なかや一博 ブログ

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福寿大学講演

少にして学べば 壮にして為す 壮にして学べば老いて衰えず
           老いて学べば死して朽ちず  佐藤一斎

11月28日{金}滑川市役所東別館で、滑川市中央公民館主催・福寿大学11月講座で「富山売薬の歴史から学ぶ」と題し1時30分から3時まで話しました。
この講座は昭和43年に開講され48年の歴史を持ち、月1-2回開催されています。対象者は基本的には60歳以上ですが、それ以外の方の参加も自由です。それにしても、昭和43年と言えば、まだ高齢化社会と言う言葉を耳にしない時代にこのような企画をされたことに驚きます。

当日会場では約80名ほど、また遠方の早月加積、東加積、山加積3地区はライブで配信され計30名程で合計約110名程の参加者でした。8月ごろ「滑川の売薬について」依頼を頂きましたが、売薬の町滑川で売薬のことを話しても、ご存知の方ばかりだから、とお断わりしましたが、最近、滑川でも売薬さんの後継者不足もあり、従事者数も減少しており、売薬の存在さえ知っている人が少なくなってきている。

だからと再度要請があり、お引き受けし、前述の演題となりました。
最初に
①現在・売薬の家。
②過去売薬であった。
③親戚が売薬であった。

に分けて挙手を求めたところ、いずれも僅かであった。
昭和55年滑川市教育センターが市内小学校高学年を対象にして副読本として発行した「滑川市の薬業」の小冊子を提示して、昭和54年市内の売薬さんは997人。それが現在では残念ながら2桁まで減少した。

そこで、話の内容は、人間は「衣食住」が満たされると、次の欲望は長寿、健康、薬であるから始まり,元禄3年{1690}2代富山藩主・前田正甫公が参勤交代で江戸城帝鑑の間に参集していた三春藩主・秋田信濃守が腹痛を起こし、正甫公が反魂丹を服用させたところたちどころに治った。
その効き目に驚いた全国の殿様がわが藩に是非その薬を、との要望に応え、全国に売薬が広がった。しかもその商法が「先用後利」であった。これが巷間伝わる売薬の起源である。その後、滑川には,享保18年{1733}高月村の千右衛門{高田清次郎家の先祖}が薬種商・松井屋源右衛門から「反魂丹」の製造法を習って屋号を「反魂丹屋」と呼び販売したのが滑川売薬の始まりであるといわれている。

また、明治の初め、堀江の伊藤某、松井某が「反魂丹屋」から製造方法を習い始めたのが堀江売薬の始まりである。そして、全国、九州から東北地方まで徒歩での行商や売薬が他藩の財政を圧迫すること、他藩の政治・経済などの情報が流失することを恐れ、藩内の出入りを禁止されるなどの困難を幾多の努力で乗り越え明治を迎えた。
しかし新政府は諸事西欧化に一新する事を政策の基本とし、医薬・医療制度も同様であった。明治3年{1870}「衛生上、危害を生じる恐れがある薬の販売を禁止し。有効な薬の製造を奨励する」との趣旨から「売薬取締規則」を発令し売薬の取り締まりに乗り出した。

当時「神仏・家伝・秘方・秘薬」の言葉を用い「万病に効く」といった余りにもいい加減な「妙薬」なるものが巷に野放し状態であった。この為、洋薬礼賛・漢方排斥を第一とする維新政府の考えから、漢方薬などと共に富山売薬のきっちりとした和漢生薬の薬も巷のまがい物の薬と同様に見られた。

明治4年{1871}それまで売薬が取り扱っていた約100品目が、熊胆丸・奇応丸・一角丸・紫金錠・万金丹・反魂丹・感応丸の僅か7品目に限定された。業界は一致団結し、規制緩和の陳情をする一方、売薬業者たちは従来の家内工業的な製造方法から品質確保に重点を置いた良質な医薬品製造に向け大同団結し、それぞれの特色を生かし、かつ漢方の良さを残しつつ洋薬に対応した新会社を設立する。これが明治9年{1876}現在の廣貫堂である。
しかし新政府により明治10年{1977}「売薬規則」による売薬税が制定され、売薬営業税、鑑札税が課された。これは新政府が戊辰戦争、明治7年{1874}佐賀の乱から秋月の乱、萩の乱、神風連の乱、そして明治10年{1877}西郷隆盛との西南戦争である。これらに要した膨大な戦費の支出の為、あらゆる分野に増税を課した。
そして明治16年悪名高き「売薬印紙税」が施行される。現在の消費税のようなものである。

