なかや一博 ブログ

年別アーカイブ: 2024年

再会ー1

5月18日開催の東京滑川会出席の為、前日の17日上京した。
まず17日昼大宮駅で下車し、36年前ヨーロッパへ行政視察に参加した30名の内、気の合ったメンバーが「5人会」と称し、今日まで交流が続き、私が上京の折時々会っている。
今回はあいにく一人欠席で4人あった。南浦和駅に集合し昼食会で懇談した。私以外の3人は2人は中学校校長、もう一人は財務省幹部で定年を迎え方で、話に花が咲き、次回は富山で会うことを約し散会したが、36年の長い間よく続いているものと、我ながら感心する。

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令和6年薬神神社春季例大祭

今日 何も彼も なにもかも 春らしく  稲畑汀子

5月8日低気圧による寒気が流れ込み、気温12℃しかも小雨が降る肌寒い中、北海道滝上町の見頃の芝桜に2㎝の雪。5月の雪は13年ぶりという。その日に、恒例の標題の例大祭{主催・薬神神社奉賛会・会長石倉雅俊}が執り行われた。当日はあいにくの荒天の為、神社横の社務所より神社に向かっての遙拝参拝になった。

横川宮司による祝詞奏上、次いで石倉会長始め、私を含め薬業関係者に続き、水野達夫滑川市長、杉田隆之・市商工会議所専務理事等順次玉串奉奠を行い、商売繁盛、交通安全などを祈願した。石倉会長は挨拶で、能登半島地震にも触れながら、困難な時こそ一致団結して乗り越えようと呼びかけられた。

引き続き能登半島珠洲市を回商している業者から、珠洲市の4月末の現状について報告がありました。
道路は一部開通していたが、水道は未だ70-80%断水、全壊家屋や半壊家屋も1月テレビで見た状態と殆ど変わりなく、車中泊や納屋,或は半壊家屋の一間で生活している人、なかなか進まぬ被災者住宅の建設など、本当に悲惨な状態であることをを話されました。

次いで、水野市長から,自身は近く珠洲市へ1市民としてボランティア活動で行く。活動の中で現地の人々は、今、何を必要としているのか。など含め実情を見てきたい。と述べる中、今後とも業界の振興に尽力する旨話されました。又、司会者より私に指名がありましたので、去る5日琵琶の会で話したのと同様、「こいのぼり」の話をしました。

私が子どもの頃、風になびく「こいのぼり」をあちこちで見た・しかし、時代の変化で「こいのぼり」は「5月人形」に変わってきた。これは典型的な時代の流れに対応したものである。

昭和6年{1931}作られた「こいのぼり」。「屋根より高い こいのぼり 大きな真鯉はお父さん・・・・」の歌は94年経った今日でも、色褪せることなく、何の抵抗もなく今尚、保育園や幼稚園で歌われている。つまり、時代の変化と共に変わって行くもの、変えなければならないもの、変えずに残さなければならないものがある。時代の流れに対応したのが「5月人形」であり、変ることなく続いているのは「歌」である。

これは時代の変化に対応する者は、生き残るであろうし、逆は自然淘汰される。これが「不易流行」世の常で在り配置業者の方々に一層の奮起をうながしました。

写真は、社務所から見た薬神神社、玉串奉奠の水野市長。私。

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錦秋流琵琶追悼演奏会

よきことも 目にも余るや 春の花

どなたの句かは知らないけれど 私の好きな句の一つです。
さて、暦の上では初夏とは言え、富山空港では32.5度の真夏日を観測した5月5日は抜けるような空の青さ。かって風をはらんで青空を泳ぐ「こいのぼり」の姿があちこちで見られたが、今はすっかり影をひそめた。
そんな5日、錦秋流琵琶全国一水会富山支部{支部長・嶺瑛水・後援会長・中屋一博}の演奏会が故・前支部長・杉本紫水{操}さんの追悼を兼ねて、滑川市瀬羽町、国登録有形文化財・旧宮崎酒造「ぼんぼこさ」を会場に開催された。

