なかや一博 ブログ

年別アーカイブ: 2025年

第60回琵琶演奏会

紅葉散る 朝陽橋をわが越えて
      丘に出れば 白し立山  与謝野晶子

与謝野晶子・鉄幹夫妻が昭和8年11月5日高岡を訪れ古城公園で詠んだ一首である。白し立山とあることから、立山連峰は雪化粧の冬景色であったんだろう。10月26日現在立山に初冠雪の便りがない中、27日室堂に今シーズン初の積雪の報が届いた。
気象台観測史上2番目に遅い記録という。やはり地球温暖化の影響か。

そんな中、10月26日{日} 錦心流琵琶全国一水会富山支部{支部長-嶺瑛水 後援会長・中屋一博}の演奏会が高岡市文化芸能館能舞台で多数の来場者を迎え開催されました。

従来演奏会場は富山市が中心でしたが、呉西の方々にも琵琶の魅力を少しでも理解をして頂き、琵琶人口の底辺の拡大を目指し一昨年に続き高岡で開催しました。県内で能楽堂があるのは多分富山市の能楽堂と高岡の2か所だけだろうと思います。

滑川には約140余りの町内会がありますが獅子舞が継承されているのは僅か2ヶ所です。これに比べると呉西は町内会ごとにあるといっても過言ではない位あります。高岡・新湊・城端などの曳山祭りや子ども歌舞伎があり、銅器・沈金・井波彫刻・宝生流能など加賀百万石の影響だろうと思う。その流れが呉羽山で止まったような気がする。

さて、今回の演奏会は60回の節目であり、前田流平家琵琶相伝者の大野美子様、「白虎隊」を演奏された一水会本部理事・湯河原支部長・笹本晧水様、加えて福井支部・金沢支部からも賛助出演して頂くなど60回の節目を飾るに相応しい演奏会でした。
特に琵琶には素人の私ですが平家琵琶を鑑賞するのは初めてでした。語りと撥サバきが薩摩琵琶とは全く違うのに驚きましたが、味わい深く琵琶の奥深さを感じるものであり、大きな拍手を送りました。

これに対し、笹本様の薩摩琵琶は柘植の材質の大きな撥を叩きつけるような弾奏のスタイルでかつダイナミックで情緒的で正に薩摩武士の魂を鼓舞する力強い演奏に暫しうっとりしました。いずれにしても11名の演奏は会場を埋めた聴衆を魅了した演奏会でした。

私は、挨拶の中で「琵琶を始めとして日本の良き伝統芸能が私達の足元から消えつつあるような気がする。」世の中が変わっても残していかねばならないもの、後世に伝えていかねばならないもの。その一つに琵琶があり「心の琴線に触れる」との言葉を引用しながら60回は70回、80回そして100回へと続く一通過点であり会員の更なる精進を念じると共に琵琶へのご理解をお願いしました。

写真は、挨拶する私。嶺支部長の演奏。大野様の平家琵琶演奏。

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第58回滑川市武道大会

落ち鮎の 佳き香り立つ 囲炉裏焼  高嶋学人

第58回滑川市武道大会弓道競技が、曇り空で少し肌寒い10月19日{日}滑川市総合体育センター弓道場「澄心館」で開催された。
従来8月末に開催されていましたが、今年は猛暑の関係で10月となりました。まさか猛暑が大会の日程まで影響を与えていることに改めて驚きました。

さて、当日は多少肌寒いお天気でしたが武道には「寒稽古」があるように、多少寒くても凛とした空気の中の方が、かえって身の引き締まる思いであり館名である「澄心」にも近づけるものと思います。

処で、第1回大会が昭和42年{1967}で、この当時20歳の私も参加しており、その大会を知る者は私ぐらいになってきたことに一抹の寂しさを感じるとともにわが身の老いも感じざるを得ません。大会は参加者増加等により今回は一般の部のみとなりました。ただ滑川市武道大会であることから、滑川高校の生徒だけは6名参加しました。
また、滑川市と姉妹都市である長野県小諸市の小諸弓道会より昨年に引き続き5名を含め108名の多数の参加がありました。

