なかや一博 ブログ

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第76回滑川高校卒業式

龍宮の 庭から散りて ほたるいか   坪谷水哉

陽光燦燦として大地を覆い 野が山が海が躍動の季節を迎える中、富山湾に春を告げる風物詩 ホタルイカ漁が3月1日解禁となった。
能登半島地震で富山湾では海底地滑りが発生し、水橋漁港ではホタルイカの定置網が流失し大きな被害が出た。幸い滑川漁港では、ホタルイカの定置網には余り被害がなかったが、昨年の解禁日の漁獲量は僅か59匹{1㎏未満}であったから、関係者は随分心配していた。

しかし、今年の解禁日は106㎏とまずまずの水揚げで関係者はホッとしていた。そして、県水産研究所は、1日今年の湾内でのホタルイカ状況予報を発表し、今年の総漁獲量は2238トンで平年{過去10年の平均}の1261トンを上回るとした。今後に期待したいと思う。

さて、その3月1日滑川高校{校長・金田幸徳}の卒業式が挙行された。昨年は、まだ新型コロナ感染防止対策の為、式場では、保護者にも人数制限やマスク着用が求められた。しかし、今年は久しぶりに制限なしで、開式の辞に続き、全員で国歌「君が代」を斉唱し、次いで金田校長より卒業証書が181名の卒業生に授与された。

校長は式辞の中で
①「熱意をもって物事にあたってほしい」
②「心の回復力{レジリエンス}を高めてほしい」
③「感謝の気持ちを持ち、人を支える側になってほしい」

の3点を中心に話し、激励とお祝いの言葉が述べられました。
祝電披露の後、「蛍の光」がテープで流れる中、在校生代表が進み出て、卒業生に送辞。次いで「仰げば尊し」が、やはりテープで流れる中、卒業生代表が進み出てステージ上の金田校長に向い答辞を述べ、3年間の思い出を語り、特に1-2年生の時コロナ禍で学校行事や部活動の殆どが中止や延期になった時の淋しさ、それを励まし支えてくれた教職員や家族への感謝の言葉。3年生の一年間は、学園祭や大運動会など学校行事や部活動などほぼ消化出来たのも在校生の協力のお陰と語り、時として涙ぐむ姿には私も胸を打たれました。

そして滑川高校での3年間の思い出を胸に、明日から力一杯生きてゆく決意を述べられました。。送辞も答辞も純粋だから感動を覚えるのだろう。次いで、校歌を全員で斉唱したのち、卒業生が選んだ「RADWIMPS」の「正解」のメロディーと拍手に送られて退場し厳粛な中にも滞りなく終えました。

それにしても「RADWIMPS」も「正解」の曲も正直私は知りませんでした。つくづく年齢差を感じるとともに、181名の卒業生の内、女子生徒90名で内、名前に子が付いているのは1名だけであった。やはり時の流れを感じざるを得ない。

ただ、残念だったのは、国歌「君が代」と「校歌」はピアノ伴奏のもと全員で斉唱したが、「蛍の光」と「仰げば尊し」はテープで流れるだけである。私の記憶ではコロナ禍以前は、「蛍の光」は在校生が「仰げば尊し」は卒業生が唱和していた。
校歌二題目に「思え車胤を 青春の」とある。これは「蛍の光」の歌詞と通ずるものである。いづれにしてもこの2曲の歌詞には、今の世に失われてゆく大切なことを教えている。誠に残念である。

極端なことを言えば、この2曲が卒業式の雰囲気を作り出していると言っても過言でない。現在県内に県立高校39校。私立高校10校ある。
この中で、「蛍の光」を歌っている学校は本校を含め僅か6校である。「仰げば尊し」は県立では本校だけ。私立で1校。これを聞いて正直驚いた。多分教えないからだろう。

以前歌っていたものが、コロナ禍で教えなくなった。このままでは数年後にはこの2曲も消えてゆくのではないだろうか。私はそれを危惧する。高校は教え育てる教育の場である。学び習う学習の場ではない。「伝承無きところ モラルなし」との言葉がある。

