なかや一博 ブログ

年別アーカイブ: 2023年

石原良純さんと共に

肩にきて 人にやさしき 赤とんぼ  漱石

9月30日{土}石原良純さんが、上市町新町制70周年記念事業の文化講演会の講師として出席のため来町の帰途、滑川に立ち寄られ、久しぶりに再会し、しばし歓談、痛飲した。彼もコロナ禍はほとんど講演依頼はなく、県外に出ることもなかったという。

そんなことで、彼と合うのは数年ぶりである。会話の中で、やはり昨年2月1日89歳で亡くなった父、慎太郎氏のことである。新型コロナの為、お別れの会は延期され、6月9日東京都内で行われた。
私は新聞報道でその様子を知ったが、各界関係者多数の中で、岸田首相は弔辞で「歯に衣着せぬ物言い,信念を貫くための果断な行動で、強烈な個性に強く引かれた」をはじめ多くの人の弔辞の後、最後に長男の伸晃氏が遺族を代表し「天上界で父は本当に感謝していると思う」と述べられた。

お別れの会に先立ち、記者団の取材に応じた良純さんは「父は皆さんに夢を託されて生きた人間だった」と述べていた。この点について彼は私の問いに「父らしい生き方で、悔いのない、いい人生であった」には私も面識はなかったが同感である。

また、昨年4月彼より「石原慎太郎短編小説全集」①②が送られてきた。その中に、伸晃,良純、宏高、延啓の4兄弟各氏が、はがき大の大きさの台詞に、それぞれの思いが述べられていた中、良純氏は「父にとっては、石原文学の頁を開いて頂けることが何よりの喜びなのではないかと思い献本させていただきます」と記してあった。

今年春には、彼がテレビCM出演している某製薬メーカーの第3類医薬品が送られてきた。私の健康を気使ってくれることには、感謝したい。

さて、私と彼との出会いは2002年4月19日、ホタルイカの海上遊覧の取材で滑川を訪れ市内で宿泊し、その夜寿司屋で会ったのが最初である。その時女優秋野暢子さんも同席していた。それ以来の付き合いだから、もう21年になる。
当日、秋野暢子さん同席の写真を含め思い出のスナップ写真を10枚程持参したが、お互い若かりし頃を懐かしみ16時過ぎから18時半頃まで、話に花が咲きあっという間の2時間半であった。

今回、大学生の息子さん良将君が同行し30日は金沢泊。明日10月1日は日曜日で仕事が入っていないので、親子で金沢市内を見物し帰京するという。良純さんらしい家族思いの一面である。

写真は良純さんと息子良将君。2002年4月良純さんと秋野暢子さん。自宅で家族と。小杉寿司にて等。

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基準地価上昇

9月20日、県は2023年7月時点の県内基準地価を公表した。同時に全国各地の地価の変動も公表された。
県内の基準地価は商業地で2年連続上昇、富山市がプラス1.9%で、10年連続の上昇、理由は新幹線開業と南北接続で利便性向上等があげられる。

住宅地は前年同様、富山市と舟橋村で上がったほか、立山町がプラス0.9%となり、2003年以来20年ぶりに上昇に転じた。
富山市との隣接エリアで分譲地の開発が進んでいる影響とみられている。1㎡当たりの最高価格地点は、商業地が富山市桜町2丁目の56万8千円{2万6千円増・1坪187万4400円}で32年連続、住宅地が富山市舟橋南町の12万8千円{4千円増・1坪42万2400円}で35年連続、上昇率が最大だったのは、富山市牛島町の商業地域で6,9%である。

しかし、下がった地域もある。下落率が最大だったのは射水市新片町{新湊}の住宅地で3,7%だった。しかし、上昇は60地点で2022年度から10地点増えた。全国的には商業地の全国平均は1,4%,三大都市圏は4%のプラスで最高価格は東京都中央区の「明治屋銀座ビル」で1㎡当たり4010万{1坪1億3千233万円}で2019年以来4年ぶりの上昇である。