それにしても、別れとは、実にアッけなく、実に簡単に、実に突然訪れるものである。
杉本さんの演奏を最後に聴いたのは、昨年10月22日、高岡市文化芸能館能楽堂であった。この時、現役奏者としては県内最高齢で90歳の吉崎楓水さんと「富士山」を合奏され、薩摩琵琶特有の大きな撥を華麗に捌き、力強い音色と語りが遺憾なく発揮され、会場を埋めた聴衆を魅了された姿が忘れられない。
その後、11月に入り高岡での演奏会の写真を届けて頂いたのが最後となった。数日後入院。僅か一週間余りで旅立たれようとは想像も出来なかった。私が後援会長をお引き受けしたのも杉本さんとのご縁であったから尚更であった。

当日は、昨年合奏された吉崎楓水さんと、杉本さんの娘さんである有沢結水さんがやはり合奏で「青葉の笛」を演奏された。平家の若武者、平敦盛が源氏の武将熊谷直実に打ち討られ、彼の懐から青葉の笛が出てきた。
世の無常を感じ出家した直実が再びこの地を尋ねたところ、どこからともなく青葉の笛の音が聞こえてきたという故事に因んだものであるが、私はこの「青葉の笛」と杉本さんの琵琶の音と重ね合わせて聴こえたような気がした。

81歳。琵琶を始めて30年。これからが円熟の境地。そんな矢先の別れ。やはり残念である。
私は弔句として「忽として 輝き尽くし 散るもみじ」と詠んだ。又、演奏曲目「晩歌」は大内隆作氏が追悼の誠を捧げ作詞されたのを、高堂瓏水さんが、在原業平の辞世の歌「ついに逝く 道とは予{かね}て聞きしかど、去年今年とは 思わざれけり」や漢詩・安達漢城作「追悼の詞」を挿入し朗々と奏でられたのには胸を打たれた。

又、新支部長に就任された嶺瑛水さんより、杉本さんの功績を称え、杉本さんの意志を引き継ぎ会発展に尽力する旨話され,私からも挨拶の中で同様のことを話し、今後とも変わらぬご支援をお願いしました。

さて、この日は「こどもの日」であり、会場の土間には十数匹の大きな「こいのぼり」が吊り下げられたり、五月人形も多数飾られ「こどもの日」に相応しい会場であった。私は挨拶の中で「鯉のぼり」について多少触れた。竜門の滝を登った鯉が龍になる中国の故事に因むことはよく知られている事だが、「こいのぼり」の歴史は意外に浅いのには驚いた。

当日の北日本新聞「天地人」によれば「庶民の中で「こいのぼり」が飾られたのは江戸時代になってからでである。男の子の立身出世を願って、和紙で作られた鯉を一匹だけで始まった。明治になって木綿製が現れ、昭和に入り高度経済成長期にナイロンの商品が出た。丈夫で軽く、量産が出来る。
1962年埼玉のメーカーが5色セットで売り出すと、評判に。以降は5匹も増えて第2次ベビーブームの70年代は,史上最もたくさん泳いだとされる。{天地人より}

そこで「こいのぼり」の歌が2曲あることを話した。
①「鯉のぼり」大正2年{1913}
 甍の波と雲の波 重なる波の中空を
 橘かおる朝風に 高く泳ぐや鯉のぼり

②「こいのぼり」昭和6年{1931}
 屋根より高いこいのぼり 大きい真鯉はお父さん
 小さい緋鯉は子供たち おもしろそうに泳いでる

大正2年の「鯉のぼり」は少しむずかしい、ということで昭和6年に新たに作られた。
今から94年前の歌が今でも保育園や幼稚園で何の抵抗もなく歌われているし、これに変わる歌もない。
つまり、単に古いから、或は戦前の歌云々でなく、時代が変わっても残すものと、屋外の鯉のぼりが時代の流れによって,五月人形のように変わってゆくものがある。飾られた「鯉」は変わっても、歌は100年経っても色褪せることなく歌い継がれている。

私は琵琶も能楽も詩吟も漢詩の世界も同様と思う。琵琶で奏でる演奏曲目は、ほとんど歴史的故事に因んだものばかりである。親子の愛や肉親の情など、今の社会で失われつつある大切なことを教えている。「不易流行」今一度考える機会になった。
会場一杯に訪れた人々にとって、杉本紫水さんへの追悼の演奏会になったと共に、琵琶に親しむ機会になったとすれば幸いです。