開会式で山岸市弓道会長{6段教士}は歓迎の言葉とともに、以前からこの大会にご挨拶をされる中、運営に欠くことのできなかった前市連会長・前県連副会長・高橋芳邦6段教士が去る8月ご逝去されたことに触れ、きっと今日は天国より見守っておられることだろうから、皆さんも元気な射を届けて欲しい。と激励と同時に偲びました。

また私からは、最近のスポーツ選手は先ずは楽しむことを第一に掲げる。時代も変わったものである。その点滑川大会は楽しむには最適な大会である。何故なら、県内の各種大会は直径36cmの的の的中数で順位を決める。しかし、本大会は直径36cmの的を中心から10点・7点・5点・3点と円を描き得点数で順位を決める。一人8本射る中で8本全部的中しても3点ばかりであれば24点である。

しかし、3本しか的中しなくとも全部10点であれば30点である。アーチュリーも射撃も得点制である。和弓のみ的中数である。こんな点から本大会が人気があり多数の弓友の参加があるのであろう。そんなことを話しました。
ただ的中数だと中り{あたり}外れの判定は簡単だが、得点制だと、例えば3点と5点の線上など判定に多少時間がかかる。それがトータルとなれば、かなりの時間を要するのが難点である。

いずれにしても、県内は氷見・小矢部・高岡。射水・富山・魚津・上市・立山などの各市町村から多数のご参加を得て盛会理に終了出来たのも、山岸会長を中心として全員の協力の賜物であろう。黄泉の世界できっと高橋芳邦さんも喜んでおられることと思います。

写真は、大会プログラム。山岸会長の矢渡し。小諸弓道会の皆さん。

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芸術の秋

初雪の 高嶺を裂きてみ空より
        紅葉の中に落つる大滝 昭和11年秋・称名滝にて川合玉堂

紅葉前線は北から南へ 山から里へと降り始めましたが 立山の初冠雪の便りはまだ届いていません。平年では10月12日頃ですが、昨年は11月8日と富山気象台観測以来3番目の遅さでした。そのような季節の中、10月に入り2つの美術展が同時期に開催されました。

①10月11日ー19日まで、第72回滑川市美術展{会場・市博物館}
主催・滑川市 滑川市教育委員会

②10月12日ー19日まで、「酒蔵アート㏌なめりかわ2025」
 主催・酒蔵アート㏌なめりかわ2025実行委員会・NPO法人滑川宿まちなみ保存と活用の会

①は市制施行以来72年の歴史を持つ美術界の一大イベントであり、一年に一度の作家たちの作品の発表の機会でもある。
それ故に、作家の創作意欲を高めるためにそれぞれの部門に、市展大賞・市展賞・市展奨励賞がある。
第一部「絵画」に39点。
第二部「彫刻・工芸」に20点。
第三部「書」に25点の多数の出品がありました。

②は「酒蔵アート㏌なめりかわ2025」と題し、今回で12回目である。

 会場はかって造り酒屋あった旧宮崎酒造{国登録有形文化財}通称「ぼんぼこさ」を第一会場に第二会場を徒歩数分の所に、かって昭和40年前後まで旅館であった旧「嶋屋」で開催された。作品分野は,①写真 ②陶芸 ③裂織 ④造形 ⑤華 ⑥書 ⑦絵画 ⑧インスタレーションの8部門で多岐にわたり39点が出品されていた。