さて、資本主義社会では、「売る、買う」は需要と供給によって決まり、上昇や下落は当然であり、それぞれ功罪はある。故に、マスコミも今回は淡々と報道していたように思う。
そこで、司馬遼太郎が生前産経新聞「風塵抄」に月1回寄稿していた。平成8年2月12日付「日本に明日をつくるために」として掲載された文を少々長いが紹介する。実はこの日の午後8時50分73歳で亡くなった。まさに死の何日か前に書かれたものであろうが言わば「遺言」のようなものである。

「風塵抄――日本に明日をつくるために」 司馬遼太郎
「この世にはわからぬ事が多い。私の仕事は、古い書籍にかこまれていなければ,常在、不自由する。このため、東京オリンピックのあった昭和39年{1964}に、大阪の西区のアパートから、地価の安い東郊の外れに越してきた。早くいえば場末で、大阪市内であふれ出た家並みの東限になる。乱雑に家屋や木造アパートが建ちつつあった。

それらの低い建物にかこまれて、半段ほどの青ネギの畑があった。ときどき耕すとも見回るともつかぬ態度で、老農婦が姿を見せる。このひとは、法的に農地から宅地に転用されるまでのあいだ、青ネギを植えているいるのである。宅地に転用されれば、坪8万円になるという。法的には、体裁として栽培している。
あるいは、擬態として。さらにいえば半段の農地が大金を生みだすための時間待ちとして、1本5円ほどの青ネギをうえているのである。日本史上、はじめて現出したこの珍事象には、いままでの農業経済論も通用せず、労働の価値論もあてはまらない。労働のよろこびもなく、農民の誇りもない。

いかにえらい経済学者でも、この現象を、経済学的に説明することは、不可能にちがいない。青ネギが成長するころ、その農地は大願成就して、木造二階建アパートになり、そのころには、坪数十万円ぐらいになっていた。いかなる荒唐無稽な神話や民話でも、この現象の荒唐性には、及ばない。
これをもって経済現象と言えるだろうか。日本中が、そのようになっていた。物価の本をみると、銀座の「三愛」付近の地価は、先の青ネギ畑の翌年の昭和40年に一坪450万円だったものが、わずか22年後の昭和62年には、1億5千万円に高騰していた。坪1億5千万円の地面を買って、食堂をやろうが何をしようが、経済的にひきあうはずがないのである。とりあえず買う。1年も所有すればまた騰{あが}り、売る。

こんなものが、資本主義であろうはずがない。資本主義は、モノを作って、拡大再生産のために原価より多少利をつけて売るのが、大原則である。その大原則のもとで、いわば資本主義はその大原則を守ってつねに筋肉質でなければならず、でなければ亡ぶか、単に水ぶくれになってしまう。更には、人の心を荒廃させてしまう。

こういう予兆があって、やがてバブルの時代がきた。日本経済は――とくに金融界がーー気が狂ったように土地投機にむかった。どの政党も、この奔馬に対して、行手で大手を広げて立ちはだかろうとはしなかった。
なにしろ、バブル的投機がいかに妖怪であっても、困ったことに、憲法が保証する経済行為なのである。立法府も行政府も、法を基準としている以上、正面から立ちはだかるのは、立場上、やりにくかったのだろう。

しかし、誰もが、いかがわしさとうしろめたさを感じていたに相違ない。その後ろめたさとは、未熟ながらも倫理観といっていい。
日本国の国土は、国民が拠って立ってきた地面なのである。その地面を投機の対象にして物狂いするなどは、経済であるよりも、倫理の課題であるに相違ない。ただ、歯がみするほど口惜しいのは、「日本国の地面は、精神の上において,公有という感情の上に立ったものだ」という倫理書が、書物としてこの間、誰によってでも書かれなかったことである。

例えば、マックス・ウェバーが1905年に書いた「プロテスタンティズムと資本主義の精神」のような本が、土地論として日本の土地投機時代に書かれていたとすれば、いかに兇悍のひとたちも、すこしは自省したに違いなく、すくなくともそれが終息したいま、過去を検断するよすがになったに違いない。

住専の問題がおこっている。日本国にもはや明日がないようなこの事態に、せめて公的資金でそれを始末するのは当然のことである。その始末の痛みを通じて、土地を無用にさわることがいかに悪であったかを――思想書を持たぬままながら――国民の一人一人が感じねばならない。でなければ、日本国にあすはない」

