なかや一博 ブログ

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薬業人バーベキュー

お盆に迎えた先祖の霊を送り出す8月16日、午後3時より、我が家の小さな中庭で、「夏バテを吹き飛ばし、商売繁盛」を掲げ、4年ぶりにバーベキューを開いた。

参加者22名は全員配置薬業関係者、いわゆる売薬さんである。ただ一人途中から突然参加された水野市長を含めると23名で実に賑やかであった。
当日は台風7号が近畿、東海、中国地方で猛威を振るい随分やきもきしたが幸いにも、台風の強風域が県内を霞めるように日本海に抜けそのまま北上したので風の影響は全くなかった。
ただ雨である。朝から時々通り雨のようにパラパラと降っていた。しかし、もし雨なら屋内で行う。その時は、焼き肉や焼きソバはなくバーベキューとは名ばかりの懇親会である。

晴れれば当然屋外である。判断に迷うところであるが、1時30分頃から会場設営に集まったメンバーがスマホを片手にウエザー情報を私に教えてくれる。最終的に2時現在、雨雲レーダーでは、滑川上空の雨雲は25分後には消え、その後は晴れるとの情報を最終判断として屋外での開催を決定し設営に入った。
それにしてもスマホの威力には改めて驚いた。

さて、22名も集まれば、回商地が北海道から九州まで、しかも一人で複数県回商するから話題も豊富であり、話に花が咲くのも当然である。
そんな中、水野市長がどこで情報を入手のか、突然参加した。氏の父親も売薬さんであり、親の背を見て育ち、現在氏の弟さんがその後を継いでいることなどから売薬には理解のある市長の一人である。
そんな市長が、富山市に次いで滑川市も物価高騰の折、売薬さんに対し、燃料代等の助成を決定し、すでに市内の売薬さん宛へ郵送済であり、大いに活用して貰いたい。と話された後、業界の発展を祈念し乾杯の盃をあげ再び懇談に入った。

またメンバーの中には、本職と間違う位の調理人がいて、焼き肉や、焼きそばなど実に美味しく頂いた。
それにしても、現代のように情報が簡単に入らない時代には、売薬さんがもたらす全国各地情報は、富山県民の生活や文化の向上、産業の発展に大きな貢献をしたことを忘れてはならないと思う。そして、参加者から、自家栽培の野菜や、県外の銘酒などの差し入れもあり、和気あいあい、かつ中身の濃いバーベキューだった。

それにしても、天気予報は随分進歩したものである。台風にしても発生場所、進路、規模,或は雷の発生場所,各前線や高気圧、低気圧の位置、各地の最高気温や最低気温などの予報はほぼ正確である。これも科学技術の進歩によリ、昭和50年代前半から打ち上げられている気象衛星のお陰であろう。
しかしながら、地震と火山噴火予知は難しい。大規模地震の場合は、直前に地震警報が発せられるが余りにも時間的に余裕がない。火山噴火にしても、段階的に注意や警報が発せられるが、御岳山の噴火を見ても、中々予知は難しい。しかし、科学技術の進歩によっていづれ解決される時代が来ると思う。

一方で、火事の場合は人災が多い。ハワイ・マウイ島の大規模山火事は「強風によって切断された電線が枯草に引火した」との説がある。これも、ある程度の強風になると、停電のマイナスがあるが、送電を中止するとかを考えねばならないと思う。
かって「地震、雷、火事,親父」の言葉も親父の権威も低下し、男女平等が声高らかに叫ばれる今日ではこの言葉は死語になりつつあるように思う。

参考まで、日本で始めて天気予報が出されたのは、明治17年{1884}6月1日東京市内の交番に「全国一般 風の向きは定りなし。天気変りやすし。但、雨天勝手」として貼り出された。
139年前のことであり、隔世の感である。

写真は水野市長を囲み。

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令和5年滑川高校同窓会総会

「越中おわら」の八尾で39℃。石川県小松で40℃。しかも県内では19日間連続猛暑日かつ今年に入り23日猛暑日と富山気象台観測史上最多を記録し、加えて熱中症警戒アラートが連日発令されるなど、正に「地球温暖化」から「地球沸騰化」を実感するような猛暑日の8月10日市内、西地区コミュニティーセンターで滑川高校同窓会{会長・中屋一博}総会・懇親会が午後6時から約60名の参加を得て盛会裏に開催されました。

当日は4年ぶりの飲食を伴う懇親会もあり、出席者はどことなく生気があるように思いました。

総会は毎年曜日に関係なく、8月10日と定められ、会員は
①戦前の水産高校
②滑川高等女学校
③滑川商業学校
④滑川薬学校
⑤水橋商業学校
⑥県立滑川中学校
⑦昭和23年以降の新制滑川高等学校
⑧定時制高校県立水産高校
⑨県立海洋高校