いづれも趣味とはいえ、趣向を凝らし、アイデア溢れる作品ばかりであった。私は、時々美術館で時を過ごすことがありますが、もし私たちの生活の中に芸術や音楽などがなかったら、どんな生活を営んでいるか。ふとそんなことを考える時、今から1万5千年前旧石器時代、スペイン北部サンタンデル近郊の「アルタミラ洞窟」に描かれた「トナカイ」「イノシシ」「牛」などの動物が1879年発見され世界的に有名になった。当時の人々の精神世界や生活観を表す貴重な資料で先史時代にも芸術があったことを示すものである。

ピカソは「人類がアルタミラを発見した時、すべての美術史が始まった」と語っている。
そして1985年世界遺産に登録された。つまり1万5千年前の原始人でも、芸術や美術という意識はないにしても「心の安らぎ」或は「心の豊かさ」を求めた。それが描くことであり、物と物とがぶつかった時、音が出る。それが打楽器になりやがて音楽の世界に繋がっていったと私は思う。そう考えると私は生活の中に芸術は「必要不可欠」と思う。

今回2会場を鑑賞しましたが、芸術の秋に相応しい内容でした。ただ会場入り口にある芳名録を見ると意外に市外の方が多いのには驚いた。折角の機会でありもっと市民の方も鑑賞すべきと思いました。

また、「書」の中で、俳句は縦書きと思い込んでいましたが、横書きでも結構いけると思いました。やはり柔軟な発想が必要な事を改めて感じました。
それは「越中の 山河輝く 秋の暮」野々江の句でした。

写真は、市美術展のパンプレット。第二会場の旧「嶋屋」。「書」野々江の句・阿波加蒼岳氏書{元・富山県書道連盟委員長・元・富山県美術連盟会長}。インスタレーション「真紅の椅子」手繰明子氏作。

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県立工業課程高校同窓会協議会

10月3日表題の令和7年度秋季定例会及び研修会が桜井高校で開催された。
最初に宮本光明協議会会長の挨拶。柳田桜井高校同窓会長、藤田同校校長が挨拶。次いで15周年事業の収支報告などいづれも承認されました。引き続き同高生徒の測量実習を視察した。

やはり時代の流れで、ドローンが使用されていた。
場所を移し、YKKAP技術館を視察しました。YKKと言えばファスナーと吉田忠雄、そして「善の巡環」という言葉を思い出しますが、実はYKKを日本一のアルミサッシメーカーに導いたのが、正直私も知らなかったが忠雄氏の兄・久政氏であった。
パンフレットによれば「建材事業」が生まれたのは、ファスナー事業が急成長する真只中の昭和34年{1959}過去の経験からアルミ建具の製造に思い至った久政は、事業化を提案するが、当時の役員会は「ファスナーに専念すべきだ」と言う声が大勢をを占めていた。

最後は「建材はこれから必ず伸びる」という久政の熱意に押された忠雄が、建材事業への進出を英断。信念を貫き通した久政は、若き精鋭たちと共に建材事業を軌道に乗せ,YKKを日本一のアルミサッシメーカーへと導いた」とある。
こんなことから、昨年秋オープンしたこの技術館を新築でなく建材事業誕生の契機となったアルミ押出機が設置されたその建物を改修したのがこの技術館であった。正に建材部門の始まりから今日までの歴史館である。

コンセプトは、
①建材事業の始まりを「創業」
②アルミサッシと断熱技術の進化を「発展」
③窓事業・カーテンウオール・海外展開を「改革」
④地球環境への新たな取り組みを「挑戦」

4つの時代をエリアで紹介し、最後にYKKAP先人ホールがあり、そこに建材事業生みの親、吉田久政とそれを支えた若き技術者達の功績とともに映像と展示で紹介されていました。昭和42年{1967}久政は自らが名付け親となった「ハイサッシ」の大ヒットを見届けることなく62歳の若さで惜しまれつつ他界した。

その時,故人を偲んで社員から贈られた頌徳の記が刻まれた久政氏の銅像が立っている。NHKのプロジェクトXで取り上げて欲しいものである。今日までの成功した実業家達の伝記物等を読むとやはり「温室に大木なし」である。