良き伝統や良き事はきっちりと、伝え教えていくべきである。校長の話も巣立ちゆく卒業生に、教え、諭し、前途に幸多きことを願う教育者としての言葉であり良かったと思う。
そして、校長と教頭には私の個人的見解として、来年は「蛍の光」は在校生、「仰げば尊し」は卒業生が唱和すべきと申し上げた。滑川高校の良き伝統の一つとして県下でただ一校になっても、「蛍の光」と「仰げば尊し」の2曲が歌われている学校として続けてもらいたいと思う。いづれにしても、過ぎし日の学生時代を懐かしみながら校舎を後にした。

参考まで、「蛍の光」と「仰げば尊し」を解説しておきます。
「蛍の光」・・・以前も少し説明しましたが、「蛍の光 窓の雪・・・」の歌詞は、古代中国「晋」の学者・車胤が「貧しくて油が買えないため蛍を集めて、その光で書を読み、同じく孫康が雪明かりで勉強した」という故事からとったもので、一生懸命勉強することを、「蛍雪の功」といった。これを参考に作詞されたのが前述した滑川高校校歌であると思う。

実に素晴らしい歌詞である。原曲はスコットランド民謡で、久方ぶりに出逢った幼なじみ同士が祝杯をあげる歌という。明治14年刊行の「小学校歌集」に「蛍」の題名で発表されたが作者不詳である。スコットランド民謡を敢えて翻訳しないで{徳性涵養}の教育方針から道徳的な詩がはめ込まれたという。

「仰げば尊し」・・・明治17年に日本で初めての音楽教材集「小学唱歌集」に載っている。
ところがこの歌の作者については、編集に関係した人たちの誰かだろうと言われているが、今のところ判っていない。外国の民謡らしいという説にも根拠がなく、もし日本人の曲であるとしたら当時としては非常に珍しい西洋風の長音階である。
戦後の一時期、卒業式にこの歌が歌われることに教師側が抵抗を感じたことがあったが、PTA側が卒業式はこの歌でなければ承知しなかったと言う。映画「二十四の瞳」でこの歌をテーマ曲に使い、多くの人々を感動させたのも、この歌に対する感傷性が大きかったせいだと言われている。

「心のうた、日本のうた」より一部引用。



令和5年度同窓会入会式

2月29日{木}県立滑川高校同窓会入会式が行われた。本校の場合、卒業と同時に同窓会に入会し会員となる。
今年は181名の入会であったが、現在約3万7千人の会員を擁し県下でも最大規模を誇り、各界各層で活躍されていることは嬉しい限りである。

誰にでも生まれ育った「故郷」があるように、青春のひと時を過ごした「母校」がある。
中でも、青春の中心舞台は多感な学校生活であり、それを回顧する時、追憶の中から懐かしい想い出が去来し、哀歓彷彿として思い浮かび、堅い友情に結ばれた出会いと別れ、という青春の讃歌が鮮やかに蘇る。しかし、学生諸君には学生時代の思い出は残っても、同窓会への意識は稀薄である。

しからば、同窓会とは何だろう。それは、日頃同窓会に興味を示さない人でも、例えば、滑川高校野球部が甲子園出場を果たした時、多くの人々は素直にそれを喜び、友人、知人にそれを誇らしげに話す。
これが、卒業生であり、同窓会であり母校の存在だと私は思う。県外在住の富山県人が帰省し、青空に広がる立山連峰の雄姿を見た時、富山県人であることを再認識すると同時に、どこか元気,勇気が湧いてくる。それが故郷の存在なのだろう。

この様に、「故郷」や「母校」の存在は人それぞれの心の拠り処として、生き続けているものと思う。もう一点、私は、夢と志の違いを話した。

広辞苑によれば
夢・・・睡眠中に持つ幻覚。とある。つまり睡眠中に現実に起きていないことを起きているかのように思う錯覚である。
志・・・心のむかうところ。成し遂げようとする目標を心に決めること。

とある。

かって、札幌農学校のクラーク博士が離任する時、「少年よ大志を抱け」の言葉を残した。夢でなく、志である。「医学」を志す。「音楽」を志す。人生に目標を持つことの大切さを話しました。卒業後は社会人になる人。進学する人。
歩む道はそれぞれ違っても、彼らの洋々たる前途が輝かしい未来であることを祈念し、同窓会入会の歓迎の言葉としました。