例えば、定価一銭から10銭までは一銭の印紙を製品に貼り付けすることが義務付けられた。定価が高くなるにつけ印紙税も高くなるのである。ご存知の通り、売薬は「先用後利」の商法で、薬を置いた時は無料で、次回訪問時使用分のみ代金を頂くシステムである。薬品は仕入時全ての製品に印紙を貼り付ける為、この手間と使用しなかった薬品に貼り付けた印紙税代が売薬業者の負担となった。
この打撃は深刻で、明治15年{1882}売薬の生産額は672万円、行商人9700人が税施行後、明治18年{1885}生産額50万円,行商人5000人まで激滅した。印紙税撤廃陳情を重ねる中、未使用の製品に貼り付けた印紙は回収後、同額の新品の印紙と交換されることになった。この税が廃止されたのは大正15年である。
しかし「売薬印紙税」は海外売薬には免除されたことから、明治18年{1886}藤井論三がハワイで配置売薬を始めたのを皮切りに,韓国へ,清国へ、そして寺田久蔵や笠松佐平が上海へと飛翔、その後中国大陸、台湾、ウラジオストック、樺太、さらに遠くブラジルなど、富山売薬は日本人の行く所どこへでも進出していった。滑川の先人は台湾売薬が主であった。

また、専門知識を持つ人材の育成にも力を注ぎ、明治26年{1893}売薬業者により共立富山売薬学校を設立し、これが明治30年{1897}富山市立となり、明治39年{1906}県立薬学校になり、大正9年官立薬学専門学校、いわゆる薬専となり、それが現在の富山大学薬学部となり、製・販の近代化と資質の向上に大きな役割を果たしてきた。
また、忘れてはならないことに明治の富山県の近代化は薬業人の手によって成し遂げられたことである。現在の北陸銀行も北陸電力などの金融・電力も薬業人の投資によって起業され、売薬業が盛んになることによって、他産業、印刷・製紙・ガラス産業・紡績など幅広い分野に投資し、今日の富山県発展の基礎を築いたのである。滑川でも滑川売薬信用組合が滑川信用金庫になり現在のにいかわ信用金庫になっているのである。

このようなことを話し、富山売薬のエピソードを紹介した。
①江戸・天保年間{1830-1844}に大阪で作られた資料では、全国の著名薬46種の番付けで富山の「越中反魂丹」が京都の「雨森無二膏」伊勢の「朝熊萬金丹」奈良西大寺の「豊心丹」などを抑え第一位にランクされている。

②売薬に必要な読み・書き・ソロバン取得のため富山では教育が盛んになり、明和3年{1766}富山の西3番町に開かれた寺子屋「小西塾」は、日本三大寺子屋と称されるほど大規模で、今日の教育県富山の原点はここにあること。

③富山の薬売りを顕彰する石碑{酬恩碑}がある。「青木伝次」は農業に従事するかたわら農閑期に富山の薬売りとして、現在の山形県米沢市塩井町を行商の折,備中鍬で苦労して田を耕す村人たちを見た。伝次の地元富山では既に馬を使った馬耕法が広まっており、その技術を教えようと、明治32年に富山から馬耕機を持参し、その使い方まで指導した。馬耕機は伝次と地元の鍛冶屋で改良が加えられて更に便利になり、置賜一円に広まって農家の重労働を軽減させました。村人は伝次を先生と慕い、明治34年{1901}に石碑を建て感謝しました。これは米沢市「広報よねざわ」平成26年12月1日発行に掲載された文を紹介し、全国にこのような話や仲人の話など幾つもある事を話しました。