写真は、挨拶する私。新支部長の嶺瑛水さん。合奏の吉崎楓水さんと有沢結水さん。 

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第12回(第73回)日本海開き

立山に かすみて遠し 鯉幟  高嶋学人

5月1日{水}午後1時から滑川高校{校長・金田幸徳}恒例の「日本海開き」が上市川河口、高月海岸で行われた。
これは、かって県立水産高校時代の昭和26年{1951}から始まり、平成12年{2000}海洋高校と校名を変えた後も続き、平成22年{2010}高校再編で現在の滑川高校海洋科へと引き継がれ、再編後から今年は12回目、通算73回の歴史を誇る伝統行事である。

目的は「海洋高校の伝統を継承し、富山県立滑川高等学校海洋科の生徒のはつらつとした若さと旺盛な心意気で海に挑む海洋精神と粘り強い、意気の高揚を図る」とある。以前、県内では水産関係の単独校として滑川の海洋高校と氷見市の有磯高校の2校があったが、再編統合により海洋高校は滑川高校と、有磯高校は氷見高校と統合し、旧校の精神を引き継ぐ形で、総合高校の一学科として存続し現在に至っている。

獲る漁業から育てる漁業へと転換が図られる中、漁業従事者の後継者難に加えて、最近では海水温上昇などで、北海道では「鮭」が不漁で「ぶり」が大漁という。富山湾内でも本来南方系の「シイラ」が獲れだすなど、漁業を取り巻く環境も大きく変化しつつある。
特に水産関係の高校で単独校は近県では新潟県立海洋高校{糸魚川市能生}1校で、石川県立能登高校、福井県立若狭高校には富山県と同様、総合高校に水産関係の学科がある。単独校ではないが県内の2高校に水産関係の学科があることは、他県と比べれは良しとしなければならないのかもしれない。かって水産大国日本を支えた高校がこの様な状態だから一抹の淋しさを禁じ得ない。

さて、当日の天候は、前日の雨も上がり、曇り空とは言え気温14℃。風も少しあり、海も荒れ模様.海水温度13℃と見物している私でも肌寒く感じる位でしたから、体感温度はもっと低かったと思われた。
ましてや、遊泳場所は上市川河口ですから真水も入り込み生徒諸君にとってはかなり寒かったと思う。それでも飛び込むのだから若いことは藁やましい。

最初に学年ごとに円陣を組み、気合を入れた後、ピストルと太鼓の合図で3年生が一斉に海に飛び込み30m程先の「浮き」まで泳ぐ者、波打ち際で水を掛け合う者など様々でした。しかし、これも海洋科の生徒しか味合うことの出来ない思い出の一つになると思う。
3年生が上がると、2年生、1年生と順次行い、その間金田校長、私、上田市教育長、大門県議が太鼓を打ち鳴らし、生徒の士気を鼓舞しました。

これが終わると、全員が再度飛び込み終了となりました。いつも思うことだが、富山湾内にあって「日本海開き」とは少々大袈裟に聞こえるが「日本海開き」の言葉から、又、目的の中にもあるように「気宇壮大」つまり心意気がきわめて大きく、盛んであること。
最近の若者から失われつつこの言葉を、生徒の一人でも感じ取ってくれたらと思う。こう考えるのもやはり私自身歳を取った証なのかもしれない。

写真は、太鼓を打つ金田校長と私。

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「日本海詩人」のきらめき・大村正次・キクをめぐりて

散る桜 残る桜も 散る桜  良寛

4月20日、北海道・松前のソメイヨシノが満開になり、札幌で開花宣言がでた。
30年ー40年前は4月末から5月の連休時期が、青森県弘前城の桜が満開で、桜まつりが開催され、夜桜を含め何度か花見に行った。これが終わると桜前線は津軽海峡を渡り、函館に上陸した。今年の桜の開花宣言は富山を含め全国的に、予想より遅くなった。しかし、北海道はこの様な状態だからやはり地球温暖化の影響だろうか。

