なかや一博 ブログ

年別アーカイブ: 2025年

「仲間たち」

いついっせいに 桜咲きたる 花びらの 一つ一つに 光ありつつ

5-6分咲きと思っていたら つい2日程で「染井吉野」はほぼ満開である。「枝垂れ桜」はもう少しであるが、それにしても近頃の寒暖の差が激しい天候不順の割には満開宣言は平年並みである。

さて、ひさしぶりに「仲間たち」と痛飲した。仲間と一口に言っても、同級生、サークル、職場、隣近所など様々である。今回の仲間たちは、年齢も、職業も、趣味も、性格も違う者同士だが、どこか気が合う。そんな7人の仲間たちである。
それ故、7人も集まると話題も多岐にわたり、わいわいガヤガヤ賑やかなもので、中々話が纏まらない。それでいて纏まる時は纏まる。不思議な仲間である。そんな仲間が4月4日集まった。

午後7時定刻に全員集合し、グラスを傾けようとした時、誰かが、今日は中屋さんの一日遅れの誕生日です、と,話した為、期せずして私の78歳の誕生日を祝う乾杯となった。その後、和やかな中にも、賑やかに話に花が咲いた。

9時半頃そろそろお開きかと思っていたところ、突然私に対しての、バースデイケーキが出され、バースデイソングの中、ローソクの灯を消すように促され一息で消しました、川柳の「誕生日 ローソク消して 立ちくらみ」を思い出しましたが、今のところそんな川柳は私には無縁でした。それにしても男ばかりの集いに、この様な気配り。正直驚きました。
ただ感謝しかありません。よく、誕生日やお正月を迎えると、人は1歳年を取る。取るは即ち1歳若返ることだという。

しかし、私は、年を取る事は砂時計と一緒で、砂時計は時計をひっくり返して、落ちてくる砂が重なり時を刻む。私は誕生日から次の誕生日までの1年間に新たな思い出、出会い、感動を作る時間であり、それが今日の私を築いてきた。だから、年を取ることは苦痛でなく、誕生日は次の誕生日までの1年間に新たな楽しい思い出を作るスタートの日である。と話しました。

そんなことでついつい長居し、散会したのが10時半を過ぎていました。冒頭の1首は誰の詩か知りませんが、仲間たちの瞳は、桜の花びらの一つ一つのように、光かがやいているようでした。

写真は、ほぼ満開に近い我が家の染井吉野と奥の枝垂れ桜{4月5日現在}。 7人の仲間たち。バースデーケーキ。

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オペラ鑑賞

3月30日{日}午後2時より富山市民プラザ・アンサンブルホールで碓井絵美さんの、「愛の唄コンサート」が開催された。音楽とは、無縁な私が何故鑑賞したか。実は私の息子と絵美さんは同級生であり、しかも滑川市民であることから、以前より面識ががあったからです。
それにしても、音楽と一口に言っても幅広く、奥深い分野の中で、特にオペラとは私から遠く離れた存在でした。

強いて言えば、米国の作家ロングの小説を基にプッチーニが作曲し、Dべラスコが戯曲化し歌劇「蝶々夫人」として上演され、これを日本人、三浦環が戦前ソプラノ歌手として、「ある晴れた日に」など朗々として歌い上げたことから、その後、国際的なオペラ歌手としての名声と地位を確立していったことと、内容が明治の中期長崎に寄港した米国海軍中尉のピンカートンと結婚した蝶々さんとの悲恋の物語程度の知識しかない私が、生の唄声を聞くのは初めてでした。

しかもアモーレならイタリア語でわかりますが、恥ずかしい話ですが、どの曲を聞いていても、どれがスペイン語の歌でどれがイタリア語の唄かも判断できない私です。しかし、あの高らかに歌い挙げる美声は何処から出て来るのだろうか。
そして時々、落語や長編歌謡浪曲など、あんな長いセリフをよく覚えられるものと感心していますが、絵美さんの場合は、日本語と違いイタリア語、スペイン語を自由自在に歌いこなし、しかもあれだけ長時間楽譜も見ず歌うのだから大したものです。