④廃藩置県が断行された明治4年{1871}の人口調査の資料では、富山は全国9位に位置していた。69万人の東京をトップに2位大阪が29万人・3位京都が23万人・4位名古屋・金沢10万人台・6位広島8万人台・7位横浜・和歌山6万人台・次いで、仙台と並んで9位に5万人台の富山がある。「富山売薬」という一大産業によるものであろう。

このようなことを話し、最後に富山売薬が300年以上存続してきたのは、単に先用後利の商法だけでなく、色々なことを勉強していて話題が豊富で薬を届ける以外に田畑の作り方を指導したり、全国各地の文化や情報の伝達者であったことが挙げられる。
一軒一軒の家を訪ね、その家の人の「顔」と「生活の場」をしっかりと見て、顧客を「個」で捉え、「個々」に対応してきたことが大きな要因で、売薬に見る富山気質は「信用第一」「薬効第一」「顧客第一」に徹したことである。

かって富山大学教授・植村元覚氏は富山県薬業史の中で、17世紀のフランス人で経済学者ジャック・サバリーの言葉を引用して、「完全な商人」とは㋐信用・信頼性 ㋑良い商品 ㋒市場調査 ㋓記帳と経理である。
この四つの項目を富山売薬商人の商業に当てはめるとそれは見事に一致する。

300年の長期間にわたって、全国行商を続けてくることができたのは、正にこの点にある。と記しておられる。このように、苦難の連続であった富山売薬の歴史を紐解くと「まごころ」があり、「したたかさ」があり「知恵」をもってその時々の社会の変化に対応してきた。

歴史の中に、未来に花咲く種子が沢山あることを話し1時間半を終えた。

写真は、パンフレット、講演会風景。

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清水寺と古都の紅葉

なお燃ゆる 色を尽くして 冬紅葉   稲畑汀子

絶好の行楽日和に恵まれた11月21日{金}-22日{土}一泊二日で京都・清水寺と古都の紅葉を訪ねた。メンバーは滑川音羽の会{会長・中屋一博}一行19名である。従来は3-4年に一度清水寺を訪問していた。前回は平成30年11月で、その後コロナの関係で実に7年ぶりであった。

北陸道・名神は至る所でリニュアール工事の為、少し早めて6時45分滑川を出発した。予定より30分程遅れたが、1時30分頃清水寺に到着。
清水寺は創建778年で、市内では広隆寺に次いで2番目に古い寺である。

清水寺執事・総務部長の大西英玄氏の出迎えを受け清水寺迎賓館に案内される。氏は恒例の市民文化講演会の前講を努めておられる関係から顔なじみの方である。歓迎の言葉の後、お茶を頂き小休憩後、氏の案内で日頃見られない、仏足跡、市内「雪月花」の三・名庭園として有名な「月の庭」の成就院{住職・大西英玄氏}を見学。
次いで京都市内を一望できる朱塗りの「仁王門」の下に入る。南に京都タワー 西に沈みゆく夕日を眺め西方浄土に思い至す。正に京都市内を一望できる場所であった。ここも我々だけである。次いで、国宝本堂内陣に入る。ここで大西氏による一行の家内安全・交通安全の祈願の読経を受けました。

本堂から眺める音羽山の斜面を彩る赤・黄・緑の絶妙なコントラストや境内の見事な紅葉には思わず歓声が上がりました。
「清水の滝にまいらば自ずから 現世安穏・後生極楽」の言葉を思い出し、寺院内を拝観しました。
尚、大西英玄氏が住職である成就院は寛永6年{1629}失火、焼失しますが、寛永10年{1633}徳川家光の再興発願により成就院堂舎完成。現在築392年である。その間、幕末成就院の住職であった月照は、勤王の僧侶で西郷隆盛と関係が深く、安政の大獄が始まると追われる身となり、西郷を頼って薩摩に逃れましたが、薩摩藩の方針により月照暗殺の計画がされた。

この為、安政5年{1858}西郷とともに錦江湾へ入水自殺を図り、西郷は奇跡的に助かりますが、月照は亡くなりました。{46歳}その成就院の現在の住職が大西英玄氏です。清水寺の寺領は明治維新の神仏分離令に伴う廃仏毀釈によって当時の十分の一の寺領になったという。いかに広大な寺領であったかである。