これが全文である。

私には、このような名文は書けないが意とすることは理解できる。
資本主義とは、土地を無用にさわる事は、等かってのバブル崩壊から我々は多くの教訓を得たはずである。バブルとは膨れ上がった風船である、いつか破裂する。破裂した時が崩壊である。
平成8年前後と現在とは、社会情勢も経済環境もちがうから、同一には論じられない。あの時、県内のある金融機関も600億円を超す公的資金が投入された忘れることの出来ない苦い思いがある。基準地価が徐々に上がりつつある現在、バブル崩壊した時の教訓を思い起こすべきであろう。私の思いが杞憂に終わることを念じ――。

写真は、平成8年{1996}2月12日の産経新聞。

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第75回滑川高校体育大会  テーマ 飛龍乗曇~飛ぶ勢いのまま~

大歓声 騎馬戦 綱引き 青き空

標記大会が当初は6日でしたが、雨天順延となり9月7日開催されました。当日は前日と打って変わり、午前中は青空が広がり、ほどよき秋の風が頬をよぎる絶好の体育大会日和となりました。

本校は、普通科1クラス40名で2クラス。商業科、薬業科、海洋科各1クラス、1学年5クラス計200名。全校生徒数3学年合計600名です。私は、戦後の第一次ベビーブームの年代で、1学年、普通科4クラス、商業科6クラス、薬業科、家政科各1クラス、計12クラス、1クラス50名でしたから、1学年だけで600名。
現在の全校生徒数と同じです。1学年600名3学年ですから、全体で1800名。これに当時定時制課程があり、合計2000名を超えていました。今日では到底考えられません。

ですから運動会の団編成は、全日制が4団、1団450人。定時制1団、計5団です。.ゆえに、応援合戦や、リレーなど、それは、それは凄まじく迫力あるものでした。団の名称も「青龍」「白虎」「朱雀」「黄鶴」「玄武」の5団です。それに比べると現在は「青龍」「白虎」「朱雀」の3団、1団200名です。

私の孫が通っている田中小学校は現在生徒数215名で、運動会は「赤」「白」「青」「黄」と4団です。小学校と高校、種目数や内容などの違いがあり、同一に論じることは出来ませんが、高校は4団あっても良いと思います。

また団名に使用されている四神図が一躍有名になったのは、昭和47年{1972}奈良県明日香村で高松塚古墳の発掘調査によって、飛鳥美人と呼ばれる極彩色壁画が日本で初めて発見された時、石室内部の天井及び四周の東側中央に「青龍」その上に日輪、西側中央に「白虎」、その上に月輪、北側中央に「玄武」南側中央に剥落していたが「朱雀」が描かれていたという。

また、星縮図等々も描かれ、日、月、四神を従者にし、死者が永遠の眠りにつく小宇宙を形成しており,中国思想に基づいた貴人の墓とも言われこの時から四神図が世に広く知られるようになったと思います。
私も以前この地を訪ね、施設の中でカビ防止等々の修理中の四神図を窓越しに見学してきました。

さて、私が高校3年生の時は昭和40年。高松塚古墳発見の7年前です。この時既に体育大会の団の名称に四神図が取り入れられていることに驚きます。また、四神図以外に「黄鶴」が団の名称に使っていますが、この出典はわかりません。
例えば、詩人李白が友人「孟浩然」との別れを惜しみ贈った漢詩「黄鶴楼にて・・・」や、中国武漢市のシンボル「黄鶴楼」或は中国料理店の店名によく使われる「黄鶴楼」などからヒントを得たのか、いつ頃、誰のアイデアで四神図などが使われるようになったのか。知りたいものです。現在の生徒諸君も団名の由来ぐらいは知っておくべきです。

いずれにしても、前日の雨天と打って変わった好天気の中、グランドに足を踏み入れた時の熱気から、若さとか、青春とかを感ぜずにはおれませんでした。
私も、青春のひと時を過ごした高校時代を思い出す中、元気を貰った1時間半程でした。