さて、その当日、「日本海詩人」と大村正次{まさつぐ}キク夫妻の顕彰誌発行記念シンポジウムとパーティーが富山市の古志の国文学館研修室で開催された。正直言って、大村正次ご夫婦、或は「日本海詩人」と言っても、私は知らなかったし,多分多くの人も同様と思う。

それが縁とは不思議なもので、2015年夏頃、全く面識のない宝塚在住松原勝美氏より突然お電話頂いた。氏の先祖は滑川市荒俣出身で、曾祖父の妻が四ツ屋、中屋より嫁ぎ1900年{明治33}夫婦で北海道へ移住した。滑川に残った松原家を市役所で戸籍等調査したが解らない。せめて曾祖母の実家の中屋はどこか。これが氏の質問である。

私も多少は物好きであるが、明治の半ばに松原家に嫁いだ女性は。これには一服したが、多少四ツ屋部落に詳しいと思われる人の名前を挙げた。氏は氏で調べた結果、たどり着いたのは中屋家の総本家といわれ、当時19代中屋家当主中屋敏子宅を訪問予約をしたという。
10月24日わが家へ来宅したいと言う。そこで勝手ながら中屋家の菩提寺である禅宗の海恵寺{真田光道住職・上市町立山寺住職兼務}に質問事項を事前にお知らせし、最初に松原氏と二人で総本家の中屋家へ。次いで、中屋敏子さんと3人でお寺へ行った。

残念ながら中屋家の過去帳ではあくまで中屋家の人に限られていた。お寺の過去帳は、殆ど名前と戒名と没年月日しか記入してない。これでは探しようがない。お寺にはこれを機会に過去帳に俗名と生年月日位は記入すべきと申し上げた。当然我が家の過去帳にも。生年月日と没年齢{かぞえ}を追加し、この時我が家の家系図も作成した。

ということで残念ながら松原家に関しての調査は進展しなかった。それが数年前、今度は、富山市新庄町の金岡キクを知らないか。とのお電話である。新庄町で金岡と言えば金岡又坐衛門しか知らない。県民会館分館「金岡邸」である。金岡家の家系図が展示してあることをお伝えした。結果は岩瀬の金岡家であった。

その後、氏は大村正次の調査を開始する。松原氏が旭川東高等学校在学中の時、教員に大村正次がいた。当時東高校には校歌があり、加えて逍遥歌を昭和26年教員であった大村正次が作詞したという。現在の私では校歌以外にもう1曲あるとは理解できない。これを当日出席しておられた松原さん以外の東高校同窓生の方に尋ねたところ、かって校歌以外にも寮歌等があったように、戦後も数校に逍遥歌があったと言う。ここで大村正次・キク夫婦の略歴を記す。

大村正次
明治29年6月15日東岩瀬652番地に生まれる。
明治45年。富山師範学校卒業、本科4年制入学。

大正4年 室生犀星の「卓上噴水」に詩「金像」をペンネーム鳳太郎で投稿。掲載される。
大正5年 富山師範学校本科卒業。母校東岩瀬尋常高等小学校訓導{6年間}
大正10年 元同僚金岡キクと結婚。その後高岡や県外転勤のあと、妻キク石動高等女学校勤務が決まり石動町小矢部47に転居。
大正15年県立高岡中学校へ転任。2月「日本海詩人」石川県版が金沢で創刊。この頃「日本海詩人」同人となる。
大正4年2月 井上靖石動町の大村正次宅訪問。この頃より、妻キク大原菊子の筆名で休刊まで作品を発表。
大正7年「日本海詩人」休刊。

昭和2年5月「日本海詩人」富山・新潟版が富山で発刊
昭和3年10月詩集「春を呼ぶ朝」刊行
昭和20年7月旭川へ転居.。旭川中学校嘱託教師となる。妻キク道立旭川高等女学校勤務。旭川市7条11丁目左2号に居住。
昭和23年旭川中学校が道立旭川東高等学校に改称。同校教諭。
昭和26年 旭川東高等学校逍遥歌を作詞 新制高校初めてのものとして「蛍雪時代」に掲載される。
昭和27年 上京した正次は戦後初めて井上靖に会う。
昭和30年 旭川北海ホテルで井上靖と会う。
昭和35年 キクと離婚 旭川東高等学校退職。同校嘱託教師となる。
昭和38年10月旭川を離れ富山へ。東岩瀬新川町2区に住む。藤園女子学園富山女子高校に勤務。
昭和42年「大村清風」と号し北陸書道院月刊誌「臨池」に漢詩を発表。
昭和44年同校退職。
昭和49年6月77歳で逝去。金岡キク8月73歳で逝去。顕彰誌より抜粋。