写真は、私と、同窓会入会者代表の言葉。

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文科省友人

平成15年より文科省から滑川市へ研修生として約3週間派遣されていた事業が20年を迎えた機会に、久しぶりにかっての研修生と2月14日再会した。
事業は東日本大震災とコロナで2回計3回派遣が中止になり、研修生は17名である。彼等が十数年前、文科省なかや会を結成し私が上京の折、時々懇談の機会を持っていた。

平成30年秋の叙勲の際も上京の折、色紙に全員がサインをして記念品を頂いた。感激の極みである。彼等は30歳前後から都道府県等に文科省から出向する。その為、現在本省にいるのは10人位であるが、出向中のメンバーで、例えば現在ある県の教育長やユネスコ日本政府代表部一等書記官としてパリに赴任している人,或は、都道府県の教育委員会に出向中の人などいることから、当日出席したのは私を含め8人であった。メンバーで滑川市へ研修生で来たときは25歳であったのが今や45歳で既に本省の課長の人もいる。

最年少は昨年滑川市に来た25歳の人である。彼等は文科省関係の様々な分野で頑張っており、そんな人々と接する機会があることは私自身も刺激になるし嬉しくも思う。彼等の近況を聞きながら、私はささやかな人生の先輩として話すことは「国家公務員の矜持とは」を問いかける。
かって遣隋使や遣唐使として身命を賭して荒海を渡り、大陸に上陸しても、そこから長安まで数か月かけ、律令制度を含め様々なことを学び、日本に持ち帰る。無事帰国できたのは、渡航した人数の約3分の一との数字もある。

危険を冒してまで渡航に駆り立てるのは何か。この心意気、志が今の国家公務員に欠けている。と、やんわりと指摘する。余り偉そうなことを言うと、場がしらけるのでほどほどで止めるが、彼等がこれからの文部行政を荷っていくことを思うと、やはりエールを送り激励した。
10周年と同様今回は、20年ということもあり,主催・文科省なかや会と書いた横断幕を掲げての懇談会であった。また、当日は欠席でしたが、出向先から会場にワインを差し入れてくれるメンバーもいるなど、有難いことである。6時30分から9時30分まで3時間あっという間であった。

途中ハプニングで別室で会議に出席していた県内選出国会議員が私の姿を見て挨拶に近寄ってきてどんなメンバーかと尋ねるので、事情を説明すると慌てて名刺を取り出すので、文科省のメンバーも全員起立し名刺交換を行った。
5分位のち別の国会議員がくる。また5分位後に別の国会議員がき来て同様の風景が3回展開され、その都度私は彼等を紹介する役であった。3人の国会議員は選挙区の人との懇談会であったと言う。

いづれにしても,彼等とは、和やかな雰囲気での懇談会であったが、今後の活躍を祈り、再会を約し散会した。

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中尊寺金色堂

五月雨の 降のこしてや 光堂  芭蕉

わが家の小さな裏庭に春を告げる「フキノトウ」が芽吹き始めた。
2月14日~15日、全弓連理事会出席で上京した。その折、東京国立博物館本館で開催されている国宝・中尊寺金色堂特別展{1・23~4,14}を鑑賞した。
金色堂は誰もが一度は訪れたことがある所で、私も過去三度金色堂を含め周辺を見学した。今回は、藤原清衡公{1056~1128}よって建立され、東北地方現存最古の建造物で、天治元年{1124}の上棟から、今年が900年になるのを記念して開催された。

特に、今回は堂内中央の須弥壇に安置されている国宝の仏像11体が一堂に展示されたほか、きらびやかな堂内荘厳具の数々も展示されていた。
また、会場内には、大型ディスプレイ8KCGの原寸大に再現された金色堂の内部が迫力ある映像で見ることが出来た。

さて、金色堂は中尊寺創建当初の姿を今に伝える建造物で、数ある堂塔の中でも取り分け意匠が凝らされ、極楽浄土の有様を具体的に表現しょうとした清衡公の切実な願いによって、往時の工芸技術が集約されたのが金色堂と言われる。
特に、内外に金箔の押された「皆金色」と称される御堂の内陣部分は、はるか南洋の海からシルクロードを渡ってもたらされた「夜光貝」を用いた螺鈿細工や象牙によって飾られているのには驚く。
須弥壇の中心の阿弥陀如来は両脇に勢至菩薩、観音菩薩、六体の地蔵菩薩、持国天、増長天を従え、他に例のない仏像構成で、全仏像が展示してあった。