尚、滑川高校創立百十周年記念式典は次のとおり。
日時:11月10日{金}13時30分
   ・記念公演 14時30分、
   ・祝賀会  18時(場所:レストラン光彩、会費:8千円)

希望者は滑川高校事務局 電話076-475ー0164まで申し込みください。

写真は挨拶する金田校長、開会式、3団の応援席。

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滑川市武道大会

こおろぎや あかつき近き 声の張り  内田百間

暦の上では処暑を過ぎ、8月も末になると朝夕はどことなく涼しさを感じ、どこからともなく虫の声が聞こえてくる。
暑い中にも季節の移り変わりを感じる8月27日{日}、第56回滑川市武道大会{主催・滑川市・滑川市教育委員会・滑川市体育協会・主管・滑川弓道会}が市総合体育センター内、弓道場・澄心館で多数の参加を得て盛大に開催されました。

柔道・剣道も開催されましたが、弓道競技は県内の弓人を対象に今年で56回の歴史を誇る大会です。
特に、今年は、姉妹都市長野県小諸市弓道会より6名の参加があり、大会に花を添えて頂きました。久しぶりの再会に平成20年11月9日小諸懐古園内、懐古射院弓道場竣工式に私と妻が招待され、二人で一つ的礼射を行ったことに話題が及びました。

午前9時、弓道競技の開会式が道場で行われ、山岸光隆会長が挨拶、4年ぶりの開催を喜び、日頃の練習の成果を遺憾なく発揮されるように述べ、次いで私が激励の言葉を述べました。
次に教士6段山岸光隆、介添え・4段石坂孝文・介添え3段石尾遼太郎の3氏で矢渡しが行われました。この時は会場は静寂に包まれました。

以後、午前中は高校の部・団体戦と個人戦・いづれも四ッ矢2回8射の的中数で順位を決定。
団体戦は1チーム3人で高校生30人参加。午後は一般の部・団体戦・個人戦で的の直経36㎝は高校生と一緒であるが、順位は点数である。的は赤や黄・青などの色的で、真ん中が10点以下7点、5点、3点、1点で四ッ矢2回、8射の的中の合計点で順位を決定する。

このような形の競技は国体の遠的競技だけであり、県内の大会では滑川だけである。しかし、射撃やアーチュリーにしても点数制である。
いかに目標に正確に当てるか。これが醍醐味の一つであるから、和弓にも点数制は必要と思うが、36㎝の小さな的では、点数の確認などは煩雑で、しかも時間を要することなど問題点があることは理解しているつもりである。

一般の部では38チーム110人を越える参加者であり、この点数制を楽しみに参加している方々も多数おられた。
いづれにしても4年ぶりの開催であり、心地よい弦音の響きに酔いしれた1日でした。

成績は以下のとおり。
<高校生>
 個人男子 1位:富山第一B 山下皇冴 2位:滑川A・坂本琥太郎
 個人女子 1位:富山いずみA・山崎結愛 2位:富山第一・河上心優

<一般の部>
 個人男子 1位:射水A・水口辰郎 2位:富山H・飯田一夫
 個人女子 1位:小諸・小山田理恵 2位:高岡川口幸子
 *団体の部は割愛

特に、一般の部、個人女子で1位になられた小山田さんは、遠路小諸から参加されての1位でしたから良かったと思いました。
大会終了後、久しぶりに懇親会が開催されましたが、私の知らない人も数人出席し、確実に組織は若返りつつあり、山岸会長のもと、滑川弓道会の更なる発展を願い散会となりました。

写真は、矢渡しする山岸会長。表彰式で一般女子個人の部1位の小諸の小山田さん。

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地域の想いに出会う 富山県滑川市・上市町の調査記録 地域社会の文化人類学的調査について32

8月19日{土}午後1時ー4時まで市内ショッピングセンター会議室で、富山大学文化人類学研究室が、1979年研究室創設以来、教育の一環として、学生たちが、北陸の一地域を選び調査実習を行い、その成果を報告書に纏めてその発刊を機に学生たちの報告が標記のテーマで発表されました。調査報告書の作成は今回で32回目だそうです。