よほど勉強や練習しなければ成し得ません。その努力には敬意を表します。と同時に、もし人間の生活の中に、音楽が無かったら我々はどんな生活をしているだろうか。全く無味乾燥な生活を過ごしているかも知れない。音楽や芸術は目には見えない心の豊かさや、感動や勇気・元気を与えてくれるものである事を改めて教えて貰ったような気がしました。

最後に彼女はあいさつの中で
「私は学校で先生をしている。オペラの勉強と練習、これに学校での授業。両立させることは大変です。しかし一つの物事を最後まで諦めることなく、努力することで、生徒を含め何かのお役に立てればと思っています。」

長々と述べるより、絵美さんの恩師清水先生の言葉と絵美さんの「ごあいさつ」をプログラムの文より転載します。

絵美さんへ   清水まり
本日はCanto dell amore、愛の唄コンサートの開催おめでとうございます。責任ある職業とプリマドンナとしての二刀流の準備期間を経て、本当によく頑張りました。
時を戻すと、まん丸顔でおかっぱ、そして、赤いほっぺの貴女は、昭和音楽大学の門をくぐり、清水門下生としてやって来てくれました。毎日をひた向きに出力全開で大学ー大学院ー日本オペラ振興会オペラ歌手育成部研究生ーとスキルアップしていかれた日々が甦ります。プロとして大人の女性としての成長と活躍は富山の皆様がよくご存知と思います。

絵美さんの変わらないこと・・・豪快な笑い声と笑顔、声楽道への情熱者としての素養とたゆまぬ努力です。これらを持ち合わせ、堂々たる{お姿ではありませんw}お心のまま、コンサートのテーマである「たくさんの方々への愛」を込めてどうぞご披露ください。

今日のプログラムには、碓井絵美ならではの珠玉の音楽が奏でられます。私は胸がわくわくしてなりません。さあ凛として、貴女の素敵なご両親さまへ、愛し支えてくださった皆さまへ。そして、このホールにお集まりくださった皆さまへ いざ出陣してください。
2025年3月29日

ごあいさつ   碓井絵美
本日はCanto dell amore 愛の唄にご来場いただき,誠にありがとうございます。Canto dell amoreはイタリア語で、カントは「歌」、アモーレは「愛」を表しています。
2025年は、私が声楽を学び始めて30年の節目となる年です。30年前、大好きで進んだ「声楽の道」ですが、音楽と向き合うことが辛くなり、歌うことをやめてしまいたいと思うこともありました。それでもやめずにここまで続けてこれたのは、家族や友人をはじめ、これまでお会いしたたくさんの方々の「愛」に支えられてきたからだと思います。

そして、本当に辛いとき、私を支えてくれたのは、やはり音楽でした。音楽のもつ不思議な力が私に「再び頑張ろう!」という力を与えてくれました。
本日は、これまで声楽を学ぶ中で、いつか歌ってみたいと憧れてきた作品をプログラムに擬縮しました。主催のOPERA 、GYM{意味・スポーツジムでトレーニングするように様々な音楽にチャレンジする}の精神で、日本語、イタリア語、スペイン語で挑戦します。

情熱的であり繊細でオーケストラのごとく彩り豊かな音楽を奏でるピアニストの北村晶子先生、艶やかな「THE メゾソプラノ」の美声を持つオペラ歌手の山本千鶴さんをお迎えし、様々な「愛」の形を奏でます。これまでの感謝の気持ちを込めて歌います。

Canto dell amoreどうぞお楽しみください。

これがお二人の言葉です。何も加える必要はないと思います。
素敵な歌声ありがとう。

写真は、パンフレット。出演者プロフィール。プログラム。蝶々夫人の一場面。

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亥子の会

3月28日午後3時、,滑川市中川原・パノラマレストラン光彩で、昭和22年{亥年生まれ}と昭和23年{子年生まれ}の有志で結成する第7回「亥子の会」が、スローガンを―みんな元気で 喜寿から米寿へ―を掲げ懇親会を開催しました。
前日の県内のお天気は28℃と夏日の暑さでしたが、当日は最高気温が12℃と小雨降る花冷えする寒さでした。