その後、近くの高台寺に行った。ここは慶長11年{1606}豊臣秀吉の菩提を弔うため、正室であった北政所が祈願し、徳川家康の命により創建された。北政所は秀吉の死後に出家した際、後陽成天皇より「高台院」と言う号を賜り、それに因んで「高台院」と名付けられた。北政所はこの地より大阪夏の陣で炎に包まれ落城する大阪城を眺めたという。
また、高台寺境内にある臥竜池の水面にライトアップされた紅葉が「プロジェクションマッピング」で映り出される風景は神秘的でした。

その後、高台寺の近くにある「ザ‣ソウドウ・東山」で森清範貫主と大西英玄氏を交えメンバーと懇親会を開催しました。2時間余りの懇談でありましたが、示唆に富んだ会話の中から多くを学ぶ機会でもありました。来年の市民文化講演会での再会を約し別れました。
帰りはホテル直行組と私のような好奇心旺盛な者は、徒歩で近くの円山公園・八坂神社・知恩院・花見小路等散策しホテルへ帰りました。

翌、22日はモミジの「永観堂」と言われるほどの紅葉の名所として知られ、境内には放生池を中心に約3千本のモミジが池泉式庭園や多宝塔・御影堂を彩っていました。
次にほぼ隣にある「南禅寺」に行きました。時間の関係で全部は回れませんでしたが、やはり三門の階上から眺める京都市内の景色は、石川五右衛門ではありませんが正に、絶景かな 絶景かなでした。

最後に立ち寄ったのは、昼食会場の琵琶湖の湖畔にある「大津プリンスホテル」38階から眺める琵琶湖の風景も大変良かったです。それにしても、いつ行っても清水寺は多くの人で賑わっている。今年は特にインバウンドの関係で一層の賑わいで大混雑であった。

帰りは3連休の初日の土曜日でもあり、多少の遅れもありましたが、7時30分安着解散しました。今回の主たる目的は、貫主・森清範先生にお会いすることでしたが、85歳とは思えぬ元気さで、かえってこちらが元気を貰った様でした。
京都‣「雪月花」三庭園と「ザ・ソウドウ・東山」について記します。
京都洛中の「雪月花」とされる三ッの庭園は、江戸時代前期の俳人、松永貞徳が作庭したと伝えられる。

妙満寺の雪の庭・・・・比叡山を借景とした雪景色が美しい。
成就院の月の庭・・・・音羽山を斜面にし、月光に照らされると特に美しいとされる。
北野天満宮の花の庭・・・・梅の花を鑑賞する為の庭園。明治維新で一時失われましたが3年前再興されました。

「清水に立ち東山の月を観、妙満寺の庭より、比叡の雪を眺め、北野神域で梅花を愛でる」との言葉があります。
「ザ・ソウドウ・東山」・・・竹内栖鳳旧宅{元治元年・1854-昭和17年1942}

東の「大観」西の「栖鳳」と呼ばれ、河合玉堂と共に日本画壇の大御所。
昭和12年第一回文化勲章を横山大観と共に受賞。約2千坪の敷地は栖鳳死後第三者の手に渡り、現在イタリア料理のレストランになっている。

写真は、
①清水寺迎賓館で大西英玄氏 
②国宝・本堂ひのき舞台
③ザ・ソウドウ東山で貫主・森清範氏
④高台寺のプロジェクション・マッピング
⑤永観堂の紅葉
⑥大津プリンスホテル38階から琵琶湖近江大橋の眺め。

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外苑銀杏並木~全弓連~経産省

金色の 小さき鳥の形して
     銀杏散るなり夕陽の丘に  与謝野晶子

11月12日{水}晩秋の秋晴れの空の下、全弓連理事会で上京した。
開催場所は地下鉄銀座線外苑前駅で下車し、徒歩7-8分「Japan・sport・olympic・suqare」のビル内で、以前は岸記念体育館に事務局がありましたが建物が解体されたため、新たに建設されたこの建物に移転し、日本スポーツ協会加入団体の大半がここに入居している。
ビルの前に、国立秩父宮ラクビー場・明治神宮野球場・新国立競技場。隣が日本青年館である。外苑前駅から逆の方へ少し歩くと神宮外苑の銀杏並木がある。少し時間があったので暫し散策した。