などの卒業生です。

これ程、多様で多くの学校が集まり現在の滑川高校になっています。
同窓生も3万7千人と県下最大規模を誇る同窓会として発展し、各界、各層に有意な人材を輩出し、各分野で活躍しておられることは、私たちの誇りとするものです。

その滑川高校が今年創立110年周年の記念すべき節目を迎えます。大正2年{1913}4月、町立滑川実科高等女学校として開校したのが歴史の第一歩ですが、大正2年と言えば、男女平等や男女共同参画などの意識が極めて低い時代に「女子にも中等教育の機会を」のスローガンのもと、町立で女学校を設立した先人の教育に寄せる熱き思いや、その後、やはり町立で創立する滑川商業学校の2校を相次いで県立に移管するのである。

その後、昭和10年町立薬学校を創立する。つまり戦前には、中新川郡滑川町という人口2万人にも満たない小さな町になんと、県立高校が女学校、商業学校、水産高校と3校もあり、加えて町立薬業校もあったのである。百年の大計は、教育である。つまり「人づくり」の言葉がある。
私たちの先人は、そんな思いで相次いで教育機関を立ち上げたのだろうと思うと、その情熱とエネルギーには頭が下がる。そんな話を私の挨拶でする中、なぜ戦後一時期といえ県立滑川中学校が存在したか。この事実さえも知る人が少なくなってきていることは、私とすれば残念なことであるとも申し上げました。

いづれにしても、年齢も考えも学んだ学科も違うものが、「同窓」の二文字で心が通じ合う。
不思議なことだが、それが同窓会だと思う。誰にも生まれ育った「ふるさと」があるように、青春のひと時を数々の想い出と共に過ごした「学び舎」、それが母校であります。何歳になっても、人それぞれの心の拠り所として、生きる続けているものと思います。

懇親会では、久しぶりの再会を喜び合う姿が見られました。また東京滑川会会長・土肥正明氏も同窓生の一人として、参加して頂きました。最後に、全員で校歌を合唱し母校の更なる発展を祈り,再会を約し散会となりました。

110周年記念事業をご案内いたします。{8月10日現在}
1記念式典 令和5年11月10日{金}13時30分{約1時間}
      場所 滑川高校 第一体育館
2記念公演 令和5年11月10日{金} 14時30分{約1時間30分}
      場所 滑川高校 第一体育館
      内容 音楽鑑賞 東京サロンシンフォニー キャラバン隊
記念祝賀会 令和5年11月10日{金} 18時{約1時間30分}
場所 パノラマレストラン 光彩 会費 8000円

参加は自由ですが人数等把握の為、希望者は学校事務局まで、事前に申し込み下さい。
滑川高校事務局、電話076ー475-0164まで。

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「温暖化」から「沸騰化」

言うまいと 思えど今日の 暑さかな

国連のグレーテス事務総長が「地球温暖化」は終わり、「地球沸騰化」時代に入り、各国が対策を講じるよう発言した。
それを裏付けるように、世界各地で40℃を超す猛暑を観測し、中でも米国・カルフォルニア・デスバレーで55℃、中国・新疆ウイルグル自治区で52℃。また世界各地で多発する山火事。北極海の氷の面積が年々減少、ロシアのツンドラ地帯や、南極大陸そしてアルプス山脈やヒマラヤ山脈の氷河が、かってないスピードで溶け始めている。

こんな二ユースを耳にしても多くの日本人はピンとこない。
先日、7月27日世界気象機関{WMO}は「7月の世界の平均気温は観測史上最も高くなる。7月の世界の平均記録で最も暑かったのは、2019年7月の16,63℃だが7月23日までの平均が既に、16,95℃に上がっており、過去最高記録を大きく更新すると発表し、WMOのターラス事務局長は「温室効果ガスの排出を減らす必要性は、今までにないほど急を要している」と警告している。
国内でも同様である。7月に入って全国各地で40℃に迫る連日の猛暑である。

片や、線状降水帯なる新たな気象用語も日常化し、秋田を始め各地で水害被害が発生している。富山県内でも7月12-13日の県西部を中心に被害が出た豪雨では線状降水帯が始めて観測され、南砺市や小矢部市では土砂災害が発生。
また、6月28日に立山、上市など、県東部を襲った豪雨は「バックビルディング」現象と富山気象台が発表したが、これも耳にしたことのない気象用語である。