この中尊寺を造営した初代藤原清衡公をはじめとして、宇治平等院を模した毛越寺を造営した二代基衡公、源義経を平泉に招き入れ、無量光院を造営した三代秀衡公、そして、四代泰衡公の亡骸は金色の棺に納められ、孔雀のあしらわれた須弥壇の中に今も安置されていると言う。

仏教美術の円熟期とも称される平安時代末期、東北地方の二度にわたる大きな戦い{前九年・後三年の役}で亡くなった生きとし生ける者の霊を敵味方なく慰め「みちのく」と言われ、辺境とされた東北地方に、仏国土{仏の教えによる平和な理想社会}を建設すると言うものだった。
その規模は、鎌倉幕府の公式記録「吾妻鏡」によると寺塔が四十、禅坊が三百に及んだと記されているという。平泉はおよそ百年近くにわたって繁栄し、「みちのく」は戦争のない「平泉の世紀」だった。しかし平家を倒した源義経が兄・頼朝と対立し平泉に落ちのびる。
だが、義経を保護した秀衡公が病死すると、四代泰衡公は頼朝の圧力に耐えかね義経を自害に追い込んだのはご存知の通りであるが、その泰衡公も頼朝に攻められ、文治5年{1189}奥州藤原氏は滅亡する。

その金色堂を風雪から守るため正応元年{1228}覆堂が作られる。その後、鎌倉時代以降、大きな庇護者を失った中尊寺は次第に衰退し、建武4年{1337}の火災で惜しいことに多くの堂塔、宝物を焼失する。
芭蕉が奥の細道紀行で訪ねた元禄2年{1689}頃は、かなり朽ち果てていたらしく、堂の四囲を板で囲んでいるだけだっらしいがそんな簡単な覆堂でも500年以上も風雨雪から守り続けた木造建築には驚かされる。まったくよく残ったもので多分芭蕉の句は、五月雨もここだけよけて降ったので、幸い光堂が残ったのかもしれない。と思って詠んだのかもしれない。

尚、現在の覆堂は、昭和38年{1963}の金色堂解体修理とともに建てられた。この地方に平和をもたらすべく建立した中尊寺の堂塔が古の栄華を今に伝え、その代表的な建物が金色堂であろう。平成23年{2011}に中尊寺を含む「平泉の文化遺産」が世界文化遺産に登録された。いずれにしても見ごたえのある企画展だった。

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藤井聡太8冠対伊藤匠7段

昨年2023年10月11日、第71期将棋王座戦5番勝負第4局が京都で開催され、3勝1敗で勝利し、藤井聡太8冠が誕生した。21歳の若者が将棋のタイトルを総なめにした二ユースは、将棋界の枠を超えて日本中の注目を集めた。
ただ、全冠制覇という意味では、1996年当時の7冠を羽生善治9段も達成している。

ただし、藤井棋王の場合は特筆すべき点が2点ある。
①登場した19回のタイトル戦で一度も敗れることなく8冠を達成したこと。
②タイトル戦のみならず、4つの一般棋戦でも優勝、出場できる12の棋戦すべてを制していること。
完全制覇であり、まさに「藤井1強」である。

そんな8タイトルを独占する藤井聡太棋王{21歳}竜王、名人、王位、叡王、王座、王将、棋聖に初タイトルを狙う、伊藤匠7段{21歳}が挑戦する第49期棋王戦5番勝負第1局が2月4日{日}新川文化ホールで開催され、その大盤解説会に、へぼ将棋を自負する私も参加した。

立会人は森内俊之9段が務め、解説者は地元魚津市出身の村田顕弘6段{37歳}、富山市出身・服部慎一郎6段{24歳}同市出身・野原未蘭女流初段{20歳}の3人の富山県出身者が戦況を分かりやすく解説された。
対局は午前9時から文化ホール内、別室で始まり、大盤解説会は大ホールで、別室から中継する形で行われた。しかし、午前中は早いペースで進み、10時30分頃には、80手まで進んでいたという。

大盤解説会が始まる午後1時には1200名の座席はほぼ満席であった。しかし、解説が始まった時は、解説者の話では戦況は終盤の様相だという。だが、ここからが中々手数が進まない。ステージ上のスクリーンに映し出される対局室の風景には、藤井棋王が何度も身を前傾姿勢にし長考にふけるシーンが映り出される。

