本のみ描かれているという。他の屏風には描かれていない。つまり本丸天守閣焼失前に描かれたのは、勝興寺本のみであり大変貴重な屏風です。描かれたのは17世紀初頭で、鷹司家から勝興寺に嫁いだ方が持参したという。、往時の庶民生活なども彷彿させる見ごたえある屏風でした。

③高岡市万葉歴史館
元号・令和の制定で万葉集ブームが起きたが、歴史館での企画展は「越中国と万葉集」であった。主な展示品は「越中国印」「越中国府ジオラマ」「越中国守大伴家持の朝服」「難波津木簡」などにグラフィックパネルとして「越中国の歴史」「越中国守大伴家持1・」
「越中国の四季」「前田家と万葉集」などとともに万葉体感エリアとして,大迫力のプロジェクションマッピングによる映像などであった。
興味があったのは、「越中国印」と大伴家持が早月川で詠んだ「立山の 雪し来らしも 延槻の 河の渡り瀬 鐙浸かすも」延槻{はひつき}は早月の語源であり文献上早月が始めて出てきた言葉である。
この歌を「多知夜麻乃 由吉之久良之毛 波比都奇能 河波能和多理瀬 安夫美都加須毛」の万葉仮名にも興味を持った。現存する日本最古の和歌集で20巻4516首からなる。うち大伴家持の収蔵歌は473首で越中在任中の223首もあるという。
中でも、立山連峰を歌ったのは多くある。大伴家持が眺めた立山の山々も、今眺める山々も何ら変わらない。変わったのは、我々の心なのかもしれない。

それにしても、詠み手は天皇や貴族はもちろん、兵士や農民など幅広い階層にわたり、歌われた土地も東北から九州に至るまで日本各地に及ぶという。これが他の歌集と違うところだろう。いづれにしても、1260年余り前にすでに越中という国があり、自治が存在し,以後幾多の歴史を刻み今日がある。その流れに暫し身を委ね、思いを馳せたひと時だった。

④勝興寺
勝興寺は平成10年{1998}から23年の歳月と約70億円の巨費を投じた大修理が去る3月完工し公開された。境内には,殿舎群、堂舎群。伽藍構えとして,唐門、式台門 総門、鼓堂、宝蔵など12棟の国指定重要文化財がある。
パンプレットによれば「勝興寺は浄土真宗本願寺派の寺院で、文明3年{1471}に本願寺八世蓮如が越中国砺波郡に営んだ土山坊を起源とします。戦国期には同郡安養寺{現小矢部市友末}に伽藍を営み、越中一向一揆勢の旗頭として威勢を誇っていましたが、天正9年{1581}に織田方の地元武士により堂宇を焼失され、同じ12年{1584}現在の地に伽藍を再興しました。再興後の勝興寺は、慶長2年{1597}以降、越中国の触頭の地位にあり、江戸時代を通して加賀前田家と密接な関係を保ちながら、広大な伽藍を築き上げました。

境内は、奈良時代の越中国庁跡と推定される所で、万葉集を編纂した大伴家持が国守として5年間在任した。周囲には土塁と空濠を巡らせ、東辺中央に総門を開き、門内の南寄りに唐門,中央に鼓堂、北寄りに式台門を配しています。唐門の後方には本堂、経堂、御霊屋等の堂舎群、式台門の後方には大広間及び式台、台所、書院及び奥書院、御内仏の殿舎群が建ち並んでいます。17世紀から19世紀にかけて建立された建造物が数多く残り、近世真宗大寺院の伽藍の様相を今に伝える貴重な遺産です。」パンフレットより。   
          
特に、京都興正寺から移築された檜皮葺{ひわだぶき}の唐門や城郭を思わせる望楼形式の鼓堂などは一見に値する建造物です。私は、瑞龍寺も工事中の勝興寺も何度か見学したがいずれ劣らぬ壮観な寺院である。呉西には井波の瑞泉寺を含め大伽藍の寺院があるが、呉東地方には少ないように思われる。これも高岡の経済界の並々ならぬ再建への熱意があったことも忘れてはならないと思う。また、呉西には至る所に獅子舞いがあり、曳山車祭があり、高岡の沈金があり、どこか華やかな文化の香りがする。これも加賀100万石の影響か。滑川も加賀領だが10万石の富山が地勢状壁になり、加賀の影響が及ばなかったのか。
これ以上の説明は不要で「百聞は一見に如かず」である。最後に久し振りに雨晴海岸に行った。義経岩より富山湾そして立山連峰、いつ見ても飽きない絶景である。

写真は、パンプレットと越中国印と雨晴海岸より立山連峰を望む。

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入学式

春風や 闘志いだきて 丘にたつ   虚子

4月8日、令和3年度富山県立滑川高校入学式が挙行された。
やはり、新型コロナの影響で式場には、保護者と私を含め来賓4名、校長ほか関係職員に在校生は歓迎の言葉を述べた代表者1名だけである。
国歌や校歌はテープで流され一抹の淋しさを禁じ得なかった。