県内の猛暑日も8月2日現在11日連続35℃を超し、熱中症警戒アラート連日のように発令されている。
こんな現状でも日本人は他人事のように受け止めているのではないだろうか。確かにこの問題は日本だけで解決出来るものではない。
故に政府はもっと国民にことの重要性を訴え、世界の中で日本の果たせる役割を通して、国際世論をリードすべきでないだろうか。

参考まで記録の一部 国内での最高気温
山形市・40.8℃{1933年7月25日}
熊谷市・多治見市・40.9℃{2007年8月16日}
四万十市・41℃{2013年8月12日}
熊谷市・41.1℃{2018年7月23日}
浜松市・41.1℃{2020年8月17日}
国内での最高気温 熊谷と浜松の41.1℃であるが山形の40.8℃から熊谷・多治見の40.9℃へ0.1℃上がるのに実に74年を要した。
しかし四万十市の41℃まで0.1℃上がるのに僅か6年。次の0.1℃上がる熊谷まで5年、やはり異常である。

富山での最高気温は、1994年8月14日、富山市39.5℃、伏木39.7℃
世界の最高気温 1913年7月10日 米国カルフォルニア、デスバレー 56.7℃
世界の最低気温 2010年8月10日 NASA南極東部 -93℃ 
日本の最低気温 1902年1月25日 旭川-41℃

日本の寒暖の差は82℃である。世界的にも珍しいと思う。
また2013年10月9日 糸魚川市で35.1℃。10月では最高気温。
2019年5月26日 北海道佐呂間町39.5℃ 5月では最高気温。

写真は、米国・カルフォルニア・デスバレー。写真家髙橋明旺氏撮影。1981年10月

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富山大空襲

遠花火 開いて消えし 天の闇  寺田寅彦

8月1日、今年も恒例の富山市神通川有澤橋下流で第75回納涼花火大会が開催された。東京隅田川の花火の103万人の人出{主催者発表}には及ばないが、県内最大の花火である。
ただこの花火の意義は、昭和20年8月2日、富山大空襲の犠牲者の鎮魂や街の復興、そして平和への願いを込めて大空襲から2年後の昭和23年から始まった。8月2日、日本三大花火と言われる長岡の花火も開催趣旨は富山と同様である。

さて、富山大空襲は昭和20年8月2日午前0時36分に、米軍B29爆撃機182機が飛来。午前2時27分までの111分間に12888発の焼夷弾を富山市中心部に投下した。爆撃中心点は富山城址東南の角{以前の時計台付近}とされ、市街地の90%以上の1377haが焼き尽くされ、まさに灰塵に帰した。罹災所帯2万5千、罹災人口11万人、死者は確認されているだけで2719人。実際は3千人は下らないと言われている。

当日の爆撃地は、富山、長岡、水戸、八王子、川崎石油企業群の5か所であった。駿河湾沖や紀伊半島沖から出撃したB29は計858機、内、富山飛来は182機と言われている。富山市街は、大和百貨店、海電ビル{現・電気ビル}、県庁、昭和会館、興銀富山支店、NHK富山支局、と残った建物は僅か6か所だけだった。

この空襲から数日後、氷見市島尾海岸に11体の遺体が漂着した。これは、空襲の熱さから逃げようと神通川へ飛び込んだものの力尽き富山湾へ流れ出したものであった。中には、胸に赤子をしっかりと抱いた若い母親や、離れぬように手を紐で縛り合った12-13歳位の姉と6-7歳位の弟の遺体もあったという。

地元の人たちは遺体を漂着した場所のそばにある松の木の根元にそれぞれ埋葬し、墓標代りに石を置いて毎年供養していた。その後、地蔵尊が建立され現在でも慰霊祭が行われていると言う。戦争とは最高権力者が決断し、被害は庶民である典型的な例である。
それにしても、意外に知られていないことに、大空襲に先立つ7月、2度にわたりB29は富山上空に飛来し、模擬爆弾を投下し訓練を行っている。7月20日、軍需工場と思われる「不二越製鋼東岩瀬工場」「日本曹達富山工場」「日満アルミニウム東岩瀬工場」が標的とされ3発投下された。

しかし、目標地点に命中せず富岸運河左岸に着弾、死者47名、負傷者40名以上の被害がでた。米軍はこの訓練は「うまくいかなかった」として26日再度同じ3工場を攻撃目標として飛来した。しかし、雲量の影響で1発投下。豊田本町に着弾。死者16名。負傷者40名以上の被害が出たという。また焼夷弾も改良された。大正12年9月1日午前11時58分発生の関東大震災で死者10万人と言われるが、これは地震の被害というよりも、家屋が木造建築であり火災での死者がほとんどであったという。これに着目した米軍は焼夷弾を木造建築がより燃えやすく、かつ面的に広がるように改良したという。