この様な人生を歩まれた大村正次先生の77年の人生に興味を持たれた松原勝美氏が、何の縁もない富山で、大村家、金岡家の子孫はもとより郷土史家大村歌子氏{大村正次とは無関係}、木下晶氏などを始めとし、富山八雲会、県立図書館、古志の文学館など多くの方々のご協力が得られて、今回の発行になったのであろう。

これも松原勝美氏の誠実な人柄と、情熱と、行動力に心が動かされたからだと思う。当日は約40名程、パーティーには18名の参加でありました。私は3月始め松原勝美氏より,両方の出席と一言挨拶を要請されましたが、場違いであり再三お断わりしましたが、松原氏の情熱に押し切られる形でしたが最後は了承し出席しました。

人生は,良き出会いと良き感動、良き思い出の積み重ねと思う。実際新たな発見もあった。記念誌の中に、稗田菫平氏が平成3年10月24日、小矢部市総合会館で井上靖と詩誌「日本海詩人」と題した講演内容が掲載されていた。
その中に、詩人「北園克衛」の名が出てきた。実はこの人は、滑川高校の校歌作詞者であるが詳細は知らなかった。早速県立図書館で調べたところ詳細が判明し、コピーしたものを校長に渡した。

又、明治2年加賀藩よりロシア留学の命をうけ日本人として初めてシベリアを横断し明治7年帰国した嵯峨寿安の嵯峨家5代目を大村健一が健寿と改め嵯峨姓を名乗り、滑川栗山の石坂太郎左衛門の娘を妻として迎える。その子3男専之助が母の実家石坂家を継ぐ。この専之助が明治15年県議会議員となり、その後、第7代県議会議長となり、明治23年11月より同25年11月まで衆議院議員務めるのである。

又、令和元年12月私が制作した、CD「未来に伝えたい 薬都とやまの歌」の中で、昭和8年[越中富山の薬屋さん」の作曲は滑川出身の音楽家・高階哲夫。作詞が松原与四郎{松原勝美氏とは無縁}である。彼とも大村は親交があったことが分かった。
このように私にとっても新たな事実が判明したことは嬉しかった。当日、松原氏は東京や遠方からくる大村家、金岡家の遺族の方々と岩瀬の大村正次のお墓参りをしたという。教え子の恩師への思慕の念。80歳を超えた松原氏の原点がここにあり、それが何の縁もない富山で多くの人々の心を掴み発行に至ったのであろう。

又、当日、たまたま翌日の企画のため来館していた室井滋館長がいることを聞き、事務室に行き久しぶりにお会いし歓談した。別れ際、彼女の故郷滑川発展に尽力をお願いし、更なる活躍を期待し別れた。ここで旭川東高等学校逍遥歌を5題目まであるが2題目まで記す。

①うつろいかわる蝦夷の地に  かわらぬ清流{流れ}石狩や
 メノコの髪にかざしたる   鈴蘭の香を訪めもみん

②長堤はるかたどり来て    理想をかたる者なりし
 今は東{あずま}のこいしきに アカシアの花散るしきり

最後に「ふだん記」運動の創始者橋本義夫氏の言葉を記す。
記録は 一と時の出来事を、永遠なものにする事が出来る。
記録は 世の片隅の出来事を、全体のものにする事が出来る。
記録は 名もなき人の行為を、人類に結びつける事も出来る。
記録のみが 消えゆくものを不死なものにする事が出来る。

その意味からすれば、今回の発行によって、「日本海詩人」や、大村正次ご夫妻を忘れかけていた人々に再びその足跡を思い出させてくれただろうし、私のように全く知らなかった者にとっても良い機会だったと思います。

改めて発行にご尽力された松原勝美氏や「大村研究会」の大村歌子氏、木下晶氏等関係各位に改めて感謝申し上げます。

写真は、顕彰誌と挨拶する松原氏。

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