北海道大学構内のポプラ並木も北の大地に連なる並木で壮観ですが外苑の銀杏並木の大木が数百mも連なる風景も圧巻である。この様な景色を見ると、私の好きな与謝野晶子の一首を思い出し、何度か私のブログでも掲載した。ただ今回は紅葉の盛りの少し手前で、黄色に緑の葉も多く見られました。しかし、黄色に緑のコントラストも一幅の絵になる景色でした。それにしても、インバウンド、訪日観光客の多さに改めて驚きました。

さて、久しぶりに経済産業省を訪ねました。以前、富山県商工労働部長として出向されていた藤木俊光氏が7月事務次官に就任されてから初めての対面でした。20年来のお付き合いですが、大変気さくな方で、この方が経産省のトップであり、日本経済を左右する重責を担っておられる方と私ごとき者が二人きりで次官室に居ることに、何か申し訳ない気持ちになります。

何故なら、私が面会を申し込むのは、上京の時だけで勝手な都合で日時を指定して面会を申し込むのですから、相手はたまったものではないと思います。しかし、いつも時間を開けましたとメールが届くのには感謝です。今回も笑顔で次官室に迎えて頂きました。
石破政権と高市政権の違い等、私の分際で話す内容では無いのですが約30分懇談し,再会を約し,更なるご活躍を念じ次官室を後にしました。

写真は、神宮外苑の銀杏並木。経産省・藤木俊光事務次官と次官室にて。

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紅葉の称名滝

初雪の 高嶺を裂きてみ空より
      紅葉の中に 落つる大滝  昭和11年秋 川合玉堂

11月6日絶好の秋晴れの中 称名滝{標高1080m}の紅葉を見物に行った。
前日のテレビニュースで今が見頃、しかも最近にない美しさと報道された。その上6日の天気予報は晴れである。思い立ったら吉と早速出かけた。朝9時40分自宅を出発。走行距離約40㎞。滝が見え隠れするする辺りから目に飛び込んでくるのは、高さ約500m「悪城の壁{あくしろのかべ}」である。
称名滝が約10万年をかけて溶岩台地を侵食して出来たもので、一枚岩盤としては日本一の規模を誇るという。この岩盤にへばりつくように生い茂る赤、黄、緑のコントラストが美しい。圧巻である。駐車場まで約1時間。

ここから滝壷まで私の足で徒歩約20分。途中「飛竜橋」がある。この橋の袂に標記の川合玉堂の歌碑がある。玉堂は昭和11年10月末当時の浜加積村曲渕{現・滑川市曲渕}初代滑川市長赤間徳寿氏宅に一夜投宿し、「時雨さす、かづみの里に一夜寝て、今朝、立山に仰ぐ初雪」この歌を残し称名滝へ向かった。

この歌碑は赤間邸中庭に、拓本は東部小学校校長室に軸装され保管されている。私が称名滝へ行った6日には10月末に降った初雪がハンノキ滝の上部に残っていたので、玉堂も多分初雪と紅葉の中に落つる大滝を、前述した名歌として残したのであろう。と勝手に想像しながら私もその名歌を復唱し暫し感慨に浸った。
飛竜橋を渡ればいわゆる「八郎坂」である。アルペンルート開通前の立山登山はここから始まって弘法に至る約2,5㎞の登山道である。大正13年に開かれ、往年の名ガイド佐伯八郎の名に因んで命名されたという。残念ながら最近は通行止になっている。

さて、称名滝は日本一の落差350mを誇る日本を代表する滝で「日本の滝100選」に選ばれている。滝の音が称名念仏を唱えているように聞えたことから名付けられたという。

案内板によれば、「称名滝は、立山に源を発する称名川の流れは、立山の大噴火による溶結擬灰岩をV字型に150mも深く侵蝕した称名廊下の末端から落下する大瀑布である。この滝は四段に分かれ、第一段は40m、第二段は58m、第三段は96m、第四段が126mでこれが連続して1条の滝になり最上部の爆流落差30mを含め、その全落差は350mを有している。また直経約60m、水深6mの滝壷に落下する水は、凄まじい自然の力を誇示している。