それにしても、第2次世界大戦では、300万人以上の日本人が亡くなった。
しかも、その大半が民間人である。戦後、政府は軍人には軍人恩給を支給し、原爆被爆者援護法制定により原爆被爆者にも救済の道は開かれてきた。しかし、昭和20年1月から8月まで空襲を受けた37府県215都市のなんの罪もない、無抵抗の市民を無差別に大量殺りくし、家を焼き命まで落とした人々には何の補償もない。割り切れない思いである。
ロシア・ウクライナでも同様なことが行われている。やはり戦争はやるべきでない。戦後生まれがほとんどを占め、戦争体験者が少なくなったが、神通川の花火の時期が来ると空襲での犠牲者への鎮魂、街の復興、平和への願いに思いを馳せる。

写真は、8月2日の花火{北日本新聞より}。当夜わが家の2階からの月。

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川合玉堂展

時雨さす かづみの里に一夜寝て 今朝立山に 仰ぐ初雪(昭和11年秋)

初雪の 高嶺を裂きてみ空より もみぢの中に 落つる大滝 (昭和11年秋 称名滝にて)

生誕150年記念「川合玉堂展」が、県立水墨美術館で7月14日ー8月6日{前期}8月8日ー9月3日{後期}まで開催されており、私も、7月29日鑑賞した。

上記の「時雨さす・・」の一首は、昭和11年10月末、中新川郡浜加積村曲渕{現・滑川市曲渕}赤間徳寿{初代滑川市長}氏宅に一夜投宿した翌朝詠んだものである。

赤間宅中庭には歌碑が建立されているし、拓本が東部小学校にある。赤間宅に投宿した訳は知りませんが、氏は昭和17年9月―昭和21年4月まで衆議院議員であるのでこの時の人脈の中に玉堂もいたのではないかと思う。赤間宅から称名滝へ向かう。
「初雪の・・」はこの時の詩である。称名滝の少し下流「ひりゅう橋」袂に歌碑がある。まさに一幅の絵を想像する私の好きな詩の一つである。年譜の中に、昭和11年秋、黒部・立山周辺をスケッチ旅行とあるからこの時であろう。

さて、川合玉堂{明治6年・1873}―{昭和32年・1957}は近代水墨画を語る上で欠くことのできない近代日本画壇の巨匠で愛知県一宮市に生まれ、少年期は岐阜で過ごし、その後、京都、東京と転居を重ねる中で、円山四条派や狩野派などの技法を取得した。
さらにそれらを融合して、伝統的な墨の表現、線の表現を、近代日本画の中によみがえらせた独自の画境をひらき、詩情豊かな風景画の名作を数多く残した。

自然の中に身を置き、風景写生を重視し、そこに暮らす人々に温かいまなざしを注いだ初期から晩年にいたる約40点により日本の原風景とも呼べるように味わい深い玉堂の絵画の世界」パンプレットより。
素人の私には、論評する資格はありませんが、作品の多くに人馬が小さく描かれている。私の感想ですが、大自然の中では人間は小さな存在であることを表現していると同時に、大自然の雄大さと厳しさ、その中で生きる人々のたくましさが描かれているように思った。

また、写生帳も展示してあり、10代の頃の鳥や花の描写は本物と見間違う程の緻密な描写である。
ふと、NHK朝の連続ドラマ「らんまん」の植物学者牧野富太郎を思いだした。また、このスケッチ帳に「黒部・権現山」があり、県内に関する作品はこの一点だけであった。
前述した通り黒部・立山周辺をスケッチ旅行している訳あであり、称名滝を含め県内の風景を題材にした作品が他にあるのか、無いのか知りませんが、あれば見たいし、無ければ少々残念である。特に、印象に残った作品に、金地に紅白の梅をダイナミックに配した六曲一双屏風「紅白梅」は郷倉和子氏の「紅梅白梅」とは違った味わいがあるように感じた。「野馬群」や「老松蒼鷹」の六曲一双の屏風も圧巻であった。

玉堂は、昭和15年{1940}66歳で文化勲章を受章して画壇の頂点に立ち、昭和32年{1957}84歳で亡くなるまで描き続けた作品は日本人の原風景とも言える、おおらかさと懐かしさをもたらし、玉堂が画面に描いた景色は、100年近く経った今日でも、見る者を引き付けてやまない。これは、唱歌「ふるさと」とも同様である。だから私は後期にもう一回鑑賞したいと思う。兎も角、「百聞は、一見に如かず」である。

参考まで、玉堂の号は、彼が師とした一人に望月玉泉がいて、一字を貰い玉堂とした。
写真は、二日月{ふつかつき} 紅白梅{六曲一双屏風の右隻} 秋・彩雨。

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