卒業式は別れであるが入学式は出会いである。
多少は華やかな雰囲気があっても良いと思うが時節柄式は淡々と進行、終了した。
今回、特に印象に残ったのは、新入生は普通科2クラス、薬業科、商業科、海洋科各1クラス、1クラス40名合計200名が定員。
しかし、校長先生から入学が許可されたのは189名である。つまり、11名が定員割れですべて職業科である。この原因は何か、やはり、検証する必要があると思う。
もう一つ、1年生を担当する教員13人がステージに上がり紹介された。男性教員4名、女性教員9名である。
学校全体とすれば教員66名中男性教員34名、女性教員32名で約半々であり、たまたま今年の1年生の担当教員の比率がこの様になっただけと思う。世間では、女性の社会への進出と、女性管理職の比率の向上、そして男女平等が叫ばれて久しい。

当然のことである。ただ私の個人的な感覚であるが、ライセンスの取得などのペーパーテストだけなら、男性より女性の方がいいのではないかと思う。
教員全体の比率が1年生と同様だったら、スポーツの部活動の指導は誰がするのか。少し心配になる。
いづれにしても、新入生が3年間で多くの思い出をつくり、かつ、楽しい高校生活を送ってもらいたいと念じ、学校を後にした。



花見

散る桜 残る桜も 散る桜    良寛

4月2日友人と富山市内4箇所のお花見を堪能した。
①常願寺川公園 ②松川 ③呉羽山 ④県立水墨美術館 

③から④へ移動中呉羽山山麓、安養坊の富山市薬業資料館を見学。目洗い薬から始まる目薬に関する企画展を学芸員の方の解説を交え、目薬の歴史を学んだ。

さて、4箇所の桜は丁度満開で、それぞれが特色を持ち趣を異にしている。松川では遊覧船が浮かび、呉羽山山頂では遥かに立山連峰を望み、眼下に富山市の街並み、そして快走する北陸新幹線。
水墨美術館では、広大な中庭に樹齢50年以上と思われるたった1本の枝垂れも圧巻だがバックが神通川左岸堤防上の数十本のソメイヨシノと、立山連峰を借景としたパノラマも見事であった。

今年は、例年より早い花見であったが充分満足した。
それにしても、県内にはこれ以外にも沢山の花見場所があるのはうれしいことである。

参考まで、我が家にも小さな裏庭に枝垂れ桜とソメイヨシノがあるが今年は桜花爛漫とはいかなかった。
写真は、我が家の枝垂れ桜とソメイヨシノ

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ほたるいか

網しぼり きらめきつくす 蛍烏賊——高島学人

富山湾に春を告げるほたるいか漁も、桜の開花宣言と共に最盛期を迎えてきた。
ご存知の通り、富山湾でのほたるいかの漁獲量が一番多いのは滑川漁港だ。しかも、全国で唯一ほたるいか漁を海上から見学できる海上遊覧があり、且つ、ほたるいかに特化したミュージアムがあることから「ほたるいか」と言えば滑川。滑川と言えば「ほたるいか」の町と言われる由縁である。
「ほたるいか」は他県でも獲れるが、富山湾の漁法は定置網だ。

春先、産卵のため、深海から浮上してくるのを、わずか1.5k~2.0k沖合いの定置網で捕獲する為、鮮度抜群で、刺し身でも美味しく召し上がる。
その「ほたるいか」が1シーズン数回波打ち際に打ち上げられる。その光景も圧巻である。これを多くの人がタモで簡単に掬い上げ、バケツ一杯獲れることもある。これを、「ほたるいか」の身投げという。
本来、身投げとは、陸から水中へ飛び込むことだがこれが逆で、海から陸へ来ることを身投げという。日本語とは面白いものだ。

さて、私は県外の友人に毎年「ほたるいか」を送っている。
今年も、刺し身{生姜付き}、ボイル{辛子酢味噌付き}生ほたるいか{ゆで方説明書添付}の3種類を冷凍便で届けている。今年送った人の中から、先日夜8時ごろ俳優の石原良純さんからお礼の電話があった。
最初に、東京の石原良純です。とおっしゃるので一瞬いたずら電話かと思ったが本人だった。
やはり新型コロナ禍で県外の講演は無し。その為、夜は殆ど自宅に居るそうだ。その日は自宅で「ほたるいか」で舌鼓を打ち酒も少々多く飲んだとか。
そして「ほたるいかの刺し身は都内では滅多に食べれない。とても美味かった。」とのことでした。
また、その後、奥様から丁重な礼状が届いた。

もう一人、京都・清水寺森清範貫主からは、唐の詩人李白の漢詩「山中与幽人対酌」の一節「一杯一杯復一杯」を引用し、李白を偲び、滑川に思いを馳せ「ほたるいか」で杯を重ね、再会を楽しみにしている旨の礼状が届きました。

参考まで、「山中にて幽人と対酌す」――――李白
「両人対酌山花開
 一杯一杯復一杯
 我酔欲眠卿且去
 明朝有意抱琴来]

いよいよ4月1日から5月9日まで「ほたるいか海上遊覧」が始まります。
お問い合わせは下記の通り。

「ほたるいか海上遊覧」☎076-475-9307

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