称名滝を含む称名峡谷は、自然景観に優れ、学術的価値も高く、保護すべきものとし、国の名勝及び天然記念物に指定されている。」
ハンノキ滝は、称名滝の向って右側にある落差500mの大瀑布。融雪期や降雨時に出現し、称名滝と一対となって流れ落ちる様は勇壮である。ただ年中流れ落ちていない為、滝とは認定されていないという。
それにしても、紅葉はその年の天候に随分左右されるが全国的に今年の紅葉は良かったと云われる中、称名滝の紅葉も素敵であった。

僅か車で1時間程度でこんな素敵な所があるとは、富山県はいいなーと思う。そう言えば、わが家を7時に車で出発し立山駅からケーブルで美女平。高原バスで室堂へ。10時には到着。2時間夏山スキーを楽しみ、12時から昼食。13時下山し16時岩瀬浜で海水浴が出来る。夏山スキーと海水浴を同時に楽しめる。こんなところは全国を見てもないと思う。
やっぱり富山県ていいなーと改めて思う。

写真は、悪城の壁と紅葉.川合玉堂歌碑。称名滝とハンノキ滝。

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第60回琵琶演奏会

紅葉散る 朝陽橋をわが越えて
      丘に出れば 白し立山  与謝野晶子

与謝野晶子・鉄幹夫妻が昭和8年11月5日高岡を訪れ古城公園で詠んだ一首である。白し立山とあることから、立山連峰は雪化粧の冬景色であったんだろう。10月26日現在立山に初冠雪の便りがない中、27日室堂に今シーズン初の積雪の報が届いた。
気象台観測史上2番目に遅い記録という。やはり地球温暖化の影響か。

そんな中、10月26日{日} 錦心流琵琶全国一水会富山支部{支部長-嶺瑛水 後援会長・中屋一博}の演奏会が高岡市文化芸能館能舞台で多数の来場者を迎え開催されました。

従来演奏会場は富山市が中心でしたが、呉西の方々にも琵琶の魅力を少しでも理解をして頂き、琵琶人口の底辺の拡大を目指し一昨年に続き高岡で開催しました。県内で能楽堂があるのは多分富山市の能楽堂と高岡の2か所だけだろうと思います。

滑川には約140余りの町内会がありますが獅子舞が継承されているのは僅か2ヶ所です。これに比べると呉西は町内会ごとにあるといっても過言ではない位あります。高岡・新湊・城端などの曳山祭りや子ども歌舞伎があり、銅器・沈金・井波彫刻・宝生流能など加賀百万石の影響だろうと思う。その流れが呉羽山で止まったような気がする。

さて、今回の演奏会は60回の節目であり、前田流平家琵琶相伝者の大野美子様、「白虎隊」を演奏された一水会本部理事・湯河原支部長・笹本晧水様、加えて福井支部・金沢支部からも賛助出演して頂くなど60回の節目を飾るに相応しい演奏会でした。
特に琵琶には素人の私ですが平家琵琶を鑑賞するのは初めてでした。語りと撥サバきが薩摩琵琶とは全く違うのに驚きましたが、味わい深く琵琶の奥深さを感じるものであり、大きな拍手を送りました。

これに対し、笹本様の薩摩琵琶は柘植の材質の大きな撥を叩きつけるような弾奏のスタイルでかつダイナミックで情緒的で正に薩摩武士の魂を鼓舞する力強い演奏に暫しうっとりしました。いずれにしても11名の演奏は会場を埋めた聴衆を魅了した演奏会でした。

私は、挨拶の中で「琵琶を始めとして日本の良き伝統芸能が私達の足元から消えつつあるような気がする。」世の中が変わっても残していかねばならないもの、後世に伝えていかねばならないもの。その一つに琵琶があり「心の琴線に触れる」との言葉を引用しながら60回は70回、80回そして100回へと続く一通過点であり会員の更なる精進を念じると共に琵琶へのご理解をお願いしました。

写真は、挨拶する私。嶺支部長の演奏。大野様の平家琵琶演奏。

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