15名の参加者でしたが、大阪・京都の遠方より2名が来滑し花を添えてくれました。稲場大二君の進行で始まり、最初に私が挨拶し、昨年より10名ほど参加者が減ったが、毎年参加していた方が1名亡くなったこと。
また体調不調で今回参加できないが来年は是非参加するとという人が5名であることを話しました。

しかし、その反面、今回久し振りに2名の参加者もいることを紹介しました。また我々は健康問題が話題にでる年代になったことを自覚して、健康に留意しスローガンに掲げたように、みんな元気で取り敢えず、米寿まで長寿で長命な人生を楽しもうと話しました。
そのためにも物事を前向きに捉え今日の集いが楽しい思い出になるよう念じ挨拶としました。

また、大阪から馳せ参じてくれた関西滑川会会長の千先久矩君が、やはり同級生とは良いものである。再会するのを楽しみにしてきた。来年も是非続けて欲しいと話し、乾杯は中川勲君が行い和やかに懇親会に入りました。
懇親会直前に写した集合写真は、懇親会中に酒も飲まず、コンビニへUSBを持ち込み写真にして全員に配布してくれた稲場大二君に感謝しましたが、余りにもスピーディーな対応に驚きの声が上がっていました。

閉会の辞は近堂昭夫君の力強い言葉で2時間30分余りの宴に幕を閉じました。
別れを惜しみ、握手をもつて再会を約し、散会となりました。

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知人・友人との懇談会

25日夕、友人と懇談会を2度行った。最初は、経産省OBで富山県出身者の間宮叔夫氏。都合で5時30分からお会いしました。
氏は石破首相と懇意なことから,請われて内閣官房参与の肩書で活躍中です。和服の似合う方で、今では知らない人は居ない位有名になっているそうです。それ故、悪いことは出来ないと高笑い。
じっくりと話ができないまま6時30分多忙な彼と別れ、別の部屋で別の知人と懇談会を開催。

メンバーは、かって経済産業省より県の商工労働部長などに出向し、県政進展に尽力された方々で、現役では藤木経産省経済産業政策局長を含め3名。
OBでは佐藤全国中小企業団体中央会専務理事含め2名、これに特別参加として、上田英俊衆議院議員と堂故茂参議院文教科学委員長に首都圏本部からと私と9名で懇談会を開きました。

全員、旧知な仲ゆえ話題も多岐にわたりましたが、やはり国会の動きが中心でした。少数与党の苦労やら、政治とカネ、高額療養費、10万円商品券、予算通過後には強力な物価対策を講じる」発言や、米国の25%のトランプ関税、そして関西万博など実に話題は豊富で時のたつのも忘れ、話に花が咲きました。

翌日は、本市出身の小善国交省総合政策統括審議官に訪ね、午後全弓連理事会に出席し帰宅しました。

写真は、和服姿の間宮参与と。藤木局長、上田衆議院議員、堂故参議院議員と共に。国交省で小善審議官と。

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海舟記念館

3月25日{火}―26日{水}全弓連理事会出席のため上京の折、勝海舟記念館を訪ねた。山手線五反田駅で東急池上線乗り換え、洗足池駅下車徒歩6分位の所に記念館がある。

ご存知のように、明治元年{ 1868}幕府は鳥羽伏見の戦いで破れ、徳川慶喜は官軍との交渉の代表に勝を任じた。官軍の参謀西郷隆盛と会見するため官軍の本陣が置かれた池上本門寺に赴く。その際、通りかかった洗足池の深山の趣きある自然に感嘆し池畔の茶屋で休息したことが縁となり、、農学者津田仙{津田塾大学創始者・梅子の父}の仲立ちで土地を求めた。
勝は、赤坂氷川に家があったが、明治24年{1891}茅葺の農家風の別邸を建て自ら「洗足軒」と名付けました。ただ残念なことに戦後間もなく焼失した。