この時、入場時に貰った次の一手を記入し係に手渡す。伊藤匠7段の次の一手であったが、これは解説者2名がそれぞれの案をA案、B案、それ以外のc案の3案から1案を選び、正解者から抽選で藤井棋王の扇子、色紙、それに当日出席の各棋士の色紙計7点が2度プレゼントされた。私は2度挑戦したが次の一手は2度とも外れた。2名のプロ棋士の予想も2度とも外れたのは意外であった。

当選者の中には遠く静岡や東京からの人たちがいたことにも正直驚いた。藤井フアンの追っかけなのか、それとも純粋な将棋フアンなのか・・・・
1時解説が始まったが、2時頃には解説者がこのまま進めば、持将棋になるのでは。と発言しだした。結果は5時35分129手で予想通りタイトル戦では珍しい「持将棋」となった。

少し古い話で恐縮ですが、昭和40年代後半、私は宮城県塩釜市周辺を回商していた折、宿泊旅館の近くの地区公民館で「中原誠名人の集い」があり、会費はお菓子付きで300円で誰でも入場出来たので私も参加した。
その中で特に印象に残ったのは、会場の人からの質問コーナーで、小学生と思われる児童が,なん手位先を読むか、との問いに、序盤、中盤、終盤では違ってくるが、やはり中盤から終盤にかけてであり、約120手位を3通り、それを3回復唱するとの答弁には正直ビックリした。
この時は約120分の長考とのこと。また、次の一手の正解者に抽選で「中原誠の自然流」の本がプレゼントされた。永世十段を含め5つの永世の称号を持ち、通算1308勝は羽生、大山、谷川、加藤一二三に次いで、歴代5位。

大山康晴・永世名人を含め5つの永世の称号を持ち、タイトル獲得80期。この人とお会いしたのは、昭和57年黒部JC5周年記念の記念講演講師として黒部においでになった時で、中原誠の集いに、質問した児童と同じ様な質問をしたところ同様な答えであった。
ところが平成18年{2006}10月5日魚津第一インで開催された、羽生善治講演会で控室で彼とお会いした。現在彼は無冠の帝王であるが、日本将棋連盟会長である。ご存知の通り25歳で、当時のタイトルすべてを制覇し、7冠王{名人,竜王、王位、王座、棋王、王将、棋聖}でしかも、47歳で7大タイトル全ての永世資格を得て将棋界初の永世7冠を達成した。

現在でもタイトル獲得99期は1位であり、2位大山康晴80期、3位中原誠64期で羽生善治氏はダントツである。この記録を破るとすれば、やはり藤井聡太8冠であろう。

さて羽生善治さんとお会いした時、彼は36歳でまだ3冠を持っておられた。この時も同様な質問をしたところ意外な答えであった。彼は多少手数は読むが、最後は直感である。その直感が最も冴えるのが、10代半ばから20代半ばであり、以降直感が衰える分は、経験でそれをカバーするとの答えだった。事実彼は25歳で7冠を達成しているし、藤井聡太8冠の年齢を見ても納得できる様な気がする。しかし、その裏には、詰め将棋やコンピューター将棋など,たゆまぬ努力と研究、それに裏打ちされた直感であろうから、常人の及ばぬところである。それにしても始めての体験である大盤解説会であったが、大変よかった。

尚、いつも話題になる「将棋めし」は藤井棋王は魚津産ベニズワイガニを贅沢にのせた「スパイシーカレー」.伊藤7段は,バイ飯や氷見牛のローストなどが楽しめる松花堂弁当。また、午前と午後の2回のおやつは、藤井棋王が「いちご大福」。伊藤7段が「加積りんごのタルトタタン」午後は伊藤7段が「いちご大福」。藤井棋王は「加積りんごの果汁100%のジュース」などの飲み物であった。

そして、いつも思うことだが、藤井聡太さんと大谷翔平さんの、己の善を語らず,他者を批判しない。常に謙虚な姿勢には感心する。両親はどんな教育をされたのか。機会があれば是非ともお聞きしたいものである。
写真は、新川文化ホールステージ上の大盤解説会。対局風景。会場に飾られた藤井聡太8冠の色紙。大山康晴氏。羽生善治氏。

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