久政氏もしかり。小学校を卒業すると15歳にしてゴム長靴の行商から人生が始まった。ものづくり県、産業県を標榜する本県には、吉田忠雄・久政や安田善次郎・浅野総一郎・大谷重工業創始者・大谷米太郎等多くの起業家を輩出して来た。少子化の流れの中で高校再編が議論されている。溢れんばかりの起業家精神を教育の中で生かして欲しいものである。

写真は、
①桜井高校生徒のドローンも使った測量実習。
②技術館パンフレット。
③YKK精神「善之巡環」。
④建材事業誕生の契機となったアルミ押出機の前で。 
④記念写真

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渋沢栄一史料館

9月23日渋沢史料館を訪ねました。この資料館は1982年渋沢栄一の旧邸跡{現・東京都北区飛鳥山公園の一部}に設立された登録博物館です。

さて、渋沢栄一は、2021年NHK大河ドラマ「青天を衝け」でも放送され、1万円札の肖像画でもお馴染みですから、今更語る必要がないと思いますが簡単に紹介したのち、彼が1912年、72歳の時に語った話を記します。
また、邸内には、彼の喜壽{77歳}を祝って1917年清水組{現・清水建設{(株)}より贈られた洋風茶室があり、名称を栄一が「晩香」という中国の詩人の詩からインスピレーションで名付け、渋沢邸を訪れた賓客のおもてなしの場として活用した「晩香蘆」{ばんこうろ}があります。

隅々まで行き届いた洗練された意匠と丹念につくられた工芸品は当時新進気鋭の美術工芸家によって製作されました。また、栄一の傘寿{80歳}と子爵に昇格したお祝いを兼ねて、1925年に竜門社{現・公財渋沢栄一記念財団}が栄一の雅号を冠し贈呈した「青淵文庫」があります。これは「論語」などの蔵書を収蔵する個人文庫として設計されたことから、全体的に堅牢な造りとなっています。

渋沢栄一について
1840年{天保11年}武蔵の国榛沢郡血洗島村{現・埼玉県深谷市}の農家に生まれました。
家業の畑作、藍玉の製造、販売、養蚕を手伝う一方、父・市郎衛門,従兄・尾高惇忠に読書や学問を教わりました。青年期に尊王攘夷思想に傾倒しましたが、知遇を得て一橋慶喜に仕えることになりました。

1867年{慶應3年},徳川慶喜の実弟・昭武に随行し、パリ万国博覧会を見学したほか、欧州諸国の実情を見聞することができました。欧州から帰国後は、明治政府で新しい国づくりに深く関わります。1873年{明治6年},第一国立銀行の総監役に就任し、民間経済人として活動をはじめます。
株式会社組織による企業の創設・育成に力を入れ、「道徳経済合一説」を説き、生涯に約500社もの企業に関わりました。また、約600の教育機関・社会公共事業の支援並びに民間外交に尽力し、多くの人々に惜しまれながら1931年{昭和6年}11月11日、91歳の生涯を閉じました{パンプレットより}

次に、渋沢栄一語録より。
凡そ多忙という点に就いては、余は大抵の人に劣らぬであろう。朝は普通6時に起き、夜は12時頃に寝ることにしてあるけれでも、仕事の都合で12時過ぎになることも珍しくない。起床後は必ず直に湯に這いるが、入浴すれば精神爽快にして元気頓{とみ}に加はるの思いする。

次に庭園を散歩すれば、澄んだ空気を呼吸し、心身を養うことが出来て非常によいのであるが、殆どそれの出来ないのは遺憾である。新聞も一通り見ねばならぬ。朝飯も喰はねばならぬ。殊に毎朝来る手紙は如何に少ない日でも必ず三四通はあるので、それにも一々返書を認めねばならぬから、庭園の散歩などは仕事しても殆ど其の暇がない。