勝は、この地で次のような歌を詠んでいます。

    池のもとに 月影清き今宵しも 
            うき世の塵の 跡だにもなし 

勝は、明治32年{1899}1月21日77歳で亡くなりましたが、生前「洗足軒」の背後の丘に墓所を作り、遺言によりここに葬られました。
石塔には「海舟」とだけ刻まれ、徳川慶喜筆と伝えられている。当初は海舟一人の墓所でしたが、明治38年{1905}妻民子が死去し青山墓地に葬られたが、のちに改葬され、現在は夫妻の五輪塔の墓石が並んで建っています。

それにしても、文政6年{1823}1月30日に生まれ、明治元年{1868}までの45年間は階級制度の厳しい封建社会に身を置き、明治元年から死去する明治32年{1899}1月21日まで31年間は富国強兵、近代国家建設に邁進する。

このように社会が一変する体験は、徳川慶喜も同様である。彼は、天保8年{1837}9月19日生まれで、明治元年までは、歴史の表舞台で、そして明治元年から死去する77歳の大正2年{1913}11月22日までの45年間は歴史の表舞台から消え隠遁生活を送る。

このように維新を境に、薩摩、長州、土佐、肥前の天下となる。しかし新政府を運営するには有為な人材が必要なため,かっての幕臣も登用する。勝もその一人で維新後参議兼海軍郷などを務めたのち、明治20年{1887}5月賞勲局より子爵に叙せられる。

この時、勝は、
    今までは 並{なみ}の身{からだ}と思ひしが
               五尺に足らぬ ししゃくなりとは

という嘲弄的な狂歌を吟じている。

しかし、勝は明治21年枢密院顧問官。明治22年12月勲一等瑞宝章を賜り、のち勲一等旭日大綬章を授けられ、正二位に叙せられた。
これに福沢諭吉が異を唱えた。明治25年{1897}1月末「瘦我慢の説」と題した草稿を送り返書を求めた。これは、この頃外務大臣を務め子爵となった榎本武揚にも向けられた。当初黙殺されたので、2月5日再び諭吉は督促状を出した。これが世に明るみになったのは、勝、亡き後、明治34年{1901}諭吉が主宰していた「時事新報」で公表されたことからその内容が判明した。

諭吉は、「かって幕臣であった勝が敵対した官軍つまり明治政府に仕え、名利をを貪っているとして勝を弾劾する。これが有名な「瘦我慢の説」である。
これに対し、勝は{中略・・・「行蔵我に存す。毀誉は他人の主張、我に与らず、我に関せずと存じ候、各人へ御示し御座候とも毛頭異存これなく候{中略}・・・。」

つまり、批評は人の自由、行蔵は我に存すの意である。榎本はどの様に応えたかは不明である。もう一点有名な話は、勝は明治に入り座談会等で話したことが、海舟座談、氷川清話、海舟余波などとして残っている。

その中で、氷川清話の中の「古今の人物について」で、勝は坂本龍馬について「竜馬がかって俺に、「先生はしばしば西郷の人物を称せられるから拙者も行って会ってくるから添え書きくれ」といったから、さっそく書いてやったが、その後、坂本が薩摩から帰ってきていうには「なるほど西郷という奴は、わからぬ奴だ。少しくたたけば少しく響き、大きくたたけば大きく響く、もし馬鹿なら、大きな馬鹿で、利口なら、大きな利口だろう」と言ったが、坂本もなかなか鑑識のあるやつだよ。」

激動の幕末維新を生き抜き、西郷と徳川の名誉回復に尽力し奇しくも徳川慶喜と同じ77歳の生涯であった。記念館を見学後、勝夫妻の墓所をお参りしたが、いまだに香華とお花が供えてあった。
勝の言葉に「清濁併せ吞んで、なお清波を漂わす、汝、海の如き男たれ」がある。政治には清濁があるとは思うが、余りにも濁が目立ちすぎる昨今の様な気がする。午後、皇居三の丸尚蔵館で―百花ひらく―花々をめぐる美―を鑑賞した。

写真は、記念館前。海舟夫妻の墓所。

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