報告書は2年間{4半期}にわたる授業の集大成で学生たちは、2年次前期にあたる2021年の春から初夏にかけて県内の複数の土地を訪れ、秋に調査地を滑川市と上市町に決定。
以後、授業時間を利用した日帰り調査を重ね、いわゆるフィールドワークとして足をかけ、耳を傾けての活動は、地域の人々の真剣な眼差しや生き生きとした語りに出会い、これまで誰も文字にしてこなかった情報も報告書には多く盛り込まれている。

報告書は
第一部 つくる・つなぐ
第1章 「にぎわい」はどこからやってくるのか 滑川市街地の事例――窪田歩実
第2章 ネブタ流しの今昔と子供の参加からみる可能性――――――大井萌莉
第3章 上市町におけるさまざまな農業 問題解決に向けた取り組みを中心に―富岡雪乃
第4章 滑川市及び上市町で活躍する作家たちと彼らの作品――中国留学生・丑

第二部 おもう・かたる
第5章 宿場町の過去と現在 滑川市瀬羽町の事例を中心に―――――浦上結衣
第6章 上市市街地の歴史を紡ぐ 街と人々の記憶――――――――松井成弥
第7章 上市町における歓楽街の昔と今―――――――――――――上野由愛
第8章 自然を求める人々 山岳と緑に恵まれた上市町において――渡辺聖菜

第三部 まつる・いのる
第9章 滑川市加島町における獅子舞 次世代へと継承される伝統――小林滉
第10章 道端の石仏と地域の人々との関わり 上市町の地蔵を中心に―森由希子
第11章 「霊水」に魅せられる人々 上市町黒川地区の穴の谷霊場の事例―星野正樹

調査には11名が参加しているが、今回は滑川市に関する発表で5名であった。
この内、第9章加島町の獅子舞は2区と3区の2ヶ所があり、長野県出身の小林君が調査に来宅した。私の住んでいる2区では数人が調査に協力したが私もその中の一人であったことから今回の発表会に出席した。

私は2区に生まれ、育ったことから、当然幼稚園児の時から踊り子として参加し、社会人になっても獅子の中に入ったり,口上を述べるなど70歳くらいまで現役で参加しているから多少の知識があり、知りうる限り彼に説明をした。
しかし、数回にわたり来宅するものだから、その情熱にほだされて、滑川駅まで送ってあげたり、昼食を出したりした。
しかし、この報告書を読むと、実に素晴らしい。

他の方の報告も同様だが、紙面の関係で、小林君の報告の大要を記します。
はじめにー始まり
1ー加島町概要
 ①ー①加島町について
 ①ー②加島町の歴史
 ①ー③加積雪島神社
2ー加島町獅子舞概要
 ②ー①概要
 ②ー②獅子舞の流れ
 ②ー③演目
 ②ー④道具・衣装
 ②ー⑤鯛灯行{やさこ}
3ー獅子舞を支える組織および役割について
 ③ー①睦会{2区}と3区獅子舞保存会
 ③ー②獅子舞を支える女性たち
4ー住民の語り
 ④ー①獅子舞を支える男性たちの語り
 ④ー②獅子舞に携わっている女性の語り
 ④ー③主役となる子どもたち
5ーまとめ・謝辞とそして参考文献

加えて写真も11枚。加島町の略図を添付するなど実に詳細に報告され、A4版230ページに及ぶ分厚い報告書には、正直感心した。
どこに出しても恥ずかしくないと思う。

勿論、彼以外の報告も素晴らしいものであった。
私はかねがね、滑川というコップの中の水は、滑川以外の水も入れ、かき混ぜることによって、より活性化すると思っている。幸い、当日水野市長に柿沢副市長も出席でした。

市では現在、ランタン祭や街Ing滑川など色々アイデアを凝らし、活性化に努めておられますが、彼らの提言も参考にされ頑張って頂きたいと思います。
それにしても、彼らの真摯な発表の姿や何の関係もない滑川を調査しようとするエネルギーに改めて感心した。こんな大学生がいたことに驚いたし、日本もまだまだ捨てたものでないとも思った。

写真は、発表する小林君。前列5人の発表者と富大野澤準教授、水野市長、柿沢副市長。

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