其の中に二三の来客が見える。来れば必ず逢うて語る。余の主義として時間の許す限り客を辞したことがない。病中とか精神不快の場合、人に逢ふのが辛いと感ずる時は仕方もないが、病中でも尚、客と語るを楽{たのしみ}として居る。併し金を強請されるなどは際限もないことであるし、また揮毫の催促などは余が面会しなくとも用が弁ぜられるか,其の他の人は貴賤貧富を問わず、必ず面会して、相手の意見なり、希望なりを聞き、応じ得ることなら相談にも与{あずか}り微力をも致して居る。毎日の用事の予約は塗板に認めてあるから、約束の時間がくれは外出する。

通常11時頃には兜町の事務所へ出る。事務所にも既に客が待って居る。又引き続いて来る者もあるといふ風で、独座して緩{ゆる}りと書物を読むやうなことは月に一回あるか無しである。
斯くして少し客が絶えた時は、日々接手する客が絶えた時は、日々接手する幾十通の手紙に返書を認めるが、手紙の返事は多く自分で認めるが、手紙の返事は多く自分で作って代筆させることは少ない。といふのは、一言一句不穏当の辞があっても先方の誤解を起こす基となるから、仮令{たとい}忙はしくとも、字句を丁寧に文章を優美に書くことを努めて居る。

夜は宴会、相談等の為に十時過ぎまでかかることが多く、一家団欒して食事を共にすることは、月の中に5-6日しかない。外の用事が済んで帰邸してからは、或は新聞雑誌を読んだり,或は人に読ませて傾聴したりする。これは一と通り社会の風潮を知って置かなければならぬからである。拙筆ではあるが揮毫を依頼されたものが常に3-400枚あって、時々催促を受けるのであるが、紙に臨めば精神も落ち着き、愉快を感ずるのであるけれども、其の時間さえない。こんな風で毎日暇もなく追い回されて居る。

以上、明治45年{1912}渋沢栄一談・青淵文庫。
これは渋沢栄一72歳の時の談話である。これが一日の過ごし方であり驚きで
ある。氷見市出身の実業家・浅野総一郎も浅野セメントや京浜工業地帯の立ち上げに渋沢の援助無くしてはありえなかった。
彼の91歳のの生涯をこのブログの僅かな字数で表すことは到底出来ない。幕末動乱の攘夷思想の時代からパリ万博での貴重な経験。維新では一度は政府に出仕するが、その後民間に身を置き、実業家として国策である富国強兵、産業の育成に携わり、近代日本経済の基礎を築いた人生ではあるが、「利益追求と社会貢献の両立」と言う公益の考え方を掲げ、それを実践し日本の近代化に大きく貢献したことであろう。

松下幸之助、本田宗一郎、YKK吉田忠雄を含め、素晴らしい実業家は多々いるが、渋沢は500を超える企業の経営に関与し、600を超す慈善事業に携わったことである。彼の葬儀の模様を映像で見ましたが、葬送の車列を見送る沿道を埋めた数万の人々の姿を見ると、如何にその人柄が愛されていたかが理解できる。

戦後国民は心を一つにする目標を持った。敗戦からの復旧復興である。幸か不幸か朝鮮動乱によって経済的に大きく飛躍する。昭和30年代に入り所得倍増論が掲げられる。そして昭和40年代に入り高度経済成長期になる。確かにこの時代、車,クーラー、冷蔵庫、カラーテレビなど生活が豊かになったという実感があった。

しかし、昭和40年代後半のオイルショック・ドルショック以降、不透明な時代に入る。以後、政治家も経済界も国民の心を一つにする夢も希望も描けないまま今日に来たような気がする。歴史に「もし」はないと知りつつ「もし、今、渋沢栄一がいたら」と思う。

いづれにしても、改めて「渋沢栄一」の凄さ、偉大さに感動した2時間余りであった。
写真は、渋沢栄一資料館。パンプレット.青淵文庫.晩香蘆。

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